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『子遠に語ぐ』安政六年一月
【2019/08/03 14:25】 エッセイ
子遠に語ぐ  
(己未文稿野山日記)  安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に来り、船越清蔵.村田蔵六、萩に来るの事を談ず。

170331正装の吉田松陰160621松下村塾塾舎150405野山獄小



    ○
  子遠に語ぐ  正月念七夜
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。
汝其れ之れを察せよ。防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。
然らば則ち防長唯だ汝一のみ。切に自ら軽んずるなかれ。

汝、国を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隠すの便あり、三には生活の計あり。
且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅学も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
兵は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。
切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶背ば即ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。
但し今日の時勢、宜しく佳賊となるべし、切に無頼の賊となるべからず。
徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。
然れども仁既に至らば則ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。
天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。
此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。
草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。
天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。
吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聴かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聴かずんば則ち干戈を用いて可なり。
是れ亦仁至り義尽くるの論なり。汝識高く胆大、吾れの愛敬する所なり。
恨むらくは才足らず、学尤も足らず、怨讎の気過当なり。是れ汝の病なり。
必ず荘四を罪せんと欲するが如き、是れ過当の怨讎なり。
然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。
才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。
戎馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ、真心実意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

知行合一24.3.30伝習禄



吾れ曾て王陽明の伝習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。
向に日孜に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。
然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の学の真、往々吾が真と会ふのみ。

今の世界、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。
吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ、敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。
諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。
是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。
是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしかを思量すべし。
(余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚真実を以て世々相伝ふ。

ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。
之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。
旧友は前書に略ぼ之れを言へり。新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。
但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。
然れども両暢夫相抗すれば必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れ桂と一言せしに、桂も之れを首肯せり。
無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些の才あり。是れ大いにその気魄を害す。
気魄一たび衰へば識見亦昏む、歎ずべし歎ずべし。諷するに老屋の説を以てせば、或いは一開発あらんか。
抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒の事の如き、八十.子楫.無咎、各々諌書あり。
その懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。
試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの慮短きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。
嗚呼、鐘子期遇ひ難しとは其れ唯だ無逸か。実甫の才は縦横無碍なり。
暢夫は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。
然れども自ら人に愛せらるるは潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当に此の三人を推すべし。
八十は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。所謂、布帛栗米なり、適くとして用ひられざるはなし。
其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。
吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を持ってすべからざるなり。
子楫は鋭邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌すことあらば、駟馬もこれに及ばず。
吾れ平生最も愛する所は子楫.無逸なり。無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭(きえい)なるを愛す。
皆その己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或いは平にすること能はざらん。是れ其の敬すべき処なり。
子楫は其の頑なし。然れども気自ら恃むべし。且つ子楫は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。
是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。
福原は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子楫の鋭気(えいき)愛すべきに如かず。
然れども其の頑固自ら是とする処は子楫及ばざるなり。
無窮は才あり気あり。一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。
無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節に臨みて、亦苟も生きざるなり。
子徳は満家俗論にして、恐らくは自ら持すること能はざらん。然れどもその正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ。
子大は俗論中に在りて、顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし。
日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。
天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。
誠に李卓吾の如きを得て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。
吾が交友中に於いて暢夫.日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。
嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。
大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。
吾が交友中、言ふに足る者なし。
汝の知る所は仙吉.直八.松介.伝之輔.小助.太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢(ゆうかん)にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
然れども大識見大才の如き、恐らくは亦ここに在らず。
天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。

吉田松陰は二度目の野山獄にあって、門下生との交友も行き詰まり状態となった。
江戸では、井伊直弼の指揮する【安政の大獄】が吹き荒れていた。
これを書いていた頃の松陰は孤独であった。唯一、恩師に着いてくるのは入江杉蔵兄弟であった。
この文稿は、松陰が松下村塾の門下生をどのように評価していたかを知る、貴重な文献である。
桂小五郎が、松陰と門下生との交信を断ち切らせたと冒頭にある。
また陽明学についても、すこぶる味あるを覚ゆ年ながらも、陽明学とではないと言っている。
「万々心に当ると」といっている。
一連の門下生評価は、松陰がどのように見ていたかがしれて大変興味深い。
高杉への評価が抜群なのは、松陰死後の活躍を見ても、松陰の人物評価が確かであったと言えるだろう。
【他人の駕御を受けぬ高等の人物】や【新知の暢夫識見・気迫他人及ぶなし】等と松陰の表現は独特で面白い。


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『J 万次郎の軌跡』
【2019/07/31 21:34】 エッセイ
『漂巽紀略』ージョン万次郎漂流生活記(河田小龍記)ー
昨年末に講談社学術文庫から『漂巽紀略』の現代語訳が刊行された。半年間で大変な売れ行きで増刷となっている。
西欧では第一次産業革命の進展の成果が市民生活に変革を及ぼしていた。天保八年、土佐の漁師五人とともに漂流し、運良く米国捕鯨船に救助されて米国での生活は十年の長きにわたった。
万次郎さんはホイットフィールド船長にその才覚を見出された(養子となる)ようです。
漂流した五名のうち万次郎だけが捕鯨の仕事で世界を航海して様々な見聞を広めた。
このことが海外渡航禁止の徳川政権下にあって、生き延びることはもちろん、世界の大勢や米国の政治システムを体験的に識ることになる。
それは鎖国日本にとって、得がたい世界情報となって罪人どころか、れっきとした「土佐藩士」となり、さらに「幕臣」となる。
さらに、万延元年の咸臨丸での太平洋横断の一行に加わり、堪能な英語力を駆使して漁民から三段階特進となって日本に為に尽くすことになる。そうして米国生活体験が、当時の日本人達にとって貴重な財産となるのである。
その体験を河田小龍が取調に立ち会って聞取り、纏めたものが『漂巽紀略』である。
これは、後に日本が世界史の舞台に引き出されて『世界に伍して』いく針路ともなった。
幕府の老中をはじめ、鎖国体制下の情報不足を思い知らされることになるが、長崎では幾つかの事件を経験している。
それが有名な「フェートン号事件」である。時の長崎奉行が責任をとって自決したのは情報不足の悲劇としかいいようがない。
結果としてペリー来航後に万次郎の知識が国家的に必要となるばかりでなく、世界認識に思いを致した坂本龍馬の世界観に影響を与えたと云われる。
いま、土佐清水市に【ジョン万次郎資料館】が建つ。幕末期に彼の体験とそれの基づく知識は、国家的見地からも大いに嘱望されたが、不幸にして明治四年に脳溢血を患い、幸いにして一命はとりとめたものの再度の脳溢血で死去した。
明治維新後の万次郎の消息がプッツリと途絶えたのは、かれの健康上の理由があったのである。
幸い、長男の東一郎さんが明治期に医学者として活躍し、その子息も活躍し世に裨益してくれたことを我々は感謝しなければならないと思うのである。

190802ジョン万次郎190730川田小龍190730漂巽紀略




望郷の念止みがたく帰国した直後にペリーの来航となり、密出国転じて世界を見聞した情報が幕府要路や開明的な諸侯から罪人どころか藩士・幕臣へと待遇が三段跳びの栄達となる。
特異な運命は幕末期に重要人物になった。有名な咸臨丸の太平洋横断の航海に、万次郎は通訳・技術指導員として随行する。
明治二年には新政府より、『開成学校』(現東京大学)の教授に任命され、翌年にはヨーロッパで起った「普仏戦争」の視察団として派遣される。この帰路に、恩人であったホイットフィールド(フェアヘーブン在住)を訪問し、再開を果たす。
まさに劇的な生涯を送った一である。明治四年の脳溢血を経験して、以後静かな余生を送ったとされ、明治三十一年に、再度の脳溢血を発症して七十一年の生涯を閉じた。子息は明治医学界でも活躍(東大医学部卒・中浜東一郎)する。
北里柴三郎の伝記を読むと、東一郎さんが登場する。
その東一郎さんの子息が『中浜万次郎の生涯』という本を書いている。

『近代日本と独逸医学の導入』
【2019/07/01 21:32】 エッセイ
明治政府が独逸医学を導入した理由

佐賀藩士・相良知安は、藩主・鍋島閑叟の侍医であった。明治新政府は西洋医学の採用を決めたが、戊辰戦争におけるウィリスの活躍からイギリス医学の採用が当然視されていた。
医学政策の責任者でもあった山内容堂は、自らもウィリスの治療によって治癒したことから、イギリス医学およびウィリスへの個人的信頼もあってウィリスに一任してイギリス医学でよいと考えていた。
戊辰戦争におけるウィリスの献身的な治療とその実績は新政府内でも高く評価され、新政府内ではそれに異論を唱える者はいなかった。
したがって、明治二年に相良知安と岩佐純(越前藩士・春嶽の侍医)が医学行政官(医学校取調掛)に任命されるまでは、廟堂においてはイギリス医学の導入は決定したも同然であった。

190703相良知安2


相良は幕末期に佐賀藩において蘭学の習得をし、さらに佐倉にある佐藤尚中の順天堂に留学した。
二年後に長崎の精得館で蘭医のボードウィンについて学んだ。オランダ医学は、江戸期を通じて唯一の通商国であったことから日本で西洋医学の導入・貢献があったが、実はドイツ医学のオランダ語版がわが国に紹介されたのであった。
西欧社会の国勢は斜陽のオランダに変わって、新興のドイツが躍進していた。オランダは西欧社会において17世紀のような隆盛は既になく、イギリスやフランスに遅れをとり、ドイツにも抜かれていたのであった。
幕末期に東洋への進出が遅れたドイツは、日本でもそうしたオランダの凋落した実情を知悉している人物は稀であった。
相良は修業期間中に、ドイツ医学こそ世界に冠たるものであって、国家百年の計の観点からすればドイツ医学こそ採用すべきであるとの確信を抱くに至った。
更に、特別の利害が絡まぬフルベッキのドイツ醫學への高い評価を聴いて、いよいよ独逸医学への信頼を抱くに至る。
ここから、相良と岩佐の医学校取調掛の二人は精力的に独逸医学の採用に向けて精力的に動き出す。
相良の論は、あくまで独逸医学が世界水準での一頭地を抜く存在であることから、私情をを挟まぬ科学的根拠を基にしたものであって、山内容堂の政治的判断とはその論拠が違っていた。
当初は殆どイギリス医学採用方針が決まりかけていた新政府の要路者を説得し、ドイツ医学の水準の高さこそ評価すべきであるとする相良の考えは廟堂の方針を覆すのは困難とみられていた。
しかし、相良の性格もあって精力的な説得工作は、壁に阻まれつつも次第にドイツ医学の優秀性が受容れられる方向に向かった。
当然薩摩や土佐系の人達は相良説に反対で、後に相良は冤罪で入獄となるも明治五年竟にドイツ医学採用の決定を見、相良自身は第一学区医学校長と文部省初代医務局長を兼任する。
この功績から、現在の東京大学構内に昭和10年12月に相良の顕彰碑が建つ。
しかし、相良の妥協しない個性は政府内でも次第に支持者が減少し、間もなく官を辞した。
晩年は不遇の人生を送ることになり、明治39年窮乏のうちに死去する。
新政府での活躍期間は短かったものの、医学行政に大きく貢献した。
現在では、相良の功績や人となりを知る人は、医学関係に携わる人々を除けばごく少数の人といえるだろう。
今日の東京大学の医学部の圧倒的な権威と存在感を考えるとき、短期間ながらの活動でドイツ医学を導入した功績に思いを馳せたいと思うのである。


『吉田松陰と水戸学』
【2019/05/31 15:25】 エッセイ
後期水戸学(天保学)

水戸学は一般には前期水戸学、後期水戸学に分けられる。もともとは二代藩主の光圀の編纂事業である『大日本史』から始まったが、幕末史に影響を及ぼしたのは後期水戸学または天保学といわれるものをさす。
吉田松陰は、嘉永3年、鎮西遊学で新論に接した。ただし、この時は目次の書写程度であった。嘉永四年末から五年正月にかけて、水戸に滞在して新論の著者『会沢正志斎』から親しく講義を受けて、水戸学及び日本の国体の由来を知る。松陰の思想形成に大きな影響を及ぼした。

以下、Wikipediaの説明を転記してみる。
後期水戸学は、第6代藩主徳川治保(はるもり)の治世(1766-1805)、彰考館総裁立原翠軒・たちはらすいけん(1744-1823)を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。翠軒の弟子には小宮山楓軒(1761-1840)、青山延于・あおやまのぶゆき(1776-1843)らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷・ふじたゆうこく(1774-1826)は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」(せいめいろん)を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎・あいざわせいしさい(1782-1863)、藤田東湖・ふじたとうこ(1806-1855)、豊田天功・とよだてんこう(1805-1864)らが、その後の水戸学派の中心となる。

190810水戸弘道館


文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文で、いずれも佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。嘉永2年(1849年)、斉昭の藩政関与が許可される。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

このように、水戸学は主として幕末にあって藩主であった徳川斉昭の教育担当として会沢正志斎が担当したことから、斉昭の強い個性と相俟って多くの人々に知られるようになった側面もある。斉昭の襲封時、門閥派と改革派との確執がその後にも影響を与えたのであった。この門閥派との対立抗争は幕末の最終段階まで続き、水戸藩は多くの人材をこの内訌で失い、ついに明治新政府に要人を輩出できなかった。戊午の密勅の返納をめぐっても対立が続き、安政の大獄で幕府(大老・井伊直弼)から、厳しく処罰され、多くの犠牲者を出した。そのため、井伊大老の暗殺へと発展し、結果として幕府権力の衰退の要因となった。桜田門外の変は、徳川政権の最後の権力維持を目論んだが、かえって衰亡へのみちを開いた。

『嗚呼・山縣有朋』 ー国家を私物視した男ー
【2019/04/30 22:12】 エッセイ
「吉田松陰」の的外れな人物観

近代日本、「明治維新」は国家的な成功例として日本国はもとより、中国の清朝末期にも影響を与えた。
だが、日本は夜郎自大な錯誤の国家間観を抱いてしまった。
西欧が個人の努力の集合体として、英々の努力を積み重ねた結果に気付いたものは『国家と共に生きる』人間の生き方であった。
その国家とは、『人は生まれながらに人権を保証された存在である』国民が造り上げたものが近代市民社会の到来を前提とした、近代国民国家であった。
その意味で、日本の明治維新は三段跳びのような国家を模索したのであった。
人権の何たるかを知らず、始めに天皇制国家ありきの考え方であった。
日本の成り立ちを知って、古代にその範を求めたのであった。
西欧において、王制の専制打破が結果として国民主権という人権思想を求めるうねりが、長い徳川幕藩体制の在り方から、三段飛びのごとくに西欧先進食国からの侵略を排撃できる新国家を模索したのは、ある意味では」致し方ないことであったといえる。
しかし、西欧社会の国民国家への指向は、長年にわたる国民の願望であった経緯を知悉して、西欧に学べ!という大号令とはいささか事情を異にする。
正しい国家間と、それに付随する軍隊は、本来的な意味における国家防衛としての機能を有するという、使命を逸脱してしまい、己の権力のみを指向した山縣有朋の手に因って、いつしか軍事国家への道を歩ませてしまった。
所詮は軍人である。帝国主義時代の背後にある『国家とは何か』を見極めない権力機構を作り上げてしまった。

山縣有朋の犯した罪は大きい。国家権力から糾弾されてしかるべきものである。
どうして、こんな人物が最高権力者に登り詰めたのか?
国権の発動の源泉を知らず、国際社会において、存立することが至上命題と心得ていた狭量な思考が生んだ悲劇に他ならない。
長州が日本の近代国家を創出したのは幻想である。
萩の松陰神社の正門をくぐると、左手に『明治維新胎動の地』と、特筆大書した佐藤栄作の書になる石碑に出会う。
不完全な明治国家を創出した長州藩の努力を、無批判に礼賛したものである。
その所以は、心ある人には『下らない幻影』としての近代国民国家を礼賛するあまり、こうした歴史を直視できない人達にとっては好都合の結果であったのに違いない。

その結果を見よ! 『国破れて山河あり』の状態、すなわち、大日本帝国の崩壊である。
正しい国家間や、それの属性としての軍隊の在り方に固執した姿が、国家(日本国)を消滅に追いやった。
『枢密院議長、元帥陸軍大将、従一位大勲位、功一級公爵』。この墓誌が誰のものであるか?問いたい。
近代日本は、成功した国家との幻影は棄てなければなるまい。

『薩長土肥越水』 ー明治維新のふるさと巡りー
【2019/04/15 11:42】 エッセイ
『明治維新のふるさと』 ー大和魂とはー

6年の歳月と時間を費やして薩摩、長州、土佐、肥前、越前、水戸の幕末維新期の雄藩を現地に踏査しました。
明治維新は何故起ったか?ここをしっかりと押さえないと、現在の日本の姿は正しく理解出来ません。最近の傾向として、『薩長史観』への批判の書が幾つか散見される。だが、ある意味では乱暴な、我田引水的な論調で、感情論もどきの内容である。歴史は、理路整然と矛盾無き姿で進展して行くものではない。時に矛盾を孕みつつ、力の論理で強者が弱者を抹消してしまう場合も多い。
何故、米国の在り方や指示に対して、現在の日本は対米追従の国際外交を日本は行っているのか、この問題をしっかりと理解しておく必要があります。源流は、明治維新の在り方に問題があるのです。近代国家のビジョンを正しく描けていないまま、あるいは有ある部署の台頭と専横によって国家が歪められる。日露戦争後の日本のありかたを見るとき、それが顕著である。軍人または軍政家が恣意的な倒閣を目論み、政治のありかたを歪め軍国主義にはしって亡国を招いたのは、大いに反省しなければならない。その結果は、自国の防衛すら憲法で明記出来ていない、不思議な独立国家となっている。自衛隊員が自国の防衛のためという重大な任務を持ちながら、その存在根拠が憲法に記されていないのです。ハンムラビ法典を持ち出す以前に、当然の国家の在り方が自衛の軍を持てない。その代償はあまりにも大きい。帝国主義の敗北というだけでは語りきれない。

190415家紋毛利家

私の幕末維新史の研究は吉田松陰がメインで、長州(現山口県)には3度も足を運んだ。
初めて萩の街を見た時、それは想像もしていなかった世界でありました。
江戸情緒の風情が残る武家屋敷一帯を散策した時は感動ものでした。
萩城址、松陰神社と松陰生誕地と杉家・吉田家の墓も忘られない。
野山獄、大照院、高杉晋作生家、木戸孝允の生家、萩博物館。萩は美しい街である。
菊屋横町、呉服町あたりの家並みは頭に焼き付いている。
何故に、長州藩が幕末維新史のみならず、現代も総理大臣排出県として君臨しているのか。

これには、村田清風という偉人を知らなければならない。
多くの本を読んでも、村田清風の生き方に異論を唱える人にまだ出会えていない。
当時は藩=国家であった。清風は、狭い情報網の中から現実の世界情勢に対して識見を持っていた。
それ故、吉田松陰が安政元年三月に下田からペリーの軍艦で米国行きを敢行したか。
その命懸けの行為に対して、『これはよいことをしてくれた、これが物事の端緒というものじゃ!』。
といって松陰の行為を高く評価した一人だった。

西欧社会では、18世紀の半ばから、いわゆる『第一次産業革命』が進行していたのであった。
動力や機械の工夫によって、大量生産を実現して安価な商品を販売する、近代経済の萌芽がそこに見られる。
米国が本国たる英国の植民地の人々に、高い税金を収奪していた。
これに対する反発が独立戦争となった。だから、1776年に『独立宣言』がなされる。
人間は生まれながらにして平等なのだ。人権を踏みにじる国家は糾弾されてしかるべきという考え方(思想)であった。

おりしも、こうした近代化への目覚めは、近代合理主義を生み出す土壌を内包していた。
英国で、アダムスミスが、いわゆる『国富論』を刊行したのが、同じ1776年であった。
生産性を高めることが、国富の増進となるということを社会現象の中から見出したのであった。
アダム・スミス、スコットランドの名門大学である『グラスゴー大学』の総長をしていたのであった。
当時は英国と競っていたフランスがパリを中心に、欧州のシンボルとして多くの知識人、政治家が集ったという。
いわゆる『百科全書派の人達』で、ここに多くのノウハウを持った人達が国運の隆盛を願いつつ、人が集まり、情報の発信基地になった。英米仏が世界の指導的地位を築いたのあはこの頃であった。
190415家紋島津家

鹿児島は、西郷人気が圧倒的です。維新展示館や甲突川沿いの加治屋町から維新の元勲が輩出されている意味がよく分かる。城山、照國神社、鶴丸城、尚古集成館等々、あの時代で西洋の技術導入に取り組んだ島津斉彬。名君として地元の人気は高い。西郷隆盛も斉彬ありてこそである。反面、大久保利通は鹿児島中央駅近くの銅像と維新展示館に名前が見られるのみ。歴史上の人物は一方では正しく評価されないけれど、実績・功績も正当に評価してやらないと大久保がかわいそうな気もする。征韓論が正しく理解されないと、西郷を追いやった大久保が悪者になるのだ。決して喧嘩状態では無い。日本の近代化を成し遂げるために、優先順位をめぐっての政策や世界の大勢を知って日本の将来のあるべき姿を追求した大久保。岩倉遣欧使節団の成果は、大久保や木戸らは征韓論(遣韓論が正しい言い方)より富国強兵、殖産興業政策が優先された。その結果『廟堂の敗者』西郷隆盛は大きな銅像のとおり、鹿児島では英雄である。

190415家紋土佐山内家

薩長に比べ、土佐は山内容堂の個性が藩の動きをある面では掣肘している。関ヶ原の後の抜擢への恩顧意識が、公武合体政策から抜け出せなかった。土佐は現代でも、中央に横たわる四国山脈の南側は独特で、その昔、土佐日記に見られるように僻地であった。武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎等々の活躍に負うところが大きい。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は三千万部の出版史上空前の売れ行きが示すように、司馬さんの作品が土佐の地位を上げた観が残る。藩の上層部と志士たちの一体化ができなかった事が、薩長の後塵を拝することになるのはやむを得ないところだ。その意味では山内容堂と島津斉彬を同じ土俵で比較するのは、斉彬に対して失礼だろう。土佐藩が長崎で武器や船舶の購入に、藩をあげて取り組むのは慶応年間に入ってからである。藩主の経綸がしっかりしていないと、志士たちの活動が結果的に徒労に終わってしまう。後藤象二郎が明治以降の活動を通じて有能であったかどうかは疑問が残るところだ。薩長と土佐の功績の溝は限りなく大きいと云わざるをえない。『薩長・・・土肥』と表現するのが正しいのかも知れない。


190415鍋島家

肥前佐賀藩は、藩主の鍋島侯が天保年間に進んだ技術で軍事大国の様相を見せたが、肝心の幕末期に『佐幕思想』から脱却できないこととなった。佐賀城本丸歴史観の職員が、鍋島侯の不人気を嘆いていたのは象徴的だ。しかし、維新以降は優秀な官僚が大隈、江藤、大木、副島等々続出したので、薩長土肥の集まりには参加出来た。しかし、肩身の狭い思いが残るようだ。弘道館に学んだ秀才達は概して能吏型の人物が多いといえる。大隈は『佐賀の七賢人』と云われる群像の中では、最年少であった。総理大臣を二度務め、大久保利通亡き後の政治家で実質上の首相格で明治政府を牽引したが、独逸に範を求めようとした長州派との違いから政界を追われたのは残念である。英国流の議会に範を求めなかった伊藤博文達の政策は正しかったかどうか、もう一度考えて見る必要があるようだ。鍋島閑叟は島津斉彬とは従兄弟の関係にある。薩摩と共同歩調をとれなかったのは、佐賀藩の二重鎖国という特殊な他藩人との交流を持たなかったことにあるのかも知れない。江藤新平などは大久保利通の最も嫌った人物だった。佐賀の乱の鎮圧に向かった大久保利通の行動は、三権分立を越えて、全権委任の下であった。だから十分に調査をすることもなく、葬り去ることに急で即刻処刑してしまったのであった。


190415越前松平家

越前は藩主の慶永の存在無くして語れまい。親藩筆頭の地位にありながら、幕府の屋台骨を支えなければならなかったのは致し方ない。横井小楠を顧問で招聘したことで、慶永は要職を務められたといってよい。しかも、将軍継嗣問題で橋本左内を活躍させたものの、安政の大獄で慶永が謹慎させられ、その間に有能な橋本左内が犠牲になってしまった。しかし、幕末期の重要資料を遺してくれたことで、研究者にとってはありがたい藩の一つである。中根雪江、鈴木主税、村田氏壽、由利公正等々の人材を輩出出来たのも春嶽の功績ながら、地元では『ぼっちゃん』と揶揄を込めた言い方が為されるのは、田安家からの養子で入った事情も勘案しなければなるまい。徳川慶喜との協力関係は、竟に信頼関係を築けず薩長への理解ある態度と徳川政府を擁護しようという思いが、薩長との決定的な違いとなってしまった。越前松平は家康の次男である結城秀康を藩祖に持つので、徳川政権に叛旗を翻せなかったのは、ある意味でやむを得ないかも知れなかった。その点では、会津松平、あるいは尾張徳川家も多少の違いこそあれ、似たような運命にあったと言えるかも知れない。明治の政界で指導者を出せ無かったのは共通していると言えよう。


190415水戸徳川家

最後に水戸藩である。御三家でありながら、天保の改革で突っ走った斉昭が、幕府から時に睨まれ、時に海防参与として揺れ動いた。尊王攘夷の魁けの藩でありながら、『戊午の密勅』で大きく門閥派と斉昭支持はで内訌となり、共倒れで維新期に人材が払底してしまい、維新のばすに乗り遅れてしまった。しかし、斉昭のブレーンだった人達の功績は不運もあるが一定の評価を与えないと明治維新が歪んでしまう。最後に斉昭の七男が徳川の将軍となったことで、貢献は出来たかも知れない。

【松蔭大学】の吉田松陰論
【2019/03/14 13:00】 エッセイ
松蔭大学における『吉田松陰論』は、半期十五回の講義である。そうして一年を前期・後期に分けて行われる。二単位である。それでも、看護学部においては必修科目、文系学部では選択科目となっていて、多くの学生が履修登録してくる。2005年4月から担当して、通算では三千名ほどの学生が吉田松陰論を履修した。
優秀な成績者には、解答文をコピーして返却し、無言の最優秀者であることを示唆することにしている。その毎期の最終回の講義の終わりには、『吉田松陰論の授業終了にあたって』と題した、短い文を配布する。吉田松陰の『送る叙』にあやかったわけではないが、話すのと、印刷物を配布するのでは印象が異なる。良き社会人となることを願っての、来し方の私の人生経験から学んだ、人としての大切なことを箇条書きにしたものである。以下、それを書き写します。

学生諸君へ

吉田松陰論の授業終了にあたって
担当 長谷川勤

半年間、15回にわたって諸君と一緒に「吉田松陰論」を勉強してきました。
本学の講座においては、出来る限り吉田松陰の原典に触れる(書き下し)ことを心掛けてやってきました。そのため、原典(書き下し)や諸史料を作成して学生諸君に配布しました。これは、吉田松陰を知る上で最も大切なこと、との考えによるものでした。
本日で、今年度の授業を終了します。終わりに当って幾つかの諸君へのメッセージを記します。これを胸に、人生の糧として歩んでくれたら私の喜びはこの上ないものです。

1、 吉田松陰とは、どのような人物であったか?(松陰の行動や思想、時代背景と認識等)
2、 吉田松陰と現代をリンクして考えてみる。(吉田松陰の現代的意義は何か)
3、 私立大学の建学精神を考える時、松下村塾と松下村塾記の精神は大変参考になります。
松蔭大学の建学理念(知行合一)や精神を忘れずに、卒業生として今後の生きる誇りを持って社会人になって欲しい。特に吉田松陰から学んだものは、大切に願いたい。

大学生活と社会人になるに当って
1、 健康第一(但し、健康管理は、原則として自分でやるもの。)万一、健康を損った場合に備えて、自分の主治医を作ること。必ずしも大病院でなくてもよい。定期的に健康診断をして下さい。(企業に入ると、年一回ありますが、これは必ず受けてください。)
2、 大学生活を楽しく有意義に過ごすコツは『よく遊び、よく学べ』と昔から言われる通りです。たくさんの人と交わって、色々な経験をし、広い視野を持ってください。
3、 よき友人、よき師を持つよう心掛けて下さい。これは社会人になっても同じです。
4、 人は、一人で生きられません。皆で助け合って生きるのが人間です。ですから、自分をとりまく人を大切にしてください。遠くの親戚より近くの他人と云う言葉もあります。
5、 社会人になって特に大切なことは、約束したことは必ず守る事です。万一約束を違える時は、勇気を持って事前に相手に説明し了解を求めて下さい。(信頼関係の基本です)
6、 『報告・連絡・相談』は社会人として仕事をして行く時は、必ず実行してください。略して「報(ほう)・連(れん)・相(そう)」と言いますが、仕事の目的、意味を明確に知り、お互いに協力関係の下で仕事する時に非常に大切なことです。仕事は、挨拶から始まることも忘れずに!
7、 企業はよくなるのも、悪くなるのも構成する社員の質、仕事の質です。会社員なら自分の担当する仕事に精通することです。自分が会社をよくして見せる、の気概を持って取り組んでください。それが信頼される企業人の条件です。         以上


『楫取素彦頌徳碑』文
【2019/02/01 22:02】 エッセイ
前群馬県令楫取君功徳碑
今元老院議官、楫取君之令于群馬県也、勤倹以涖下、忠誠以奉上、休養民力、宣布徳教、風移俗易、君已去、而土民翕然、謳唫弗已、合辞謁予、以功徳之碑為請、且曰、上野自古称難治、其民剽悍軽佻、臨時躁急、無老成持久之実、君初至、首張学政、以示教化之不可忽、而世方模仿泰西学術、専偏於智育、可以剽軽之俗、其極竟為虚誕妄進、犯上凌長之風漸長、君病之、導以忠厚質実、痛矯其流弊、無幾、朝議更革学制、以徳育為最、智育体育次之、略如君所経画、衆始服其先見焉、十二年学制復変、世謂之自由教育、君固執不可、既而地方教育果然解体、君独免其害、官亦卒復旧制、凡君之於学事、以身率先、毎郡吏詣庁、必先問学事、然後及他、郡吏亦至以其興衰、為喜戚、君又用心於農桑、謂富強之術、在殖国産、県尤以養蚕称、而繭糸輸出海外者、悉仮于外人、不能自往市易、其利多為外人所壟断、君募県民有材幹者、投私財助其資、航海直輸、群馬繭糸之名、頓噪海外、邦人直輸、実発端於此矣、其他設社倉、以諭蓄積之急務、奨励医学、以拯県民之疾病、捜訪古蹟、以彰先哲之逸事、諸如此類、不一而足、曾過邑楽郡大谷林者、松樹鬱茂、連互数十町、昔時、上杉氏遺臣、大谷休伯所植也、君仍自往、見其遠孫某、於一陋屋中、称以祖先功労、旁観者
為泣下、又言、君之在任十余年、居常倹素、出入不駕馬車、家惟修繕旧屋耳、而居之晏如、県民慕君、如慈父母、臨去老幼遮路乞留、送者数千人、不勝惜別之情、嗚呼、如君真不愧古之良二千石者歟、因頌以辞、其辞曰、詩詠甘棠、千載流芳、書掲風草、万古斯光、振民育徳、顕幽闢荒、彜倫已明、蔚起校庠、男服於耕、婦勤於織。老安少懐、既衣既食、有義有方有、理平訟息、興誦唶唶、噫是誰力、遺愛在里、何須生祠、頌美無已、茲見隆碑。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹

前群馬県令楫取君功徳碑
今の元老院議官、楫取君の群馬県に令たるや、勤倹以て下に涖(のぞ)み、忠誠以て上に奉じ、民力を休養し、徳教を宣布して、風移り俗易(か)はる、君已に去るも、而るに土民翕然(きゅうぜん)として、謳唫(おうぎん)すること已まず、辞を合せて予に謁(つ)げ、功徳之碑を以て請と為す、且つ曰く、上野は古へ自(よ)り難治め難しと称し、其の民剽悍(ひょうかん)軽佻(けいちょう)にして、事に臨んでは躁急、老成持久之実し、と。
 
 君初めて至るや、学政を首張して、以て教化の忽にす可からざるを示す。而るに世は方に泰西の学術を模仿し、専ら智育に偏る。加ふるに剽軽の俗を以てす。其の極は竟に虚誕妄進を為し、上を犯し長を凌ぐ風漸(ようや)く長ず、君、之を病み、導びくに以忠厚質実を以てし、痛く其の流弊を矯(た)む。幾ばくも無く、朝議、学制を更革し、徳育を以て最と為し、智育・体育之に次がしむ。略(ほぼ)君の経画する所の如し。衆始めて其の先見に服せり。十二年、学制復た変はり、世、之を自由教育と謂ふも、、君固執して可とせず。既にして地方の教育は果して然り、解体す。君独り其の害を免れ、官も亦卒に旧制に復す。凡そ君の学事に於ける、身を以て率先し、郡吏の庁に詣(いた)る毎に、必ず先づ学事を問ひ、然る後に他に及ぶ。郡吏も亦た至以其の興衰を以て喜戚と為すに至る。
 君又心を農桑に用ゐ、謂富強之術は、国産を殖やすに在りと謂ふ。県尤も養蚕を以て称せらるるも、而るに繭糸の海外に輸出する者は、、悉く手を外人に仮り、自ら往きて市易する能はずして、其の利は多く外人の壟断する所と為る。君、県民の材幹有る者を募り、私財を投じ其の資を助けて海を航り直輸せしめ、群馬繭糸の名、頓に海外に噪(かまびす)し、邦人の直輸は、実に端を此に発せり。
 其の他、社倉を設けて以て蓄積の急務を諭し、医学を奨励して、以て県民の疾病を拯ひ、、古蹟を捜訪して、以て先哲の逸事を彰す。諸もろ此の如きの類は、一にして足らざるなり。曾て邑楽郡の大谷林なる者に過(よ)ぎるに、松樹鬱茂し、連なること数十町に互る。昔時、上杉氏の遺臣、大谷休伯の手づから植えし所なり。君仍ち自ら往きて、其の遠孫某に、於一陋屋の中に見ひ、称ふるに祖先の功労を以てす。旁に観る者、為に泣下る。
 又言はく、君に任に在ること十余年、居常倹素にして、出入するに車馬に駕せず、家は惟だ旧屋を修繕するのみにて、之に居ること晏如たり。
 県民の君を慕ふこと、慈父母の如く、去るに臨み、老幼路を遮りて留まらんことを乞ひ、送る者数千人、惜別の情に勝へず、と。嗚呼、君の如きは真に古の良二千石に愧ぢざる者か。因って頌ふるに辞を以てす。
其の辞に曰はく、詩に甘棠を詠じ、千載芳を流す。
書に風草を掲げ、万古斯れ光く。
民を振はし徳を育くみ、幽れたるを顕し荒れたるを闢く。
彜倫已に明らかに、蔚として校庠を起こす。
男は耕に服し、婦は織に励む。
老は安んじ少は懐き、既に衣あり既に食あり。
義有り方有りて、理平らぎ訟へ息む。
興誦唶唶たるは、噫是れ誰の力か。
遺愛里に在れば、何ぞ生祠を須ゐんや。、
頌美已む無く、茲に隆碑を見る。

   明治二十三年十月        文学博士   重野安繹


『碩学・我妻栄博士』の総理大臣への引退勧告
【2019/01/20 18:43】 エッセイ
これは、ある方のブログを転記したものです。転記した理由は、私自身は記憶は定かではないが、聞いたことがあり、それが忘れられなかったからです。時の総理大臣に対して、学友(同期生)とはいえ勇気ある発言に敬意を表するのみです。
とりわけ、私は上杉鷹山が大好きで、その鷹山が藩主時代に創設した米沢興譲館の生んだ偉人が、我妻栄博士なのである。
この勧告通り、岸信介は引退した。
立派な先生です。
以下、転記であり、私はこのブログに出会えて気持ちが高揚した。

190114我妻栄博士




>我妻は、明治から大正にかけ、一応の形成を見た民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、今日の民法学の基礎を固めたが、『民法講義』は五部まで刊行され、死去の年まで完成を見なかった。他方、そのライフ・ワークとして「資本主義の発展に伴う私法の変遷」というテーマのもとに、『近代法における債権の優越的地位』『経済再建と統制立法』を発表している。

>日米安保条約が批准された昭和35年6月7日、朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という我妻の手記が発表された。かつての学友の岸は、敗戦で戦犯となり巣鴨刑務所に入ったが、その時我妻は、友人として釈放の嘆願書に名前を連ねた。が、安保条約の是非で二人の意見は完全に分かれてしまった。

>「君は定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前君はドイツと組んで、中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもないあやまりだったのです。君はまた同じあやまりを繰り返しているように、私には思われてりつ然とします。今日君に残された道は、ただ一つ、それは政界を退いて、魚釣りの日を送ることです。」

>真の良識と勇気の言言句句である。岸信介は安保条約が成立すると政界を去った。一国の首相も、賢哲の英知の前にはシャッポを脱がざる得なかったのである。

>昭和46年4月には、裁判官の新・再任拒否、修習生の罷免という最高裁がとった一連の処分について、我妻は、「最高裁に望む」という論説を発表し、その血も涙もない形式論理をつき、「最高裁は、せめて再任拒否と不採用の理由を明示すべき」ことを訴えた。

>この岸総理退陣勧告といい、最高裁に対する警告の文面といい、そこには我妻の控え目ながら、学者としての使命感と社会的役割の自覚が躍動している。

安倍首相の一族(岸信介、佐藤栄作)、血縁の安倍一族は、日米安保に関わりが深い。また、強攻策を常套手段とすることにも通じるものがあるようにも思います。2人の元首相(兄弟)は、国会内の強硬手段のみならず、国会外においても“血を見る”蛮勇を奮ったのだった。…旧安保闘争、新安保闘争(大学紛争)時のことです。この辺りの事情は、今は割愛します。ともあれ、先ずは上記記事を御一読ください。

ところで、安倍首相は、一体彼らに何を学んだというのだろうと感じています。皮相なものでなければ、国民個人個人にとって幸いなのですが、どうでしょう。個人を尊重しない政治・政策・制度(政党を含め)など、私は評価に値しないと思っているからです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士

書斎のある家への憧れ
【2019/01/14 15:47】 エッセイ
「書斎のある家への憧れ」

この記事は、平成二十八年十二月十七日号の『週刊現代』の載った記事である。この前月、ダイワハウス主催のフォーラム『転換期のいま、人材教育は吉田松陰に学べ』に出演後に投稿依頼があったのに応じて書いたものである。1頁に、書斎のイラスト入りで掲載された。

私の生家は群馬の赤城山麓で、八人家族の小農家だった。夕食時、病身の父が「丸いちゃぶ台」の定位置に座り、幼い私達に中国の出征談を毎日聞かせてくれた。夕食時が「勉強兼家庭教育の場」でもあった。後に私と娘が「日本史」の教師となったのもこんなところに起因しているかもしれない。なぜか、今もその光景が懐かしく思い出される。私が大学生の頃『若者たち』という映画があった。それを見た時、私の家がモデルだったのではないかと本気で考えた。
 年長の兄姉が、必死に働いて家計を支えていた。だから、兄姉は高校進学が経済的事情で出来なかった。私も十五才の中卒で上京して会社で働きながら夜間高校に通った。
そして、仕事と勉強と貯蓄に励み、自分で学費を全て工面して大学進学をした。必死に家計を支える兄姉に対しては、自然と家庭内では長幼の序が形成されていた。そうした反面、私たちは全員仲睦まじかった。そうした反面、いつもユーモアの交歓があり、貧しいながらも笑いの絶えない家だった。
私にとって、まさしく「憩いと教育の場」であった。兄姉が競って新聞小説の感想談義をしていた。こうした家庭に育った私は、「読書や音楽を楽しめる書斎のある家」に住みたいという強い願いがあった。
この願いは早くに実現し、私は二十代で自宅を購入した。のびのびと子育てすることができたのはこの家のおかげだ。
数年後に娘から「友達を連れて来られる家」が欲しいといわれて、もう一度踏ん張り現在の家を購入した。ここで念願の書斎を持った。自分専用の書斎で、所せましと本が並んでいる。吉田松陰の研究をしていることから「知行合一書を」を書家に注文して書いてもらい、「大学の恩師」の写真とともに額に入れて飾ってある。恩師は『日本の経済学を築いた五十人』に登場する先生である。
人は生涯に三度家を購入すると念願の家に住めるといわれるが、私は二度である。多少の満たされないことはあるが、それはそれでよしとしている。
現在「さいたま市」に住んでいるが、それは実家に帰省するのに便利であること、子供の通学は自宅からと願っていた結果である。この両方ともに条件が満たせて、子供は小学校から大学まで自宅から通えた。新宿まで電車で三十分の距離だが、近隣には生産緑地としての田畑が残り、埼玉県でも指折りの由緒ある公園もあって、四季それぞれの風景が愉しめる「我が家」だ。
夕暮れには「さいたま新都心」の夜景が美しく眺められる。読書後の日課にしている散歩中もそれを楽しめる、とても良い環境の中で、念願の「書斎のある家」での「楽しい我が家」の生活を満喫している。





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