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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ
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エッセイ (445)
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大隈重信の枝吉神陽論
【2023/09/22 18:54】
エッセイ
大隈重信の回顧談と枝吉神陽
【義祭同盟に加入】聞くところによれば、佐賀の先君(二代藩主・鍋島光茂)は尊王忠誠の志が厚く、彼は忠臣楠公の像をつくり、毎年これを祭って、士気を養成する基にしたと云う。その後星変わり月移り、藩の情勢がようやく変化するに従い、遂にとの古典をおろそかにし、今は祭を廃し、その像を或る寺の片隅に放置し、知るものさえないようになったが、或る二、三の志士が相謀り、その寺でこれを祭ることを始めた。ところが閑叟の義理の兄鍋島安房と云う人が、閑叟が家を継いだ後に家老家を相続し、執政となっていたが、この人が深く楠公の像に心を留、その祭に加わり、遂にこれを寺の片隅から取り出し、藩の鎮守の竜造寺八幡神社の末社を取り払い、これを楠公社として、此処にその像を安置した。そしてこの企てに与った同志を名づけて義祭同盟と云った。
【枝吉杢助】彼の副島の兄の枝吉杢助は、この事に関し、最初から力をつくし、実際にこの同盟を牛耳ったのである。
楠公の像を移して祭る程の事は、今日の思想では誠に容易な仕事である。どうして同盟を起こしその運動をする必要があろうか。然し当時ではそうでなかった。すくなくとも事物を変更したり、存廃をする時は必ず全藩の異論を排除する必要があった。従って強固な団体と有力な運動家を必要としたから、その為この同盟を組織するようになったのである。
この時に当って余の先輩に一人物があった。容貌は丈が高くてたくましく、才能と学問とが共にすぐれ、早くから学派の範囲を超え、また国学に通じ、尊王論や国体論などの必要なところを凡て承知していた。しかし藩の御用学者や低俗な役人たちとは相容れず、専ら家に居て自分だけで勉強をしていた。これが先に述べた枝吉杢助である。私は十六、七歳のころまで専心藩学の教育を受けていたが、かのアメリカの軍艦が入港してから、世間の人々に大変な衝撃を与え、そのためいろいろな紛争を起こし、形勢が次第に移り変わって行くのを見て始めて頑固で窮屈な藩学よりはむしろ西洋の学問を修める必要を感じた。但しその頃まではなお蘭学を野蛮人の学問であると考え、これを軽蔑して排斥する気風が甚だ盛んであった。しかしわたしは断然これを修めんと決心し、同時に枝吉に就いて国典を学び、大宝令、古事記などの解説を習い始めた。これがわたしの一生の精神行為を養成した第一歩であったのである。枝吉はわたしが平素から尊信した人であったから、幸い彼と交わるに及んで義祭同盟のひとたちとも往き来する便を得、その結果は、沢山の年長者を交友とすることができた。後になってからこの同盟者の中には、政治界に立ってその才能をあらわした者も少なくはなかった。故にわたしがこれに加盟したのは、即ちわたしが世に出て志を立てようとする手がかりであったと云ってもいいだろう。 (以上、大隈伯昔日談より抜粋)
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小野梓『救民論』
【2023/08/12 08:11】
エッセイ
小野梓 「救民論」
海外留学を志していた小野梓は、明治三年、義兄・小野義真のすすめで、まず清国旅行を試みる。「東島興児」の変名である。神戸から上海の渡航して、清国の国内視察をしたが、欧米列強の爪痕は深く、世界の在り方(平和論・世界連邦構想)を書く。梓の最初の論文である。
上海に激戦が起ったのは一八六二年(文久二)で、小野梓がその地に遊ぶより七、八年前のことに過ぎぬから、噂話は所在に語られ、宣伝文その他は巷に満ちていた。小野の「救民論」は、太平天国の宣伝趣旨に似通うところが大いにあると思うが、たとえゴードン派の声明から学んだとしても、彼は敬虔篤実のキリスト教信者で、桂冠詩人テニソンがThis earth hath borne no simpler, nobler man(彼より純朴にして高貴なる人間がこの世に生れしことなし)と詠嘆した人格である。徳富健次郎(蘆花)と有島武郎が共に眷恋として、その伝記を書いているのを見ても、ゴードンの大よその人柄が分る。小野梓の「救民論」はそのどちらから影響を受けたとしても、とにかくキリスト教の投影が認められるのは、否定できぬ。
「救民論」が起草せられて、今やまさに一世紀余を経過し、識者は折にふれ時に応じ、これに注目を払って、さまざまな意義づけをしたが、我が大学の二人の総長が相前後して、しかし互いに連絡はなく、これに新しき照明を当てたのを、ここに見逃すわけにはいかぬ。一人は前総長時子山常三郎で、オーストリアの思想家クーデンホーフ・カレルギ伯の来日が、その機会となったのである。夙に「汎ヨーロッパ」(Paneuropa)運動を起して、その指導者であり、EECの思想実行両方面の父と言われる彼の功績に報いるため、鹿島守之助財団の設けた世界平和賞の第一回受賞者として、彼が選ばれて来日し、天皇一家をはじめ、朝野こぞっての歓迎を受け、新聞も放送も、その報道で、日もこれ足らぬ有様であった時、その来日に呼応して、時子山が『朝日新聞』および『世界平和』誌上などに、クーデンホーフの仕事の意義を解説するのと関連して、酷似性ある小野梓の「救民論」の宇内国家論を紹介したのは、治博な知識に裏付けられた、まことに好論文であった。小野梓、地下に霊あらば莞薾として首肯したであろう。また、植木枝盛が「無上政法論」で訴えた万国共議政府論に「救民論」と等軌の発想が認められるのに興味を惹かれるが、それはともかくとして、昭和四十七年覆刻せられた永田新之允の『小野梓』の巻末に村井資長総長がこの点につき、
古聖賢の言にさえ一言半句ももられていなかった十九歳の青年の先人未発の提案とは実に、最近二十世紀後半に入ってようやく全地球的実験プログラムに入りはじめた「南北問題」を眼底にすえての、世界連邦(先生はこれを宇内合衆政府という)樹立の急務たることを説いたものでした。 (「永田新之允著『小野梓』復刻にあたって」)
と言及したのは、まことに寸心千古、今後も機あるごとに、人の記憶に甦ってくるべき不朽の達見と言わねばならぬ。 たまたま小野義真が公用を帯びて上海に来たので、梓も一緒に日本に帰ったのは、明治三年の十一月(前掲「履歴」では明治二年九月)で、彼地の滞在期間は数ヵ月を出でなかった。しかし海外の地を踏んだことは、それだけ青年の大志に暢達の刺戟を与えること多く、今度は煙波遠く太平洋の彼方を望んで、アメリヵ渡航を夢想するに至った。
上海からの帰国後、彼は暫く大阪の小野義真の家に同居していたが、この恩人の上京に伴うて一緒に東京に出て間もなく、自分一人は横浜に移って英語の勉強に取り掛かったと伝えられる。それには二つの方法しかなかった。一つはヘボン夫人が私塾を開いて、有志を集めて教授していた。高橋是清などは身持ちの悪い不良青年ではあったが、ここに学んで渡米準備をした。その外には外国商館のボーイに住み込んで、聞き覚え、見覚える方法で、渡米はしなかったが、東京専門学校二回目の入学生の北村透谷などはその方法を採っている。そのどちらの道を選んだかが分ると、小野梓の初期の外国語勉強がどのようなものであったか推測がつくのだが、それが判然としない。ともかく横浜滞在は三ヵ月そこそこに過ぎなかったようだから、大して収穫があったとは思えぬ。早く切り上げたのは、大関某という富裕者が、小野の人物に見込みをつけ、自分が渡米するから、助手の格で一緒に行かぬか、在学の費も給してやると、まるで棚からぼた餅のような約束をしてくれたからだという。その頃の渡米はかなり異数なことだから、本人の手記か、近親の人の思い出話か、相互に交換した書簡かが残っていなくてはならぬ筈だと思うのに、何一つなく、ここに用いる資料は永田新之允の伝記による外なかった。この外、中村重遠が外国行きを勧めた発頭人の一人であったことは、中村の死を弔った時の小野の日記に見える。
小野梓が渡米のため日本を発ったのは明治四年(前掲「履歴」では明治三年)の二月で、航海日数は二十五日を要したとあるから、月初めの出発ならその月のうち、月末でも三月にはサンフランシスコに着いていなければならない。するとこれはかなりに早い米国留学生で、これより前、日本人で純粋に学問修業を目的としてアメリヵに渡った者が何人あったかということが、一応問題になってくる。
ペリーの黒船来航以前にジョン万次郎とジョゼフ彦が、共にアメリカの学校に入り、初等教育を受けているが、もともと漂流民がたまたまアメリヵ船に救われてそうなったので、学問修得を目的意識として持っていたわけではない。元治甲子の変の年(一八六四)は新島襄が密航に成功し、アメリカに着くまで船夫として働いたとしても、これは明瞭に学問をしようとの目的を持っている。多分アメリカ留学生の第一号としてよいであろう。福沢諭吉が第二回の渡米をして、アメリカから初歩の読本や、専門的ながら解説の平明な教科書を多数買い入れて帰った慶応二年には、勝海舟が長男の小鹿を、また横井小楠が甥の伊藤平太と佐平を送っている。これは水夫助手のアルバイトもせず、正当に船賃を払っているのだから、完全に留学生と見ていい。勝海舟は咸臨丸艦長として実地のアメリカを見ており、小楠はその海舟から、アメリカ政体は最高統治者が四年を以て交代、最初の大統領ワシントンは二期務めて、後進に道を譲って山に退隠したと聞かされて感歎おく能わず、これまことに、ワシントンは現代の堯舜、堯舜は古代のワシントンと称して、ワシントンの詩を作り、その肖像画を日本人として初めて入手し、その極、二甥をアメリヵに送って、技術を学ばせるとともに、共和国の基軸精神を探らせようとした。彼は心からの恭敬なる天皇崇拝者ながら、一面共和に憧憬の詩を作り、遂にそのため暗殺せられるに至る。勝小鹿ほど明確にアメリヵ政体の実体を探るのを目的として送られた留学生は、全く空前である。
それから元号が変って、明治二年、ドイツの武器商スネルが会津から三十余人の士農工を連れて渡米し、カリフォルニアに若松コロニーを開拓したが、この中には、学問を志した者はいない。しかしその二世の中の女性から大学に入って、日本で初めての女博士が生れたと伝えられているから、全く学問と無関係ではない。その翌三年九月大学南校は最初の留学生四名をアメリカに派遣したが、更に森有礼は少弁務使としてアメリカに在外公館創設の命を受け、その年十二月三日に横浜を発った。その際西園寺公望、山脇玄その他三十八名の留学生を帯同し、その中八人がアメリカに留まった。この中で後に学界に名を残したのは英語教育家の神田乃武が第一で、木村熊二は晩年信州に小諸義塾を開き、島崎藤村を教師に招いて、彼が詩人から小説家になり代る時機を援護したので知られる。なおこの時、弁務少書記として外山正一、外務文書大令使として矢田部良吉を伴うたが、到着して執務に掛かってから二人の希望として、留学生に変更した。外山は帰国後東京大学教師となり、高田早苗、天野為之以下、本学苑創設当時の功績者、いわゆる鷗渡会同人を、俗に言う「手塩」にかけるように育て上げながら、皆小野梓を介して大隈陣営に走らせてしまっては、雌鳥が温めて孵い出した中に、あひるの卵が交っていて、水の上に泳ぎ出したようなものである。
さて、その小野梓は、通説によれば、明治四年の春に故国を発ってアメリヵ留学の途についている。明治時代になって、森有礼のような官命によらず、自費により留学した者、小野梓を以て最初とし、第一とする。明治四年、岩倉が特命全権大使として、条約改正の下踏みに締盟諸国を巡回するに当り、アメリヵ公使デ・ロングが任満ちて帰国するに伴われて、太平洋を東航する時、随行百人に達する大名旅行で、うち北海道開拓使の女子留学生(津田梅子と、のち大山元帥夫人となった山川捨松の名、最も顕わる)は振袖姿で乗船して、内外人を驚かした。この中には男子留学生も多く交っていたが、これは小野梓の留学より後のことである。
しかるに、その藩にも政府にも頼らず、個人留学の先鞭をつけた彼のことが、従来の記録では一向に取り上げられていない。『日本文化交渉史』(第四巻「学芸風俗篇」、第五巻「移住篇」)は、文部省外郭団体の開国百年文化事業団で計画せられた準官撰著作で、あらゆる手を尽し、現に前者は本学苑出身の木村毅が当り、後者は殆どアメリカ外交で一生を終った元大使永井松三の編纂でありながら、小野梓の名前が挙げてなく、アメリヵ側ではブラッドフォード・スミス(Bradford Smith)のAmericans from Japanが最も詳細を極めていながら、その記事を欠いている。永住しなかった加減もあろうが共に惜しまれる。後にアメリカ学界とは広汎にして密接な関係を持つ本学苑の、その発端をなすとも言うべき小野の渡米のことが、これほど我が学界から閑却せられているのについては、今後枢軸的修正がなされねばならず、戦後に至って、各大学に旺然としてその研究機運が高まり、小野に関しても幾多の論文が続出していることは、余事ながらここに特筆して挿入せねばならぬと考える。
救民論 明治己巳之夏、在上海作之。
序
救民論、是天下之公論、而非一人之私言也。為其義也、亘於天地、極於古今、可謂微而顕也。然而古聖賢之言、無及於此、則不知之也。唯世運未闢、時機未至也。今也人文方開、舟車之用極其妙、加之、電気・通信、於瞬息天下無不可至之地、而無不可通之信。以是視之、則雖謂天下已小而可也。且往有万国公法。各国依之以交際、隠然為一致之形、而其実未有耳。故今論救民之術、必以六合一致為首、観者諒焉。必勿徴往時而論可矣。於是乎序。
天之愛育生民、宇内同一、非有各土彼此之別也。既命之以相養相生之道、与之以自主自由之権、而使因之以保生命受福禄矣。呼嗟盛矣哉、天之徳也。是所以古今仰之不已矣。往古人々無相凌辱、互保護以仰天徳。迄人類日滋、風俗月移、而始生強凌弱大辱小之弊、至生民為之殆不能保生命焉。於是賢哲之士、始建政府、懲強済弱、而上下同一得全相生相養之道、伸自主自由之権。故人々戸給家足、各安其所矣。如此、可謂不背為政府也。惜哉、後世姦雄之徒、以政府為己肆欲之具、生殺与奪専其権、而不出公議、生民之窮困、日甚於一日、唯畏政府之暴威、而左視右顧、知避其忿怒耳。適雖有称良政府者、然画於一隅、猶未免有凌辱弱小之弊。宇内之乱、従而無止、生民之窮困何時救乎。今為宇内生民之計、莫如建一大合衆政府、推宇内負望之賢哲、使之総理宇内焉。置大議事院、挙各土之秀才、確定公法、議宇内之事務、而善其政者勧之、不善其政者懲之、大起生民教育之道、始可謂挙宇内之民、而使得全相生相養之道、伸自主自由之権而已。豈不人間之一大楽事乎。然而首唱之、成就之者、各土政府任也。願各土之政府体天意、去己私、従事於此焉。苟以其民既安、而不従事於此、則背天意、而不知生民無彼此之別也。若他日有強暴政府、自外凌辱之、則其民之安、亦不可保也。嗚呼有真豪傑之士、起必知唱就之、以救斯民於禍乱之中、宇内同一得全天愛育生民之意矣。此救民論之所以因而起也。
(「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 一三九―一四〇頁)
救民論 明治己巳の夏、上海に在て之れを作す。
序
救民論、是れ天下の公論にして一人の私言に非ざるなり。其の義たるや、天地に亘り古今に極まり、微にして顕と謂うべきなり。然り而して古聖賢の言は、此こに及ぶことなければ則ち之れを知らざるなり。唯だ世運未だ闢けず、時機未だ至らざればなり。今や人文方に開け、舟車の用は其の妙を極め、加之、電気・通信は瞬息に天下至るべからざるの地なく、通ずべからざるの信なし。是れを以て之れを視れば、則ち天下已小と謂うと雖も可なり。且つ往に万国公法有り。各国之れに依って以て交際し、隠然として一致の形をなすも、其の実は未だ有らざるのみ。故に、今救民の術を論ずるに、必ず六合一致を以て首となせば、観る者は諒とせん。必ずしも往時に徴して論ぜざること可ならん。是こに於てか序さん。天の生民を愛育するは、宇内同一にして各土彼此の別有るに非ざるなり。既に之れに命ずるに相養相生の道を以てし、之れに与うるに自主自由の権を以てし、之れに因て以て生命を保ち福禄を受けしむ。吁嗟、盛んなるかな天の徳や。是れ古今之れを仰いで已まざる所以なり。往古、人々は相凌辱せず、互いに保護して以て天徳を仰ぐ。人類日ごとに滋く、風俗月ごとに移るに迄りて、始めて強の弱を凌ぎ、大の小を辱しむるの弊を生じ、生民は之れがために殆ど生命を保つ能わざるに至る。是こに於て賢哲の士は始めて政府を建て、強を懲し弱を済けて上下同一に相生相養の道を全くし、自主自由の権を伸ばすを得たり。故に、人々は戸ごとに給し家ごとに足り、各々其の所に安んず。此くの如きは、政府を為りたるに背かざると謂うべきなり。惜しいかな、後世姦雄の徒、政府を以て己が肆欲の具となし、生殺与奪其の権を専まにして公議に出さず、生民は之れが窮困日ごとに一日を甚だしくし、唯だ政府の暴威を畏れて左視右顧もて其の忿怒を避けることを知るのみ。適ま良政府と称される者有ると雖も、然れども一隅に画してなお未だ弱小を凌辱するの弊有るを免れず。宇内の乱は、従りて止まず、生民の窮困は何れの時に救われんや。今宇内生民の計をなすに、一大合衆政府を建て、宇内負望の賢哲を推して之れをして宇内を総理せしむるに如くはなし。大議事院を置いて各土の秀才を挙げ、公法を確定して宇内の事務を議せしめ、而して其の政を善くする者は之れを勧め、其の政を善くせざる者は之れを懲して、大いに生民教育の道を起せば、始めて宇内の民を挙げて相生相養の道を全くし、自主自由の権を伸ばすを得しむと謂うべきのみ。豈に人間の一大楽事ならざらんや。然り而して之れを首唱し、之れを成就する者は、各土政府の任なり。願わくは、各土の政府の天意を体して己私を去って此れに従事せんことを。苟し其の民既に安きを以て此れに従事せざれば、則ち天意に背いて生民に彼此の別なきを知らざるなり。若し他日強暴の政府有って外より之れを凌辱すれば、則ち其の民の安きも亦た保つべからざるなり。嗚呼、真に豪傑の士有って、起って必ず之れを唱就し、以て斯民を禍乱の中より救うべきことを知れば、宇内は同一に天の生民を愛育するの意を全くするを得ん。此れ救民論の因て起つ所以なり。
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『宿毛・小野梓君碑』
【2023/07/14 14:41】
エッセイ
早稲田大学の建学功労者、「小野梓」先生の碑文です。
資料を探した結果、国会図書館資料データベースがありました。
但し印刷が不鮮明のため、一部誤字有やも知れません。
読み下し、内容等は『小野一雄のルーツ』(一雄樣は、梓の子孫)から転用しました。
この碑文は、中村正直の撰になり若干の添削を経てなったものです。
高知県宿毛市の「清宝寺」(浄土真宗)境内にあります。
また、碑文に隣接して案内文も早稲田大学総長「西原春夫」先生の筆になるもので、
この碑文に隣接して建立されています。
明治十五年十月、東京専門学校の開校式で語った、
小野梓の【学問之独立】が書かれています。
従五位 小野梓君碑
元老院議官従四位 中村正直譔
従五位小野梓君碑 元老院議官従四位中村正直撰
小野梓君墓銘
君諱日梓為氏二月卅日。嘉永壬子生干土佐宿毛里節
吉是考助野是妣幼時軟弱就学多怠迨
十三歳翻然慙悔酒井南嶺塾日望美日課詩文研経讐史遷
日新館進學人駭第一書生高棲憑几固請従軍戊辰之戰及
至越後賊徒伏罪岩村通俊愛君無比携游京洛開達心耳
一日以扇撃君頬頴汝節吉子恨豚犬爾恩人一言深徹骨髄自期事業不成不止
誓避女色曾不被浼眞正英雄用力在此鴻鵠有志燕雀任詆觧去士格航于欧米
小野義眞資給助濟専學法律深究根秖明治甲戌君始出仕司法大政次第遷徒迨
十三年官行革改會計検査院始置矣。一等検査君先僚宩夙夜匪懈剛直
自矢其志不行力請職觧立意改進黨將發企君在其間拮据整理。
一時之盛彰聞遠邇専門學梭。教育子弟君為識員言中肯綮暇徐著書以燭継晷國憲汎論。
辯如江海民法之骨筆有光彩不朽之業不負期待甲申九月喀血病起
丙戌一月逼于危殆十有一日溘然而死諡願入院東洋居士僅三十五不
永年歯顧其所為多可載記為學通博漢洋具體在官剛正不肖柔靡為
政治家能審國是盛年備之可稍英偉君多良友不謂吾鄙合辞請銘我豈可巳。
明治二十年丁亥五月
従三位勲一等伯爵大隈重信篆刻 大内青巒書 宮亀年刻
君諱を梓といい 小野を氏となす
二月廿日 嘉永壬子(五年) ※1852年3月10日
土佐宿毛の里に生まる
節吉これ考 考=亡父
助野これ妣 妣=亡母
幼時軟弱にして 就学怠り多し
十三才に迨び 翻然として慙悔す
酒井南嶺の塾を望美という
詩文を目課とし 経を研め史を讎す
日新館に遷るや 学進み人駭く
第一の書生となり 高楼机に憑る
固く従軍を請う
戊辰(明治元年)の載
越後に至るに及びて
賊徒罪に伏す
岩村通俊 君を愛すること無比
携えて京洛に遊び
心耳を開達す 心耳を開達=世事に眼をひらく
一日扇を以て 君のほほを撃つ
汝節吉の子 豚犬を恨むのみ
恩人の一言 深く骨髄に徹す
自ら事業を期して 成らざれば止まず
誓って女色を避け 曾て浼されず
真正の英雄 力を用いるは此に在り
鴻鵠の志有り 鴻鵠=大きな
燕雀の詆に任す 燕雀=小人物
士格を解き去り 欧米に航す
小野義真 資給して助け済う
専ら法律を学び 深く根底を究む
明治丙子(九年) 文字訂正(甲戌⇒丙子)
君始めて出仕
司法太政と 次第にうつる 文字訂正(大政⇒太政)
十三年に迨び 官革政を行ない
会計検査院始めて置かる
一等検査となり
君僚衆に先んず 夙夜懈らず
剛直自ら矢うも
その志行われず 力めて職解を請う
立憲改進党将に 企 発るや
君其間に在りて 拮据整理 拮据=忙しく働く
一時にこれ盛え 彰に遠邇に聞ゆ
専門学校にては 子弟を教育し ※現:早稲田大学
君議員となり 言肯綮に中る 肯繁に中る=要点をつく
暇余書を著し 燭を以て晷を継ぐ
「国憲汎論」弁ずること江海の如く 江海=豊かに満つるさま
「民法之骨」筆に光彩あり
不朽の業 期待に負かず
甲申(明治十七年)九月 血を咯て病起り
丙戊(明治十九年)一月 危殆に逼る ※1月11日
十有一日 溘然として死す 濫然=にわかに
願入院東洋居士と謚す
僅に三十五 年歯を永らえずとも
其の所為を顧るに 載紀すべきこと多し
学を為しては博く通じ 漢洋を具に躰す
官に在りては
剛正にして柔靡を肯わず 柔靡を肯わず=妥協をゆるさぬ
政治家となりては 能く国是を審かにし
盛年之を備う 英偉と称すべし
君良友多し
吾が鄙をいわず 辞を合せて銘を請う
我豈己むべけんや
明治二十年丁亥五月 ※1887年5月
従三位勲一等伯爵 大隈重信篆額
大内青巒書 宮亀年刻
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『大隈重信墓誌』
【2023/07/11 12:29】
エッセイ
2023年6月17日、郡山市の中央図書館にて『朝河貫一博士生誕150周年記念フォーラム』に参加の途次、【安積国造神社】に立ち寄り、境内の散策や、【安積艮斎記念館】を見学。フォーラムの会場で、「宮司・安藤智重」氏と名刺交換をする。後に、安積艮斎の研究ブログを知り、コメント欄に投稿したことから、艮斎の資料を恵贈賜わった。ブログを拝読していると、「大隈重信墓誌」があった。珍しいので、書き取って自分のブログに転写しておく。以下は、安藤宮司のブログに書かれているものである。なお、大隈の墓は文京区音羽の護国寺と佐賀市の龍泰寺にある。写真は、音羽の護国寺である。
従一位大勲位侯爵大隈公墓誌
公諱重信、初称八太郎。大隈氏、本姓菅原、其系出自天満公。考諱信保、妣杉本氏、諱三井子。世仕佐賀藩。公少而師枝吉神陽、修和漢学。又遊長崎、学洋籍、為藩主鍋島閒叟公所知。明治中興、以其薦、登庸于朝。
年甫二十九、累遷参議兼大蔵卿。迨国会開設論興、以議不合而去、糾合同志、立改進党、推為総理。既而又起為外務大臣、二年而罷。尋任枢密顧問官。又未幾免。居六年、復起為外務大臣、二年而罷。後復起為内閣総理大臣、兼外務大臣。六月而罷。毎罷、特旨待以大臣礼。
今上践阼、再為総理大臣。大正三年、天皇行即位礼。公率中外文武百官上賀。我朝建国以来、布衣任冢宰、輔大礼、実公為始。明年以疾乞罷。優詔允之、諭以加餐自愛、永頼賛襄匡輔。仍賜大臣礼如故、以大勲位、班于首相之上。十年皇太子摂政、又申聖旨、望以賛匡事。十一年一月十日、薨于早稲田私第。距生天保九年二月十六日、春秋八十五。
元配江副氏、継室名綾子、故征夷府士三枝頼永女。無子、女二人、長熊子、次光子、養伯爵南部利剛子英麿、配熊子以為嗣。有故廃。養伯爵松浦詮子信常、以光子配之、実承後。
公其位至于正二位大勲位、其爵至于侯爵。病革、詔叙従一位、授菊花章頸飾。薨之日、天使涖而賜誄。葬于皇城西北護国寺塋域。
公両朝元老、以自繋国家軽重者五十餘年、声望遠播海外、諸国使節名士来朝、輒問其安否。平居嗜読書、尤留意于東西文明燮調。嘗自捐貲、創東京専門学校、教育人才。後改曰早稲田大学、達材成器者凡二万人。蓋公進退、蹇蹇匪躬、一存報国。偉徳豊功、固必有百世弗諼者矣。乃謹叙其梗概、以備陵谷云。
大正十一年一月 早稲田大学教授牧野謙敬撰
従一位大勲位侯爵大隈公墓誌
公、諱は重信、初め八太郎と称す。大隈氏、本姓は菅原、其の系は天満公より出ず。考、諱は信保、妣は杉本氏、諱は三井子。世ゝ佐賀藩に仕える。公は年少くして枝吉神陽を師とし、和漢の学を修めた。又た長崎に遊びて、洋籍を学び、藩主鍋島閒叟公の知る所と為る。明治中興、其の薦を以て、朝に登庸される。
年甫めて二十九、参議兼大蔵卿に累遷せらる。国会開設の論興るに迨(およ)んで、議合わざるを以て去り、同志を糾合して、改進党を立て、推されて総理と為る。既にして又た起ちて外務大臣と為り、二年にして罷む。尋いで枢密顧問官に任ぜらる。又たいまだ幾くならずして免ぜらる。居ること六年、復た起ちて外務大臣と為り、二年にして罷む。後、復た起ちて内閣総理大臣と為り、外務大臣を兼ぬ。六月にして罷む。罷むる毎に、特旨もて待するに大臣の礼を以てす。
今上践阼し、再び総理大臣と為る。大正三年、天皇、即位の礼を行う。公、中外の文武百官を率いて賀を上る。我朝建国より以来、布衣の冢宰に任ぜられ、大礼を輔するは、実に公を始めと為す。明年、疾を以て罷むるを乞う。優詔して之を允し、諭すに、加餐自愛し、永く賛襄匡輔せんことを頼るを以てす。仍りて、大臣の礼を賜うこと故の如く、大勲位を以て、首相の上に班す。十年、皇太子摂政、又た聖旨を申(かさ)ねて、望むに賛匡の事を以てす。十一年一月十日、早稲田の私第に薨ず。生を天保九年二月十六日に距てて、春秋八十五なり。
元配は江副氏、継室は名綾子、故征夷府の士三枝頼永の女なり。子無く、女二人、長は熊子、次は光子、伯爵南部利剛の子英麿を養い、熊子に配して以て嗣と為す。故有りて廃さる。伯爵松浦詮の子信常を養いて、光子を以て之に配し、実に後を承けしむ。
公は其の位は正二位大勲位に至り、其の爵は侯爵に至る。病革まりて、詔して従一位に叙し、菊花章頸飾を授けらる。薨ずるの日、天使涖して誄を賜う。皇城の西北護国寺の塋域に葬らる。
公は両朝の元老にして、以て自ら国家の軽重に繋がる者五十餘年、声望遠く海外に播し、諸国の使節名士来朝すれば、輒ち其の安否を問う。平居、読書を嗜み、尤も意を東西文明の燮調(しょうちょう)に留む。嘗て自ら貲を捐て、東京専門学校を創め、人才を教育す。後に改めて早稲田大学と曰い、材を達し器を成す者凡そ二万人なり。蓋し、公の進退は、蹇蹇匪躬、一に報国に存す。偉徳豊功、固より必ず百世諼れざる者有らん。乃ち謹みて其の梗概を叙し、以て陵谷に備うると云う。
大正十一年一月 早稲田大学教授牧野謙敬みて撰す
従一位大勲位侯爵大隈公墓誌
公、諱は重信、初め八太郎と称す。大隈氏、本姓は菅原、其の系は天満公より出ず。考、諱は信保、妣は杉本氏、諱は三井子。世ゝ佐賀藩に仕える。公は年少くして枝吉神陽を師とし、和漢の学を修めた。又た長崎に遊びて、洋籍を学び、藩主鍋島閒叟公の知る所と為る。明治中興、其の薦を以て、朝に登庸される。
年甫めて二十九、参議兼大蔵卿に累遷せらる。国会開設の論興るに迨(およ)んで、議合わざるを以て去り、同志を糾合して、改進党を立て、推されて総理と為る。既にして又た起ちて外務大臣と為り、二年にして罷む。尋いで枢密顧問官に任ぜらる。又たいまだ幾くならずして免ぜらる。居ること六年、復た起ちて外務大臣と為り、二年にして罷む。後、復た起ちて内閣総理大臣と為り、外務大臣を兼ぬ。六月にして罷む。罷むる毎に、特旨もて待するに大臣の礼を以てす。
今上践阼し、再び総理大臣と為る。大正三年、天皇、即位の礼を行う。公、中外の文武百官を率いて賀を上る。我朝建国より以来、布衣の冢宰に任ぜられ、大礼を輔するは、実に公を始めと為す。明年、疾を以て罷むるを乞う。優詔して之を允し、諭すに、加餐自愛し、永く賛襄匡輔せんことを頼るを以てす。仍りて、大臣の礼を賜うこと故の如く、大勲位を以て、首相の上に班す。十年、皇太子摂政、又た聖旨を申(かさ)ねて、望むに賛匡の事を以てす。十一年一月十日、早稲田の私第に薨ず。生を天保九年二月十六日に距てて、春秋八十五なり。
元配は江副氏、継室は名綾子、故征夷府の士三枝頼永の女なり。子無く、女二人、長は熊子、次は光子、伯爵南部利剛の子英麿を養い、熊子に配して以て嗣と為す。故有りて廃さる。伯爵松浦詮の子信常を養いて、光子を以て之に配し、実に後を承けしむ。
公は其の位は正二位大勲位に至り、其の爵は侯爵に至る。病革まりて、詔して従一位に叙し、菊花章頸飾を授けらる。薨ずるの日、天使涖して誄を賜う。皇城の西北護国寺の塋域に葬らる。
公は両朝の元老にして、以て自ら国家の軽重に繋がる者五十餘年、声望遠く海外に播し、諸国の使節名士来朝すれば、輒ち其の安否を問う。平居、読書を嗜み、尤も意を東西文明の燮調(しょうちょう)に留む。嘗て自ら貲を捐て、東京専門学校を創め、人才を教育す。後に改めて早稲田大学と曰い、材を達し器を成す者凡そ二万人なり。蓋し、公の進退は、蹇蹇匪躬、一に報国に存す。偉徳豊功、固より必ず百世諼れざる者有らん。乃ち謹みて其の梗概を叙し、以て陵谷に備うると云う。
大正十一年一月 早稲田大学教授牧野謙敬みて撰す
大隈候略記
早稲田大学の創設者であり、内閣総理大臣(第8・17代)などを歴任した政治家、大隈重信は、天保9年(1838)に佐賀藩の上士の家に生まれた。
7歳で藩校弘道館に入学するが、朱子学による教育に不満を持ち学制改革を訴えたため退学。その後、蘭学寮に転じると長崎に出てアメリカ人宣教師フルベッキから英学を学び、みずからも英学塾で指導にあたりる。
尊王派として活躍した大隈は、明治新政府において外国官副知事に就任し、諸外国との折衝に辣腕を発揮。次いで会計官副知事に就任し、新貨条例の制定などで手腕を発揮します。
大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一など後の世に名を残す若手官僚が集まり「築地梁山泊」と称された。
大隈は、当初木戸孝允に重用され地租改正や殖産興業政策など急進的な制度改革を断行していきますが、保守派や政策の異なる大久保らの反発を受けています。
しかし、後ろ盾であった木戸自身が急進的な改革を危惧するようになり関係が悪化し、次第に孤立を深めていきます。
木戸や大久保が亡くなり、伊藤博文が頭角を現していく中、自由民権運動の高まりにより国会開設の動きが活発化し、政府内では、伊藤博文と井上馨が主張する君主大権を残すビスマルク憲法か、大隈の派閥が主張するイギリス型の議院内閣制の憲法の、どちらを選択するか激しい論争が繰り広げられていきます。
そうした中、薩摩閥の開拓使長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に官有物を格安で払下げようとしたとして大隈派が批判を展開したとされる。激怒した伊藤が大隈一派を政権から追放する「明治十四年の政変」が勃発します。
下野した大隈は、小野梓、尾崎行雄、犬養毅らと共に、国会開設を見据えて明治15年(1882)に「立憲改進党」を結成。党首に就任します。
また「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳い東京専門学校(現・早稲田大学)を創設し、人材の育成にも力を入れていきます。
明治18年(1885)に第1次伊藤内閣が発足すると、外務大臣である井上馨は、諸外国と不平等条約改正に尽力しますがやがて行き詰まり辞任。大隈が後任の外務大臣に就任します。大隈を追放したが、政府は人材不足であったのです。
伊藤に続く黒田清隆の内閣でも大隈は留任しますが、大隈がまとめ上げた条約改正案には大審院で外国人判事を導入するという内容が含まれていたため世論の批判を受けることになり、明治22年(1889)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜による爆殺未遂事件が発生します。
大隈は一命はとりとめたものの、右脚切断の重傷を負い、黒田内閣も総辞職に追い込まれています。偶然通りかかった海軍軍医総監の高木兼寛博士から、応急処置を施される。
その後、大隈は党務に力を入れ、明治29年(1896)には進歩党の結成に参加。同年組閣された第2次松方内閣では外務大臣に復帰すると共に農商務相を兼任し、その影響力から内閣は「松隈内閣」と呼ばれることとなります。
大隈は松方首相の地租増税の方針に反対して大臣を辞任すると、続く第3次伊藤内閣への入閣も拒否。明治31年(1898)3月に行われた総選挙で進歩党が第一党となると板垣退助率いる自由党と合同して憲政党を結成し、6月30日に第8代内閣総理大臣に就任します。
しかし、急造された憲政党の内部抗争で内閣は機能せず、自由党系が10月29日、一方的に憲政党の解党を宣言。10月31日に大隈内閣は総辞職します。
その後、憲政本党の総理に就任したものの党勢は振るわず明治40年(1907)に辞任。早稲田大学総長など在野での活動に力を入れていきますが、大正3年(1914)にシーメンス事件で山本権兵衛首相が辞職すると大隈内閣待望論が高まり、元老たちの後押しで76歳にして2度目の内閣を組閣します。
大隈は旧憲政本党系の立憲同志会・中正会を与党として立憲同志会の指導者である加藤高明が外務大臣として補佐。
首相就任後、第一次世界大戦が勃発し、日本はイギリスとの日英同盟により連合国の一員としてドイツに宣戦を布告し、ドイツの拠点であった山東半島・南洋諸島を攻略しています。
また、中華民国政府に対して対華21ヶ条要求を提出し満州における日本の利権を認めさせますが、一連の動きは加藤外相の独走であったと言われています。
加藤を後継者と考えていた大隈は、これを擁護して、大正4年(1915)に衆議院を解散し総選挙を実施。国民的な人気のある大隈自ら鉄道を利用した全国遊説を展開し大勝利を収めています。
大正5年(1916)に総理大臣を辞任した大隈は、山縣有朋に元老に就任することを打診されますがこれを拒否。政治家としての第一線を退いています。
大正10年(1921)より体調を崩し、翌大正11年(1922)1月10日に死亡。享年85歳。早稲田大学は二度の総理大臣を務めたことから、「国葬」の検討を申請したが、それは実現しなかった。同時に「公爵」への陞爵を時の総理大臣高橋是清から推薦させたが、宮内大臣であった大久保利通の次男・牧野伸顕は「過分である」として裁可しなかった。薩長の藩閥外であったことから、最期まで阻止されたのであった。因みに、この20日後の山県有朋の葬儀は、伊藤博文に継ぐ国葬であった。国民的人気のあった大隈の葬儀は「国葬」ではなく、一般人も参加できる「国民葬」こそ相応しいという話になり、日比谷公園を告別式場として約30万人の一般市民が参列する盛大な葬儀が行われたと伝えられる。
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『小野梓の自伝』②-②
【2023/06/26 11:41】
エッセイ
程なく岩村ぬしは北海道に赴任し給ひたれば、余は独り東京に留まりて昌平校に通学なしたりき。此頃土州藩にては藩邸に学校を設け、在京の書生は皆この学校に入らんことを令したれども、余ははるばる郷里を去て東京に遊びたるはただに書物を読み覚ん為に非ず、広く侘藩(たはん)の人に交わりて・華の大勢を知らんず積りなれば、土州人のみ集れる藩邸の学校に入るは不本意の至りなれば、之に入ることは断り云ひて堅く拒みたり。斯るゆえに藩邸には痛く余の挙動を憎みて、斯る書生を東京に置くは外の為め宜しからずと詮議やしつらん、二年十一月頃ならん、お国許に於て太守樣ご用あれば明朝直に帰国致せと令し、其頃藩庁にて買ひ入れたる汽船に乗せ余を土佐に送りたりき。此時余は脱藩せばやと存じたれども又一策を考へ出したれば、其儘船に乗り心の中に罪人らしき取扱を憤ほれり。
既にして高知に着きたれば、藩庁に出でお国許にてご用とは何事ぞと問いたれば、最早ご用はすみたれば勝手に致せと手持不沙汰の答なれば、心中の憤りは如何許(ばか)りか誠に云はん方なかりしかど、争ふも無益と思ひかへし直樣宿毛を指して帰けり。
宿毛に帰りし後は熟々(つらつら)思ふやう、斯く藩庁の束縛を受くるは畢竟帯刀の身にて士分の列に在ればこそ然るなれ、されば兼々東京にて考へたる如く、今より士格を辞し平人と為りこの身を自由にするこそ今日の上策ならめと、或る日其由を萱堂・家兄等に話し平人の願を出すことと為したりき。然るに伊賀氏は之を聞き届けなきゆゑ、拠なく他家へ養子に往く体にて平人と為りたりき。この平人に為るに就きては人々大抵其の短気なるを戒め、今時は平人さへ士格に成りたく思ひ脇ざしの一本も差し度思ふ世の中なるに、態々帯刀を抜き捨て平人と為るとは誠に心得違ひなりなどささやきたれども、余はいささか見る処あればしばし我が心にまかせ給へかしと云ひて堅く乞ひ、遂に平人とは成りにき。
平人の心易さ、他国に往くにも願などの用はなく唯一通の届のみにてよろしければ、急ぎ旅行の支度を整へ、明治三年庚午の春或る人と打ち連れ立ちて船に乗り込み大坂をぞ指たりける。
十九日ばかり経て大坂に着きぬれば、義真ぬしの宅を訪ひ再遊の事を話し将来の事共を托しぬ。義真ぬしも身を平人とまでなして再遊せる志の程を嘉みし、此後は屹度世話する旨ヲを申し聞けられたりき。その後は今にいたるまで、生父母にも勝りたる世話を為し呉れ、余をして世の中に独立する一丈夫とは為し呉れたりき。此時始めて英学を始めたりき。
大坂にて義真ぬしの宅に住む時、ふと悪しき友達にさそはれて大坂にて極下等の華街なる堀江の酒楼に酒飲みたることあり。それを義真ぬしに聞き知られ、一日中村重遠ぬしとれっせきにて余を呼び、人方ならざる志をいだきながら游女屋の游びを為し、たとひ女郎買をなさずとも苟にも華街に赴くとは如何なることぞと戒められたり。其の時は慚愧云はん方なく、以来を慎む程に此度に限りご免を蒙ると云ひて詫びいひ、其後は今に至るまで自分から設けて花柳の游を為したることなし。されば書生の間は時々朋友に嘲けられて困りたることありたれども、自分には古より忍耐ある英雄も色にはまけたることあれば、古英雄の忍び能はざる処を忍ぶべしと決心し、朋友の嘲をも顧みず打過ごしたり。去る程に朋友も余の志の移しがたきを思ひつるが、後には余を嘲るものなく、却って余の前を憚って女の話などすることを忌むに至り次第に心易くなりたり。世の通客より見れば誠に不通の事なるべけれども、古英雄の為す能はざることを為さんとするの心は又た少しは賞めてもらひたく思ふなり。一笑一笑。
斯の前より海外に游びたき志は勃々として止まず、時に義真ぬしにその事を話したれば、そは兎も角も一旦支那上海辺まで至りて見るべし、その費用は何とかして遣はすべしとの給ひたれば、午の七月なりき、名を東島興児と改め、神戸より米国の郵船に打ち乗り上海にぞ赴きける。上海に到りたる後は支那の内部をあちこちと巡り、其年十一月の初め頃再び上海に還り来たりたれば、あたかもよし、義真ぬしも公用にて上海に来たり給ひたり。依りて色々相談の末一先づ日本に還り、それより欧米の間に游学することとはなりぬ。その時は義真ぬしに伴ひて日本に還り少しく大坂に留まれたり。
翌年の春義真ぬしに伴ひ東京に出て、追ひ追ひ洋航の用意に取掛り横浜にて専ら英語を学びたり。日ならずして用意も整ひたれば先づ米国を志し彼地に留学することと定め、其年の二月米国郵船に打乗りて、桑港に赴きたり。航海に廿五日を費し桑港に到着したれば、それより汽車にて紐約克(ニューヨーク)に赴き、暫時滞留の後仏児句林(ブルックリン)に移り住みて直に法律の講習を始めたり。余は自費にて海外に留游することなれば、侘の官費の書生の如く優々歳月を徒費すること能はず、故に学校に入ることをせず、師を宅に延き日夜之を勉強せり。又た法律を講習するに就ても一種の考を思ひ出し、米国の成法を講習したりとて直に我邦に有用なりとも思はざれば、専ら法理を講習するにしかずとて勉めて其方を心掛け、傍ら米国の憲法・行政法を取調べぶる事と為したり。当時或る人は余の法律を講習する方法は不規則なりと譏りたる人ありたれども、余は自家の考を変ぜず学びたりき。帰朝の後之を考ふれば此の講習の方法は却て余を益したること多かりしと思ふ。
明治五年の某月、大蔵省より官費留学生と為し銀行の事及び其他理財の事を取調ぶる為め英国龍動に赴くべき命を受けたり。之に由りて遂に米国を去ることとは為りぬ。蓋し此頃余は胃病を患い医師も土地を転ずるの必用を勧めたれば、誠に幸の事なりと喜びたり。既にして新約克府より飛脚船に乗り大西洋中にて十日の苦痛(余の大西洋を航したる時は風雨暴烈にてほとんど難船すべかりき)を受けたる後リバプールに着し、直に龍動に行きたり。龍動に行きたる後は昼間は銀行の組織、理財等の取調を専らにし、昼間は猶ほ法律の原理を講習することを以て務とせり。又英国に来たりたる後は泰西政治如何を観察し、知人の紹介を経て上流の人に接することを勉めたりき。
明治六年の頃なちき、或る知己の英人に招れてその細君の催ふせる夜会に赴きたることあり。その英人は英国にて可なり富める人なれば、夜会の来客もみな英国上流の人にて在りける。斯る会集に日本人の交じれるは誠に希れなることなれば、余の此会に臨みたること主人の喜び大方ならず、又来客も最と珍らしき事に思ひ、主人の紹介を経たる後は男女の来客かはるがはる余の側に来りて四方山の話を仕掛け、また日本の事などを問ひ、余も英国の風土文物に就き色々の話を為し居たりけるが、後ち一人の奇客ぞ出で来れれり。その奇客は主人の紹介を経たる後暫く会集の混雑にて見えざりしが、夜会闌(たけなわ)なる頃に至りて不図(ふと)余の側に座し云ふよう、貴方は日本の書生とやら、日本は支那の属国にて候ふ歟と。余之を聞き少し笑を含み、否、日本は独立の国なりと答へたり。既にしてその奇客は又問を起して日本人は家に住める乎といへり。其意中日本人は亜剌毘亜(アラビア)または蒙古人の如く幔幕(まんまく)の中に住み、定まりたる家屋なしと思へること言外に顕はれたれば、余の心中如何にも無礼なる人なり、又如何にも見聞の狭き人なり、且は我が日本の内状は斯く計り外国へ知れ居らざる哉と思ひつつ、少しく思案の後ち左の如く答へたり。曰く、日本人は貴方の思ひ給ふ如く家に住はず、併しながら鉄道を築き電信を架し之を利用するを得べき文明の度に進めりと。此の答を為すや、側に聞き居たる五、六人は皆手を打ちて笑らひ、問ひたる奇客は少しく慙じたる色を表すはせり。斯る折りに主人は来たりて余の為めに我が邦の今状を説き明し、日本は実に驚くべき国にて候ふ、この廿年前までは世界に隠れたる邦に有りつるに、今は長足の進歩を為し東洋文明の魁なりと云ひたりき。既にして余を別席に招き英国にも斯る迂闊の人あれば堪忍給へと申されたりき。余も余りの事にて折角の貴客に対し無礼を為したるを謝し、其失礼を容し給へと云ひたりき。後ち夫の奇客は余の寓居を訪ひ来り前日の無礼を謝したれば、余も其洒落を愛し是より交際を始めたり。此奇客は英国の武官にて快闊の人物にてありけるが、余が帰朝の後亜弗利加(アフリカ)の戰にて死したりとか。
此奇客と交を結びし頃是斑牙(イスパニア)に内乱あり。ジブラルタルの戌兵を増す為め此人も英政府の命を受けて彼地に赴きたり。時に余は左の一絶を賦してその行を送りたりき。比牛(ピレネー)山外黒煙連、月暗欧南半島天、男子及時須用力、人生豈再有青年。
翌明治七年の始に至りて英国を去らざるべからざる事こそ出来たれ。そは他事にあらず。先年よりのリユメチスム次第に増長して治せず、暫時は養痾かたがた仏蘭西・伊太利亜等欧州大陸に游びたれども、龍動に還へれば又忽ち再発するゆゑ、医者は固く帰朝を勧めたること是なり。又は本邦も追々変遷あるべきの風聞もあり、殊には大蔵省より帰朝の命もありたれば、旁意を帰朝に決したり。一時は帰朝の前今一度欧州大陸に赴かばやと思ひたれども、欧州大陸は後日再渡の折もあらん、それよりは埃及(エジプト)の古跡を探らばやと存じ、遂に欧陸旅行の費用を以て多くの経済書・法律書類を買ひ入れ携へ帰る事とせり。幸に英国流動より埃及に至り、暫時滞留の上蘇士(スエズ)運河を経て日本に到るべき汽船(是は支那太平洋航行会社とて飛脚船の会社を創設し、その船の中バンケーバと云へる汽船を横浜に送る序(ついで)に客人と荷物を積みたるなり、この会社は一時米国郵船会社と競争せし後、〒会社にて悉皆航行会社の船舶を買ひ入れ航行会社は解社せり)ありければ、これに打乗り出発の事と定めたり。
明治七年某月右の汽船に乗りて龍動を出立し、大西洋・地中海を経、ボートセイド(埃及)に至り、是より亜歴山府(アレキサンドリア)に赴き埃及の古跡を探りたり。尖頭の古帝碑を観て旧時を懐ふこと少からず。かくして遂に再びボードセイドに還り、前の汽船に打乗りて運河を過ぎ、紅海に出で、印度・清国を経て我邦に帰朝せり。
余が海外より帰朝せしは実に明治七年五月廿日なりき。其頃は其以前より帰朝したる海外留学生の成跡宜しからざるが為め兎角留学生の評判宜しからず、頗る朝野の間に重ぜざりき。斯る故に余は潜居して敢て自ら售(う)るを求めず、旁ら共存同衆の団結を用意したる所以は別に記すものあり。其羅馬律要を著作する趣意は、当時の人気法律を説くに偏に仏蘭西等の成法に基き其条款の文字を推覈(すいかく)するに止りて、其法理を討究するもの少しきを以て、羅馬律に藉(かり)て我が民法上の所論を発せんとほっっすればなり。
其著作に依て要路の人余の姓名を知るものも出来、九年の三、四月頃法制局へ出仕の事を内諭せられたることあり。然れども余は著作の業未だ終らざるを以て、辞して就かざりき。後居ること三ヶ月ばかり、司法省より余に就職の事を諭し民法編成に従事せんことを以てす。顕要某君も亦た義真ぬしに伝話して余が就職のことを勧む。余終に意を決して就職の事を諾し、八月十五日司法少丞に任ぜらる。
司法少丞に任ぜらるるの即日民法課副長となり民法編纂委員を兼ぬ。然れども民法編纂委員は十数日にして辞せざるを得ざるに至れり。(下略)
翌十年一月攻沾(こうてん)の月に於て発せられたる減租の詔に依て影響せられ、一月十一日諸官省の大少丞を廃し、余も其職を解かれ、居ること二日を経、即ち十三日付を以て再び司法小書記官専務を命ぜらる。(中略)家居慨然国憲論綱(第一稿)を著作するの意を決し、筆作孜々將さに之を要路の人に進め、国憲制定の好時機正さに茲に在ることを陳ぜんと欲せり。稿漸く成り將さに之を脱せんと欲するに及び、不幸にして虎列刺病(コレラ)に罹り殆んど死す。時に明治十年十一月二十七日なり。病癒ゆると雖も体気猶ほ未だ旧に復せず、養痾其年を終ふ。
翌十一年の年照査課詰に転じ再び辞職の事を申したり。(中略)四月二十七日元老院書記官に転ずる事となりたり。(中略)後ち復た転任の沙汰あり。同年十二月六日太政官小書記官に任ぜられ法制局専務を仰せ附けられたり。
(『中央学術雑誌』第22号付録・『小野梓君伝』1886年2月10日刊・1884年11月1日筆)
以上、『小野梓全集第5巻、305頁~317頁に収載の全文』です。
転写を終えて、安堵しています。
小野は、明治天皇と生誕が同じ年である(嘉永5年)。ペリー来航の前年、土佐の西端、宿毛に生をうけた。幼時は「蒲柳の質」で多病だった。5歳の秋に習字を習い始めるが、読書も「大学」1巻を一ヶ月要した程だ。9歳で「後に宿毛の吉田松陰」と云われる「酒井南嶺」門下となるも、当初は居眠りで勉学に打ち込まなかったとある。十歳過ぎから郷校に入り、夜は父から教えを受け、今のダブルスクールで励んだ。ここから急激に才能が開花したようだ。身分階級を越え、最上席で秀才ぶりを発揮。酒井南嶺の私塾開塾から、メキメキ頭角を顕わし、領主「伊賀氏」から嘉賞される。十四歳の時に『父・節吉』の遺言を聴く。新田義貞以来の血統と、幕末の「王家と国家に尽せ」が決定的となったようだ。小野の生涯は、父の遺言を守り抜いたと云える。大隈との出会いは、妻の兄である「小野義真の紹介」であった。梓も義真もともに「谷中霊園」に眠る。墓参したが、大名と異なり、質素な平民のそれだった小野の師は、「領主の伊賀氏」、「中村道遠」、「岩村通俊」、義兄の「小野義真」、「大隈重信」である。三十三歳十ヶ月の人生。完全燃焼だったといえる。
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『小野梓の自伝』②-①
【2023/06/26 11:39】
エッセイ
「自伝志料」小野梓全集第五巻
―昭和五十七年三月十日・早稲田大学史編纂所
全集の第五巻三百五頁に、小野梓自筆の「自伝志料」が収載されている。自筆の自叙伝である。これは、小野の死後、一ヶ月(『中央学術雑誌・第二十二号附祿』『東洋小野梓君伝』に記載された。一八八六年二月十日刊 一八八四年一一月一日筆)に記載。
余は泰西人の為す所に倣ひて自ら吾が伝を筆し之を後人に伝へんと思ふこと久し。既にいぬる明治八年の頃に其筆を下し始めしかど、其後故ありて止めたり。今又其念を興したれば、次第に其志料を輯めばやと思ひてこの筆作を始めぬ。
茲に書き載することは、先人(父)の筆記、南嶺翁(恩師・酒井南嶺)萱堂の物語れること共、さては余の自ら記憶をもし自から記しても置きつるものなどに就き、余が伝とも成べき事柄を綴りたるなり。されば余の得失皆な挙げて遺さず、其得は益々拡充して之を大にし、其失は自から警戒して之を避け、皆な余が大成の種子にせばやと思へり。
余は嘉永辛子(壬の誤)二月廿日土州宿毛の郷に生る。父は小野節吉、母は助野と云ひ給へり。
萱堂の物語に拠りて考ふれば、余の幼穉なる頃は甚だ軟弱なる性質にて多病なりしと思へり。又余が記憶に拠りて考へても如何にも多病にて、時々胸痛甚しくて遊戯すること能はざりし事多かりしと記憶せり。就中尤も遺恨に思ひ今に忘れざるは、八歳の頃にやありけん、劇しく痛胸のなせることありて土地の祭神に詣づること能はざりし事なり。
余の幼少の時は脳病に侵されたるものと見え、時々痙攣して気絶せし事多かりしといへり。先人の筆記に、此児驚風に係れり、惜哉セメンシイチ(薬名なり、其頃の医師は脳病を誤りて蛔虫の所為と為し、駆虫を第一の療法となせり)の手にあることなしと記し給ひき。又萱堂の談に拠れば、其後先人は使を長崎に遣しセメンヰキを求めしめ給ひし事ありといへり。先人の筆記、萱堂の記憶に拠れば、余が三歳の時(甲寅の歳)我が生れたる土佐幡多郡宿毛村に大地震ありて、余は乳母と共に或る家の廡(ひさし)に押し倒され人々は最早死したることと思ひたるに、不思議にも助かりたりしとなり。
先人の筆記に拠るに、余の始めて習字を創またる時は五歳の秋なりしと也。余僅に記憶することあり、当時山城大和の四大字を書して大に賞められ、叔父にてにをはしし義直君より筆墨を賜りしことありしを。
然れども余は幼少の頃頗る読書を好まず、また習字をも嫌ひにてただ遊戯にのみ耽り、さればにや、七、八歳の頃唐詩五言古詩の首章、中原還追鹿の一篇を覚ゆるに三ヶ月の久しきを費やしたることあり。又大学一巻を素読するに二年の久しきを経たり。
九歳の時郷の儒者酒井翁の門に入り習字・読書に従事せり。されども前の如く懶堕にして何事も勉励せず、読書は僅に中庸の首章、書は三体詩宮詞の篇までを習へり。今に忘れざるは常に机にもたれて眠り、他の朋友に棄てられて夕陽の頃自ら覚め、驚きて家に帰りたること数々なりき。
十歳の暮にや、酒井翁笈を負ひて京師に遊び岩垣月州翁の門に入りたり給ひき。当時なほ余が幼年なるを以て翁素より之を告げず、發郷の前夜余之を先人に聞き急ぎ翁の許に詣り詰りて曰く、先生は拙者を門人と為し給ひながら明日は京師へ御出立の由、何故に拙者に御告げ下されずや、甚だ不快の事に候ふと云へりと。是れは後に酒井翁の物語なり。
十一、二歳ころなりけん、郷に学校初めて出来、毛郷の士族が子弟は皆なこれに入て学ぶ。余もともに入て学べり。然るに余の等級は遥に諸人の下にあり。是に於て大に悟る所あり、先人も亦た其侮に乗じ頗る厳戒を加へ給へり。郷に某氏の子あり。性捷にして事に敏なり。当時奇童の名あり。先人常に曰く、彼れ一郷の奇童たるに過ぎず、然るに汝尚ほ之に及ばず、惟ふに天下の広き此の奇童多ふし、汝蓋ぞ自ら奮はざるやと。
是れより後は余も自ら郷学校の末劣に在ることを恥ぢ日夜怠らず勉業せり。十有三の暮なりき、余は左氏伝校本の講習討論に従事せり。此頃の事ならん、昼間は郷校に入り終日誦読し、夜は先人の膝下に在りて夜蘭に至りぬ。余が十二、三歳こ頃、或る夜先人と炉辺に対談し了りて先人余の志を問ひ給へるに、余対ていへらく、此の郷は譬へば子屋の如し、児は寺子屋に住むことを顧はずと云へりとて、先人の筆記に此児之志可愛とあり(今按ずるに、余が生れたる先人の住家と子屋とあり、小屋は閑室にして読書の所とす、僅に四畳半一間と四畳一間にて極めて狭隘なりき)。余は十四歳の初なりき、酒井翁塾を開き号して望美楼と云へり。余も之に入塾し不見日光始一年、頗る刻苦せり。当時余が勉強せし事実の証左とも為すべきは、毎三日に論孟の講習討論、毎日通鑑綱目弐巻を読み、古文真宝一篇、文章軌範一篇を記憶し、文一篇詩一首を筆するを課と為せり。
此頃の事なりけん、伊賀氏は嚮の漢学校皇張して日新館と云へる漢学校を興し、大に子弟の授学を勧めければ、余も学校の時間は望美楼を去て此校に入り学びたりき。時に余の学問は稍々前日に優りたるものありしと見え日新館第一の胥生と称せられ、館の二階に設けたる優等学生読書室を与へ此にて読書するを許されたり。是の室に入て読書するは当時名誉の一事にて、南嶺翁と家厳とより勉強の効空しからざれば此上猶ほ一層勉強すべしと諭されたることあり。蓋し当時は階級の沙汰甚だ六ケ敷くして、騎馬格・間の格・中小侍・御奉行・御手明等の区別ありて、余が家は御奉行とて極めて軽格の者なりければ学校の座席とても甚だ下に有りつれども、学問の優等なるが為め騎馬格の席より遥か上なる二階に勧められたり。今日より之をみれば実に笑ふべき樣なれども、当時の事を顧みれば余に与ふるにこの室を以てせしは随分出格の事と云ふべし。
又たこの頃の事なりけん。伊賀氏は余が学問に志あるを賞して金若干を与へたり。
余が十五歳の時春、家君は公用を以て京摂の間に趣きたり。是より先家君は王家の微弱にして振はず、折角攘夷の詔の出でたるも幕府にて畏くも之を抑へ実に朝廷を蔑にするの勢いあれば、痛く之を嘆じ郷里に於て尊王倒幕の節を唱へ、郷の志士岩村通俊・小野義真・中村重遠・岡添行蔵の諸人と国事に尽力しければ、此行も半ば物産を郷里に起すの命を受け、半ば京摂の形勢を観察するの意匠なり。かかる有様なれば余も何時となく尊王倒幕の事を聞き知り、幸ひ家君が京摂行に随行して京摂の様子をも観、幷せて京摂の大家に就て一層学問を研究せんと乞ひたりき。然れども当時家君は、汝の志嘉すべしといえども年少にて都会の地に遊ぶは甚だ宜しからず、今少し郷に在て学ぶべし、これを学ぶに必用なる書物は何なりと差し越すべし云ひ給ひたりき。其後家君は郷に帰へりち給ひて(慶応丙寅七月也)俄に喀血の病に罹られたれば、余等の驚き言はん方なく、余は萱堂と共に日夜看護を為し、家君の病を慰むる為時々病褥の傍に在りて温史を講義せり(今より之を考ふれば、家君病褥の時と雖ども余の学問を奨励するを怠らず、温史の講義は家君慰病の為めにあらずして余が学問を奨励せんが為めなることを知るなり)。斯く余等は看護を尽くしたれども医薬其効を奏せず、其年の十二月廿九日(慶応三(二の誤り)丙寅の年十二月廿九日也)に至て溘然(こうぜん)長逝し給へり(今より之を考ふれば郷に良医乏しく遂に先人を救ひ得ざりしことをしる、嗚呼哀哉)。
家君の病褥におはしし時、一日余に云ひ給へることあり。汝も生れて丈夫となりたる上は真箇に大丈夫たるの実を失はざる樣勉むべし、顧ふに大丈夫たるものは当世の務に当りて其志を行ふことを得ば少しも辞せず之に当るべし、若し不幸にして之に当ることを得ざれば其時こそ平生学び得たる学識を以て不朽の書物を著して後世を嘉恵すべけれ、又昔より学者といふは多けれども大抵は腐儒の学にして当世の務に拙きもののみなり、斯の如きは畢竟無用の長物たるに過ぎず、汝は書を活用するの人となり書を読むの人と為る勿れ云々。
又家君が病稍々篤く見へ給たる時(長逝し給ふ前夜)児を呼び云ひ給ひけるは、我が家は辱くも新田義貞公の後裔にして南朝忠臣の末葉なれば、不才ながら余も尊王倒幕の事に尽力したる事少なからず、然るに不幸にもこの大患に罹りて死も旦夕に在れば、空しく志を齎(もたら)して遺憾の九泉に抱かざるを得ず、是れ天命なれば余敢て心に恨みなしといへども、王家恢復の業を見ずして終はるは実に余の瞑目すること能はざる所なり、汝は余の子たるを辱めず能く其志を継ぎ汝の身を以て王家と国家との用に供すべし、身を以て犠牲とし之を国家の用に供するは男子第一の栄誉なりと。余は家君の言を聴て涕の流るるを知らず。今より当時の事を回顧すれば恍として目前に在るが如し。而して余が今国事に尽力して敢て怠ることなきも、家君が此の遺囑を服膺せんとするの誠心なる耳(のみ)。
家君の長逝し給ひし後は萱堂の悲しみ一方ならず、余は幼な心にも傍よりかにかくと御慰めもうし、又月々先大人の御墓所に詣で香花を手向け来れるを務のやうにせり。斯くすること凡そ三年なり。家君の逝れたる後は家君の御友なる小野義真(今は余の義兄)・中村重遠・岩村通俊の諸君交々余の行く末を案じ給ひ、時々種々の教戒を加へたり。その中にも中村ぬしは、海外に遊びて洋夷の事情を知るは今日ノ急務なるを説き余に海外の遊歴を勧め給ひたりき。是れ余が異日海外に遊ぶの基となりにき。
家君の長逝し給ひし後は萱堂は家君に代はりて余の教育を見そなはして、少しにても怠ると見ゆる時は家君の御遺言を引きて深く戒め給ひにき。余もまた家君長逝の上は自身の勉強を肝要なりと思ひければ勉めて怠ることなかりき。
此頃は(慶応四(三の誤)丁卯の春)上み方の様子も何となく変はり行きぬれば、各藩々にて軍備の用意盛んにて殊に洋式の兵法次第に広まり、土州藩は英式を用ゐるとの事にて伊賀氏も同じくこれを用ゐたれば、余も今は筆硯読書の旁に砲術を学び時々操縦を為したりき。
去る程に丁卯の歳も暮となり、将軍はその職となり、を還し王政維新の秋となり、引き続き東北の戦争始まりぬれば、余も従軍の事を願はしく思ひ色々心を配りたり。然れどもその術なきに困じ果たるに、時しも戊辰の七月頃なるらん、伊賀氏には中村重遠ぬしの勧めに依り出兵する事に極まりたれば、重遠ぬしに請ひて是非に従軍したしと申したりき。然れども余はまだ若年のことなれば伊賀氏は余の請を許さぬよしに聞きけるゆゑ、余は固く請ひて遂に従軍することとなり、機勢隊と云へる軍隊に加はりて越後口に向ふ事とはなりぬ。去れば斯の軍勢に加はりて高知に出て、夫れより大坂・京都を経て北陸に赴きたり。斯の時越後の官軍は鼠ケ関を経て庄内の賊兵と対陣したりき。一日雷村と申す処の賊を攻めんとて向へるとき我軍は道を失ひ夜に入りて引上ぐるとき、余と同じ隊伍の某余に向ひて病に罹り一歩も歩み難しと申しければ、拠なく賊地に遠からざれども茲に潜みて此夜を明さんとて、両人には渓間の洞に潜み居たり。素より不意の事なれば余分の食糧とてはなく、両人とも痛く飢えたりけるに、幸にも岩国の兵隊の同じく引き上げ来たれるに遇ひて、その際の一人携える餅を与へくれたれば、両人はそれにて飢えを医(いや)し暁に達し遂に本営に還り来たれり。
既にして会津も降り庄内も降りたれば、一と先庄内に繰り入り、それより引き環して越後高田を経、善光寺に出で、中仙道を京都に環り、程なく土佐に凱旋したりき。実に明治元年十二月の事なりき。
明治二年の春と為り、二月の程ならん。岩村通俊ぬし上国に遊ぶの志あり。兼ねてより余の志を知り給ひぬれば共に連れ行かんとて最(い)と懇ろにの給ひければ、萱台も暇をたまはりて岩村ぬしに伴ひ往くこととはなりぬ。去る程に宿毛より船に乗じて大坂を指し、凡そ三十日程を経て大坂に到りぬ。大坂に至れば義真ぬしも来たり給ひて共々将来の事を彼れ是れと心付けて給はりき。止まるること二ヶ月計りにて京都に出で、程なく岩村ぬしと共に東京に赴きたり。東京に赴きたる後は始終岩村ぬしの許に起臥して漢学を修めたりき。一日岩村ぬし酔ひたる体におはしけるが、扇子にてよをはしと打、貴様は節吉の子なるぞ、今の様子では親におよばぬぞとの給ひたりき。此の一言は誠に骨髄に徹し如何にも残念に思ひ、おのれ見よとの心を起さしめたり。岩村ぬしは今に至りても始めに変はらず何くれと余の事を心付け給ひて生涯の恩人なれども、前後この扇子の一撃ほど余の辱じけなきことは無し。
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日露戦争後の日本『日露協約』
【2023/05/11 10:49】
エッセイ
『日露協約』
日露戦争後の日本は、朝鮮の保護国化、ロシアは満洲への南下政策を、お互いに尊重し合う「秘密条約」を締結することになる。
目的は英米の中国侵出を防止するためにも、日露関係を安定させなければならなかった。
また、東洋進出がおくれたドイツの進出を牽制する必要があった。世は帝国主義時代である。
そのためにも、日本はロシア帝国の終焉まで四次にわたる秘密協約となった。
しかし、ロシア国内では、革命への動きが進んでいた。
革命政府はロシア帝国時代に締結した、秘密協約を公開してしまい、日本は国際的孤立への道を歩むことになる。
その意義、目的、経緯を記しておきます。
『国史大辞典』が原則として、対象項目の研究での第一人者が執筆する。それはそれでよいのであるが、包括的表現の背後まで読み解く力量がないと、理解が不十分となる。よって、他の日本史辞典と併記してみると、よりよく理解出来る。
日露戦争後、四次にわたって結ばれた日本とロシアの秘密条約。ドイツの進出に対する英・仏・露の三国協商の強化のためには、日・露関係の安定を必要とし、また英・米の中国進出に対し、北中国についての日・露間の妥協の成立により結ばれた。
<第一次>1907(明治40)年、東アジアの現状維持と日本の朝鮮に対する、ロシアの外蒙古に対する特殊権益を相互に認め、満洲の南北に利益範囲を設定した。
<第二次>1910(明治43)年、前年のアメリカによる満洲鉄道中立化案を阻止のため、満洲の現状維持、鉄道権益確保の協力を規定。
<第三次>1912(大正1)年、辛亥革命に対応して外蒙古独立に対するロシアの支援、内蒙古の利益範囲の分割を約した。
<第四次>1916(大正5)年、第一次大戦における日・露関係の緊密化と敵意ある第三国の中国の進出の防止を約した。
以上、何れも1917年のロシア革命により、ソヴィエト政府が秘密協定を公表し、破棄した。
以上、角川日本史事典
<以下は国史大辞典収載文>
明治四十年(一九○七)から大正五年にかけて、四回にわたり日本とロシアとの間で結ばれた協約。第三回協約を除き、すべて公開と秘密の各条項で成立している。
日露戦争後の国際社会の変動、特にドイツの進出に対するイギリス・フランス・ロシアの三国協商路線は日本とロシアの国交の安定化を促進し、他方アメリカ・イギリス、特にアメリカの中国東北部(満洲)への経済進出に対する日露両国の利益擁護のために締結された。
<第一回協約>明治四十年七月三十日締結。
日本はポーツマス条約で得た、大陸での権益を確保するためロシアとの協調を必要とし、ロシアもまたイギリスと強調してドイツに対抗する必要上、極東での平和維持を希望した。
中露公使本野一郎(のち大使)とロシア外相イズボルスキーとは日露間の国交調整に尽力した。たまたま戦後の財政難打開のため、日本・フランス間に公債募集をめぐる折衝が行われ、フランスは同盟国ロシアの意向を考慮して公債発行に躊躇していたが、本野はロシア側に働きかけロシアの反対を除き、明治四十年六月、日仏協約が成立し、これが日露間の交渉を促進する役割も果した。
三月以来日露間で条約案文が交わされ、相手国に特殊利益を認めさせる地域として、ロシアは蒙古(モンゴル)および満洲以外の中国北境地方を、日本は朝鮮をあげ、交渉の難点となった。しかし当時の日本は戦後経営に苦慮し、日露の再衝突を防ぐことが急務であったので、外蒙古に限定してロシアの特殊地位を認め、ロシアも交換的に日本の朝鮮における優越的地位の尊重を認めた。また満洲における勢力範囲については、哈爾浜(ハルピン)と吉林のほぼ中間での南北の分界線設定に同意し、七月三十日公開協約二箇条と秘密協約四箇条を含む第一回日露協約が締結され、追加約款で北満洲および南満洲の分界線が定められた。 重要事項である、満洲における利益範囲、朝鮮問題、蒙古問題などはすべて秘密条約にまわされた。なお、これに先立ち日露間の懸案交渉が進行し、満洲鉄道連絡に関する協定が六月十三日、日露通商航海条約・日露漁業協約が七月二十八日調印された。
<第二回協約>明治四十三年七月四日締結
日露戦争後、日米間では移民問題と満洲における鉄道問題をめぐって対立が激化した。アメリカは日露講和会議の最中から満洲の鉄道に関心を示していたが、一九○九(明治四十二)にタフト政権が成立すると「ドル外交」とよばれる積極政策をとり、同年十二月、ノックス国務長官は、満洲における鉄道を清国の領有とし、必要な資金を関係各国で出資する「ノックス満鉄中立案」を提唱した。
これに対してフランスはロシアの意向を汲んで反対し、イギリスも消極的だったため提案は葬られたが、日露両国は満洲における地位確保のため提携する必要を認め、当時帰国中の本野大使は小村寿太郎外相と熟議し、帰任後もロシア当局と協議した結果、明治四十三年七月四日第二回日露協約が調印された。
同協約は三箇条の公開協約および六箇条の秘密協約からなる。公開協約は、(一)満洲における各自鉄道の改善・連絡について協力し、有害な競争をしないこと。(二)日露両国および両国と中国との間に締結された、一切の条約約定に基づく満洲の現状を維持尊重すること、(三)この現状を侵迫する事件が起った際は随時商議を行うこと、を規定している。 秘密協約では、両国の特殊利益たる各地域の分界線は、第一回協約の追加約款で決められた線で画定すること、その地域内で相互の地位の尊重、特殊利益が侵迫された場合の行動、協議などについて定めている。
この協約は第一回協約の消極的性格を脱し積極的なものとなり、日本では韓国併合への道を容易にし、アメリカの満洲進出を阻止する上でも効果があった。
<第三回協約>明治四十五年七月八日締結
アメリカはノックス提案以後も満洲進出の機をうかがい、一九一○年(明治四十三)から翌年にかけてアメリカ・イギリス・フランス・ドイツの四国は、中国の幣制改革を目標とする借款団を形成した(四国借款団)。その内容に満洲における事業計画があることを知った日露両国は協議して対抗策をとり、借款団に加入した(明治四十五年六月、六国借款団)。 一九一一年七月辛亥革命が勃発し、中国周辺の情勢が変わり、外蒙古が中国からの独立を宣言(一一年十一月三十日)した直後、ロシアの発した声明中の「蒙古」が外蒙古に限らない点を考慮した日本は、従来の南北分界線のみでなく東西の勢力範囲設定の必要を痛感してロシアと折衝し、明治四五年七月八日、三箇条からなる協約が成立した。これは秘密条文のみで、第一回協約で定めた分界線を延長し、内蒙古における各自の特殊地域を東西に分割した。
<第四回協約>大正五年七月三日
三回にわたる協約の締結で日露関係は緊密となり、第一次世界大戦中にはさらに進展した。日本が英仏露の連合国軍側に加わって参戦し、選挙区が苛烈になると、弾薬・軍需品が欠乏したロシアはもちろん、イギリス・フランスもロシアを戦列から脱落させないために、極東の兵器庫としての日本の役割に期待した。
日本も国際的地位の向上と、対中国問題処理のためこの好機を利用した。陸軍は軍事上の支援の代償として、東支鉄道の哈爾浜までの譲歩をロシアから獲得しようと画策した。
大正四年末、日本からの大量の軍事援助を求めてゲオルギー大公が来日すると、日露接近を主唱していた山県有朋は、外交当局に同盟交渉促進を要望した。こうして従来の協商関係を拡大し、両国による中国支配の実権を握るための協約案文が作成され、大正五年七月三日、第四回協約(日露大正五年協約)が締結された。この協約には、中国の領土保全、機会均等の尊重という列国を考慮した表現はなく、両国の利害のみを強調し、公開二箇条、秘密六箇条の条文からなり、中国が日本またはロシアに敵意を有する第三国の支配下に置かれるのを防止し、この第三国と日本またはロシアとの間に戦争が起った場合、相互に援助することを規定した、攻守同盟(日露同盟)である。
この条文の「第三国」の規定は明確でなく様々な解釈があるが、将来の各国の離合集散に備えて、中国の支配を企図するあらゆる第三国を含むと考えられ、日英同盟の期限とほぼ等しい一九二一年(大正十)七月十四日までを有効としていた。一九一七年(同六)ロシア革命が起ると、ソヴィエト政権は帝政ロシアが各国と締結した秘密条約を暴露し、日露協約についても、同協約でいう「第三国」とは英米両国をさすと注釈つきで公開した。こうして難航の末合意に達した鉄道譲渡計画も水泡に帰し、日英同盟と並んで日本の外交路線を規定した日露協約も消滅し、日本の孤立化に道を開くようになった。
出典:国史大辞典
「参考文献」:外務省編『日本外交年表並主要文書上、松本忠雄『近世日本外交史研究』、外務省編『日露交渉史』、中山治一編『日露戦争以後』、吉村道男『日本とロシア』(近代日本外交史叢書、一)田中直吉『日露協商論』(植田捷雄編『神川先生還暦記念近代日本外交史の研究』所収) 吉村道男著
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『大義を議す』 ー討幕論明記ー
【2023/05/07 18:40】
エッセイ
大義を議す
(戊午幽室文稿)安政五(一八五八)年七月十三日
大老「井伊直弼」は就任時に二つの大きな解決すべき問題を抱えていた。一つは、将軍家定の後継をめぐって一橋慶喜か紀伊の徳川慶福(後の家茂)の決定を迫られていた。もう一つは、この日米通商条約の勅許問題である。結果として、将軍継嗣問題は紀伊の慶福と決定した。朝廷工作に当たっていた一橋派の英邁な将軍の実現をという願いは、井伊を始めとする「溜間詰」派の推す慶福の世子実現で決着。二つ目の条約締結は、ハリスに押されまくった交渉で追い込まれた、やむを得ない措置として調印。しかも無断勅許である。これに怒った松陰は掲題の小論を書いた。此の書は『討幕』なる語が初めて出る論文で、松陰がラジカルな方向へ急旋回する重要なものである。文中『征夷は天下の賊なり・・・勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』という激しい語が並ぶ。松下村塾も「政治結社」化していく。以後、松陰は政治的決起のプランを矢継ぎ早に打ち出すことになる。尊王開国からペリーの砲艦外交に屈した時、攘夷へと変容、さらに無断調印で遂に松陰は「尊王討幕」へと変わる。安政五年という年は、幕末前半期では一つの大きな節目となった。では本文に移ろう。
墨夷の謀は神州の患たること必せり。墨使の辞は神州の辱たること決せり。ここを以て天使震怒し、勅を下して墨使を絶ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(しゅくしゅく)として遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず、傲然(ごうぜん)自得、以て墨夷に諂事(てんじ)して、天下の至計と為し、國患を思はず、國辱(こくじょく)を顧みず、而して天勅を奉ぜず。是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(ちゅうりく)して、然る後可なり、少しも宥すべからざるなり。
近世功利の説、天下に満ち、世を惑わし民を誣(し)ひ、仁義を充塞(じゅうそく)す。或は大節に遭ふも、左右の狐鼠(こそ)、建明(けんめい)する所ある能はず。違勅の國賊を視るに、猶ほ強弱勝負を以て説を立て、断然其の罪を鳴らして之れを討つこと能はず。甚だしき者は桀の逆を助け、紂の暴を輔けて、自ら以て計を得たりとなす。甚だ悲しむべからずや。試みに洞春公をして今日に生まれしめば、其れ之れを何とか謂はん。夫の陶賊(とうぞく)は特(た)だ其の主に叛けるのみ。洞春公ほ且つ聴かず。今征夷は國患を養ひ、國辱を貽(のこ)し、而して天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。然らば則ち陶なる者は一國の賊なり、征夷は天下の賊なり。今措きて討つたざれば、天下の万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に享(う)けんや。
義を正し道を明かにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教へたる所以なり。勅を奉ずるは道なり。逆を討つは義なり。公侯夫士(こうこうふうし)、生まれて此の時に際(あ)ひ、苟も道義に違ふことあらば、猶ほ何の顔面ありた聖賢の書に対せんや。士大夫の志たる、死生甚だ小にして、道義甚だ大なり。道に違ひ義に戻り、徒爾(とじ)に生を偸(ぬす)む、何の羞恥かこれに加えん。乃ち國家と雖も亦然り。不道不義、以て一日の存安(そんあん)を謀るは、君臣以下、義に仗(よ)り道に徇(したが)ひ、以て始終を全うすると孰(いずれ)れぞや。
然りと雖も、英雄の事を謀るや、未だ必ずしも利害を計較(けいこう)せずんばあらず。事義にして利に合はざるときは、固より将に之れを為さんとす。況んや事已に義にして、又利に合ふ、何を憚ってか為さざる。当今幕府の謀、蓋し諸侯を疑ふこと墨夷に過ぐ、而して墨夷を畏るること諸侯より甚だし。謂(おも)へらく、諸侯を役して墨夷をうつも、墨夷未だ滅すべからず、而して諸侯去らん。墨夷を仮りて諸侯を制せば、諸侯制し易し。而して墨夷未だ必ずしも叛くかずと。是れ征夷の謬計(びゅうけい)なり。今諸侯は坐して征夷の為すに聴(まか)せ、而して少の異忤(いご)をも底止する所、其れ寒心すべきのみ。今日吾が藩断然として大義を天下に唱え、億兆の公憤に仗(よ)らば、征夷もとより内に孤立し、而して墨夷も亦外に屈退(くったい)し、皇朝の興隆、指を屈して待つべきなり。然れども其の初めに当たること、蓋し戞々乎(かつかつこ)として難きかな。而して一、二難の後は、復た甚だ難からざるなり。吾れ切に恐る、当路の君子、一、二難の忍ぶ能はずして、大義を亡失し、征夷と其の亡を同じうせんことを。故に今日の務めは大義を明らかにするに在り。
大義已に明かなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当に再四忠告して、勉めて勅に遵はんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまはず、征夷翻然(ほんぜん)として悔悟(かいご)せば、決して前罪を追咎(ついきゅう)したまはざるなり。是れ吾れの天朝・幕府の間に立ちて、之れが調停を為し、天朝をして寛洪(かんこう)に、而して幕府をして恭順に、邦内をして協和に、而して四夷をして懾伏(しょうふく)せしむる所以の大旨なり。然れども天下の勢い、万調停すべからざるものあり、然る後之れを断ずるに大義を以てせば、斯(すなわ)ち可なり。
当今吾が藩は君臣明良にして、大義赫々(かくかく)、復た是れ等の議を煩はさざるなり。然れども寅の身幽囚に在りて、廟議を聞くことを得ず、ここを以て丁寧此(ここ)に至る。伏して惟(おも)ふ採察(さいさつ)せられんことを。 七月十三日
吾れの國家に建白するや、極めて機密なりと雖も、極めて急遽なりと雖も、未だ嘗て稿を存せずんばあらず。謂へらく、機密の策、急遽の事、成らば則ち功あり、敗れば則ち罪あり。万一為すべからざれば、則ち請ふ此の巻を携へ、身を以て罪に当たらんことを。幸にして事ここにいたらざるも、亦以て後人の稽考(けいこう)に資するに足ると。是れ稿を存するの本意なり。而るに口羽徳祐以て然りと為さず。其の意を察するに、文を以て之れを視、余を咎むるに國事を以て文料と為すものの如し。嗚呼、人の心は面の如し、誰れか其れ之れを同じうせん。偶々宋紀を讀む、鄒浩(すうこう)、立后(りっこう)の事を諌め、随って其の稿を削る。陳瓘(ちんかん)曰く、「禍は其れ茲に在るか。異時奸人妄(みだ)りに一稿を出さば、弁ずべからざらん」と。後、蔡京(さいけい)果して偽疏(ぎそ)を為(つく)り以て之れを出すと。嗚呼、士君子は禍福徳喪(とくそう)、何ぞ其れ計較(けいかく)する所ならんや。然れども稿を削りて陰禍を得るは、何ぞ稿を存して顕罰(けんばつ)を蒙るの俯仰(ふぎょう)に愧(はじ)なきに如かんや。此の稿数十篇、吾れ重辟(じゅうへき)を得ると雖も、誓ってその隻字(せきじ)をも削らざるなり。己未三月三日、これを余白に書す。
【語訳】
墨夷 = アメリカ合衆国 神州の患 = 神国日本の災難
墨使 = アメリカ合衆国総領事ハリス 神州の辱=日本の恥
震怒 = 激しく怒ること
勅を下して墨使を絶ちたまふ = 安政五年三月二○日、朝廷は堀田老中に対し、条約問題について三家・諸大名の意見を求め改めて勅許を請うべしと、事実上調印不可の勅裁をくだした。
蹜蹙として遵奉之れ暇あらざるべし = 恐れつつしんで直ちに勅諭に従い、これを守るべきである
傲然自得 = おごり高ぶり得意になっている 諂事 = へつらうこと
至計 = 最も優れた計略 國患・・・国辱 = 國の災難・・・國の恥辱
天勅 = 天子のお言葉 征夷 = 征夷大将軍大
天地も容れず = 天地の神々も赦さず 神人 = 神も人も
討滅誅戮 = 討ち滅ぼし罪状に照らして殺すこと 功利 = 巧妙と利益
誣 =ありもしないことをあるように偽る
充塞 = ある場所にものが一杯になること。ここでは塞ぐの意味。
大節 = 重大な時節 狐鼠 = きつねとねずみ。
建明 = 意見を明白に申上げること 違勅の国賊 = 勅命に背いた江戸幕府
桀 = 中国夏王朝の天子で暴君の代表とされる
紂 = 中国殷王朝の最後の王で暴君の代表とされる
洞春公 = 毛利元就 一四九七―一五七一 戦国時代の武将
陶賊 = 陶晴賢 一五二一―五五 戦国時代の武将。天文二○年(一五五一)その主君である大内義隆に謀反を起し殺害した
夷狄を引き = 外国に味方し 神 = 神霊。霊魂
其れ地下に享けんや = 地下でどのように受止めるであろうか
公侯夫子 = 諸大名や立派な男子
何の顔面ありて聖賢の書に対せんや = 聖賢の書(「四書」・「五経」)を読んでも面目が立たない
士大夫 = 人格者で高い地位にある人
徒爾 = むだに。いたずらに
何の羞恥かこれに加へん = これ以上の恥はない
不道不義 = 道理に背き人の守るべき道にはずれること
存安 = 安楽に暮らすこと 始終を全うする = 一生を貫く
孰れぞや = どちらをとるか
未だ必ずしも利害を計較せずんばあらず = これまでに必ずしも利害得失について比較しないというわけではない
何を憚ってか為さざる = 何を恐れ憚ってなさないのか
謬計 = 間違った計画
異忤(いご) = 逆らうこと。忤逆(ごぎゃく)
廃止 = 停止
寒心 = 恐れおののいて心が寒くなること
大義 = 人の行うべき正しい道。尊王攘夷
億兆の公憤 = 人民大衆の憤り
屈退し = 恐れてひるみ退く
皇朝の興隆、指を屈して待つべきなり = 朝廷の繁栄が到来するのを、指折り数えて期待している
戞々乎(かつかつこ) = 物事の食い違うさま
当路の君子 = 当局者。重要な地位にある者
其の亡 = 幕府の滅亡
二百年恩義の在る所 = 慶長二年(一六○三)徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いてこのかた二百年の恩義
翻然 = 心を急に改めるようす
悔悟 = 過去の過ちを悔やみ、繰り返さないよう決心する
追咎(ついきゅう) = 過去にさかのぼってとがめる
寛洪(かんこう) = 寛大なこと
恭順 = 謹んで服従する
邦内 = 国内
協和 = 心を合せ仲良くする
四夷 = 諸外国(米英仏露の意)
懾伏 = 恐れひれ伏す
大旨 = あらまし
断ずる = きっぱりと判断をくだす
赫々(かくかく) = 勢いの盛んなさま
廟議 = 藩政府での協議
丁寧 = 再三懇切に忠告すること
惟(おも)ふ = 思う。考える
採察(さいさつ) = 事情を汲んでよく考える
建白 = 藩政府等に意見を文章にして述べる
機密 = 政治の大事な秘密
急遽 = あわただしい。急ぎ慌てる
後人の稽考に資するに足る = 後世の人々が調べ考えるのに十分役立つであろう
口羽徳祐 = 一八三三―五九 長州藩士。松陰より四歳年下だが漢詩文にすぐれた松陰と意気投合した。藩の寺社奉行となったが、安政六年病没。二六歳
文を以て之れを視・・・為すもののごとし = 口羽徳祐は私(松陰)の上書を国事を材料にしているという理由でとがめているようである
宋紀 = 宋代の歴史を記した書物
鄒浩(すうこう) = 中国北宋末期の政治家。晋陵の人。字は志完。哲宋に仕え右正言となったが、帝が劉氏を立てその后とするにあたり、別の后を選ぶように乞うたが容れられず罷免された
陳瓘(ちんかん) = 一○六○―一一二四 中国、北宋末期の政治家。南剣州・沙県(福建省)の人で、字は瑩中、諡は忠蕭。徽宋の時に右司諫となり蔡京の奸悪をあばき、彼を用いてはならないことを上申した
「禍は其れ茲に存るか。・・・弁ずばからざらん」 = 禍は文を削除したことによると思われる。後日、悪臣が虚妄(うそ偽り)の上書を出した時、それが虚妄で在ることを区別できないであろう
義疏(ぎそ) = 偽りの上書
士君子 = 学問・人格とも優れた人
計較(けいかく) = 利害を勘案して決めること
稿を削りて陰禍を得るは = 草稿を削り取って目に見えないわざわいにあうよりも
何ぞ稿を存して顕罰(けんばつ)を蒙るの俯仰(ふぎょう)に愧(はじ)なきに如かんや = この草稿を残して外に現われた刑罰を受けて自分の心や行動に少しもはじるところがないほうがましである
重辟(じゅうへき) = 重い罪
隻字(せきじ) = 一字 己未 = 安政六年(一八五九)
【文稿解説】
安政五年五月、幕府は勅許を待たずに日米通商条約を締結。ここにおいて松陰は【大義を議す】を書き、初めて「討幕」を明言する。松陰の大義とは「勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義」なのだ。今幕府は天勅に違う罪を犯したので、大義の基準からして「討滅誅戮」して可だという。こう考えたとき、今日の急務はなによりも「大義」を世の中に明らかにするということになる。そこで長州藩がこの機会に「大義」を主唱し、「億兆の公憤」を誘い起すことで困難を打開することが可能と考える。反面この段階では幕府の改悛を期待している。
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『三月二十七日夜の記』
【2023/05/02 12:02】
エッセイ
『三月二十七日夜の記』(回顧録付録)
安政(一八五四)元年十一月十三日
安政元年三月三日、徳川幕府はペリーの開国要請に屈して『日米和寸条約に署名』して、条約は締結された。後の安政五年に締結される『日米修好通商条約』が無断勅許との非難をあびたのにたいし、幕府は朝廷に『薪水給与』程度で、通商条約(開国)ではない旨を朝廷に説明し穏便は報告で済ませた。しかし、一度は勅許を求めて失敗していたので、今回の調印後の宿継ぎ方式による事後報告で、朝廷の態度は厳しかった。
ぺりーは条約に記した「豆州下田港」に調印後、回航したした。彼らの軍艦に乗り込み、米国行きを願った吉田松陰と金子重輔は乗船の機会を窺いつつ艦隊を追跡、下田に到着。そして夜陰に紛れて決行したのが【下田蹈海】であった。しかし、失敗して、以後二人は自由を奪われる。この、乗船までの経緯を日記風に記したものである。
先書の高教に云はく、「汝獄に下る、国に於て何ぞ益せん」と。此の言頂門の一針、瑟縮(ひっしゅく)地に入らん。併しかくいへば朱雲の張禹を斬らんことを請ひ。胡銓(こせん)の秦檜を斬らんことを請ひ、而して一は自ら後復た仕えず、一は辺裔におとしい貶竄(へんさん)せらる、亦何ぞ漢・宋に益せん。故に赤穂義士は讐を復して死を賜ひ、白夷・叔斉は暴を悪みて餓死す、亦何ぞ益せん。故に君子はかくはいはず、聖人は百世の師なり云々と云ふ。且つ弟が輩の為す所、朱・胡がする所に比すれば、頗る万全を期す。然れども事敗れてここに至り師は天なり、命なり。是れを以て議せらる、亦何ぞ多言せん。但だ僕が事発覚の曲折は人多く知らざるべし。因って三月二十七日の記を作り、高鑒(こうかん)を希ふのみ。
三月二十七日夜の記
三月二十七日、夕方、柿崎に海浜を巡見するに、弁天社下に漁舟二隻浮べり。是れ究竟なりと大いに喜び、蓮台寺村の宿へ帰り、湯へ入り、夜食を認め、下田の宿へ往くとて立出で、下田にて名主夜行を禁ずる故、一里隔てて蓮台寺村の湯人場へも、宿をとり、下田へは蓮台寺へ宿すと云ひ、蓮台寺へは下田へ宿すと云ひて、夜行して夷船様子彼是見回り、多くは野宿をなす 武山の下海岸による五つ過ぎまで臥す。五つ過ぎ此を去り、弁天社下に至る。然るに潮頭退きて漁舟二隻ともに砂上にあり、故に弁天社中に入り安寝す。八ツ時、社を出でて舟の所へ往く、潮進み舟浮べり。因って押出さんとて舟に上る。然るに櫓ぐひなし、因ってかい(櫂)を犢鼻褌(ふんどし)にて縛り、船の両傍へ縛り付け、渋木生と力を極めて押出す。褌たゆ、帯を解き、かいを縛り又押ゆく。岸を離るること、一町許り、ミシツピー舶へ押付く。是れまでに舟幾度か回り回りてゆく、腕脱せんと欲す。ミシツピー舶へ押付くれば舶上より怪しみて灯籠を降す。灯籠はギヤマンにて作る、形円き手行灯の如し蝋燭は我邦に異ならず、但し色甚だ白く心甚だ白し 火光に就きて漢字にて「吾れ等米利堅に往かんと欲す、君幸に之れを大将に請へ」と認め、手に持ちて舶に登る。舶には梯子ありて甚だ上りやすし。 夷人二三人出で来り、甚だ怪しむ気色なり。認めたる書付けを与ふ。一夷携へて内に入る。老夷出でて燭を把り、蟹文字をかき、此の方の書付けと共に返す。蟹文字は何事やらん、読めず。夷人頻りに手真似にてポウバタン舶へゆけと示す。ポウバタン舶は大将ペリーの乗る所なり 吾れ等頻りに手真似にてバッティラに連れて往けと云ふ。夷又手真似にて其の舟にて往けと示す。已むことを得ず。又舟に還り力を極めて押行くこと又一丁許り、ポウパタン舶の外面に押付く。此の時渋生頻りに云ふ、「外面に付けては風邪強し、内面に付くべし」と。然れどもかい自由ならず、舟浪に随ひ外面につく。舶の梯子段の下へ我が舟入り、浪に因りて浮沈す、浮ぶ毎に梯子段へ激すること甚だし。夷人驚き怒り、木棒を携へ梯子段を下り、我が舟を衝き出す。此の時予帯を解き立かけて着け居たり。舟を衝き出されてはたまらずと夷舶の梯子段へ飛渡り、渋生に纜(ともづな)をとれと云ふ。渋生纜をとり未だ予に渡さぬ内、夷人又木棒にて我が舟を衝き退けんとす。渋生たまり兼ね、纜を棄てて飛び渡る。已にして夷人遂に我が舟を衝き退く。時に刀及び雑物は皆舟にあり。夷人吾が二人の手をとり梯子段を上る。此の時謂へらく、舶に入り夷人と語る上は、吾が舟は如何様にもなるべしと。我が舟をば顧みず夷舶中に入る。舶中に夜番の夷人五六名あり、皆或いは立ち或いは歩を習はす、一も尻居に座する者なし。夷人謂へらく、吾れ等見物に来れりと。故に羅針等を指し示す。予筆を指し示す。予筆を借せと云ふ手真似すれども一向通ぜず、頗る困る。其の内日本語をしるものウリヤムス出で來る。因って筆をかり、米利堅にゆかんと欲するの意を漢語にて認めかく。ウリヤムス云はく「何国の字ぞ。」予曰く「日本字なり」。ウリヤムス笑ひて曰く、「もろこしの字でこそ」。又云はく、「名をかけ、名をかけ」と。因ってこの日の朝上陸の夷人に渡したる書中に記し置きつる偽名、余は瓜中万二、渋生は市木公太と記しぬ。ウリヤムス携へて内に入り、朝の書翰を持ち出で、此の事なるべしと云ふ。吾れ等うなづく。ウリヤムス云はく、「此の事大将と余と知るのみ、他人には知らせず。大将も余も心誠に喜ぶ、但し横浜にて米利堅大将と林大学頭と、米利堅の天下と日本の天下との事を約束す、故に私に君の請ひを諾し難し、少しく待つべし、遠からずして米利堅人は日本に来り、日本人は米利堅に来り、両国往来すること同国の如くなるの道を開くべし、其の時來るべし。且つ吾れ等此に留まること尚三月なるべし、只今還るに非ず」と。余因って問ふ、「三月とは今月よりか、来月よりか」。ウリヤムス指を屈し対へて曰く、「来月よりなり」。吾れ等云はく、「吾れ夜間貴舶に來ることは国法の禁ずる所なり。今還らば国人必ず吾れを誅せん、勢還るべからず」。ウリヤムス云はく、「夜に乗じて還らば国人誰れか知るものあらん、早く還るべし。此の事を下田の大将黒川嘉兵知るか。嘉兵許す。米利堅大将連れてゆく。嘉兵許さぬ、米利堅大将連れてゆかぬ」。余云はく、「然らば吾れ等舶中に留まるべし。大将より黒川嘉兵へかけあひ呉るべし」。ウリヤムス云はく、「左様にはなり難し」と。ウリヤムス反復初めのいふ所を云ひて、吾が帰を促す。吾れ等計已に違ひ、前に乗り棄てたる舟は心にかかり、遂に帰るに決す。ウリヤムス曰く、「君両刀を帯びるか」。曰く、「然り」。「官に居るか。」曰く、「書生なり」。「書生とはなんぞや」。曰く、「書物を読む人なり」。「人に学問を教ゆるか」。曰く、「教ゆ」。「両親あるか」。曰く「両人共に父母なし」。此の偽言少しく意あり。「江戸を発すること何日ぞ」。曰く、「三月五日」。「曽て予を知るか」。曰く「知る」。「横浜にて知るか、下田にて知るか」。曰く「横浜にても下田にても知る」。ウリヤムス怪しみて曰く、「吾れは知らず。米利堅へ往き何をする」。曰く「学問をする」。時に鐘を打つ。およそ夷舶中、夜は時の鐘を打つ。余曰く、「日本の何時ぞ」。ウリヤムス指を屈してこれを計る。然れども答詞詳かならず。此の鐘は七ツ時なるべし。吾れ等云はく、「君吾が請ひをきかずんば其の書翰は返すべし」。ウリヤムス云はく、「置きてみる、皆読み得たり」。余広東人羅森と書き、「此の人に遇はせよ」と云ふ。ウリヤムス云はく、「遇いて何の用かある。且つ今臥して床にあり」。予曰く、「来年も来るか」。曰く「他の舶來るなり」と。帰るに臨み、「吾れ等船を失ひたり、舶中要具を置く、棄ておけば事発覚せん、如何せん」。ウリヤムス云はく、「吾が伝馬にて君等を送るべし。船頭に命じ置けり。所々乗り行きて君が舟を尋ねよ」と。因って一拝して去る。然るにバッテイラの船頭直に海岸に押し付け、我れ等を上陸せしむ。因って舟を尋ぬることを得ず。上陸せし所は巖石茂樹の中なり。夜は暗し、道は知れず、大いに困迫する間に夜は明けぬ。海岸を見回れども我が舟見えず。因って相謀りて曰く、「事已に此に至る奈何ともすべからず、うろつく間に縛せられては見苦し」とて、直ちに柿崎村の名主へ往きて事を告ぐ。遂に下田番所に往き、吏に対し囚奴となる。ウリヤムス日本語を使ふ。誠に早口にて一語も誤らず、而して吾れ等の云ふ所は解せざる如きこと多し。蓋し彼れが狡猾ならん。是を以て云はんと欲すること多く言ひ得ず。
僕事大略かくの如し。畢竟夷舶へ乗移る際少しく狼狽す、故に吾が舟を失ふ。若し舟を失はず、又要具を携へ舶に登らば、後に心がかりなく、舶中へ強ひて留ることを得、我が文書等を夷人に示し、又舶中の様子を見んことを求め、海外の風聞などを尋ぬる間に夜は明くべし。夜明けば白昼には帰り難しと云ひて一日留まらば、其の中には必ず熟談も出来、計自ら遂ぐべし。仮令事遂げずとも、夜に至り陸に返り急に去らば、かかる禍敗には至らぬなり。其の事の破れの本を尋ぬれば櫓ぐいなき計りにてかくなりゆけり。因って思ふ、左伝某の役の敗を記して驂絓り(さんかかり)て止まるとやらあり。大軍の敗もかかる小事に因ることなり。左氏兵を知る、故に其の叙事甚だ妙なり。又思ふ、漢の李広、衛青に従ひて匈奴を撃ち、惑ひて道を失ふ、青上書して天子に軍を失へる曲折を報ぜんと欲すと。この曲折と云ふこと甚だ味あり。敗軍すれば一概に下手な様に云へどもその曲折を聞けば必ず拠なきことあるべし。後人紙上に英雄を論ず、悲しいかな。吾れ等の事、後世の史氏必ず書して云はん、「長門の浪人吉田寅次郎・渋木松太郎、夷舶に乗りて海外に出でんことを謀り、事覚れて捕はる。寅等奇を好みて術なし、故にここにいたる」と。渋木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。然れども敗軍の時は何も心底に任せぬものなり。洞春公・東照公の名将さへ、大敗群には一騎落し給ふことあり。然れば吾れ等の事も強ち恥とするに足らず。但だ天命を得ず、大事成就せぬは憾みと云ふべし。亦何ぞ益せんの譏りを免れぬ所以なり。
甲寅十一月十三日、野山獄中之れを録す、時に天寒く雪飛び、研池屢々凍る。
二十一回猛士矩方
下田にて読み侍りし
世の人はよしあしごともいはばいへ賤ヶ誠は神ぞしるらん
乙卯五月念四日 藤寅
【解説】
安政元年三月二十七日の夜、正しくは三月二十八日午前二時頃、松陰は金子重輔とともに下田の柿崎海岸からペリー提督の旗艦ポウハタン号に乗り込み米国への出国を懇請したが受け入れられなかった。米国側の記録によると、松陰と重輔が「立派な地位の日本紳士だとは分かったが、着物は旅でだいぶくたびれていた。(中略)彼等は教養を身につけており、流暢に、また、見た眼に優雅に標準的な漢文を書いた。動作は礼儀正しく、非常に洗練されていた」(ホークス著「ペリー日本遠征記」全集別巻)と非常に好意的な見方をしており、さらに「提督は来艦の目的を知るや、自分は日本人をアメリカにつれて行き度いと思ふこと切であるけれども、両人を迎へることが出来ないのは残念であると答えた」とある。つまり、日米和親条約締結直後のことであり、幕府の許可なく同行することは時宜的に好ましくないと判断したためであろう。
【語訳】
三月二十七日夜の記 = 安政元年三月二十七日夜の海外渡航失敗のいきさつを、同年十一月十三日に野山獄で回顧したもの。
先書の高教 = 先の手紙(安政元年十一月九日、十日、十一日)に記された兄上の御教示。
頂門の一針 = 急所をついて痛切にいましめること。
瑟縮(ひっしゅく)地に入らん = 恥ずかしさのあまり身を縮めること。
朱雲 = 漢の正帝の時、傀里の令であった朱雲は臣張禹を斬るべきと上書したが、帝の激怒をかい御吏に降格された。
胡銓(こせん) = 南宋の高宗の時、胡銓は宰相の秦檜が金との和平を講じようとしたのを憤り、檜を斬るべきだと上書して逆に左遷され、国外に三十年謫居。死後、忠簡と諡名された。
一は自ら後復た仕えず = 朱雲は、以後再び仕えなかった。
一は辺裔におとしい貶竄(へんさん)せらる = 胡銓は、辺境に左遷された。
赤穂義士 = 元禄十五年十二月十四日、江戸本所の吉良上野介邸に討ち入って主君浅野長矩の仇を討った元赤穂藩四十七人の家臣。
白夷・叔斉 = 共に周代初期の人。周の武王の横暴を諌めたが、聞き入れられず首陽山に隠れて餓死した。
聖人は百世の師なり = 『孟子』尽心下に、聖人は百世にわたって人の師となるものであり白夷・柳下恵をあげる。
曲折 = 詳しいいきさつ。
高鑒(こうかん)を希ふのみ = ご覧いただきたい。
柿崎 = 現在の静岡県下田市柿崎。
弁天社 = 弁財天(音楽・知恵・弁舌・財宝を司る女神)を祀る小さな祠。
究竟 = 好都合。 蓮台寺村 = 現在の静岡県下田市蓮台寺。
夜五つ = 午後八時。 潮頭退きて = 潮が引いて。
安寝す = 安眠した。 八ツ時 = (三月二十八日)午前二時。
櫓くひ = 櫓杭。櫓を受け固定する杭。
かい = 船具の一つ。棒の一端を幅広く平たくしたもの。これで水をかき、船を進める。
犢鼻褌 = 褌(ふんどし)に同じ。
褌たゆ、帯を解き、かいを縛り又押ゆく = ふんどし(男子の股間をおおう細長い布)が切れた。それで帯を解いてかいを縛り、また船を漕ぎ出す。
一丁許り = 約百メートル。
ミシシッピー舶 = アメリカ艦船ミシシッピー号。
腕脱せんと欲す = 腕が抜けそうである。 灯籠 = 昔の照明器具の一つ。
ギヤマン = ガラス。
手行灯 = 昔の照明器具の一つ。竹・木などで作った枠に紙を張り、中に油血を置いて火をともしたもの。持ち運びが出来る。
火光に就きて = 火明かりをたよりに。 米利堅 = アメリカ。
老夷 = 年とったアメリカ人。 燭 = 灯火。
蟹文字 = 横文字。英語。 ポウハタン舶 = アメリカ艦船ポーハタン号。
バッテイラ = ボート。小舟。 一丁許り = 一町ばかり。約百メートル。
浮かぶ毎に梯子段へ激する = 船が浮かび上がるごとに梯子段へ激突する。
予帯を解き立かけて着け居たり = 私は縛っていた帯を解き、立ちかけながら着物をととのえ帯を結んでいた。
纜 = 船尾を繋ぎ止める綱。もやい綱。 歩を習はす = ぶらぶら歩いている。
尻居に座する者 = 尻を床につけて座っている者。 羅針 = 羅針盤。
ウリヤムス = 一八一二~八四。ペリー艦隊の通訳。『ペリー日本隨行記』を著わす。のち、エール大学教授。
もろこしの字でこそ = 中国の文字ではないか。
瓜中万二 = 吉田松陰の偽名。吉田家の紋章(五瓜に卍)が瓜の果実に似た外囲文様の中央に卍(まんじ)があることからつけた名前。
市木公太 = 金子重輔(渋木松太郎)の偽名。重輔の出生地渋木(紫福)村より採用。柿の木と渋とからつけた名前。
朝の書翰 = 朝、上陸して来たアメリカ人に渡した「投夷書」のこと。
米利堅大将 = ペリー提督のこと。
林大学頭 = 林復斎。一八〇〇―五九。林述斎の仔。名は緯、字は弼中。幕府の儒官。嘉永六年、大学頭に任ぜられる。安政六年没。六○歳。
米利堅の天下と日本の天下との事を約束す = アメリカ合衆国と日本国との間の条約。
日米和親条約のこと。
私に君の請ひを諾し難し = 個人的に君の願いを聞き入れるのは難しい。
誅せん = 処刑する。
勢還るべからず = 自然の成り行きで、帰ることは出来ない。
黒川嘉兵 = 浦賀奉行支配組頭、黒川嘉兵衛。
嘉兵許す。米利堅大将連れてゆく。嘉兵許さぬ、米利堅大将連れてゆかぬ = もし、黒川嘉兵衛が許可するならば、アメリカのペリー長官も君たちを連れていくだろう。許可がなければ君たちをアメリカに連れていくことは出来ない。
かけあひ呉るべし = 掛け合って下さい。
反復 = 繰り返し。
君両刀を帯びるか = 君は二本の刀を持つ身分(武士)であるか。
官 = 役人。 偽言 = いつわり。
答詞詳かならず = 答えがはっきりしない。 七ツ時 = 午前四時。
書翰 = 書簡。投夷書のこと。
広東人羅森 = 中国広東省の人。Lo Shen。米国使節団の通訳。
伝馬 = 伝馬船。小船。
所々乗り行きて君が舟を尋ねよ = あちこちと乗り回し、君たちが失った舟を探されよ。
巖石茂樹 = 険しい岩場で、あたりに樹木が生い茂っている。
困迫 = 困り果てる。 吏 =役人。
狡猾 = 悪賢い。 畢竟 = 結局。つまり。
狼狽 = あわてる。 禍敗 = わざわざと失敗。
左伝 = 『春秋左氏伝』の略。『春秋の注釈書』で左孔明の著と伝える。
驂絓り(さんかかり)て止まる = 桓公の三年春、典沃の武公は翼(晋の都)を攻めようとして陘庭(翼の南部の地名)に軍を進め、翼侯を汾水のほとりまで追撃した。翼侯の副馬が樹木に引っかかって兵車は進まず、翼侯も部下も捕えられて殺された。驂とは四頭だての馬の、左右の二頭のこと。
李広 = 漢代の武将。文帝の時、匈奴を討って、功を立て、匈奴から飛び将軍とおそれられた。のち青衛に従って匈奴を討ち、道に迷って責任を問われ、憤って自殺した。
青衛 = 漢の武帝の時の将軍。匈奴を討って大功を立て長年侯に封ぜられた。
匈奴 = 紀元前三世紀末から紀元前五世紀、モンゴル高原に活躍した遊牧騎馬民族。
曲折 = 詳しいいきさつ。 拠なきこと = やむをえないこと。
後人紙上に英雄を論ず = 後世の人が書物の上で英雄を論ずる。
史氏 = 歴史家。
奇を好みて術なし = 奇妙な行動を好むが、方法や対策を持たない。
大恥大憾 = 大きな恥であり、大きな憾みでもある。
洞春公 = 毛利元就。 東照公 = 徳川家康。
一騎落 = 従う家来もなく、只一人馬に乗って落ちのびること。
何ぞ益せんの譏りを免れぬ所以なり = 何の利益があろうかという、非難を免れない理由である。
甲寅 = 安政元年。 究池 = 硯池。硯の海。
よしあしごと = 善いことや悪いこと。
賤ヶ誠 = つまらない私のまごころ。
乙卯五月年四日 = 安政二年五月二十四日。
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『幕末維新のヒーローたち・第四回』
【2023/03/13 10:20】
エッセイ
2021年秋期大東文化大学オープンカレッジ
【幕末維新のヒーローたち】
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(明治天皇)(山内容堂)(岩倉使節団)
第四回 藩閥政府と土佐・肥前
(1) 薩摩長州に遅れまいとの「幕末四賢候」―山内容堂―
1, 藩主就任の恩義と容堂の胸の内(幕府に感謝・討幕の考えなし)
2, 「土佐勤皇党」を嫌った前藩主として土佐藩の実力者・院政をひく。
3, 坂本龍馬、後藤象二郎の献策を受け入れて、「大政奉還」路線採用。
4, 徳川慶喜に決断をさせたが、新政府構成員に「慶喜」を、が阻止される。
5, 「維新功労」第三位の地位確保。戊辰戦争、新政府人事に要職者。
(2)、幕末佐賀藩の牽引者 ―鍋島閑叟―
1, 「閑叟」と佐賀藩。「フェートン号」事件と、閑叟の「長崎蘭軍監訪問」。
2, 藩政改革の成功と海防意識(アヘン戦争情報)、西洋科学技術の導入政策。
3, 藩校・弘道館の人材育成。江藤、副島、大隈と「義祭同盟」の人達。
4, 大砲、軍艦の自前装備。幕府からの武器、弾薬製造依頼に答える。
5, 「弘道館」の人材育成が「明治新政府」の活躍者となった。
(3)、幕末の「教育者について」―弘道館(佐賀)と酒井南嶺―
1, 「弘道館教授」枝吉神陽の「楠公義祭同盟」に参加した俊秀たち。
2, 幕末佐賀藩の先進科学技術(鉄砲弾、軍艦製造)。長崎海軍伝習所へ派遣。
3, 精錬方技師の指導で蒸気罐の製造、日本初の蒸気船進水の実現。
4, 宿毛の吉田松陰こと酒井南嶺の教育は、明治政府の活躍者多数、南嶺の薫陶。
5, 竹内綱(明太郎、吉田茂)、小野義真(梓)、吉田東洋「少林塾」の人材育成。
(4)、明治政府 ―藩主(容堂と閑叟)と政党政治―
1,容堂(飲酒)と閑叟(病)は新政府発足後まもなく死去。
2,板垣退助の戊辰戦争での活躍(家老格)と中央政界進出。
3,蘭癖大名の下、オランダ憲法を学んだ大隈(フルベッキ)
4,鍋島閑叟と島津斉彬は従兄弟、藩政改革は鍋島が先行した(吾も人なり)
5,明治31年「隈板内閣」の政党内閣。短期間ながら政党政治の成果を見た。
(酒井南嶺)(板垣退助)(鍋島閑叟)(大隈重信)
(5)、「薩長」の後塵を拝した「土佐」と「肥前」
1 土佐勤皇党(武市半平太)を嫌った「山内容堂」と土佐藩の藩状。
2, 他藩に先駈けて「近代化」(科学技術)を取り入れた「肥前・鍋島藩」。
3, 戊辰戰争で「官軍」を率いた板垣退助と自由民権運動・立志社の設立。
4, 板垣死すとも自由は死せじ」。岐阜での遭難、外相襲撃をうけた「大隈」。
5, 明治14年の政変で「政府」追放後、「立憲改進党」を創立した大隈重信。
6, 明治31年、日本最初の政党内閣が誕生。大隈総理と板垣副総理。
7, 清貧に甘んじ、「一代論華族論」の板垣と、早稲田の梁山泊「大隈邸」
8, 「薩長藩閥」外の二人。大正8年と11年で長逝。
(板垣退助・東海寺=品川神社) (大隈重信・護国寺)
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