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【安政五年七月・松陰の時勢論】
【2021/06/03 15:05】 エッセイ
時勢論 (戊午幽室文稿)  安政五(一八五八)年九月二十七日

時勢論は言葉が丁寧であるが、幕府が米国の圧力に耐えられず、通商条約の調印をやむなくしたことに対して、松陰は【米国の謀略】であるから、危険極まりないと見ていた。平戸の遊学で「アヘン戦争」についての研究から学んだ「侵略の手口・方法」を知っていたのであった。嘉永三年でのペリー艦隊の態度は脅かしによる「砲艦外交」の背後に潜む国策の何たるかを知っていたのである。幕府は永い鎖国制度のため、為政者の国際情勢に疎かった。また、三百諸侯に封建していたことから、国防意識が低かった。覇道でつかみ取った天下の号令権を発動するだけで、國家としての防衛策は具体的に持ち合わせていなかった。ここに徳川幕藩体制の旧態依然とした國家構造の欠点があったが、それを知る者はいなかった。産業革命による経済発展を梃子として、国際関係は「力の論理」が支配するところとなっていたが、徳川の日本は大きく遅れていた。「富国強兵」は徳川が内政には必要性を感じていなかった。將に太平の眠りであった。砲艦外交で無理矢理開国させられた日本。國家の将来像を描いた人物はいなかった。吉田松陰は、「墨夷の奸計」を見抜いていたが、幕府も藩も御家安泰ばかりで、日本国の行く末を思い描いていなかった事に、警鐘を鳴らし続けたが理解者はいなかった。力尽くで勅許なしの条約調印の後にある国家の危機に思いを致せる人物がいなかった。憂国の情極まっているところに、大原三位の意見打診を久坂と中谷がきいて松陰に知らせてきた。そこで危機の現状と対処方策をまとめ、松陰の現状認識を書き綴ったのである。文末に『草莽の臣』とあることに注意すべきである。
180202正装の吉田松陰210604大原重徳


某(それがし)竊かに時勢を観察するに、宝祚無窮の大八洲、存亡誠に今日に迫れり、誠に恐れ多き事なり。上は主上より、公卿の歴々より、下吾々士民に至るまで、中々一通りの心得にては相済まざることなり。抑々徳川家征夷大将軍に任ぜられてより以来、外夷控御の策、著々(ちゃくちゃく)其の宜しきを失はれたることは、一朝一夕の事には非ざれども、中に就きて近来墨夷の事起こりしより以来、弥々以て外内失策のみ行はれ、條約調印に至りて極まれり。去年墨使の来るや、某長大息して云はく、「神州已に陸沈せり。亡国の事は、皇国に於て振(しん)古(こ)以来断へて前蹤なきことなれば、如何にして可ならんか。已むことなくんば、漢土賢哲の往蹤(おうしょう)なりとも学ばんか。伯夷・叔斉は如何、伊尹・大公(たいこう)は如何。翟義・徐敬業は如何」と、頻りに苦悩する内、恐れ多くも九重(きゅうちょう)の勅諚天下に布き、草莽迄も響き渡り、死者再生の心地にて、幕府奉揚、諸侯協同、天兵一時に墨夷を膺懲するの事あらんと日夜𧄍(ぎょう)企(き)せし処、豈に図らんや、六月二十一日神奈川にての調印、幕府明らかに勅諚に違背せり。爾(しか)のみならず、正論忠志の尾張・水戸・越前等を黜罰(ちゅっばっ)するに至る。某、是に於いて天子逆鱗如何程にかあらんと恐惶に勝(た)へず。而して今に至る迄何たる御処置も承らず。
尤も幕府・尾張・水戸へ勅諚を下され、且つ公卿親姻の所縁を以て、二、三の名藩へも御内書を発せられし由なれども、是れ又墓々(はかばか)しき事も承らず。加之、水戸は奸臣の輩父子を離間し、内輪甚だ不協和にて、近日正論者二人(武田彦九郎、安島弥次郎)を謫罰し、奸臣二人
(太田丹波守、鈴木石見守)を挙用し、勅諚の趣いかが致すべくやと、丸に打明け幕府の閣老へ謀りしに、閣老云はく、「此の勅諚は伝奏の随意に書せしものにて、直(じき)勅(ちょく)には非ず」と応へたる由、かかる次第にては、中々以て少しも御為には成らず。尾張も元来天下の務めに疎き国風にて、竹越如きの奸物甚だ跋扈する由、されば天下頼むべき諸侯は至って少なく、勤王のことは思ひも寄らぬ事なり。天朝格別の御英断なされずては、神州は必ず夷狄の有(ゆう)となるべく、皇大神の神勅も今日きりなり。三種の神器も今日きりなり、豈に痛哭に堪ふべけんや。幕府には墨夷との条約も相済み、近日の内、外国奉行、目付等の吏員、墨夷へ渡海致す由、然れば和親は益々固まり、且つ幕府より外夷へ許し遣はす所の諸港も漸々(ぜんぜん)開市致すべく、夷官夷民共も追々(おいおい)占拠致すべく、加之、魯(ろ)西亜(しあ)、暎咭唎(いぎりす)、払朗察(ふらんす)等も同様条約相済み、殊に清国覆轍の阿片をも持ち来ること許し、二百年来徳川家第一厳禁なる天主教をも許し、絵踏の良法を改除し、他日の患害已に目前に備はれり。今日を失へば千万歳待ちても機会は決してあることなし。幕府天勅に背き、衆議を排し、其の私意を逞しうするは、頼む所は外夷の援(たす)けなり。然れば幕府には、諸国義挙の起らぬ内に、早く外夷の和親を厚くするの謀(はかりごと)とみえたり。只今の勢にては、天朝より幾百通の勅諚降りても、諸侯より何千通の正義を建白しても、幕府には一向遵法採用は之れなく、只々外夷の和親を急ぐなり。和親已に堅まる上は、天下正義の者は悉く罪に行ひ、又天下正義の公卿をも廃錮(はいこ)誅戮(ちゅうりく)にも及び、其の次は承久・元弘の故事を援(ひ)きて主上を議するに至らんこと必せり。此の度梅田源次郎等召捕り候にても推知すべし。然るに天朝に、今日の機を失ひ空論を以て実毒を攘ひ給はんとあること、実に恐れ多きことならずや。天朝の御定算は蓋し諸侯の赤心にて人心の帰する処を御待ちなさるるべし。誠に勿体なきことなり。当今二百六十諸侯、大抵膏梁子弟にて、天下国家の事務に迂闊にして、殊に身家を顧み時勢に娓諛し、其の臣なる者、御大事御大事と申す事にて其の君をすくめ、勤王の大義などは夢にも説き及ばさず、何程聡明果断の人君ありとも、決して義挙を企つること相成らぬ勢いなり。是れ尋常の諸藩しかり。其の奸悪なる者に至りては幕吏に連結し、其の逆焰を助長する類少なしとせず。然れば当今天下の諸侯を御待ちなされては、終に幕府の議に落ち伏せ、其の末は外夷の属国と相成り、皇国の滅亡実に踵を旋らさざることなり。真に此の趣御落著遊ばされたらば、天下万民の信服仕り義憤を激発するの御処置あらまほしきことなり。勿体なけれども、後醍醐天皇隠岐の出でましあればこそ、天下の義兵一同に起りたり。加之、是れより先、後鳥羽・順徳・土御門の三天皇の御苦難もあらせられたり。されば建武の御中興、中々一朝一夕の事には非ず。孟軻が「苟も善を為さば、後世の子孫必ず王者あらん。君子業を創め統を垂るるには、継ぐべきを為すなり。其の成功の若きは則てんなり、君彼れを如何せんや、彊めて善を為さんのみ」と申したるも、思ひ合はすべし。某の所見にては、主上大いに天下に勅を降し、あらるる忠義義士御招集遊ばされ、又尾張・水戸・越前を始め、正義の人罪謫を蒙り、又は下賎に埋没する者尽く闕下に致し、外夷撻伐の正義御建て遊ばされ度きことなり。某向に屢々叡山遷幸の事を議す。今前説の如く行はれば、遷幸なきも亦可なり。確固として桓武以来の帝都御持守遊ばされ、幕府より何程逆焰を震ひ悖漫の処置ありとも御頓着なく、後鳥羽・後醍醐梁天皇を目的として御覚悟定められば、正成・義貞・高徳・武重の如き者、累々継ぎ出でんは必然なり。今天朝には徳川扶助、公武一和とのみ仰せ出でさる故、徳川は益々凶威を逞しうし、諸侯は悉く徳川に頭を押さへられ、勤王の手足は出でず、其の下の忠義の士も皆征夷か諸侯の臣下に非ざるはなければ、其の主人に先だって義挙を企つることもならず。終に天朝に心を帰する者ありとも、志を抱きながら老死致し、甚だしきは官吏の手に入り、囚奴となり、戮死となり、終に恋闕の志も日を逐ひて薄く成り行くなり。是れ迄の寛大の御処置は誠に凡虜の及ぶ処に非ず、御尤もと申上げんも畏れ多けれど、今よりは御果断の時節到来にて、今一年も今の形にて御観望なされば、忠臣義士半ばは死亡、半ばは挫折し、幕府は益々凶威に募り、諸侯は益々幕威に懾れ、而して外夷の患ひ益々深く、天下の事丸に時去り機失ひ、如何とも手は付き申さぬこと必然なり。此の論尤もと思召さば別に秘策あり。此の論不当ならば某最早勤王の手段尽き果てたる故、且々主家へ微衷を効すの外致し方なく、亡国の苦悩適従する所を知らず、痛恨の極み、爰に止まりたり。
 戊午九月念七日                   草莽の臣藤原矩方謹んで選す

解説
「時勢論」は在京の中谷正亮と久坂玄瑞から、当時尊皇攘夷派の先頭にあった公卿の大原重徳が、諸藩の重役たちで現下の国難打開についての何らかの策を有する者がおればそれを聞きたいという意向を持っていることを知らされて執筆したものである。それは日米通商条約の締結に到った近年の情勢を分析し、この国難に対して幕府・諸侯が頼みにならないことを論じ、今こそ「天朝格別のご英断」が求められるときだとして、「大原卿に寄する書」に添えて卿に上呈している。「時勢論」は伊藤伝之輔に託したが大原卿の手には届かなかった。そこで改めて白井小助に持たせることにした。「時勢論」は卿の手に渡ったが、「大原卿に寄する書」の方は届かなかった。


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【烈婦登波の碑】
【2021/05/18 19:13】 エッセイ
『烈婦登波の碑』 ―松陰全集第四巻・普及版四五九頁-      

吉田松陰全集の普及版・第四巻に「討賊始末」という、松陰の「人間平等」の考え方を象徴する文稿がある。全文を記すことは、長文のため「烈婦登波の碑」についてのみ転写します。

烈婦名は登波、長門の國大津郡角山村の宮番幸吉の妻なり。父を甚兵衛と日ひ、弟を勇助と日ふ、亦幸吉と職を同じうし、豊浦(郡)の瀧部に居り。宮番の職は神祠を掃除し、兼ねて
盗賊を緝捕(しゅうほ)すれども、良民の歯(し)する所とならず。而して三人は任侠自負し、剣客博徒往々これに過る。幸吉に妹松あり、枯木龍之進の妻となる。龍は備後の××なり、自らは石見の浪人と称し、妻を携へて諸國を往来し、撃剣を以て人に教ふ。文政辛已十月廿九日の夜、枯木夫妻は幸吉と同じく甚兵衛の家に會す。龍に先妻の一女あり、甫めて八歳、時にこれを乞児(こじ)小市の所に匿(かく)す。龍は乃ち其の妻を幸吉に託して獨り上國に遊ばんと欲す、實は之れを去らんとするなり。其の妻と幸吉とは之れを知り、切に其の非義を責む。龍意色(いしょく)殊に悪し、坐客為めに之れを慰め解く。而して龍は遂に松と婚を絶ちて將に去らんとす。時に夜暗く雨甚だし、甚兵衛之れを留め宿す。丑夜、龍起きて盡(ことごと)く甚兵・勇助・幸吉及び夫妻を刃(き)りて去る。三人は即斃(そくへい)し、獨り幸吉のみ殊(た)えず。烈婦變を聞き急遽趨(おもむ)き拯(すく)うて及ばず。首め復讐を以て請うふ。藩為めに龍を追捕(ついぶ)せしも獲る所なし。久しうして幸吉の創(きず)稍(やや)已(い)えしも、転じて他の症状となり、辱に在ること五年、烈婦の看護具さに到る。然れども烈婦心常に大讐の未だ復せざるを悼み、又夫の病輙(たやす)く起つべからざるを料り、間(すき)に乗じ夫に語るに志を以てす。幸吉大いに悦びて曰く、「夫(か)の賊は既に汝が父弟の讐(かたき)たり、又我が妹の讐たり。我れ汝と久しく偕老(かいろう)を契る、汝が父弟は猶ほ我が父弟のごときなり。今我れ不幸にして病廃(びょうはい・やまいだれに發)す。仮令汝を助けて讐を復する能はずとも寧んぞ汝が志を礙(さまた)ぐるに忍びんや。汝速かに出でて賊を探せ。我れも病少しく平(たいら)がば當(まさ)に追うて汝を助べけんのみ」と。烈婦且つ泣き且つ拝し、行装して家を出づ。實に乙酉(きのととり・文政八、1825)三月なり。時に年二十七。


210518烈婦登波の碑210516烈婦登波の碑 説明文


烈婦既に家を出て、山陰より東上す。近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を囘(めぐ)り、京畿諸國、捜索遺(あま)すなし。ここに於いて、賊復近くに在らざるを測り、山中(さんちゅう・中仙道)より東下し直ちに南部の恐山を極め、奥羽を探り關東を捜し、北陸を経、東海を歴(めぐ)り、転じて南海を周(まわ)り、反りて安藝を過ぐ、外に在ること蓋し十二年、辛苦具(つぶ)さに嘗(な)め、然る後に賊の在る所を詷察(けいさつ・うかがい知る)するを得たり。龍の女にて乞児の所に匿せし者は、彦山の山伏が収養する所となり、既に長じて人に嫁し、龍の母は備後の三次に居り。故を以て龍時に或はその間を往来す。烈婦既に具さに實を得、大いに悦びて國に帰り、事を以て官に白(まう)し、復(ふたた)び復讐を以て請ふ。未だ許さず。烈婦家を出でて後一年、幸吉も亦病を力めて出でて賊を探りしが、その終る所を知る者なし。烈婦痛哭して志を秉(と)ること益々堅く、急ぎ彦山に如(ゆ)きて賊を撃たんと欲す。
烈婦の東海を歴しとき、獨り常陸に留ること三年、援を求めて亀松を得たり。亀松は筑波郡若柴驛の民なり、固より壮健義を好む、烈婦の志を憐み、復讐を助くるを許す。ここに至り首として其の謀に賛成し、因って與(とも)に下關に至りしも、代官所の追止(ついし)する所となれり。藩乃ち追捕を彦山に遣し、賊状を探問せしむ。天保辛丑(かのとうし・十二年)三月、賊捕へられて自殺す。因って瀧部村に梟首(きょうしゅ)す。烈婦走りて首の下に就き、匕首(ひしゅ)を之れに擬し、睨み且つ罵りて曰く「汝豈に我れを記するや、吾れは甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、而して幸吉の妻なり。汝吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷(きづつ)け、又吾が夫の妹を殺す。吾れ為めに讐を報いんと欲し、五畿七道、探討(たんとう)粗ぼ藎(つく)す。而して一撃を汝が身に逞(たくま)しうする能はざりしは、是れ吾が憾(うら)みなり。然れども天道國恩は遂に汝をここに致すを得たり。汝其れ其の罪を知れ。汝豈に我れを記するや」と。時に本郡の代官張(ちょう・姓)君至増(しぞう・名)之れを義とし、建白して一口米を賜ひ其の身を終わらしめんとす。安政丙辰、藩命、孝義を旌表(せいひょう)す。代官勝間田君盛稔(せいねん)烈婦を建白して、其の門戸に旌表し、特に米一苞(いっぽう)を褒賜(ほうし)す。明年、余君に代り来ってこの郡を宰(さい)す。謂(おも)へらく、幸吉は身先に歿すと雖も、而も志は實に其の妻と同じければ、則ち夫妻は宜しく永く其の宮番の職を免じて、良民に歯することを得しむべしと。藩議審重(しんちょう)、月日(結審前)可(ゆる)すを得たり。余乃ち因って郡を巡りて烈婦を引見す。烈婦時に五十九歳、身體健全にして容貌未だ衰へず、其れをして其の復讐始末を語らしむるに、感慨悲惋(ひわん)、聲涙(せいるい)倶(とも)に下る。余既に其の志を悲しみ、又其の事の久しくして或は泯滅(びんめつ)せんを恐る。ここに於いて碑を建てて文を勒(ろく)し、其の跡を紀し、其の烈を表し、之れに重ぬるに銘を以てす。銘に日ふ。

混々原泉、于海朝宗。洋々大魚、龍門為龍。懿矣烈婦、習坎惟通。身雖賎兮、門閭表庸。
※、読み: (こんこんたるげんせん、うみにちょうそうし。ようようたるたいぎょ、りゅうもんにりゅうもんとなる。いなるかれっぷ 、しゅうkぁんこれつうず。みいやしいといへども、もんりょいさををひょうす。)

右擬稿(ぎこう)粗(ほ)ぼ成る。而るに宮番の良民に歯せしは、藩に故事なし。ここを以て廰議遷延(ちょうぎせんえん)し、建碑の事も亦姑(しばら)く停止す。然れども烈婦の事跡はここに至りて其の粗(あらまし)を得たり。後に作る者あらば、将(ま)た取る所あらん。
丁巳七月既望(きぼう・十六日)、識(しる)す。
戊午の冬、登波特に良民に歯す。而して公輔(周布政之助)は則ち去りて他の職となり、建碑の事遂に復た議せずと云ふ。重ねて識す。己未(安政六・1859)五月。



奉拝鳳闕詩
【2021/04/18 16:10】 エッセイ
嘉永六年、ペリーの浦賀来航の報に接して松陰は浦賀に単独で駆けつける。
既に佐久間象山は先に浦賀へ向けて出発していた。
松陰ははやる気持を、『心はなはだ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し』と表現している。
浦賀湾の土手から臨むペリー艦隊の四隻のうち、二隻は蒸気船であった。
西洋文明と進んだ技術の高さが、日本と比べものにならない。
百聞は一見に如かずと、海外へ出向き直接この目で国状を視察するしか方法はない。
ペリー来航に遅れて、今度は長崎にロシアのプチャーチンが来航した。
江戸にいた松陰は、はるばる長崎へ向かい、ロシアの軍艦に乗船して上海を目指そうとしていた。
その途次、京都で梁川星巌等と逢う。
梁川星巌から、孝明天皇が日本の平和を祈願して、早朝に起きて祈っていると聞いた。
感激した松陰は翌日、御所に向かって遙拝し、この詩をつくった。
後年、この詩を読んだ岩倉具視が、松陰の勤皇の心を知って感激したという。

長崎紀行     二日 嘉永六年  (一八五三)十月二日 二十四歳

朝、禁城を拝す。詩あり、云はく、

山 河 襟 帯 自 然 城            山河 襟帯して 自然の城、    
東 来 無二 日 不一レ 憶二 帝 京一   東来日として帝京を憶はざるは無し。
今 朝 盥 漱 拝二 鳳 闕一         今朝 盥漱して 鳳闕を拝し、
野 人 悲 泣 不レ 能レ 行          野人 悲泣して 行くこと能はず。
鳳 闕 寂 寥 今 非レ 古           鳳闕 寂寥として 今は古に非(あら)ず、
空 有二 山 河一 無二 変 更一      空しく山河のみ有りて 変更無し。
聞 説 今 上 聖 明 徳             聞説くならく 今上 聖明の徳、     
敬レ 天 憐レ 民 発二 至 誠一       天を敬ひ民を憐むこと 至誠より発し、
鶏 鳴 乃 起 親 斎 戒             鶏鳴乃ち起きて 親ら斎戒し、
祈下 掃二 妖 氛一 致中 太 平上     妖氛を掃ひて太平を致さん事を祈れると。
従 来 英 皇 不二 世 出一         従来 英皇 世々は出でざるに、
悠 々 失レ 機 今 公 卿           悠々として機を失せり 今の公卿
人 生 如レ 萍 無二 定 在一        人生 萍の如く 定在無く
何 日 重 拝二 天 日 明一          何れの日にか重ねて天日の明を拝さん。

210418京都御所


【意訳】
(京都は)山河がとり囲んでおり、自然の城をなしているようだ、
東上して(江戸にきて)以来、毎日この天皇のいる京都のことを憶っていた。
今朝、手を洗い、口をすすいで、身を清めてから宮城を礼拝したが、
私は悲泣の涙が止まず、立ち去ることも出来ずにいる。
皇居はもの寂しく荒れ果ててしまって、今はかつての面影はなく、
変わらない姿の山河が空しくあるばかりである。
お聞き(梁川星巌)すれば、今上の孝明天皇は、聖徳の徳に満ちて居られ、
天を敬い、民を愛されることは、その至誠の心から出ており、
早朝、鶏の声と共にご起床され、みずから身をお清めになり、
邪気(外敵)を一掃し、太平の世が続くことを願っていると云う。
これほど英邁な天皇がいつの世にもいらっしゃるとは云えないのに、
(このご時世に)為すことも無く、機会を逸しているのは、今の公卿達だ。
人生は浮き草のようなもので、どうなるか定めの無いもの、
いつの日にか、もう一度天皇のご聖明を拝することが出来るだろうか。


『松蔭大学の15年間』
【2021/03/23 19:07】 エッセイ
【吉田松陰論の15年間】

2006年4月から、2021年3月までの15年間、吉田松陰論の担当でした。
大学の教務課の職員有志から花束を贈っていただいた。
思いもかけなかったことに、おどろき、かつ、お気遣いに感謝です。
これで、松蔭大学を目出度く卒業となりました。
送ってくれた皆様、ありがとうございます。

いきな演出に感謝! 感謝!

210323吉永浜田さん


『江戸召喚を受けた松陰の妹三人に宛てた手紙』
【2021/03/17 19:12】 エッセイ
安政六年五月十三日、野山獄にあった松陰は、三人の妹あてに、書き残した。
この前日、兄の梅太郎から、幕府からの召喚命令を告げられたのだった。妹思いの松陰の人柄が偲ばれる。


『諸妹宛』書簡


五月十四日(安政六年)
松陰在野山獄 諸妹在萩   二十九才

拙者儀此の度江戸表へ引かれ候由、如何なることか趣は分り申さず候へども、いづれ五年十年に歸國相成るべき事と存ぜず候へば、先づは再歸仕らずと覺悟を決め候事に付き、何か申し置くべき儀あるべき様に候へども、先日委細申上げ進じ置き候故別に申すに及ばず候。
拙者此の度假令一命差棄て候とも、國家の為に相成る事に候はば本望と申すものに候。两親様へ大不孝の段は先日申候様其の許達仰せ合され、拙者代わりに御盡しくださるべく候。
併し两親様へ孝と申し候とも、其の許達各々自分の家之れある事に候へば、家を捨てて實家へ協力を盡され候様の事は却って道にあらず候。
各々其の家其の家を齊へ夫を敬ひ子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。婦人は夫を敬ふ事父母同様にするが道なり。
夫を輕く思ふ當時の惡風なり。
又驕りが甚だ惡い事、家が貧に成るのみならず、子供の育ちまで惡しく成るなり。
心學本間合い合いに讀んで見るべし。
高須の兄様抔に讀んで貰ふべし。
高須兄は従兄弟中の長者なれば大切にせねば成らぬ御方なり。
五月十四日夜                寅二

児玉お方様
小田村お方様
久坂お方様  參る。
尚々時もあらば又々申し進ずべく候。

【用語】
先日委細申上げ進じ置き = 四月十四日付け「千代宛」書簡をさす。野山獄中から。
肝をやかぬ様に = 心配をかけたり、悩ませたりしないように。
當時 = この頃。
心學本 = 石田梅岩が創唱した平易な実践道徳。神・儒・仏・道諸教のあらゆる心理を摂取して、農工商平民のために通俗卑近の例をあげて、忠孝信義を説いたもの。
高須の兄様 = 高須為之進。松陰等兄弟の従兄弟にあたる。
児玉・小田村・久坂お方様 = 児玉祐之妻千代(祐之は杉家五代目百合之助常道)の妻瀧子の義父児玉太兵衛寛備の嫡子である)・小田村伊之助妻寿・久坂玄瑞妻文、ともに松陰の妹。文は寿の死後、小田村伊之助(後の楫取素彦)の後妻として嫁している。

※、安政六年五月、野山獄にあった松陰は兄より「幕府召喚命令」を伝えられた。生還の実現性が少ないと考えた松陰は、嫁いでいる妹たちに事情説明と心の内を語り、なおかつ「婦人の道」を説きつつ、従兄弟の高須為之進に教育の一助を願えと進言している。
嫁ぎ先の家の親族に孝養を説き、実家の両親へも心遣いを忘れぬよう諭して(ほぼ遺言に近い内容)いる。
「人の道」を説いて止まなかった松陰、覚悟の東行にあたっても妹達への心得を申し送る姿に感動せずにはいられまい。
誠に「言行一致」で、己を欺かないだけでなく、親族に対しても礼節を盡そうとする「誠実な人」は読み取れる。
この半年後に、斬刑となるのであるが、覚悟ができていたようで、刑場に臨む姿が全集の『関係雜纂』に収録されている。
一部、世古格太郎の語りも伝えられているが、松陰の生涯を追ってゆくと、これが誤りで、命惜しさに「気色」も荒々しく云々は、全体を知らずに部分のみの点描に過ぎないことがわかる。
吉田松陰の名誉のためにも、わざわざ茲に特筆しておきたい。
そうでなければ、高杉に与えた「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と書簡に書いたこと等が、松陰の常なる言動が偽りとなってしまう。


『吉田松陰と久坂玄瑞の往復書簡』
【2021/02/21 10:44】 エッセイ
5、 久坂から松陰へ ③ (武田勘治・訳)

久坂はまだ松下村塾の塾生ではないが、熊本の宮部鼎蔵の助言に基づき、土屋蕭海を仲介として往復書簡を交わすこと三度。
この結果、互いの胸の内はそれなりの手応えがあった。
松陰から見れば、17才で未完成ながら大したものだと思い、久坂の将来のために大きく育ててやろう。
今回のように、自分の立場を弁えて物事を見、判断し考える大切さを教えることによって大成するに違いないと期待しただろう。
一方の久坂は、流石に宮部鼎蔵の云うとおりであったと、改めて松陰の人物がただ者でないことを感じ取ったに違いない。
今回で、最後になります。そうして、暫く間をおいて、久坂は松陰の下に現われる。
松陰は待っていたに違いない。だから、入塾するとほどなく妹と結婚させ、杉家に同居となる。
久坂が親兄弟を亡くしていたのでそうしたが、松陰は身近で久坂の大成を期していたに違いなく、事実、そのようになった。

180202正装の吉田松陰久坂玄瑞


【吉田義卿に與ふる書】安政三年七月二十四日
 誠白す。昨日土屋氏へ寄って、吾兄十八日の手紙を得ました。縷々八百言、反復懇惻(こんそく)、必ず僕のために胸心を開いて下さるとのこと。然るに不肖の惑いよいよ塊結(かいけつ)し、一言なきを得ないのです。敢て議論を好むのではなく、惑を鮮かにして欲しいのです。
 来諭に曰く、「徳川氏すでに二虜と和親す、我れよりこれを絶つはこれ自らその信義を失ふなり。若かず彊域をし謹しみ條約を厳にし、以て二虜を羈縻(きび)し」間に乗じて大東亜圏を固めて、「神功皇后の未だ遂げたまはりし所を遂げ、豊國の未だ果さざりし所を果さんには。何ぞ必ずしも区々の時宗に倣ひて虜使を誅斬し、而して後に快とせんや」と。ここが謂ふところの惑です。
 頃日、人禽(日本人と洋人)雑居し、交商すでに行はれているが、利は果たして我れにありや。抑々また我れ損して彼れを益するのか。交商すでに行はれて天下の人々は謂っている。國家に憂ひはないと。『易』に「危ふきはその安んずることある者なり、亡ぶるはその存するを保する者なり」とある。方今天下の人心は安んじている。かくの如くその存する存することを頼みにしている。かくて兵器は何れの時に備え得るのか、士氣は何れの日に伸びるのか、危急存亡も未だ知るべからず今日である。而もかの虜は来たって瀾濤萬里の外に交商し、吾れの利するところは見えるが損するところは見得ないのである。どうして「我れに害なくして益あり」と謂はれるのであろうか。
 神州の地は豊富肥沃、金銀・米穀・山種・海産一として他に求めねばならぬ物はない。故に古例は唐船蘭船の外、埠頭に進を許さないのである。僕のかつて見た墨夷(メリケン)の來翰に云ってあった、「先ず数年或いは五年十年の間試みればよく利あるや否やが知れる。若し賣買によって益がなければ、その時こそ古例に復するがよからう」と。今や交商の利害はかくの如く明白である。で、彼に諭して、「古例に復しよう、交商は、胃液だから」といふべきである。かつ虜の如きは翻山倒海の豪の者であるから、如何で俄に諾々と去ろう、必ずやかれこれ云ふであろう。その時こそ虜使を斬るばかりである。曲は彼にあり、直は我れに在る、何で「自らその信義を失ふ」ことがあらう。
 もし古例に復しなければ邪教はわが人心に薫入しやう。邪教は彼が交商の間に行はうと欲するところである。王陽明も云っている。「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と。邪教が薫入すればヤソの害がないわけには行かぬ。然らば神州の衣食をし神州の言語を用ふるといっても、その心は即ち夷狄である。心中の賊とはこれである。これを破るは甚だ難い。古へも言ってある、「渭流寡(いりゅうか)といへども浸して江河をなす。かがり火は微といへどもつひによく野を燎(や)く」と。渭流は一簀(さく)の土で障ぎることが出来、かがり火は一杯の水で消すことができる。天下の人心いまだ夷狄にならざる間に我れより絶交すれば、この害を拒ぐことも出来るのである。そして絶交するにはただその使を斬るの挙があるのみである。
蓋し山中の賊は吾兄の謂はゆる支那・印度諸州である。心中の賊をすでに破れば、心中の賊を破るに何の難きことがあらう。虜使すでに斬らるれば、天下の人は相顧みていふであらう、「海寇は測り難い」と。臭穢(しゅうえ)がなければ蠅は飛ばない。兵器忽ち備はり士氣忽ち伸び、そして天下を一洗して臭穢をなくすれば、蠅が何で飛ぶものか。そこで「彊域を謹むべく、條約を巌にすべく、而して二虜を覊繋(きけい)すべく」、而して間に乗じて蝦夷・琉球を墾収することが出来、朝鮮満州を拉することが出来、支那を必ず圧倒して、印度に必ず勢力を張ることが出来、進取の勢は必ず伸長し、退守の基は必ず固まるのである。神功皇后の未だ成し遂げ給はず豊太閤の未だ果さざりしを必ず遂げ必ず果すことが出来るのである。然らば、神功皇后・豊太閤の挙は他日に施すべきで今日施すべきは北條時宗でなくて一體誰であろう。どうして「区々たる時宗に倣はんや」など謂へるのだらう。神功皇后・豊太閤の挙は急ぐことではない。時宗の挙こそ決して緩うしてはならぬ。これが天下の大計である。
 天下の大計は僕の任ずるところでないのに、妄りにこれを言へば、吾兄はまた「空論虚譚、慷慨を装ひ氣節を扮す」の言となすであらうが、言ってもかまはないのである。
 伏して願くば吾兄よ、交商の利害と時機の緩急とを深察せよ。さきの貴報で諭されたところには僕は甚だ惑つた。説あらば幸いに氷解せよ。誠。謹白。

久坂はすでに、堂々天下の論客たる松陰の雄略論に驚かされていた。しかし、年少ながら俊秀明敏な彼は、その雄略の第一歩をドコにつけるかについて疑問をもった。この姑息偸安にふけるフガイない國民の志氣を振い興し、國防を充實させるためには、米使を斬って、決戦不可避の覚悟を國民に堅めさす外、第一歩の着け樣がないと思われた。そしてまた米使を斬る名儀はあるのである。もし現状維持の政策が続けられれば、國民の姑息偸安もそのまま続き、然も貿易のために國力は益々疲弊し、米英的思想信念は次第に國民の骨髄を犯して、ついには救うベからざる醸成に陥り、雄略どころはなくなると思われて、憂國慨世の情禁じ得べくもないのであった。かくて「地に足がつかぬ議論」と言えば言えると分りながらも、それらの點について、松陰に反駁的質問をせざるを得なかったのである。
 これに對しては、松陰も流石に明答を與えかねたようである。いや、かくの如きはわが國現下の問題であっても、久坂の問題ではないから、黙殺したのかも知れない。とにかく彼は久坂を「吾が立脚地から出発する」實行家へと導く一筋道をとった。それも理屈で論じてはまたまた理屈で反撥するだけであらうから、」論鋒を一転した。(かう云ふ所にも、松陰の天稟的教育家たる素質が顕示されている)

6、 松陰から久坂へ ③ (全集より)
【再び玄瑞に復する書】 安政三年七月二十五日
 三たび書を辱うす。捧読一番し、従前の疑は渙然(かんぜん)として冰釈(ひょうしゃく)せり。足下謂ふ所の虜使を斬ること、夷書を以て案と為すは、眞に誠に名あり。是れ泛言(はんげん)に非ざるなり。僕向(さき)に思未だここに至らず、足下を以て空虚装扮の徒と為せしは、僕の過なり。願はくは足下決然として自ら断じ、今より手を下して、虜使を斬るを以て務と為せ。僕將に足下の才略を傍観せんとす。方今天下、器械未だ嘗て缺けざるなり、財用未だ嘗て窮まらざるなり、人材未だ嘗て乏しからざるなり。足下誠に能く斬使の功を成さば、則ち縦横馳騁(ちてい)すとも、僕固より其の梱誳(こんくつ)することなきを保するなり。癸丑・甲寅の交、僕微力を以て膺懲を謀る、而して才なく略なく、百事瓦解す。ここに於てか入海の挙決せり。已ににて風浪舟を誤り、縲紲(るいせつ)身に逮(およ)ぶ。乃ち盡く舊見を洗ひて更に新策を籌(めぐら)し、心を聖賢の道に潜めて、思いを治乱の源に致せること、大略前二書に陳べし所の如し。而るに足下敢へて以て然りと為さざるは、是れ自ら其の才略の以て其の事を成すに足るを恃むのみ、誠に僕輩の及ぶ所に非ざるなり。因って憶ふに、癸丑の年、僕東に在りしも、墨使を斬らんことを思はざりしが、其の多、西のかた肥後に至りしに、宮部切に僕の怯懦(きょうだ)を責む。僕反つて詰るに其の露使を斬らざるを以てす。宮部其の當に斬るべきなきを陳べ、反覆して屈せず。甲寅の年に及んで、僕宮部と同じく、東す。一日憤然として墨使を斬らんと欲す。已にして其の益なくして害あるを思ひ、遂に其の謀を止めたり。凡そ僕輩の無能なることかくの如し。足下誠に能く其の言に酬いば、實に天下万世宗社蒼赤の福なり。豈に特に名を竹帛(ちくはく)に垂れ、功を金石に勒せらるるのみならんや。然りと雖も、其の言をして酬いざらしめば、僕輩と何ぞ擇(えら)ばん。僕將に益々足下の空虚装扮を責めんとす。足下尚ほ僕に向ひて之れを反詰するや否や。寅復す。
七月廿五日。




正面から手ひどくヤッつけても「参った」と云わないのは不屈な青年の當であった。幾ら識見を以て理を諭しても、議論には議論で反撥した。そこで松陰は一應久坂の言い分を認め、「では一つ君の云うようにやって見てくれ」と、実践を求めたのである。
だが久坂に米使を斬るべき手立てはない。実践は不可能であった。
これで両者の議論はキリがついた。久坂は、益々松陰の高い見識に推服すると同時に、慷慨家ぶり氣節家ぶることの愚を悟り、「着実なれ」「見を我が身より起せ」然らざれれば逞しい実行家にはなれぬのだと、しみじみ思うようになったことと察せられる。果たして然らば、久坂が優れた健全な維新の志士たる基礎は、ここに培われることとなったのだ、と云はれよう。だが、不思議にも久坂の志士としての実践は主としてこの時の持論と同じ方向をとり続けた。
久坂は未だ松陰に入門しなかった。松陰の身分が新しい弟子をとるを許さなかったからである。

この二人の間を取り持ったのは、「二人の共通の友人・土屋蕭海」であった。


吉田松陰と久坂玄瑞の往復書簡②
【2021/01/27 17:36】 エッセイ
3、 久坂から松陰へ ② (武田訳)
吉田松陰と久坂玄瑞の往復書簡は、両者とも三通づつかいた。前回、互いの第一信を書いた。今回は、互いの第二信を書く。

180202正装の吉田松陰久坂玄瑞



『再び吉田義卿に與ふる書』②安政三年

六月六日辱なく尊報を賜わりましたが、読了憤激し、一言坐下に白さざるを得ません。来示に曰く、「凡そ国勢を論せば、上は即ち神功皇后 下は即ち秀吉にして可なり、時宗は以て国勢を論ずるに足らざる也」と。一体方今は気ちぢこまり力抜けして、しかも蒼皇たるが本邦の情勢である。その勢いは退嬰的である。艦を巨にし砲を大にして益々窺窬(きゅうこ)するは寇虜(米英夷)であって、その勢は進攻的である。古人は言った、「我れ退くこと一歩なれば即ち彼の一歩進むこと一歩」と。元虜の勢は一歩ずつ日に進み、本邦の勢は一歩ずつ退いている。退く者は必ず守りがなければならぬ。守りが出来たら、そこで一歩進むべきである。一歩進むことが出来れば、寇虜も退き守らざるを得ない・・・・・・。
 神功皇后の三韓における、秀吉の朝鮮におけるは瀾涛万里、勲を海外に建つるもの。それは守るところあって然る後に攻め得たのである。方今は恐らくそうではない、気ちぢこまり力沮衷していて、神功皇后の時の如く元気伸び、秀吉の時の如く力振うてはいない。しかも米英夷の強いこと朝鮮の弱い如くではない。要するに今日の情勢は昔日の情勢の如くではないのである。鉄砲の如きも、寇虜のそれが数里に及ぶのと比較ににはならぬ、わが艦船も、寇虜の城郭の如きものには敵し得ないのであって、海外に出兵しようにも為し得るわけがないのである。
 だから、神功皇后や秀吉の挙は、これを昔日に施すことは出来ても、これを今日に施すことは出来ない。時宗元使を斬るや、天下の人は皆云った、「元は必ず来寇する」と。かくて弓に弦を張り剣を砥いで寇を待ちその来寇するや一戦でこれを殲滅した。方今でもこの如くあらしむれば、ちぢこまっている気必ず振ひ、沮衷している力必ず伸びる。かくて我が守りに餘力があれば、かれも敢て進攻せず、我れは進み得るのである。その時に當ってこそ、神功皇后および秀吉の挙をなすべきであり、宜しく武内たるべく、清正たるべきであり、その建勲昔日の如きも勿論困難ではない。謂うところの「守るは難く攻めるは易し」とはこれである。
 然るに若し「使を斬るの挙、これを癸丑に施すべくして、事機すでに失す」などといって拱手傍観、坐して敗るゝを観ているのは果たして如何であろうか。鄙語にも謂ってある、「兎を見て犬を顧みるも未だ遅しとなさず、羊を失いて牢(羊小屋)を修補するも未だ遅しと為さず」と必ずしも「事機すでに失す」とは謂われまい。虜使を寸断して四夷に武威を示せ。我れに守りあって而して後に彼を攻むれば、何で彼が進攻し得ゆ。然からざれば力愈ゝ沮衷し気ちぢこまる。そして遂に言葉を鴃舌(モズの聲、外国語をさす)にして着物を左袵(ひだりまえ)にせねばならなくなるのは知れたことである。
 郁離子は謂っている。「一指の寒するや燠(おう)せ(救は)ざれば即ちその手足に及ぶ。手足の寒するや燠せざれば即ちその四體に周し」と。」
 然らば、魚は跳ね出さぬようにして全うすべきであり、河は堤の切れない前に塞ぐべきであり、一指が毒に犯されたら四體に廻らぬ中に切り取って命を救うべきである。天下の禍を除くことも、鴃舌をしゃべり袵(えり)を左にする前にせねばならぬ。なお救いえるかも知れぬのに、袖手傍観していてはなるまい。因循して現状維持を図るなどは駄目である。即ち速に使爺を斬ることのみがこの祭の天下の大計である。何で「時宗は以て国勢を論ずるに足らず」など謂い得るのであるか。
 謂われるように誠(玄瑞)の任ずる所は醫である。弓馬刀槍ではない。舟艦・銃砲でもない。大将でもなく使節でもない。一醫生の身で天下の大計を論ずるは樽爼(そんそ)を越える(分を越える)こと甚だしきは、義卿(松陰)の言を待って後にやっと知り得ることではない。けれども若し兵を用い剣槊(けんさく)相摩し巨砲互いに発するに至って、区々たる刀圭(醫療器具)を執って、旗皷(きこ)の間(戦時下)に空しく死するは、天下国家のために死するのではなく一身のために死するのである。それを思って居常怏々、憤激に堪へず、憤激の餘りが心に発して紙に書かせたのである。しかしこれを敢て他人に語らぬのは語っても無益であるからで、義卿は豪傑の士だと知った故、秘かに告げたのある。然るに義卿は責むるに「慷慨を装ひ気節を扮する者」を以てした。その不遜の言何で吾れ屈するものぞ。
 醫生が天下の大計を論じたとて人は必ずしも信じないであろう。信じなければ即ち「口焦げ唇たゞるゝと雖も、天下に裨益なし」と謂はるゝも尤もである。けれども誠の大計を論ずるは憤激の餘りに出づるのであって、固より強く責めるには當るまい。今、義卿の罵詈・妄言・不遜は何と甚だしいことぞ。誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。若し果たしてこの如きをなす男だとすれば、先の日に宮部生が称賛したのも、誠が義卿を豪傑だとおもったのも、各ゝ誤ったやうである。紙に對して、憤激の餘り覚えず撃案(げきあん)した。誠、再拝謹白。

 果たして久坂は憤激した。この文を書くに當たっても、憤りのため机上を殴りつけるほどあったといふ。だが彼は、押っ取り刀で義卿を襲撃しようとはしなかった。「議論浮泛、思慮粗淺」などと妄評を下した義卿を論駁すべく再び文を草した。十七歳の青年にしては、驚くほど精到な論をした。唯久坂は松陰の教えとした急所を把握する事が出来なかった。松陰は「物を考える態度ー」―議論の出発点を問題にしたのであるけれども、久坂は専ら自説の妥當性のみを問題にして、松陰が自説を駁した部分(それはむしろ末節であった)に對して反駁を加へた。松陰は俄に反撃を試みようとはしなかった。一ヶ月餘も放任して、徐に筆を執った。

4、 松陰から久坂へ ② (全集より)
【久坂玄瑞に復する書】安政三年七月十八日(全集より)
 向に再書を辱うす、宜しく疾速に答へを致すべくして之れを緩うせるは、敢て慢りしに非ざるなり。足下軽鋭にして、未だ嘗て深思せず、僕の謂ふ所の遽かに憤激不屈の言を為す。是れ口舌の能く諭す所に非ざるなり。然れども今已に月餘日、足下の思惑は熟せしならん、因って嘗試に一言せん。
 時宗の挙はこれを丑寅に施すべくして、これを今日に施すべからず。足下の以て施すべしと為せるは、時勢をを察せず、事機を審にせざればなり。今の天下は即ち古の天下なり。神功・豊國、古に能く之れを為したり、今にして為すべきなからんや。足下の以て為すべからずと為すは、大志を棄てて雄略っを忘るればなり。凡そ英雄豪傑の、事をてんかに立て、謀を萬世に胎すや、必ず先づ其の志を大にし、其の略を雄にし、時勢を察し、事機を審にして、先後緩急、先づ之れを内に定め、操縮張弛、徐ろに之れを外に應ず。今や徳川氏、已に二虜と和親したれば我れより絶つべきに非ず。我れより之れを絶たば、是れ自ら信義を失ふなり。今の計たる彊域を謹み條約を厳にして、以て二虜を羈縻(きび)し、間に乗じて蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満州を拉き、支那を壓し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊國の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり。誠に能くかくの如くならば、二虜は唯だ我が駆使する所のままにして、則ち前日の無禮の罪は、之れを責むるも可なり。之れを宥すも可なり。何ぞ必ずしも区々たる時宗に倣ひて以て虜使を斬り、而る後に快と為さんや。
然りと雖も、是れ幕府の任なり、諸侯の事なり。吾が徒の能く辨ずる所に非ざるなり。吾が徒にして之れを言はば、空論虚譚(きょたん)、慷慨を装ひ、氣節を扮ふの為(しわざ)のみ。聖賢の、辞を修めて誠を立つる者とは間(へだて)あり。足下は一醫生にして、而も天下の大計を言ふ。以てその常倫に非ざるを観るに足る。而して僕引いて之れを道に進めんと欲す。故に前次反復すること彼の如し。足下察せずして、遽に以てその樽俎(そんそ)を越ゆるを咎むと為す。殊に僕が望みを足下に有するは、正に其の能く越ゆることに在るを知らずして、足下乃ち敢て越えず、徒らに坐してこれを言うふのみ。是れ僕の大いに惜しむ所なり。足下の書、滔々千言、亦辨なり。一事として躬行に出づるものなく、一語として空言に非ざるはなし。而も其の自ら謂ひて曰く、「憤激の餘、之れを心に発して之れを紙に書す」と。是れ則ち怏々鬱々として、胸迫り心結ばれ、已むことを得ずして来たり告ぐるなり。誠に哀れむべきのみ。今一たび足下の為に其の胸を𤄃き、其の心を廣くくし、盡(ことごと)く其の空言の病を去り、これを躬行の域に帰せしめんと欲す。足下幸に敬しみて之れを聴け。
 夫れ道に汚隆あり、時に否泰あり、位に尊卑あり、徳に大小あり。大徳尊位に居り、小徳卑位に居るときは、則ち時泰にして道隆なり。否(しから)ずんば則ち否ず。是れ天地の常形、古今の通勢にして、何ぞ深く怪しむに足らん。然れども人両間に生れて、資性稟氣、萬物と異れば、則ち當に綱常名分を以て己が責と為し、天下後世を以て己が任と為すべし。身より家に達し、國より天下に達す。身より子に傅へ、曾孫に傅へ、雲仍に傅ふ。達せざる所なく
、傅はらざる所なし。達の廣狭は、行の厚薄を視し、傅の久近は、志の浅深を視す。心を天地に立て、命を生民に立て、往聖を継いで萬世を開く。足下誠に能く力をここに用ひ、食息座臥、語默動静、造次もここに於てし、顛沛もここに於てせば、それ亦躬行の軽んずべからず、空言の易くすべからざるを知るあらんのみ。孟子言えるあり、「人その言を易くするは、責なきみに」と。人苟も自ら責め自ら任ぜば、則ち其の言豈に易くするを得んや。然りと雖も、言、行を顧みざる者は、孔孟の得て之れを裁せんと欲する所なり。足下能く之れを言ふ、天下其れ必ず之れを裁する者あらん。 藤寅復す。

松陰はまた徹底的に叩きつけて、突き放すように論断し去った。


『吉田松陰と久坂玄瑞』①
【2020/12/29 10:49】 エッセイ
吉田松陰と久坂玄瑞の往復書簡①

久坂玄瑞はかねて月性上人から、松陰に従学を勧められていたが、兄事する中村道太郎や土屋蕭海も松陰とは昵懇な間柄であった。そのうえ今度の九州旅行で、肥後の宮部鼎蔵は何故松陰に従学しないのだと怪しんだのであった。そのため久坂はかねての松陰に対する敬慕が一層加わったが、幽囚中の松陰に面会や従学が出来ないので土屋蕭海の紹介文を書いて貰う。
そうして松陰に呈する書簡を作成して土屋に届けてもらうことにした。こうして二人の往復書簡がはじまる。それは以下のように互いに三度の往復書簡となる。

(なお、この往復書簡は、山口県周南市のマツノ書店から復刻版として、平成十年に刊行されたものを転写しました。この原本は昭和十九年四月十日、道統社から刊行されたもので、著者は武田勘治さんである、松陰と久坂の出会いが劇的な激しい久坂の第一便と、それに答えた松陰の酷評の返信がまたドラマチックであります)。

180202正装の吉田松陰久坂玄瑞



1、 久坂から松陰へ ①
『義卿吉田君の案下に奉呈す』安政三年五月初旬
久坂誠玄瑞、再拝し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に日す。今茲春、鎮西に遊び、肥後に入りて宮部生を訪れ、談吾兄のことに及ぶ。生、吾兄を称賛すること娓々として
やまず。誠の欽慕すること、一日に非ず、且つその言を聞きて、欽慕益々堪ふべからざるなり。乃ち將に短簡を修し以てその鄙衷を陳べんとす。而して誠は吾兄を識らず、吾兄も固より誠を識らざるなり。反面の識なくして乃ち短簡を修せんと欲す。自からその鶻突を免れざるを知る。然れども、誠その面を識らずと雖も、しかし吾兄の慷慨気節にして天下の豪傑の士たることを識る。之を識らずとは謂うべからず。而して吾兄独り誠を識られざること然り。
誠や鈍駑閽昧(どんどこんまい)、言うに足るものなし。而れども、皇国の土に居り、皇国の粟を食む。即ち皇国の民なり。それ方今、皇国の勢い如何や。綱紀日に弛み、士風日に頽(くず)れ、而して洋夷日に跳梁し、屢々互市(通商)を乞う。その意必ず我が釁(きん・すき)を窺いてその欲するところを伸ばすに在るなり。而して廟議は暫く互市を許すを以てし、その隙に兵備を厳にすること若かずと為す。殊に知らず互市を許さば即ち天下の人益々その無事に狎れて益々般楽怠檄し、兵備ついに厳なるべからざることを。
昔、弘安の役に元使屢々我れに至る。其の書辞禮ならざるを以て、遂にその使を斬れり。元の師十万来寇するや、精兵を以てこれに當り、彼れ一敗蕩然として生帰するもの僅かに三人。元また我が邊を窺わず。あゝ我れに男子國の稱ある、うべならずや。もし方今をして弘安の如からしめば、彼れ互市を謂はゞ我れこたへて日はん、国法の禁ずるありと。彼これを強ひば即と宜しくその使を斬るべし。天下の人皆いはん、彼れ必ず来寇す、般楽すべからざるなり怠傲すべからざるなりと、綱紀必ず張り、士風必ず・・・・・・(以下缼損)
   【玄瑞は、先ず松陰にこの文を呈する所以を述べた後、一転して時局を慨嘆し、徳川幕府が米奴の恫喝に屈して開国したのを攻撃し、元寇に當って北条時宗が断乎元使を斬ったごとく米使(特にハリス来る)を斬って捨てるべきであると論じた。かくなせばメリケン必ず来襲する。それは明白であるから、天下の逸楽怠慢の士民も覚醒し、ここに綱紀は張り士風は作興して、期せずして国防も厳となる、と論じたのである。】


これにたいして松陰は、久坂の文の欄外に次の如く書き入れて稿を返した。
「僕家居して以来、誓って世と通ぜず。今貴書を得て、答へざらんと欲せば即ち来意にそむき、答へんと欲せば即ち前誓あり。因って貴書を還し、以て前誓を踏み、妄見を録して以て来意に酬ふ。兄その意を知れ。その禮を略す。且つ人に(この書を)語ること勿くんば幸甚となす。
「僕が師治心気翁(山田宇右衛門)余がために令兄玄機のことを言へること悉し。後に中村道太郎また屢々これを言へり。余因ってその人に見えんと欲し、而してその人即ち亡く、徒に涙を堕とすみ。近ころ人また説く、玄機に弟あり、玄瑞といひ亦奇士なりと。而して牢獄の人(自分)固より外人を見るに由なし、即ち是も亦望みを絶てり。今忽ちこの書を得。玄機を知らんと欲して得ず、玄瑞乃ち在り。玄瑞を見んと欲して能はず、乃ちその文を読む。僕の狂妄、言ふに足らずと雖も、それ兄と相識る亦すでに久し」。
【久坂は夙に吉田松陰といふ「慷慨気節にして天下の豪傑の士」あるを識って、欽慕していたが、「自分のことは御存知なかろう」と書いた。松陰はこれに対して、夙に恩師や親友から玄機・玄瑞兄弟のことを聞いていた。で、今までお互に相見ることは出来なかったけれども、「兄と相識ること既に久しかったのだ」と答えた。
ところで、松陰は「妄見を録し以て来意を酬ふ」と記している。その「妄見」を録したもの、すなはち『久坂生の文を評す』を現代文にして訳して載せる】。

2、 松陰から久坂へ ①
『久坂生の文を評す』六月二日
議論浮泛、思慮粗淺、至誠中(うち)から発する言説ではない。世の慷慨気節を扮装して名利を求めんとする輩とちっとも違わない。僕は深く此の種の文を悪む。こういうからには粗々その所以を論ぜなければならぬ、請ふ、幸に精思せよ。
凡そ国勢を論ずる者は、上は神功皇后、下は豊太閤を問題にすればよろしい。時宗は季世にうまれ、危變を慮って一着したのが偶中した。固より彼も一時の傑物だが、以て国勢を論ずるには足らぬ。メリケン使節を斬るの挙は嘉永六年にやれば可かった。安政元年ではもう晩い。而も案生三年の今になっては、全く晩の晩。事機の去来は影の如く響の如し(忽ち變転する)、往昔の死例をとって今日の活變を制しようなどとは難い。謂ふところの思慮の粗淺とはこれだ。
 天下に為すベからざるの地(立場)なく、為すべからざるの身はない。事を論ずるには、己の地、己の身より身(考え)を起せ。別言すれば着実なれ。
 その身将軍ならば将軍の立場から見を起すべく、大名ならば大名の立場から見を起すべきだし、百姓は百姓の立場から起し、乞食は乞食の立場から起さねばならぬ。何でわが立場から遊離し我が身から離れて論ずるのだ。今、吾兄は醫者だ、宜しく醫者の立場で考えるがよろしい。寅二郎は囚徒だ、まさに囚徒の立場で考えるであろう。
 必ず利害打算の心を絶ち、死生の念を忘れて、ただ国のみ、君のみ、父のみを思へ。家を忘れ身を忘れ得て後に家族もこれに化し、朋友もこれに化し、郷党もこれに化し、上は君に信じられ、下は民衆に信じられる。かくの如くであってこそ、将軍でも事を為し得る。大名も為し得る。百姓でも乞食でも何事か為し能ふ。醫者や囚徒に至るまで、為し能はぬことはないのだ。
 然るに、かやうなことを問題外において、傲然として天下の大計を云々したところで、よしんば口が焦げ唇がたゞれようとも、何の裨益もなかろう。議論が浮ついているというのはここだ。
 一体、兄の自ら任ずるところは、弓馬か、艦船なのか、銃砲なのか。抑も大将たらんとするのか、それとも使節になる気か。神功皇后の御時に遇ったら武内宿禰になるのか、豊太閤の時なら黒田如水や加藤清正になるのか。一体、兄の家族や朋友や郷党の幾人が兄に従って節のなめに死のうとしているのか。兄のために財を提供しようとする者が幾人あるのか。
 聖賢の貴ぶところは議論でなくて実行だ、つまらぬ多言を費するよりも、至誠を積み蓄えるがよろしい。 ―
 実践を抜きにした言説は駄目だ。そして実践的であるためには自分の立場において工夫せねばならぬ。ただ景気の良い大言壮語をして熱烈がっているような奴は、浮ついた奴、考への粗雑な奴、そんな奴を僕は大嫌ひだ。 ― 
と松陰は云ふのである。
英気颯爽と十七歳の青年久坂が、「慷慨気節の天下の豪傑」によせた文に対して、當の松陰は右の如く徹底的にやっつけた。松陰が我れに慕い寄るこの俊邁の青年に対して、かくも無慈悲な批判を加へたのは、大いに下心があってのことであった。それは久坂を紹介した友人土屋蕭海に与へた手紙によって知れる。

「坂生、志気凡ならず、何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、是にて一激して大挙攻寇の勢いあらば、僕が本望これに過ぎず候。若し面従腹誹の人ならば、僕が弁駁は人を知らずして言を失ふといふ可し。この意(心持)兄以て如何と為す、如何となす。
(六月)三日蕭海學兄、松陰生」

 果たして久坂は大挙攻寇して来た。畏敬する先輩にやっつけられて、それで悲観して逃げて行くような意気地無しではなかった。即ち『再び吉田義卿に與ふる書』をものして送った。



【吉田松陰】研究者 ー玖村敏雄先生ー
【2020/11/22 21:35】 エッセイ
刊行後七十年、改めて世に問う松陰伝の名著
吉田松陰  玖村 敏雄先生



■かつて松陰伝の三大名著とされてきたのは、徳富蘇峰著『吉田松陰』(岩波文庫)、奈良本辰也著『吉田松陰』(岩波新書)、そして本書でした。201028玖村敏雄先生180713吉田松陰 玖村180202正装の吉田松陰





著者路歴
玖村敏雄(くむら・としお 1896年12月8日 - 1968年2月21日)
明治29年 山ロ県徳山市生れ。山ロ県立徳山中学校、山口師範学校をへて広島高等師範卒。昭和5~19 広島高等師範学校教授。ペスタロッチ研究に傾注し、全集完成に尽力。その実績を買われて松陰全集の編集委員。主著『吉田松陰全集』全十巻『吉田松陰』『吉田松陰の思想と教育』岩波書店。昭和43年没。
『吉田松陰』  略目次
第一章 山鹿流兵学師範時代
①家計 庭訓 出生 吉田家 運命 義母 杉家 祖父母 誕生の家 父母 父の教育
②兵学の修業 玉木文之進 林真人 山田宇右衛門 山田亦介 養父の志を知る 世界の形勢 他流兼修 天分と努力 学問の態度
③明倫館兵学師範 藩主の値遇 明倫館の教育 教育の実際 門人 野外演習 時務策 海防御手当御内用係

第二章 遊学時代
①鎮西遊歴 遊学許可 沿道の見聞 葉山佐内 山鹿萬助 望郷の夢 長崎滞在 帰途
②第一回江戸遊学 藩主と松陰 江戸に於ける修学 教育者的 性格江戸の師友 学問の分野 海防の問題
③東北遊歴 江幡五郎 志士中の仙人 亡命事情 水戸滞在 東北遊
④屏居待罪 意気軒昂 帰国屏居 国体の研究 教育者的生活 御家人召放 藩主の愛惜
⑤諸国遊歴 更生の旅へ 森田節斎 谷三山 伊勢 竹院禅師
⑥第二回江戸遊学 ペリーの来朝 佐久間象山 時務策の上書
⑦踏海前後 長崎に向かう熊本長崎 東下の沿道 江戸の桜 踏海策決行 下田に至る 雄図敗る 江戸へ護送 教育者的性格

第三章 第一回在獄時代
①江戸獄 踏海の是非 判決江戸獄
②金子重之助 護送途次 松陰の温情 岩倉獄 松陰の哭詩
③野山獄 二十一回猛士 一族の恩愛 松陰の感謝 三余読書 幽囚録 開国論 東洋政策 天朝と幕府
④野山獄に於ける教育 同囚十一人 「新入」松陰 座談会 講孟余話 協同者 獄風改善 教育の成功
⑤講孟余話 本書の価値 学問の態度 国体論 教育論

第四章 幽室時代
①読書と著述 免獄事情 読書量 支那史 国史 国体 国体思想の転換 日本儒書 郷土史
②幽室と松下村塾の教育 父兄親戚と講学 武教全書講録 松下村塾記 塾風
③松下村塾の精神 塾の理想 討幕論を排す 生きた学問 須佐の育英館 家学教授の藩許 戸田の青年 一族の支援
④松下村塾の実践運動 年長塾生の実践運動 明倫館派と和解 戊午の密勅
⑤松下村塾の門人 高杉晋作 吉田栄太郎 久坂玄瑞 入江杉蔵 久保清太郎 佐世八十郎 中谷正亮
⑥松下村塾の閉鎖 計皆破る 大原重徳 間部老中要撃策 玉木文之進の尽力 門人家囚となる 神国の幹

第五章 再獄時代
①絶食求死 憂国の情 密使来る 忠義と功業 絶食沈思
②伏見要駕策 参勤反対 塾の破却 入江兄弟投獄
③死生の工夫 安心立命の地 忠孝は一致するか 自己一人 松陰と仏教

第六章 殉教前後
①東送 覚悟 父母の家 出発
②江戸再獄 訊問 揚屋入り 高杉晋作 獄中の友 死罪の予感
③処刑 永訣の書 遺託 留魂録 刑の申渡 処刑 埋葬 父の満足

第七章 流布遺響
墓碑建設 塾の復興と遺著の出版 門下生の活動 公武合体論の排除 攘夷 討幕 慰霊祭 藩主の哀悼 聖恩枯骨に及ぶ

解説
松陰像と玖村敏雄『吉田松陰』(田中彰)
①吉田松陰と現代 ②明治期の松陰像 ③大正期から昭和前半の松陰像 ④玖村敏雄とその著『吉田松陰』の位置


 教育者・松陰像を樹立
     作家 山田兵庫
 維新の混乱未だ治まらぬ明治八年(1875)に出版された、転々堂藍泉堂編『近世報国百人一首』には、吉田松陰の次のような略伝が紹介されている。
 「吉田寅次郎矩方ハ長門萩の人にして佐久間象山に附て学び、道博く衆に先だつて洋行の意有しが、其機を過ちて遂に尊援を唱へ、確老間部詮勝を撃んと本国を脱して上京し、事ならずして己未の十月廿七日刑死す。曾て文章に巧にして幽囚録・留魂録等の著述あり。方今専ら世に行はる」
 あるいは、その前年に出た染崎延房編『義烈回天百首』にもほぼ同様の記述がある。あまり注目される機会が無いが、これらは短文とは言えど最も早い時期に世に出た松陰の伝記である。
 老中間部を撃つために上京したというのは誤りだが、そのへんは目をつむろう。ともかく、これを読むと松陰は、アメリカ密航未遂事件を起こしたり、老中暗殺計画を企んだりという、勇ましい人物といった印象を受け、違和感を覚える。それにも増して不可解なのは、「松下村塾」の名が登場しない事だ。

 これら二著よりも僅かに古い、明治六年出版の『復古夢物語』には「松陰松下塾二孫子を評註す」と題された挿絵があったりするから、一概には言えないけれど、「松陰=松下村塾」という図式は、当時必ずしも一般的では無かったのではないか。明治の初めにおける「吉田松陰」とはまず第一に、「志士」「壮士」として評価された人物であった。

 ところが現代では、松陰は松下村塾を主宰した、「教育者」としての面が高く評価されている。確かに僅かの期間に、萩の松下村塾という晒屋で熱弁をふるい、多くの若者の魂を揺さぶった史実は、教育史上に特筆すべき奇跡といえよう。
 後年、歴史の表舞台に立つことになる高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・寺嶋忠三郎・前原一誠・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・野村靖・山田顕義等々といった門下生たちは、みな萩やその近郊に住んでいた少年たちに過ぎない。大坂の適塾や九州日田の成宜園のように、全国から選りすぐりの秀才を集めた私塾ではないのである。
 人間は賢愚さまざまだが、必ず一つか二つの才能は持っている。それを伸ばしてやれば立派な人物になれる…という意味の言葉を松陰は述べている。こうした人間に対する、絶対的とも言える信頼が松陰の教育のべースになっていた。

 松陰は、強烈な魅力を放つ若者だった。尊王撰夷を説き、幕府を非難し、その教えの上に死んでみせた。松陰の志は門下生たちに受け継がれ、永遠になってゆく。つまり松陰の教育は、みずから立てた志を貫き、捨て身になってこそ完結した。古今東西の教師が、容易に松陰には近づけない最大の理由は、ここにある。松陰は、門下生を理屈や知識で「教化」したのではない。「志士」としての自らの生きざま、死にざまを見せて「感化」したのだ。
 松陰没後間もないころ、土屋蕭海が書きかけていた松陰の伝記を読んだ高杉晋作が、「何だこんな物を先生の伝記とする事が出来るか」と言い、引き裂いたという逸話がある。それ程、松陰の魅力は言葉で表わし切れるものではなく、伝記執筆も容易ではないのだ。昭和十一年(1936)に岩波書店から初版が出た玖村敏雄『吉田松陰』は、あらためて述べるまでも無いが、数ある松陰伝記の中でも白眉とされる。著者玖村は明治二十九年、山口県に生まれ、広島師範教諭や広島高師教授を務めた。『吉田松陰全集』編著者玖村は明治二十九年、山口県に生まれ、広島師範教諭や広島高師教授を務めた。『吉田松陰全集』編纂の主要メンバーの一人でもある。ゆえに多くの史料に接する機会があり、それを基に著したのが『吉田松陰』なのだ。

 松陰の生涯を実証的に、丁寧に描き、しかも根拠となる史料には、一々出典を明記する。「正伝」と言うべき伝記だ。
 教育者である玖村は、それまで発表された松陰伝記に物足りなさを感じていたようだ。教育者としての松陰の姿が、しっかり描かれていなかったからである。
 執筆にあたり玖村は、「筆者は少しく立場を変へて家庭人国家人として生ひ立ちつゝ求道的生活に即して生長して行つた思想過程に重きを置き、それと行動、殊に教育者的行動との関係を見失はぬやうに注意した」と、従来の松陰伝記との違いを述べている。

 本書により、「志士」「壮士」だけではない、「教育者」としての松陰像が確立されたと言えるだろう。人が人に影響を与え、導くとはいかなるものかという問いに、本書はいくつもの実例を示し答えてくれる。もちろん前の一文を見ても分かるとおり、時代の制約はある。しかし刊行後七十年を経てもなお生彩を放っている本書は、まさに名著の名を冠するのに相応しい。不安な時代になればなるほど、政治でも教育でも、何かにつけて松陰が話題に上り、その再来が期待される。純粋に生きた人物だけに、都合よくイメーシだけが利用され易いのだ。だからこそ本書のように丁寧に書かれた伝記が復刻され、読み継がれなければと思う。
 最近、「松陰と白分は似ている」という厚顔無恥としか思えない政治家の発言を新聞で読んだ。ここで多くを語る気はない。ただ私はその瞬間、松陰伝記を破り捨てた、晋作の心境が理解出来た気がした。
(本書パンフレットより)



 松陰の事実と読者の自由~玖村敏雄著『吉田松陰』復刻に寄せて~
   北海道大学名誉教授 田中彰
 吉田松陰というひとりの人間の、わずか三十年たらずの"生"の光芒が、生誕一五〇年後も、いまなお人びとを鮮烈に照射しつづけているのはなぜか。
 それへの答えは、人それぞれが、松陰の生きざまを事実として知る以外に手立てはあるまい。
 その松陰を語った伝記は、明治以来このかた、単行本のみですでに一五〇冊をはるかに越えているのだ。
 そうしたなかで、この玖村敏雄著『吉田松陰』は、松陰の生涯をもっとも精細に、もっとも事実に即して描いているものといえる。それは著者が『吉田松陰全集』全十巻(岩波書店、1934-36年刊)の編者であることによって、はじめてなしえたことなのである。

 本書は、この『全集』第一巻に収められた伝記に手を加え、1936年(昭和十一)十二月に岩波書店から刊行されたものだが、著者は本書でとくに次の三つを意図したと「序」で述べている。
 その第一は、従来の諸著の「誤謬を訂正する」こと、第二は、「一々原典の出処を明らかにした正伝」として、「確実なこと」を伝えること、そして、第三には、「松陰の内面的生活の展開」に力点をおいて叙述することであった。
 この第三を、著者の言葉で再言すれば、松陰が、「家庭人国家人として生ひ立ちつつ求道的生活に即して生長して行つた思想過程に重きを置き、それと行動、殊に教育者的行動との関聯を見失はぬやうに注意した」ということになる。
 これは本書が、「教育者的」松陰像を提出したことを意味するが、同時にそれは、当時の時代を反映した本書の限界にもなっている。しかし、私が本書の復刻を喜ぶのは、松陰の"生"の事実を知るには、何よりも本書にたよることが先決だと思うからである。
 そこから何を学び、いかなる松陰像を描くかは、読者の自由なのである。その自由に本書は十分応えてくれるはずだ。

【前回(昭和57年)の小社復刻版に際して頂いた推薦文です。そのとき23頁に及ぶ立派な「解説」も賜り、復刻版巻末に掲載しましたので、今回もそれを転載致します。】


杉田玄白 ー日本蘭学の嚆矢ー
【2020/10/14 12:31】 エッセイ
『杉田玄白』―人と功績―

江戸時代も半ばを過ぎた、十代将軍家治の治世・明和八(一七七一)年三月四日は日本の文化史、医学史にとって記念すべき日となった。
若狭小浜藩の藩医であった杉田玄白は前日の夕方に町奉行から、千住小塚原での「観臓許可」通知を受け取った。直ぐに同僚の中川淳庵に知らせ、さらに普段の交流は少ない豊前中津侯の医官・前野良沢に大至急手紙を届け、翌日浅草三谷町の茶屋を待ち合せ場所とした。

玄白はこの直前に、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』(正しくは、ドイツの解剖学者人クルムスの著)を藩主の許可を得て購入していた。オランダ語が読めない玄白は、何時の日かこの書が必要なときが来るとの信念を持っていて、この日持参したが偶々前野良沢も同じ書籍を長崎で購入したものを持参して来た。
良沢はその書を開き、図を指差して「ハルト」は心臓、「ロング」は肺などと説明した。
二人は同書、同版書籍を持参したことに奇遇と驚きを覚えながら、念願だった「腑分け」を実際にこの目で見、確かめることに胸躍らせながら刑場へ向かった。
その日の腑分けは京都生まれの青茶婆というあだ名の、五十才くらいの女の刑死体であった。
解剖が行われ、執刀人が臓器を取り出して一つ一つ説明を聞く。

200114杉田玄白と解体新書

玄白も良沢・淳庵とも『ターヘル・アナトミア』の解剖図が実際と違わぬことに驚嘆し、感激したのであった。
これより十七年前に京都で山脇東洋が腑分けを見分して、後に『臓志』と題して出版し、不十分ながら蘭書の正確性を証明していた。
観臓の感激が冷めやらぬ刑場からの帰り道で、玄白は『ターヘル・アナトミア』の翻訳を自分たちで行うことを提唱して即座に同意を得た。
善は急げということで早速翌日に、築地鉄砲洲の前野良沢の邸に集まった。
良沢は青木昆陽や、長崎の大通詞である吉尾耕牛から既にオランダ語を学んでいて、この翻訳者たちの盟主であったが、その語学力はまだ不十分であった。
翻訳は困難を極め、終日、三人が一語を訳すのに腕組みして天を仰ぐことも屢々だった。
この悪戦苦闘ぶりは玄白の後年の回顧録である『蘭学事始』に生々しく記述されている。そこには次のように書かれている。
則ち『その図と説の符号を合せ考ふることは、取付きやすかるべし。図の始めとは云い、かたがた先ずこれより筆を取り初むべしと定めたり。則ち解体新書形体名目篇これなり。
その頃はデの、ヘットの、またアルス、ウエルテ等の助語の類も、何れが何れやら心に落ち付きて弁へぬことゆえ、少しは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。
たとえば眉(ウエインブラーウ)といふものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿として、長き春の一日には明らめられず、日暮れるまで考へ詰め、互いににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり』」とある。  
長い引用になったが、これを読むと暗中模索の苦難の情景が思い浮かぶ。そうして根気よく取り組んでいる内に徐々に理解が進むようになり、苦節三年半をかけて漸く翻訳し終わって、『解体新書』の出版にこぎ着けた。
玄白の回想によれば『艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり』という苦心談は実感だったろう。
將に使命感に執念を燃やし続けた苦心の末の成果だった。しかし、その翻訳内容は不十分なことを玄沢は承知していた。
そのため、この書は序文を長崎大通詞の吉尾耕牛に検閲を兼ねて書いて貰っている。その一方、後の門下生の大槻玄沢へ、より正確な翻訳を依頼し、それは寛政十(一七九八)年に『重訂解体新書』として訳稿がなり、出版は文政九(一八二六)年となった。
こうした経緯を経て、玄沢らの一大事業であった『解体新書』が完成したことになる。
その凡例には、訳に三つの方法を取り入れて「一に曰く翻訳、二に曰く義訳、三に曰く直訳」として訳したという。
このうち翻訳はそのものであり、義訳はオランダ語に相当する日本語が無くあらたに日本語を造り、「神経」などはこれに該当する。直訳は相当する日本語がなく、新造語も困難でオランダ語の発音に合せて漢字を書き、ふりがなをつけたという。語学力不足のために「直訳」は、最初はかなり多かったという。日本で最初のこと故、致し方なかったようで、如何に翻訳(医学専門用語や助詞等)が困難であったかを彷彿させてくれる。「血の滲むような努力」とはこのようなことだろう。

 翻訳の努力もさることながら時代は鎖国体制下である為、処罰・発禁を視野に入れた玄白は周到に配慮し、出版の前年に『解体約図』と題した予告編五枚を印刷して世評の反応を探ったのであった。
翻訳なった『解体新書』は同志だった幕府医官の「桂川甫周」を通じて将軍に献上、他に五摂家にも献上して公家から嘉賞され、さらに幕府の要路者である老中にも進呈された。
時の老中が田沼意次であったことも、玄白にとっては幸いであった。こうした玄白の用意周到な配慮がなされてこの大事業は成功したのであった。
しかし出版された『解体新書』には翻訳事業の盟主だった前野良沢の名は無く、杉田玄白(訳)、中川淳庵(校)、石川玄常(参)、桂川甫周(閲)となっていて、訳者が杉田玄白であることは、意味深長である。一説には玄白と良沢の翻訳事業への考え方の違いがあったようである。

良沢は蘭学者としての態度を厳格に保持し、一方の玄白はこの事業を可能な限り早期に成し遂げたいと懸命だったようで、万一処罰が下されたら全て自分の責任との覚悟表明の意味も込められているという。
この翻訳過程で、玄白は奥州一関の藩医である建部清庵からの質問に答えるという往復書簡を交わしつつ、オランダ医学書の翻訳に取り組んでいる旨を伝えている。
これは後に養子の杉田伯元によって寛政七(一七九五)に上・下二巻として刊行された。建部は壮年時代にオランダ医学の研究で江戸に留学したが、時代は未だ彼の要請に応えるに至っていなかった。だがその後も彼は研究への情熱は失っていなかった。玄白らが翻訳に取りかかった頃は高齢のため参加出来ず、刊行後の安永七(一七七八)年には第五子の勤と弟子の大槻玄沢を玄白に入門させた。
勤は後に玄白の慫慂によって娘婿となり杉田伯元となる。そうして解体新書の翻訳刊行を成功させた反響は大きく、江戸における玄白の名声はつとに高まった。
玄白の書斎を「天真楼」といい塾名としたが彼の名声を慕って集う者は多く、さらに優れた門人に恵まれ、医家としての玄白の塾は隆盛を極めた。
とりわけ大槻玄沢は玄白や良沢の創始したオランダ医学発展の最大の功労者として多大な業績を残し、玄白の名声や地位を不動のものにしたと云って良い。余談ながら「玄沢」の号は良沢と玄白の一字を採ったという(小川鼎三『解体新書』)。

玄沢は居宅を「芝蘭堂」と名付け、彼も多くの門弟を育成する。宇田川玄随・玄真や小石元俊、橋本宗吉など後に名を成す人達であるが、同時に蘭学の入門書として書かれた『蘭学階梯』は刊行されると多くの読者を獲得し、蘭学の普及発展に大きな貢献を果たした。また蘭学者たちの長老となった良沢の古希、玄白の還暦を祝う宴を催し、さらに二年後の寛政六年閏十一月十一日が西暦一七九五年の一月一日に当ることから「新元会」と称して新年会が催されている。
この時の模様を描いた一軸は大槻家に伝わったが、現在は早稲田大学の図書館にあり、この別名「オランダ正月」はその後も続けられて第二回目には良沢と玄白も参加している。

そして文化二(一八○五)年、七十二歳になった玄白は、時の将軍徳川家斉に拝謁する栄誉に浴した。功成り名を遂げた玄白は、この二年後に家督を伯元に譲り隠居するが、その生涯は一方では医家として前野良沢という優れた先輩を持ち、他方では西洋医学の開拓者としての称賛を受け、また多くの後継者や経済的にも恵まれたものとなった。
玄白は晩年に「九幸」という号を用いたが、来し方の人生に満足したものを意味するようである。実は玄白自身は、いわゆる研究者としてのそれよりも、事業のまとめ役或いはコーディネーターとしての資質にすぐれ、不十分な語学力を補ってあまりあった。

今日、我々が『解体新書』の意義を絶賛できるのは玄白の事業家としての優れた面があったことに加え、『蘭学事始』という晩年での回顧録を遺したことも大きい。
このお陰で『解体新書』のもつ価値や研究が後に大いに行われることとなった。そして八十歳の時に自身の肖像画を描かせて、自らの人生に功成り名を遂げつつ、文化十四(一八一七)年に八十五歳の輝かしい生涯を閉じたのである。


なお杉田玄白の『解体新書』翻訳を回想した『蘭学事始』の書名であるが、『蘭東事始』『和欄事始』の三種があって明治二十三年四月、「第一回日本医学会総会」の時に再版された『蘭学事始』の序文に寄せた福澤諭吉によって確定し、今日の題名として多くの読者を得ているのである。

福澤もまた『蘭学事始』を読んで「我々は之を読む毎に、先人の苦心を察し、其豪勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」と赤裸々に感激したことを綴っているのである。





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