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『楫取素彦頌徳碑』文
【2019/02/01 22:02】 エッセイ
前群馬県令楫取君功徳碑
今元老院議官、楫取君之令于群馬県也、勤倹以涖下、忠誠以奉上、休養民力、宣布徳教、風移俗易、君已去、而土民翕然、謳唫弗已、合辞謁予、以功徳之碑為請、且曰、上野自古称難治、其民剽悍軽佻、臨時躁急、無老成持久之実、君初至、首張学政、以示教化之不可忽、而世方模仿泰西学術、専偏於智育、可以剽軽之俗、其極竟為虚誕妄進、犯上凌長之風漸長、君病之、導以忠厚質実、痛矯其流弊、無幾、朝議更革学制、以徳育為最、智育体育次之、略如君所経画、衆始服其先見焉、十二年学制復変、世謂之自由教育、君固執不可、既而地方教育果然解体、君独免其害、官亦卒復旧制、凡君之於学事、以身率先、毎郡吏詣庁、必先問学事、然後及他、郡吏亦至以其興衰、為喜戚、君又用心於農桑、謂富強之術、在殖国産、県尤以養蚕称、而繭糸輸出海外者、悉仮于外人、不能自往市易、其利多為外人所壟断、君募県民有材幹者、投私財助其資、航海直輸、群馬繭糸之名、頓噪海外、邦人直輸、実発端於此矣、其他設社倉、以諭蓄積之急務、奨励医学、以拯県民之疾病、捜訪古蹟、以彰先哲之逸事、諸如此類、不一而足、曾過邑楽郡大谷林者、松樹鬱茂、連互数十町、昔時、上杉氏遺臣、大谷休伯所植也、君仍自往、見其遠孫某、於一陋屋中、称以祖先功労、旁観者
為泣下、又言、君之在任十余年、居常倹素、出入不駕馬車、家惟修繕旧屋耳、而居之晏如、県民慕君、如慈父母、臨去老幼遮路乞留、送者数千人、不勝惜別之情、嗚呼、如君真不愧古之良二千石者歟、因頌以辞、其辞曰、詩詠甘棠、千載流芳、書掲風草、万古斯光、振民育徳、顕幽闢荒、彜倫已明、蔚起校庠、男服於耕、婦勤於織。老安少懐、既衣既食、有義有方有、理平訟息、興誦唶唶、噫是誰力、遺愛在里、何須生祠、頌美無已、茲見隆碑。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹

前群馬県令楫取君功徳碑
今の元老院議官、楫取君の群馬県に令たるや、勤倹以て下に涖(のぞ)み、忠誠以て上に奉じ、民力を休養し、徳教を宣布して、風移り俗易(か)はる、君已に去るも、而るに土民翕然(きゅうぜん)として、謳唫(おうぎん)すること已まず、辞を合せて予に謁(つ)げ、功徳之碑を以て請と為す、且つ曰く、上野は古へ自(よ)り難治め難しと称し、其の民剽悍(ひょうかん)軽佻(けいちょう)にして、事に臨んでは躁急、老成持久之実し、と。
 
 君初めて至るや、学政を首張して、以て教化の忽にす可からざるを示す。而るに世は方に泰西の学術を模仿し、専ら智育に偏る。加ふるに剽軽の俗を以てす。其の極は竟に虚誕妄進を為し、上を犯し長を凌ぐ風漸(ようや)く長ず、君、之を病み、導びくに以忠厚質実を以てし、痛く其の流弊を矯(た)む。幾ばくも無く、朝議、学制を更革し、徳育を以て最と為し、智育・体育之に次がしむ。略(ほぼ)君の経画する所の如し。衆始めて其の先見に服せり。十二年、学制復た変はり、世、之を自由教育と謂ふも、、君固執して可とせず。既にして地方の教育は果して然り、解体す。君独り其の害を免れ、官も亦卒に旧制に復す。凡そ君の学事に於ける、身を以て率先し、郡吏の庁に詣(いた)る毎に、必ず先づ学事を問ひ、然る後に他に及ぶ。郡吏も亦た至以其の興衰を以て喜戚と為すに至る。
 君又心を農桑に用ゐ、謂富強之術は、国産を殖やすに在りと謂ふ。県尤も養蚕を以て称せらるるも、而るに繭糸の海外に輸出する者は、、悉く手を外人に仮り、自ら往きて市易する能はずして、其の利は多く外人の壟断する所と為る。君、県民の材幹有る者を募り、私財を投じ其の資を助けて海を航り直輸せしめ、群馬繭糸の名、頓に海外に噪(かまびす)し、邦人の直輸は、実に端を此に発せり。
 其の他、社倉を設けて以て蓄積の急務を諭し、医学を奨励して、以て県民の疾病を拯ひ、、古蹟を捜訪して、以て先哲の逸事を彰す。諸もろ此の如きの類は、一にして足らざるなり。曾て邑楽郡の大谷林なる者に過(よ)ぎるに、松樹鬱茂し、連なること数十町に互る。昔時、上杉氏の遺臣、大谷休伯の手づから植えし所なり。君仍ち自ら往きて、其の遠孫某に、於一陋屋の中に見ひ、称ふるに祖先の功労を以てす。旁に観る者、為に泣下る。
 又言はく、君に任に在ること十余年、居常倹素にして、出入するに車馬に駕せず、家は惟だ旧屋を修繕するのみにて、之に居ること晏如たり。
 県民の君を慕ふこと、慈父母の如く、去るに臨み、老幼路を遮りて留まらんことを乞ひ、送る者数千人、惜別の情に勝へず、と。嗚呼、君の如きは真に古の良二千石に愧ぢざる者か。因って頌ふるに辞を以てす。
其の辞に曰はく、詩に甘棠を詠じ、千載芳を流す。
書に風草を掲げ、万古斯れ光く。
民を振はし徳を育くみ、幽れたるを顕し荒れたるを闢く。
彜倫已に明らかに、蔚として校庠を起こす。
男は耕に服し、婦は織に励む。
老は安んじ少は懐き、既に衣あり既に食あり。
義有り方有りて、理平らぎ訟へ息む。
興誦唶唶たるは、噫是れ誰の力か。
遺愛里に在れば、何ぞ生祠を須ゐんや。、
頌美已む無く、茲に隆碑を見る。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹


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『碩学・我妻栄博士』の総理大臣への引退勧告
【2019/01/20 18:43】 エッセイ
これは、ある方のブログを転記したものです。転記した理由は、私自身は記憶は定かではないが、聞いたことがあり、それが忘れられなかったからです。時の総理大臣に対して、学友(同期生)とはいえ勇気ある発言に敬意を表するのみです。
とりわけ、私は上杉鷹山が大好きで、その鷹山が藩主時代に創設した米沢興譲館の生んだ偉人が、我妻栄博士なのである。
この勧告通り、岸信介は引退した。
立派な先生です。
以下、転記であり、私はこのブログに出会えて気持ちが高揚した。

190114我妻栄博士




>我妻は、明治から大正にかけ、一応の形成を見た民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、今日の民法学の基礎を固めたが、『民法講義』は五部まで刊行され、死去の年まで完成を見なかった。他方、そのライフ・ワークとして「資本主義の発展に伴う私法の変遷」というテーマのもとに、『近代法における債権の優越的地位』『経済再建と統制立法』を発表している。

>日米安保条約が批准された昭和35年6月7日、朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という我妻の手記が発表された。かつての学友の岸は、敗戦で戦犯となり巣鴨刑務所に入ったが、その時我妻は、友人として釈放の嘆願書に名前を連ねた。が、安保条約の是非で二人の意見は完全に分かれてしまった。

>「君は定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前君はドイツと組んで、中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもないあやまりだったのです。君はまた同じあやまりを繰り返しているように、私には思われてりつ然とします。今日君に残された道は、ただ一つ、それは政界を退いて、魚釣りの日を送ることです。」

>真の良識と勇気の言言句句である。岸信介は安保条約が成立すると政界を去った。一国の首相も、賢哲の英知の前にはシャッポを脱がざる得なかったのである。

>昭和46年4月には、裁判官の新・再任拒否、修習生の罷免という最高裁がとった一連の処分について、我妻は、「最高裁に望む」という論説を発表し、その血も涙もない形式論理をつき、「最高裁は、せめて再任拒否と不採用の理由を明示すべき」ことを訴えた。

>この岸総理退陣勧告といい、最高裁に対する警告の文面といい、そこには我妻の控え目ながら、学者としての使命感と社会的役割の自覚が躍動している。

安倍首相の一族(岸信介、佐藤栄作)、血縁の安倍一族は、日米安保に関わりが深い。また、強攻策を常套手段とすることにも通じるものがあるようにも思います。2人の元首相(兄弟)は、国会内の強硬手段のみならず、国会外においても“血を見る”蛮勇を奮ったのだった。…旧安保闘争、新安保闘争(大学紛争)時のことです。この辺りの事情は、今は割愛します。ともあれ、先ずは上記記事を御一読ください。

ところで、安倍首相は、一体彼らに何を学んだというのだろうと感じています。皮相なものでなければ、国民個人個人にとって幸いなのですが、どうでしょう。個人を尊重しない政治・政策・制度(政党を含め)など、私は評価に値しないと思っているからです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士

書斎のある家への憧れ
【2019/01/14 15:47】 エッセイ
「書斎のある家への憧れ」

この記事は、平成二十八年十二月十七日号の『週刊現代』の載った記事である。この前月、ダイワハウス主催のフォーラム『転換期のいま、人材教育は吉田松陰に学べ』に出演後に投稿依頼があったのに応じて書いたものである。1頁に、書斎のイラスト入りで掲載された。

私の生家は群馬の赤城山麓で、八人家族の小農家だった。夕食時、病身の父が「丸いちゃぶ台」の定位置に座り、幼い私達に中国の出征談を毎日聞かせてくれた。夕食時が「勉強兼家庭教育の場」でもあった。後に私と娘が「日本史」の教師となったのもこんなところに起因しているかもしれない。なぜか、今もその光景が懐かしく思い出される。私が大学生の頃『若者たち』という映画があった。それを見た時、私の家がモデルだったのではないかと本気で考えた。
 年長の兄姉が、必死に働いて家計を支えていた。だから、兄姉は高校進学が経済的事情で出来なかった。私も十五才の中卒で上京して会社で働きながら夜間高校に通った。
そして、仕事と勉強と貯蓄に励み、自分で学費を全て工面して大学進学をした。必死に家計を支える兄姉に対しては、自然と家庭内では長幼の序が形成されていた。そうした反面、私たちは全員仲睦まじかった。そうした反面、いつもユーモアの交歓があり、貧しいながらも笑いの絶えない家だった。
私にとって、まさしく「憩いと教育の場」であった。兄姉が競って新聞小説の感想談義をしていた。こうした家庭に育った私は、「読書や音楽を楽しめる書斎のある家」に住みたいという強い願いがあった。
この願いは早くに実現し、私は二十代で自宅を購入した。のびのびと子育てすることができたのはこの家のおかげだ。
数年後に娘から「友達を連れて来られる家」が欲しいといわれて、もう一度踏ん張り現在の家を購入した。ここで念願の書斎を持った。自分専用の書斎で、所せましと本が並んでいる。吉田松陰の研究をしていることから「知行合一書を」を書家に注文して書いてもらい、「大学の恩師」の写真とともに額に入れて飾ってある。恩師は『日本の経済学を築いた五十人』に登場する先生である。
人は生涯に三度家を購入すると念願の家に住めるといわれるが、私は二度である。多少の満たされないことはあるが、それはそれでよしとしている。
現在「さいたま市」に住んでいるが、それは実家に帰省するのに便利であること、子供の通学は自宅からと願っていた結果である。この両方ともに条件が満たせて、子供は小学校から大学まで自宅から通えた。新宿まで電車で三十分の距離だが、近隣には生産緑地としての田畑が残り、埼玉県でも指折りの由緒ある公園もあって、四季それぞれの風景が愉しめる「我が家」だ。
夕暮れには「さいたま新都心」の夜景が美しく眺められる。読書後の日課にしている散歩中もそれを楽しめる、とても良い環境の中で、念願の「書斎のある家」での「楽しい我が家」の生活を満喫している。


【山田生に示す】
【2018/12/19 13:33】 エッセイ
山田生に示す  安政五年(一八五八)六月   二十七才

吉田松陰は、後に日本大学を創設することになる山田顕義に立志の詩を書き与えた。扇に書かれたこの立志の詩は、日本大学にとって至宝となるものであるにちがいない。

181219吉田松陰立志の詩






立志尚特異    立志は特異を尚ぶ、

俗流與議難    俗流は與に議し難し。

不顧身后業    身后の業を顧はず、

且偸目前安    且つ目前の安きを偸む。
    
百年一瞬耳    百年は一瞬のみ、

君子勿素餐    君子素餐するなかれ。

【用語解説】
山田生 = 山田市之充。安政五年春十五歳で村塾に入学した。後の伯爵山田顕義。この詩は、安政五年六月、松陰が扇面に書いて与えたもの。
俗流 = 世俗的な安きに流されるような人物との議論は無意味で、慎むべきだ。
身后 = しんご。死後も長く称えられるような功業を真剣に考えなさい。
偸む = ぬすむ。かりそめにしていい加減にする。真面目に努力しないことへの戒め。
君子 = 努力(修業)して徳を積んだ人物。
素餐 = 功労がなくて徒に禄を食むこと。出典は詩経の魏風。

【意訳】
立志というものは、他人と同じものではなく、自分独自のものを立てるものである。努力
せずに、平々凡々と徒な時間を過ごしている人物を見習っている様ではいけない。後世に
称えられるよう立派に修業する人生を考えて歩みなさい。日々是精進せよ、百年などは瞬
く間に過ぎてしまう。修業を積んで人として立派な道を歩みなさい。


【吉田松陰の死罪察知】
【2018/11/21 10:27】 エッセイ
『尾寺新之丞あて』書簡   安政六年十月十七日   松陰在江戸獄 尾寺在江戸

この書簡は、評定所からの四度目の呼出しの翌日に書かれたもので、松陰は前日の評定所で「口上書書判」を奉行より求められた。既にこの日の十日前に頼三樹三郎、橋本左内が死罪になっている。松陰は、二度目、三度目の取り調べが穏やかであったので、判決を楽観視していた。重くて遠島か他家預け、軽ければ国元蟄居だろうと考えて、門下生に書簡を出していた。ところが、今回は一転して厳しい雰囲気で、口上書に書判せよと迫られる。自白した内容と異なっており、論争になったが、適当に修正したのみで肝心の部分は書き改められていない。一説には老中の判断は遠島であったが、井伊直弼が朱筆で死罪と書き改めたとも言われている。その結果、松陰は「安政の大獄」の最後の犠牲者となるのであるが、この書簡は松陰が死罪を察知した書簡内容として重要なものである。松陰は愛弟子として将来を期待していた高杉晋作が、藩の命令で急遽帰国させられたことを知らない。二度目の小伝馬牢入り(安政六年七月九日)してからは、高杉晋作が何くれと無く松陰のために尽くしてきたのだが、この書翰の一週間前に高杉が帰国。実は、高杉の親が松陰との接触を嫌って、藩政府(江戸藩邸の官吏)に働きかけ、たのである。実は、この一年あまり前に、高杉が江戸遊学を果たしたのも、松下村塾に通う晋作を松陰との接触を断たせるために江戸修業の名目で引き離したのである。このことを松陰はしらない。そのため、高杉がいなくなったので、尾寺新之丞宛てに書いたのが真相である。松陰が二度目の野山獄にあったとき、幕府は江戸召喚を桜田の江戸藩邸に命じた。これを持参して、萩に帰国したのが直目付の長井雅楽であった。そして二週間後の安政六年五月二十五日の出発前に書いた【自賛想像画】の賛に記している。【人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず】と、則ち危険人物しされていたことから高杉が松陰と懇意にしていることを親は快く思っていなかった。こうした事情があって、尾寺に宛てて書かれたのであった。しかも、その内容は、評定所の五手掛の判決を、時の最高権力者が遠島から一等すすめて【死罪】にしたのが真相であり、越前の橋本左内は、一橋慶喜の14代将軍就任に松平慶永の命令に従ったことが、反幕府的行為とされたのであった。安政の大獄はこうして、井伊直弼の専横がもたらした悲劇であり、その根は徳川斉昭と井伊直弼との対立関係が背後にあったのである。そうして、反幕府思想、尊攘派を一網打尽に処した。松陰は、この背景を知らずにいた。以下、全集より転記して見る。

180404箱崎公園の吉田松陰像181121江戸伝馬町牢御豚場跡181121吉田松陰終焉の地碑




一翰呈上仕り候。私儀昨日呼出しにて口上書書判仕り候。然る處存外の儀ども之れあり、今更當惑は仕らず候へども、屹と覺悟仕り候。最前七月九日入牢の説申し立て候内、間部侯在京の節同志連判罷り登り旨趣申立て度き段取工(たくら)み候へども、事未だ遂げずして國元にて入牢仰せ付けられたる段申立て候處、三奉行席を改め、多人數連判せしは御取用ひ之れなく候へば刃傷にも及ぶべき存念なるべし。軽からざる御役人へ對し大膽至極なり、覺悟しろ、吟味中揚屋入り申付くるとの事なり。此の時は小生も勿論覺悟致したり。其の後九月五日呼出し色々御吟味之れある内、先日必死の覺悟にて上京仕るべ段相計り候が、必死と云ふ所今一應詳かに申出づべしとのことに付き、七月九日に刃傷にも及ぶべき存念なるべし仰せ懸けられ候に付き、その段申し開くべき儀に候へども、揚屋入り仰せ付けらるとて御引落しに相成り候儀に付き、又重ねての御吟味の節と思ひ延し罷り下り候。全體必死と覺悟仕り候故は、蟄居の身分にて是れ等の儀取計ひ候上は勿論事敗露する時は一死國に報ずる外之れなくと申す譯にて、人情に及ぶと申す儀には全く之れなき趣申立て聞取りに相成り候。其の後昨十六日口上書讀聞せを承り候へば、下総殿へ趣旨申立て御取り用ひこれなき節は刺違へ申すべく、警衛人數相支へ候はば切拂ひ候て御輿へ近づき申すべく云々の趣。之れに因り小生云はく、刺違へるは思ひも寄らず、切拂ひと申す事も志に之れなき事、口に云はざる事と大いに辯争致し候所、然れば下れ、後に又申し聞けることありとのことなり。左候て総人數、口書相濟み候後又々呼出しに相成り又讀聞かせの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。僕又大いに辯争致し候所、遂に口上の事はどちらへ違うても罪科の軽重に預る事に非ざれば、迚もの事に其の方の申分通りに致し遣はすべし、併し他の文言に存念なきかとて、末文の所兩度御讀聞せ之れあり候故、志になきことは口に發せぬ事は何分にも一字も受け難く、仰せ懸けられ候儀何ぞ敢て拒まんと申し、書判致し候。末文の處「公儀に對し不敬の至り」と申す文あり、「御吟味を受け誤り入り奉り候」と申す文あり。迚も生路はなきことと覺悟致し候。右初日七月九日と昨日と三奉行出座なり。九月五日と十月五日とは吟味役出座なり。吟味役寛容の調べは全く無用に僕をだました計りにて、石谷・池田其の外最初見込みを付けた所は首を取る積に相違なく、刺違と切拂との四字を骨を折って抜き候へども、末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。不敬の二字餘り承り馴れざる文なれども、不届など云うよりは餘程手重き事に考へれれ候。鵜飼や頼・橋本なんどの名士と同じく死罪なれば、小生においては本望なり。昨日辯争に付いては隨分不服の語も多けれども、是れを一々云ふも面白からず、只だ天下後世の賢者吾が志を知って呉れよかし。
右の趣一寸御報知申上げ候。この書は御一見御返し頼み奉り候。下に委細申上げ候。以上。
     十月十七日                         寅二拝

昨日金六方まで御出で下され候趣、尾君か、高君か。金六より詳に承るに暇なし。然る處今日又々御出下され候由に付き此の書を認め候。○高君十五日定めて御出足とは存じ候。是れ亦御知らせ下さるべく候。○高君御出立後なれば小林の書は此の方へ御返し候とも宜敷く候。○小生昨日口上書書判仕り候。委細の儀は申上げ兼ね候へども存外の儀之れあり、迚も軽典には参らざるに付き屹と心中に覺悟の處後日申上げ候様仕るべく候。いづれ十日を出ず落着と存じ候。○五日程同居致し候(阿部十郎家来なり、神田橋外なり。勝野保三郎昨日申口相立ち出牢相成り候。此の人勝野豊作の弟にて行年二十二、才氣ありて純粋なる男子後来頼母敷く、去年以來在獄にて、僕投獄已來時々音信致し候へども未だ心事を盡さず候處、四五日同居、大いに學事を論じ懸け候所出牢残念なり。此の人の事御物色下さるべく候。○別紙の趣、飯田兄へ一と周旋御願仕り候。出來難く候へば強ひて願ふにも非ざれども、何卒かく致し度くと申す事に御座候なり。
      十月十七日                      松陰拝
  尾新兄  足下  


【大義を議す】 ー松陰の討幕文稿ー
【2018/10/22 13:45】 エッセイ
大義を議す
    (戊午幽室文稿)安政五(1858)年七月十三日

まず、原文を記す前に、私の解説的なことを少し書きます。この年、幕府は天皇の合意無きまま「日米修好通商条約」に調印。大老「井伊直弼」は就任時に二つの大きな解決すべき問題を抱えていた。一つは、将軍家定の後継をめぐって一橋慶喜か紀伊の徳川慶福(後の家茂)の決定を迫られていた。もう一つは、この日米通商条約の勅許問題である。結果として、将軍継嗣問題は紀伊の慶福と決定した。朝廷工作に当たっていた一橋派の英邁な将軍の実現をという願いは、井伊を始めとする「溜間詰」派の推す慶福の世子実現で決着。条約締結は、ハリスに押されまくった交渉で追い込まれた、やむを得ない措置として調印。しかも無断勅許である。これに怒った松陰は掲題の小論を書いた。此の書は『討幕』なる語が初めて出る論文で、松陰がラジカルな方向へ急旋回する重要なものである。文中『征夷は天下の賊なり・・・勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』という激しい語が並ぶ。松下村塾も「政治結社」化していく。以後、松陰は政治的決起のプランを矢継ぎ早に打ち出すことになる。尊王開国からペリーの砲艦外交に屈した時、攘夷へと変容、さらに無断調印で遂に松陰は「尊王討幕」へと変わる。安政五年という年は、幕末前半期では一つの大きな節目となった。

では本文に移ろう。

墨夷の謀は神州の患たること必せり。墨使の辞は神州の辱たること決せり。ここを以て天使震怒し、勅を下して墨使を絶ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(しゅくしゅく)として遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず、傲然(ごうぜん)自得、以て墨夷に諂事(てんじ)して、天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず。是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(ちゅうりく)して、然る後可なり、少しも宥すべからざるなり。
近世功利の説、天下に満ち、世を惑わし民を誣(し)ひ、仁義を充塞す。或は大節に遭ふも、左右の狐鼠、建明する所ある能はず。違勅の國賊を視るに、猶ほ強弱勝負を以て説を立て、断然其の罪を鳴らして之れを討つこと能はず。甚だ悲しむべからずや。試みに洞春公をして今日に生まれしめば、其れ之れを何とか謂はん。夫の陶賊は特(た)だ其の主に叛けるのみ。洞春公ほ且つ聴かず。今征夷は國患を養ひ、國辱を貽(のこ)し、而して天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。然らば則ち陶なる者は一國の賊なり、征夷は天下の賊なり。今措きて討つたざれば、天下の万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に享けんや。
井伊直弼24.3.25ハリス170331正装の吉田松陰


義を正し道を明かにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教へたる所以なり。勅を奉ずるは道なり。逆を討つは義なり。公侯夫士、生まれて此の時に際ひ、苟も道義に違ふことあらば、猶ほ何の顔面ありた聖賢の書に対せんや。士大夫の志たる、死生甚だ小にして、道義甚だ大なり。道に違ひ義に戻り、徒爾に生を偸む、何の羞恥かこれに加えん。乃ち國家と雖も亦然り。不道不義、以て一日の存安を謀るは、君臣以下、義に仗(よ)り道に徇(したが)ひ、以て始終を全うすると孰れぞや。
然りと雖も、英雄の事を謀るや、未だ必ずしも利害を計較(けいこう)せずんばあらず。事義にして利に合はざるときは、固より将に之れを為さんとす。況んや事已に義にして、又利に合ふ、何を憚ってか為さざる。当今幕府の謀、蓋し諸侯を疑ふこと墨夷に過ぐ、而して墨夷を畏るること諸侯より甚だし。謂へらく、諸侯を役して墨夷をうつも、墨夷未だ滅すべからず、而して諸侯去らん。墨夷を仮りて諸侯を制せば、諸侯制し易し。而して墨夷夷未だ必ずしも叛くかずと。是れ征夷の謬計なり。今諸侯は坐して征夷の為すに聴(まか)せ、而して少の異忤をも為さず、其の禍の底止する所、其れ寒心すべきのみ。今日吾が藩断然として大義を天下に唱え、億兆の公憤に仗らば、征夷もとより内に孤立し、而して墨夷も亦外に屈退し、皇朝の興隆、指を屈して待つべきなり。然れども其の初めに当たること、蓋し戞々乎(かつかつこ)として難きかな。而して一、二難の後は、復た甚だ難からざるなり。吾れ切に恐る、当路の君子、一、二難の忍ぶ能はずして、大義を亡失し、征夷と其の亡を同じうせんことを。故に今日の務めは大義を明らかにするに在り。
大義已に明かなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当に再四忠告して、勉めて勅に遵はんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまはず、征夷翻然として悔悟せば、決して前罪を追咎(ついきゅう)したまはざるなり。是れ吾れの天朝・幕府の間に立ちて、之れが調停を為し、天朝をして寛洪に、而してばくをして恭順に、邦内をして協和に、而して四夷をして懾伏(しょうふく)せしむる所以の大旨なり。然れども天下の勢い、万調停すべからざるものあり、然る後之れを断ずるに大義を以てせば、斯(すなわ)ち可なり。
当今吾が藩は君臣明良にして、大義赫々、復た是れ等の議を煩はさざるなり。然れども寅の身幽囚に在りて、廟議を聞くことを得ず、ここを以て丁寧此に至る。伏して惟ふ採察せられんことを。  七月十三日
吾れの國家に建白するや、極めて機密なりと雖も、極めて急遽なりと雖も、未だ嘗て稿を存せずんばあらず。謂へらく、機密の策、急遽の事、成らば則ち功あり、敗れば則ち罪あり。万一為すべからざれば、則ち請ふ此の巻を携へ、身を以て罪に当たらんことを。幸にして事ここにいたらざるも、亦以て後人の稽考に資するに足ると。是れ稿を存するの本意なり。而るに口羽徳祐以て然りと為さず。其の意を察するに、文を以て之れを視、余を咎むるに國事を以て文料と為すものの如し。嗚呼、人の心は面の如し、誰れか其れ之れを同じうせん。偶々宋記を讀む、鄒浩、立后の事を諌め、随って其の稿を削る。陳瓘曰く、「禍は其れ茲に在るか。異時奸人妄りに一稿を出さば、弁ずべからざらん」と。後、蔡京果して偽疏を為(つく)り以て之れを出すと。嗚呼、士君子は禍福徳喪、何ぞ其れ計較する所ならんや。然れども稿を削りて陰禍を得るは、何ぞ稿を存して顕罰を蒙るの俯仰(ふぎょう)に愧なきに如かんや。此の稿数十篇、吾れ重辟(じゅうへき)を得ると雖も、誓ってその隻字をも削らざるなり。己未三月三日、これを余白に書す。


早稲田と慶應の創始者の仲
【2018/09/24 10:22】 エッセイ
【福澤諭吉と大隈重信】

『福澤諭吉』
一八三四―一九○一 明治時代の啓蒙思想家、慶應義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福澤百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内(大阪市福島区福島一丁目)で生まれた。諭吉の名は、十三石二人扶持の軽格ながら学問好きの百助が、長年望んでいた唐本の『上諭条例』を、当日入手したのに因む。生涯ほぼこの幼名で通す。七年六月、志を延べ得ないまま百助は脳出血症で死去。一家は藩地中津へ帰り、兄三之助が家督を相続し、諭吉は、叔父中村術平の養子となって中村姓を名乗った(ただし福澤家で生活)。

一家は中津での生活になじめず、彼は、下級武士・母子家庭の子としての無念を味わった。前半生を活写した『福澤自伝』における「封建門閥は親の仇」の語は、この体験に由来する。十四、五歳で漢学を習い始めて、おもに白石常人に師事し、上達すこぶる速かった。嘉永六年(一八五三)のペリーの来航は、福澤に中津を離れる機会をもたらした。安政元年(一八五四)、蘭学修行のため長崎に出、翌年、大坂の緒方洪庵の適々塾に入り、やがて塾長となった。
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五年、藩命によって江戸へ赴き、十月中旬、築地鉄砲洲中津藩中屋敷(東京都中央区明石町十番一号)内の長屋に蘭学塾を開いた。慶應義塾の起源である。この間、三年兄の死去により復籍し、福澤の家督を継いだ。六年、横浜を見物し、蘭学が役に立たぬことを知り、英学の独習を始めた。万延元年(一八六〇)、幕府の遣米使節派遣に際し、希望して、軍艦奉行木村喜毅の従僕との名目で、正―五月、咸臨丸に乗って渡米、ウェブスター辞書を購求し、日本人としてはじめて持ち帰った。八月、最初の出版物『(増訂)華英通語』を刊行、またこの年、幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳に携わるとともに、塾の教育を英学に切り換えた。翌文久元年(一八六一)、二十八歳で、中津藩士江戸定府土岐太郎八の次女錦(十七歳)と結婚、芝新銭座に移転した。夫妻はのち四男五女を得る。
この年十二月から一年間、幕府の遣欧使節に随員として参加し、仏英蘭独露葡などを歴訪、国情視察と原書購入に努めた。その際の記録として、『西航記』『西航手帳』がある。三年、中津藩中屋敷内に移転、この頃暗殺の危機を感じ、夜間の外出を慎む。元治元年(一八六四)、召出されて幕臣となり、外国奉行翻訳方を命じられた(百俵高、勤役中五十俵増高)。慶応二年(一八六六)秋、大小二本を残して刀剣を売り払い、翌年正―六月、幕府の軍艦受取委員の一行に加わって渡米、ウェーランドの経済書をはじめ原書多数を購求した。三度目の洋行であったが、旅行中上司に楯ついたかどで、帰国後一時謹慎を命じられた。

幕臣として彼は「大君のモナルキ」を主張した。生涯を通じて多産な著作活動は、慶応年間に始まった。『西洋事情』がこの時期の代表作で、初編=明治元年(一八六八)、二編=三年と刊行され、偽版も含め二十万ないし二十五万部売れて、西洋の制度と理念の紹介者としての彼の名を高くした。その前後、『電銃操法(慶応二―明治三年)』、『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(以上慶応三年)、『訓蒙窮理図解』『兵士懐中便覧』(以上明治元年)、『洋式明艦』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』(以上同二年)がある。その間、慶応三年十二月、王政復古があり、新政府から出仕を求められたが辞退し、以後生涯官職に就かず、位階勲等を受けなかった。

逆に明治元年、帯刀をやめ平民となって、塾に力を注ぐことを決意し、芝新銭座に再移転して慶應義塾と命名し、彰義隊の戦の際も講義を休まず、四年さらに三田に移転した。また二年、福澤屋諭吉の名で出版業に着手した。つづく数年間にわたる文明開化期、啓蒙思想の鼓吹に全力を尽くした。「天は人の上に人を造らず」に始まる『学問のすゝめ』(明治五―九年)、文明進歩の理法を得『文明論之概略』(八年)をはじめ、『啓蒙手習之文』(四年)、『童蒙教草』『かたわ娘』(以上五年)、『改暦弁』『二本地図草紙』『文字之教』『会議弁』(以上六年)」、『帳合之法』(六―七年)、『学者安心論』(九年)を相ついで刊行し、「一身独立して一国独立」の主張、封建道徳の痛罵、「実学」の提唱など、徒意識の変革を説き、人心を「文明」に導こうとした。

その思想は、バックル・ギゾー・トックビィル・スペンサーの影響を受けている。また明治六年、明六社に参加(『明六雑誌』にも執筆)、七年『民間雑誌』を創刊、三田演説会を開き(翌年、三田演説館を開館)、九年、『家庭叢談』を創刊した。活動の最盛期にあたり、『学問のすゝめ』は偽版を含めて三百万部売れたといわれ、守旧派に物議をかもす反面、当時の思想家中随一の人気を得た。その一方、十年の西南戦争には、『丁丑公論』を著わして西郷隆盛を悼み、つづく自由民権運動には『国会論』(十二年)で国会の即時開設による人心の呼吸を説き、また神奈川県下九郡人民の「国会開設の儀に付建言」を代筆した。その前後の著作として、『分権論』(十年)、『民間経済録』(十―十三年)、『通貨論』『通俗民権論』(以上十一年)、『福澤文集』『通俗国権論』(以上十一―十二年)、『民情一新』(十二年)がある。

さらに十一年、東京府会議員(翌年辞任)、十二年、東京学士院の初代会長(十四年辞任)を勤め、十三年、社交倶楽部としての交詢社を結成した。しかし民権運動の高揚とともに警戒心を強め、十四年、『時事小言』を著わして「内安外競」を説くに至った。政府首脳も、彼に託して機関紙発行を企てる。その企図は十四年政変で破れたが、翌十五年、彼は「不偏不党」「官民調和」を掲げる日刊紙『時事新報』を創刊、連日のように社説・漫言などを執筆した。以後彼の文章はまず同紙に掲載され、その一部が単行本となる。こうして刊行された書物には『時事大勢論』『帝室論』『兵論』『徳育如何』(以上十五年)、『学問之独立』(十六年)、『全国徴兵論』『通俗外交論』(以上十七年)、『日本婦人論』後編(本編は刊行されず)、『士人処世論』『品行論』(以上十八年)、『男女交際論』(十九年)『日本男子論』『尊王論』(以上二十一年)、『国会の前途 国会難局の由来 治安小言 地租論』(二十五年)、『実業論』(二十六年)があり、日清戦争に及んだ。その関心は多方面にわたるが、皇室を「政治社外」に置こうとする皇室論、家族の基本を夫婦として男女の同権を説く女性論などに、とりわけ特徴があり、また「尚商立国」をめざした。

アジア政略もしきりに唱え、一時、金玉均ら朝鮮開化派を援助したものの、議論の基軸は『脱亜論』(十八年)にあった。それだけに明治二十七、八年の日清戦争を「文明明暗の戦」と熱烈に支持し、戦後は労働問題・移民問題および植民地となった台湾経営問題などに、資本の立場から関心を示す一方、仏教的な人生観にも傾いた。この時期の『福翁百話』(三十年)、『福澤先生浮世談』(三十一年)、『修身要領』(三十二年)、『福翁百余話』(三十四年)は、老境の処世訓であり、『女大学』を批判した。『女大学評論 新女大学』(三十二年)もある。また三十年、著述生活を振り返った『福澤諭吉全集緒言』を手始めに、三十一年、『福澤全集』全五巻、三十二年、『福翁自伝』を世に送った。

三十一年秋、脳溢血を発し、一旦回復したものの、三十四年一月再発、二月三日、六十八歳で死去した。衆議院は哀悼を決議した。八日、東京市外白金大崎村(東京都品川区上大崎)の浄土宗浄光寺に葬られたが、昭和五十二年(一九七七)港区元麻布の善福寺に改葬された。法名大観院独立自尊居士。妻錦は大正十三年(一九二四)死去した。門人たちが師の晩年、その思想の精髄として探りあてた「独立自尊」の四文字は、福澤の代名詞のように人口に膾炙した反面、門下から実業家が多く出た。慶應義塾編『福澤諭吉全集』全二十一巻(昭和三十三―三十九年)別巻一巻(同四十六年)がある。

【参考文献】
『慶應義塾百年史』、丸山信編『福澤諭吉とその門下書誌』、
占部百太郎編『福澤先生哀悼録』(慶應義塾学報三九(臨時増刊)、石川幹明『福澤諭吉伝』、羽仁五郎『白石・諭吉』(『大教育家文庫)七』、
家永三郎『近代精神とその限界』(『角川新書』八)、
小泉信三『福澤諭吉(『岩波新書』)青五九〇』、
遠山茂樹『福澤諭吉―思想と政治との関連―』(『UP選書五八』)、ひろたまさき『福澤諭吉』、安川寿之助『増補版二本近代教育の思想構造』、鹿野政直『福澤諭吉』(『人と思想』二一)、丸山真男『「文明論の概略を読む」(岩波新書)黄三二五―三二七』、
同『福澤における「実学」の転回(『東洋文化研究』三)、冨田正文『考証福澤諭吉』

鹿野政直著:国史大辞典より転載

 
『大隈重信』
一八三八―一九二二 明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路の、父信保、母三位子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家として仕え、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された上士であった。だが、大隈は十三歳で父を失い、それ以後はもっぱら母に育てられた。
七歳で藩校弘道館は外生寮(蒙養舎)に入学、十六歳で内生寮に進級したが、葉隠主義と朱子学を主とする藩校の制度に反発し、安政元年(一八五四)義祭同盟に加わり、翌年弘道館の南北寮騒動の首謀者として放校され蘭学寮に移った。のち、蘭学寮が弘道館と合併されてその教官となった。

180408大隈重信180408早稲田大学

文久三年(一八六三)長州藩の下関外国船砲撃にあたり長州藩援助を計画、また元治元年(一八六四)の長州征伐に際しては、藩主鍋島直正を動かして長幕間に斡旋し、それを中止させようとしたが果たせなかった。このころ、長崎でオランダ系米人宣教師フルベッキについて英語を学び、慶応元年(一八六五)五月長崎に英学塾「致遠館」を設立し、みずからその経営に当たった。こうして大隈は幕末動乱に京都・兵庫・長崎などに赴いて尊王激派として活躍し、同三年三月には将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上京したが、間もなく藩役人に捕えられて佐賀に送還、一ヶ月の謹慎処分をうけた。

明治元年(一八六八)三月徴士参与職、外国事務局判事として横浜在勤を命ぜられ、キリスト教徒処分問題でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたり、十二月外国官副知事に昇進、翌年三月会計官副知事を兼務し贋金問題の処理にあたった。ついで大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力し、同三年九月参議に任ぜられ、六年五月大蔵省事務総裁ついで大蔵卿となり十一年五月地租改正事務局総裁を兼任、十三年二月参議専任となった。この間征韓論に反対し、七年の台湾出兵で蕃地事務局長官、十年の西南戦争では征討費総理事務局長官となり、大久保政権の一翼として財政問題を担当、秩禄処分・地租改正など改革の推進者となり、また殖産興業政策を進め、いわゆる大隈財政を展開して近代産業の発展に貢献した。特にこのとき岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、後年までの三菱との密接な関係をつくったことは有名である。

十四年三月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張、また開拓使官有物払下げに反対、さらに財政上の不手際も加わって薩長勢力と衝突し、十月参議を免ぜられ、大隈派とみられた多数の官吏も辞職した。(明治十四年の政変)。
政変後大隈は、小野梓・矢野文男ら辞職官吏と政党組織をすすめ、翌年四月立憲改進党を結成して総理となり、十月に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。二十年五月伯爵を授けられ、二十一年二月伊藤内閣の外務大臣となり、ついで、黒田内閣で条約改正交渉にあたったが、外人裁判官認容問題で激しい反対に遭い、二十二年玄洋社写真来島恒喜に爆弾を投げつけられ負傷して辞職した。そののち枢密顧問官となったが、二十四年十一月自由党総理板垣退助と提携したため免官された。

二十九年三月改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成し党首となり、間もなく薩派と提携して松方内閣の外務大臣となり(松隈内閣)、翌三年三月農商務大臣を兼任したが、薩派と合わず十一月に辞職した。
三十一年六月、多年の宿敵板垣とともに自由・進歩両党を合同させて憲政党を組織、ついでわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが、両党派の対立と閣内統一に苦しみ、わずか四ヶ月にして憲政党は憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)に分裂し、隈板内閣も総辞職した。

そののち大隈は憲政本党の総理としてなお政党を率いたが、四十年一月に高齢のゆえをもっていったん政界から引退し、四月に早稲田大学総長に就任した。このあとしばらくの間「文明協会」を設立し、「新日本」「大観」などの雑誌を発行し、また多数の著書を著わし各地で後援会・演説会を開いて国民文化の向上に努めた。
ついで大正初年の第一次護憲運動が起ると再び政界にもどり、立憲同志会の援助のもとに大正三年(一九一四)第二次大隈内閣を組織し、内務大臣を兼任、第一次世界大戦に参戦し、また翌四年には対華二十一固条要求を提出し、陸海軍軍備の拡大につとめた。同年八月内閣を改造し、外務大臣を兼務し翌年七月侯爵に叙せられたが、十月総辞職し、完全に政界から離れた。

大隈はきわめて磊落かつ楽天家であり、そのため「民衆政治家」と呼ばれて人々に親しまれたが、他方「早稲田の大風呂敷」などと悪口もされた。大正十一年一月胆石症のため早稲田の自宅で死去した。八十五歳。
十七日に日比谷公園で国民葬が催され、音羽(文京区大塚)の護国寺に葬られた。著書に『開国五十年始史』『大勢を達観せよ』『国民読本』『東西文明の調和』『大隈伯昔日譚』などがある。

【参考文献】:早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』、
大隈候八十五年史編纂会編『大隈候八十五年史』、渡辺幾治郎『大隈重信』、同『文書より見たる大隈候』、中村尚美『大隈重信』(人物叢書七六)柳田泉『明治文明史における大隈重信』 中村尚美著:国史大辞典より転載


『緒方洪庵の家系』
【2018/08/25 22:38】 エッセイ
『緒方洪庵とその家系』

江戸時代後期は、蘭学の揺籃期でもある。
オランダは、江戸期を通じて唯一「長崎港」に入港出来る西洋の国家であった。
この体制が完成したのが1639年であるから、およそ200年間にわたって、この国家政策は維持された。この体制を【鎖国体制】と呼称する。
しかし、この用語は実態と異なるとの見解で【管理貿易体制】という表現に変わるようである。

江戸期は、長崎を通じた貿易と云っても、実際に利益は幕府の独占であったから、幕府という『私』の貿易システムであって、全国の諸大名はこうした利益に与れない。
つまり、私政治であった。徳川はこうした特殊なシステムを構築して、海外取引(オランダ東インド会社・ジャカルタ)を行っていた。
しかし、オランダの西欧における地位の低下と、イギリス・フランスの台頭によって西欧社会における勢力図は18世紀末には大きく変化していた。オランダの没落はフランス革命の進行と軌を一にしている。
しかし、オランダの西欧における地位の低下は、徳川政権の長崎港管理体制においては依然として継続された。
こうした事情はありながらも、西欧文明やそれに伴う世界情勢とその情報は、オランダ以外からは正式な情報として日本には入ってこなかった。
徳川政権は、『オランダ風説書』という、ささやかな情報以外のものを政策的には享受できなかった。
それゆえ、18世紀中葉から日本に対する通商要求が始まっていながら、その背後にある西欧事情が把握出来ていなかった。
したがって、オランダを通じた情報から政策判断するしかなかった。
そうして、『洋学』といわれる西欧文化の一部分を吸収するには『蘭学』と言われる学問を通じて、イギリス、ドイツの医学をオランダ語に翻訳して吸収したのであった。
緒方洪庵が、備前国の出身ながら蘭学を学ぶには江戸や大坂、長崎で修業しなければならなかった。
洪庵は、最初に大坂の蘭学者の門をたたき、ついで江戸に学び、さらに長崎に学んだ。
その修業の成果として大坂に『適塾』を開業して、蘭学者、医学者(漢方医学でなく)、そして教育者として日本の近代化に貢献した。
とりわけ、医学の分野においてその成果は著しく、緒方の適塾で学んだ多くの優秀な門下生を通して日本に根付いたのである。
今日、東京大学医学部は日本人の最も憧れる学びの場となっているが、こうした背景の土壌には緒方洪庵とその子孫も、大きく貢献しているのである。


【緒方洪庵】おがたこうあん 一八一○~一八六三

180822緒方洪庵夫妻180730緒方富雄180709適塾塾舎180822緒方八重

江戸時代後期の蘭学者、医学者、教育者。諱は章、字は公裁、洪庵・適々斎君・華陰などと号した。はじめ三平と称したが、のち洪庵と改めた。文化八年(一八一〇)七月十四日、備中国賀陽郡足守(岡山市足守)で父佐伯惟因、母キャウの三男として生まれた。
はじめ田上騂(せい)之助といい、文政八年(一八二五)二月十六才で元服したとき惟彰と名乗った、この年大坂に足守藩の蔵屋敷が出来、留守居役になった父と大坂に修行に出た。あくる九年七月、蘭学医中環天游の門に入り、この時緒方三平とあらためた。天保元年(一八三○)四月二十一歳の時、師のすすめで、江戸で修行するため大坂を離れた。しばらく木更津にいて、あくる二年二月、二十二歳で江戸の蘭学医坪井信道の塾に入った。それから四年間に多くの翻訳を完成した。ことに『人身窮理学小解』(写本)は有名である。かたわら、師のすすめにより、宇田川玄真の門に出入りし、深くその学才を認められた。同六年二月信道塾を去り、あくる年二月大坂をたって長崎へ修行に行った。この時から緒方洪庵と改めた。二十七歳。長崎で青木周弼・伊東南洋(岡海蔵)の三人で、『袖珍内外方叢』を訳して、たいそう歓迎された。九年正月長崎を発ち、三月足守から大坂に出て、瓦町に蘭学塾「適々斎身塾(略して適塾)を開き、偉業のかたわら蘭学を教えた。七月億川百記の女八重と結婚した。塾はたいそう盛んになり、同十四年十二月に船場過書(かいしょ)町に移ってからは大いに発展し、全国から青年があつまり、その数は三千を超えたといわれる。なかに、明治二なってから重要な役割を果たした人が沢山いる。入門順に挙げると、大戸郁蔵(緒方郁蔵)・村上代三郎・村田蔵六(大村益次郎)・武田斐三郎・佐野栄寿(常民)・菊地秋坪(箕作秋坪)・橋本左内・大鳥圭介・長与専斎・福澤諭吉・花房義質・高松凌雲・安立寛・池田謙斎などである。洪庵は塾の経営のかたわら、嘉永二年(一八四九)からは牛天然痘の普及に尽くし、安政五年(一八五八)のコレラ大流行には『虎狼痢治凖』を刊行して治療に精魂をつくした。またこの頃『扶氏経験遺訓』(全三十巻、ドイツの学位フーフェランドの内科書の翻訳)の刊行を完成し、日本の内科医に大いに益した。また『病学通論』(三巻、嘉永二年)の刊行は、病気の考え方に役立った。文久二年(1862)八月江戸に召されて、奥医師と西洋医学所頭取を兼ね、同十二月法眼に叙せられたが、あくる年六月十日突然の大喀血で急死した。五十四歳。駒込高林寺に葬る。遺髪は大坂天満竜海寺。家業は子平三(のち惟凖)が継いだ。明治四十二年(一九○九)従四位贈位。適々齋塾の建物は現存し、国の史跡に指定されている。

【参考文献】緒方富雄「緒方洪庵伝」、同「緒方洪庵適々齋塾姓名録」、同「蘭学のこころ」
(緒方富雄)

【緒方惟凖】おがたこれよし  一八四三―一九○九

明治時代の医師。天保十四年(一八四三)八月一日、父緒方洪庵と母億川氏八重の二男として大坂船場過書町に生まれた。幼名平三、通称洪哉、名は凖、字子縄、蘭洲と号した。加賀大聖寺で渡辺卯三郎に二年間漢籍と和漢文典を学び、さらに越前大野で洋学館の伊藤慎蔵に蘭書と洋式操練を学んだ。安政五年(一八五八)長崎に行き、ポンペ・ボードウィン・マンスフェルト・ハタマラらに学び、文久二年(一八六二)医学伝習御用に任ぜられた。翌三年洪庵の死去により江戸に帰り、西洋医学所教授となる。元治元年(一八六四)再び長崎に行き、慶応元年(一八六五)にオランダに留学した。明治元年(一八六八)帰朝し、典薬寮医師となり、医学所取締に任ぜられた。翌年医学所を辞し、大坂表病院御用となり、同三年軍事病院兼務となり、以後同二十年の退職まで軍事畑に活躍。その後は野にあって緒方病院院長などに従事。同四十二年七月二十一日死去。六十七歳。墓は大阪市北区東寺町の天滿竜海寺にある。

【参考文献】ドーデ編『緒方惟凖小伝』、幹澄「緒方惟凖先生一夕話」(『医事会報』四七―五四)大塚恭男

【緒方知三郞】おがたともさぶろう 一八八三―一九七三

大正・昭和時代の病理学者。明治十六年(一八八三)一月三十一日、東京神田猿楽町に、父緒方惟凖、母三沢氏吉重の三男として生まる。同四十一年東京帝国大学医科大学を卒業し、病理学教室助手となった。四十三年ドイツに留学し、大正二年(一九一三)帰国した。翌三年東京帝国大学医科大学助教授となり、病理学講座を担任し、同十二年には、同じく教授に昇進した。ビタミンB1欠乏症、唾液腺ホルモン、カシン=ベック病などに多くの業績をあげ、実弟章(東大薬学科教授)と協力して唾液腺ホルモンを分離し、パチロンと命名し、これにより昭和十九年(一九四四)学士院恩賜賞を得た。同十八年東大を定年退職後、日本医科大学・東京医科大学などでひき続き教育・研究に従事し、二十九年社団法人老人病研究所設立とともに所長となる。四十三年同研究所が日本医科大学に移管された後も所長を勤めた。三十二年に文化勲章を受章。四十八年八月二十五日没。九十歳。著書に『病理学総論』『病理学入門』『いつまでも若く』『老年病理学総論概説』などがある。

【参考文献】日本経済新聞社『私の履歴書』四一、緒方知三郞『一筋の道』(大塚恭男)



【緒方富雄】 おがたとみお  一九○一 ― 一九八九

昭和時代の医学者。明治三十四年(一九○一)十一月三日、大阪市東区北新町に生まれる。父は蘭学者緒方洪庵の孫にあたる緒方銈次郎、母は友香(三浦氏)。大正十五年(一九二六)東京帝国大学医学部卒業。病理学教室、法医学教室を経て、血清学を専攻。昭和九年(一九三四)アメリカに留学し、シカゴ大学、ニューヨーク市マウントサイナイ病院で血清学を研究、翌年帰国。昭和十一年助教授、同二十四年教授(血清学)となり、同三十一年退官。この間、東京大学医学図書館長を勤める。日本血清学会、蘭学資料研究会、日本輸血学会、緒方医学化学研究所、日本臨床病理同学院、日本ヒポクラテスの会などの創設運営にあたる。『医学と生物学』の編集主幹、『医学のあゆみ』の第一期編集長を歴任した。著書に『理論血清学』『緒方洪庵伝』『日本におけるヒポクラテス賛美』がある。平成元年(一九八九)三月三十一日没。八十七歳。墓は大阪市北区同心一丁目の竜海禅寺にある。

【参考文献】「緒方富雄先生御略歴」(『医学と生物学』一一八ノ五)、鈴木鑑「緒方先生と血清学、付、緒方富雄先生略歴」(『医学のあゆみ』一四九ノ四)(片桐一男)

以上、『国史大辞典』より転載、正統的な人物評価の略記で第一線の研究者の執筆。


【幕府情報の吉田松陰】
【2018/07/29 11:59】 エッセイ
『松陰東送に付き京都方面の情勢探索報告』
(安政六年五月二十七日)

安政五年の八月以来、梅田雲浜の捕縛をはじめ、京都における尊王攘夷派と目される人物の捕縛が続いていたため、長州藩の藩政府は、吉田松陰が如何なる理由で幕府の召喚命令が出されたかを調査するよう、京都藩邸の吏員に指示を出していた。
安政六年四月に幕府は松陰の江戸召喚命令を出し、江戸藩邸にいた直目付の長井雅楽はこれを藩府に伝えるべく急ぎ帰藩した。これを受けて、長州藩の京都藩邸・「留守居」の福原與三兵衛が探索した結果を萩の藩政府(井上・内藤・周布)宛てに報告したのがこのこの文書である。主として京都所司代に出入りしていた宮廷画家の岡田式部や伏見奉行所組与力の加納繁三郎に極秘裏に調査をしたとある。松陰がかねてから親交のあった梁川星巌宅から押収した書類や梅田雲浜宅から押収した書類は、伏見奉行の内藤豊後から間部詮勝(老中で井伊直弼の命で京都方面の探索の総指揮をとっていた)に差し出したとある。実は、松陰の探索は長野義言の報告が井伊直弼に届いたのが召喚命令となったのであった。


一、 福原與三兵衛より五月二十七日の書状を以て、井上・内藤・周布へ
181031安政の大獄のはじまり


吉田寅次郎呼登せ一件に付き、出處の事爰元に於て探索に及び、申し越し候様先便仰せ下され候に付き、追々承り繕ひ候趣、御意を得候通りご承知下さるべく、尚ほ又其の後岡式より加納繁三郎へ蜜々探索致し見候處、梁川より出で候書類を間下へ差出し候へども、差し抜き致し候由。尤も梅田召取られ候後差出し候書類は内豊より直樣間下へ差出され候に付き、如何の事に候や様子相伺はず、去りながら此の書類は疑ひ候は現書自筆にては之れある間敷く、寫しどもにては之れなくやと申し候由。加繁申すには、吉寅建白の趣甚だ感心の儀にて、星巌・梅田抔の申し分も皆是より出でたる糟粕にて、當時天下の豪傑尤も慕はしく、追付赦免の部にも至り候はば一度は面會致し度きよし申し居り候由に御座候。尚ほ又彼の者此の度伏水通行致し候節、無頼の徒萬一差障り候ては相濟まざる儀に付き、内密探偵に及び成る丈は防ぎ留め候手段致し候様仰せ下され、是れ又追々探索致し見候處、平島行太郎事先日上京致し、大高屋忠兵衛方滞留致し居り候候由承り候に付き、一趣向(ひとしゅかう)相構へ福井忠次郎事差し遣はし探索致させ、與三兵衛も相對、蜜々彼の心底相探り候心得に御座候處、三四日已前爰元出立、纔(わず)かの滞留にて直樣下坂致し候由。大高又二郎事は當三十日比自國備前林田へ引き取り、旁々只今に於ては彼の者共餘程衰弱の氣立にて、慷慨抔相唱へ候様子に之れなき樣に相聞き候。其の餘別人において強ひて古頃當りの輩も之れなく、先づは格別掛年致し候儀も之れある間敷くやに考へられ候。尚ほ又油斷なく心掛け罷り在り候間、又々様子も御座候はば御意を得べく、旁旁右樣御承知置き下さるべく候。其の為斯くの如くに御座候由。
御面書の通り委細承知致し、弾正殿へ申達。恐惶謹言。七月九日付


『評定所における第一回取調・吉田松陰』
【2018/06/30 12:24】 エッセイ
【安政六年七月九日の評定所】

安政の大獄で最後の犠牲者となった吉田松陰。京都の勤王論者との関係から、長野義言らの探索網に松陰の名が浮上する。梅田雲浜や梁川星巌の捜査線上から、松陰が疑われる。江戸幕府からの召喚命令は、その年の四月に長州藩の江戸藩邸に届き、直目付だった【長井雅楽】が急遽、長州へこの穂をもたらす。この長井と松陰との関係は良好ではなく、松陰は『長井が幕府に松陰を売った』とも思える記述が松陰全集に見える。だから【檻輿での江戸行きの途次の毒殺】の可能性を否定しきれず、愛弟子であった入江過杉蔵に漏らしている。久坂玄瑞は、それを信じ込み、松陰刑死後に執拗に怨念を持ち続け、自刃に追い込んでしまう。松陰が正直な事を知る長井は、わざわざ松陰に幕府の取調に対して、長州藩が不利になる証言をしないよう、念をいれた工作をする。そして松陰の兄が幕府の召喚命令を野山獄に松陰を訪ねて伝える。その十日間で、今日に残る【吉田松陰自賛肖像画・六幅】が書かれる。江戸着が六月末。上屋敷の囚人収容所に松陰を監視体制をひいて収容。あわせて、評定所での証言対策を指示する。しして、第一回の取調が行われる。その内容を綴ったのが、江戸にいた愛弟子の高杉晋作に宛てて手紙に記されている。この日の証言が松陰の命取りになったので、重要な書簡内容である。それを紹介します。

181031安政の大獄吉田松陰評定所

「高杉晋作宛」書簡     安政六年七月九日頃  松陰在江戸獄 高杉在江戸

評定所の様子大略申上げ候。問个(もんか)條二つ、一に曰く、「辰年冬、梅田源次郎長門へ下向の節、密かに面会何を談じ候や」。余曰く、「談ずる所なし、ただ禅を学べなど學問の事を談じたる迄なり」。奉行曰く、「然らば何故蟄居中故(ことさら)に面会せしや、不審なり」。余曰く、「御不審御尤もなり。吾れも源二心中知る能はず。但し源二郎曰く、余が長門へ來るは、全く義卿丑年余が京寓を尋ね來たりしいり、追々長門人への因み出來たるになれば、其の本を思うて來問するなり、別に談ずべきことなしと。故に寅も亦辭せずして面會するなり」。二に曰く、「御所へ落文あり、其の手跡汝に似たりと源二其の外申し出づるものあり、覺え之れありや」。余曰く、「斷じて覺え之れなし。寅著はす所、狂夫の言・對策・時勢論・大義を議す等忌諱に觸るるもの少なからず。若し是れ等の作、他人携へ去って 御所内に投ぜば心底に任さざれども、吾れ敢へて落文をなさず」。奉行曰く、「汝上京はせぬか」。余曰く、「吾れ一室の外曾て隣家へだも往かず。是れ萩中萬耳萬目、掩ふべからざるなり、何ぞ乃ち上京せんや」。曰く、「憂國の餘、人をして落文せしむる等のことはなきか」。余曰く「寅の観る所大いに然らず。試みに時勢論を見給へ。寅明かに 明天子・賢将軍・忠侯伯なし得ざるを知る、故に自ら天下の事をなさんと欲す。豈に落文を以て、明天子に難きを責めんや。此の事寅必ず為さざるなり。抑々落文は何等の文ぞや」。奉行初め數行を讀み出す。余曰く「寅の為す所に非ず。若し寅が手書を得んと欲せば、藍色の縦横なる家板に楷書に書きたり。其の他は寅の手録に非ざるなり。落文とは何如なる紙ぞ。」奉行曰く、「竪の繼立紙なり。」寅曰く、「非なり非なり」。奉行端を改めて曰く、「赤根武人は知るか」。余曰く、「熟知す。彼れ少年の時曾て僕の家に來りて寓す」。奉行曰く、「武人皆汝が策を知るか」。予曰く、「恐らくは一二を知って八九を知らず。武人は源二の塾に在り、源二の捕へらるる、御不審なきに因りて歸國を免ぜらる。時に萩に來り半日談ず。直樣亡命上京す」。奉行曰く、「武人何故上京する」。余曰く、「其の師、縛に就き、弟子亡命して上京す、其の志問はずして知るべきなり」。奉行猶ほ余を援(ひ)きて梅田の黨に入れんと欲す。余慨然として曰く、「源二も亦奇士、寅相知ること淺きに非ず。然れども源二妄りに自ら尊大、人を視ること小兒の如し、寅の心甚だ平かならず、故に源二と事を同じうするを欲せず。寅は則と別に為すあるなり」と。因って詳かに丑寅以來の事を陳ぶ。奉行亦耳を傾けて曰く、「是れ鞠問の及ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤、汝の為めに細かに聽かん、縷述を厭はざるなり」と。余乃ち感謝再拜し、因って應接書を暗誦し逐一辯駁す。奉行また色を動かして曰く、「汝蟄居し國事を詳知するは怪しむべきなり」。余曰く、「寅の親戚、讀書憂國の者三數人あり、常に寅の志に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の國事を知る所なり。寅死罪二あり、皆當に自首すべし。但だ他人に連及するは心甚だ之れを惧る、敢て陳ぜざるなり」。奉行温慰して曰く、「是れ大罪なきなり。之れを陳ずるも妨げず」と。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと。因って玄瑞・清太二人の名を挙ぐ。奉行亦甚だしくは詰らざるなり。已にして奉行問ひて曰く。「所謂、死罪二とは何ぞや」。余曰く、「當今の勢、天子・將軍と列諸侯と萬々做(な)し得ず。寅明かに其の做すこと得ざるを知る、故に自ら做さんと欲す。故に再び書を大原三位に致し、吾が藩に西下せんことを請ふ。三位果して吾が藩に下らば、則ち三位と謀り吾が公を論諌せんと欲す。三位確報なし。吾れ其の為すあるに足らざるを疑ふ。會々(たまたま)間部侯上京して、朝廷を惑亂するを聞き、同志連判し上京して侯を詰らんと欲す。二事未だ果さず、藩命、寅を捕へて獄に下す」と。是(ここ)に於て座罷(や)み、後再び余を召す。奉行曰く、「汝間部を詰らんと欲す。間部かずんば將に之れを刃せんとしか」。余曰く、「事未だ圖るべからざりき」と。奉行曰く、「汝が心誠に國の為めにす。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、大膽も甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申し付くる」。
九日の吟味大略此の如し。只だ匆々(そうそう)中余が口陳僅かに十の四五にして、役人悉く書き留めもせず、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。委細に陳白せば、余が死後委細の口書き天下に流傅すべし。其の節御覧下さるべく候。
奉行三人皆其の人を知らず。一人は石谷因幡守ならん。○今日の議論三あり。奉行若し聽を垂れて天下の大計、當今の急務を辯知し、一二の措置をなさば吾れ死して光あり。」若し一二の措置をなす能はずとも、吾が心赤を諒し、一死を免せば吾れ生きて名あり。」若し又酷烈の措置に出て、妄りに親戚朋友に連及せば、吾れ言ふに忍びずとも亦昇平の惰氣を鼓舞するに足る、皆妙。





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