FC2ブログ
長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

【吉田松陰の死罪察知】
【2018/11/21 10:27】 エッセイ
『尾寺新之丞あて』書簡   安政六年十月十七日   松陰在江戸獄 尾寺在江戸

この書簡は、評定所からの四度目の呼出しの翌日に書かれたもので、松陰は前日の評定所で「口上書書判」を奉行より求められた。既にこの日の十日前に頼三樹三郎、橋本左内が死罪になっている。松陰は、二度目、三度目の取り調べが穏やかであったので、判決を楽観視していた。重くて遠島か他家預け、軽ければ国元蟄居だろうと考えて、門下生に書簡を出していた。ところが、今回は一転して厳しい雰囲気で、口上書に書判せよと迫られる。自白した内容と異なっており、論争になったが、適当に修正したのみで肝心の部分は書き改められていない。一説には老中の判断は遠島であったが、井伊直弼が朱筆で死罪と書き改めたとも言われている。その結果、松陰は「安政の大獄」の最後の犠牲者となるのであるが、この書簡は松陰が死罪を察知した書簡内容として重要なものである。松陰は愛弟子として将来を期待していた高杉晋作が、藩の命令で急遽帰国させられたことを知らない。二度目の小伝馬牢入り(安政六年七月九日)してからは、高杉晋作が何くれと無く松陰のために尽くしてきたのだが、この書翰の一週間前に高杉が帰国。実は、高杉の親が松陰との接触を嫌って、藩政府(江戸藩邸の官吏)に働きかけ、たのである。実は、この一年あまり前に、高杉が江戸遊学を果たしたのも、松下村塾に通う晋作を松陰との接触を断たせるために江戸修業の名目で引き離したのである。このことを松陰はしらない。そのため、高杉がいなくなったので、尾寺新之丞宛てに書いたのが真相である。松陰が二度目の野山獄にあったとき、幕府は江戸召喚を桜田の江戸藩邸に命じた。これを持参して、萩に帰国したのが直目付の長井雅楽であった。そして二週間後の安政六年五月二十五日の出発前に書いた【自賛想像画】の賛に記している。【人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず】と、則ち危険人物しされていたことから高杉が松陰と懇意にしていることを親は快く思っていなかった。こうした事情があって、尾寺に宛てて書かれたのであった。しかも、その内容は、評定所の五手掛の判決を、時の最高権力者が遠島から一等すすめて【死罪】にしたのが真相であり、越前の橋本左内は、一橋慶喜の14代将軍就任に松平慶永の命令に従ったことが、反幕府的行為とされたのであった。安政の大獄はこうして、井伊直弼の専横がもたらした悲劇であり、その根は徳川斉昭と井伊直弼との対立関係が背後にあったのである。そうして、反幕府思想、尊攘派を一網打尽に処した。松陰は、この背景を知らずにいた。以下、全集より転記して見る。

180404箱崎公園の吉田松陰像181121江戸伝馬町牢御豚場跡181121吉田松陰終焉の地碑




一翰呈上仕り候。私儀昨日呼出しにて口上書書判仕り候。然る處存外の儀ども之れあり、今更當惑は仕らず候へども、屹と覺悟仕り候。最前七月九日入牢の説申し立て候内、間部侯在京の節同志連判罷り登り旨趣申立て度き段取工(たくら)み候へども、事未だ遂げずして國元にて入牢仰せ付けられたる段申立て候處、三奉行席を改め、多人數連判せしは御取用ひ之れなく候へば刃傷にも及ぶべき存念なるべし。軽からざる御役人へ對し大膽至極なり、覺悟しろ、吟味中揚屋入り申付くるとの事なり。此の時は小生も勿論覺悟致したり。其の後九月五日呼出し色々御吟味之れある内、先日必死の覺悟にて上京仕るべ段相計り候が、必死と云ふ所今一應詳かに申出づべしとのことに付き、七月九日に刃傷にも及ぶべき存念なるべし仰せ懸けられ候に付き、その段申し開くべき儀に候へども、揚屋入り仰せ付けらるとて御引落しに相成り候儀に付き、又重ねての御吟味の節と思ひ延し罷り下り候。全體必死と覺悟仕り候故は、蟄居の身分にて是れ等の儀取計ひ候上は勿論事敗露する時は一死國に報ずる外之れなくと申す譯にて、人情に及ぶと申す儀には全く之れなき趣申立て聞取りに相成り候。其の後昨十六日口上書讀聞せを承り候へば、下総殿へ趣旨申立て御取り用ひこれなき節は刺違へ申すべく、警衛人數相支へ候はば切拂ひ候て御輿へ近づき申すべく云々の趣。之れに因り小生云はく、刺違へるは思ひも寄らず、切拂ひと申す事も志に之れなき事、口に云はざる事と大いに辯争致し候所、然れば下れ、後に又申し聞けることありとのことなり。左候て総人數、口書相濟み候後又々呼出しに相成り又讀聞かせの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。僕又大いに辯争致し候所、遂に口上の事はどちらへ違うても罪科の軽重に預る事に非ざれば、迚もの事に其の方の申分通りに致し遣はすべし、併し他の文言に存念なきかとて、末文の所兩度御讀聞せ之れあり候故、志になきことは口に發せぬ事は何分にも一字も受け難く、仰せ懸けられ候儀何ぞ敢て拒まんと申し、書判致し候。末文の處「公儀に對し不敬の至り」と申す文あり、「御吟味を受け誤り入り奉り候」と申す文あり。迚も生路はなきことと覺悟致し候。右初日七月九日と昨日と三奉行出座なり。九月五日と十月五日とは吟味役出座なり。吟味役寛容の調べは全く無用に僕をだました計りにて、石谷・池田其の外最初見込みを付けた所は首を取る積に相違なく、刺違と切拂との四字を骨を折って抜き候へども、末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。不敬の二字餘り承り馴れざる文なれども、不届など云うよりは餘程手重き事に考へれれ候。鵜飼や頼・橋本なんどの名士と同じく死罪なれば、小生においては本望なり。昨日辯争に付いては隨分不服の語も多けれども、是れを一々云ふも面白からず、只だ天下後世の賢者吾が志を知って呉れよかし。
右の趣一寸御報知申上げ候。この書は御一見御返し頼み奉り候。下に委細申上げ候。以上。
     十月十七日                         寅二拝

昨日金六方まで御出で下され候趣、尾君か、高君か。金六より詳に承るに暇なし。然る處今日又々御出下され候由に付き此の書を認め候。○高君十五日定めて御出足とは存じ候。是れ亦御知らせ下さるべく候。○高君御出立後なれば小林の書は此の方へ御返し候とも宜敷く候。○小生昨日口上書書判仕り候。委細の儀は申上げ兼ね候へども存外の儀之れあり、迚も軽典には参らざるに付き屹と心中に覺悟の處後日申上げ候様仕るべく候。いづれ十日を出ず落着と存じ候。○五日程同居致し候(阿部十郎家来なり、神田橋外なり。勝野保三郎昨日申口相立ち出牢相成り候。此の人勝野豊作の弟にて行年二十二、才氣ありて純粋なる男子後来頼母敷く、去年以來在獄にて、僕投獄已來時々音信致し候へども未だ心事を盡さず候處、四五日同居、大いに學事を論じ懸け候所出牢残念なり。此の人の事御物色下さるべく候。○別紙の趣、飯田兄へ一と周旋御願仕り候。出來難く候へば強ひて願ふにも非ざれども、何卒かく致し度くと申す事に御座候なり。
      十月十七日                      松陰拝
  尾新兄  足下  


スポンサーサイト
【大義を議す】 ー松陰の討幕文稿ー
【2018/10/22 13:45】 エッセイ
大義を議す
    (戊午幽室文稿)安政五(1858)年七月十三日

まず、原文を記す前に、私の解説的なことを少し書きます。この年、幕府は天皇の合意無きまま「日米修好通商条約」に調印。大老「井伊直弼」は就任時に二つの大きな解決すべき問題を抱えていた。一つは、将軍家定の後継をめぐって一橋慶喜か紀伊の徳川慶福(後の家茂)の決定を迫られていた。もう一つは、この日米通商条約の勅許問題である。結果として、将軍継嗣問題は紀伊の慶福と決定した。朝廷工作に当たっていた一橋派の英邁な将軍の実現をという願いは、井伊を始めとする「溜間詰」派の推す慶福の世子実現で決着。条約締結は、ハリスに押されまくった交渉で追い込まれた、やむを得ない措置として調印。しかも無断勅許である。これに怒った松陰は掲題の小論を書いた。此の書は『討幕』なる語が初めて出る論文で、松陰がラジカルな方向へ急旋回する重要なものである。文中『征夷は天下の賊なり・・・勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』という激しい語が並ぶ。松下村塾も「政治結社」化していく。以後、松陰は政治的決起のプランを矢継ぎ早に打ち出すことになる。尊王開国からペリーの砲艦外交に屈した時、攘夷へと変容、さらに無断調印で遂に松陰は「尊王討幕」へと変わる。安政五年という年は、幕末前半期では一つの大きな節目となった。

では本文に移ろう。

墨夷の謀は神州の患たること必せり。墨使の辞は神州の辱たること決せり。ここを以て天使震怒し、勅を下して墨使を絶ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(しゅくしゅく)として遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず、傲然(ごうぜん)自得、以て墨夷に諂事(てんじ)して、天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず。是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(ちゅうりく)して、然る後可なり、少しも宥すべからざるなり。
近世功利の説、天下に満ち、世を惑わし民を誣(し)ひ、仁義を充塞す。或は大節に遭ふも、左右の狐鼠、建明する所ある能はず。違勅の國賊を視るに、猶ほ強弱勝負を以て説を立て、断然其の罪を鳴らして之れを討つこと能はず。甚だ悲しむべからずや。試みに洞春公をして今日に生まれしめば、其れ之れを何とか謂はん。夫の陶賊は特(た)だ其の主に叛けるのみ。洞春公ほ且つ聴かず。今征夷は國患を養ひ、國辱を貽(のこ)し、而して天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。然らば則ち陶なる者は一國の賊なり、征夷は天下の賊なり。今措きて討つたざれば、天下の万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に享けんや。
井伊直弼24.3.25ハリス170331正装の吉田松陰


義を正し道を明かにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教へたる所以なり。勅を奉ずるは道なり。逆を討つは義なり。公侯夫士、生まれて此の時に際ひ、苟も道義に違ふことあらば、猶ほ何の顔面ありた聖賢の書に対せんや。士大夫の志たる、死生甚だ小にして、道義甚だ大なり。道に違ひ義に戻り、徒爾に生を偸む、何の羞恥かこれに加えん。乃ち國家と雖も亦然り。不道不義、以て一日の存安を謀るは、君臣以下、義に仗(よ)り道に徇(したが)ひ、以て始終を全うすると孰れぞや。
然りと雖も、英雄の事を謀るや、未だ必ずしも利害を計較(けいこう)せずんばあらず。事義にして利に合はざるときは、固より将に之れを為さんとす。況んや事已に義にして、又利に合ふ、何を憚ってか為さざる。当今幕府の謀、蓋し諸侯を疑ふこと墨夷に過ぐ、而して墨夷を畏るること諸侯より甚だし。謂へらく、諸侯を役して墨夷をうつも、墨夷未だ滅すべからず、而して諸侯去らん。墨夷を仮りて諸侯を制せば、諸侯制し易し。而して墨夷夷未だ必ずしも叛くかずと。是れ征夷の謬計なり。今諸侯は坐して征夷の為すに聴(まか)せ、而して少の異忤をも為さず、其の禍の底止する所、其れ寒心すべきのみ。今日吾が藩断然として大義を天下に唱え、億兆の公憤に仗らば、征夷もとより内に孤立し、而して墨夷も亦外に屈退し、皇朝の興隆、指を屈して待つべきなり。然れども其の初めに当たること、蓋し戞々乎(かつかつこ)として難きかな。而して一、二難の後は、復た甚だ難からざるなり。吾れ切に恐る、当路の君子、一、二難の忍ぶ能はずして、大義を亡失し、征夷と其の亡を同じうせんことを。故に今日の務めは大義を明らかにするに在り。
大義已に明かなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当に再四忠告して、勉めて勅に遵はんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまはず、征夷翻然として悔悟せば、決して前罪を追咎(ついきゅう)したまはざるなり。是れ吾れの天朝・幕府の間に立ちて、之れが調停を為し、天朝をして寛洪に、而してばくをして恭順に、邦内をして協和に、而して四夷をして懾伏(しょうふく)せしむる所以の大旨なり。然れども天下の勢い、万調停すべからざるものあり、然る後之れを断ずるに大義を以てせば、斯(すなわ)ち可なり。
当今吾が藩は君臣明良にして、大義赫々、復た是れ等の議を煩はさざるなり。然れども寅の身幽囚に在りて、廟議を聞くことを得ず、ここを以て丁寧此に至る。伏して惟ふ採察せられんことを。  七月十三日
吾れの國家に建白するや、極めて機密なりと雖も、極めて急遽なりと雖も、未だ嘗て稿を存せずんばあらず。謂へらく、機密の策、急遽の事、成らば則ち功あり、敗れば則ち罪あり。万一為すべからざれば、則ち請ふ此の巻を携へ、身を以て罪に当たらんことを。幸にして事ここにいたらざるも、亦以て後人の稽考に資するに足ると。是れ稿を存するの本意なり。而るに口羽徳祐以て然りと為さず。其の意を察するに、文を以て之れを視、余を咎むるに國事を以て文料と為すものの如し。嗚呼、人の心は面の如し、誰れか其れ之れを同じうせん。偶々宋記を讀む、鄒浩、立后の事を諌め、随って其の稿を削る。陳瓘曰く、「禍は其れ茲に在るか。異時奸人妄りに一稿を出さば、弁ずべからざらん」と。後、蔡京果して偽疏を為(つく)り以て之れを出すと。嗚呼、士君子は禍福徳喪、何ぞ其れ計較する所ならんや。然れども稿を削りて陰禍を得るは、何ぞ稿を存して顕罰を蒙るの俯仰(ふぎょう)に愧なきに如かんや。此の稿数十篇、吾れ重辟(じゅうへき)を得ると雖も、誓ってその隻字をも削らざるなり。己未三月三日、これを余白に書す。


早稲田と慶應の創始者の仲
【2018/09/24 10:22】 エッセイ
【福澤諭吉と大隈重信】

『福澤諭吉』
一八三四―一九○一 明治時代の啓蒙思想家、慶應義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福澤百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内(大阪市福島区福島一丁目)で生まれた。諭吉の名は、十三石二人扶持の軽格ながら学問好きの百助が、長年望んでいた唐本の『上諭条例』を、当日入手したのに因む。生涯ほぼこの幼名で通す。七年六月、志を延べ得ないまま百助は脳出血症で死去。一家は藩地中津へ帰り、兄三之助が家督を相続し、諭吉は、叔父中村術平の養子となって中村姓を名乗った(ただし福澤家で生活)。

一家は中津での生活になじめず、彼は、下級武士・母子家庭の子としての無念を味わった。前半生を活写した『福澤自伝』における「封建門閥は親の仇」の語は、この体験に由来する。十四、五歳で漢学を習い始めて、おもに白石常人に師事し、上達すこぶる速かった。嘉永六年(一八五三)のペリーの来航は、福澤に中津を離れる機会をもたらした。安政元年(一八五四)、蘭学修行のため長崎に出、翌年、大坂の緒方洪庵の適々塾に入り、やがて塾長となった。
180408福澤諭吉180408慶應大学


五年、藩命によって江戸へ赴き、十月中旬、築地鉄砲洲中津藩中屋敷(東京都中央区明石町十番一号)内の長屋に蘭学塾を開いた。慶應義塾の起源である。この間、三年兄の死去により復籍し、福澤の家督を継いだ。六年、横浜を見物し、蘭学が役に立たぬことを知り、英学の独習を始めた。万延元年(一八六〇)、幕府の遣米使節派遣に際し、希望して、軍艦奉行木村喜毅の従僕との名目で、正―五月、咸臨丸に乗って渡米、ウェブスター辞書を購求し、日本人としてはじめて持ち帰った。八月、最初の出版物『(増訂)華英通語』を刊行、またこの年、幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳に携わるとともに、塾の教育を英学に切り換えた。翌文久元年(一八六一)、二十八歳で、中津藩士江戸定府土岐太郎八の次女錦(十七歳)と結婚、芝新銭座に移転した。夫妻はのち四男五女を得る。
この年十二月から一年間、幕府の遣欧使節に随員として参加し、仏英蘭独露葡などを歴訪、国情視察と原書購入に努めた。その際の記録として、『西航記』『西航手帳』がある。三年、中津藩中屋敷内に移転、この頃暗殺の危機を感じ、夜間の外出を慎む。元治元年(一八六四)、召出されて幕臣となり、外国奉行翻訳方を命じられた(百俵高、勤役中五十俵増高)。慶応二年(一八六六)秋、大小二本を残して刀剣を売り払い、翌年正―六月、幕府の軍艦受取委員の一行に加わって渡米、ウェーランドの経済書をはじめ原書多数を購求した。三度目の洋行であったが、旅行中上司に楯ついたかどで、帰国後一時謹慎を命じられた。

幕臣として彼は「大君のモナルキ」を主張した。生涯を通じて多産な著作活動は、慶応年間に始まった。『西洋事情』がこの時期の代表作で、初編=明治元年(一八六八)、二編=三年と刊行され、偽版も含め二十万ないし二十五万部売れて、西洋の制度と理念の紹介者としての彼の名を高くした。その前後、『電銃操法(慶応二―明治三年)』、『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(以上慶応三年)、『訓蒙窮理図解』『兵士懐中便覧』(以上明治元年)、『洋式明艦』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』(以上同二年)がある。その間、慶応三年十二月、王政復古があり、新政府から出仕を求められたが辞退し、以後生涯官職に就かず、位階勲等を受けなかった。

逆に明治元年、帯刀をやめ平民となって、塾に力を注ぐことを決意し、芝新銭座に再移転して慶應義塾と命名し、彰義隊の戦の際も講義を休まず、四年さらに三田に移転した。また二年、福澤屋諭吉の名で出版業に着手した。つづく数年間にわたる文明開化期、啓蒙思想の鼓吹に全力を尽くした。「天は人の上に人を造らず」に始まる『学問のすゝめ』(明治五―九年)、文明進歩の理法を得『文明論之概略』(八年)をはじめ、『啓蒙手習之文』(四年)、『童蒙教草』『かたわ娘』(以上五年)、『改暦弁』『二本地図草紙』『文字之教』『会議弁』(以上六年)」、『帳合之法』(六―七年)、『学者安心論』(九年)を相ついで刊行し、「一身独立して一国独立」の主張、封建道徳の痛罵、「実学」の提唱など、徒意識の変革を説き、人心を「文明」に導こうとした。

その思想は、バックル・ギゾー・トックビィル・スペンサーの影響を受けている。また明治六年、明六社に参加(『明六雑誌』にも執筆)、七年『民間雑誌』を創刊、三田演説会を開き(翌年、三田演説館を開館)、九年、『家庭叢談』を創刊した。活動の最盛期にあたり、『学問のすゝめ』は偽版を含めて三百万部売れたといわれ、守旧派に物議をかもす反面、当時の思想家中随一の人気を得た。その一方、十年の西南戦争には、『丁丑公論』を著わして西郷隆盛を悼み、つづく自由民権運動には『国会論』(十二年)で国会の即時開設による人心の呼吸を説き、また神奈川県下九郡人民の「国会開設の儀に付建言」を代筆した。その前後の著作として、『分権論』(十年)、『民間経済録』(十―十三年)、『通貨論』『通俗民権論』(以上十一年)、『福澤文集』『通俗国権論』(以上十一―十二年)、『民情一新』(十二年)がある。

さらに十一年、東京府会議員(翌年辞任)、十二年、東京学士院の初代会長(十四年辞任)を勤め、十三年、社交倶楽部としての交詢社を結成した。しかし民権運動の高揚とともに警戒心を強め、十四年、『時事小言』を著わして「内安外競」を説くに至った。政府首脳も、彼に託して機関紙発行を企てる。その企図は十四年政変で破れたが、翌十五年、彼は「不偏不党」「官民調和」を掲げる日刊紙『時事新報』を創刊、連日のように社説・漫言などを執筆した。以後彼の文章はまず同紙に掲載され、その一部が単行本となる。こうして刊行された書物には『時事大勢論』『帝室論』『兵論』『徳育如何』(以上十五年)、『学問之独立』(十六年)、『全国徴兵論』『通俗外交論』(以上十七年)、『日本婦人論』後編(本編は刊行されず)、『士人処世論』『品行論』(以上十八年)、『男女交際論』(十九年)『日本男子論』『尊王論』(以上二十一年)、『国会の前途 国会難局の由来 治安小言 地租論』(二十五年)、『実業論』(二十六年)があり、日清戦争に及んだ。その関心は多方面にわたるが、皇室を「政治社外」に置こうとする皇室論、家族の基本を夫婦として男女の同権を説く女性論などに、とりわけ特徴があり、また「尚商立国」をめざした。

アジア政略もしきりに唱え、一時、金玉均ら朝鮮開化派を援助したものの、議論の基軸は『脱亜論』(十八年)にあった。それだけに明治二十七、八年の日清戦争を「文明明暗の戦」と熱烈に支持し、戦後は労働問題・移民問題および植民地となった台湾経営問題などに、資本の立場から関心を示す一方、仏教的な人生観にも傾いた。この時期の『福翁百話』(三十年)、『福澤先生浮世談』(三十一年)、『修身要領』(三十二年)、『福翁百余話』(三十四年)は、老境の処世訓であり、『女大学』を批判した。『女大学評論 新女大学』(三十二年)もある。また三十年、著述生活を振り返った『福澤諭吉全集緒言』を手始めに、三十一年、『福澤全集』全五巻、三十二年、『福翁自伝』を世に送った。

三十一年秋、脳溢血を発し、一旦回復したものの、三十四年一月再発、二月三日、六十八歳で死去した。衆議院は哀悼を決議した。八日、東京市外白金大崎村(東京都品川区上大崎)の浄土宗浄光寺に葬られたが、昭和五十二年(一九七七)港区元麻布の善福寺に改葬された。法名大観院独立自尊居士。妻錦は大正十三年(一九二四)死去した。門人たちが師の晩年、その思想の精髄として探りあてた「独立自尊」の四文字は、福澤の代名詞のように人口に膾炙した反面、門下から実業家が多く出た。慶應義塾編『福澤諭吉全集』全二十一巻(昭和三十三―三十九年)別巻一巻(同四十六年)がある。

【参考文献】
『慶應義塾百年史』、丸山信編『福澤諭吉とその門下書誌』、
占部百太郎編『福澤先生哀悼録』(慶應義塾学報三九(臨時増刊)、石川幹明『福澤諭吉伝』、羽仁五郎『白石・諭吉』(『大教育家文庫)七』、
家永三郎『近代精神とその限界』(『角川新書』八)、
小泉信三『福澤諭吉(『岩波新書』)青五九〇』、
遠山茂樹『福澤諭吉―思想と政治との関連―』(『UP選書五八』)、ひろたまさき『福澤諭吉』、安川寿之助『増補版二本近代教育の思想構造』、鹿野政直『福澤諭吉』(『人と思想』二一)、丸山真男『「文明論の概略を読む」(岩波新書)黄三二五―三二七』、
同『福澤における「実学」の転回(『東洋文化研究』三)、冨田正文『考証福澤諭吉』

鹿野政直著:国史大辞典より転載

 
『大隈重信』
一八三八―一九二二 明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路の、父信保、母三位子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家として仕え、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された上士であった。だが、大隈は十三歳で父を失い、それ以後はもっぱら母に育てられた。
七歳で藩校弘道館は外生寮(蒙養舎)に入学、十六歳で内生寮に進級したが、葉隠主義と朱子学を主とする藩校の制度に反発し、安政元年(一八五四)義祭同盟に加わり、翌年弘道館の南北寮騒動の首謀者として放校され蘭学寮に移った。のち、蘭学寮が弘道館と合併されてその教官となった。

180408大隈重信180408早稲田大学

文久三年(一八六三)長州藩の下関外国船砲撃にあたり長州藩援助を計画、また元治元年(一八六四)の長州征伐に際しては、藩主鍋島直正を動かして長幕間に斡旋し、それを中止させようとしたが果たせなかった。このころ、長崎でオランダ系米人宣教師フルベッキについて英語を学び、慶応元年(一八六五)五月長崎に英学塾「致遠館」を設立し、みずからその経営に当たった。こうして大隈は幕末動乱に京都・兵庫・長崎などに赴いて尊王激派として活躍し、同三年三月には将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上京したが、間もなく藩役人に捕えられて佐賀に送還、一ヶ月の謹慎処分をうけた。

明治元年(一八六八)三月徴士参与職、外国事務局判事として横浜在勤を命ぜられ、キリスト教徒処分問題でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたり、十二月外国官副知事に昇進、翌年三月会計官副知事を兼務し贋金問題の処理にあたった。ついで大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力し、同三年九月参議に任ぜられ、六年五月大蔵省事務総裁ついで大蔵卿となり十一年五月地租改正事務局総裁を兼任、十三年二月参議専任となった。この間征韓論に反対し、七年の台湾出兵で蕃地事務局長官、十年の西南戦争では征討費総理事務局長官となり、大久保政権の一翼として財政問題を担当、秩禄処分・地租改正など改革の推進者となり、また殖産興業政策を進め、いわゆる大隈財政を展開して近代産業の発展に貢献した。特にこのとき岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、後年までの三菱との密接な関係をつくったことは有名である。

十四年三月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張、また開拓使官有物払下げに反対、さらに財政上の不手際も加わって薩長勢力と衝突し、十月参議を免ぜられ、大隈派とみられた多数の官吏も辞職した。(明治十四年の政変)。
政変後大隈は、小野梓・矢野文男ら辞職官吏と政党組織をすすめ、翌年四月立憲改進党を結成して総理となり、十月に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。二十年五月伯爵を授けられ、二十一年二月伊藤内閣の外務大臣となり、ついで、黒田内閣で条約改正交渉にあたったが、外人裁判官認容問題で激しい反対に遭い、二十二年玄洋社写真来島恒喜に爆弾を投げつけられ負傷して辞職した。そののち枢密顧問官となったが、二十四年十一月自由党総理板垣退助と提携したため免官された。

二十九年三月改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成し党首となり、間もなく薩派と提携して松方内閣の外務大臣となり(松隈内閣)、翌三年三月農商務大臣を兼任したが、薩派と合わず十一月に辞職した。
三十一年六月、多年の宿敵板垣とともに自由・進歩両党を合同させて憲政党を組織、ついでわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが、両党派の対立と閣内統一に苦しみ、わずか四ヶ月にして憲政党は憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)に分裂し、隈板内閣も総辞職した。

そののち大隈は憲政本党の総理としてなお政党を率いたが、四十年一月に高齢のゆえをもっていったん政界から引退し、四月に早稲田大学総長に就任した。このあとしばらくの間「文明協会」を設立し、「新日本」「大観」などの雑誌を発行し、また多数の著書を著わし各地で後援会・演説会を開いて国民文化の向上に努めた。
ついで大正初年の第一次護憲運動が起ると再び政界にもどり、立憲同志会の援助のもとに大正三年(一九一四)第二次大隈内閣を組織し、内務大臣を兼任、第一次世界大戦に参戦し、また翌四年には対華二十一固条要求を提出し、陸海軍軍備の拡大につとめた。同年八月内閣を改造し、外務大臣を兼務し翌年七月侯爵に叙せられたが、十月総辞職し、完全に政界から離れた。

大隈はきわめて磊落かつ楽天家であり、そのため「民衆政治家」と呼ばれて人々に親しまれたが、他方「早稲田の大風呂敷」などと悪口もされた。大正十一年一月胆石症のため早稲田の自宅で死去した。八十五歳。
十七日に日比谷公園で国民葬が催され、音羽(文京区大塚)の護国寺に葬られた。著書に『開国五十年始史』『大勢を達観せよ』『国民読本』『東西文明の調和』『大隈伯昔日譚』などがある。

【参考文献】:早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』、
大隈候八十五年史編纂会編『大隈候八十五年史』、渡辺幾治郎『大隈重信』、同『文書より見たる大隈候』、中村尚美『大隈重信』(人物叢書七六)柳田泉『明治文明史における大隈重信』 中村尚美著:国史大辞典より転載


『緒方洪庵の家系』
【2018/08/25 22:38】 エッセイ
『緒方洪庵とその家系』

江戸時代後期は、蘭学の揺籃期でもある。
オランダは、江戸期を通じて唯一「長崎港」に入港出来る西洋の国家であった。
この体制が完成したのが1639年であるから、およそ200年間にわたって、この国家政策は維持された。この体制を【鎖国体制】と呼称する。
しかし、この用語は実態と異なるとの見解で【管理貿易体制】という表現に変わるようである。

江戸期は、長崎を通じた貿易と云っても、実際に利益は幕府の独占であったから、幕府という『私』の貿易システムであって、全国の諸大名はこうした利益に与れない。
つまり、私政治であった。徳川はこうした特殊なシステムを構築して、海外取引(オランダ東インド会社・ジャカルタ)を行っていた。
しかし、オランダの西欧における地位の低下と、イギリス・フランスの台頭によって西欧社会における勢力図は18世紀末には大きく変化していた。オランダの没落はフランス革命の進行と軌を一にしている。
しかし、オランダの西欧における地位の低下は、徳川政権の長崎港管理体制においては依然として継続された。
こうした事情はありながらも、西欧文明やそれに伴う世界情勢とその情報は、オランダ以外からは正式な情報として日本には入ってこなかった。
徳川政権は、『オランダ風説書』という、ささやかな情報以外のものを政策的には享受できなかった。
それゆえ、18世紀中葉から日本に対する通商要求が始まっていながら、その背後にある西欧事情が把握出来ていなかった。
したがって、オランダを通じた情報から政策判断するしかなかった。
そうして、『洋学』といわれる西欧文化の一部分を吸収するには『蘭学』と言われる学問を通じて、イギリス、ドイツの医学をオランダ語に翻訳して吸収したのであった。
緒方洪庵が、備前国の出身ながら蘭学を学ぶには江戸や大坂、長崎で修業しなければならなかった。
洪庵は、最初に大坂の蘭学者の門をたたき、ついで江戸に学び、さらに長崎に学んだ。
その修業の成果として大坂に『適塾』を開業して、蘭学者、医学者(漢方医学でなく)、そして教育者として日本の近代化に貢献した。
とりわけ、医学の分野においてその成果は著しく、緒方の適塾で学んだ多くの優秀な門下生を通して日本に根付いたのである。
今日、東京大学医学部は日本人の最も憧れる学びの場となっているが、こうした背景の土壌には緒方洪庵とその子孫も、大きく貢献しているのである。


【緒方洪庵】おがたこうあん 一八一○~一八六三

180822緒方洪庵夫妻180730緒方富雄180709適塾塾舎180822緒方八重

江戸時代後期の蘭学者、医学者、教育者。諱は章、字は公裁、洪庵・適々斎君・華陰などと号した。はじめ三平と称したが、のち洪庵と改めた。文化八年(一八一〇)七月十四日、備中国賀陽郡足守(岡山市足守)で父佐伯惟因、母キャウの三男として生まれた。
はじめ田上騂(せい)之助といい、文政八年(一八二五)二月十六才で元服したとき惟彰と名乗った、この年大坂に足守藩の蔵屋敷が出来、留守居役になった父と大坂に修行に出た。あくる九年七月、蘭学医中環天游の門に入り、この時緒方三平とあらためた。天保元年(一八三○)四月二十一歳の時、師のすすめで、江戸で修行するため大坂を離れた。しばらく木更津にいて、あくる二年二月、二十二歳で江戸の蘭学医坪井信道の塾に入った。それから四年間に多くの翻訳を完成した。ことに『人身窮理学小解』(写本)は有名である。かたわら、師のすすめにより、宇田川玄真の門に出入りし、深くその学才を認められた。同六年二月信道塾を去り、あくる年二月大坂をたって長崎へ修行に行った。この時から緒方洪庵と改めた。二十七歳。長崎で青木周弼・伊東南洋(岡海蔵)の三人で、『袖珍内外方叢』を訳して、たいそう歓迎された。九年正月長崎を発ち、三月足守から大坂に出て、瓦町に蘭学塾「適々斎身塾(略して適塾)を開き、偉業のかたわら蘭学を教えた。七月億川百記の女八重と結婚した。塾はたいそう盛んになり、同十四年十二月に船場過書(かいしょ)町に移ってからは大いに発展し、全国から青年があつまり、その数は三千を超えたといわれる。なかに、明治二なってから重要な役割を果たした人が沢山いる。入門順に挙げると、大戸郁蔵(緒方郁蔵)・村上代三郎・村田蔵六(大村益次郎)・武田斐三郎・佐野栄寿(常民)・菊地秋坪(箕作秋坪)・橋本左内・大鳥圭介・長与専斎・福澤諭吉・花房義質・高松凌雲・安立寛・池田謙斎などである。洪庵は塾の経営のかたわら、嘉永二年(一八四九)からは牛天然痘の普及に尽くし、安政五年(一八五八)のコレラ大流行には『虎狼痢治凖』を刊行して治療に精魂をつくした。またこの頃『扶氏経験遺訓』(全三十巻、ドイツの学位フーフェランドの内科書の翻訳)の刊行を完成し、日本の内科医に大いに益した。また『病学通論』(三巻、嘉永二年)の刊行は、病気の考え方に役立った。文久二年(1862)八月江戸に召されて、奥医師と西洋医学所頭取を兼ね、同十二月法眼に叙せられたが、あくる年六月十日突然の大喀血で急死した。五十四歳。駒込高林寺に葬る。遺髪は大坂天満竜海寺。家業は子平三(のち惟凖)が継いだ。明治四十二年(一九○九)従四位贈位。適々齋塾の建物は現存し、国の史跡に指定されている。

【参考文献】緒方富雄「緒方洪庵伝」、同「緒方洪庵適々齋塾姓名録」、同「蘭学のこころ」
(緒方富雄)

【緒方惟凖】おがたこれよし  一八四三―一九○九

明治時代の医師。天保十四年(一八四三)八月一日、父緒方洪庵と母億川氏八重の二男として大坂船場過書町に生まれた。幼名平三、通称洪哉、名は凖、字子縄、蘭洲と号した。加賀大聖寺で渡辺卯三郎に二年間漢籍と和漢文典を学び、さらに越前大野で洋学館の伊藤慎蔵に蘭書と洋式操練を学んだ。安政五年(一八五八)長崎に行き、ポンペ・ボードウィン・マンスフェルト・ハタマラらに学び、文久二年(一八六二)医学伝習御用に任ぜられた。翌三年洪庵の死去により江戸に帰り、西洋医学所教授となる。元治元年(一八六四)再び長崎に行き、慶応元年(一八六五)にオランダに留学した。明治元年(一八六八)帰朝し、典薬寮医師となり、医学所取締に任ぜられた。翌年医学所を辞し、大坂表病院御用となり、同三年軍事病院兼務となり、以後同二十年の退職まで軍事畑に活躍。その後は野にあって緒方病院院長などに従事。同四十二年七月二十一日死去。六十七歳。墓は大阪市北区東寺町の天滿竜海寺にある。

【参考文献】ドーデ編『緒方惟凖小伝』、幹澄「緒方惟凖先生一夕話」(『医事会報』四七―五四)大塚恭男

【緒方知三郞】おがたともさぶろう 一八八三―一九七三

大正・昭和時代の病理学者。明治十六年(一八八三)一月三十一日、東京神田猿楽町に、父緒方惟凖、母三沢氏吉重の三男として生まる。同四十一年東京帝国大学医科大学を卒業し、病理学教室助手となった。四十三年ドイツに留学し、大正二年(一九一三)帰国した。翌三年東京帝国大学医科大学助教授となり、病理学講座を担任し、同十二年には、同じく教授に昇進した。ビタミンB1欠乏症、唾液腺ホルモン、カシン=ベック病などに多くの業績をあげ、実弟章(東大薬学科教授)と協力して唾液腺ホルモンを分離し、パチロンと命名し、これにより昭和十九年(一九四四)学士院恩賜賞を得た。同十八年東大を定年退職後、日本医科大学・東京医科大学などでひき続き教育・研究に従事し、二十九年社団法人老人病研究所設立とともに所長となる。四十三年同研究所が日本医科大学に移管された後も所長を勤めた。三十二年に文化勲章を受章。四十八年八月二十五日没。九十歳。著書に『病理学総論』『病理学入門』『いつまでも若く』『老年病理学総論概説』などがある。

【参考文献】日本経済新聞社『私の履歴書』四一、緒方知三郞『一筋の道』(大塚恭男)



【緒方富雄】 おがたとみお  一九○一 ― 一九八九

昭和時代の医学者。明治三十四年(一九○一)十一月三日、大阪市東区北新町に生まれる。父は蘭学者緒方洪庵の孫にあたる緒方銈次郎、母は友香(三浦氏)。大正十五年(一九二六)東京帝国大学医学部卒業。病理学教室、法医学教室を経て、血清学を専攻。昭和九年(一九三四)アメリカに留学し、シカゴ大学、ニューヨーク市マウントサイナイ病院で血清学を研究、翌年帰国。昭和十一年助教授、同二十四年教授(血清学)となり、同三十一年退官。この間、東京大学医学図書館長を勤める。日本血清学会、蘭学資料研究会、日本輸血学会、緒方医学化学研究所、日本臨床病理同学院、日本ヒポクラテスの会などの創設運営にあたる。『医学と生物学』の編集主幹、『医学のあゆみ』の第一期編集長を歴任した。著書に『理論血清学』『緒方洪庵伝』『日本におけるヒポクラテス賛美』がある。平成元年(一九八九)三月三十一日没。八十七歳。墓は大阪市北区同心一丁目の竜海禅寺にある。

【参考文献】「緒方富雄先生御略歴」(『医学と生物学』一一八ノ五)、鈴木鑑「緒方先生と血清学、付、緒方富雄先生略歴」(『医学のあゆみ』一四九ノ四)(片桐一男)

以上、『国史大辞典』より転載、正統的な人物評価の略記で第一線の研究者の執筆。


【幕府情報の吉田松陰】
【2018/07/29 11:59】 エッセイ
『松陰東送に付き京都方面の情勢探索報告』
(安政六年五月二十七日)

安政五年の八月以来、梅田雲浜の捕縛をはじめ、京都における尊王攘夷派と目される人物の捕縛が続いていたため、長州藩の藩政府は、吉田松陰が如何なる理由で幕府の召喚命令が出されたかを調査するよう、京都藩邸の吏員に指示を出していた。
安政六年四月に幕府は松陰の江戸召喚命令を出し、江戸藩邸にいた直目付の長井雅楽はこれを藩府に伝えるべく急ぎ帰藩した。これを受けて、長州藩の京都藩邸・「留守居」の福原與三兵衛が探索した結果を萩の藩政府(井上・内藤・周布)宛てに報告したのがこのこの文書である。主として京都所司代に出入りしていた宮廷画家の岡田式部や伏見奉行所組与力の加納繁三郎に極秘裏に調査をしたとある。松陰がかねてから親交のあった梁川星巌宅から押収した書類や梅田雲浜宅から押収した書類は、伏見奉行の内藤豊後から間部詮勝(老中で井伊直弼の命で京都方面の探索の総指揮をとっていた)に差し出したとある。実は、松陰の探索は長野義言の報告が井伊直弼に届いたのが召喚命令となったのであった。


一、 福原與三兵衛より五月二十七日の書状を以て、井上・内藤・周布へ
181031安政の大獄のはじまり


吉田寅次郎呼登せ一件に付き、出處の事爰元に於て探索に及び、申し越し候様先便仰せ下され候に付き、追々承り繕ひ候趣、御意を得候通りご承知下さるべく、尚ほ又其の後岡式より加納繁三郎へ蜜々探索致し見候處、梁川より出で候書類を間下へ差出し候へども、差し抜き致し候由。尤も梅田召取られ候後差出し候書類は内豊より直樣間下へ差出され候に付き、如何の事に候や様子相伺はず、去りながら此の書類は疑ひ候は現書自筆にては之れある間敷く、寫しどもにては之れなくやと申し候由。加繁申すには、吉寅建白の趣甚だ感心の儀にて、星巌・梅田抔の申し分も皆是より出でたる糟粕にて、當時天下の豪傑尤も慕はしく、追付赦免の部にも至り候はば一度は面會致し度きよし申し居り候由に御座候。尚ほ又彼の者此の度伏水通行致し候節、無頼の徒萬一差障り候ては相濟まざる儀に付き、内密探偵に及び成る丈は防ぎ留め候手段致し候様仰せ下され、是れ又追々探索致し見候處、平島行太郎事先日上京致し、大高屋忠兵衛方滞留致し居り候候由承り候に付き、一趣向(ひとしゅかう)相構へ福井忠次郎事差し遣はし探索致させ、與三兵衛も相對、蜜々彼の心底相探り候心得に御座候處、三四日已前爰元出立、纔(わず)かの滞留にて直樣下坂致し候由。大高又二郎事は當三十日比自國備前林田へ引き取り、旁々只今に於ては彼の者共餘程衰弱の氣立にて、慷慨抔相唱へ候様子に之れなき樣に相聞き候。其の餘別人において強ひて古頃當りの輩も之れなく、先づは格別掛年致し候儀も之れある間敷くやに考へられ候。尚ほ又油斷なく心掛け罷り在り候間、又々様子も御座候はば御意を得べく、旁旁右樣御承知置き下さるべく候。其の為斯くの如くに御座候由。
御面書の通り委細承知致し、弾正殿へ申達。恐惶謹言。七月九日付


『評定所における第一回取調・吉田松陰』
【2018/06/30 12:24】 エッセイ
【安政六年七月九日の評定所】

安政の大獄で最後の犠牲者となった吉田松陰。京都の勤王論者との関係から、長野義言らの探索網に松陰の名が浮上する。梅田雲浜や梁川星巌の捜査線上から、松陰が疑われる。江戸幕府からの召喚命令は、その年の四月に長州藩の江戸藩邸に届き、直目付だった【長井雅楽】が急遽、長州へこの穂をもたらす。この長井と松陰との関係は良好ではなく、松陰は『長井が幕府に松陰を売った』とも思える記述が松陰全集に見える。だから【檻輿での江戸行きの途次の毒殺】の可能性を否定しきれず、愛弟子であった入江過杉蔵に漏らしている。久坂玄瑞は、それを信じ込み、松陰刑死後に執拗に怨念を持ち続け、自刃に追い込んでしまう。松陰が正直な事を知る長井は、わざわざ松陰に幕府の取調に対して、長州藩が不利になる証言をしないよう、念をいれた工作をする。そして松陰の兄が幕府の召喚命令を野山獄に松陰を訪ねて伝える。その十日間で、今日に残る【吉田松陰自賛肖像画・六幅】が書かれる。江戸着が六月末。上屋敷の囚人収容所に松陰を監視体制をひいて収容。あわせて、評定所での証言対策を指示する。しして、第一回の取調が行われる。その内容を綴ったのが、江戸にいた愛弟子の高杉晋作に宛てて手紙に記されている。この日の証言が松陰の命取りになったので、重要な書簡内容である。それを紹介します。

181031安政の大獄吉田松陰評定所

「高杉晋作宛」書簡     安政六年七月九日頃  松陰在江戸獄 高杉在江戸

評定所の様子大略申上げ候。問个(もんか)條二つ、一に曰く、「辰年冬、梅田源次郎長門へ下向の節、密かに面会何を談じ候や」。余曰く、「談ずる所なし、ただ禅を学べなど學問の事を談じたる迄なり」。奉行曰く、「然らば何故蟄居中故(ことさら)に面会せしや、不審なり」。余曰く、「御不審御尤もなり。吾れも源二心中知る能はず。但し源二郎曰く、余が長門へ來るは、全く義卿丑年余が京寓を尋ね來たりしいり、追々長門人への因み出來たるになれば、其の本を思うて來問するなり、別に談ずべきことなしと。故に寅も亦辭せずして面會するなり」。二に曰く、「御所へ落文あり、其の手跡汝に似たりと源二其の外申し出づるものあり、覺え之れありや」。余曰く、「斷じて覺え之れなし。寅著はす所、狂夫の言・對策・時勢論・大義を議す等忌諱に觸るるもの少なからず。若し是れ等の作、他人携へ去って 御所内に投ぜば心底に任さざれども、吾れ敢へて落文をなさず」。奉行曰く、「汝上京はせぬか」。余曰く、「吾れ一室の外曾て隣家へだも往かず。是れ萩中萬耳萬目、掩ふべからざるなり、何ぞ乃ち上京せんや」。曰く、「憂國の餘、人をして落文せしむる等のことはなきか」。余曰く「寅の観る所大いに然らず。試みに時勢論を見給へ。寅明かに 明天子・賢将軍・忠侯伯なし得ざるを知る、故に自ら天下の事をなさんと欲す。豈に落文を以て、明天子に難きを責めんや。此の事寅必ず為さざるなり。抑々落文は何等の文ぞや」。奉行初め數行を讀み出す。余曰く「寅の為す所に非ず。若し寅が手書を得んと欲せば、藍色の縦横なる家板に楷書に書きたり。其の他は寅の手録に非ざるなり。落文とは何如なる紙ぞ。」奉行曰く、「竪の繼立紙なり。」寅曰く、「非なり非なり」。奉行端を改めて曰く、「赤根武人は知るか」。余曰く、「熟知す。彼れ少年の時曾て僕の家に來りて寓す」。奉行曰く、「武人皆汝が策を知るか」。予曰く、「恐らくは一二を知って八九を知らず。武人は源二の塾に在り、源二の捕へらるる、御不審なきに因りて歸國を免ぜらる。時に萩に來り半日談ず。直樣亡命上京す」。奉行曰く、「武人何故上京する」。余曰く、「其の師、縛に就き、弟子亡命して上京す、其の志問はずして知るべきなり」。奉行猶ほ余を援(ひ)きて梅田の黨に入れんと欲す。余慨然として曰く、「源二も亦奇士、寅相知ること淺きに非ず。然れども源二妄りに自ら尊大、人を視ること小兒の如し、寅の心甚だ平かならず、故に源二と事を同じうするを欲せず。寅は則と別に為すあるなり」と。因って詳かに丑寅以來の事を陳ぶ。奉行亦耳を傾けて曰く、「是れ鞠問の及ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤、汝の為めに細かに聽かん、縷述を厭はざるなり」と。余乃ち感謝再拜し、因って應接書を暗誦し逐一辯駁す。奉行また色を動かして曰く、「汝蟄居し國事を詳知するは怪しむべきなり」。余曰く、「寅の親戚、讀書憂國の者三數人あり、常に寅の志に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の國事を知る所なり。寅死罪二あり、皆當に自首すべし。但だ他人に連及するは心甚だ之れを惧る、敢て陳ぜざるなり」。奉行温慰して曰く、「是れ大罪なきなり。之れを陳ずるも妨げず」と。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと。因って玄瑞・清太二人の名を挙ぐ。奉行亦甚だしくは詰らざるなり。已にして奉行問ひて曰く。「所謂、死罪二とは何ぞや」。余曰く、「當今の勢、天子・將軍と列諸侯と萬々做(な)し得ず。寅明かに其の做すこと得ざるを知る、故に自ら做さんと欲す。故に再び書を大原三位に致し、吾が藩に西下せんことを請ふ。三位果して吾が藩に下らば、則ち三位と謀り吾が公を論諌せんと欲す。三位確報なし。吾れ其の為すあるに足らざるを疑ふ。會々(たまたま)間部侯上京して、朝廷を惑亂するを聞き、同志連判し上京して侯を詰らんと欲す。二事未だ果さず、藩命、寅を捕へて獄に下す」と。是(ここ)に於て座罷(や)み、後再び余を召す。奉行曰く、「汝間部を詰らんと欲す。間部かずんば將に之れを刃せんとしか」。余曰く、「事未だ圖るべからざりき」と。奉行曰く、「汝が心誠に國の為めにす。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、大膽も甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申し付くる」。
九日の吟味大略此の如し。只だ匆々(そうそう)中余が口陳僅かに十の四五にして、役人悉く書き留めもせず、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。委細に陳白せば、余が死後委細の口書き天下に流傅すべし。其の節御覧下さるべく候。
奉行三人皆其の人を知らず。一人は石谷因幡守ならん。○今日の議論三あり。奉行若し聽を垂れて天下の大計、當今の急務を辯知し、一二の措置をなさば吾れ死して光あり。」若し一二の措置をなす能はずとも、吾が心赤を諒し、一死を免せば吾れ生きて名あり。」若し又酷烈の措置に出て、妄りに親戚朋友に連及せば、吾れ言ふに忍びずとも亦昇平の惰氣を鼓舞するに足る、皆妙。


【諸友に語ぐる書】
【2018/06/04 10:21】 エッセイ
松蔭大学の【文化研究センター】に寄稿した小論が出てきたので、ブログに転記してみる。この書は、江戸の『伝馬牢』に収監中、四日前に松陰が、死罪を覚悟して松下村塾の門下生宛に書いたが、途中でやめている。構想の練り直しとなったと考えられる。その書き直しが『留魂録』として、萩の松陰神社に保管されている。この『諸友に語ぐる書』と『留魂録』は、同じ目的で書かれたものと思われる。小伝馬町の江戸獄で『牢名主』だった沼崎吉五郎に託され、八丈島に遠島の刑期を終えた沼崎が、東京に戻り、時の神奈川県権令だった野村靖に手渡されたことから、今日に遺る貴重な史料である。

文化教育研究所年報
タイトル : 『諸友に語(つ)ぐる書』 センター名: 吉田松陰文化教育センター

1、 はじめに
安政6(1859)年10月16日、吉田松陰は幕府評定所に4度目の呼出しを受けた。
第1回目が7月9日、続いて9月5日、10月5日、そして10月16日であるが、当日は前3回と異なり、「口上書書判」命令と言ってこれまでの取り調べの内容を記したものを奉行より読み上げられて署名(花押)せよとのことであった。しかし、松陰のこれまでの取り調べに対する応答と記された内容が異なっているため、その確認をめぐって奉行との間で激しい応酬が行われ、松陰は強く訂正(弁駁)を求めた。しかし、老中間部詮勝への「要撃」をめぐって「切払い」か「刺し違え」の文言の修正にとどまっていたため、末文の所に「公儀に対し不敬の至り」という極刑を想定させる文言は修正されずにそのままであった。
評定所側の不条理な要求に納得せぬままこれを確認した松陰は「末文の改まらざるをみれば首を取るに相違なし」と判断したのであった。この日以来松陰は親族、関係者、門下生宛に書簡や遺書等を精力的に書き綴る事になる。掲題の書は、松陰の予てからの「志の継承」を願って書かれた強いメッセージと理解されるものである。

181031研究年報


2、「志の継承」を強く願った吉田松陰
  吉田松陰は、その短い生涯に於て最も大切にし、自らに求めるのみならず、門下生にも厳しく言い聞かせていた語に「志」持つこととその継承があった。松陰にとって「志」は人間だけが持ち得る人生知の意味があった。従って志を持たない人物は松下村塾に於て受け入れがたいのであった。長逝した門下生の回顧談に『何のために勉強するか』と入塾希望を尋ね、志の所在を問いただした逸話が残されているが、この「立志・実行」こそが松下村塾の精神であった。安政2年に従兄弟の加冠を祝して書いた『士規七則』にも「志を立てて以て万事の源と為す」と有名な人生訓が書かれている。これは松陰の人生観、人間観に於て基調をなすものといえるのみならず、連綿と力強く門下生に継承されるべきものとして位置づけられる。
安政3年8月に松陰の幽囚中に萩を訪れた安芸の勤皇僧・黙林に宛てた書簡にもそのこと示す文言が綴られている。即ち『若し僕幽囚中の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之れなく候。』と、自分の志の継承が成果に結実する時が必ず訪れるとの信念を吐露している。こうした松陰の信念ともいうべき志は、自らの死をも忌避しない。生涯を通じて常に言行一致の態度を貫いた松陰は、評定所の判決にも従容として従い、死の恐怖におびえる姿は皆無で、これは後に述べる松陰の死生観に起因しているものと考えられ『諸友に語ぐる書』はこのような彼の信念を貫く形で松下村塾の門下生宛に書かれたと解される。


3、『諸友に語ぐる書』の性質
  「吾れ甲寅の擧、自ら万死を分とす。」の書き出しで始まる700字程のこの書は、実は完結していなく途中で書き止めている。従って書かれた日時も記されていないが、その内容によって安政6年10月20日頃と推定される。恐らく松陰自身が、これよりも優先して書きのこすべきものがあったと考えたためと思われる。因みに、10月20日に書かれたものがこのほかに幾つかある。「死を覚悟して」なお、自らの人生を完成させようとの強い意志が感ぜられるのである。まずこの日『父叔兄宛て』と題する有名な家族、親族あての書簡が書かれる。文意からして、生への執着を断ち切った清らかな心境で書かれたであろうと思われるこの書簡は、「死罪」を確実視した報告の形で書かれる。さらに、親族への感謝と気遣いの文面に溢れていて、死後の処置(祀り)についての希望を述べており、人としての道を求め続けた松陰らしい心の籠った報告文となっている。有名な和歌『親思ふこころにまさる親ごころけふの音でれ何ときくらん』はこの書簡の中で書かれる。同日付で門下生宛に書かれたものが2通、更に3日後の伝馬牢の同志宛に2通が書かれて、生涯に書かれた6百通を越える書簡が終了となり、全ての周到な準備を整えて最後の『留魂録』の執筆に取り掛かかったものと思われる。従って、この『諸友に語ぐる書』は留魂録とともに、松下村塾の門下生への遺著としての性格を持つものであり、ここで松陰が強調して述べているのは『諸友蓋し吾が志を知らん、為めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり』と書かれている通りであって、師の死を悲しむことより私の志を継承発展させてほしいとの願いである。日本国の植民地化の危機感を他の誰よりも強く深刻に受け止めていた松陰は、自らの死が日本の植民地化防止の端緒となる事を願っていた。それは安政6年3月26日の小田村伊之助・岡部富太郎宛ての書簡に、次のような記述があることからもうかがえる。『僕は諸友の名代に一死を賜はりたく候。罪名は大逆の律へ的當なり。』(全集八巻)。また同年4月4日の野村和作宛書簡にもこれを裏付けるかのように『人は吾れを以て亂を好むと云ふけれど、草莽崛起の豪傑ありて神州の墨夷の支配を受けぬ樣にありたし。然れども他国人共崛起して吾が藩人虚空にして居るなり。吾が藩に忠臣あらば早くいづれにか崛起して外より吾が藩を救ふ手段あるべし。何卒亂痲となれかし。亂痲となる勢御見居(す)ゑ候か。治世から直に亡国にはならぬか、此の所僕大いに惑ふ所なり。』として、日本国及び萩藩の防衛を強く望んでいるのである。安政6年の松陰は、迫りくる外圧の危機に対して日本国の防衛を担うべき人物が現れない現状に対して幕府や朝廷、藩のいずれをも期待できず失望していた。
そこには自らの死を以て起爆剤となるしか活路を見出し得ない思いを持っていた。このような考えの下に『吾れの死を哀しむなかれ』との門下生へのメッセージを強く打ち出すことによって、奮起を促したのであったものと考えられる。

4、「死して不朽の人とならん」―松陰の死生観―
  松陰は一方で、自らの死をもって「不朽の人」となるべき願いも併せ持っていたと考えられる。即ち自らの死を有意義ならしめたい心中を吐露している。「松下村塾聯」にも書かれているように『万巻の書を読むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人と為らん』は松陰の門下生への呼びかけであったとともに、自らへも言い聞かせた言葉でもあったと考えられる。そしてまた、安政6年7月の高杉晋作宛の書簡でも自らの死生観を語っている。そこでは次のように書かれている。『死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。』そうしてこれに続けて『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。』と李卓吾の焚書や楠正成の「七生報国」の言葉を念頭に置きつつ教え諭している。こうした「意義ある死」こそ松陰が願ってやまなかったことで、日本国の存亡危機を説いて止まなかった松陰は自らの生死に重ね合せて門下の高杉に伝えたのであった。ここに松陰の志の継承に対する強い願望を見出すことができると同時に、松陰亡きあとの高杉晋作の行動の持つ意味を見ること事ができる。

長州藩内の政権運営をめぐって対立する反対派の「俗論党」一派から殺害の危険を感じた晋作は無駄死にを避けるべく逃避も辞さなかったし、文久年間に結成された「奇兵隊」も松陰の晩年に行きついた「草莽崛起」の考え方の延長線上において理解されなければならない。そこには「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」との師の教えを忠実に守ろうとした門下生の生き方が見られるのである。米英仏蘭連合艦隊の下関襲撃後の英国からの「彦島租借」の要請に対し強硬に反対を貫き通したのも師から学んだ「アヘン戦争」の教訓であったに違いない。こうして松陰の死生観や志は、多面的な形で門下生に受け継がれていったのである。松陰自身は常に言行一致の人であった。そうして『諸友に語ぐる書』は単なる死を目前にした遺著というべきものであるばかりでなく、多面性を持ったものと理解されるべきである。彼の願った僧・清狂や橋本左内、或は古代中国の高士等の人物と比肩されつつ処刑される事に松陰なりの満たされる死生観があったのである。それゆえに読むものをして訴える遺著であるというべきであり、日本の独立維持のために門下生達が奮起してくれることを願ってこれが書かれた。
5、『留魂録』の先駆をなす書
この凝縮した彼の死生観をより解り易く伝えるために、獄中で語り合い志を共にできる同士も含めて門下生に伝える必要があるとの考えに至った松陰は、この書を書き止めて再度書き直すことにしたものと考えられる。『留魂録』執筆までの時間を、熟考に費やしたのに違いない。尊王攘夷に基づく新国家建設―それは外圧に耐えての日本の独立した姿であった¬が、安政年間という時点ではまだ具体的に描ききれなかった。嘉永7年の日米和親条約、安政5年の日米修好通商条約の締結後間もない時点ではそれは困難であったと考えられる。松陰が最も心を砕いたのは存亡の危機に在る日本の現状に対し、為政者の不作為を諌めることであったと思われる。自らを「志士を以て任ずる」考えを持っていた松陰は、国家に準ずる覚悟は当然出来ていたものと考えられる。安政6年5月の「江戸召喚」にあたって書かれた『家大人に別れ奉る』の中でも「少少より尊攘 志は早くに決し」と自分を振り返っているのである。
そして『諸友に語ぐる書』の通り、十月二十七日の幕府評定所において「公儀を憚らぬ不敬の至り」の罪状にて死罪宣告を受けるのである。そうして松陰の辞世となった『吾今国の為に死す、死して君心に負かず。悠々たり天地の事、観照明神に在り』を朗朗と謳いあげつつ従容として斬刑を受け入れたのであった。『諸友に語ぐる』の通り、自らの死を以て門下生への教育を完成させるとともに「志の継承」を確かな手ごたえとして感じつつ生涯を閉じたということが出来るのである。こうした松陰の最期は『留魂録』の最末尾に詠われている三首の和歌にも見出すことが出来る。即ち『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払えよ。愚かなる吾れをも友とめづ人はががとも友とめでよ人々。七たびも生きへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや。』の三首である。己の死を目前にしてなお国家の行末や門下生への遺言を塾考し、人生の終末時まで志の継承を託そうとする生き方に心を動かされない人はいないであろう。誠に天晴な日本人の典型を吉田松陰の生涯に見出すことが出来るのである。


【吉田松陰伝記】の略伝 ー玖村敏雄先生著ー
【2018/05/19 22:01】 エッセイ

『吉田松陰略伝』

吉田松陰研究家の泰斗「玖村敏雄」先生が、掲題の略伝(世界教育宝典・玉川大学出版部)を書いているので、転記して丁寧に読むことに資することとした。
昭和十一年に「岩波書店」から刊行された『吉田松陰全集』(通称定本版)の第一巻の巻頭に「吉田松陰伝」が収載され、後に岩波書店から単行本として刊行された。
これは「吉田松陰」の伝記として最も権威のあるものとして高く評価され、吉田松陰の研究に必須の書籍である。
しかし、これを読んで自家薬篭中のものとするのには大変な努力を要する。
そこで、略伝が欲しいと探していたところ、「手頃な分量」である事と相俟って、内容が解かり易い記述になっていること、記述の正当性の観点から最も伝記として一般の読者に親切なものと思われるので転記することにした。
著作権の侵害にならないよう、出版社及び著作者等を明記して出典を明らかにしておきます。
吉田松陰を知ることとは、単に幕末史の研究にとどまらず、【人間とはどのように生きるべきか】?、あるいは【学問とはどう求めて人間形成に役立つべきか】?、【人間は完全ではない、しかし賢愚はあるとしても、各人は一、二の才能を必ず有している。
己を知って、世のため人の為に役立つように、各人の長所を生かして、世に貢献できれば、それでよし】等々の人生訓、あるいは人生知に基づいて向上的に生きようとする事に価値がある!。
 卓見であると思う反面、【簡にして要】の見事な吉田松陰の人間に対する見識や世界観、教育観、人間観をこの玖村先生の略伝から読み取っていただけたら、この著しく長い文章を転記した価値があるに違いないと思う。
少々の困難をこらえて、是非とも読み取っていただきたいとの願いから、労苦を忍んで転記しました。
一人でも多くの人に読んでいただきたいと願っています。

170331正装の吉田松陰



(一) 山鹿流兵家
吉田松陰、名は矩方、字は子義または義卿、通称は虎之助、後に幾度か改められたが終に寅次郎。松陰または二十一回猛士はその号。文政十三(一八三〇)年八月、長門萩の郊外松本村今の萩市大字椿東字椎原に生れた。父は杉百合之助、母は瀧。杉家は元禄の頃から毛利氏に仕えた下級武士の身分で、松陰の産まれた頃の禄高は二十六石であった。松陰には兄梅太郎、妹千代ほか三人、それに唖の弟一人があった。松陰五歳(数え年以下同じ)のとき、父の弟吉田大助の仮養子となり、翌年その病死に遭い、この家を継いだ。吉田家も杉家とほぼ同じ頃から毛利氏に仕えたが、家職は山鹿流兵学師範で、松陰は養父の禄をそのまま受けて五十七石六斗を給せられた。この禄高は中士の格に属する。

松陰はそれからもひきつづき杉家に同居した。そうして終生娶らず一家を構えることもなくして終わった。松陰は篤実勤倹好学の家風の中に、従順で誠実な少年として、儒学的な基礎教養と兵学者としての専門教育の手ほどきを受けたが、頭脳の鋭い英才として前途を嘱望され、殊に藩主はこの少年に眼をつけてその大成を期待した。
 さて一八三〇年代からのおよそ二十年間、年号は天保―弘化―嘉永と変わったが、それは松陰の兵学修行の時代であった。ところであたかもこの期間はわが幕末史上最も重要な転換期にあたる。江戸幕府が抱懐した内部要因を幕藩体制自体が包蔵する矛盾と困難に見出そうとする学者達は、天保九(一八三八)年に始まる老中水野忠邦の政治改革に注目する。
これに対して欧米列強の勢力が次第にアジア地域にまで迫り、わが国もまたその外圧を受けるようになったとき、これに対処する政策をあやまったために、幕府はみずから墓穴を掘ったとみる学者達がいる。この人達は嘉永六(一八五三)年六月、米使ペリーの浦賀入港を重要な転期とする。いうまでもなく江戸幕府の崩壊と明治維新の成立は、錯雑した因子が複合しての結果起こったのであって、単に政治的、経済的な面からだけでなく、其の間に国体に関する反省を促した歴史研究や水戸学、国学などの影響も見逃してはならないように思われるが、ともかくこの頃のわが国は重要な転期にたっていたことは疑うべくもない。
松陰はそのような時代に、史家のいう西南の雄藩のひとつであった長州藩にあって、その青年時代までを生活したのである。

兵学者松陰の修業は藩学明倫館で藩士のために、山鹿素行を学祖とする山鹿流兵学の講義や図上戦術の指導ができるように、ということを一応の目標とした。山鹿流兵学は戦国時代の武将武田信玄の兵法に基く小幡景憲やその門人北条氏長の甲州流軍学の流派を汲むもので、素行の博学は支那の経書はもとより、孫子呉子その他支那における兵法古典の趣意までも採って伝来の兵法を深め、これを和漢の歴史に徴するという形に仕上げた学問である。松陰は家学の高弟についてこの扁額を熱心に研究し、更に他の流派をも兼修した。そして十九才で独立師範となり、嘉永四年四月二十二才の春には極秘三重伝という山鹿流最高の免許を受けた。これによって明倫館兵学師範としての地歩は確立されたと見てよい。しかし松陰はこれを以て満足しないで、嘉永三(一八五〇)年秋冬の間は九州に、次の年は江戸に遊学した。あるいは平戸や江戸にある山鹿流宗家を訪ねて教えを乞い、或は沿道ならびに江戸に著名な学者の門を叩いてその所説を聴いた。
ところで江戸において勉学中の松陰は重大な失策をした。かねてから熊本の同学宮部鼎蔵と東北地方への視察旅行を計画し藩の内諾をうけていたころ、友人江幡五郎(後の那珂通高)が南部藩の内訌により獄死したその兄春庵復仇を志して同行を求めた。義に感じ易い二人はこれに同意し、赤穂義士討ち入りの十二月十五日を出発の日と決めた。ところが松陰は藩からの過書(身分証明書)が届かないのに、男子の一諾を重しとし、断然藩邸を亡命して水戸に赴き、一カ月ばかり滞在の後東北遊の旅に上がった。四月の初め江戸二毛って自首し、結局萩に追い下しの命をうけて帰った。亡命中江戸において国史国典の重要さを感じたので、罪を待つ間主として国史の研究に没頭した。この年十二月、亡命の挙は「上を憚らず、却って他国人へ信義を立て候心底本末転倒の儀、その筋相立たず」(全集九巻。三二七頁)という理由で「御家人召放」の処分を受けて家禄を奪われた。こうして二十三才の松陰は浪人の身となった。ついでながら、江幡はこの時復仇を果さず、そのうち仇は病死したが、自分は安政六年南部藩士に取立てられた。
藩主は松陰の亡命をきいたとき「国の宝を失った」と側近に語ったと伝えられる。(普及版九、二四六頁)が、杉百合之助に内命して松陰の十カ年諸国遊学を願い出させた。機を見て再び取り立てるつもりであったらしい。少年時代から藩主が特に松陰に眼を着けていたことは伝え聞いていたが、今罪余の身に対しひそかにこの恩命があったことは、一族わけても松陰の感激に堪えぬところであった。みずからの罪を悔い、いかにしてもこの藩主の恩顧に報いなければならないという心情は、封建時代に特異なものと見られるかも知れないが、松陰はこの心情においてこれからの新しい人生を生き抜こうとするのである。嘉永六年の春正月、松陰は希望を前途にえがいて諸国遊学の旅に上る。
瀬戸内海を船で大坂までゆき、摂津、河内、和泉、大和、伊勢を歩いて十数名の学者を訪ね、五月下旬江戸に入る。六月三日にはあたかも松陰の到着を待っていたかの如く、米国の水師提督ペリーが軍艦四隻をひきいて浦賀に入港した。この報をうけた松陰は単身浦賀におもむき、つぶさに事情を視察した。信州松代藩の軍師で、先年松陰が江戸遊学中しばらく教えを受けた佐久間象山も現地にあって幕府の無策を憤慨していた。松陰はこの時ここで「ようやく変革の勢を兆す」日本を自分の肌で感じ取った。
先年江戸遊学のときは安積良斎・山鹿素水・古賀茶渓・佐久間象山等の名高い学者に出入りしてみて、「わが学を託すべき」学者はいるけれども、「師とすべき人ない」(普及版巻二、一二五頁)と感じた松陰である。しかし再びここに来てようやく変革の兆しを看て取った今、何の躊躇もなく佐久間象山に師事することにした。同年九月、家兄にあてた手紙の中で「佐久間象山は当今の豪傑、都下一人に御座候・・・慷慨気節、学問あり、識見あり」(普及版巻八、二一五頁)と書いている。象山もまた松陰の人物を見込んで、「天下の事をなす」に足るよう、全力をあげて、その成長を助けた。先年すでにオランダ語をこの人から教わっており、今度もそれは続けたけれども、次に述べるような事情もあって、この方面では大成しなかったようである。西洋砲術については本格的に学習した。しかし最も注目しなければならない点は、象山が世界的視野に立って展開する当今の急務、国策の諸論によって、従来むしろ保守的な傾向において物を考えた松陰が、その姿勢をはっきり進歩的に切り換えたことである。問題の焦点をしぼって、東洋諸国が欧米列強の侵略に屈し次々と植民地化してゆく現状の中にあって、日本の独立をどのようにして守るかだけでなく彼等と対等の地位に立ってわが国策を行うかに主軸を置いて、思想し行動するという姿勢が松陰において確立してゆくのである。安政元(一八五四)年の著「幽囚録」(普及版巻一、三二九頁)はこの姿勢における松陰の思想見解を簡潔にまとめたものと見てよいであろう。

「幽囚録」によれば、幕府はその頃急場の用にオランダから軍艦を購入する計画を立てたという。佐久間象山はこのことを聞いて幕府に意見書を出した。オランダの軍艦を江戸で受け取るよりも、優秀な青年十数名を撰んで彼の国に派遣し、その往復の間に航海術を習得させ、兼ねて海外の形勢を視察させるのが上策であるという。当面の責任者、勘定奉行川路聖謨はこの説に同意し、象山もその門下から候補者を推薦するよう求めた。象山はこのことを松陰には洩らして、その一人に松陰を押したことも知らせた。ところで、この計画は遂に実行に移されないで終った。そもそも幕府の命令によらないで、勝手に海外へ出ることは三代将軍家光以来禁じられていた。難破した者が外国船によって送還された場合、その者は終身禁固に処せられるという厳しさであった。さてこれより先、土佐の漁夫万次郎という者が台風に難破して米国船に助けられ、渡米十年の後、嘉永四年正月送還された。この万次郎は慣例のようには扱われないで、幕府の役人から海外の事情を聴取されたり、薩摩の島津氏に招かれたりといった待遇をうけた。当時わが国には英語を話せる者がいなかったから、嘉永六年十一月には幕府の下役人に登用されることになった。異例の措置である、時勢の変である。

象山はここで漂流して海外に出るという道が開けたとし、有為の青年をしてこの道を行かせようと考えるようになった。もとより大きな冒険である、しかし海外を知ることの必要は今や絶対的である。そこでこの冒険を再び入門して来た松陰に示唆した。罪の償いということを肝に銘じている松陰は喜び勇んでこの呼びかけに応えようと決意した。
嘉永六年九月、松陰は江戸を出発して長崎へと志した。その頃長崎にはロシアの特使プチャーチンが国境問題をもって来泊し幕府の解答を待っていた。松陰はその船を目あてに漂流策を行おうとするのである。十月二十七日長崎に着いたが、聞けばプチャーチンは二日前に出港したという。雄図空しく敗れた松陰は帰途郷里の萩に両親を見舞ったが、年の暮には江戸に着いている。ここで本筋を離れるけれども附け加えて置おかねばならぬことがある。それは往復の途上、京都に立ち寄り、皇居を拝し、梁川星巌・梅田雲濱・鵜飼吉右衛門等尊王派の志士達と面会し、時局や政治に何の関係もあられぬと思っていた天皇が時勢を深く憂えていられることを伝え聞いたのである。このことは松陰のこれからの思想展開に重要な関係があることをここではただ指摘するにとどめて置こう。
松陰は「明春は一戦に相定まり申し候」(普及版巻八、一八九頁)と信じていたのであるが、その安政元年正月、ペリーが昨年の解答を求めて浦賀に入港したとき、幕府には一戦に及ぶ士気も戦備もなくて、その三月下田、函館の二港を拓く和親条約を結んだ。米国と結んだ条約はつぎつぎと他の列強とも結ばないわけにはいかなくなった。軟弱外交だと非難する声は巷にあふれた。松陰も幕府の無作為失政を憤慨した一人であるが、漂流策の必要をいよいよ痛感してその機会をねらった。その頃熊本の友宮部鼎蔵とペリーを斬ろうと謀ったこともあるが、むしろ国家に害をもたらすであろうと思い直してやめたという秘話もある。
(普及版巻四、一六〇頁)
さて途中いろいろなこともあるけれども省略して、三月二十七日の深夜、松陰は同藩の青年金子重之助と共に伊豆の下田港に停泊中の米艦ポーハタン号に小舟で乗りつけペリーに面会を求めた。通訳のウィリアムスが代って面接した。松陰は辞を尽して海外出遊のことを願ったが許されない。近い将来に両国民は自由に往復できる日が来るのであるからその時を待てという。米国としては今の段階では日本の国法を定めたことは尊重しなくてはならないと考えたようである。事、志と違った松陰達は自首して下田の獄につながれ、四月十五日江戸獄に送られた。途中高輪泉岳寺の赤穂義士に捧げる和歌一首、「かくすればくなるものとしりながらやむにやまれぬ大和魂」と。九月十八日の判決によれば、幕府の量刑は意外に軽く、自藩内に蟄居を命じるにとどめた。佐久間象山も関係者として起訴されたが同じ判決を受けた。これはペリーから、有為な青年に過酷な処分をしないよう申し入れたこともあずかって力があったという。松陰達は十月二十四日萩に送還された。判決に従って父の家に帰るのであろうと思っていたのに、潘政府は父百合之助に野山獄を借牢するよう強制した。金子重之助は平民であったから岩倉獄に入れられた。思うに松陰は孫子のいわゆる「彼を知り己れを知らば百戦危うからず」の鉄則に従い、彼を知るために海外に出ようと企てて失敗した。自分では「敗軍すれば一概に下手のように云えども、その曲折を聞かば必ずよんどころあるべし・・・洞春公(毛利元就)・東照公(徳川家康)の名将にてさえ、大敗軍には一騎落ちしたこともあり」(普及版巻十、四六六頁)といっているけれども、兵学者としてはいささか計画が周密を欠き、戦陣の場合とちがって、その失敗の原因のほとんどすべてが松陰の側にあるのではないか。これはまた別な話であるが、同志社の創設者新島襄は安政六年日本脱出に成功した。先ず函館に行き、そこから上海に渡り、上海から米国の船便をえて無事に初志を遂げた。ともあれ、松陰はオランダ語の研究も洋式兵学の研究も半ばにして、獄中の人となり、再び藩士に取立てられる機会を自分でつぶし、兵学的立場からの実践ももはや不可能な状態に自分自身を追いこんでしまったのである。索漠たる終末である。

野山獄小


 (二) 獄中の読書と教育
 獄中の松陰に対する杉家一族の心遣りは、本書に兄梅太郎との往復書簡を集録しただけからもその一端を想像することができる、まことに至れり尽くせりである。松陰はその恩愛のなかに平常心を取りもどし、家兄の差入れる書物をむさぼるように読み始めた。時代の課題をむしろ行動的に解決したいと考えて来たこれまでの行き方をもっと広い立場から見直さなければならない。課題は今日の問題であるが、これまでの行動に中で違和感をもって受け取ったものを思想的に統合しなければならないところへ押しつめられて来た。先年東北遊歴の途次、水戸に滞在して会澤正志斎や豊田天功などの学者をたずね、水戸学の精神に触れ、国史国典の重要さを痛感していたことを忘れていない。いっぽうでは佐久間象山に傾倒して進歩的な時務論に転向し、その結果として海外脱出も企てた。しかもそのために長崎へ下った往復の途次京都に立ち寄り尊王派の志士達と交わって強い感銘を覚えた。松陰はこれらの異なった立場にある人達のいずれにも尊敬の情を感じたが、そのどれか一つの立場を固守するのであれば簡単である。しかしそうするにはそれぞれの立場にある人達から受けた印象と感銘が余りにも強かった。ここに課題の上に課題があることが問題とならざるをえない。それが読書という形で松陰の獄中生活を生気あふれるものとする。
家兄への手紙に「正月早々から多忙々々。(日本)外史も読まねばならず、詩も造りたし。信玄全集も借りたし、(靖献)遺言も覆読しかけた。入蜀記一読、甚だ面白し、今一読と思い候。中庸も始めの方二三枚読みかけあり。大学は一読。詩も吟詠したし。さてそれにどうも唐土の歴史が読みたい」(普及版巻八、四〇七頁)というのがある。この頃の獄中生活を想像し得るではないか。「野山獄読書記」(普及版巻十、三頁)によれば、在獄一年二ヶ月の間に読んだ書物は六百十八冊にのぼっている。その中には国史、支那史、西洋史に関するものが最も多く、経書、兵書、地理書、時務論、詩文類もかなりある。もとより松陰の希望するものが順序よく差入れられているわけではないが、目的を忘れて多岐に迷う段階ではない。
 獄中でいま一つ注目しなければならないのは、同囚と学習グループを結成したことである。「野山獄囚名録叙論」(普及版巻四、一二〇頁)にもあるように、同囚の士分のもの十一名、うち借牢四人、犯罪者二人、その他も親戚間の折合いがわるいからというのでいわば軟禁である。安政二年を以ていえば最年長者は七十五歳、在獄四十八年、最年少者は松陰、その次が三十五歳。在獄年数は十八年、十五年から七年ないし三年といったような状態で、ひとたびここに入れば再び世間に出ることは先ず望めない。獄中には陰惨な絶望的な空気がみなぎっていた。松陰はこういう事態を知るとたまらなくなり、何とかしなければならないと思うようになった。そこで獄中座談会を開いて共に語り、更に俳句の得意な吉村善作・河野数馬、書道漢詩のできる富永有隣に呼びかけて俳句会、書道会を作り、自分は「孟子」の講義を始めることにした。このようなグループができるまでには種々の問題もあったけれども、およそ半年かかってそれらのグループ学習団が成立した。家兄宛の手紙の一節に「吉村は発句を以てし、頑弟は文学を以てし、外に富永氏書法を以て人を誘い候。今はこの三種の内なにかを学び申さぬ人とては之れ無く、かつ孰れも出精の趣きなり」(普及版巻八、四四五頁)と報告されている。「孟子」の講義は四月十二日夜から始められ六月十日で一たん終わっている。そこで今度は同囚達が同じ「孟子」を分担して輪講しようという。松陰も勿論同席した。そして松陰は各章毎に感想を述べ章意を敷衍することにした。名著「講孟余話」はそれを整理して成ったものである。松陰は別に「論語」の、富永は「唐詩選」の、講義もした。司獄福川犀之助は強く松陰の人物に感銘し、弟高橋藤之進と共に松陰から教えを受けるようになり、ここに野山獄はあたかも一つの学校の形をとり、囚人達の人間性も回復され、獄風も改善されるに至った。これは世界教育史上でも稀有な出来事であると云わねばならない。なお松陰は出獄後、これらの同囚を獄から出すために人を通じて藩政府にはたらきかけ、十一人のうち七人が許されるという結果を見ることができた。

  (三) 幽室の読書と思索
安政二年十二月十五日、藩は病気保養を名として松陰を父の家に帰らせた。その十七日夜、幽室には父百合之助、兄梅太郎それに外叔久保五郎左衛門が集った。けだし松陰が獄中で書き始めた「講孟余話」が萬章上篇までしか済んでいなかったので、この三人が講義をきき、余話を完成させようというのである。松陰の感激は察するに余りがある。講義は萬章下篇から始まり、いろいろな事情で断続はあったが翌年六月十三日をもって完了した。この会には叔父玉木文之進が参加したこともあり、またその子彦介その他親戚の青年も加わるようになった。そうして父や兄はじめ右の青年たちは別に松陰と和漢の書を対読したり講読を受けたりもした。
 さて安政三年から二年半ばかりの間、松陰はその生涯のうちで最も平和な幸福な時代を過ごしたといってよかろう。読書と思索、著述と教育に専念する静かな充実した日々であった。しかしそれ故にこそ次に来た狂瀾怒濤の時代への準備された時期でもある。
 日記によれば、安政三年の読書量は五百五冊、同四年は十一月までしか記されていないが約四百冊である。そのうち最も多いのは「史記」・「漢書」以下「明朝紀事本末」に及ぶ厖大な支那史籍である。国史国典の研究は水戸遊歴以来着手し、いわゆる「六国史」はすでに卒えていた。この時期には「中朝事実」・「神皇正統記」・「外藩通書」・「日本政記」をはじめ通俗国史も読み、「古事記伝」には特に力を入れた。なお会澤正志斎・藤田東湖などの水戸学派及び山県大弐・雨森芳洲・平田篤胤などの代表作も読んだ。これらはそれぞれ日本的立場を強調する学者である。松陰はさらに中江藤樹・伊藤仁斎・熊沢蕃山・荻生徂徠などの著作も研究している。その他毛利藩史・詩文・時務論・民政産業から医学の書籍まで及んでいるが、読書の眼目はどこまでも経世的実学に資しようとするにあった。
 松陰は読書の際必ず要点を抄録した。今日保存されている抄録のすべてを印刷するとなれば、岩波版の吉田松陰全集十巻はさらに二巻を増すことになるであろう。もっとも右の全集の第八、第九巻はそれらの一部を収録している。「鴻鵠志」・「明倫抄」・「宋元明鑑紀奉使抄」・「外蕃通略」などがそれである。著作としては前述の「講孟余話」のひかに「叢棘随筆」・「武教全書講録」・「幽窓随筆」・「討賊始末」、安政三年から同五年までの「幽室文稿」がある。
 松陰の読書と思索について述べたいことは幾らもあるが、ここには前に触れて置いた思想的課題だけについて少しく論究しよう。上述したように松陰の読書は学派にこだわらず、儒学については漢籍はもとよりわが国の代表的な著作はじゅうぶんとは言えないまでも一応眼をとおしている。それに実学の立場から和漢の歴史を最も重んじ、自分で実践的な方向を見定めようとした。そうなると先ず本人の人生観の根本が確立していなければならない。それが文章の形をとったものとして「七生説」(普及版巻四、一二七頁)は貴重な文献である。
 宋代の儒学では太極とか理気とかの論に精緻を尽しているが、松陰はそれを知らないにもかかわらず、むしろ逆に自己の体験から出発してそれを理気の説でそれを裏付けようとする。体験というものは、まだ自由の身であった頃、三たび湊川に楠正成の墓を拝したがいつも感動はかわらない。また墓側にある明の遺臣朱瞬水の楠公を弔う碑文を読んで涙をこぼした。楠公と朱瞬水と松陰、この三人が血縁関係もなく、時代をへだてて、国籍をこえて、互いに共鳴感動するのはどうしたことであろうか。三人を共通につなぐのは、根源が一つであるからでなくてはならない。「すなわち知る、楠公、朱生及び余の不肖みなこの理を資りて以てこころとなせば、則ち気は属かずと雖も心は則ち通ずるなり。これ涙の禁ぜざる所以なり」。人間の心は宇宙の理を資ち、身体は宇宙の気を稟けて成る。身体は物であり物欲の宿るところ、その死はその構成分子の分解破裂である、「腐爛潰敗して復た収むべからず」である。心は宇宙の理をうけていて人間は人間として在らねばならぬ道を知り、また知って行おうとする。君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友とその対応関係の中に自分の在り方を見つける。「私は体なり、心は公なり。私を役いて公に殉う者を大人となし、公を役いて私に殉う者を小人となす」。楠公父子は血がつながる点で気もまたつづいているが、心の命ずるところに従って南朝の忠臣として行動した点で理もまたつづいている。楠公と血縁関係のない者も楠公の心を心とするものはひとしく理の世界に共存する。楠公がわれわれを感奮興起させるのは、楠公を忠節に駆りやる理をわれわれもうけているからである。七たび人間に生れて、と楠公はいったが、此の人の忠節に感ずる者の絶えぬ限り、楠公の精神は七たびどころではない、不滅である。人間とは結局この亡びゆく身体を以て理すなわち公なる精神を顕現する座とすることである。松陰はこれまで幾たびか失敗をしたけれども、志すところは「聖賢の心を存し、忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼす」にあった。この志は私利私欲の私でなく、「この心すでに楠公諸人とこの理を同じくす」るのであって、「必ずや後の人をしてまた余を観て興起せしめ」ようとするにある。これは大言壮語であってはならない、自分の生きている間にどれだけ公の道に自分を捧げることができたかによって決まることであるから、七生説は「ああ、これ我に在るなり」と結ばれているのである。
 公の道は世界に共通のそれと、一国一身に独特のそれとがある。「講孟余話」(普及、巻三、四四一頁)に「道の大本をいわば、人と生れては人たる所以を知り五倫を明らかにし、皇国に居ては皇国の体を知り、本藩に仕えては本藩の体を知り、以て根基を建て、さてその上にて人々各々その職掌を治むべし。儒官は経史を博覧精究し、天文家は天文、地理家は地理、医家は医術、画家は画法、また弓馬刀槍銃砲各々その技芸を以て専攻の家業とする者は更にその精妙を究め、その他士は士、農は農、工は工、商は商、みなその職掌を治むるなり。かくの如く大小網目井然画定する上は西洋究理学の如きもまたおのずから世に廃すべきにあらず」とある。五倫の道は、松陰に従えば、万国共通であり、わが国体、毛利藩の在り方は一国一藩の独特なものであり、各種職掌は皆一身の独特の拠って立つところである。
 次に松陰の国体観は初めは兵学者らしく、しかも当時欧米列強の武力政策とも対応して、幕府は天皇の下に征夷大将軍の任を負い、国力を充実して兵を強くし、外国に対して屈従的政策をとらないばかりか、進んで弱国を併合して皇化に浴させるようにするのが、久しく忘れられているけれども、わが国体であるとしている。次に松陰は「古事記伝」の著者本居宣長から強く影響をうけたようで、天照大神の神勅をはじめとするわが国の肇まりについての神話をそのまま信じる一種宗教的な立場において天皇の絶対を信じている。大日本は神国なりといって北畠親房と同じ根本の信念に立っている。支那で先王の道といってものがわが国においてのみ実存し「皇朝は万葉一統にして・・・人君は民を養いて以て祖業を続ぎたまい、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致なるは、唯わが国を然りとなす」(普及版巻第四、二〇頁)と要約し、ここでは明らかに水戸学の思想につながっている。以上は江戸時代に末期までに到達した日本の学問上の国体究明における結論というべきものを松陰が採って自己の見解に統一したのである。現実には幕府のもとで天皇は軽んぜられ、諸大名はまた幕府の命のままに動くだけである。ここにもと朝廷と深い関係にあって政治の枢機に参与したが、広元にいたり源頼朝を佐けて幕府を開かせた大江氏の子孫である毛利氏の在り方について松陰は考えるのである。毛利元就の時代から孫の輝元時代まで、毛利氏は中国地方の大部分を領有した雄藩であり、尊王の大義もおろそかではなかった。しかるに輝元は関ヶ原の戦いに豊臣方に加わって敗れ、領土も防長二国にせばめられて、徳川氏の外様大名となって二百余年を経過した。長州人の中には関ヶ原の敗戦を忘れ得ず、何時か機を見て徳川氏への屈従をはね返し、毛利氏がとって替ることを謀るべきだと力む者も少なくなかったらしい。松陰は「この論余が深く痛心するところなり。およそ七道の諸藩いずれか天子の命を奉じ、幕府の令に従う者にあらずや」(普及版巻三、四九頁)という。しかし現実には天子の命を奉じて事を運ぶという体制ではない。このような体制は鎌倉幕府創設以前にあったことで、江戸時代の今において討幕論者でない松陰としては幕府が天子の命を奉じて政治を行う変革を心にえがかなければならない。その際諸般の大名が幕府に対して強くその変革を要請することが、封建社会の秩序を守る限り、穏やかな道である。松陰は朝廷との関係の浅くない毛利氏こそ率先してこの任に当たるべきであるとし、毛利藩主をそのように考え直してもらうように政務の首脳部を動かさねばならないと考えたのである。「先ずわが大夫(家老)を諭し、六百年の罪と今日忠勤の償いとを知らせ、またわが主人(藩主)をしてこれを知らしめ、主人同列の人々をして悉くこの義を知らしめ、それより幕府をして前罪を悉く知らしめ、天子へ忠勤を遂げさするなり」(普及版巻八、五一八頁)。ここで注目しなければならない点は、このような変革論の着手の処に松陰自身が立っていることである。評論家の評論とは根本的に違う。そうしてその根底には「世の君に事うることを論ずる者謂えらく、功業立たざれば国家に益なしと。これ大いに誤りなり。道を明らかにして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云え、君に事えて遇わざる時は諫死するも可なり、幽囚するも可なり、餓死するも可なり。これ等の事に遇えば其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず永く後世の模範となり、必ず其の風を感観して興起するものあり」(普及版巻三、一九頁)という思想がある。封建制度の中の改革論者松陰はこのように自己をギリギリの一線にたててものを考えたのである。
 なおこの時期の松陰の思索で重要と思われるのは、時局を憂える心と天朝を憂える心との本末についてである。兵学者松陰は外国の圧力に先ず着眼し、国家の独立の脅かされることを憂えた。そして図らずも京都の尊王派の志士と交わるようになって天皇の深き憂えの趣きを聞いた。時局を縁として天皇の憂えを知ったのである。従って天皇は松陰においては無意識にではあっても時局打開のための機勢としての意義において見られた。時局が平穏であれば天皇の存在には思いも及ばぬですんだであろう。松陰はそのことに気づかないでいた。安政三年八月、安芸の僧黙林が萩に来て、松陰との数次の書簡往復の間に、矍然として始めて悟った。「従前天朝を憂えしはみな夷狄(外敵)に憤をなして見を起せり。本末すでに錯う、真に天朝を憂えしにあらざるなり」(普及版巻四、一八六頁)。国体が本で、時局は末だという思想の転回である。時局対策として、例えば攘夷論とか開国論とかを唱えても、それは尊王論に基かなければならない、尊王の一点で国民が統合されていれば、時局の対策は攘夷開港いずれでも、その時の宜しきを制すればよいのである。事実松陰自身も、学校に外国語科や航海科を設けるとか、西洋究理の学を入れるべきであるとか論じており、またわが国史研究によって江戸幕府の鎖国以前は海外の諸国と交わっていたことを挙げている。これらは佐久間象山から承けた進歩的な思想に根差しており、背景には勿論開国論がある。松陰は処刑の前日に書いた「留魂録」のはじめの方に、幕吏が予審調書の中に、松陰の主張した航海雄略のことを記載していないのを不満であるとしているが、航海は積極的に海外に乗り出すこと、雄略は海外文化の採用、国力の充実、そして次第に隣国から始めてアジア諸国や濠州をわが国威の下に置こうとする政策である。これは欧米列強の武力政策に反発する松陰の兵学者的対抗である。「鎖国の一条は時勢御察観成され御変革これなくては皇国御興復はとても出来申さず」(「愚論」普及版巻五、一五三頁)というのはこの立場においてである。とはいえ、当時わが国の国力は衰え士気は振わず、外圧に屈服していつ欧米の属国になるかも解からないような状態に在った。これを百八十度転換して航海雄略の国策に切替えることは難事のなかの難事である。松陰はここで「鎖国を開き候には墨夷丸に御拒絶なされず候ては、御国威立ち申さず」(同上)という。「愚論」が書かれた五月下旬にはまだ調印はしていなかったとはいえ、すでに議定されていたことであるから、これを破棄することの困難は承知の上での発言である。結局両国の開戦を予想し、これによって国民の士気を振い起し、団結を固くし、従来の消極的態度を積極的に転換しようとする。孫子の「これを死地に陥れて然る後生く」という冒険である。開国論に立ちながら攘夷論を主張するのであるいかにも暴論のようであるけれども、松陰没後四年の文久三年四月には、将軍家茂はその五月十日を以て攘夷開始の期限とする旨を天皇に奏し、各藩へも布告した。そうしてその日長州藩は馬関沖で米船を砲撃し、次いで米仏蘭英四ヵ国の連合艦隊との海峡戦に突入した。

150625松陰と幕末明治の志士たちアマゾン写真160621松下村塾塾舎



  (四) 松下村塾
 父兄や親戚の者を相手に読書し講義するという様式は松陰自身の読書と思索の一部を成したことはすでに述べた。安政三年もこのようにして経過してゆくが、私としては特に、八月山鹿素行の「武教小学」を講じ始めたことに重要な意義を認めたいのである。「丙辰日記」はこの八月二十二日から筆を起しているが、その初めに「午後、武教全書を開講す。外叔久保翁、家大兄、佐々木兄弟、高洲滝生、従弟毅甫これに会す」とある。「武教全書」とあるが日記の進行を見ると先ず「武教小学」を講じている。佐々木亀之助・弟梅三郎・高洲滝之丞・玉木彦介みな親戚の青年である。松陰はこの年も読書日記は継続しているが、この「丙辰日記」(普及版巻一一、八四頁)はいわば教育日記である。
 松陰はあたかもこの頃「松下村塾の記」を構想中であった。松下村塾は、天保十三年叔父玉木文之進がその私塾にかかげた号であるが、数年後公務のため閉鎖し、多分嘉永年代になって外叔久保五郎左衛門がその家塾にその号を用いて安政三年に及んだ。この久保翁が松陰にその塾の記を作るよう依頼したのである。「丙辰幽室文稿」に収めた「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)は九月四日に成っている。この文において松陰は教育の目的を論じ、青少年の在り方と使命にまで及んでいるが、その終りの方に「余は罪囚の余、言うに足るものなし。然れども幸に族人の末に在り、その子弟を糾輯して以て二先生の後を継ぐがごときことあらば、すなわち敢て勉めずんばあらざるなり」とある。外叔の塾の記を作ってこのようなことを書き加えるのはいかにも非礼のようであるが、実は久保翁の意志がそこの在ったからのことであると見られる。しかし謹慎中の身分をはばかり、松陰はこの次の年十一月自分の私塾にあてる八畳一室がたてられたときも「久保氏の新塾」という呼び方をしている。この建物ができるまでは杉家の客室が教授の場となっていた。ついでながら松陰の松下村塾は安政五年三月さらに十畳半を増築し、同年七月に至って漸く藩府から家学の教授を許可されている。安政三年十月、岩国の奥地山代から入門した増野徳民が、親戚でない者として初めてであり、次いで近隣の吉田栄太郎、松浦亀太郎が来た。徳民は医、栄太郎は足軽、亀太郎は商家の出で画家を志した。ここに初めて士分でない者を加えたことになる。そうして三人が松下村塾拡張のために活躍して次第に有為な青年をここに集めるきっかけを作った。中谷正亮・高杉晋作・久坂玄瑞・尾寺新之丞などが入門したのは安政四年になってからである。
 ここで塾の発展していった経緯については述べないが、安政五年十一月二十九日藩命によって塾を閉鎖するまでの間門人の列に加わった者は八十名前後であると推定される。そのうちで松陰の書いたものにしばしば出るのは次の二十数名である。
 高杉晋作(十九)、久坂玄瑞(十八)、入江杉蔵(二十一)、吉田栄太郎(十七)、佐世八十郎(二十四)、岡部富太郎(二十七)、福原又四郎(?)、松浦亀太郎(二十一)、増野徳民(十六)、有吉熊次郎(十五)、作間忠三郎(十五)、品川弥二郎(十五)、天野清三郎(十五)、国司仙吉(十二)、時山直八(二十)、杉山松介(二十)、山県小助(十八)、玉木彦介(十六)、中谷正亮(二十七)、尾寺新之丞(?)、伊藤利助(十七)、野村和作(十六)、冷泉雅二郎(十七)、僧提山(十九)、馬島甫仙(十四)、山田市之充(十四)
氏名の次に括弧して記した数字は安政四年における数えの年齢で、このうち数人は安政五年に入門したものである。なお桂小五郎、のちの木戸孝允を門人に加える著作家もあるが、嘉永二年の兵学門下であって松下村塾では教育を受けていない。
 当時は階級性がきびしく藩学明倫館は士分の者以外の入学は許さなかった。松陰の塾ではそうした差別はしない。上記二十七名のうち出身別にみると士分十六、足軽七、医二、僧と商各々一である。入江杉蔵、吉田栄太郎、野村和作、品川弥二郎、伊藤利助、山県小助等は足軽出身である。
 さて松下村塾の教育目的は「士規七則」(普及版巻四、一九頁)、「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)などで明らかなように、人倫国体を弁えて士道と士行の活躍を期待した。だから家格にかかわらないで人材の登用の要を力説した上書もある。テキストとしては漢籍もかなり多く用いたが、「異国の書を読めばとかく異国の事をのみ善しと思い、わが国をば却って賤しみて異国を羨む様に成行くこと学者の通患」(「武教全書講録」普及版巻四、二一〇頁)あることを戒め、大言壮語することを止めて着実に下手即ち実行の端緒を求める態度を要請しようとする。士道は義に、士行は質実で欺かないところに立つという。以上が根本的思想であって、その限りにおいて甚だ倫理的色彩が強い。併しながら松陰の特色はこのような根甚をふまえて人各々の職分と個性に応じて自分のはたらく分野を見出し、そこに必要な知識才能を身につけなくてはならないとしたところにある。根本思想においてすでに立身出世的な利己主義を排し、公に奉ずる精神を強調する松陰は、この時代の危機感において政治外交経済などの問題を大胆に取り上げ、国政改革への方向と方法を探求する知性と情熱を盛り立てようとした。このようにはっきりと自己の立場を明らかにして政治教育を行ったことは、教育史上松陰の著しい特色である。もっとも一人一人の才能個性や家庭の事情等により国事にはたらくこと以外にも人間として生きる道のあることを示し、励ましたことはいうまでもない。松陰は文武・心身の教育の調和に心を配り、とかく文と精神に偏し易い当時の私塾としてはめずらしく野外演習、水泳、撃剣を奨励し米搗き、耕作などもさせた。また塾生間の敬愛に基づく協同社会的関係の設定には最も注意し、その結果松下村塾の教育は驚くべき成果を挙げた。個性的指導と協同社会性の陶冶、この両面が塾教育成功の方法的原理と見てよいかも知れない。個性の指導についてはここに詳述し得ないが、本書中にはその指導例が豊富に収められているから、就いて考察されるように望みたい。なお共同討議法を活用したこともこの塾の特色として挙げられるであろう。
 松陰主著の原文を読むとき、そこには大成した学者が未熟な青年を静かに教えているといった趣よりも、未完成な、自分自身もなお日々自己反省と向上をしなくてはならない青年が、その未完成な学問と思想を以て若い生命にぶつかっているという生々しい印象を受ける。「妄りに人の師となるべからず、また妄りに人を師とすべからず。・・・師弟ともに諸共聖賢の門人というものなり、同門人の中にて妄りに師といい弟子というは第一聖賢へ対して憚りおおきことならずや」(普及版巻三、一三八頁)。松陰にとって門人達は同志でありわが友である。しかも「気体血肉皆吾れと連接する」(普及版巻九、二四四頁)友である。
 松下村塾は英才教育の場であったという誤解がある。黙林への書簡に「若し僕幽囚の身にて死なば吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をが後世に残し置くなり。子々孫々に至り候わばいつか時なきことはこれなく候」(普及版巻八、五一九頁)烈しい執念にも似た悲願は、これを教育によって実現するほかないし、それに称う者は正しい意味での英才でなければならない。そのような英才を松陰が強く求めたことは当然である。入江杉蔵に塾生の人物評を書き送った中に、高杉晋作・吉田栄太郎・久坂玄瑞の三人を挙げ、「人の駕御を受けざる高等の人物也・・・吾れにおいて良薬の利ある、まさにこの三人を推すべし」とある。(普及版巻六、一二四頁)この三人に入江を加えて松門の四天王とも呼ばれたという。しかしながら塾を開いたからにはそのような英才ばかりを待つのではない。「来る者は拒まず去る者は追わず」というのが松陰の態度であった。だから吉田栄太郎が連れて来た市之進・溝三郎・音三郎等は悪くすると村の不良青年になりかねない傾向さえ持っていた。義務教育制度でないあの時代のことであるから、全然その志のないものが入門することはなかったであろうが、いろいろな資料から察せられることは、普通の知能の青年がやはり多かったようである。大者は大成し、小者は小成する。教育は遺伝的素質の大小をどうすることもできるのではない。唯各々の持ち前を成らせることにだけに関与する。そうして松陰はそのことに成功し、能力相応の人材を育成した。それらの中から幕末の改革的運動の指導者も出たが下働きをした者もでた。前にあげた四天王はよく松陰の志を継いでこれが実現に奮闘したが悉く維新前に殉難した。幸に生き残った人達の中に前原一誠・山田顕義・野村靖・品川弥二郎・伊藤博文・山県有朋等の大臣を出したからといって、それは英才教育を目標としたというべきではない。松陰は一人一人を大切にして、人間らしい人間に育てあげることをねらいとしたのである。

(五) 狂瀾怒濤
安政五(一八五八)年四月、井伊直弼が幕府の大老に就任した。幕府では、懸案となっていた二つの重要問題の解決をこの大老に期待したのである。その一つは、前年十一月、米国の総領事ハリスに迫られて日米修好通商条約を議定したが、勅許を得ることができないままになっていた。その二つは、将軍の継嗣として水戸徳川斉昭の子の一橋慶喜と紀伊の徳川慶福(家茂)が候補に擬せられていたけれども、それぞれに有力な支持が対立して決定されないでいた。井伊大老はその六月この二つの困難な懸案を一挙に解決した。一は勅許を経ないで新条約に調印し、二は尾張・水戸など徳川親藩の反対を押し切って慶福を将軍の継嗣と決めた。大老には大老としての見解があってのことと思われるが、心ある人々にとってこの処置は予想外のことであったから、にわかに激しい反対論が沸き立ち、殊に勅許を経ないで条約調印という点で尊王派の志士達は激怒した。これに対して井伊大老は水戸や尾張の藩主等を罰し、京都には間部老中を遣わし、志士達を捕えて獄につなぐという弾圧手段に出た。これが導火線となって、封建体制下の複雑な各藩の事情を踏まえて、しかも当時英仏両国軍が、隣国支那を屈服させた余威を仮りてわが国にのしかかろうとする勢を示し始めた中に、尊王と佐幕、開国と攘夷と一見相容れない主張を楯に論戦が展開され、志士達の暗躍が活発になり、中には過激な行動にまで爆発する者もあり、世を挙げて一大混乱が始まった。明治維新への狂瀾怒濤の時代である。
 松下村塾は時代の課題と取り組む実学的立場に立っていたから、このような時代の激変に対処する一人一人の姿勢を問題とするのは当然である。あたかもよし、当時藩政府はむしろ進歩派と見られる人達で構成されていた。その首班は家老増田弾正で松陰の兵学門下、その下の実力者周布政之助や前田孫右衛門・井上与四郎も松陰の支持者である。従って塾で討議したことのうち、藩政につながる事項は意見書として提出すれば、藩は好意的に検討し、時にはそれを藩の方針として採用さえする。だから塾での討議はいわゆる書生の空論に終ることを許されない。塾生達はその共同討議の持つ意味をよく理解し、責任感と自尊心のうちに、それぞれ一人一人を形成していくのである。
 討議資料の問題がある。あの僻地の地では刻々に変動する時局の情報が手に入らぬのではないかと一応は想像される。ところが正確な情報入手と現状視察の必要についての松陰の建策は藩も採用して、多くの人材を江戸や京都に派遣していた。安政五年七月までに松下村塾からこれらの地に出かけていた者を挙げるなら、中谷正亮・久坂玄瑞・入江杉蔵・吉田栄太郎・松浦亀太郎、それに高杉晋作がおり、この月また形勢視察のため潘から京都に出張を命じられた六人のうち、杉山松介・岡仙吉・伊藤利助・伊藤伝之助は塾生である。その他松陰の友人も幾人か出かけている。これらの者から送ってくる情報や資料、それに藩政府の実力者に質して得た情報がある。それらを資料として共同討議は行われる。松陰はこれまでに述べたような基本的立場に立って討議の方向を示し、筋金を入れる。しかし決して無理に自分の流儀に引込もうとしたのではない。安政五年二月頃、塾生の討議が或る結論に達したところ、高杉が後にこれを聞いて反対論を唱えた。松陰はその言に従って塾の結論を採らぬことに決めた。高杉への書簡に「近日の議の如き、清太(久保)諸友その説なきにあらず。然れども鋭甚だ過ぎ、すなわちこれを疎脱に失す。足下の一言これを阻むことなかりせば、僕ほとんどまさに大事を誤らんとす。事過ぎてこれを思えば、大夢の一覚の如し」(普及版巻五、一一二頁)とある。
 ここで注意したいことは、右に述べたように、安政五年になると塾の俊英は次から次へと京都や江戸に出かけて、塾には年少者か凡庸者しか残っていないという事態である。殊に高杉・久保・入江・吉田等が一人もいないことになっていると松陰の論敵は先ずなくなってしまう。それに時局は変化する、憂うべき情報はしきりにはいって来る。共同討議といっても松陰の独擅場になり、年少未熟な塾生達は引きずられるばかりになる。松陰の焦燥感がつよくなるに随って考え方は激烈になり、計画は疎漏になる。門人達に反論する力はないけれども、内心では常に必ずしも納得しているとは限らぬこともある。ぐずぐずしていると松陰の怒りを買い、決意をにぶらすと命が惜しくなったかと責められる。十月十九日萩に帰った入江杉蔵が江戸の吉田栄太郎に送った手紙の末尾に「栄太早々帰れ、先生のもりに困る人ばかりなり」(全集巻六一一三頁)とあるのはこの間の消息を伝えるものであろう。
 八月二十二日、京都から密使が萩に来て、いわゆる戊午の密勅を藩政府に手渡した。幕府に万一不義のことがあった場合、京都の守護を要請したもので、水戸ほか十四の藩に下ったのである。当時井伊大老は天皇を彦根に遷す意図があるとの流言が長州にまで飛んでいた。藩としては極秘のうちに事を議し、翌月周布政之助を京都に上らせ、勤王派の公卿達を訪ねて藩主の意を伝えさせた。このことから藩は次第に松陰にも洩らされぬ秘密をもつようになり、また藩の方針とは異なった行き方の言論や行動を警戒するようになる。京都や江戸に在る藩の士卒、その中には松下村塾の門人もいたこと前述のごとくであるが、それらの者に対しては警告を与え妄動を戒めた。松陰に対しても周布はその家兄を通じて、勤皇の事は藩においてすでに計画は立っている、来春藩主参勤で江戸に出てからそれは着々と連ばれるのであろうから、この際書生の妄動は慎まねばならないと伝えた。この時点における藩の方針は、「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖宗へ孝道」という原則に立ち、公武一和の方向に周旋するに在った。それは松陰の思想から示唆されたもののようである。例えば松陰のこの頃書いたものに「大義を議す」という論文がある、その一節に「今日に務は大義を明らかにするに在り。大義すでに明らかなれば征夷と雖も二百年来恩義の在るところ、当に再四忠告し勉めて勅に遵わんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまわず。征夷翻然悔悟せば決して前罪を追咎したまわず。是れ吾れ(長州藩)・長幕府の間に立ちて之が調停をなし、天朝をして寛洪に、幕府をして恭順に、邦内を協和に、四夷をして懾伏せしむる所以の大旨なり」(普及版巻五、一九四頁)と。松陰は対立闘争でなく反省和解の途を強く願っているのである。公武一和という言葉は当時いろいろな立場の人によって使われたが、松陰は大義を明らかにするという立場においてこの言葉を用いた。藩の方針にはもっと現実的な打算があったかも知れない。
 松陰はこれより先、京都の公卿大原重徳を長州へ迎える策を立てたり、梅田雲浜門下の赤根武人が松陰を訪れたとき、再び亡命して京都に潜入し雲浜がつながれていた伏見の語句を破壊する策を授けたりしたが、共に実現はされなかった。今周布から、藩主江戸に下り勤皇のことに周旋すると聞かされて満足するどころか、不安を感じないでは居られない。藩主を危地に陥れることを恐れずに居られない。藩主の出馬より前に藩士が動き、素地をつくった上で藩主を迎えるべきと考える。そこで松陰は来年の参勤延期論を唱え、一方では再び大原重徳を迎えて長州で義挙を起そうと企てる。野村和作と田原荘四郎をその使として出発させたが、田原が裏切って、京都の長州藩邸に密告したため野村は追い落としの命をうけた。
 十月の終り頃、尾張・水戸・越前・薩摩の四藩が連合して井伊大老暗殺の計画を立て、長州へも協力を求めて来たという情報が入った。勤皇の魁を以て自ら任じる松陰はこれを聞いてじっとしてしては居られなくなった。塾生との討議はこの魁の問題を中心に重ねられた。そして十月下旬に至って一つの計画が成立した。京都に滞在して勤皇の志士を逮捕し、朝廷に圧力を加えて正義の公卿を斥け、条約の勅許を得ようとする老中間部詮勝を要撃しようというのである。前に引用した入江が「先生のもりに困る」といって手紙を書いたのはこの頃である。この計画には十七名の塾生が血盟した。その姓名は三人だけ解かっているが、その他は記録がない。しかし多分青年組のほとんど全員であったと想像される。ともかく十七名は十二月十五日入京の予定を以て準備にとりかかった。いうまでもなく謀は密でなければならない。ところが松陰は事成れば藩主が続いて出るきっかけを作り、事敗れるならば十七名が罪を負うても天下の正気を奮い起すに足ると自信し、近頃藩の方策に苦慮しているらしい周布政之助や前田孫右衛門等を励ますに足るとでも思ったのか、十一月六日にこの秘密計画を二人に内報し且つ許可と援助を求めた。前田は賛意を表したというが、周布は驚き憂え、また松陰の身の上も案じ、その兄や友人を通じ百方手を尽くして思いとどまらせようと努めた。しかし結局それが空しい努力に終ったので、十一月二十九日藩主に乞うて松陰の厳囚を命じ、ついで十二月五日借牢の形式で野山獄に入れるよう父百合之助に内命を発した。このことについて門人作間忠三郎・吉田栄太郎・入江杉蔵・佐世八十郎・岡部富太郎・福原又四郎・有吉熊次郎・品川弥二郎の八名は憤激し、周布政之助、井上与四郎の邸に押しかけ罪名を明らかにせよと迫ったが、代理者しか出会わず要領を得なかった。次の日この八人は暴徒としてそれぞれ自宅に謹慎を命じられた。松陰の父はその頃重病の床に臥していたので松陰は看護のために入獄の延期を請うて許され、その二十六日ほぼ安静を得たので入獄した。こうして松陰の主宰した松下村塾は閉鎖された。
     留題村塾壁   村塾の壁に留題す(普及版巻五、三七一頁)
  宝祚隆天壌   宝祚は天壌と隆え
  千秋同其貫   千秋その貫を同じくす
  何如今世運   如何ぞ今の世運
  大道属糜爛   大道は糜爛に属す
  今我岸獄投   今我れ岸獄に投じ
  諸友半及難   諸友半ば難に及ぶ
  此挙旋可観   この挙旋観るべし
  東林振季明   東林は季明に振い
  太学持衰漢   太学は衰漢を持す
  松下雖陋村   松下は陋村と雖も
  誓為神国幹   誓って神国の幹と為らん
東林は明末に、太学は漢末に起った義党の名である。万世一系の天皇をいただくわが国も、今や全くすたれた。その中に松下村塾徒が松陰の入獄前に示した正気はやや観るべきものがある、東林党や太学党がかつて示したような意気を観ることができる。松本邑は陋村であるが、誓って神国の幹となる人物がいることを信じて、自分は安んじて獄に入るという意味であろう。


  (六) 死の教育
獄中の松陰はやがて新年をむかえ、再び読書の時間を得たことを喜び、同囚と読書の会を始めもした。しかし先年在獄のときとはちがって、時局の切迫感が強く、悠々自適というわけにはいかなかった。間部老中は京都における活動に成功し、去年の大晦日、攘夷猶予の勅許を得た。その前日、水戸の関鉄之助・矢野長九郎が前藩主斉昭の密使なるものをもたらして、藩府の重役に面会を申し入れた。当時周布・前田等は京都に出張中であって、藩は代理人を以て水戸との連携を辞退した。二人が萩を去って数日後の正月十五日、播磨の大高又次郎と備中の平島武二郎が萩を訪れたが、藩では大高が梅田雲浜の門下であると聞き面会を拒んだ。この二つの事件について、松陰は小田村伊之助に善処するよう要望したが、いずれも徒労に終わった。その小田村は松陰の妹婿で当時松下村塾の世話をしていたが、松陰から前に述べた大原重徳西下策の実行を促されたのに対して、塾生達と討議した結果を松陰に報告して「これは炎火に投じ候迄にて塾中の志かの卿へ未だ通ぜず候内早く執捕を受け申すべくや」といい、井上与四郎・周布政之助、次いで北条瀬兵衛が上京したのは皆長州藩士の妄動を警戒するためであるから「多分事成り申すまじく候」(普及版巻九、一八七頁)と結んでいる。折も折、正月十四日頃、江戸の高杉・久坂・中谷・尾寺・飯田の五人連名血判の書簡を受け取った。これは去年十二月一日に認められたもので、松陰の間部老中要撃策を時機が早すぎるという理由で思いとどまるように諌める趣意のものであった。
 小田村の手紙にしても、江戸の五人からのそれにしても、松陰の勢込んだ心持とは全くちぐはぐである。どうしてこんなにも意気地なしになるのだろう。「江戸居の諸友・・・皆僕と所見違うなり。その分かれる所は僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積り」(普及版巻九、一九二頁)と松陰はいう。今はその時機でないというのは行動の結果が功業にならないで、逆に処罰を受けることになりそうだからである。失敗するに決っていることに命をかけるのは犬死であると考える。治まった世であれば忠義がそのまま功業になることもある。今は乱世であり、国家の危機である。忠義一途の心だけが危機を済う。功業を立てようとする心は利己心に外ならぬ。幕府や藩府が因循姑息であるのも自己保存の利己心を超えて国家の危機を救おうとする誠の心に至らぬかららである。それを非難攻撃する者は、天朝のためにとか国家のためにとか口では唱えていても、肚の底では功業を立てたいという利己心が動いているのではないか、と松陰は思うのである。この問題はそう簡単に割り切れるかかどうか、にわかに決めにくいことであると思われるが、この頃の松陰はこのような見方で人を見たのである。そうして友人や門人の誰れ彼れを怒り罵り、憤り悲しみ、結局は絶望の底に孤独な自分を見つめざるを得なくなる。
 「平生の師友最も敬信する者交々吾れを遺棄し、交々吾れを沮抑す。尊(王)攘(夷)なすべからざるにあらず、吾れの尊攘を非とするなり。尊攘自ら期してしかも尊攘を非とせらる。吾が事已んぬ」(普及版巻六、一〇八頁)といって、松陰は絶食に入ってしまった。正月二十四日である。家族親族も友人門下も皆心配して思いとどまるようにと手紙を書いた。幸にその二十六日に、松陰の罪名問題で謹慎を命じられていた入江杉蔵・吉田栄太郎・野村和作等が解除されたと聞いて、絶食はやめることにした。
 さて藩主はこの三月、東勤の途に上る予定である。松陰は昨年の冬「己未御参府の議」を書き、違勅の幕府へ参勤することは正義に負くばかりでなく、形勢不穏の今、藩主の身上の安全も測り難いから延期されるよう意見書を潘府へ出した。それに昨冬野村・田原が密使となって京都で大原重徳に面会したとき、来年三月、長州藩主を伏見に待ち伏せて京都に伴い義挙をはかるつもりである、と松陰に伝えよと云ったことが気にかかる。あたかもそれを裏書きするかのように、正月始め萩に来た大高・平島は、去るに臨み、同志三十名と共に伏見に長州藩主を待っているといった。そのときも大原重徳の名が出された。松陰にとっては江戸に着くまでの藩主の安否が先ずもって憂慮される。藩主の側近に正義の士がいないと見て、誰か私に伏見に赴き万一に備える必要を感じる、塾生のうち誰かを行かせたいと思って誘いをかける。その頃江戸から帰った久坂・松浦は松陰の意見に反対である、佐世八十郎も途中で志を変えた。ところが謹慎を解除されたばかりの入江杉蔵は松陰と同意見で、事に当ろうと申し出た。しかしその入江も老母や妹のことで思い悩み、結局弟の野村和作がこれに代ることとなり、二月二十四日にこの大任を負うて出発した。
 しかるに、この秘密は野村の母から佐世へ、佐世から岡部富太郎へ、岡部から小田村へ、そうして小田村は藩主の出発も近いので事態を憂えてこれを藩府に告げた。藩府では狼狽して田原荘四郎を追手として野村を追わせ、兄の入江杉蔵を獄につないだ。こうして入江の孝心はふみにじられ、松陰の謀も妨げられることになったが、事ここに至る経過に与ったのは悉く松下村塾の門人であり、また親友の小田村である。松陰の憤激と失望は察するに余りがある。「平生の所謂同志今はすなわち国賊なり」(普及版巻六、二二六頁)と怒り、小田村・桂小五郎・久保・岡部・佐世・松浦・福原等と絶交する。作間・増野・品川の三人は松陰の志に同じて、入江との連絡やその家族の慰問にあたった。吉田栄太郎は松陰が最も愛しまた期待した青年であるが松陰入獄後同志との関係を絶ち、松陰の幾度かの呼びかけに対しても沈黙を守って動かない。こうして教育者として最大の苦悩の日が続く。そのうち野村は三月二十二日萩に帰ったが、直ちに兄のつながれている岩倉獄に入れられた。その報告によれば、京都で大高・平島に会い、ともに大原重徳を訪うて事を議した。大原はまだ時機が熟しないからといって決行をしぶり、大高等もこれに同意した。こうして野村は窮地に立ち、遂に京都の藩邸に自首して萩に送りかえされたのである。大原や大高等は慷慨家ではあったが実践力の足りないところがあるのに、松陰は容易に人を信じる性格であったところにこの喰い違いが起ったとも見られる。しかし野村が長州藩にも義を知る人のあることを身を以て示した功績は認められなければならないと松陰は褒めている。
 これから松陰は獄中に在る入江と野村を死に誘って三人で義死を遂げ、長州藩の正気を振い立たせようと思い立つ。すなわち野村の取調が始まったらこの策の首謀は松陰であることを潘府に申し入れ、野村を代りに上京させた入江と共に処刑をうけようというのである。自分の死が友人や門人に与える積極的影響を固く信じて死を求める心がしきりりに起こる。ところが四月七日に至って一転機に達する。「要駕策(伏見で藩主の駕を待ちうける策)を題にして死を請うの説、思うて見るに、微功を書き立てて上進を求むると同様なり」(普及版巻九、三二四頁)と入江に書き送っているのがそれである。功業を求めるのは利己心であると門人達を責めた松陰は、命がけである点は異なるけれども、やはり自分の行動に誇る私心は離れてはいなかった。上進は求めて与えられるものであってはならないように、死も亦こちらから求めるべきものではない。この頃松陰の説得にも拘らず、入江杉蔵は母への孝養に専念したいと願って已まない。忠義一本の松陰にとっては孝心一本の入江が厚い壁となって立ちはだかる。「士規七則」では忠孝一致でわが国においてのみあるといったけれども、それは決して容易でないことを思い知らされる。陽明学派で仏教にも出入りしていた明の李卓吾の「李氏焚書」や「続蔵書」を貪るように読んだのはこの頃である。李卓吾の童心説は純一無垢の天真であり、松陰のいう「真心実意」(普及版巻六、一二二頁)であろう。しかも仏教の影響もあってか、常に執着を離れ己を超える工夫をし、再び俗世間に帰って人それぞれの立場において生かし、自然に感化が行われるようにと説くのである。松陰は李卓吾から多くの啓発をうけたといっている。入江に与えた手紙に「死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在りては獄で出来ることをする。獄を出てはでて出来る事をする。時はいわず勢はいわず、出来ることをして行当つれば、又獄なりと首の座になりと行く所に行く。吾が公に直に尊攘をなされよというは無理なり。尊攘の出来る様なことをこしらえて差上げるがよし」(普及版巻九、三五○頁)といってあるところに心境の変化が見られるようである。
 しかし更に一歩を進めて考える。「肉食者は鄙なり」という語がある。幕府も藩府もその重要な地位に在る者は肉食者であるが、彼等は今の制度が存続する限り肉食者であり得るのである。だから保守的になり、固陋すなわち鄙となる。松陰の意図する大改革の具体的な計画は必ずしも明確ではないが、幕府や藩府が固陋を死守しようとするのであれば、その点が先ず攻撃の目標とならないわけにはいかない。これまでは反省悔悟によって改革が可能であると考えて来たが、今や肉食者は遂に鄙なりと断定し、野村への手紙に、「義卿(松陰)、義を知る、時を待つ人に非ず。草莽の崛起、あに他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ、只六尺の微躯が入用。されど義卿豈義に負くの人ならんや。御安心々々々。」(普及版巻九、三六一頁)とある。天朝、幕府、吾が藩がいらぬというのはそこに仕えている肉食者をあてにしない、その人達の考え方などを自分の動く条件にしないことである。そうして野に在る自由人、草莽崛起の人だけが大改革はなし得る。けれどもそれを他に求めるのは他をあてにするのである。今までの経験からあてにした者があてにならぬことは痛いほど知らされた。六尺(支那風の表現で身長の低い意味)の微躯たる松陰一人が頼みになることは自分のことだから疑いない。そこに腰をすえて獄に在っては獄で出来ることをして自由の与えられる日をまたねばならぬ。自由を得た上で義のためにしなければならぬ事態に遭遇すれば時を待つようなことはしない、甘んじて死地に入る決心は出来ている。そういえば何を仕出かすかと心配するかも知れないが、私は義に基いて事を処するのであるから安心していてくれよというのである。
 こうなると最早松下村塾の門人達のことをとやかくといって見たのも過去のこととして忘れる、張り切ってはいてもさらりとした心境である。そこから不思議なことが起きて来る。野村の脱走を告げ口した佐世が前非を詫びる手紙をよこした、岡部も悔悟の情を伝えて来る。他の門人もそれぞれ自分自身の反省を始め、再び松陰の懐に還ろうとする心のきざしを感じるようになった。松陰はそれを「しきりに和議を言うて来る」(普及版巻九、三六二頁)と書いている。
以上わたくしは獄中にある入江兄弟と松陰の間に往復された手紙を中心に死生の問題に取り組んだ経過を略述した。松陰が悟っていて二人が教えを受けるという形ではない。松陰も迷い疑い、時には野村から逆襲を受けて気がつき、入江が同意しないので考え直しをするといったような、全く血みどろな協同思索である。この死生の問題には品川・作間・増野などはもとより一時松陰を離れた門人達も無関心ではあり得ず、それぞれ自己の問題として苦悩し思索し、五月頃になると松陰と入江兄弟の真剣さに打たれて、それぞれ悔悟の自己を発見するようになる。
 さて井伊大老の弾圧政策は志士の逮捕と、公家ならびに水戸藩の圧迫に重点を置いて続けられた。京都では梅田雲浜についで水戸藩士鵜飼吉左衛門・同幸吉・鷹司家の小林民部・三国大学・志士頼三樹三郎等をはじめ四十数名を逮捕し、前年十二月から今年二月にかけて前後三回を以て江戸に檻送、取調を始めた。江戸では元三条家の臣飯泉喜内・薩摩藩士日下部伊三次・越前藩士橋本左内その他を捕え、終に五月水戸藩の重臣安島帯刀・茅根伊予之助を喚問し、鮎沢伊太夫を獄につないだ。こうして最後に「長州藩吉田寅次郎と申す者力量もこれあり、悪謀の働き抜群」(井伊家公用深秘録)とにらんで、これを江戸に送るよう命じたのである。
 松陰の父にこの内命が伝えられたのは五月十四日である。その日江戸にいた尾寺・高杉・飯田連名の書簡も松陰の手に届いた。松陰が即座に思ったことは幕吏に体面の節、平素の持論を詳しく述べて幕府の政策を転換させるという希望であった。それが為には「余に一護身符あり。孟子云く、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなりと、それ是れのみ」(「東行前日記」普及版巻十、一八二頁)と覚悟した。この覚悟が成ると心中爽快なものを感じる。だから父への手紙に「この度の東行は国難に代るの存念に御座候えば、かねての狂悖には随分出かしたると存じ奉り候」(普及版巻九、三八九頁)と言うことができた。
門人知友は驚き悲しみ、獄に馳せつけて松陰を見舞った。松陰は家族、門人、知友にそれぞれ自分の志や感懐を詩、文あるいは短歌の形で書き遺した。ここにはそれらのすべてを省略するけれども、全集中に「東行前日記」というのがあるから参照せられたい。五月二十四日公式の支配書が手交された日の夜、野山獄司福川犀之助は独断を以て松陰をその家に帰らせ、一族門人達との訣別の機会を与えた。そうして次の日静かな雨の中を護送役、番人等三十余人に囲まれて萩を出発した。護送の形式は厳格に見えたが、松陰は駕籠の中では自由を許され、途上で成った漢詩や短歌は口で伝えて文字を解する者に書きとらせることも認められた。「縛吾集」「涙松集」(普及版巻七)がそれである。
 六月二十五日、江戸の長州藩邸に着き、七月九日初めて幕府の評定所に呼出しがあり、即日伝馬町の獄に入れられた。松陰への容疑は一、梅田雲浜と萩で面会したそうだが何の密議をしたか、二、御所内に落文があり、その筆蹟が松陰のものらしいと雲浜その外が申し立てている、覚えがあるか、という二件である。雲浜に面会したことはあるが、尊大ぶって人を子ども扱いにするので事を共にしようなどと考えなかったから密議などしなかった、落文などいう方法をとることは潔しとせぬ、また落文の用紙も文章も全く松陰のものでないと説明した。それで幕府の疑いは解けたけれども、松陰自身の覚悟もあったこととてそのまま沈黙してはおられぬ。嘉永六年ペリー来港以来の国策について穏やかに、しかも本質をついた批判をはじめ、遂に大原重徳西下策と間部老中要諌策を自白してしまった。これが結局揚屋(未決囚の牢)入りの理由となるわけである。獄中では同囚からも大切にされ、また取調をうけている志士達との文通によって天下の正気の鬱勃たるもののあることを知った。また松下村塾の門人達のことも志士達に通じることができた。飯田・尾寺・高杉等は獄外から松陰のために出来るだけのことはしてくれた。とくに高杉との文通はしばしばで、そのうち重要なもの(高杉宛書簡、普及版巻九、四一八・四六一頁)を見ると、門人達への最後の教育、画竜点睛に松陰が如何に真剣であったかを読み取ってもらいたい。取調はそれから二回、九月五日と十月五日に行われたが別にたいしたこともなく、或は島流し程度の処分で済むのではないかとさえ感じたのであった。しかし十月十六日の予審読み聞かせによれば、松陰の至誠を籠めての建言も真面には取り上げられず、間部要諌策を重視し「公儀を憚らず不敬の至り」などの語があり、重罪であることが暗示されてあった。そしてその二十日には死罪は免れないと悟るに至った。
 「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立ち到り、さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん。」
と書き出された両親、叔父、兄宛の永訣の書(普及版巻、四八○頁)は切々たる松陰の至情を伝え、紙面なお声あるを思わせる。門人達には「留魂録」(普及版巻七、三一九頁)を書いて詳しく取調のの状況や獄中同志の消息を述べ、京都に学校を興す論などまでして、後起の人達への嘱望を伝えている。自分の死生観を述べて今の心境は極めて静かであるとなし、「是れまた平生学問の得力然るなり」という。別に「諸友に語るの書」(普及版巻九、四八二頁)も書いた。その終りに方に「諸友けだし吾が志を知らん。為に我れを哀しむことなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りてこれを大にするに如かず」とある。
十月二十七日、評定所に呼び出されて死罪の判決を言い渡され、正午過ぎ伝馬町の獄で処刑をうけた。泰然自若たる死であった。絶命の詩にいう、
「吾今為国死  死不負君親  悠々天地事  観照在明伸」と。
これより先、高杉晋作は藩命によって国に帰る途上にあったが、江戸には尾寺・飯田・伊藤利輔がいた。友人の桂小五郎もいた。この四人はせめて松陰の遺骸を請い受け、ねんごろに葬りたいと願って奔走したが許されない。しかしあきらめ切れないので、「二十九日飯田正伯は自ら松陰門下である旨を告げて獄吏に面会して熱心に陳情し」、その日の午後、小塚原回向院で四斗樽に収められた遺骸を受け取ることが出来た。「飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて血を洗い、また柄杓を取りて首体を接せんとしたるに、吏これを制して曰く、重刑の屍は他日検視あらんも測られず。接首のこと発覚せば、余等罪軽からず、幸に推察を請うと。飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して体に纏い、伊藤は帯を解きてこれを結び、首をその上に置き甕に収め、橋本左内の墓左に葬り、上に巨石を覆いて去れり・・・この時四人の憤恨遺憾御推察下さるべく候」(普及版巻一一、四三七頁及び同四二八頁)と飯田・尾寺から高杉・久坂・久保清太郎あてに報告されている。その後間もなく墓石も建てられたが、文久三年正月には高杉等の門下生が世田谷区若林村の毛利氏所有地に改葬した。今日の松陰神社に隣る地である。
 萩では父百合之助は、遺著「留魂録」、「埋葬報告書」などを読んで「児(松陰)一死君国に報いたり、真にその平生に負かず。」といいて、深い悲しみのうちにも満足した。高杉は潘の重役周布政之助に一書を贈り「我が師松陰の首遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交を結び候程の事ゆえ、仇を報い候わでは安心仕らず候」(全集巻六、四二三頁)という。久坂は「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ樣肝要なり」と獄中の入江に語げる。高杉の前掲の手紙の終りのところで、「明日二十七日は吾が師初命日ゆえ松下村塾へ玄瑞と相会し、吾が師の文章なりとも読み候わんと約し候」と書いて継承の決意を述べている。やがて萬延元年になり、その三月三日には大老井伊直弼が桜田門外に刺されるという事件が起こる。それより前二月七日は松陰の百日祭の日にあたるので、吉田家の墓地に遺髪を埋めることになった。門人達は相謀って松陰の墓碑を建設することとし、当日は萩にいた門人二十名ばかりが墓前祭に列なった。墓碑は少しおくれて十五日に成った。自然石の表に「松陰二十一回孟士墓」と刻み、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿享年三十歳」とある。墓前の水盤、花筒、燈籠は石製であるが、その表に門人として久保・佐世・久坂・岡部・福原・松浦・増野・品川・伊藤(利)・入江・野村・中谷・高杉・有吉・天野・作間・時山の氏名が刻まれている。この時点でこれを敢てしたことは大胆不敵というほかない。ここに松陰門下の決意が公然と表明されていると見ることが出来る。
 わたくしはこれから以後の時勢の変遷とその間における長州藩の動き、わけても長州藩の青年の活躍について述べるべきであると思うが、もはやそれに与えられる紙数がなくなったので、ここで筆をとめることにしなくてはならない。併し最後に数言を費やしたいことがある。長州藩の正気を盛り上げて、幕府の長州征伐をはね返し、回天の偉業に重要な転機を作ったのは高杉晋作の指揮した奇兵隊である。その奇兵隊の幹部には松下村塾の出身者が多かった。そうして高杉は、十五代将軍徳川慶喜が政権奉還を奏上した慶応三(一八六七)年十月に先立つこと半年前に肺結核で斃れた。これより先吉田稔麿(栄太郎)は元治元(一八六四)年六月、京都池田屋の変に闘死し、翌七月蛤門の変には久坂玄瑞・寺島(作間)忠三郎・入江九一(杉蔵)が戦死している。明治維新は長州藩の力で成ったのではないことはいうまでもなく、他の潘でも多くの尊い生命が捧げられての偉業である。ただ長州藩では松陰が松下村塾の教育を通して成した貢献がひとしお鮮やかである。しかも松陰自身が自己の思想に殉じて処刑を受けたという事実がその完成したと見られるところに敬虔の思いを禁じ得ない。わたくしは何も政治教育、社会改革だけが教育の目標だといいたいのではない、悲壮な死を讃美するのでもない。自分自身を、また自分の教えた青年たちを死に赴かせなければならなかった時代を悲劇的であると思う。時代が変わり、課題がちがい、またその解決法も進歩して来れば、一人一人がその個性を発揚して公共のために貢献する仕方は変るであろう。しかし教育者が不滅の火を一人一人の魂に点ずることがどんなに尊いかという実証を松陰において見ることは今日においては不要であろうか。



―明治維新で活躍した経済人―
【2018/04/26 08:33】 エッセイ
『岩崎弥太郎』

一八三四―八五 明治時代の実業家。三菱会社の創始者。天保五年(一八三四)十二月十一日土佐国安芸郡井ノ口村に岩崎弥次郎の長男として生まれた。名は敏、字は好古、維新後名を寛と改めた。雅号ははじめ毅堂、のち東山。地下浪人の家に生まれ、年少から学問で立身する志望をもち、その修業に打ち込んだ。

はじめ土佐の儒者岡本寧浦に学び、のち江戸昌平黌の儒員安積良斎の塾にはいった。その後高知藩参政吉田東洋の門人になり、安政六年(一八五九)師の推挙によって藩に職を得、十月西洋事情の調査を命ぜられて長崎に赴き、翌年四月帰藩した。慶応三年(一八六七)三月、再び起用されて長崎に行き、高知藩の開成館長崎出張所に勤務し、やがてその主任になった。弥太郎の着任は同所開設の一ヶ月後である。そして翌明治元年(一八六八)閏四月これが閉鎖された後も同地に滞在したので、高知藩の長崎貿易は、弥太郎によって行われたといってよい。彼が扱ったのは、維新戦争における勤王戦力としての高知藩の武器・弾薬・艦船・諸器械の買入れと、その資金獲得のための土佐物産の輸出であった。

弥太郎は文久元年(一八六一)に郷士の家格を得、浪人の身分を脱したが、慶応三年十一月長崎貿易での功績を認められて、上士階級の新留守居組に昇進した。明治二年正月には、藩の大坂商会(旧開成館大坂出張所)に転出し、翌三年閏十月、高知藩少参事に任ぜられ、浪華会計係の職に就き藩の大坂事務を重督した。これは彼の再興官歴であって、その出身からいって異例の進級であった。同四年七月、廃藩置県が施行され、全国の藩は廃絶し、旧武士階層の者はその封建的特権と秩禄を失ったが、官職を失った弥太郎は、実業界への転進をはかった。

これよりさき高知藩は、政府の藩営商会所禁止令により、同三年十月大坂十月大坂商会を藩より切り離し、九十九商会の名称で汽船運輸を行わせていたが、同四年廃藩置県後、弥太郎は同志と語らい、この事業を一党の立脚地として独立し、新商社の旗を掲げた。特に明治四年九月十五日であった。新会社は三川商会と称したが、これは三菱創業の意義を持つものである。その後弥太郎は社主の地位に就いた。

彼は長崎・大阪での外国商人との交渉を通じて世界経済に対する眼識を開き、また我が国の旧商人道とは異なる「近代実業」の意義と、実業家の社会的使命について新しい認識をもった。三菱が勃興するまでには、国内の汽船会社との競争があり、社名も三川商会から三菱商会、三菱汽船会社へと改称した。明治七年の台湾出兵の際、軍事輸送の命を受け、これを完遂して政府の信任を得た。翌八年内務卿大久保利通は本邦海運振興政策を実施するにあたり、弥太郎の率いる三菱会社を起用し、これに郵便物の託送と外国定期航路の開設、海員養成などの任務を委託し、合計三十隻の船舶と運航助成金年額二十五万円を交付して、会社を助成した。

郵便汽船三菱会社(八年九月改称)はこれにより国内最大の汽船会社になり、わが沿岸航運に進出した外国汽船会社を駆逐したほか、明治十年の西南戦争の軍事輸送に著大な功績を立て、政府の期待にこたえた。かくて社業の躍進により資本の蓄積に成功した持つ三菱は、漸次海運以外の事業へ多角的に進出した。その着手したものには鉱山・造船・金融・貿易・倉庫・水道などがあり、また多の企業に対する投資も行ったが、当時はまだそれらの企業は大きな発展を見なかった。

企業家としての弥太郎の特長は、国士的精神が旺盛であり、同じ武士出身の官僚が、政治上に行った経綸を、実業界に実現しようとした。彼は明治の新経済社会を建設するために、先進国の技術や経済機関の導入をはかった。為替銀行・海上保険・港湾倉庫の建設を提唱し、政府の着手の遅れるものは、自己の手でこれを作ろうとした。明治初期経済に果たしたその「建設の作業」は高く評価されてよい。

明治十四年十月の政変以後、政府は三菱抑圧方針に転じた。岩崎を大隈の金穴と見做したのと、三菱の海運独占に対する世論の反対が高まったからである。政府は公然と三菱を非難し、新汽船会社(共同運輸会社)の設立を援助して、三菱に対抗させた。明治十六年に始まる両社の競争は激烈をきわめたが、弥太郎は競争途中の明治十八年明治十八年二月七日、五十二歳で病死した。墓は東京都豊島区駒込の染井墓地にある。

没後の同年九月、両社は政府の勧告により合併して日本郵船会社を創立、三菱は海運業を閉鎖した。なお生前弥太郎は三菱商業学校と商船学校を設立し、実業教育と海員養成に努めた。商船学校は明治十五年に政府に上納し、官立東京商船学校となった。現在の東京商船大学の前身である。

【参考文献】:岩崎弥太郎展弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』
中野忠明著:国史大辞典より転載


『渋沢栄一』
一八四○―一九三一 近代日本に指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷及び仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月から昭和六年(一九三一)十一月までの主に社会公共事業に尽力した時代の三期に大別できよう。

(一)  在郷及び仕官時代 栄一は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に市郎右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍と兼業。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て儒者海保漁村及び剣客千葉栄次郎に文武を学んだ。文久三年同志と攘夷を決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。

元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、慶応二年(一八六六)同家の財政充実につとめた功によってその勘定頭に抜擢された。翌三年正月、将軍徳川慶喜の弟昭武がパリ万国博覧会に列席するのに扈従して外遊。フランスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、彼地の進んだ文物と近代技術・経済制度を親しく見学した。この見学は、その後の栄一の開明的な考え方を形成する上で、大きな意味を持つこととなった。

明治元年十一月、幕府倒壊のため帰国。一時静岡藩に仕えたが、同二年十一月明治政府に仕官し、民部省に入って租税正となり、租税事務の処理にあたった。翌三年民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵省に属し、四年五月大蔵権大丞となり、新貨条例・造幣規則ならびに国立銀行条例の起草立案にあたった。また地租改正事務局の設置や第一国立銀行および抄紙会社の設立などにも尽力したが、六年五月、大蔵大輔井上馨とともに健全財政を主張して容れられず、大蔵省を辞任した。
時に三十四歳であった。

(二)  実業界指導時代 大蔵省を退官後、栄一は民間にあって多くの近代的企業の設立と発達に尽力し、この方面で指導的役割を果たした。彼はまず第一国立銀行の監査役、つづいて頭取として同行の発達につとめた。これが彼の本義であった。
その他第十六・第二十・第七十七銀行など、いくつかの国立銀行の設立を指導し、特殊銀行・普通銀行の創立にも力を貸すこと少なくなかった。さらに率先して擇善会とその後身である銀行集会所および手形交換所の設立にあたり、それらの活動にも力を尽くした。銀行以外では、明治六年に我が国最初の洋紙製造会社である抄紙会社(王子製糸会社)の創立を指導し、野に下ってからは事実上の社長として同社の発達に尽力した。十二年には、我が国最初の本格的紡績会社である大阪紡績会社の設立を指導し、十九年からは三重紡績会社の設立にも尽力した。その他家鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会の運営に力を与えた。また十二年には、我が国最初の海上保険会社である東京海上保険会社が設立されたが、その創立も栄一の力によるところが大きかった。

海運においては、十五年に増田孝らとともに郵便汽船三菱会社に対抗して共同運輸会社の設立を助け、十八年両社が合併して日本郵船会社が設立されるとその取締役として同社の発展を援助した。また二十九年には浅野総一郎の東洋汽船会社の創立を助け、四十年には日清汽船会社の創立委員長を務めている。
鉄道では、我が国最初の民営鉄道会社で、東北線を開いた日本鉄道会社の創立・発展に多くの貢献をしたほか、両毛鉄道会社・北海道炭礦鉄道会社などの設立にも尽力した。

以上の他、京都織物会社・北海道製麻会社・東京帽子会社・日本精糖会社・明治製糖会社・札幌麦酒会社・東洋硝子会社・浅野セメント会社・石川島造船所・東京人造肥料会社・東京瓦斯会社・東京電灯会社・東京株式取引所・帝国ホテルなど、栄一が創立したり経営を援助したりした会社は非常に多かった。そして彼は、これらの企業の創立にあたって、多くの人々から資本を調達できる合本組織、すなわち会社組織のよるべきであることを強く主張し、その実現に努力した。

ところで、栄一がこのように多くの企業創立・経営に関与したのは必ずしも財を築くためではなかった。それは、彼が三井・三菱・住友・安田のような大財閥にならなかったことからも知られる。また、企業を起こすこと自体に強い関心を持っていたためでもなかった。それよりも彼は、先進諸外国の圧迫のもとにあった後進国日本にとって、自国の近代産業を育て発達させることこそが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。

彼はまた、商工業の発達には、官尊民卑の風を打破し自主独立の発展をはかることと、実業教育をひろめ実業道徳を向上させることとの二つが必要であると考え、その実現に努力をした。すなわち彼は、明治十一年から同三十八年まで当時の重要経済団体である東京商法会議所・東京商工会・東京商業会議所の会頭として、また時には商業会議所連合会の代表者として、政府にしばしば実業家の主張を建議応答してその実現に努めたほか、東京高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの実業学校の創設・発展に尽くした。さらに「論語」を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済一致説」を唱え、それを実践することによって実業界の道徳水準を高め、その社会的地位を向上させることに努めた。

(三) 社会公共事業尽力時代 栄一は七十歳になったのを機に、明治四十二年六月金融関係以外の事業会社の役職を退任した。その会社数は六十に及んだ。さらに大正五年(一九一六)十月には金融界からも引退し、もっぱら社会公共事業に尽力することとなった。彼は前時代からひきつづいて東京市養育院の院長として活動したのを始め、多くの社会公共事業に関与し、それを育成発達させることに努力したが、この期において特に力を尽くしたのは国際親善についてであった。

彼はすでに明治三十五年にアメリカおよびヨーロッパ諸国を訪問し、これら諸外国との親善をはかっているが、四十二年八月には東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所の代表によって結成された渡米実業団の団長として渡米し、主要都市を歴訪して彼地の実業家との交流を深めた。さらに大正四年十月にもパナマ太平洋万国博覧会の開催を機に渡米し、十年十月ワシントン軍縮会議開催の際にも渡米して側面から平和外交を展開した。また、大正三年五月には中日実業株式会社の設立を機に中国に出かけ、同国実業家との親善をはかっている。

彼はまた各国国際親善事業に進んで協力するとともに、来日した各国の賓客を歓迎接待して国民外交を展開した。王子飛鳥山の栄一の邸宅を訪れた外国人の数は、記録に残っているだけで千名を下らなかったという。こうして近代日本の発達に大きな役割を演じた栄一も、昭和六年十一月十一日死去した。享年九十二。
墓は東京都台東区の谷中墓地にある。法名、泰徳院殿仁 智義譲青淵大居士。
なお明治三十三年に男爵、大正九年に子爵を授けられている。穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。

【参考文献】:竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、
白石喜太郞『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、
渋沢雅英『太平洋にかける橋』。山口和雄著、国史大辞典より転載


名君『上杉鷹山の兄・秋月種茂』
【2018/03/27 10:56】 エッセイ
江戸期の改革の旗手たち『秋月種茂』


宮崎県高鍋高校と山形県米沢興譲館高校とは、相互訪問等による交流が今でも行われている。これは、両校の創設者が「秋月種茂」と「上杉鷹山」という兄弟の創設にかかわることから実施されている。両校ともに現在も県内有数の進学校として、学問・教育の成果をあげて相互に切磋琢磨しているのである。このことは多くの人の知られざる美談と言って良いと思う。
170609秋月種茂160229上杉鷹山




一般的には、弟である「上杉鷹山」の方が「名君」として人口に膾炙されている。江戸期の三百諸侯中でも名門を誇る家柄で、戦国大名として名を馳せた上杉謙信以来の名門であるが、鷹山が養子として上杉家を継いだ頃は藩の財政状態は瀕死の状態で見通しが立たず、前の藩主・重定は幕府に藩を返上しようと真剣に考えたと伝えられている。
そこに日向高鍋藩第六代藩主、秋月種美の二男として生まれた鷹山が養子として入り、家督を継いで長期にわたる藩政改革の成果をあげて、藩の滅亡を免れたたのみならず、質素倹約と藩営の殖産興業政策を推し進めて蘇らせたのである。幕府が鷹山の長年にわたる藩政努力に対して「善政」を賞したのが、隠居の二年後、鷹山三十七才の時であった。

一方、兄の秋月種茂は鷹山より八才年長になる高鍋藩第七代藩主として、江戸期の十代の藩主が続いた中で「全盛期」を現出した「名君」なのであるが、残念なことに「外様小藩」(二万七千石)ゆえに、その事績についてはあまり語られていない。わずかに地元高鍋町で知られている程度である。それは上杉鷹山が、生涯尊敬して止まなかったというエピソードが遺されていることを以てして、その人となりを想像することが出来る。
鷹山は次のように人に語って曰く、「阿兄の名、大に世に顕れざるは、其の地僻遠なるが故なり。若し阿兄と吾(鷹山)と地を易いへしめば、豈に今日の米沢ならんや」(日向国史・下)と。これは、鷹山が兄の藩主としての手腕を称える言葉として大変意味深長である。即ち、米沢上杉家を若し、兄の種茂が継いだら、米沢の藩地はもっと繁栄したに違いないと云うほどの意味でもある。管見の限り、秋月種茂の評価は極めて高いのである。
こうした兄弟が、今から二世紀半も前に創設した藩校にルーツを持つ両校が、伝統と誇りをもって現在も尚交流が続いていることを知って大変興味を抱いたわけである。日本史の大辞典として権威あるものと思われる、吉川弘文館の「国史大辞典」十七巻を繙いても秋月種茂の名前が出てこないのは、まさに鷹山の云うとおり「僻遠の地の小藩」であった故であると考えられる。従って文献としては、高鍋町の藩史に関連した書物や、現地の教育委員会が発行する小冊子程度で語り継がれている程度なのである。
種茂の藩政で特筆されるのは、民政に意を用いたことと、教育の普及への情熱である。高鍋藩の藩校は「明倫堂」といって、安永六年(1777)の創立になるものであるが、藩主が『明倫堂記』という建学の理念を書き上げていることである。米沢の興譲館が安永五年であるから、ほぼ同時期に創設されているということになる。教育は国家百年の計と言われるが、封建時代の身分制が固定的であった当時において、人材育成に取り組んだことは大変に意味するものが大きいといえる。種茂に建学の進言をした「千手八太郎」の文末に『人材教育の儀は、御家中風俗の盛衰、国家治乱のかかわる重大事』という文言があるが、藩主種茂は、それを受け入れて「明倫堂記」を書いたようである。
抄録してみると次のような内容である。『昔から政治は教育を先とする。教育が起これば人材が出る。有能の士が上に立てば、人民は喜んでその治に服するようになる。・・・・・・学問の方法は朱子学によるのであるが、学問というものは何処までも自分のためにするもので、人のためにすると思ってはならぬ。それからまた、手近なところから次第に高尚なところにすすむという順序を誤ってはならぬ。また、中途半端な意志の弱い事ではいけない。国を治めるのは君主であるけれど、これを輔ける人物がなくてはどうにもならない。従って人材を養成する学校が大切である。人材が多く出るようになると、風俗も改まり・・・・・・ここに理想の政治が実現する。これが政治の本は教育にあるというわけである。この学校に学ぶもの、この精神を体し勉めて怠るなかれ』と。
これは教育の要諦を言い表して見事といえるものと思う。この時、種茂は三十六才の働き盛りであり、この文章をみても名君の一端を垣間見ることが出来るし、たんなる学問好きの文ではない。「輔ける人物」がいて学問の効用が顕現するという言葉は注目に値するものであろう。高鍋藩の学問においては、それは千手八太郎と財津十郎兵衛のふたりであった。この二人の進言によって明倫館が創設されたのでわる。この精神が今日の高鍋高校や米沢興譲館高校が受け継いでいるのだろうと思う。

教育の一方、民政に意を用いた件では庶民(領民)の福祉改善が挙げられる。農民多子家庭救助の施策では次のお触れに注目したい。曰く「百姓三人目より御扶助として一日赤米二合づつ、畠地もの(麦)三合づつ、二品の内その時々の吟味にて下さる段、仰せ出ださる」と。子沢山の家では生活も経済的に大変である。江戸時代の百姓は、中期から二極分化し、富める百姓と潰れ百姓になるのであるが、富める百姓は少数で多くは生活維持が精一杯であった。このことは、八代将軍の徳川吉宗治世下で勘定奉行を務めた神尾春央(かんおはるひで)の『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と云った言葉と対比して考えるとき、一段と意味が鮮明になる。この種茂のお触れは今日の言葉で言えば、「児童手当」ともいうべき困窮百姓の救恤実践という事が出来る。また明和元年(1764)のお触れである「士卒の庶子を三代目より民籍に編入して百姓とし、庄屋に属せしむ」として浮世人の人権を恢復することを眼目として、領民に再生の機会をあたえる仁政と考えられる。また江戸期には双子の誕生を恥じる風潮があったのを、「自今以後・・・・・・双生児出生候はば、貴賤に限らず申し出次第、相応の捨扶持下され候旨仰出さる」といった、双子の救恤策ともいうべき先進的な思想を持っていたのである。このように百姓を賎民視せず、「領民あっての国家(藩)」として大切にする人権思想を読み取ることが出来るのである。実弟である上杉鷹山の「伝国の辞」の精神と相通ずるものがあって、興味をそそられます。
一体に、江戸期は出生してまもなく夭折というケースが多かったが、これも大坂から産婆を招いて夭折の防止策を講じており、初のお国入りの時も江戸から医師の山田玄随を随行させたのも同じ意味を持つものである。当時の医薬品として貴重だった朝鮮人参も栽培したものを藩庫に蓄えておき、病人や疫病の流行の時に備えてと医療の救恤策を施したという。また藩士の教育のみならず、庶民の教育にも意を用いて明倫堂にも篤学な庶民には入学を許可したのをはじめ、毎月十六日には庄屋や乙名(町世話人)宅に支配下の一家から必ず一両人月々代わり合わせに呼び出し、庄屋や乙名から種茂の著である「郷閭学規」等を読み聞かせたのであった。その他、法制の整備や、足軽の困窮救済策(江戸の物価高騰を領地の足軽が経済的に支援)を講じたことも善政の一環として、領民を大切にしたことの証左といえる。大雑把な名君の一端であるが、兄弟そろって大変な名君であった事に、大変驚くのである。また其の一方で幕府の課役である「勅使の馳走役」を何度も仰せつけられ、巷間伝えられる「赤穂浪士」の馳走役の失敗等のようなことがなかったという。これらの事から考えられるのは、まず領民を大切にする仁政、次いで法体系の整備による治者の恣意的な統治方法を排したこと、そうして殖産興業政策を積極的に奨励して国富増進に努めたことなど治国の要諦に叶った政策を実施した。そして学問の奨励による人材育成と、有能な人物ともに善政を常に念頭に置いて、「明倫堂」の精神を体現したことを総合的に勘案してみると「名君」に値する事が十分といえるのではないかと思う。こうしたことの結果として十代の歴代藩主中で、種茂の治世が高鍋藩の全盛期を現出したのも納得がゆくのである。

最後に、兄弟共に似たような心温まる逸話が伝えられているので、これを紹介したい。
上杉鷹山の伝記に必ず出てくる「老婆の手紙」というのがある。これは、藩主(鷹山)が側近と「領内巡検」をしていたところ、急に夕立が来そうな雲行きになって、必死で稲の取り入れをしていたところに出会って、取り入れを鷹山一行が手伝った」という話である。助けて貰った老婆はこの地方で新米から餅を作ってお礼を届ける風習があり、手伝った武士(鷹山一行)にお礼を届ける為に聞いた場所へ持参して、はじめて老婆は藩主が手伝ってくれたことを知る。これに対して鷹山は、金子をご褒美に与えた。受け取った老婆は自分の家族のみならず、嫁に出した娘にも足袋を買い与え、大事にするようにと書いた手紙なのです。これは藩の家老に次ぐ「中老職」にあって、鷹山の側近で藩政改革に貢献した莅戸善政(のぞきよしまさ)の著になる『𧄍楚篇』(ぎょうそへん)に出てくる実話であって、江戸期の藩主が百姓と直接に接することがなかったことと考え合わせるとき、鷹山の人となりを語る逸話である。

このような心温まる鷹山の逸話ですが、兄の種茂にもこれと似た逸話が伝えられている。
それは、同じく領内の巡検中、田で働いている百姓の姿を見て、その百姓が持参した弁当が近くの道ばたに置かれていた。それを種茂と側近はそっと無断で開けて食べたところ、その弁当には米も入ってなくて、不味くてやっと喉を通るほどだったという。そうして種茂は、その百姓に無断で弁当を食べたことをわびながら、自分の持参した弁当を差し出した。この百姓が感謝したことは当然で、藩主の弁当の味は別段のように美味しいのである。種茂は、君主として恥じらいに似た思いを抱き「民百姓のお陰で自らの生活がある」事を知って、百姓を大事にせぬ治世のあり方を反省したという。
この両方に共通するのは『孟子』「尽心章句・下」に出てくる有名な言葉、即ち【民を貴しと為し、社稷(国家・土地と五穀の神)これに次ぎ、君を軽しと為す】である。

有名な上杉鷹山の『伝国の辞』は、将にこれらの逸話を裏付けるものである。かつて米国の大統領選挙に勝利した時、ケネディが尊敬する日本人は誰かとの質問に対して、即座に『それはウエスギヨウザンです』といったのは、孟子の言葉の原点に政治の要諦が語られていて、鷹山が伝国の辞を遺したからに他ならず、ケネディは鷹山を勉強していたに違いない。つい最近、駐日米国大使として赴任した長女のC・ケネディが、上杉鷹山が藩主だった米沢の地を訪問したのも、ケネディ元大統領が上杉鷹山を尊敬していたことの証左でもあろう。私達がこれらのことから学ぶべきは、兄の秋月種茂も弟の上杉鷹山も、藩主として行っていることの原点にこうした『生産者の努力』あって国家が成り立ち、さらに藩主(皇帝)が存在するという貴重な教訓である。有名なケネディの大統領就任演説はこうしたことが念頭にあったに違いない。残念なことに江戸時代の『孟子』は、その「放伐論」(君主がその器でないなら、交代すべき)故に、「異学の禁」として朱子学を奨励したために孟子の教えは日の目を見なかった。名君にもいろいろな君主像があって、一概に名君の定義は出来ないが、秋月種茂、上杉鷹山兄弟に共通する領民を大切(福祉)にし、国を富ます殖産興業(経済)や、教育に対する情熱と人材育成政策を実施した姿を名君と呼称することに反対者は少ないと思われる。

この文稿を書くに当たっては、前高鍋町長のご子息を紹介してくれ、さらにその方が高鍋図書館から特別に「秋月種茂」に関する一連の書籍を借りだしてくれたことで、名君・種茂をより詳しく知ることが出来た。さらに高鍋町の教育課の職員も、私の申し出に対して快く協力してくれて種茂関連書籍リストを作成して送付してくれた。「国史大辞典」に名前すら収載のない、隠れた名君の勉強に惜しみない協力をいただいた事も付記しておきたい。偶々、取手市の市民大学講座で聴講してくれた大学の先輩が高鍋町出身で、講座の後に慰労の席で教えてくれたことで上杉鷹山大好き人間の好奇心から、一年がかりで勉強したことの一端であります。





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR