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『大正デモクラシー』
【2022/09/21 14:02】 エッセイ
2022秋期 大東文化大学オープンカレッジ

2022年度の秋期講座では、これまで行ってきた維新期、明治後期につづいて『大正期から昭和』とりわけ、大正期に焦点をあて、  
 その世相や出来事の背景を取上げようと思う。
 伊藤博文なき後、権力を恣にした「山県有朋」とその後継者「桂太郎」の系譜をたどりつつ、ポーツマス講和条約調印内容に不満    
 をもった国民(民衆・大衆)は「日比谷焼打ち事件」という暴動を起こし、権力への抗議活動となった。
 これに続いて起った「第三次桂内閣」の組閣のありかたを厳しく糾弾して「大正政変」がおこった。
 もはや国民大衆の力が政権を打倒するという、日露戦争までは考えられなかった時代の変遷となった。
 「米騒動」「原敬の政党政治」「枢密院議長だった大浦圭吾」の超然内閣を斃し(第二次護憲運動)たのであった。
 一方、長州閥への反感は山県有朋の死とともに、軍部の改革と相まって新しい政治のありかたを模索したのであった。

第二回 藩閥超克としての「大正デモクラシー」

(1)、政党政治と大正デモクラシー ―藩閥政治から民意の政治展開―
1, 第三次桂太郎内閣打倒(大正政変)と桂園時代の終焉。
2, 「日比谷焼討ち事件」や「大正政変の背後に、国民・民衆あり」。
3, 明治の15内閣。(長州:9,薩摩:3、公家:2、政党(大隈):1)=長州の突出。
4, 大正2年2月「山本権兵衛」組閣。第二次山県内閣で制定した【軍部大臣現役武官制(反対の長谷川好道を更迭)と
     文官任用 令を改変】=組閣・猟官運動の是正
5, 大正5年「中央公論1月号」・吉野作造の「民本主義」(憲政の本義)論文が掲載。
     『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』(中公文庫にあり)
6, 「民主主義」でなく「民本主義」?「大日本帝国憲法」は主権在民を表示せず。
7, 原敬の政党内閣組織と「山県の死」藩閥政権の退潮。
8, 護憲運動と政党政治(第一次護憲運動、第二次護憲運動、原敬政党内閣)

220717吉野作造220715原敬220717濱口雄幸220717加藤高明220717犬養毅220618桂太郎
写真は左から、吉野作造、原敬、浜口雄幸、加藤高明、犬養毅、桂太郎。



(2)、第一次世界大戦・「大戦景気」と貧乏物語と白樺派
   1, 第二次大隈内閣と中国問題(対華二十一箇条要求)。
  2, ロシア革命の勃発,社会主義国家誕生と日本国内への流入防止。シベリア出兵。
  3, 明治末から大正初期にみる、文藝、芸術、演劇、「青鞜社」女性解放運動等。
   4, 日露戦争後の不況、欧州大戦による好景気、「成金」と労働問題。「女工と結核」。
   5, 大戦後の不況と社会不安。労働問題。大正五年九月一日「工場法」実施。
   6, 大正五年九月、『大阪朝日新聞』、河上肇『貧乏物語』、成金や資本家の奢侈。
   7, 武者小路実篤・志賀直哉らの『雑誌・白樺』の創刊。人間性肯定。
   8, 大正二年暮れ、神田に創建の「岩波書店」。出版文化のことと思想界。


(3)、 陸軍出身の「寺内毅」内閣の退場と「原敬首相」の登場
1, 大正7年9月、本格的な「政党内閣」を原敬が組閣(軍部大臣以外が政党人)
2, 第20代「内閣総理大臣・原敬」―平民宰相(実は南部藩・家老の家)―
3, 激動の国際情勢 ―第一次世界大戦(独逸の敗北)のもたらしたもの―「総力戦」
4, ベルサイユ条約(同盟国及連合国ト独逸国トノ平和条約)調印。(1919年・大正八年)←十四箇条の平和原則。
5, 「バーデンバーデンの盟約」若手エリート将校の「長州閥」反感と改革。
6,  「政党政治・民衆運動」の勃興と「超然内閣」



(4)、山県有朋」の死去と「原敬」の遺産
1, 大正11年2月1日、山県有朋死去と「不人気の葬儀」
2, 元老政治から、民衆参加の政治体制への変化。
3, 「ワシントン会議」と軍縮問題(建艦競争への制約)⇒加藤友三郎全権
4, 後継者「高橋是清」は財政上の観点から軍縮を提議、「宇垣軍縮」となる。
5, 徹底した「政党嫌い」の山県有朋は、同時代を生きた「大隈重信」を嫌悪した。
6, 椿山荘から「早稲田の大隈邸」を眺めては、「ワシの嫌いなのはアレじゃ」と大隈邸を指差した有名な話がある。
     だから、一軍  人が最高権力を握って日本を破滅に導いた責任は重い。


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『日本の大陸政策と吉田松陰』
【2022/09/05 22:48】 エッセイ
『早稲田奉仕圓・勉強会』ー吉田松陰を学ぶー

7月16日、掲題の勉強会で第一回目を語った。その最後で、共同通信社の論説委員級の方が、吉田松陰が「大嫌い」との印象を聞かされた方(鍛冶さん)から質問が出た。
終了間際で、松陰の極めて大切な内容なので、二回目の9月16日に返事をする約束になっている。
吉田松陰全集の第二巻に「幽囚録」が収載されている。
巷間、この文言の一部分が一人歩きして「松陰=侵略者」的解釈をし、「危険人物視」の論調が散見される。
朝日新聞で二回(東大教授と半藤一利)、文藝春秋ライブラリー『吉田松陰』の表紙カバー「偉大なる危険人物」(この解説者と朝日記事)とある。
私は、これに不満を持っている。
220905吉田松陰と海外進出JPG


膨大な著述の一部を取り出して、危険人物であるとか、海外侵略論者という「レッテル」を貼って、あたかもそれが松陰の人となりであるという、評価のしかたなのである。
吉田松陰は、山鹿流軍学師範となるべく家学に必死に取り組んだ。
嘉永三年の「平戸修業」で読んだ本は、日本の防衛策研究であった。
北は露西亜、西はエゲレス、東は墨夷と日本國を取り巻く侵略国家への危惧であった。
さらに『アヘン戦争研究』の実態と顛末も必死に読んだ。
幕府や藩は地位に便々として「日本の危機」に立ち向かおうとしない。
日本人としての自覚が強く、愛国者ゆえ「黙ってみていられない」ので、自分の生死を顧みず果敢に警鐘を鳴らす行動をとった。
紀伊新宮の「水野忠央」暗殺計画も、井伊直弼の保守的な国家観では危険であり、それを蔭で演出を企んでいる考えの人物が許せないのであった。
だから「君側の奸」を除くことが、日本國の為に必要だとして、秘密裏で暗殺するのでなく「藩政府」の重臣だった「周布正之助」や前田孫右衛門に宛てた手紙を書いた。本人の説明は「公明正大」で、堂々と実行したい。ついては、藩政府の保持する武器弾薬(クールボール百目玉他)を借り上げたいとも申し入れだった。
じつは、それは建前で、藩政府が承認するわけはない。
それを見越して、動かない幕府や藩政府に「ゆさぶり」をかける意味なのだ。
国家危機に長州藩を巻き込んだ大きな行動を起こさんとの考え、あるいは「ゆさぶり」が狙いでもあった。
なお、当時の海外雄略論は松陰のオリジナルでなく、佐藤信淵の『混同秘策』(文政年間著述)が既に、中国や満洲・朝鮮の攻略を解いている。
また同時代の『橋本左内』も安政四年十一月の「村田氏寿」宛書簡で、『日本の独立達成のために、山丹・満州・朝鮮』を切り随えなければ西欧から侵略されてしまう。と書いている。
それゆえ、松陰を以て大陸侵略論者と云うのは、私には納得がいかないのです。

『吉田松陰の幽囚録と先行論』


吉田松陰の主宰した松下村塾は、明治政府の指導者を多数輩出(五大臣等)したことで知られ、また門下生への教育活動を通じて、松陰の思想的影響から、後々の明治国家の対外政策に結びつけ、日本の「大陸侵略・侵出」の思想的源流は、松陰にあるとするような議論がなされる。
満洲事変から日中戦争・対米英戦争期に吉田松陰の研究書がこの時代に集中して刊行されたこと、最初の吉田松陰全集が昭和十一年に岩波書店から刊行されて、松陰の全貌が理解可能になったこととも無関係ではない。
(引用文献:山口県教育会編『吉田松陰全集』、大和書房)

藩の「山鹿流兵学者」であった松陰における第一の思想的転換として、水戸学との出会いがある。
その出会いは嘉永四年(1851)十二月に長州藩江戸藩邸から脱藩して出かけた東北遊学での途次、水戸訪問での會澤正志斎にある。
前年の平戸遊学の際に、葉山左内の下で會澤の『新論』出会っていたが、精読ではなかった。
その目次を書き取った程度に過ぎなかった。
当時の松陰は兵学研究に必要な部分のみ『新論』に関心をもったようで、松陰の思想的転換を期した「國體」および日本の歴史に関心を持ち始めたのは江戸に出てから「長州藩の人は日本の成り立ちを知らない」と友人に言われたためである。
水戸学の大家・会澤正志斎に学んだ事から、その後、日本の古代史勉強に励んだ。
そこで出会ったのが、周辺諸国を「懾服雄略」する日本の姿であり、そこから「皇國の皇國たる所以」(『睡餘事録』)を発見したという経緯である。

『幽囚録』(安政元年)には、以下のような記述がある。特別な意味合いを持つので、転写します。
『朝鮮と満州とは相連なりて州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。
而して朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は則ち寖(や)や倨る。最もその風教を詳かにして之れを復(かえ)さざるべからざるなり。(②―53)
『日升らざれば則ち昃(かたむ』き、月盈たざれば則ち虧(か)け、国盛んならざれば則ち替(おとろ)ふ。
故に善く国を保つものは徒に其の無き所を増すことあり。
今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礟略ぼ足らば、則ち蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし』。
然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。(②―54)
松陰の『幽囚録』の記述やその他の著述にも、これに関連したものが多く見られるが、昭和十年代の軍部がこれを読んで範としたことが、異常な「松陰ブーム」とも云うべき喝采を浴びることになった。
しかし、松陰の思想は彼の先達からの影響がみられることを銘記しておくべきである。

岩波書店『日本思想大系の45』に佐藤信淵の『混同秘策』(混同大論・上)があり、その主張を引用してみる。

『抑皇国ヨリ外国ヲ征スルニハ其勢順ニシテ易ク、他国ヨリ皇国ニ寇スルニハ其勢逆ニシテ難シ。其ノ皇国ヨリ易クシテ他国ヨリハ難シト云フ所以ハ、今世ニ当テ万国ノ中ニ於テ土地広大ニ、物産最豊饒、兵威最強盛ナル者ヲ選ブトキハ、支那国ニ如ク者アランヤ。而シテ支那ハ皇国ニ隣接密邇ナリト雖ドモ、支那全国ノ力ヲ尽シテ経略スルトモ、皇国ヲ害スベキノ策アルコト無シ。』(428頁)

『皇国ヨリ支那ヲ征服スルハ、節制サヘ宜キヲ得レバ五七年ニ過ズシテ彼国必ズ土崩瓦解スルニ至ルベシ。何トナレバ、皇国ニテハ兵ヲ出スノ軍費甚ダ少シト雖ドモ、彼国ニ於テハ散財極テ広大ナルヲ以テ此ニ堪ルコト能ハズ、且其国人奔命ニ疲労スルヲ奈(いかん)トモスルコト無シ。故に皇国ヨリ他邦ヲ開クニハ先ズ支那国ヲ併呑スルヨリ肇ムル事ナリ。』(428頁)

『日本ノ土地ノ妙ナルコトニハ、南方ニハ敵国アルコト鮮シ。故ニ意ヲ専ニシテ北方を開クコトヲ得ベシ。・・・他邦ヲ経略スルノ法ハ弱クシテ取易キ処ヨリ始ルを道トス。今に当テ、世界万国ノ中ニ於テ皇国ヨリシテ取易キ土地ハ、支那国ノ満洲ヨリ取易キハ無シ。・・・満州人ハ躁急ニシテ懦怯ニシテ懼レ易シ。・・・皇国ヨリ満洲ヲ征スルハ、此ヲ得ルノ早晩ハ知るベカラズト雖ドモ、終ニ(つい)ハ皇国ノ有ト為ランコトハ必定ニシテ疑ナキ者ナリ。夫啻ニ満洲を得ルニミナラズ、支那全ノノ衰敗モ亦此ヨリ始ル事ニシテ、既ニ韃靼ヲ取得ルノ上ハ、朝鮮モ支那モ次デ而シテ図ルベキナリ。』(431頁)

 このように、文政年間から海外侵略論は主張されており、(国際)社会にあって「弱肉強食」は国勢の赴くところであった。
英米露の侵略防止は当然視された。

吉田松陰の生涯は「日本國の独立」を維持すること、その方策を探求し続けたことを理解せずに、吉田松陰=「テロリスト」・「危険人物視」するのは誤った理解(狭い理解)に基づくものであるといって良い。
これが、声高に唱えられるところに、松陰の理解が不足していたと云える。
これは、松陰のみに限定するのでなく、関連書籍をはじめとして、周辺の研究を視野に入れなければならない。
併せて、時代的側面との関連で考察することが必要であることを示している。
因みに、『幽囚録』の記述に先行する主張を取上げたのは、『近代日本の大陸政策』(古川万太郎著)しか私は知らない。


『吉田松陰と陽明学』
【2022/08/10 22:11】 エッセイ

吉田松陰の『知行合一』観

松陰は、鎮西遊学(一八五○年八月二五日~一二月二九日)で、平戸松浦藩仕置家老・葉山佐内の下での修行中に、陽明学の教典である『伝習録』に出会った。
以下は、松陰が「知行合一」について記している部分である。
「知先行後」が朱子学の解釈であったのを、陽明は「分離不可」であるとし、有名な「知行合一」を説いた。
これは朱子学の分派というよりも否定に近いともいえるもので、学問の成果として行動を促すことを説いたものである。
朱子学が「寛政異学の禁」として徳川幕府公認の学問であった。
それは、「身分制や秩序維持に好都合」な内容であったことから、時の老中・松平定信の説くところとなった。
したがって、三百六十余といわれる各藩の「藩校」は、朱子学を学ぶ事が奨励された。
それゆえ、陽明学は幕府公認の学問とならず、一部の知識人が信奉するところとなった。
そのために幕末期の陽明学信奉者は、ある種の異端児的な学問の位置づけとなった。
吉田松陰や、その門下生をはじめとして、その信奉者としては西郷隆盛や河井継之助や恩師の山田方谷らがおり、己が信じる正義観は、そのまま行動として督励されて明治維新の陰に陽明学ありといわれるようになる。
変革の思想は、このような異端児的な信奉者をかりたてずにはおかなかった。
但し、松陰は晩年の著作で、自ら陽明学者たることを否定している。
一つの学派に拘泥せず、良いものと思われるものは積極的に受け入れる立場をとった。
吉田松陰の思想と行動を理解するには、このような松陰の学問観を理解しないと松陰の人となりが正しく理解されないのである。「下田蹈海」と自称した行動は、激しい知識欲と行動欲にかりたたされた結果であることを理解しないと、大変な間違いをおかすことになるのである。では、『吉田松陰全集』第三巻を転写してみる。

王陽明


『講孟余話』
萬章 下 
首章
條理を始むるは智の事なり。條理を終(おわ)ふるは聖の事なり。智は譬(たと)えば即ち巧なり。
聖は譬えへば即ち力なり。
智と聖と是れ全章の綱領なり。
智は射の巧にして、即ち所謂(いわゆる)致知なり。聖は射の力にして、即ち所謂力行なり、
知と行二つにして一つ、一つにして二つ、王陽明知行合一の説、固より自ら當る所ありと云えども、是れ等の所に至りては、知先にして行後とせざれば明かならず。
凡そ人の志を励まし行を砥(し)するに、学問の工夫を捨てて、唯だ行事一偏のみに拘泥する時は、的を準ぜずして強弓を引き長箭(ちょうせん)を放つが如し。
其の達する愈々遠くして、其の中(あた)る愈々(いよいよ)疎なり。故に知を以て先とせざることを得ず。
これ行を主として学を廃する者の誡めとすべし。
又読書明理のみを専務として、曾て實行實事の上に於て毫も砥励(しれい)する所なき者は、的の大小遠近悉く詳審すと云へども、未だ曾て弓を把りて體を習したることなきが如し。
一旦矢を放つ、其の遠きに及ぶこと能はざるは論なきのみ。
故に行を以て重しとせざるを得ず。是れ学を主として行を廃する者の誡めとすべし。
然れども是れ吾が徒小人知行偏廃の弊を言ふのみ。
その實は知にして行を廃するは實の行に非ず。行にして知を廃するは實の行に非ず。
故に知行二つにして一つ、而して先後相俟ちて済(な)すことあるなり。
(吉田松陰全集第三巻 218頁)

吉田松陰全集の記述された文言は、理解が難しいのである。
この文言の限りでは、感覚的に松陰が理解しているように思える。
概して、中国の古典は、こうした抽象的な論理が多い。
西洋の実証性を眼目とした記述とは、その趣が異なることを承知して取りかかることが大切である。

陽明学は、「自分が正しいと理解すると、その完全燃焼を求める」のである。
【主観の完全燃焼】といわれるゆえんである。
解りやすく、一例を挙げておこう。
それは【大塩平八郎】である。
彼は、私塾で教えていたが、幕府の大阪町奉行が、領民の飢えを尻目に「己の栄達」に専心していた。
そこに、大塩の「正義感」が燃えさかる。
自分の命をも省みず、飢えに苦しむ人達を救済しようと立ち上がったのである。
その、怒りは「老中・水野忠邦」の実弟である町奉行に向けられたのであった。

吉田松陰の散り際と大塩平八郎の散り際が、後世の我々に共感を起させるのは、
その「正義感」に裏打ちされた、行動なのである。
それゆえ、幕府は朱子学を是とし、陽明学は「是認」を得る機会がないままに、幕末に至ったのである。
陽明学はただに、江戸期のものではなく、現代でも信奉者が存在します。


大東文化大学オープンカレッジ
【2022/06/16 17:56】 エッセイ
2022年春期大東文化大学オープンカレッジ
【幕末維新のヒーローたち】

220604山縣有朋220618桂太郎220618寺内正毅





         
第四回 軍政家・山県有朋の検証
東京都文京区音羽にある「護国寺桂昌院」に、山県有朋夫妻のお墓がある。
生前の、位人臣を極めた位階・勲等を誇るかのように、山県の墓誌には、以下のような煌びやかな生前の勲功が彫刻されていると云う。
<枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵>
このように、すべて漢字で「二十二文字」が記されています。

(1)、大村益次郎の後継者は山県有朋へ
   1,吉田松陰の「草莽崛起論」と高杉晋作・徴兵令の構想萌芽。
   2,「奇兵隊」の創設と国家防衛思想(割拠論)
   3,奇兵隊軍監就任と四境戦争(第二次長州征伐)の勝利。
   4,大村益次郎の遭難と山県有朋陸軍卿。
   5,明治二年のヨーロッパ視察(西郷従道)の辞令。渡欧。戊辰戦争賞典禄。

(2)、軍人・山県有朋の出世
   1,欧州視察から帰国、従五位兵部小輔(明治三年)
   2,陸軍大輔、陸軍中将に昇進(官制改革)
   3,山形屋事件で西郷隆盛に救われる。陸軍卿に昇任。
   4,佐賀の乱、西南戦争征討参軍、西郷に投降をすすめる。功績で勲一等。
   5,参謀本部長兼「参議」に就任、ここから軍政家の道へ。

(3)、薩長藩閥体制と軍政家への道
   1,明治14年の政変で大隈重信の失脚。
   2,内務卿に就任、憲政準備(伊藤、西郷と連署にて)
   3,参謀本部長、伯爵、従二位、内務大臣、農商務大臣、地方制度編纂委員長。
   4,内閣総理大臣、陸軍大将、元勲優遇、第一回帝国議会(利益線、主権線)
   5,司法大臣、枢密院議長、元老、日清戦争第一軍司令官、陸軍大臣等々。
 (4)、ポーツマス条約講和と陸軍
    1,明治39年3月、「英国大使」「米国大使」からの異議書翰。
2,明治39年5月22日「満州問題に関する協議会」―伊藤、児玉を𠮟る。
3,文民統制を識る伊藤博文、韓国統監へ赴任。韓国併合、ハルビンでの暗殺。
4,陸軍の二個師団増設問題と上原陸軍大臣の辞表。
5,「帝国国防方針」を起草した参謀本部大佐・田中義一

(5)日本陸軍の系譜と大陸政策問題 ―石橋湛山の満州放棄論と対比―
  1,山県有朋(長州)―桂太郎(長州)―上原勇作(山県閥)―寺内正毅(長州)ー田中義(長州)一
    東条英機(岩手・陸軍大学卒・統制派)
  2,満蒙権益と南満州鉄道株式会社(国策会社)と「関東軍」
  3,「大隈重信内閣」の対華『二十一箇条要求』(加藤高明外相)
  4,政党政治の打破と陸軍・海軍不和問題。
  5,満州某重大事件と昭和天皇の激怒。満州事変(関東軍)の暴走。
  6,5.15事件の不思議(首謀者の死刑なし)
  7,2.26事件と『陸軍の横暴の数々』―「職分を弁えぬ軍人の奢り」
221008上原勇作221008田仲義一221008東条英機




(6)、明治維新の成功を台無しにして ―亡国に導いたのは誰―
  1,今に遺る敗戦の爪痕(原爆投下と大量殺人兵器・反日問題)
  2,関東軍の731部隊(細菌実権)のこと。
  3,日ソ不可侵条約問題とロシアの一方的破棄通告、満州襲撃。
  4,シベリア抑留と満州引揚げの悲劇(流れる星は生きている・満州引揚げ哀史)
  5,360万人の「英霊」と靖国問題の行く末は?
  6,世界平和は、何時になったら実現するか? 「永遠の人類の課題」
  7,ロシアのウクライナ侵攻・「法と秩序無視」・「世界平和」と「大国の横暴」
  8,「兵は凶器なり・平和構築手段に非ず」を認識し、軍人は「職分」を守るべし。


『幕末・維新のヒーローたち』大東文化大学講座
【2022/05/27 15:25】 エッセイ
2022年春期大東文化大学オープンカレッジ

【幕末維新のヒーローたち】補助資料
2022年5月28日は、第三回目の講座です。
第一回の『徳川斉昭と井伊直弼の確執』と題して、主に「安政の大獄」の原因と展開を取上げました。
そして「戊午の密勅」を降下させたのは徳川斉昭の陰謀に違いないと思い込んだ井伊直弼は、
水戸藩に対して過酷すぎる厳罰を実施した。
藩主父子に謹慎・蟄居をはじめ、勅諚を渙発させ江戸藩邸に届けに関わった鵜飼父子。
家老の安島帯刀を表向きは「切腹」という、身分に対応した刑罰としたが実態は斬首に近いものだったという。
多くの藩士も厳罰を蒙り、水戸藩側は納得がいかない。
そして仇敵殺害を計画し、実行させたのが「桜田門外の変」で大老・井伊直弼の登城を待ち伏せして襲撃した。
この時に持参していた藩士たちの斬奸状によれば、東照宮(徳川家康)の政治体制に反逆でなく、職権乱用として非道の政治を行った井伊直弼を殺害して、「御政道を正しくする」。
つまり斬奸状では井伊直弼は國賊とされたので、これを殺害するのは正義の行為であるとの立場であった。
いわば「君側の奸」を成敗して、御政道を正しくするというのが大義名分の立つ行為であった。
幕末の動乱はこの事件がきっかけとなった。
以後、それまで幕政に容喙出来なかった有力な外様藩が政治の舞台に登場してくる。
したがって、この事件を「明治維新の起点」とする立場を取る歴史学者もいる。
八年後に幕府は斃れ、明治の時代すなわち近代国民国家の形成へとなっていく。
この一連の近代化のヒーロー役は、薩長土肥にとどまらず、岩倉遣欧使節団や幕末の教育者四人も、
「幕末・維新のヒーローたち」と呼ぶに相応しい。
また女子留学生として同行した津田梅や山川捨松らの功績にも後の女子教育に貢献したので、
補助資料ながら顕彰すべきだろうと思う。

<明治四年の岩倉遣欧使節団>

 220528岩倉遣欧使節団220528フルベッキ220528岩倉使節少女留学180709緒方洪庵 梅溪220604酒井南嶺伝 大220528米欧回覧実記220528岩倉使節団220528岩倉使節団航路





                    
(1) 明治四年、廃藩置県(七月)を断行後、安政年間に締結した西欧諸外国との条約改正の予備交渉を兼ねて、西欧先進諸国の視察を目的に実施された。
出発は同年十一月十二日(一八七一・一二・二三)であった。
代表としての大使は岩倉具視、副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳の四人。
他に随行員や書記官、女子留学生等百名超の大使節団の一行で総勢百名超という大使節団であった。しかも、新政府の最重要の要人(大黒柱)ともいうべきメンバーであり、國内政府を預かるのは三条実美、西郷隆盛、大隈重信、江藤新平たちであった。
これを「留守政府組」という。

(2) 閣議で提唱したのは大隈重信参議であったが、大隈は長崎(致遠館)時代に師・フルベッキから「オランダ憲法」・「アメリカ独立宣言文」を学んで先進國のあり方を知った。
それが、「キリシタン取締」を抗議したパークスとの交渉に生かされた。
フルベッキを新政府顧問に招いたのは大隈の慫慂による。(お雇い外国人=梅溪昇)

(3) フルベッキは「西欧先進諸国の見聞実体験」を大隈に提唱した。だが、新政府の序列上、大久保利通が「薩長主導」での実現を望み、同時に「長州閥総帥の木戸」の同行を強く要請し、これを岩倉が同意という経緯で実現した。大久保は「薩長勢力の均衡」で新国家建設を願っていた。(大久保の死後それが明瞭になる=薩長藩閥)

(4) 随行員の主要な顔ぶれ
特命全権大使:右大臣、岩倉具視(47)
副使:    参議、木戸孝允(39)長州
       大蔵卿、大久保利通(42)薩摩
       工部大輔、伊藤博文(31)長州
       外務少輔、山口尚芳(肥前)・のち参事院議官・貴族院議員
一等書記官:外務少丞、田辺太一(41)旧幕臣、のち元老院議官
      外務大記、塩田篤信(29)旧幕臣、のち北京特命全権公使
      同上、福地源一郎(31)旧幕臣、のち政府系新聞記者・衆議院議員
外務六等出仕:何礼之(32)長崎、のち貴族院議員
二等書記官:外務少記、渡辺供基(24)福井、のち東京帝国大学総長・貴族院議員
      外務七等出仕:小松済治(25)和歌山、のち大審院判事
      同上    :林董(22)佐倉、のち各国の公使・外務大臣
      同上    :長野桂次郎(29)東京、のち開拓使御用係
三等書記官:川路寛堂(28)旧幕臣、のち外国文書課長・女学校校長
四等書記官:文部大助教、池田政懋(24)長崎、のち天津領事・長崎税関長
      外務大録、安藤忠経(25)鳥羽、のち香港領事・外務省通称局長
大使随行:式部助、五辻安仲(27)公家、宮内省、のち宮内省御用掛・爵位局次官
     外務大記、野村靖(30)長州、外務省。のち枢密顧問官・逓信大臣
     兵庫県権知事、中山信彬(30)、肥前、大蔵省。のち大阪株式取引所頭取
     神奈川県大参事:内海忠勝(29)長州、大蔵省
     租税權頭:安場保和(37)、肥前、のち地方長官・貴族院議員
     權少外史:久米邦武(33)、のち帝国大学教授・歴史学者
理事官:司法大輔、佐々木高行(42)、土佐、司法省。のち参議工部卿・枢密顧問官
    侍従長、東久世通禧(39)、公卿、宮内省のち貴族院副議長・枢密院副議長
    陸軍少将、山田顕義(28)、長州、兵部省、のち司法大臣
会計兼務:戸籍頭、田中光顕(29)、土佐、大蔵省、のち元老院議官・宮内大臣
     文部大丞、田中不二麿(27)尾張、文部省、のち文部大輔・枢密顧問官
     造船頭、肥田為良(42)、静岡、江川太郎左衛門高弟・工部省

※<女子留学生>:津田梅(9)。永井繁(11)。山川捨松(12)。吉益亮(16)。上田悌(16)。
 ※使節団にはこのほか、大久保の長男、次男、山県子息、金子堅太郎。中江兆民等。
使節団はアメリカを最初に、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、プロソア、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスの先進12カ国を訪問。
近代国家の制度、文化、産業、教育等々多岐にわたって見聞。
日本の近代国家建設のビジョンを学んだ。政治家ばかりでなく、留学生達もその後の新日本形成に寄与する。
実務トップの指導者大久保利通はプロシアの宰相・ビスマルクの晩餐会で大きな示唆を受け、帰国後の「富国強兵・殖産興業」政策を牽引していくことになる。
   
   
<幕末・維新期の私塾教育者>


※幕末維新期のヒーローでは地味ながら、私塾を開き多くの人材を育てた「教育者たち」も取り上げなければならない。
上の写真は、左から緒方洪庵(大阪・適塾)、吉田松陰(長州・松下村塾)、酒井南嶺(宿毛・望美楼)、枝吉神陽(佐賀・義祭同盟)などの優れた教育者がおり、国家に貢献する人材を育てた。
このほか、「咸宜園」の広瀬淡窓も私塾としては大規模で全国から入塾している。
 
緒方洪庵:大村益次郎、大鳥圭介、福澤諭吉、長与専斎、佐野常民、橋本左内他。 (門人入門帳あり)

吉田松陰:高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川彌二郎他

酒井南嶺:岩村通俊・林有造、高俊の三兄弟、竹内綱・竹内明太郎・吉田茂(親子)、 小野義真、小野梓、大江卓他

枝吉神陽:佐野常民、大隈重信、江藤新平、大木喬任、副島種臣、久米邦武等


桜田門外の変
【2022/04/27 21:30】 エッセイ
安政の大獄は、幕府大老・井伊直弼と、水戸藩前藩主・徳川斉昭の権力闘争の面も併せ持つ。京都手入れを徳川斉昭の仕業と思い込んだ井伊直弼は、殊更に水戸藩に厳しい裁定を下した。
これに反感を抱いた水戸藩士達は、井伊大老打倒を企てる。
但し、藩に迷惑が及ぶ事を回避すべく、「藩籍離脱」をし、いわゆる「浪人」となって大老殺害の策をめぐらす。
その思いを遂げるために書かれたのが、「水戸浪士による斬奸趣意書」である。

これを詳細に読んでみると、墨夷の言いなりになって、叡慮を蔑にしたこと。仮にこの復讐劇が成功しても「東照宮」(徳川家康)に対し、不忠の思いは全くなく、幕府権力を背景に「専断」を恣にして、日本國(神州)のためにならないこと。
邪な政治の道(政道)をただしたい一心でこの義挙を行うという思いが読み取れます。

井伊大老の時代、老中は井伊を含めて四名であったが、先任老中の脇坂安宅宛に書かれているのは、天に代って「政道」を正しい方向に引き戻す決意が綴られている。
万延元年三月の時点では、討幕と云う考え方は未だ無い。
吉田松陰が将軍継嗣問題で暗躍しているのが、紀伊新宮藩主の「水野忠央」であり、無断勅許に怒りの上書を書き連ねたことの結末がこのように展開して行くのです。
吉田松陰、橋本左内という人材を失った「政道」を指揮した「井伊直弼」は、【國賊】なのであった。
現にそれは、文久二年の恩赦で、「安政の大獄」の犠牲者の名誉回復がなされたのであった。

180202正装の吉田松陰左内2012.3.31井伊直弼24.3.25220104愛宕山集合の図


櫻田門外の変 「斬奸趣意書」

謹んで龍野侯執事に言上奉り候、執事御義御賢明に在らせられ、天下の御政道邪(よこしま)無く御取計らい遊ばされ候御儀と存じ奉り候間、草莽の我々共申し上げ候は恐れ入り候得共存じ詰め候義伏蔵無く別紙に認め奉り瀆(とく)と尊覧候。
追々御大老井伊掃部頭所業を洞察仕り候處、権威を恣(ほしいまま)に致され、我意に叶はざる忠誠厚き人々をば、御親藩を始め、公卿衆・大名・御旗本に限らず讒誣(ざんぶ)致し候て、隠退幽閉仰せ付けられ候様取計ひ、就中外虜の義に付ては虚渇の猛勢に恐怖致し、神州の大害を醸し候容易ならざる事を差許し、御國體を穢し恐れながら叡慮を悩ませ奉り、勅意にも違背奉り候段、奸曲(かんきょく)の至り天下の大罪人と申す可く存じ奉り候。
右罪状の義は別紙にて委曲御熟覧御熟慮の程禱り奉り候。扨、右様の奸賊御坐候ては此の上益々将軍家の御政道を乱り、夷狄の為に制せられ禍害を來たし候義眼前にて之れ有り、實に天下の御安危に拘り候儀と存じ奉り候故、京師へも奏聞に及び、今般天誅に代りり候心得にて斬戮仕り候事に御坐候、毛頭公邊へ御敵對申し上げ候義に之無く、且つ全く我々共忠憤の餘り天下の御為と存じ詰め候ての事に御坐候間、御法の通り如何様御處置仰せ付けられ候得共御恨み申し上げず候、依ては元主人家譴責を蒙り候様の儀之れ無き様願い奉り候、將に又此の上は天下の御政道に御復し、忠邪御辨別遊ばされ殊更夷狄の御取扱に至り候ては、租宗の御明訓御斟酌在らせられ、華夷内外の辨得と御勘考遊ばされ、勿論聖明の勅意に御基き御判斷の程渇望奉り候、此の罪顧みず萬死申上奉り候、教皇頓首
月  日
                    元水戸藩中
                     姓       名
             
                    元薩摩藩中
                     姓       名


万延元年三月







 伏 呈
龍野賢侯執事

墨夷浦賀へ入港以来、征夷府の御処置、假令時勢の變革も之有り、随て御制度も變革なくては相成難く事情之有り候とは申しながら、當路の有司専ら右を口實として、一時偸安(とうあん)畏戦の情より彼が虚渇の勢焰(せいえん)に恐怖致し、貿易和親・登城拝禮をも指し許し、条約を取替し、踏み繪を廃し、邪教寺を建て、ミニストルを永住為し致し候事等、實に神州古来の武威を穢し、国體を辱め、祖宗の明訓孫謀に戻り候のみならず、第一勅許も之無き儀を指許され候段、天朝を蔑如奉り候儀に之有り、重々相濟まず事に候、追々大老井伊掃部頭所業を洞察致し候に將軍家御幼少の御砌に乗じ自己の權威を振はん為、公論正義を忌憚り候て天朝公邊の御為筋を深く存じ込み候御方々御親藩を始め公家衆・大小名・御旗本に限らず讒誣致し、或は退隠或は禁錮等仰付られ候様取り計ひ候儀、夷狄跋扈不容易砌と申し内憂外患日を追って指し迫り候時勢に付、畏れ多くも一方ならず宸禁を悩まされ、御國内治平公武御合體彌長久の基を立てなされ、外夷の侮を受けず様遊ばされ度との叡慮に在らせられ公邊の御為め勅書御下げ遊ばされ候歟に伺い奉り候處、違背仕り尚更初大夫始め有志の人を召し捕り無實を羅織し、嚴重の處置致され甚敷に至り候ては三公御落飾・御慎、粟田口親王をも幽閉奉り、勿體なくも天子御譲位の事まで醸し奉り候件々、奸曲莫所至らず矣(や)豈天下の巨賊にあらずや、右罪科の儀は委細別紙に相認め候通りに候、斯る横暴の國賊其の儘指し置き候はばますます公邊の御政體を乱り、夷狄の大害を成し候儀眼前にて實に天下の安危存亡に拘り候事故、痛憤黙止難く京師へも奏聞に及び今般天誅に代り候心得にて、惨戮せしめ候、申す迄には之無く公邊へ御敵對申し上げ候儀には毛頭之無く、何卒此の上聖明の勅意に御基き、公邊の御政事正道に御復し、尊王攘夷正誼明道、天下萬民をして富嶽の安に處せしめ給はん事を希ふのみ。
聊か殉國報恩の微衷を表し伏して天地神明の照覧を仰ぎ奉り候也。











別紙存意書
皇国千萬世天日嗣連綿照臨し給ひて伊勢之神宮も上古に替わらせ給わず、神道を尊ひ武  力を尚び給ふ事自然の遺風餘烈なれば古より遠略をのべ給ひ、且つ夷狄の禍之有り候得ば精々退攘し給ひし事靑史に著しく今更稱揚奉るに及ばず、武將の世となりても弘安の蒙古鏖にし、文禄の朝鮮を征する事共神州の武威を海外に輝候義、人口に膾炙する所なれば是又贅言を待たず東照宮に至り給ひては尊王攘夷の御志深く在らせられ候は申上及ばず、但し勃興の御盛時なれば其の初は諸蠻(しょばん)来航通商等も許し置かれ玉ひしか共、諸蠻も畏服して覬覦(きゆ)=(下の者が上のことを望み願う。望んではならぬことを望む)の念を達する事ならず、然る所東照宮終に其の巨害ある事を洞見し給ひて洋教の禁を嚴にし給ふ、大猷公に至りて益邪徒を驅斥惨戮し、三眼の明を四海に布き給ふ事、誠に千古の英見卓識にて後嗣遵奉し給ふ處なり、扨て近時に至りては夷狄狡謀黠略(かつりゃく)の者多く出て、萬國に通信貿易し遂に小を併せ弱を制し、次第に境界廣大に相成り候勢に乗じ、屢神州をも覬覦するに至る、去りながら打拂の令之有る時は格別の事は仕出す事も成し得ずして打過ぎぬ。
天保十三年打拂の令を停め仁恤せられしより頻りに来航し跋扈の態を顯すに至る、就中、嘉永癸丑墨夷浦賀へ入港威暴を示し難題申掛候以来は、征夷府の御處置方古今時勢の變革も之有り、一概に御國威御主張遊され難き儀は治世の風習左も有る可きの事に候得共、申す迄も之無く夷狄貪惏(どんらん)元より饜事(あくこと)なく、殊に狡謀譎計(けつけい=うそ)を挟み、覬覦の念を逞く致し候故、耶蘇の術中に落入り神州の泰否にも拘り候重大の事に候得ば、華夷の辨和戰の議始終著眼の大基本御廟議御一定の上諸御衍カ制度御變革之無くては時勢に於て相叶はず筈に候得共、近來諸蠻夷の御取扱振推察仕り候に憚りながら一定の御廟算如何之れ有る可き哉、去る卯年迄は追々内備嚴整の御達し之れ有り、邊海の御守衛仰せ付られ候、大名に至ては多年防御の為國力を費し忠勤励まされ候處、圖ずも去る辰年和親交易御取結の上恐多くも征夷大将軍の御居城へ夷狄共登城仰せ付けられ、剰へ御饗應尊敬を盡され候有様春秋城下の盟を耻る比較にあらず神州古來未曾有の御失體にて實に冠履倒置の御處置と申す可く驚嘆の至りに候、假令御國政の儀關東に御任せに相成り居り候とて斯る重大の事件第一勅許在らせられ候儀を全く掛り之有り、司敷輩の了簡を以て五ケ國へ本條約指し許し将軍家御印章の御書翰迄指し遣され候始末何程偸安の末俗戦争に及び候を恐怖致し候とて、天下後世へ對し大義名分と申も之有り、征夷の御任せ如何之有る可き哉、忝くも武門の列につらなり二百年の恩澤に浴し居り候ては悲泣の至に堪えず候、況や徳川家譜代恩顧の士東照宮の御神霊に対し奉り沈黙傍観致居り候儀廉耻の無きと申す可く決して相済まず事也、扨陳する迄も之無く天下の所聞見に候得共前件夷狄交易の儀如何様にも勅許申し請け所存にて、去る午年春堀田備中守上京致し賄賂金銭を以て關白殿下を誑惑致し勿體なくも龍顔を奉可く暗と陰謀秘計一方ならず候處、今上皇帝聡明絶倫千載不世の聖王に渡せられ、皇國開闢以来尊嚴の國體淳厚の風俗今上の御代に及び夷狄の為に消却汚穢致され候ては第一伊勢神宮御始め御代々の御神霊に對され王位の御任済に為されず、尤も戰を好まれ候には之無く國體を失わず萬民安堵に遊ばされ度との叡慮より、賢くも一七日の間供御御絶遊ばされ石清水へ御祈誓為され籠關東より如何樣申し立られ候とも一切御許容遊ばされ難く、萬一非常の節は縦令萬里の波濤を越へ孤嶋に終り候得共御憾為在らせられず候得共、泉湧寺を御離れ遊れ事は忍ばされ難しと竊に宸襟を御濕しあそばされ候事御事情傅へ承け仕り、四海の人民誰か感激悲泣せざらんや、當に此の時神州の命脈累卵よりも危き事なりしが百官群臣忠憤切迫の餘り八十八人の堂上方禁中へ馳せ集り萬死の力を以て諫奏を奉り、其外の有志の大小名勤王の微衷を巘ぜし故、三公御始め彌増し感憤遊ばされ三港の外近畿及び數ケ所の開港幷に夷狄永住邪教寺取建等の儀は一圓御許容遊ばされ難き趣を以て勅命御下知在あらせられ、尚又内地人心の居り合如何に付、大小名の赤心も知られ度、尤も衆議奏聞の上叡慮決せられ難く候はば伊勢大神宮神慮伺い奉る可くとの御儀三月廿八日議奏衆より堀田備中守へ御返答書被下され俄に下向仰出され候趣の處夷狄に内條約の儀既に指し許され候事故、諸大名の赤心有體に叡聞に達し候様には相成らず、依て表向き天下へ意見建白の達は之有り候得共、蔭より某々等を以て専ら西洋の事態を強大に主張し、交易指し許しは一時の權宜御據無く萬一關東の御旨意に違い候ては家々の為にも相成らずと吉凶禍福を以て遊説いたし、尚又御三家方へは御建議の文意認め直し候様御内諭も之有り由に候得共、水戸前中納言殿には關東輔弼の名將之有り、尊王攘夷の御論始終一致の御方故御廟算伺書といふ書一冊當今の急務より將來の害まで丁寧誠實に建白致され尾張中納言殿にも御内諭に泥らず京師の御旨意に基づき御處置之無く候ては相済まずと申立てられ候由、實に有難き事と謂ふべし、其後彌勅許の有無に拘わらず關東の御決斷を以て假條約御指し許しに相成り候趣旨に付、御三家にては尾張殿水戸殿御三卿には田安殿一橋殿御家門には越前殿忠誠無二の御方御一同登城に相成り将軍家御對顔願わされ候處御所勞にて御逢之無く依て元老井伊掃部頭初め御呼出い天子の勅命御遵法之無き假條約御指し許しに相成り候ては将軍家御違勅の罪遁れ遊ばされ閒敷く東照宮以来御代々様へ御對遊され候ても如何之有る可く哉、各方の了簡承り度旨御一同御演述に相成り候處御目前にては掃部頭始め畏服奉り候由に候得共執頭の威權を以て不日に條約指し許し畏れ多くも将軍家を御不忠御不孝に陥れ奉り徳川氏の御稍號を千百歳の後迄穢し奉り候のみならず、将軍家御大病人事をも御辨之無く砌に乗じ無實の罪を羅織(らおり)し、御親戚の御方々を禁錮奉り其の他正議(義)の大名松平土佐守始兩三人御威光を以て無體に隠居為され候所業悪むにも餘りありと申す可く、且つ又御幼君の御時節を幸として御三方の權勢を摧(くだ)かん為御連枝又は家老にて本家主家をも押領掌握せんと奸曲の巧みある松平讃岐守・水野土佐守・竹腰兵部小輔等徒黨に引入れ種々奸計を運し、且つ我意に随ひ申さず正義の士を貶斥(へんせき)し、東照宮以来の美意良法日を追って破壊に及び候事長(太息の至りに候、その後八月に至り、叡慮の餘り、三家大老の中上京致し候様重き勅書御下げに罷り成り候處、御請けにも)差し支え、尾水兩家の義は束まらずの儀之有り、愼(つつしみ)申し付け掃部頭儀は御用多にて上京相成り難し、且つ先役堀田備中守等取扱候儀今更致し方も之無く、依て嚴重申し付け候旨議奏衆迄申し立て己が逆罪を遁れ申す可くと相工み、間部下総守上京致させ専ら恩威を以て押し付け候所存にて賄賂を用ひ、九條殿下を徒黨に引入れ内藤豊後守へ命じ御所向取締彌嚴重に致し、恐多くも天子御譲位をも遊ばされ候樣要奉り候得共三公御初め御賢明の御方にましまし叡慮を補佐奉り候に付、朝威確乎として御撓(たわ)み遊ばされず之に依り無實の御罪申觸(もうしふら)し、鷹司殿近衛殿・三條殿御落飾愼遊ばされ候様取り計ひ、其他諸大夫始め何一つ罪科之無き者を召捕り關東へ指下し、それぞれ非道の處置致し専ら虎狼の猛威を以て天下を屏息せしめ、畿内の開港幷びに邪教寺建等本條約指し許し、且は靑蓮院宮様の御英邁を忌奉り御失徳之有る様申觸し、御寺務取放し幽閉奉り候所業恐れながら玉體にも迫り奉る可くの機顯然(けんぜん)にて、北條足利の暴横に均しく共に天を戴かざる國賊といふべし、嗚呼此の儘に打過なば赫々たる神州一
兩年を出でずして内地の奸民邪教に靡き、彼か勢焰を助け皇國の奸賊平身低頭して彼が正朔(せいさく)を奉ずる事掌の上に覗るが如し、苟も人心之有る者實に痛哭長大息に堪えず事獻橋殿・越前殿・阿波家・因州家の如き徳川家補佐の良將も之有る外諸侯にも薩州・仙臺・福岡・佐賀・長州・土佐・宇和島・柳川等天下の為忠憤の念日夜怠らざる有名の諸侯も少なからず候へば、内は則ち御家門方・將軍家を補佐奉り専ら内政を修め、外は則ち有名の諸侯一意忠力を盡し、武備を整へなば神州の耻辱を一洗して叡慮を安じ奉り候事天地神明に誓て疑あるへからず、之に依り當今事態の概略を記して天下の公論折衷を待ち左袒して天下を興起せんと欲する所なり、周の衰る婦人っすら不恤緯して周家の亡るを憂ひしに、まして三千年餘の天恩を戴き二百年来東照宮の恩澤に沐浴する者誰か報効の念なからんや、草莽の小臣痛憤切歯の餘寝食を安からず日夜遺憾を呑て時勢を憂ひしが彼の罪悪追日増長豈唯徳川家の罪人にみならんや實に神州の逆賊也、天地神人同憤の時に乗じ天下諸藩の同志と合力同心して天下の奸賊を誅戮し神罰を蒙らしむる者也。
(此の書は、右の別紙と共に十八士、いづれも懐中せるにて、大關等が細川家に出せるも亦同一なりと知るべし)
『水戸藩史料』
以上


『品川彌二郎のこと』
【2022/03/30 16:27】 エッセイ
品川思父に與ふ

220331品川彌二郎220331品川彌二郎像220331品川彌二郎傅

松陰は15歳で松下村塾にきた品川彌二郎を彌二、彌二と呼んで可愛がった。
反面、彼が塾を何日か続けて休んだことがあった。
この時は、歩いても、ほんの2~3分なのにわざわざ手紙を書いている。
この手紙を読んで出てこないなら、もう君は友人ではないと、厳しく接している。

反省した品川は、再度塾にて学ぶことになる。以心伝心なのか、明治になって内務大臣にまで出世した品川は、「尊攘堂」を建てて松陰の遺品の保存に尽くす。
現在京都大学の構内にそれがある。
ここには、例の「吉田松陰自賛肖像画」の「品川家本」も蔵している。
近年、明治神宮で明治維新に因んだ文化催事の展示会があったが、この時この「品川家本」が展示されていた。
残念ながら撮影禁止のため、写真に撮れなかった。

逢ふ事は是れやかぎりの旅なるか世に限りなき恨なるらん
 是れ私情に出でば、思父は婦人なるのみ、何ぞ言ふに足らん。
然れども思父は決して然らず。但し子遠の如く之れを言ひて詳かに悉(つく)すこと能はず。
是れ所謂、思父は情ありて辞なきのみ。

何となく聞けば涙の落つるなりいづれの時か恥を雪がん
 一の涙、反って恥の字より出づ、是も妙。此の志眞箇(まことに)愛すべし、豈に泣かざるを得んや。
思父は情ありて辞なし。別れに臨みて能く此の語を為す。
知るべし、辞は情より出で、両途あるに非ざることを。
辞は僅かに六十二字、情は千萬無量、然れども眞に此の辞を哀しむ者は吾れと子遠兄弟とのみ。
故に手録して之れを寄す。       松陰

※思父=品川彌二郎の字。
※子遠=入江杉蔵

この品川にあてて書き残した別離のことばにも、松陰が可愛がっていた愛情がにじみでているように読める。
明治22年、松陰の母、「たき」に、皇后陛下から下賜品を手渡すよう云われて涙ながらに受け取ったことを、松陰の兄梅太郎(明治以降は民治と改名)あてに書簡をかいている。
このときの言葉は「彌二の心中お察しくださるべく候」と感極まった様子を正直に書いている。
可愛がってくれた恩師にたいし、天皇家からの「下賜品」を受け取る品川の思いは、さぞかし感謝で満たされたことだろう。


「妹・千代の回顧談」
【2022/03/21 15:29】 エッセイ
『家庭の人としての吉田松陰』①
大正二年一月   兒玉芳子

「吉田松陰全集第十巻」の『関係雜纂』に掲題のことが収載されている。文体からして判断すると、口述筆記であろう。いわば、「回想の吉田松陰兄さん」とでもいうべき内容である。少し長いが、身内の者から、松陰先生はどのように見えたかが解かって面白いので書写してみます。

妹・千代吉田松陰




○松陰の幼年時代
私共の父は杉百合之助ともうしまして、長兄を民治といひ、次兄は寅次郎即ち松陰で、叔父に當たります吉田大助の家を継いだので御座います。
私共の一家は父をはじめ、矢張これも叔父に當たります玉木文之進と申すのも、塾を開いて居りましたやうなことで、誰れも青表紙を手にしないものはありませず、殊に兄の養家の吉田家は山鹿流軍學のいえであったのでございます。松陰は私より二歳上の兄で御座いましたが、五つ六つの時分から手習ひや、書物を讀むのが好きで、他家の子供達が大勢でいろいろな遊びをしてゐても、振り向きもせずに、ジツと書物を讀んでゐるといふ風だったそうで御座います。
偶に遊び事らしいことを致しますのが、屋敷の庭で、その頃土圖と申しましたが、鏝などで土をねって、山をこしらえたり、河の形を造ったり、つまり土でいろいろな圖を書くと申したやうなことをして居ったといふことで御座います。母はいつでも、寅次郎は何處に一點小言のいひどころもない、實にてのかからぬ子だと申して喜んで居りました。
非常に親おもひで、優しい氣質で御座いましたから、父や母に心配をさせまい、氣を揉ませまいと、始終それを心掛けて居たやうで御座います。着物などでも母が一枚こしらへて着せますと、何時まででも母が着かへさすまでは、黙って着て居ります。さうして其の構はぬ風と申しましたら、何時でも歩く時には、書物を澤山懐中に入れますので、着物の一方が曲って仕舞って、背縫の縫目が肩のところへ來て居るので御座います。叔母などが見かねまして、餘り醜いから書物は手で提げたら宜しかろうにと申しますと、手を明けておかぬと自由がきかぬなどと申しては、相變らす懐中をふくらませて、肩を曲げて歩いて居りました。

○物に動ぜぬ氣象
極く幼い時分から落ちついた人でした。藩には上覧のお講義と申して、殿さまの御前に出て講義を致す時があるのでございますが、兄は十歳位の時から、毎年それに出て居りました。所が確か十二三歳の頃で御座いましたらう、殿様から七書のお好みが出ましたさうで御座います。七書と申せば中々冊數も多いことで御座いますから、父や叔父などが心配して、せめて何處を出すといふことを仰せ下さったならば、下稽古もしておいてやらうものを、あれだけの書物の中から何處が出るか分からぬのだから、首尾よくお講義が出來れば宜いが、といろいろに氣を揉みますのを、兄は何構ひますものか、何處でも仰せの處をやりませうと、一向平氣で居りました。
その翌日御前に出まして、開かれた處をスラスラと、立派にお講義を致しましたとかで、殿様からひどくお賞めに預かり、御褒美を戴いて歸ったことも御座います。

○他人の為めに盡す
また兄は何事にでも自分を後にして、他人の為めに盡すといふたちの人で御座いました。或る時吉田の門人で、そして吉田家の後見役を致して居りました林といふ家に泊りに参りましたが、折惡しく丁度その晩林家から火事が出ました。火事と聞くと、兄は直ぐに跳ね起きて、枕元に置いてあった自分の大切なものは打ちすてて、他の室にかけて行き、林家の家財をドンドン運び出してやりました。後にその事が分りまして、先方では痛く氣の毒がられましたが、兄はあなたの方では大事な家を焼かれるのですから、一つでも餘計にものを出して上げたいと思ふのは人情でせう、そのために自分の少しばかりのものが焼けたと云っても不思議なことはありませんと云って居りました。

○兄弟は澤山御座いますが、下はずっと年が隔たって居りまして、長兄と松陰と私とが二年違ひづつで御座いましたから、いつも三人で何か致しました。
長兄と松陰とはまた非常に仲がよう御座いまして、叔父の玉木の所へも両人で勉強に参りました。夕方から両人連れで参りましては、叔父の門弟に教授をして遣り、自分達も稽古を濟ませて朝の八時頃に歸って参ります。御飯を頂きますのでも、両人が首を寄せまして、それはそれは親しいもので御座いました。
秋など屋敷續きの山に松茸が澤山出來ますので、今日は茸刈をしようかなどと申しまして、私と三人でよく其の山に参って面白く遊んだことも御座います。長崎に参ったり、いろいろ國事に奔走して居ります時でも、三人で楽しく遊んだ事を、よく夢に見て、其の時分を懐かしく思ふなどと手紙を私に呉れました。思ひ出すほど優しい人でありました。
私は早く縁づきましたし、今の娘さん達のやうに何處へ嫁入っても、何時でも構はず生家に往き來をすると申すやうな、そんな事は中々出來も致しませず、また自身でも好みませんから、生家に參るやうなことは滅多に御座いませんでしたので、兄は大層私を懐かしがって呉れまして、時をり便りの序には、今度は何時來るか、來られる時には前以て知らせてくれ、待って居るからなどと申してまいりました。
お正月などの遊びでも、無意味なことをしないで、いろはたとへをするとか、歌かるたでも取って、一字でも一句でも覺えて益するやうにせよなどと、よく教へて呉れました。

○最後の江戸行き
日は今一寸忘れましたが、兄が江戸へ護送されましたのは、確か安政六年の五月で御座いました。御承知の通りの勤王家で御座いましたから、よもや殺されようなどとは、私共はじめ思ひも致しませんでしたが、それとても普通の旅ではないのですから、本當に名殘りが惜しまれてなりませんでした。
父は申すまでもなく、母も氣丈な人でしたから、心には定めし不安もあったので御座いませうが、涙一滴こぼしもせず、私共に致しましても、たとへ如何なる事があるとも、斯る場合に涙をこぼすと申すことは武士の家に生まれた身として此の上もない恥かしい女々しいことと考へて居りますから、胸は裂けるほどに思ひましても、誰れも泣きは致しませんでした。
丁度出立の前夜で御座ひました。母が兄に向ひまして「今江戸に行っても、どうかモウ一度無事な顔を見せて呉れよ」と申しますと、兄は莞爾と微笑みまして、「お母さん、見せませうとも、必ず息災な顔をお見せ申しますから、安心してお待ち下さい」と事もなげに答へて居りました。けれども自分では再び生きて歸るとは思はなかった見えて、チャンと覺悟をしていたのでありました。


『杉百合之助の教えへの報恩の思い』
【2022/02/25 11:03】 エッセイ

『浮世の有様』に見る「文政十年の詔」

1、 文政十年の詔とは
松陰が、幼児に兄・梅太郎と一緒に「青空学校」の田畑で、父・百合之助から教えられた話である。
文政十年二月、仁孝天皇が将軍家斉を太政大臣に任じ、世子家慶を従一位に任じた詔書に対して、京都へ参内せずに江戸城でこの詔を受けた無礼を武臣の跋扈、王室の式微と捉えて悲憤慷慨したことの話である。
(この話は、玖村敏雄先生と海原徹先生の吉田松陰にいずれも詳しく記述されている)。
敬神家にして、尊王家の父はこの話を幼い兄弟にきかせた。

安政六年五月二十三日、幕府に呼び出されて江戸へ行くにあたって『家大人に別れ奉る』と題して漢詩を父宛に書いた。
そこに次の言葉がある(一部抜粋文)。
「耳存文政十年の詔  口熟秋洲一首文」と、これは読み下すとこうなる。
「耳には存す 文政十年の詔、口には熟す 秋洲(日本の意味:神国由来)一首の文」となる。
松陰全集第九巻:東行前日記、565頁)この時、松陰数えで30歳である。

江戸から生きて帰れない覚悟で、父にお別れの書を贈ったのである。
非常に情感の籠った親への感謝の漢文であるが、そこで幼児の頃、父上から聞かされたこの話は、30歳の今も、諳んじることが出来るといっている。
真に松陰は父親を尊敬していたのだ。
220226文政十年の詔
文政十年詔 写     天保十年前後  杉百合之助  文政十年二月十六日
詔 書
詔、徳を旌(あらわ)さざれば則ち勧善の道缺け、賞を致さざれば則ち報功の典は廃す。征夷大将)軍源朝臣、武(ぶ)四方を鎮(しず)め、文萬方(ばんぽう)に覃(およ)ぶ。久しく爪牙(そうが)の職を守り、重く股肱の任を荷(にな)ひ、黎民鼓腹の楽しみ有り、蠻夷(ばんい)猾夏(けんか)の憂ひ無し。朝家(ちょうけ)益安けらく、海宇(かいう)彌平らかなり。曩(さき)に、宮室を新たにし、規模古に復す。交(こもごも)政典を修め、祭祀廃(すた)れたるを興す。其の徳宏大にして、其の功豊盛なり。巳に武備の重職を極む、未だ文事の尊官を加へず。今太政大臣に任ず、宜しく左右近衛府(このえふ)生各一人(いちにん).近衛四人.随身兵仗(じょう)を賜はり、式(もっ)て丕績(ひせき)を表し、普く天下に告げ、朕が意を知ら俾(し)むべし。主者(しゅしゃ)施行せよ。

現代語訳
詔を書きます。正しく仁義を尽くさなければ善い行いを勧める道理に欠け、善い行いを褒め称えなければ功に報いる習慣は廃れてしまいます。征夷大将軍である徳川家斉は、武力によって全土の紛争を抑え、学問の研究はあらゆる分野に及びます。長期にわたって皇室の手足となって働き、皇室の臣下として重要な任務を担当し、皇民たちは腹を満たして幸せに暮らし、諸外国からの侵略の憂いもありません。皇室が受ける恩恵も数多く天下は誠に平和です。過日は皇居内の建物を新しくして嘗ての規模に復旧していただきました。次々と国家統治のための行事を行い、祭りを再興してくれました。これらの行為による徳は大変大きく、その功績は溢れんばかりです。武事においては最高職である征夷大将軍に達しているものの、文事における官職の最高位は未だに与えていません。ここに徳川家斉を太政大臣に任命します。左右近衛府生をそれぞれ一名と近衛四名、その他の従者を江戸に受け入れ、偉大なる功績を広く天下に宣伝し、朕(仁孝天皇)の考えを知らしめなさい。
用語解説
※詔書=仁孝天皇より将軍家斉に賜りたるもの。松陰の“家大人に奉別す”の詩にある「耳存文政十年の詔。書き出し方は異例。
※ 旌さざれば=表さざれば、に同じ。  源朝臣=将軍家斉(十一代将軍)
※ 爪牙の職=敵を防ぎ、君主を護る武人を爪牙という。  股肱の任=主君の手足となって働く家来を言う。
※ 黎民鼓腹の楽しみ=髪の黒い人。人民をさす。鼓腹は民の生活が安楽で太平を楽しんでいるさま。
※ 猾夏=猾はさわがす。わが国をさわがすこと。
※ 今太政大臣に任ず=生前、太政大臣に任ぜられたのは徳川将軍中ただ一人である。
※ 随身兵仗=貴人の護衛として朝廷から賜った人々。


220226浮世の有様220226仁孝天皇

2、 大正六年刊行の『浮世の有様』という、国史研究會発行の本である。定價金一圓二十銭となっている。
これは、文化より文政・天保を経て弘化年中に至る、天変・地異・人事を収載している本である。
その77頁に『文政十丁亥年三月十八日御觸の寫』が掲載されている。面白いので原文を記す。

 公方様太政大臣御昇進
  詔書宣旨御頂戴、内府様従一位之御位御頂戴、御作法無残處相済候間(旨カ)、江戸ゟ被仰下候條、恐悦可奉存候。此皆町中可觸知者也。
   同五月
御昇進に付、御役附御位階
御老中御掛別段御使    青山下野守様
御若年寄御用掛      増山河内守様
以下、略
〆 
於御本丸御馳走方
御勅使方         溝口伯耆守様
院使方          秋月長門守様
以下、略

帝都ゟ御下向の次第
勅使           鷹司様
             広橋様
             甘露寺様

右之外、多分御紋付有之候得共略す。
御別段御上使       青山下野守様
 右拝賀之節、津軽越中守、近衛様ゟ拝領之由にて、轅に乗って出られしにぞ、御咎を蒙り閉門被仰付家老・用人・留守居其外役掛り之者五六人切腹をなす。此事に付、種々の風説ありといへどもこれを略す。

大仰に、勅使を迎え、ご祝儀の時に、津軽の殿様が轅(えん:牛馬に引かせる乗りもの)で、無礼な格好で出てきたことが咎められ閉門となり、家老以下が切腹させられたと書いてある。
家斉の特別な名誉の拝受(これとて上京して参内しない無礼)を江戸城で受けた時の模様だが、作法を心得ない津軽の殿様の非礼に対して、閉門の御咎めをうけ、更に高級家臣が切腹となる、生々しい「有様」である。
江戸期の、笑うに笑えない「珍場面」である。
将軍家斉の太政大臣は、朝廷からすれば破格の昇進をさせたのである。
普通は将軍といえど、内大臣程度であった。

※特殊文字説明
 ①ゟ=より と読みます。
 ②轅=えん、 または、おんと讀む。
    漢和辞典によると、ながえ。大車の両側から前方へ突き出している二本の棒。その先に「くつわ」をつけ、牛馬に引かせる。(多分、珍妙な出で立ちの乗り物)。 


『南部藩と津軽藩の確執』 ー相馬大作事件ー
【2022/02/16 19:17】 エッセイ
相馬大作事件(文政四年四月)

津軽(大浦為信)氏はかつて南部の家臣であったが、天正年間に豊臣秀吉から津軽の所領を安堵されたことで、独立した大名となった。南部氏としては極めて不本意である。此の事が機縁となって、江戸期は「不仲の関係」が続いた。そして現在もなお、青森県東部の南部、西部の津軽の確執は続いているという。江戸期も後期となった文政年間には、かつての主君であった南部氏と津軽氏の官位が逆転してしまった。津軽の外交戦略のなせる成果であった面もある。官位逆転の後の南部の後継者は若年と云うこともあり、「無位無冠」となった。そこで我慢の限界から、文政四年に南部藩士であった「下斗米秀之進」は、参勤交代で帰国途次を大館で襲撃計画をたて待ち伏せしたが、宿願が果たせなかった。未遂となって「相馬大作」と変名し江戸に潜伏したが、翌年に幕吏の捕縛を受けて、小塚原で処刑された。これを【相馬大作事件】という。吉田松陰は東北遊学の途次襲撃現場を通って、『東北游日記』に此の事を記している。幾つかの記事を次述しておくと以下のようになる。

220204下斗米秀之進220204相馬大作の碑220204相馬大作事件碑220204みちのく忠臣蔵220204矢立峠220204相馬大作事件碑3

① 【国史大辞典】吉川弘文館
「下斗米秀之進」一七八九~一八二二  津軽藩主「津軽寧親」の暗殺を企てた南部藩の浪人。幼名米助。名は将真、字は子誠、形水と号す。別名相馬大作。寛政元年(一七八九)生まれる。父下斗米総兵衛。陸奥国二戸郡福岡村(岩手県二戸市)の人。遠祖は平将門という。文化三年(一八○六)十八歳で江戸に出、夏目長宇右衛門に師事。同五年その紹介で名剣士平山行蔵に入門。門人四傑の一人となる。この間武芸のほか広く世界情勢を学ぶ。同十一年帰郷して道場「兵聖閣」を開き平山流武術を教授する。同十四年細井萱次郎とともにロシア船の南下がしきりに伝えられる蝦夷地を視察、北方警備の重要性を痛感する。しかるにこのような情勢をよそに諸侯は太平に慣れ、昇格運動に狂奔していた。文政三年(一八二○)南部藩主「南部利敬」死去、利用が二十万石の家督をついだが年わずか十五歳で無位無官であるのに対し、元来南部家の家臣筋にあたる津軽藩主寧親は十万石ながら従四位下(蝦夷防備の特命もあって)に叙任され、その賄賂外交と専横ぶりは眼に余るものがあった。それに反感をいだいた秀之進は寧親に改心と隠居をすすめ、聞き入れられないときは暗殺しようと同四年四月、寧親の参勤交代の帰途、藩境に近い出羽国白沢駅(秋田県大館市)で待ち伏せた。しかし秀之進の一味の密告により事情を知った寧親は道を変え(要幕裁)、大間越を経て無事帰国した。ことがばれたので秀之進は江戸に上り、相馬大作と変名。道場を開いていたが、同年十月、幕府の支援を得た津軽家用人笠原八郎兵衛に捕えられ、翌五年八月二十九日、千住小塚原で獄門に処せられた。三十四歳。秀之進の真意は単なる南部家に対する封建的忠義だてでなく、南部・津軽両家和解の上、協力して国防の急にあたるよう自覚を促すことにあったらしい。当時江戸の市民はこの挙に感動し、また藤田東湖撰・吉田松陰書の「下斗米將真伝」が残された。巷間、事件の原因に藩境の檜山を巡っての論争(檜山騒動)をあげる向きもあるが、それは正徳三年(一七一三)― 四年の事件で直接の関係はない。
参考文献:下斗米与八郎『下斗米大作実伝』(森田稔)、以上、吉川弘文館の『国史大事典』

② 【吉田松陰全集】大衆版 大和書房刊
吉田松陰全集(大和書房)第九巻、二三七~ 二四一頁に収載の『東北游日記』を転写してみると、嘉永五年(一八五二)閏二月二十八日にその関連の記述がある。
二十八日 晴。驛(白沢:大館市)を發す。坊澤・綴子を経て大館に至る。城あり。即ち大炊(佐竹大炊頭)の居る所なり。所属の士三百餘名、而して其の家臣又三百許りあり。戸数三千餘、皆極めて矮陋(家などの小さくてむさ苦しい)なり。釋迦内(大館)を経て白澤(北秋田郡花矢町白沢)の山内儀兵衛の家に宿す。文政四年、南部の逋臣(亡命の臣)下斗米秀之進津軽侯を要せんと欲せしは即ちこの驛なり。行程十一里。儀兵衛は據人方(国境を掌る役人)たり。職は南部・津軽の封彊のことを主る。其の語る所に因れば、頗る村間の事を知れり。本村は肝煎一人、長百姓十二人あり。肝煎は毎村一人にして長百姓は村の大小に因り多寡同じからず。代官は近ごろ改めて御扱役と為し、毎郡に一名なり。御扱役の郡を巡るは歳に四次、春を馬調と謂ひ、馬数を検するなり。夏を人調べと謂ひ、人口及び宗門を検するなり。秋を諍馬と謂ひ、駒馬の二歳なるものを價を定めて之を市ふなり。往年は駒馬三歳に至りて之を牝馬に附せしが、今は則ち二歳に至りしのみ。多くを暮在廻と謂ひ、租を斂むるなり。田地は方十間或は十五間、地の肥磽に因り廣狭同じからざれども、是れを一人役と謂ひ、大率米二石許りを獲、租を斂むること二斗五升より三斗に至る。釈迦内に廩あり、即ち向の日に見し所の如し。其の法は十村を以て郡と為し、村数の多寡は各處同じからざれども、民一口として歳に粟五升、或は米三升を出して、之を蔵せしむ。米は蒸して糗と為し、八歳以下と七十歳以上の者には之を免ず。天保甲午に始まり、嘉永己酉に至りて止む。毎歳秋陽に之れを暴す。米價今は升四十九銭、而して尚ほ甚だ貴しと為す、往年は十六七銭のみ。米價賤くして而も物價甚だしく廉からず、是れ農の苦しむ所以なり。木綿一反極めて美なるものは直二貫百銭、炭は重さ十貫、直二百八十文、鹽(しお)は一苞に三斗五升を容れ、直は一貫六百十銭、鹽(塩)は之れを野代より取る。ここを距たる十六里、舟、野代川を泝りて来る。
二十九日 晴。山内家を出でて、長波志里に至る。關あり、四十八川を過ぐ。是の地、兩山迫り狭まって澗水迂回し、走舵の状の如し。而も修路の政なく、過ぐる者は川を渉ること凡そ数十次、是れ四十八川の稱ある所以なり。雪水奔漲して往々膝を没し、冷堪ふべからず。久保田より綴子・大館に至るまでは稍寛廣の地ありしも、漸く北して漸く迫り、四十八川に至りて極まる、乃ち矢立峠あり。川流の源を此れより發するものは皆野代川に注ぐ。嶺の雪深さ尚ほ二尺餘あり、杉木蓊翳(おうえい)す。その巓を奥羽の界と為す。川と嶺と天の奥羽彊(かぎ)る所なり。而して佐竹侯の其の路を修せざるも亦故なきに非ざるに似たり。然れども津軽已に南部に善からざれば、則ち其の江戸に往來するには必ず此れに由らざるを得ず、而も道路の荒廃かくの如し。隣と交はるの道果たして如何ぞや。山内云はく、「往年下斗米蓋し津軽(侯)を此の險に要せんと欲せしなり。事に前んずること数日、その黨數十人村里を徘徊し、土人と雖も之らが為に疑懼す。又仙臺人某をして太刀數把を鍛へしめ、その直を顧みず、是れ其の敗露を致せし所以なり」と。下斗米の事は余嘗て之れを山鹿素水に聞き、之れを安藝五蔵に質せり。向に水府に在りしとき、藤田虎之助著はす所の傅を讀む。今又其の土人の語るを聞き、其の志に感じ、其の事の遂げざりしを惜しみ、慨然として詩を作る。云はく。
兩山屹立如屏風     兩山屹立して屏風の如く、
一渓屈曲流其中     一渓屈曲して其の中を流れる。
山窮水極欲無路     山窮(つ)き水極まり路なからんと欲し、
矢立之嶺當其衝     矢立の嶺其の衝に當る。
杉檜掩天晝亦暗     杉檜(さんかい)天を掩ひて晝また暗く、
天以絶險彊二邦     天絶險を以て二邦を彊(かぎ)る。
聞説文政辛巳歳     聞くならく文政辛巳の歳、
津軽就藩過此際     津軽、藩に就かんとし此の際を過ぐ。
南部逋臣米將眞     南部の逋臣 米將眞
赳徒欲要過與衛     徒を赳(あつ)め過與(かよ)の衛を要せんと欲す。
幾日徘徊驚人視     幾日の徘徊人視を驚かし、
敗露忽空數年計     敗露忽ち空し數年の計。
地利人和兩得之     地の利人の和兩(ふたつ)ながら之れを得、
自謂籌晝萬無遺     自ら謂(おも)ふ籌晝萬(ちゅうかく)遺すところなしと。
休言奇變出意外     言ふを休めよ奇變は意外に出て、
一待毎與百禍随     一待はつねに百禍と随ふ。
君不聞韜鈐上乗存一句  君聞かずや韜鈐(とうけん)の上乗一句に存す、
初如處女後脱兎     初めは處女の如く後には脱兎と。

嶺を下り橋を渡りて關に入る。乃ち津軽の置く所、驛を碇關と日ふ、温泉あり、浴す。於阿仁を経、亦温泉あり。石川に至る、直行せば則ち青森に至るべし。左折して橋を渡れば、雪水方に漲りて橋傍に溢る。石川より便道を取り、弘前に入る。是れ津軽越中守十萬石の都なり。
(吉田松陰の相馬大作事件への印象は、大作への好意的なものである)

③ 【吉田松陰の東北紀行】滝沢洋之著
滝沢洋之さんの関連記述「吉田松陰の東北紀行:138頁」では、・・・「矢立峠遊歩道」と表示してある細道へ足を踏み入れた。その中は、松陰の表現通りの昔の姿がそのままの形で存在していた。秋田杉の原生林と羽州街道がそのままの形で残されていたのである。私はその秋田杉の原生林の美に魅せられて思わず写真のシャッターを何回も切り続けた。
松陰は「峠の雪深さ尚二尺あり、杉木繁茂して鬱蒼としている。其の頂きを欧州の堺とする」と記しているが、積雪一メートル近くもある山中で杉の枝が重く垂れるように覆っている木の下の峠道は、さぞかし幽玄なものがあったろうなどと、いろいろ想像しながら、私は草むらに腰掛けて、しばらくの間、松陰の漢詩と日誌の文章をかみしめていた。その間誰ひとりこの峠を訪れる者はいなかった。峠道といい、杉の大木で覆われ薄暗い頂きのこの部分だけはまだ松陰の時代がそこに取り残されていたのである。
 しばらくしてわれに返って、遊歩道を出ると入口の案内板に次のような説明書がしてあるのに気がついた。
「この付近一帯は、天正十九年(一五九一)頃から豊臣秀吉に命ぜられ用立てた秋田杉が伏見城作業で名声を博して以来、日本三大美林の一つとして数えられるようになった。天念秋田杉の美林がある。(中略)嘉永五年(一八五二)二月吉田松陰が国防の必要性から国中を回った時の歴史の道・旧羽州街道がこの保護林の中にある。」
矢立峠から四キロほど入った所に碇関がある。古川古松軒の「東遊雑記」には「厳重なる事中々箱根の御番所などの及ぶ事にあらず。普請至って念の入り番所なり。」とある。しかし、この厳重さは津軽藩主が参勤交代にこの道を通って行くためで、松陰らの通行は、極めて簡単で在った。そしてまた碇関は昔から温泉場としても有名で、松陰らもここで温泉に浴している。しかし、一般の旅人ならここで一泊するところだが、かれらは旅の埃を落としただけでさらに旅を続け、弘前まで足を延ばしているのである。

④ 【嘉永五年東北】織田久著
そして最後に『嘉永五年東北』吉田松陰「東北日記」抄の著者織田久さんの関連記述:178頁では・・・その夜、松陰は津軽から越前加賀へ帰るという同宿の船頭から<西洋の船、松前・津軽の間を過ぎしもの、今年すでに三、四隻と>という話を聞いた。洋夷の船、北方に頻々とすという情報に東北漫遊を思い立った松陰と宮部だが、山の渡船場の鄙びた宿でそういう話を聞こうとは思いもよらなかったにちがいなく、ふたりはいよいよ北の現場が近い、そんな感じをつよくしたことだろう。
 翌日は大館を経て白沢(大館市)に到り、庄屋の山内儀兵衛宅に一泊、二十九日秋田領と津軽領の国境、矢立峠へ向かった。途中、長走の関所をすぎて長走四十八川を過ぎる。<此の地、兩山迫り狭まって澗水し、走舵の如し。しかも修路の政なく、過ぎる者は川を渉ること凡そ数十次、是れ四十八川の称ある所以なり。雪水奔漲して往々膝を没し、冷堪うべからず>。
長走を過ぎると羽州街道はそうとう荒れた状態であったらしい。両側に迫る山嶺から谷水が流れ込んでくるという地形的要素もさることながら、ここまでくると羽州街道を参勤交代に利用する大名は津軽一藩だけであり、秋田藩としては自領とはいえ、自藩の参勤交代に関係ない街道の整備にはさほど積極的でなかったということだろう。<修路の政なく>というのは、そのことを指している。一方津軽藩にはいくら街道が荒れていても苦情を言えない事情があった。津軽藩と南部藩には古くから埋めがたい確執があって、南部領を通過する奥州街道は利用することは事実上不可能に近く、どうしても矢立峠を越えて使用するしかなかったからである。
確執のもとは、もともと南部氏に臣従していた津軽氏が秀吉の天下統一のどさくさにまぎれて津軽の領土を安堵され、独立したことによる。南部氏からみれば裏切り者、津軽氏からみれば一国を建てたのは自分の器量、いつまで主人気取りでいるのだということになるが、この両者の感情的な縺れは幕藩体制二百数十年の間、ついに解消されることにはならなかった。この確執がもっとも劇的な形で顕われたのが「相馬大作事件」だろう。
事の起こりは文政三年(一八二○)十萬石の津軽藩主寧親が十四位下侍従に叙任され、旧主二十万石の南部利敬と位階同等に及んだことである。利敬はこれを怒り鬱憤疾を発して悶死したといわれる。あとを継いだ南部利用もまだ十五歳ということで無位無官のままだったこともあって、南部藩家中の鬱憤はにわかに高まり、なかでも下斗米秀之進は殊勲の無念をはらすべく翌文政四年、脱藩して同志を語らい参勤交代で津軽へ帰る津軽寧親の暗殺を企てた。彼らは国境の矢立峠で待ち伏せを計ったが、仲間うちに密告するものがあり、寧親一行は間道に難をのがれ無事津軽に入部した。事破れた下斗米は江戸へ潜伏、名前を相馬大作と改め道場を開いていたが、十月、身元が割れて捕まり、翌文政五年八月、千住小塚原で獄門に処せられたーというのが事件のあらましである。
下斗米たちの待ち伏せが発覚したのは同志の密告というのが一般的な説のようだが、松陰が地元白沢の庄屋山内儀兵衛から聞いた話はちょっと様子がちがっていた。日記には<事に先んずること数日、其の党数十人村里を徘徊し、土人と雖も之れが為に疑懼す。又千大人某をして太刀数把を鍛えしめ、其の値を顧みず、是れその敗露を致せし所以なり云々>と書かれている。大人数で村をうろうろしていて怪しまれたというのだ。本当ならまことに迂闊な話だが、さらにもう一説あって、なんと下斗米は事前に津軽侯の旅宿に襲撃の趣意を述べた「御用意あるべし」という一書を送っていたというのだ。原典を読んでいないから確言はできないが、藤田東湖の『下斗米將真伝』などにはそう書かれているらしい。
襲撃の成否についても二説あって、一は空の駕籠を襲撃したという完全失敗説、いちは寧親一行が間道に廻ったと知るや単身これを追いかけた下斗米は先回りして木立のうえから十匁一つ玉の鉄砲で狙撃して仕留めたという成功説、津軽寧親はこのことがあって間もなく病気隠居の届けをだしたが、これは幕府を憚った偽装工作であり、じつは駕篭のなかで絶命していたというのである。実際には寧親は天保四年まで存命しているから根も葉もない風説にすぎないが、面白いのは相馬大作じつは下斗米秀之進が江戸で逮捕されるや、巷間、赤穂義士同様、義士忠臣の鑑とする空気が澎湃として沸き起こったことだろう。襲撃は成功したとする説は、いわばそうした義士待望論、判官贔屓の庶民感情におしだされるようにして生みだされた可能性が大である。実際問題として津軽藩一行が難を避けた間道というのは日本海沿岸の大間越街道であったとされるから、下斗米がそれと知ってにわかに追いかけてもおいそれと追いつける距離ではない。下斗米は失敗したのだと思う。しかし、幕藩体制の掟によって獄門に処せられたとはいえ、仇敵がただの病死では忠臣の魂は浮かばれない、みごとに仇討ちをとげたのだというのが巷間にひろがった庶民感情だったのであろう。
松陰がこの事件に多大の関心を寄せていたいたことは明らかで、<余嘗て之れを山鹿素水に聞き、之れを安芸五臓に質せり。さきに水府に在りしとき、藤田虎之助著わす所の伝を読む>と日記に書いている。素水は津軽の出身であり、五臓は南部の出、つまり彼我両面から公平に取材したということだろう。松陰自身は下斗米は遂に本懐を遂げることができなかったと思っていた。杉の大木が鬱蒼と茂る矢立峠の現場に立って、松陰のなかには無念の思いとともに昂ぶるものがあったのだろう。<その志に感じ、その事の遂げざりしを惜しみ、慨然として詩を作る>。詩は九連十八行。私にはあまり面白いとはおもえないので引用はしない。

⑤ 【吉田松陰東北遊歴と其亡命考察】諸根樟一著(昭和一九年刊行)
次は「昭和十九年」に著わされた『吉田松陰東北遊歴と其亡命考察』(諸根樟一著)の書からで、その一六一頁の該当箇所の記述。
二十八日坊澤、綴子を経て大館に至り、白澤の山内儀兵衛宅に投宿、然も此の地は實に江帾父子の出生故郷であった。文政四年の昔、僅か二十三歳で豪勇無双と謂われた忠臣下斗米将眞(相馬大作)等が、時の弘前城主津軽寧親を就封の途、右の矢立峠に自製の大紙銃を以て要撃せんとしたのは裨史小説や傅記に名高い。併し彼れの志は成らず、翌五年八月幕府の為痛ましくも獄門に処せられた。されば後ち藤田東湖が將眞の誠忠傅を撰した所以で、其れを去年一行が水戸に滞留した時、五郎が寫録し、且跋を附けて松陰に贈って以来、彼れが下斗米の孤節にはなはだ讃嘆してゐたにのである。
大作の事蹟に就いては、遊記二十八日條に初出し、又翌日條に「乃有矢立嶺、(中略)其嶺為奥羽界山内云う、往年下斗米、蓋欲要津軽於此險也、(中略)余會聞之山鹿素水○松陰の師ニテ弘前人質之安藝五臓向在水府讀藤田虎之助著傅」云々と、此の大館に來て宿主山内から復た之れを聞かされ、彼れの志にいたく感心した。とある。

⑥ 【江戸の旅人 吉田松陰】海原徹著
続いては京都大学名誉教授の海原徹の著者「江戸の旅人吉田松陰」―遊歴の道を辿る―である。この書は副題にあるように松陰の訪問地への足跡を詳述したもので、平成十五(2003)年に刊行された。その百六十一頁に該当箇所の記述がある。木綱木(小繋)に就いた夜、青森から帰って来た加賀の船頭から、今年に入り、松前、津軽間の海峡を通過した夷船が早くも三、四隻を数えたことを聞く。閏二月二十八日、坊沢(北秋田郡鷹巣町)綴子(同前)を経て大館に至る。家臣三百余名を擁する佐竹藩の重臣佐竹大炊頭の領地であるが、「戸数三千余、皆極めて矮陋なり」と記しており、松陰らが見たのは、侍の住む内町でなく、外町と呼ばれる町人居住区らしい。鍛冶町から大町を中心とする一帯がそれである。長木川を渡り、JR大館駅の右側を北上する羽州街道、国道七号を釈迦内から白沢へ進み、山内儀兵衛の家に泊まる。明治天皇行在所として使われたという豪邸はすでに消滅してないが、往時の繁栄を偲ばせる立派な庭園が一部残されており、その中ほどに「吉田松陰先生遊歴記念碑」を見る事ができる。下内川に架かる中の橋渡から数十メートル先のいかにも閑かな場所であるが、現在は区画整理中で、辺りの景観は急激に変わりつつある。
ところで、此の地は文政四(一八二一)年四月、南部藩浪人下斗米秀之進が津軽侯を要撃しようとして数十人の同志と潜んだ宿駅である。儀兵衛は拠人方、国境の諸事に携わる役人であったが、村政を束ねる庄屋でもあり、彼らから租税負担や救凶策など佐竹藩の民政について詳しく聞いた。
閏二月二九日、長波志里(大館市長走)の関を出て、四十八川(下内川)を渡り。「此の地、両山迫り狭まって澗水迂回し、走舵の状の如し、而も修路の政なく、過ぐる者は川を渉ること凡そ数十次、是れ四十八川」の称ある所以なり」と記しているが、周囲の山々の沢を集めて下内川となり東流し、矢立峠付近から下内川となって南流する幾つかの谷川を、このように称したものであろう。奔流となった雪解け水が、しばしば膝を没する深さとなり、そのあまりの冷たさが松陰らを悩ませた。奥羽の境となる矢立峠(標高二五七メートル)にはまだ二尺余(七○センチ)の積雪があり、杉の巨木が鬱蒼と生い茂っていた。秋田杉の数少ない原生地として今は風致保存林となっているが、松陰らが歩いた旧羽州街道は、国道七号の西側、矢立峠遊歩道となっている辺りであり、狭い山道は古くから難路として知られた。南部藩との永年の確執のため、津軽藩の参勤交代の行列は必ず矢立峠を往来したが、この地を領する佐竹藩では、何故か道路の整備や修復にあまり熱心でなく、現に松陰は、「道路の荒廃かくの如し。隣と交はるの道果たして如何ぞや」と記している。外夷の侵略に挙国一致で当らなければならないこの非常時に、隣接する藩同士の反目や啀み合いに憤怒の念を禁じ得なかったのだだろう。
矢立峠はまた、相馬大作らの一党が津軽侯の行列を襲撃しようとした地として有名であるが、この事件を松陰は、江戸で山鹿素水や江帾五郎らから聞いており、しかも水戸城下では、藤田東湖が書いた「下斗米將真伝」を読み、かなりの知識を有していた。もっとも、事件を直接見聞した山内儀兵衛は、「事に先んずること数日、その党数十人村里を徘徊し、土人と雖も之れが為めに疑懼す。また仙台人某をして太刀数把を鍛へしめ、その直を顧みず、是れ其の敗露を致せしところなり」t、むしろ相馬らの傍若無人の振舞いに批判的であり、計画の失敗を当然視しているが、松陰はこれをあくまで義挙と捉えていた。もと南部家の一族である津軽氏がしだいに権勢を得て、本家筋を凌ぐ勢いとなり、しかも蝦夷地警衛にからむ官位昇進運動で、津軽藩主が南部藩主の上位となったのが、事件の発端である。とくに文政三(一八二○)年、新しく藩主の座についた南部利用は、まだ十四歳で無位無冠であったが、津軽寧親は従四位下侍従であり、このことが南部藩側を著しく刺激した。憤慨した相馬らが脱藩、浪人となって南部藩の恥辱を雪ごうとしたわけであり、第三者的な立場から見れば、いずれに正義があるのか軽々に判断しにくい問題であるが、松陰は極めて単純明快に相馬らに軍配を挙げ、山内の見方を斥けている。矢立峠に佇み、相馬の熱い志に感じ入り、その無念さに思いを馳せながら「両山屹立して屏風の如く」で始まる長詩を詠んだのは、そのためである。民心を得なかったのが敗因と見た山内に対し、松陰は「一恃はつねに百禍と随ふ。君聞かずや韜鈐の上乗一句に存す。初めは処女の如く後には脱兎と」と、相馬が事を運ぶにあまり慎重であり過ぎ、決断の機を逸した、つまり単純に戦術上の失敗であるとした。この辺は相馬に肩入れするあまり、いささか冷静さを欠く情緒的な見方と謂わざるを得ないだろう。矢立峠を下った松陰らは、津軽藩の関所である碇ヶ関に至る。

⑦ 【松陰の歩いた道】海原徹著
そうして最後に同じく海原徹先生の『松陰の歩いた道』 ―旅の記念碑を訪ねて― では写真入りで相馬大作事件を解説している。その百五十頁に「白沢の駅に泊まる」―大館市白沢―と題しての記述を記す。
閏二月二八日、長木川を渡り、JR大館駅の右側を北上する羽州街道、国道七号を釈迦内から白沢に進んだ松陰は、この地の庄屋山内儀兵衛の家に泊まった。後年、明治天皇の「行在所(あんざいしょ)として使われたという豪壮な屋敷はすでに消滅してないが、往時の繁栄を偲ばせる立派な庭園が一部残されており、その中ほど泉水の側に、昭和一○(一九三五)」年に建てられた祈念碑がある。下内川に並行する国道七号を白沢の集落まで来て中の渡橋を渡り、さらに西へ数十メートル進んだ場所である。
閏4月二九日、長波志里(大館市長走)の関を出て、四十八川(下内川)を渡った松陰らは、矢立峠(標高二五八メートル)をめざした。杉の巨木が鬱蒼と生い茂る山道は、ようやく春の季節を迎えたとはいえ、まだ二尺余(七○センチ)の積雪が残り、歩くのに難儀した。
矢立峠を越える旧羽州街道は、狭く険しいアップダウン続きの山道であり、古くから交通の難所として知られた。この地を領する佐竹藩が、隣接する津軽や南部藩と必ずしも友好的な関係になく、それぞれの国へ通ずる道の整備や修復に不熱心であったためらしい。現に松陰が「道路の荒廃かくの如し。隣と交はるの道果して如何ぞや」というから、国境の峠にかかる辺りは、とりわけひどく荒れ果てた道であったようだ。
白沢方面から国道七号を来ると、四十八川に架かる橋の手前で分岐する道を矢立温泉赤湯の方角に入り、さらに一○○メートルばかり進むと、左手に「歴史の道案内板」が現われる。西方へ延びる狭い道が昔の羽州街道であり、五、六百メートルばかり進むと、「伊能忠敬測量隊記念標」と「遊歩道案内板」の立つ場所に出る。ここからさらに一三○○メートルばかり進んだ分岐点に、「吉田松陰の漢詩」と題する木製の裨が建てられている。すぐ近くの眺望のよい場所にテーブルと台石があるが、以前ここは小さなあずまやがあった。その後、破損がひどくなり撤去されたらしいが、よく見ると漢詩を記した裨の背面がやはり剥がれたまま足元に転がっており、あまり眺めのよいものではない。せっかく荒れ果てた山道を整備して遊歩道に作りなおし詩碑まで建てたのだから、もう少し丁寧な保存をしてほしいのと思うのは、私だけではなかろう。
「両山屹立して屏風の如く」(原漢文)で始まる松陰の詩は、脱藩、浪人となって南部藩主の恥辱を雪ごうとして相馬大作、実は下斗米秀之進の津軽藩主襲撃事件を思い起こしながら詠んだものである。なお、相馬が津軽藩主を狙って潜んだとされる場所は、ここから「伊能忠敬測量隊記念碑」まで戻り、さらに遊歩道を四○○メートルほど戻ったところにある。あずまやがあり、その前に、「相馬大作史跡」の大きな案内板が建てられている。江戸で藤田東湖の「下斗米將真伝」を読んでいた松陰は、麓の白沢の庄屋山内儀兵衛や土地の人々からこの件に関する様々な情報を得てますます義挙に感銘を深めていたが、襲撃を企てた場所がどこかをふくめ、計画そのものの中身については昔から異説が多い。この地を訪れた歴史マニアの仕業らしいが、説明文の傍らにわざわざマジックで、「講談など粉飾で矢立峠の話となった」と落書きしているのは、真偽いずれにせよ、余計なお節介であろう。ここから二○○メートル下ると、道の駅・矢立ハイツの少し手前から始まる遊歩道入口であり、「矢立峠遊歩道案内図」が建てられている。
観光客用に作られた遊歩道は、要所要所にコンクリート製の丸太を埋め込んだものであり、比較的歩きやすくなっているが、それでも左右に迫る熊笹を掻き分けながらひたすた頂上をめざす険しい山道であり、春まだ早い時期、膝まで没する積雪の中をどうやって峠越えをしたのか、その辛苦のほどは今のわれわれにはとうてい想像もできない。





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