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『吉田松陰と水戸学』
【2019/05/31 15:25】 エッセイ
後期水戸学(天保学)

水戸学は一般には前期水戸学、後期水戸学に分けられる。もともとは二代藩主の光圀の編纂事業である『大日本史』から始まったが、幕末史に影響を及ぼしたのは後期水戸学または天保学といわれるものをさす。
吉田松陰は、嘉永3年、鎮西遊学で新論に接した。ただし、この時は目次の書写程度であった。嘉永四年末から五年正月にかけて、水戸に滞在して新論の著者『会沢正志斎』から親しく講義を受けて、水戸学及び日本の国体の由来を知る。松陰の思想形成に大きな影響を及ぼした。

以下、Wikipediaの説明を転記してみる。
後期水戸学は、第6代藩主徳川治保(はるもり)の治世(1766-1805)、彰考館総裁立原翠軒・たちはらすいけん(1744-1823)を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。翠軒の弟子には小宮山楓軒(1761-1840)、青山延于・あおやまのぶゆき(1776-1843)らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷・ふじたゆうこく(1774-1826)は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」(せいめいろん)を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎・あいざわせいしさい(1782-1863)、藤田東湖・ふじたとうこ(1806-1855)、豊田天功・とよだてんこう(1805-1864)らが、その後の水戸学派の中心となる。

文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文で、いずれも佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。嘉永2年(1849年)、斉昭の藩政関与が許可される。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

このように、水戸学は主として幕末にあって藩主であった徳川斉昭の教育担当として会沢正志斎が担当したことから、斉昭の強い個性と相俟って多くの人々に知られるようになった側面もある。斉昭の襲封時、門閥派と改革派との確執がその後にも影響を与えたのであった。この門閥派との対立抗争は幕末の最終段階まで続き、水戸藩は多くの人材をこの内訌で失い、ついに明治新政府に要人を輩出できなかった。戊午の密勅の返納をめぐっても対立が続き、安政の大獄で幕府(大老・井伊直弼)から、厳しく処罰され、多くの犠牲者を出した。そのため、井伊大老の暗殺へと発展し、結果として幕府権力の衰退の要因となった。桜田門外の変は、徳川政権の最後の権力維持を目論んだが、かえって衰亡へのみちを開いた。

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『嗚呼・山縣有朋』 ー国家を私物視した男ー
【2019/04/30 22:12】 エッセイ
「吉田松陰」の的外れな人物観

近代日本、「明治維新」は国家的な成功例として日本国はもとより、中国の清朝末期にも影響を与えた。
だが、日本は夜郎自大な錯誤の国家間観を抱いてしまった。
西欧が個人の努力の集合体として、英々の努力を積み重ねた結果に気付いたものは『国家と共に生きる』人間の生き方であった。
その国家とは、『人は生まれながらに人権を保証された存在である』国民が造り上げたものが近代市民社会の到来を前提とした、近代国民国家であった。
その意味で、日本の明治維新は三段跳びのような国家を模索したのであった。
人権の何たるかを知らず、始めに天皇制国家ありきの考え方であった。
日本の成り立ちを知って、古代にその範を求めたのであった。
西欧において、王制の専制打破が結果として国民主権という人権思想を求めるうねりが、長い徳川幕藩体制の在り方から、三段飛びのごとくに西欧先進食国からの侵略を排撃できる新国家を模索したのは、ある意味では」致し方ないことであったといえる。
しかし、西欧社会の国民国家への指向は、長年にわたる国民の願望であった経緯を知悉して、西欧に学べ!という大号令とはいささか事情を異にする。
正しい国家間と、それに付随する軍隊は、本来的な意味における国家防衛としての機能を有するという、使命を逸脱してしまい、己の権力のみを指向した山縣有朋の手に因って、いつしか軍事国家への道を歩ませてしまった。
所詮は軍人である。帝国主義時代の背後にある『国家とは何か』を見極めない権力機構を作り上げてしまった。

山縣有朋の犯した罪は大きい。国家権力から糾弾されてしかるべきものである。
どうして、こんな人物が最高権力者に登り詰めたのか?
国権の発動の源泉を知らず、国際社会において、存立することが至上命題と心得ていた狭量な思考が生んだ悲劇に他ならない。
長州が日本の近代国家を創出したのは幻想である。
萩の松陰神社の正門をくぐると、左手に『明治維新胎動の地』と、特筆大書した佐藤栄作の書になる石碑に出会う。
不完全な明治国家を創出した長州藩の努力を、無批判に礼賛したものである。
その所以は、心ある人には『下らない幻影』としての近代国民国家を礼賛するあまり、こうした歴史を直視できない人達にとっては好都合の結果であったのに違いない。

その結果を見よ! 『国破れて山河あり』の状態、すなわち、大日本帝国の崩壊である。
正しい国家間や、それの属性としての軍隊の在り方に固執した姿が、国家(日本国)を消滅に追いやった。
『枢密院議長、元帥陸軍大将、従一位大勲位、功一級公爵』。この墓誌が誰のものであるか?問いたい。
近代日本は、成功した国家との幻影は棄てなければなるまい。

『薩長土肥越水』 ー明治維新のふるさと巡りー
【2019/04/15 11:42】 エッセイ
『明治維新のふるさと』 ー大和魂とはー

6年の歳月と時間を掛けて薩摩、長州、土佐、肥前、越前、水戸の幕末維新期の雄藩を現地に踏査しました。
明治維新は何故起ったか?ここをしっかりと押さえないと、現在の日本の姿は正しく理解出来ません。
何故、米国の在り方や指示に対して、現在の日本は対米追従の国際外交を日本は行っているのか、この問題をしっかりと理解しておく必要があります。源流は、明治維新の在り方に問題があるのです。

190415家紋毛利家

私の幕末維新史の研究は吉田松陰がメインで、長州(現山口県)には3度も足を運んだ。
初めて萩の街を見た。それは想像もしていなかった世界でありました。
江戸情緒の風情が残る武家屋敷一帯を散策したときは感動ものでした。
萩城址、松陰神社と松陰生誕地と杉家・吉田家の墓も忘られない。
野山獄、大照院、高杉晋作生家、木戸孝允の生家、萩博物館。萩は美しい街である。
菊屋横町、呉服町あたりの家並みは頭に焼き付いている。
何故に、長州藩が幕末維新史のみならず、現代も総理大臣排出県として君臨しているのか。

これには、村田清風という偉人を知らなければならない。
多くの本を読んでも、村田清風の生き方に異論を唱える人にまだ出会えていない。
当時は藩=国家であった。清風は、狭い情報網の中から現実の世界情勢に対して識見を持っていた。
それ故、吉田松陰が安政元年三月に下田からペリーの軍艦で米国行きを敢行したか。
その命懸けの行為に対して、『これはよいことをしてくれた、これが物事の端緒というものじゃ!』。
といって松陰の行為を高く評価した一人だった。

西欧社会では、18世紀の半ばから、いわゆる『第一次産業革命』が進行していたのであった。
動力や機械の工夫によって、大量生産を実現して安価な商品を販売する、近代経済の萌芽がそこに見られる。
米国が本国たる英国の植民地の人々に、高い税金を収奪していた。
これに対する反発が独立戦争となった。だから、1776年に『独立宣言』がなされる。
人間は生まれながらにして平等なのだ。人権を踏みにじる国家は糾弾されてしかるべきという考え方(思想)であった。

おりしも、こうした近代化への目覚めは、近代合理主義を生み出す土壌を内包していた。
英国で、アダムスミスが、いわゆる『国富論』を刊行したのが、同じ1776年であった。
生産性を高めることが、国富の増進となるということを社会現象の中から見出したのであった。
アダム・スミス、スコットランドの名門大学である『グラスゴー大学』の総長をしていたのであった。
当時は英国と競っていたフランスがパリを中心に、欧州のシンボルとして多くの知識人、政治家が集ったという。
いわゆる『百科全書派の人達』で、ここに多くのノウハウを持った人達が国運の隆盛を願いつつ、人が集まり、情報の発信基地になった。英米仏が世界の指導的地位を築いたのあはこの頃であった。
190415家紋島津家

鹿児島は、西郷人気が圧倒的ですね。維新展示館や甲突川沿いの加治屋町から維新の元勲が輩出されている意味がよく分かる。城山、照國神社、鶴丸城、尚古集成館等々、あの時代で西洋の技術導入に取り組んだ島津斉彬。名君として地元の人気は高い。西郷隆盛も斉彬ありてこそである。反面、大久保利通は鹿児島中央駅近くの銅像と維新展示館に名前が見られるのみ。歴史上の人物は一方では正しく評価されないけれど、実績・功績も正当に評価してやらないと大久保がかわいそうな気もする。征韓論が正しく理解されないと、西郷を追いやった大久保が悪者になるのだ。決して喧嘩状態では無い。日本の近代化を成し遂げるために、優先順位をめぐっての政策や世界の大勢を知って日本の将来のあるべき姿を追求した大久保。岩倉遣欧使節団の成果は、大久保や木戸からは征韓論(遣韓論が正しい言い方)より富国強兵、殖産興業政策が優先された。西郷は大きな銅像のとおり、鹿児島では英雄である。

190415家紋土佐山内家

薩長に比べ、土佐は山内容堂の個性が藩の動きをある面では掣肘している。関ヶ原の後の抜擢が、公武合体政策から抜け出せなかった。土佐は現代でも、中央に横たわる四国山脈の南側は独特で、その昔、土佐日記に見られるように僻地である。武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎等々の活躍に負うところが大きい。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は三千万部の出版史上空前の売れ行きが示すように、司馬さんの作品が土佐の地位を上げた観が残る。藩の上層部と志士たちの一体化ができなかった事が、薩長の後塵を拝することになるのはやむを得ないところだ。


190415鍋島家

肥前佐賀藩は、藩主の鍋島侯が天保年間に進んだ技術で軍事大国の様相を見せたが、肝心の幕末期に『佐幕思想』から脱却できないこととなった。佐賀城本丸歴史観の職員が、鍋島侯の不人気を嘆いていたのは象徴的だ。しかし、維新以降は優秀な官僚が大隈、江藤、大木、副島等々続出したので、薩長土肥の集まりには参加出来た。しかし、肩身の狭い思いが残るようだ。


190415越前松平家

越前は藩主の慶永の存在無くして語れまい。親藩筆頭の地位にありながら、幕府の屋台骨を支えなければならなかったのは致し方ない。横井小楠を顧問で招聘したことで、慶永は要職を務められたといってよい。しかも、将軍継嗣問題で橋本左内を活躍させたものの、安政の大獄で慶永が謹慎させられ、その間に有能な橋本左内が犠牲になってしまった。しかし、幕末期の重要資料を遺してくれたことで、研究者にとってはありがたい。中根雪江、鈴木主税、村田氏壽、由利公正等々の人材を輩出出来たのも春嶽の功績ながら、地元では『ぼっちゃん』と揶揄を込めた言い方が為されるのは、田安家からの養子で入った事情も勘案しなければなるまい。


190415水戸徳川家

最後に水戸藩である。御三家でありながら、天保の改革で突っ走った斉昭が、幕府から時に睨まれ、時に海防参与として揺れ動いた。尊王攘夷の魁けの藩でありながら、『戊午の密勅』で大きく門閥派と斉昭支持はで内訌となり、共倒れで維新期に人材が払底してしまい、維新のばすに乗り遅れてしまった。しかし、斉昭のブレーンだった人達の功績は不運もあるが一定の評価を与えないと明治維新が歪んでしまう。最後に斉昭の七男が徳川の将軍となったことで、貢献は出来たかも知れない。

【松蔭大学】の吉田松陰論
【2019/03/14 13:00】 エッセイ
松蔭大学における『吉田松陰論』は、半期十五回の講義である。そうして一年を前期・後期に分けて行われる。二単位である。それでも、看護学部においては必修科目、文系学部では選択科目となっていて、多くの学生が履修登録してくる。2005年4月から担当して、通算では三千名ほどの学生が吉田松陰論を履修した。
優秀な成績者には、解答文をコピーして返却し、無言の最優秀者であることを示唆することにしている。その毎期の最終回の講義の終わりには、『吉田松陰論の授業終了にあたって』と題した、短い文を配布する。吉田松陰の『送る叙』にあやかったわけではないが、話すのと、印刷物を配布するのでは印象が異なる。良き社会人となることを願っての、来し方の私の人生経験から学んだ、人としての大切なことを箇条書きにしたものである。以下、それを書き写します。

学生諸君へ

吉田松陰論の授業終了にあたって
担当 長谷川勤

半年間、15回にわたって諸君と一緒に「吉田松陰論」を勉強してきました。
本学の講座においては、出来る限り吉田松陰の原典に触れる(書き下し)ことを心掛けてやってきました。そのため、原典(書き下し)や諸史料を作成して学生諸君に配布しました。これは、吉田松陰を知る上で最も大切なこと、との考えによるものでした。
本日で、今年度の授業を終了します。終わりに当って幾つかの諸君へのメッセージを記します。これを胸に、人生の糧として歩んでくれたら私の喜びはこの上ないものです。

1、 吉田松陰とは、どのような人物であったか?(松陰の行動や思想、時代背景と認識等)
2、 吉田松陰と現代をリンクして考えてみる。(吉田松陰の現代的意義は何か)
3、 私立大学の建学精神を考える時、松下村塾と松下村塾記の精神は大変参考になります。
松蔭大学の建学理念(知行合一)や精神を忘れずに、卒業生として今後の生きる誇りを持って社会人になって欲しい。特に吉田松陰から学んだものは、大切に願いたい。

大学生活と社会人になるに当って
1、 健康第一(但し、健康管理は、原則として自分でやるもの。)万一、健康を損った場合に備えて、自分の主治医を作ること。必ずしも大病院でなくてもよい。定期的に健康診断をして下さい。(企業に入ると、年一回ありますが、これは必ず受けてください。)
2、 大学生活を楽しく有意義に過ごすコツは『よく遊び、よく学べ』と昔から言われる通りです。たくさんの人と交わって、色々な経験をし、広い視野を持ってください。
3、 よき友人、よき師を持つよう心掛けて下さい。これは社会人になっても同じです。
4、 人は、一人で生きられません。皆で助け合って生きるのが人間です。ですから、自分をとりまく人を大切にしてください。遠くの親戚より近くの他人と云う言葉もあります。
5、 社会人になって特に大切なことは、約束したことは必ず守る事です。万一約束を違える時は、勇気を持って事前に相手に説明し了解を求めて下さい。(信頼関係の基本です)
6、 『報告・連絡・相談』は社会人として仕事をして行く時は、必ず実行してください。略して「報(ほう)・連(れん)・相(そう)」と言いますが、仕事の目的、意味を明確に知り、お互いに協力関係の下で仕事する時に非常に大切なことです。仕事は、挨拶から始まることも忘れずに!
7、 企業はよくなるのも、悪くなるのも構成する社員の質、仕事の質です。会社員なら自分の担当する仕事に精通することです。自分が会社をよくして見せる、の気概を持って取り組んでください。それが信頼される企業人の条件です。         以上


『楫取素彦頌徳碑』文
【2019/02/01 22:02】 エッセイ
前群馬県令楫取君功徳碑
今元老院議官、楫取君之令于群馬県也、勤倹以涖下、忠誠以奉上、休養民力、宣布徳教、風移俗易、君已去、而土民翕然、謳唫弗已、合辞謁予、以功徳之碑為請、且曰、上野自古称難治、其民剽悍軽佻、臨時躁急、無老成持久之実、君初至、首張学政、以示教化之不可忽、而世方模仿泰西学術、専偏於智育、可以剽軽之俗、其極竟為虚誕妄進、犯上凌長之風漸長、君病之、導以忠厚質実、痛矯其流弊、無幾、朝議更革学制、以徳育為最、智育体育次之、略如君所経画、衆始服其先見焉、十二年学制復変、世謂之自由教育、君固執不可、既而地方教育果然解体、君独免其害、官亦卒復旧制、凡君之於学事、以身率先、毎郡吏詣庁、必先問学事、然後及他、郡吏亦至以其興衰、為喜戚、君又用心於農桑、謂富強之術、在殖国産、県尤以養蚕称、而繭糸輸出海外者、悉仮于外人、不能自往市易、其利多為外人所壟断、君募県民有材幹者、投私財助其資、航海直輸、群馬繭糸之名、頓噪海外、邦人直輸、実発端於此矣、其他設社倉、以諭蓄積之急務、奨励医学、以拯県民之疾病、捜訪古蹟、以彰先哲之逸事、諸如此類、不一而足、曾過邑楽郡大谷林者、松樹鬱茂、連互数十町、昔時、上杉氏遺臣、大谷休伯所植也、君仍自往、見其遠孫某、於一陋屋中、称以祖先功労、旁観者
為泣下、又言、君之在任十余年、居常倹素、出入不駕馬車、家惟修繕旧屋耳、而居之晏如、県民慕君、如慈父母、臨去老幼遮路乞留、送者数千人、不勝惜別之情、嗚呼、如君真不愧古之良二千石者歟、因頌以辞、其辞曰、詩詠甘棠、千載流芳、書掲風草、万古斯光、振民育徳、顕幽闢荒、彜倫已明、蔚起校庠、男服於耕、婦勤於織。老安少懐、既衣既食、有義有方有、理平訟息、興誦唶唶、噫是誰力、遺愛在里、何須生祠、頌美無已、茲見隆碑。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹

前群馬県令楫取君功徳碑
今の元老院議官、楫取君の群馬県に令たるや、勤倹以て下に涖(のぞ)み、忠誠以て上に奉じ、民力を休養し、徳教を宣布して、風移り俗易(か)はる、君已に去るも、而るに土民翕然(きゅうぜん)として、謳唫(おうぎん)すること已まず、辞を合せて予に謁(つ)げ、功徳之碑を以て請と為す、且つ曰く、上野は古へ自(よ)り難治め難しと称し、其の民剽悍(ひょうかん)軽佻(けいちょう)にして、事に臨んでは躁急、老成持久之実し、と。
 
 君初めて至るや、学政を首張して、以て教化の忽にす可からざるを示す。而るに世は方に泰西の学術を模仿し、専ら智育に偏る。加ふるに剽軽の俗を以てす。其の極は竟に虚誕妄進を為し、上を犯し長を凌ぐ風漸(ようや)く長ず、君、之を病み、導びくに以忠厚質実を以てし、痛く其の流弊を矯(た)む。幾ばくも無く、朝議、学制を更革し、徳育を以て最と為し、智育・体育之に次がしむ。略(ほぼ)君の経画する所の如し。衆始めて其の先見に服せり。十二年、学制復た変はり、世、之を自由教育と謂ふも、、君固執して可とせず。既にして地方の教育は果して然り、解体す。君独り其の害を免れ、官も亦卒に旧制に復す。凡そ君の学事に於ける、身を以て率先し、郡吏の庁に詣(いた)る毎に、必ず先づ学事を問ひ、然る後に他に及ぶ。郡吏も亦た至以其の興衰を以て喜戚と為すに至る。
 君又心を農桑に用ゐ、謂富強之術は、国産を殖やすに在りと謂ふ。県尤も養蚕を以て称せらるるも、而るに繭糸の海外に輸出する者は、、悉く手を外人に仮り、自ら往きて市易する能はずして、其の利は多く外人の壟断する所と為る。君、県民の材幹有る者を募り、私財を投じ其の資を助けて海を航り直輸せしめ、群馬繭糸の名、頓に海外に噪(かまびす)し、邦人の直輸は、実に端を此に発せり。
 其の他、社倉を設けて以て蓄積の急務を諭し、医学を奨励して、以て県民の疾病を拯ひ、、古蹟を捜訪して、以て先哲の逸事を彰す。諸もろ此の如きの類は、一にして足らざるなり。曾て邑楽郡の大谷林なる者に過(よ)ぎるに、松樹鬱茂し、連なること数十町に互る。昔時、上杉氏の遺臣、大谷休伯の手づから植えし所なり。君仍ち自ら往きて、其の遠孫某に、於一陋屋の中に見ひ、称ふるに祖先の功労を以てす。旁に観る者、為に泣下る。
 又言はく、君に任に在ること十余年、居常倹素にして、出入するに車馬に駕せず、家は惟だ旧屋を修繕するのみにて、之に居ること晏如たり。
 県民の君を慕ふこと、慈父母の如く、去るに臨み、老幼路を遮りて留まらんことを乞ひ、送る者数千人、惜別の情に勝へず、と。嗚呼、君の如きは真に古の良二千石に愧ぢざる者か。因って頌ふるに辞を以てす。
其の辞に曰はく、詩に甘棠を詠じ、千載芳を流す。
書に風草を掲げ、万古斯れ光く。
民を振はし徳を育くみ、幽れたるを顕し荒れたるを闢く。
彜倫已に明らかに、蔚として校庠を起こす。
男は耕に服し、婦は織に励む。
老は安んじ少は懐き、既に衣あり既に食あり。
義有り方有りて、理平らぎ訟へ息む。
興誦唶唶たるは、噫是れ誰の力か。
遺愛里に在れば、何ぞ生祠を須ゐんや。、
頌美已む無く、茲に隆碑を見る。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹


『碩学・我妻栄博士』の総理大臣への引退勧告
【2019/01/20 18:43】 エッセイ
これは、ある方のブログを転記したものです。転記した理由は、私自身は記憶は定かではないが、聞いたことがあり、それが忘れられなかったからです。時の総理大臣に対して、学友(同期生)とはいえ勇気ある発言に敬意を表するのみです。
とりわけ、私は上杉鷹山が大好きで、その鷹山が藩主時代に創設した米沢興譲館の生んだ偉人が、我妻栄博士なのである。
この勧告通り、岸信介は引退した。
立派な先生です。
以下、転記であり、私はこのブログに出会えて気持ちが高揚した。

190114我妻栄博士




>我妻は、明治から大正にかけ、一応の形成を見た民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、今日の民法学の基礎を固めたが、『民法講義』は五部まで刊行され、死去の年まで完成を見なかった。他方、そのライフ・ワークとして「資本主義の発展に伴う私法の変遷」というテーマのもとに、『近代法における債権の優越的地位』『経済再建と統制立法』を発表している。

>日米安保条約が批准された昭和35年6月7日、朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という我妻の手記が発表された。かつての学友の岸は、敗戦で戦犯となり巣鴨刑務所に入ったが、その時我妻は、友人として釈放の嘆願書に名前を連ねた。が、安保条約の是非で二人の意見は完全に分かれてしまった。

>「君は定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前君はドイツと組んで、中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもないあやまりだったのです。君はまた同じあやまりを繰り返しているように、私には思われてりつ然とします。今日君に残された道は、ただ一つ、それは政界を退いて、魚釣りの日を送ることです。」

>真の良識と勇気の言言句句である。岸信介は安保条約が成立すると政界を去った。一国の首相も、賢哲の英知の前にはシャッポを脱がざる得なかったのである。

>昭和46年4月には、裁判官の新・再任拒否、修習生の罷免という最高裁がとった一連の処分について、我妻は、「最高裁に望む」という論説を発表し、その血も涙もない形式論理をつき、「最高裁は、せめて再任拒否と不採用の理由を明示すべき」ことを訴えた。

>この岸総理退陣勧告といい、最高裁に対する警告の文面といい、そこには我妻の控え目ながら、学者としての使命感と社会的役割の自覚が躍動している。

安倍首相の一族(岸信介、佐藤栄作)、血縁の安倍一族は、日米安保に関わりが深い。また、強攻策を常套手段とすることにも通じるものがあるようにも思います。2人の元首相(兄弟)は、国会内の強硬手段のみならず、国会外においても“血を見る”蛮勇を奮ったのだった。…旧安保闘争、新安保闘争(大学紛争)時のことです。この辺りの事情は、今は割愛します。ともあれ、先ずは上記記事を御一読ください。

ところで、安倍首相は、一体彼らに何を学んだというのだろうと感じています。皮相なものでなければ、国民個人個人にとって幸いなのですが、どうでしょう。個人を尊重しない政治・政策・制度(政党を含め)など、私は評価に値しないと思っているからです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士

書斎のある家への憧れ
【2019/01/14 15:47】 エッセイ
「書斎のある家への憧れ」

この記事は、平成二十八年十二月十七日号の『週刊現代』の載った記事である。この前月、ダイワハウス主催のフォーラム『転換期のいま、人材教育は吉田松陰に学べ』に出演後に投稿依頼があったのに応じて書いたものである。1頁に、書斎のイラスト入りで掲載された。

私の生家は群馬の赤城山麓で、八人家族の小農家だった。夕食時、病身の父が「丸いちゃぶ台」の定位置に座り、幼い私達に中国の出征談を毎日聞かせてくれた。夕食時が「勉強兼家庭教育の場」でもあった。後に私と娘が「日本史」の教師となったのもこんなところに起因しているかもしれない。なぜか、今もその光景が懐かしく思い出される。私が大学生の頃『若者たち』という映画があった。それを見た時、私の家がモデルだったのではないかと本気で考えた。
 年長の兄姉が、必死に働いて家計を支えていた。だから、兄姉は高校進学が経済的事情で出来なかった。私も十五才の中卒で上京して会社で働きながら夜間高校に通った。
そして、仕事と勉強と貯蓄に励み、自分で学費を全て工面して大学進学をした。必死に家計を支える兄姉に対しては、自然と家庭内では長幼の序が形成されていた。そうした反面、私たちは全員仲睦まじかった。そうした反面、いつもユーモアの交歓があり、貧しいながらも笑いの絶えない家だった。
私にとって、まさしく「憩いと教育の場」であった。兄姉が競って新聞小説の感想談義をしていた。こうした家庭に育った私は、「読書や音楽を楽しめる書斎のある家」に住みたいという強い願いがあった。
この願いは早くに実現し、私は二十代で自宅を購入した。のびのびと子育てすることができたのはこの家のおかげだ。
数年後に娘から「友達を連れて来られる家」が欲しいといわれて、もう一度踏ん張り現在の家を購入した。ここで念願の書斎を持った。自分専用の書斎で、所せましと本が並んでいる。吉田松陰の研究をしていることから「知行合一書を」を書家に注文して書いてもらい、「大学の恩師」の写真とともに額に入れて飾ってある。恩師は『日本の経済学を築いた五十人』に登場する先生である。
人は生涯に三度家を購入すると念願の家に住めるといわれるが、私は二度である。多少の満たされないことはあるが、それはそれでよしとしている。
現在「さいたま市」に住んでいるが、それは実家に帰省するのに便利であること、子供の通学は自宅からと願っていた結果である。この両方ともに条件が満たせて、子供は小学校から大学まで自宅から通えた。新宿まで電車で三十分の距離だが、近隣には生産緑地としての田畑が残り、埼玉県でも指折りの由緒ある公園もあって、四季それぞれの風景が愉しめる「我が家」だ。
夕暮れには「さいたま新都心」の夜景が美しく眺められる。読書後の日課にしている散歩中もそれを楽しめる、とても良い環境の中で、念願の「書斎のある家」での「楽しい我が家」の生活を満喫している。


【山田生に示す】
【2018/12/19 13:33】 エッセイ
山田生に示す  安政五年(一八五八)六月   二十七才

吉田松陰は、後に日本大学を創設することになる山田顕義に立志の詩を書き与えた。扇に書かれたこの立志の詩は、日本大学にとって至宝となるものであるにちがいない。

181219吉田松陰立志の詩






立志尚特異    立志は特異を尚ぶ、

俗流與議難    俗流は與に議し難し。

不顧身后業    身后の業を顧はず、

且偸目前安    且つ目前の安きを偸む。
    
百年一瞬耳    百年は一瞬のみ、

君子勿素餐    君子素餐するなかれ。

【用語解説】
山田生 = 山田市之充。安政五年春十五歳で村塾に入学した。後の伯爵山田顕義。この詩は、安政五年六月、松陰が扇面に書いて与えたもの。
俗流 = 世俗的な安きに流されるような人物との議論は無意味で、慎むべきだ。
身后 = しんご。死後も長く称えられるような功業を真剣に考えなさい。
偸む = ぬすむ。かりそめにしていい加減にする。真面目に努力しないことへの戒め。
君子 = 努力(修業)して徳を積んだ人物。
素餐 = 功労がなくて徒に禄を食むこと。出典は詩経の魏風。

【意訳】
立志というものは、他人と同じものではなく、自分独自のものを立てるものである。努力
せずに、平々凡々と徒な時間を過ごしている人物を見習っている様ではいけない。後世に
称えられるよう立派に修業する人生を考えて歩みなさい。日々是精進せよ、百年などは瞬
く間に過ぎてしまう。修業を積んで人として立派な道を歩みなさい。


【吉田松陰の死罪察知】
【2018/11/21 10:27】 エッセイ
『尾寺新之丞あて』書簡   安政六年十月十七日   松陰在江戸獄 尾寺在江戸

この書簡は、評定所からの四度目の呼出しの翌日に書かれたもので、松陰は前日の評定所で「口上書書判」を奉行より求められた。既にこの日の十日前に頼三樹三郎、橋本左内が死罪になっている。松陰は、二度目、三度目の取り調べが穏やかであったので、判決を楽観視していた。重くて遠島か他家預け、軽ければ国元蟄居だろうと考えて、門下生に書簡を出していた。ところが、今回は一転して厳しい雰囲気で、口上書に書判せよと迫られる。自白した内容と異なっており、論争になったが、適当に修正したのみで肝心の部分は書き改められていない。一説には老中の判断は遠島であったが、井伊直弼が朱筆で死罪と書き改めたとも言われている。その結果、松陰は「安政の大獄」の最後の犠牲者となるのであるが、この書簡は松陰が死罪を察知した書簡内容として重要なものである。松陰は愛弟子として将来を期待していた高杉晋作が、藩の命令で急遽帰国させられたことを知らない。二度目の小伝馬牢入り(安政六年七月九日)してからは、高杉晋作が何くれと無く松陰のために尽くしてきたのだが、この書翰の一週間前に高杉が帰国。実は、高杉の親が松陰との接触を嫌って、藩政府(江戸藩邸の官吏)に働きかけ、たのである。実は、この一年あまり前に、高杉が江戸遊学を果たしたのも、松下村塾に通う晋作を松陰との接触を断たせるために江戸修業の名目で引き離したのである。このことを松陰はしらない。そのため、高杉がいなくなったので、尾寺新之丞宛てに書いたのが真相である。松陰が二度目の野山獄にあったとき、幕府は江戸召喚を桜田の江戸藩邸に命じた。これを持参して、萩に帰国したのが直目付の長井雅楽であった。そして二週間後の安政六年五月二十五日の出発前に書いた【自賛想像画】の賛に記している。【人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず】と、則ち危険人物しされていたことから高杉が松陰と懇意にしていることを親は快く思っていなかった。こうした事情があって、尾寺に宛てて書かれたのであった。しかも、その内容は、評定所の五手掛の判決を、時の最高権力者が遠島から一等すすめて【死罪】にしたのが真相であり、越前の橋本左内は、一橋慶喜の14代将軍就任に松平慶永の命令に従ったことが、反幕府的行為とされたのであった。安政の大獄はこうして、井伊直弼の専横がもたらした悲劇であり、その根は徳川斉昭と井伊直弼との対立関係が背後にあったのである。そうして、反幕府思想、尊攘派を一網打尽に処した。松陰は、この背景を知らずにいた。以下、全集より転記して見る。

180404箱崎公園の吉田松陰像181121江戸伝馬町牢御豚場跡181121吉田松陰終焉の地碑




一翰呈上仕り候。私儀昨日呼出しにて口上書書判仕り候。然る處存外の儀ども之れあり、今更當惑は仕らず候へども、屹と覺悟仕り候。最前七月九日入牢の説申し立て候内、間部侯在京の節同志連判罷り登り旨趣申立て度き段取工(たくら)み候へども、事未だ遂げずして國元にて入牢仰せ付けられたる段申立て候處、三奉行席を改め、多人數連判せしは御取用ひ之れなく候へば刃傷にも及ぶべき存念なるべし。軽からざる御役人へ對し大膽至極なり、覺悟しろ、吟味中揚屋入り申付くるとの事なり。此の時は小生も勿論覺悟致したり。其の後九月五日呼出し色々御吟味之れある内、先日必死の覺悟にて上京仕るべ段相計り候が、必死と云ふ所今一應詳かに申出づべしとのことに付き、七月九日に刃傷にも及ぶべき存念なるべし仰せ懸けられ候に付き、その段申し開くべき儀に候へども、揚屋入り仰せ付けらるとて御引落しに相成り候儀に付き、又重ねての御吟味の節と思ひ延し罷り下り候。全體必死と覺悟仕り候故は、蟄居の身分にて是れ等の儀取計ひ候上は勿論事敗露する時は一死國に報ずる外之れなくと申す譯にて、人情に及ぶと申す儀には全く之れなき趣申立て聞取りに相成り候。其の後昨十六日口上書讀聞せを承り候へば、下総殿へ趣旨申立て御取り用ひこれなき節は刺違へ申すべく、警衛人數相支へ候はば切拂ひ候て御輿へ近づき申すべく云々の趣。之れに因り小生云はく、刺違へるは思ひも寄らず、切拂ひと申す事も志に之れなき事、口に云はざる事と大いに辯争致し候所、然れば下れ、後に又申し聞けることありとのことなり。左候て総人數、口書相濟み候後又々呼出しに相成り又讀聞かせの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。僕又大いに辯争致し候所、遂に口上の事はどちらへ違うても罪科の軽重に預る事に非ざれば、迚もの事に其の方の申分通りに致し遣はすべし、併し他の文言に存念なきかとて、末文の所兩度御讀聞せ之れあり候故、志になきことは口に發せぬ事は何分にも一字も受け難く、仰せ懸けられ候儀何ぞ敢て拒まんと申し、書判致し候。末文の處「公儀に對し不敬の至り」と申す文あり、「御吟味を受け誤り入り奉り候」と申す文あり。迚も生路はなきことと覺悟致し候。右初日七月九日と昨日と三奉行出座なり。九月五日と十月五日とは吟味役出座なり。吟味役寛容の調べは全く無用に僕をだました計りにて、石谷・池田其の外最初見込みを付けた所は首を取る積に相違なく、刺違と切拂との四字を骨を折って抜き候へども、末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。不敬の二字餘り承り馴れざる文なれども、不届など云うよりは餘程手重き事に考へれれ候。鵜飼や頼・橋本なんどの名士と同じく死罪なれば、小生においては本望なり。昨日辯争に付いては隨分不服の語も多けれども、是れを一々云ふも面白からず、只だ天下後世の賢者吾が志を知って呉れよかし。
右の趣一寸御報知申上げ候。この書は御一見御返し頼み奉り候。下に委細申上げ候。以上。
     十月十七日                         寅二拝

昨日金六方まで御出で下され候趣、尾君か、高君か。金六より詳に承るに暇なし。然る處今日又々御出下され候由に付き此の書を認め候。○高君十五日定めて御出足とは存じ候。是れ亦御知らせ下さるべく候。○高君御出立後なれば小林の書は此の方へ御返し候とも宜敷く候。○小生昨日口上書書判仕り候。委細の儀は申上げ兼ね候へども存外の儀之れあり、迚も軽典には参らざるに付き屹と心中に覺悟の處後日申上げ候様仕るべく候。いづれ十日を出ず落着と存じ候。○五日程同居致し候(阿部十郎家来なり、神田橋外なり。勝野保三郎昨日申口相立ち出牢相成り候。此の人勝野豊作の弟にて行年二十二、才氣ありて純粋なる男子後来頼母敷く、去年以來在獄にて、僕投獄已來時々音信致し候へども未だ心事を盡さず候處、四五日同居、大いに學事を論じ懸け候所出牢残念なり。此の人の事御物色下さるべく候。○別紙の趣、飯田兄へ一と周旋御願仕り候。出來難く候へば強ひて願ふにも非ざれども、何卒かく致し度くと申す事に御座候なり。
      十月十七日                      松陰拝
  尾新兄  足下  


【大義を議す】 ー松陰の討幕文稿ー
【2018/10/22 13:45】 エッセイ
大義を議す
    (戊午幽室文稿)安政五(1858)年七月十三日

まず、原文を記す前に、私の解説的なことを少し書きます。この年、幕府は天皇の合意無きまま「日米修好通商条約」に調印。大老「井伊直弼」は就任時に二つの大きな解決すべき問題を抱えていた。一つは、将軍家定の後継をめぐって一橋慶喜か紀伊の徳川慶福(後の家茂)の決定を迫られていた。もう一つは、この日米通商条約の勅許問題である。結果として、将軍継嗣問題は紀伊の慶福と決定した。朝廷工作に当たっていた一橋派の英邁な将軍の実現をという願いは、井伊を始めとする「溜間詰」派の推す慶福の世子実現で決着。条約締結は、ハリスに押されまくった交渉で追い込まれた、やむを得ない措置として調印。しかも無断勅許である。これに怒った松陰は掲題の小論を書いた。此の書は『討幕』なる語が初めて出る論文で、松陰がラジカルな方向へ急旋回する重要なものである。文中『征夷は天下の賊なり・・・勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』という激しい語が並ぶ。松下村塾も「政治結社」化していく。以後、松陰は政治的決起のプランを矢継ぎ早に打ち出すことになる。尊王開国からペリーの砲艦外交に屈した時、攘夷へと変容、さらに無断調印で遂に松陰は「尊王討幕」へと変わる。安政五年という年は、幕末前半期では一つの大きな節目となった。

では本文に移ろう。

墨夷の謀は神州の患たること必せり。墨使の辞は神州の辱たること決せり。ここを以て天使震怒し、勅を下して墨使を絶ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(しゅくしゅく)として遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず、傲然(ごうぜん)自得、以て墨夷に諂事(てんじ)して、天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず。是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(ちゅうりく)して、然る後可なり、少しも宥すべからざるなり。
近世功利の説、天下に満ち、世を惑わし民を誣(し)ひ、仁義を充塞す。或は大節に遭ふも、左右の狐鼠、建明する所ある能はず。違勅の國賊を視るに、猶ほ強弱勝負を以て説を立て、断然其の罪を鳴らして之れを討つこと能はず。甚だ悲しむべからずや。試みに洞春公をして今日に生まれしめば、其れ之れを何とか謂はん。夫の陶賊は特(た)だ其の主に叛けるのみ。洞春公ほ且つ聴かず。今征夷は國患を養ひ、國辱を貽(のこ)し、而して天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。然らば則ち陶なる者は一國の賊なり、征夷は天下の賊なり。今措きて討つたざれば、天下の万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に享けんや。
井伊直弼24.3.25ハリス170331正装の吉田松陰


義を正し道を明かにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教へたる所以なり。勅を奉ずるは道なり。逆を討つは義なり。公侯夫士、生まれて此の時に際ひ、苟も道義に違ふことあらば、猶ほ何の顔面ありた聖賢の書に対せんや。士大夫の志たる、死生甚だ小にして、道義甚だ大なり。道に違ひ義に戻り、徒爾に生を偸む、何の羞恥かこれに加えん。乃ち國家と雖も亦然り。不道不義、以て一日の存安を謀るは、君臣以下、義に仗(よ)り道に徇(したが)ひ、以て始終を全うすると孰れぞや。
然りと雖も、英雄の事を謀るや、未だ必ずしも利害を計較(けいこう)せずんばあらず。事義にして利に合はざるときは、固より将に之れを為さんとす。況んや事已に義にして、又利に合ふ、何を憚ってか為さざる。当今幕府の謀、蓋し諸侯を疑ふこと墨夷に過ぐ、而して墨夷を畏るること諸侯より甚だし。謂へらく、諸侯を役して墨夷をうつも、墨夷未だ滅すべからず、而して諸侯去らん。墨夷を仮りて諸侯を制せば、諸侯制し易し。而して墨夷夷未だ必ずしも叛くかずと。是れ征夷の謬計なり。今諸侯は坐して征夷の為すに聴(まか)せ、而して少の異忤をも為さず、其の禍の底止する所、其れ寒心すべきのみ。今日吾が藩断然として大義を天下に唱え、億兆の公憤に仗らば、征夷もとより内に孤立し、而して墨夷も亦外に屈退し、皇朝の興隆、指を屈して待つべきなり。然れども其の初めに当たること、蓋し戞々乎(かつかつこ)として難きかな。而して一、二難の後は、復た甚だ難からざるなり。吾れ切に恐る、当路の君子、一、二難の忍ぶ能はずして、大義を亡失し、征夷と其の亡を同じうせんことを。故に今日の務めは大義を明らかにするに在り。
大義已に明かなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当に再四忠告して、勉めて勅に遵はんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまはず、征夷翻然として悔悟せば、決して前罪を追咎(ついきゅう)したまはざるなり。是れ吾れの天朝・幕府の間に立ちて、之れが調停を為し、天朝をして寛洪に、而してばくをして恭順に、邦内をして協和に、而して四夷をして懾伏(しょうふく)せしむる所以の大旨なり。然れども天下の勢い、万調停すべからざるものあり、然る後之れを断ずるに大義を以てせば、斯(すなわ)ち可なり。
当今吾が藩は君臣明良にして、大義赫々、復た是れ等の議を煩はさざるなり。然れども寅の身幽囚に在りて、廟議を聞くことを得ず、ここを以て丁寧此に至る。伏して惟ふ採察せられんことを。  七月十三日
吾れの國家に建白するや、極めて機密なりと雖も、極めて急遽なりと雖も、未だ嘗て稿を存せずんばあらず。謂へらく、機密の策、急遽の事、成らば則ち功あり、敗れば則ち罪あり。万一為すべからざれば、則ち請ふ此の巻を携へ、身を以て罪に当たらんことを。幸にして事ここにいたらざるも、亦以て後人の稽考に資するに足ると。是れ稿を存するの本意なり。而るに口羽徳祐以て然りと為さず。其の意を察するに、文を以て之れを視、余を咎むるに國事を以て文料と為すものの如し。嗚呼、人の心は面の如し、誰れか其れ之れを同じうせん。偶々宋記を讀む、鄒浩、立后の事を諌め、随って其の稿を削る。陳瓘曰く、「禍は其れ茲に在るか。異時奸人妄りに一稿を出さば、弁ずべからざらん」と。後、蔡京果して偽疏を為(つく)り以て之れを出すと。嗚呼、士君子は禍福徳喪、何ぞ其れ計較する所ならんや。然れども稿を削りて陰禍を得るは、何ぞ稿を存して顕罰を蒙るの俯仰(ふぎょう)に愧なきに如かんや。此の稿数十篇、吾れ重辟(じゅうへき)を得ると雖も、誓ってその隻字をも削らざるなり。己未三月三日、これを余白に書す。





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