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上杉鷹山への『訓戒書』二通
【2017/05/26 10:33】 エッセイ
宝暦九年、日向・高鍋藩第七代藩主「秋月種美の二男」だった松三郎(後の上杉鷹山)は、出羽米沢の名門大名家上杉氏の養子としての内約が決った。高鍋三万石の外様小藩から、屈指の名家・上杉家に養子入りするに当たり、高鍋藩老臣(家老)三好善大夫重道は、二度にわたり懇切丁寧な「訓戒書」を書き送っている。こうした訓戒を心に秘めて、松太郎(上杉鷹山)は江戸期の屈指の名君となった。米国ケネディ大統領の就任に当り、インタビューした日本人記者が「尊敬する日本人は誰か」との問いに、ケネディ新大統領は、即座に「それはウエスギヨウザンです」とこたえ、インタビューした記者が鷹山の人となりを知らなかったというエピソードがある。その鷹山に訓戒書を書いた三吉善太夫の心の籠ったbンを紹介して見る。 

三好善太夫の訓戒書①

宝暦九年三月五日、公重定公御養子の御内約あり、其の年十二月「秋月家の老臣・三好善太夫重道」公に上言す。
その書に曰く、

懼れながら、このたび、公子の上杉家へ御養われ成り候、御事、大なるご幸(さいわい)は、偏にご両親様のご恩德によりてなり。
殊更「心華院樣」ご由緒を以ての事なれば、慈母の御恩深き所、お忘れなく。
この上、御雙方(そうほう)樣への、「御孝行」の第一は、御養家樣方へご親切を尽くされ御事へ成され候義、肝要と存じ奉り候。
ついで御實方、御兄弟樣へ御睦まじく遊ばされるべし。
扨て、貴賤ともに人々、わが身に天より受け得たる「明徳」を、曇らざるように、お修業なされ候こと専一に御座候。
その訳は下賤にてもわが身、明らかになり「善道」を行わざる時は、小家も治まらず。
まして、況や貴人は御身随分と明鏡の如くなくては、下の善悪を知る事能わず、たとえ良臣ありとも朋輩(ほうはい・同僚)の事なれば、善悪たやすく申上げ難く、差控えそうらえば、善人悪人、お見違えこれあり。善人遠り、悪人近く、様(よう)になりては、自然と君も悪に移り、小なれば身を失い、大なれば家を亡ぼし、国民難儀に及ぶ事なれば、別けて大人はご幼年よりのお育ち、御修業、御大切なり。
況や御養子ともなれば、御他家をも御嗣ぎなされ、万一お修業なく御不明にて御養家、治まり申さず候えば、大なる御恥辱にて実父の家を治め得ざるより、その罪深く御雙方樣へ御不孝と相成るゆゑ、一入公子、御身の御養育、御大切に存じ奉り候。右、御修業は、恩を忘れず恥を知り、人道を能く御合点あり。四書少學、近思録の御学問を御一生涯、御懈怠なく成され候様願い奉り候。
兎角、善悪並び立たぬものに候えば、善に進めば、悪は退き、悪行なれば、善滅るもの。
されば仮初(かりそめ)にも悪事に傾く事をなさらず、善事に御染まりなさるべく候。尤も、上杉御家柄ゆゑ、御良臣多く、如何様よき御教訓も有るべく御座候えども、當時、身不肖ながら老職を相勤むることなれば、末々まで公子の御繁栄を願い、御成長の後も、折節(おりにふれて)、御覧くだされ、寸分の御為にも相成り候えば、生々あり難き仕合せと存じ奉り、心底を以て、諸人の嘲(あざけ)りをも顧みず、愚かなる事どもを自筆にて書き綴り、呈上畢。
十二月吉旦 三好善太夫


三好善太夫の訓戒書②

宝暦十年六月二十六日、御養子御願い済み、十月十九日秋月家一本松邸より桜田邸へ御引き移りあらせられる、重道復た、一篇の贈言を上(たてまつ)る。

一、 兼ねがね、御父君の御庭訓の如く、忠孝の御事第一の御勤め、片時もお忘れ成され
間敷き事。

一、 御学問、御武芸は忠孝の基にて御座候えば、御懈怠成され間敷く候事。

一、 其の御家の御式法、小事たりとも御違犯なされるまじく候。お大臣は御國の柱、必ず御用い成され、小臣といえども異見を申し候者、必ず御悦び、御受入れ成さるべく候。諌めを納(いる)る事は人君の美徳にて、諌めを申し候臣は戦場の一番槍の功より増(まさ)ると、やんごとなき御方の仰せられし事、かねがね御覚悟成さるべく候事。

一人に君たる御身は寛仁大度と申し候て、ゆったりとして人を憐れみ、御胸中廣く、人を疑うことなく何事も悪味(あくみ)の御座無き候樣に御心懸け遊ばさるべく候事。
御身持、第一の御執行は敬の一字に御座候。敬と申す事むつかしき事にてもなし、御心のむきを正直にして、心の本を束ね、末の散らぬ樣に成され、立居振舞は番人の附いて居る如く、事をするに目附のある樣に影日向なく油断致し申さずか、敬と申すものにて是に残る事無く御座候。
然れども、始めあらざる事なし、終りある事難しと申し候て、続き申さず候まま、一日より一月に至り、一月より一年に至り、一年より百年をなし候へば、何事も災の出候事もなく、身の御養生の悪しき事もなく候。
諸々の邪悪も除き申し候ゆえ、敬は百邪に勝とも古人の仰せられしためしも御座候。
一、 人の上に居給う御身は何事も謙退深く、我に知恵ありとし給う事なかれ、下より褒めそやし候へば、大方は、我は知恵ある者と思召し候より、萬の悪事も出来、諌めをも拒き給う事に候。奢りを禁じ倹約を守る人に施したる事は思い給う事なかれ。人に恩を受けたる事は、聊かも忘れ給う事なかれ。善事は少なしとも、必ず為し給うべし。悪事は少なしなりとも、必ず為し給うべからず。我が身をつねって人の痛さを知ると申す事に候。我嫌いの事は、人も同じく嫌いなる事と思召しやり、人にしかける樣に致し、萬に思いやりを致し候事、恕の道と申し候て、御一生涯御執行、是に過ぎたる事なく候。愚かに拙き人も人の上を譏り、咎むる事は明らかなり。賢く明らかなる人も、見の上の悪しきを知る事は、暗し人の上を責むる心を以て自身を責め、我が身をゆるす心を以て人をゆるさぬは、大概宜しからずと古人も宣べり。

今度、我が国の公子、上杉家へ入られ候に付き、御幼少よりも御心存に成り申すべくの條々、重道が愚かなる書き付け、恐れ乍ら御餞別に差上げ奉り候。
夫れ、人は貴賤となく天地を大父母として生まれるは、大父母の御心にかなうように心を御用い成さるべく候事、御肝要の御儀と承り候。天地の大父母は、何をか心とするなれば、天地は物を生ずるを以て、心とすあれば、物を育て害わす慈悲の心を以て心とし、仮初にもむごき事を好まぬ君を敬い、父母に考し、衆人を憐れむに至るまで、皆此の意にあらざる事なし。されば、人の君となりて仁に止ると申す事に候へば、人君の道に至る肝要の御事と存じ奉り候。
天地の心に叶い給へば天道の冥福もあり、人道にも叶い給い、幾千世までも目出度く御栄へ成され候御事、必定の理り、にて御座候。
暫く書き続けなば、濱の真砂の数より多かめれとおさなき御心には諭し難き事をも書き綴りても、益なく且つは筆の力もなければ暫くおくと也。

宝暦十庚申年八月吉旦 三好善大夫重道 敬白


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吉田松陰『七生説』
【2017/05/21 22:36】 エッセイ
七 生 説   
(丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)

天の茫々たる、一理(いちり)ありて存し、父子祖孫の綿々たる、一気ありて属(つづ)く。人の生まるるや、斯の理を資(と)りて以て心と為し、斯の気を稟(う)けて以て体)と為す。体は私なり、心は公)なり。私を役して公に殉(したが)ふ者を大人と為し、公を役して私)に殉(したが)ふ者を小人と為す。故に小人は体滅し気竭(きつ)くるときは、則ち腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)して復た収(おさ)むべからず。
君子は心、理と通ず、体(たい)滅し(めっ)気竭(きつ)くるとも、而(しか)も理は独り古今に亙り天穣を窮)め、未だ嘗て暫くも歇(や)まざるなり。
余聞く、「贈正三位(さんみ)楠公の死するや、其の弟正季を顧(かえり)みて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊(こくぞく)を滅(ほろぼ)さん』と。公(こう)欣然(きんぜん)として曰く、『先(ま)づ吾が心を獲(え)たり』とて耦(ぐう)刺(し)して死せり」と。噫、是れ深く理気(りき)の際に見ることあるか。是の時に当り、正行.正朝の諸子は則ち理気並び属(つづ)く者なり。新田.菊池の諸族は気離(きはな)れて理通ずる者なり。是れに由りて之れを言はば、楠公兄弟は徒(ただ)に七生のみならず、初めより未(いま)だ嘗(かつ)て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起(こうき)せざる者なければ、則ち楠公の後、復た楠公を生ずるもの、固)より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。
余嘗て東に遊び三たび湊川を経、楠公の墓を拝し、涕涙禁ぜず。其の碑陰(ひいん)に、明の徴士(ちょうし)朱生の文を勒(ろく)するを観るに及んで、則ち亦涙を下す。噫、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩あるに非ず、師友(しゆう)交遊(こうゆう)の親(しん)あるに非(あら)ず。自ら其の涙の由る所を知らざるなり。朱生に至りては則ち海外の人、反って楠公を悲しむ。而して吾れ亦生を悲しむ、最も謂(いわ)れなし。退(しりぞ)いて理気の説を得たり。乃(すなわ)ち知る、楠(なん)公(こう).朱生(しゅせい)及び余不肖(ふしょう)、余不肖を資(と)りて以て心と為す。則ち気属(つづ)かずと雖(いえど)も、而(しか)も心は則ち通ず。是れ涙の禁ぜざる所以なりと。余不肖、聖賢の心を存し忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼすを以て、妄りに己(おの)が任と為し、一跌(いってつ)再跌(さいてつ)、不忠不孝の人となる、復(ま)た面目(めんぼく)の世人(せじん)に見(まみ)ゆるなし。然れども斯(こ)の心巳(すで)に楠公諸人と、斯の理を同じうす。安ぞ気、体に随って腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)するを得んや。必ずや後の人をして亦余を観て興起せしめ、七生に至りて、而(る後可と為さんのみ。噫、是れ我れに在り。七生説を作る。

解 説
楠木正成の精神が、朱舜水に、また自らの内にも伝わり生きていることを実感した松陰は、そこから精神の不滅を確信し、これを理気の説でもって説明する。そして楠公その他の優れた人々と理を一にしている自分の精神を、七生の後の人々までもこれを受け継ぎ奮い立って欲しいものだと願う。彼は幽室に「三余読書」と「七生滅賊」を座右の銘として掲げて自らを励ましていたが、「七生説」はその頃の松陰の人生観を示すものとして重要である。


『三月二十七日夜の記』 ー回顧録付録ー
【2017/05/06 18:59】 エッセイ
『三月二十七日夜の記』(回顧録付録)
安政(一八五四)元年十一月十三日

先書の高教に云はく、「汝獄に下る、国に於て何ぞ益せん」と。此の言頂門の一針、瑟縮(ひっしゅく)地に入らん。併しかくいへば朱雲の張禹を斬らんことを請ひ。胡銓(こせん)の秦檜を斬らんことを請ひ、而して一は自ら後復た仕えず、一は辺裔におとしい貶竄(へんさん)せらる、亦何ぞ漢・宋に益せん。故に赤穂義士は讐を復して死を賜ひ、白夷・叔斉は暴を悪みて餓死す、亦何ぞ益せん。故に君子はかくはいはず、聖人は百世の師なり云々と云ふ。且つ弟が輩の為す所、朱・胡がする所に比すれば、頗る万全を期す。然れども事敗れてここに至り師は天なり、命なり。是れを以て議せらる、亦何ぞ多言せん。但だ僕が事発覚の曲折は人多く知らざるべし。因って三月二十七日の記を作り、高鑒(こうかん)を希ふのみ。

三月二十七日夜の記
三月二十七日、夕方、柿崎に海浜を巡見するに、弁天社下に漁舟二隻浮べり。是れ究竟なりと大いに喜び、蓮台寺村の宿へ帰り、湯へ入り、夜食を認め、下田の宿へ往くとて立出で、下田にて名主夜行を禁ずる故、一里隔てて蓮台寺村の湯人場へも、やどをとり、下田へは蓮台寺へ宿すと云ひ、蓮台寺へは下田へ宿すと云ひて、夜行して夷船様子彼是見回り、多くは野宿をなす 武山の下海岸による五つ過ぎまで臥す。五つ過ぎ此を去り、弁天社下に至る。然るに潮頭退きて漁舟二隻ともに砂上にあり、故に弁天社中に入り安寝す。八ツ時、社を出でて舟の所へ往く、潮進み舟浮べり。


170506柿崎の海岸から漕ぎ出す松陰と金子

因って押出さんとて舟に上る。然るに櫓ぐひなし、因ってかい(櫂)を犢鼻褌(ふんどし)にて縛り、船の両傍へ縛り付け、渋木生と力を極めて押出す。褌たゆ、帯を解き、かいを縛り又押ゆく。岸を離るること、一町許り、ミシツピー舶へ押付く。是れまでに舟幾度か回り回りてゆく、腕脱せんと欲す。ミシツピー舶へ押付くれば舶上より怪しみて灯籠を降す。灯籠はギヤマンにて作る、形円き手行灯の如し蝋燭は我邦に異ならず、但し色甚だ白く心甚だ白し 火光に就きて漢字にて「吾れ等米利堅に往かんと欲す、君幸に之れを大将に請へ」と認め、手に持ちて舶に登る。舶には梯子ありて甚だ上りやすし。 夷人二三人出で来り、甚だ怪しむ気色なり。認めたる書付けを与ふ。一夷携へて内に入る。老夷出でて燭を把り、蟹文字をかき、此の方の書付けと共に返す。蟹文字は何事やらん、読めず。夷人頻りに手真似にてポウバタン舶へゆけと示す。ポウバタン舶は大将ペリーの乗る所なり 吾れ等頻りに手真似にてバッティラに連れて往けと云ふ。夷又手真似にて其の舟にて往けと示す。已むことを得ず。又舟に還り力を極めて押行くこと又一丁許り、ポウパタン舶の外面に押付く。此の時渋生頻りに云ふ、「外面に付けては風邪強し、内面に付くべし」と。然れどもかい自由ならず、舟浪に随ひ外面につく。舶の梯子段の下へ我が舟入り、浪に因りて浮沈す、浮ぶ毎に梯子段へ激すること甚だし。

170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵170506弁天島170506吉田松陰韜晦の朝像170506ペリー


夷人驚き怒り、木棒を携へ梯子段を下り、我が舟を衝き出す。此の時予帯を解き立かけて着け居たり。舟を衝き出されてはたまらずと夷舶の梯子段へ飛渡り、渋生に纜(ともづな)をとれと云ふ。渋生纜をとり未だ予に渡さぬ内、夷人又木棒にて我が舟を衝き退けんとす。渋生たまり兼ね、纜を棄てて飛び渡る。已にして夷人遂に我が舟を衝き退く。時に刀及び雑物は皆舟にあり。夷人吾が二人の手をとり梯子段を上る。此の時謂へらく、舶に入り夷人と語る上は、吾が舟は如何様にもなるべしと。我が舟をば顧みず夷舶中に入る。舶中に夜番の夷人五六名あり、皆或いは立ち或いは歩を習はす、一も尻居に座する者なし。夷人謂へらく、吾れ等見物に来れりと。故に羅針等を指し示す。予筆を指し示す。予筆を借せと云ふ手真似すれども一向通ぜず、頗る困る。其の内日本語をしるものウリヤムス出で來る。因って筆をかり、米利堅にゆかんと欲するの意を漢語にて認めかく。ウリヤムス云はく「何国の字ぞ。」予曰く「日本字なり」。ウリヤムス笑ひて曰く、「もろこしの字でこそ」。又云はく、「名をかけ、名をかけ」と。因ってこの日の朝上陸の夷人に渡したる書中に記し置きつる偽名、余は瓜中万二、渋生は市木公太と記しぬ。ウリヤムス携へて内に入り、朝の書翰を持ち出で、此の事なるべしと云ふ。吾れ等うなづく。ウリヤムス云はく、「此の事大将と余と知るのみ、他人には知らせず。大将も余も心誠に喜ぶ、但し横浜にて米利堅大将と林大学頭と、米利堅の天下と日本の天下との事を約束す、故に私に君の請ひを諾し難し、少しく待つべし、遠からずして米利堅人は日本に来り、日本人は米利堅に来り、両国往来すること同国の如くなるの道を開くべし、其の時來るべし。且つ吾れ等此に留まること尚三月なるべし、只今還るに非ず」と。余因って問ふ、「三月とは今月よりか、来月よりか」。ウリヤムス指を屈し対へて曰く、「来月よりなり」。吾れ等云はく、「吾れ夜間貴舶に來ることは国法の禁ずる所なり。今還らば国人必ず吾れを誅せん、勢還るべからず」。ウリヤムス云はく、「夜に乗じて還らば国人誰れか知るものあらん、早く還るべし。此の事を下田の大将黒川嘉兵知るか。嘉兵許す。米利堅大将連れてゆく。嘉兵許さぬ、米利堅大将連れてゆかぬ」。余云はく、「然らば吾れ等舶中に留まるべし。大将より黒川嘉兵へかけあひ呉るべし」。ウリヤムス云はく、「左様にはなり難し」と。ウリヤムス反復初めのいふ所を云ひて、吾が帰を促す。吾れ等計已に違ひ、前に乗り棄てたる舟は心にかかり、遂に帰るに決す。ウリヤムス曰く、「君両刀を帯びるか」。曰く、「然り」。「官に居るか。」曰く、「書生なり」。「書生とはなんぞや」。曰く、「書物を読む人なり」。「人に学問を教ゆるか」。曰く、「教ゆ」。「両親あるか」。曰く「両人共に父母なし」。此の偽言少しく意あり。「江戸を発すること何日ぞ」。曰く、「三月五日」。「曽て予を知るか」。曰く「知る」。「横浜にて知るか、下田にて知るか」。曰く「横浜にても下田にても知る」。ウリヤムス怪しみて曰く、「吾れは知らず。米利堅へ往き何をする」。曰く「学問をする」。時に鐘を打つ。およそ夷舶中、夜は時の鐘を打つ。余曰く、「日本の何時ぞ」。ウリヤムス指を屈してこれを計る。然れども答詞詳かならず。此の鐘は七ツ時なるべし。吾れ等云はく、「君吾が請ひをきかずんば其の書翰は返すべし」。ウリヤムス云はく、「置きてみる、皆読み得たり」。余広東人羅森と書き、「此の人に遇はせよ」と云ふ。ウリヤムス云はく、「遇いて何の用かある。且つ今臥して床にあり」。予曰く、「来年も来るか」。曰く「他の舶來るなり」と。帰るに臨み、「吾れ等船を失ひたり、舶中要具を置く、棄ておけば事発覚せん、如何せん」。ウリヤムス云はく、「吾が伝馬にて君等を送るべし。船頭に命じ置けり。所々乗り行きて君が舟を尋ねよ」と。因って一拝して去る。然るにバッテイラの船頭直に海岸に押し付け、我れ等を上陸せしむ。因って舟を尋ぬることを得ず。上陸せし所は巖石茂樹の中なり。夜は暗し、道は知れず、大いに困迫する間に夜は明けぬ。海岸を見回れども我が舟見えず。因って相謀りて曰く、「事已に此に至る奈何ともすべからず、うろつく間に縛せられては見苦し」とて、直ちに柿崎村の名主へ往きて事を告ぐ。遂に下田番所に往き、吏に対し囚奴となる。ウリヤムス日本語を使ふ。誠に早口にて一語も誤らず、而して吾れ等の云ふ所は解せざる如きこと多し。蓋し彼れが狡猾ならん。是を以て云はんと欲すること多く言ひ得ず。
僕事大略かくの如し。畢竟夷舶へ乗移る際少しく狼狽す、故に吾が舟を失ふ。若し舟を失はず、又要具を携へ舶に登らば、後に心がかりなく、舶中へ強ひて留ることを得、我が文書等を夷人に示し、又舶中の様子を見んことを求め、海外の風聞などを尋ぬる間に夜は明くべし。夜明けば白昼には帰り難しと云ひて一日留まらば、其の中には必ず熟談も出来、計自ら遂ぐべし。仮令事遂げずとも、夜に至り陸に返り急に去らば、かかる禍敗には至らぬなり。其の事の破れの本を尋ぬれば櫓ぐいなき計りにてかくなりゆけり。因って思ふ、左伝某の役の敗を記して驂絓り(さんかかり)て止まるとやらあり。大軍の敗もかかる小事に因ることなり。左氏兵を知る、故に其の叙事甚だ妙なり。又思ふ、漢の李広、衛青に従ひて匈奴を撃ち、惑ひて道を失ふ、青上書して天子に軍を失へる曲折を報ぜんと欲すと。この曲折と云ふこと甚だ味あり。敗軍すれば一概に下手な様に云へどもその曲折を聞けば必ず拠なきことあるべし。後人紙上に英雄を論ず、悲しいかな。
170506蓮台寺の松陰寓居跡170506吉田松陰拘禁の跡碑


吾れ等の事、後世の史氏必ず書して云はん、「長門の浪人吉田寅次郎・渋木松太郎、夷舶に乗りて海外に出でんことを謀り、事覚れて捕はる。寅等奇を好みて術なし、故にここにいたる」と。渋木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。然れども敗軍の時は何も心底に任せぬものなり。洞春公・東照公の名将さへ、大敗群には一騎落し給ふことあり。然れば吾れ等の事も強ち恥とするに足らず。但だ天命を得ず、大事成就せぬは憾みと云ふべし。亦何ぞ益せんの譏りを免れぬ所以なり。

甲寅十一月十三日、野山獄中之れを録す、時に天寒く雪飛び、研池屢々凍る。
二十一回猛士矩方

下田にて読み侍りし
世の人はよしあしごともいはばいへ賤ヶ誠は神ぞしるらん
乙卯五月念四日                        藤寅





【解説】
安政元年三月二十七日の夜、正しくは三月二十八日午前二時頃、松陰は金子重輔とともに下田の柿崎海岸からペリー提督の旗艦ポウハタン号に乗り込み米国への出国を懇請したが受け入れられなかった。米国側の記録によると、松陰と重輔が「立派な地位の日本紳士だとは分かったが、着物は旅でだいぶくたびれていた。(中略)彼等は教養を身につけており、流暢に、また、見た眼に優雅に標準的な漢文を書いた。動作は礼儀正しく、非常に洗練されていた」(ホークス著「ペリー日本遠征記」全集別巻)と非常に好意的な見方をしており、さらに「提督は来艦の目的を知るや、自分は日本人をアメリカにつれて行き度いと思ふこと切であるけれども、両人を迎へることが出来ないのは残念であると答えた」とある。つまり、日米和親条約締結直後のことであり、幕府の許可なく同行することは時宜的に好ましくないと判断したためであろう。(吉田松陰撰集より転写)


『兵学者だった吉田松陰の生き方』
【2017/05/02 21:42】 エッセイ
『独立不羈三千年の日本国を想う吉田松陰』

吉田松陰は「志」に生きた人であった。安政六(一八五九)年十月二十七日「政治犯」として幕府から処刑された。数え年で三十歳の若さであった。松下村塾の第三代目に当たる主宰者として多くの俊秀たちを育成し、処刑前日に書き上げた『留魂録』で門下生や「江戸獄」での同囚であった志士たちも含め、後事を託して潔い最期を遂げたと伝えられる。『吉田松陰全集』(大和書房刊)に、下総佐倉藩の「依田学海日記」や、伊勢の世古格太郎の著になる『唱義見聞録』からの抜粋で吉田寅次郎、長州藩の公用人として幕府評定所での判決に立ち会った小幡高政の談話や吉田松陰の処刑を行った本人(山田淺右衛門)の後日談など、幾つか収載されている。それによると世古格太郎のみが、潔い最期に疑問符のつく表現になっているが、他の三著は具体性があり、処刑前に松陰が書きのこした親族や門下生への遺言、絶筆や辞世の句などとの整合性を勘案して見ると、やはり潔い態度であったと思われる。それは、自分の志で精一杯生きたという自分なりの達成感がそうさせたのであろうと思われる。それ故「死罪申渡し」の判決の後に朗朗と辞世の句を謳いあげ、評定所の関係者たちが「粛然として襟を正す」といった雰囲気が評定所内に醸し出されたという。さらに刑死に臨んできちんとした礼儀正しい態度で、関係者に挨拶を行い、従容として死に就いたと伝えられるのは多くの松陰の伝記が記すところである。

170331正装の吉田松陰170503玉木文之進170503日本国地図

江戸期の武士は長子相続を原則とした。松陰も父の杉百合之助と母たきの次男であり、兄の梅太郎が健在であったことから、早々と父の弟である吉田大助の仮養子となった。偶々叔父夫婦の間に子供が無かったこと、加えて健康を損ねていたという事情もあった。翌年に叔父は死去したので松陰は吉田家八代目の家督を継ぐこととなった。吉田家の始祖友之充は元禄十三年和漢の兵法に通じていたことから、長州藩主毛利吉廣に召され、後に山鹿流の宗家に師事して兵学を学ぶことになったという経緯がある。したがって松陰の時代は、毛利藩で北條流の多田、山本流の大西の両家とともに、家伝の山鹿流の兵学を藩校明倫館で講ずるのが吉田家の任務であった。
こうした職務であるから藩内の家格も家臣団の中核をなす「大組」に属し、それは生家の杉家より高いものとなったが、幼少の事であるから松陰は生家に同居することになる。
この辺が現代人の感覚からすれば一風変わったものと認識されるが、家督は継いだものの、独立した家庭を持ったわけではないのでこのような形となったのであった。しかし、職業選択のない時代で、身分も厳格に規定されていた江戸期ゆえにこうした例外的な措置が取られたのであった。山鹿流軍学師範を宿命づけられたために、その育成には後見人や代理教授が指名されたが、その多くは養父大助の高弟たちであった。とりわけ父の末弟であった玉木文之進は兵学者松陰の育成に心血を注ぎ、幼児に対する教育とはとても思えない程の熱血漢丸出しの厳しい教育だったようで、後年になって松陰が玉木の叔父程怖い人はいなかったと回想する程であった。いってみれば今日でいうスパルタ教育そのものであったらしく、机を挟んで体面していて、姿勢が悪いと云っては殴り、居眠りをしようものなら容赦なく体罰を加え、もの覚えが悪いと叱り、玉木家に下宿した時など、夜半に背中に机を括りつけたまま戸外に立たされたこともあったという。このような厳しい教育であったから、傍らで我が子の姿を見ていた母親が「逃げればよいのに」と涙ぐんでいたと伝えられている。五歳や六歳の童子に『孟子』を読ませたと云うから、それは教えを受ける松陰にとっては大変な負荷であり、辛い修業以外の何物でもなかったに違いない。だが「藩主への忠節心」に熱い一途な玉木文之進は、自らも山鹿流の免許皆伝であり、孟子にも造詣の深い文武両道の教養人であった。それが、藩主への奉公に尽くそうと情熱を燃やしたのであるから、その期待に応えようとする幼い松陰には相当な重圧となって、いわゆる普通の「子供時代」を過ごさなかった。松陰死後の後日談で二歳年下の妹「千代」の述懐によると、同年代の友人と遊んでいた記憶がないとのことである。
しかし歯を食いしばって厳しい修業に耐えた松陰は、十一歳の時、藩主の毛利敬親への御前講義(親試)で、居並ぶ藩の重臣たちの期待以上に見事な成果を披露する。勿論藩主も驚きのあまり「この教育担当は誰であるか」と重臣たちに問いかけたという。玉木文之進は自分が厳しい教育をした成果として満たされた感懐だったに違いない。そうして、二十歳で独立師範となるまでの数度の御前講義は全て藩主をして満足させるものであった。長州藩天保の改革を指導したことで知られる藩の先達・村田清風は、松陰の飛躍を期して持論である「四峠の論」を常々説いていた。四峠の論とは三方を連山に囲まれている萩のみでの修業でなく、広く知識や人格の陶冶を求めて江戸や長崎、或は京阪に遊学してその成果を藩主への貢献を為すことこそ肝要であるという意味である。清風の関連書にこの論は出てこないが「口碑」として、長州では広く知られる一種の教育論であった。それが嘉永三年に実現した「鎮西遊学」であり、翌年の「江戸遊学」であった。早速の鎮西遊学は平戸、長崎、熊本、佐賀に山鹿の後裔や碩学、藩校を訪ねたのもそのためである。とりわけ平戸における葉山佐内の下での修業は大きな成果となった。

160229村田清風アヘン戦争佐久間象山
修業時代に西欧国家間の盛衰の実態について説明を受けていただけに、アヘン戦争を始めとする西欧諸国の東洋進出、或はロシアの南下政策等の本を貪るように読破した姿が『西遊日記』に記されている。また師の葉山佐内は有名な陽明学者であり、『伝習録』との出会いは師が人格的にも優れた人物であっただけに松陰にとっては願った通りの誠にありがたいことであった。また、この時に水戸の会澤正志斎の著述になる『新論』にも触れる。長崎ではオランダ船に乗り船内を見物し西欧文明の一端に触れ、また江戸期の唯一世界に開かれた街の見学も怠りなく、生きた学問を目指していた松陰にとっては格好の修業機会となった。なお、江戸期に西国の十四藩は「長崎聞役」という藩の情報掛の役を持つ家臣を派遣しており、長州も「夏詰」という立場ながら蔵屋敷の設置と周辺海域警備の任務を持っていたことも付記しておこう。長崎、平戸での修業を終えた松陰は、帰路で熊本と佐賀に立ち寄り、末弟の聾唖の治癒を清正廟に祈願している。そして終生の友人となる宮部鼎蔵との邂逅を果す。鎮西遊学は松陰にとって、藩の先達である村田清風の助言は納得のいくものであったに違いない。そうして帰国を果すが、平戸での書籍が江戸からの購入であったことを知って、翌年に今度は藩主の参勤交代に随って江戸遊学を果す。江戸では長州の藩邸があり、重臣も多く勤務しているので純然たる遊学と云うわけにはいかない。山鹿流師範としての職務もこなしながら、合間をぬって碩学の門を叩き、傍、全国の人材との交流も精力的に行う。交流を重ねるうちに佐久間象山との出会いはこうした中で師弟となり、一方では仲間から長州人は日本の成り立ちに暗いなどと指摘も受けた。そして、運命の東北海防視察旅行の話が出る。ロシアの南下が津軽に上陸し狼藉を働き、津軽海峡を我が者顔で航行しているという。国防意識の高い宮部と松陰は早速、出発の約束を交わすが、直前になって過所手形の発行が出来ないことに遭遇する。これを強行(脱藩)したことから松陰の人生航路は大変化を来し、藩庁は吉田家取り潰しという厳しい罪科を課す。松陰の大成を願った藩主は「国の宝を失った」と嘆息したのはこの時の事である。そして直ちに「十年間の諸国修業」という粋な計らいを享受する。反面、水戸で会澤正志斎から親しく学び、日本の何たるかを強く認識できた事から古代史の猛烈な読書に取り組んだのであった。

170331野山獄150821松下村塾170331高杉晋作



そうして諸国修業をして、再度江戸に着いた途端に「ペリー来航」に遭遇する。夜を徹して浦賀に駆けつけてペリーの艦隊を具に観察し、西欧の文明や技術に裏打ちされた軍事力の源泉である先進国の視察を思い立つ。然し海外渡航は幕府の厳禁とする所から、ペリーの再度の来航時に下田から密航を企てるが条約締結直後のため、日本の法を犯す事は不可としてペリーは拒否する。この時をもって松陰の人生は自由を失う。藩は幕府に遠慮して親元での謹慎命令を藩獄に収監してしまう。だが、志の高い松陰はめげない。獄中に在って同囚との勉強会や、自身の猛烈な思索と読書は在獄十四カ月に六百十八冊にも上る。この勉強会で『孟子』の講義が、免獄後の松下村塾へと伏線となるのであるから、人生とはどう展開するかわからない。杉家に謹慎となった松陰は親族を相手に『孟子』の講義を完了させる。
安政三年九月、外叔父の久保五郎左衛門の依頼で松陰は『松下村塾記』を執筆、此の時点では松下村塾は松陰の主宰ではない。しかし、内容からすれば松陰の主宰者的思いが綴られているので、この直後に久保から松陰へと引き継がれたと考えてよい。仮に、松下村塾記を起点としても安政五年十二月の閉鎖までの松下村塾での教育活動は二年三ヶ月に過ぎない。幽囚の身で日本を守る悲願は直接行動が出来ない。従って、教育を通じて責任の一端を果すのが松陰の残された唯一の道であった。多くの松陰伝が「教育者」としての側面を強調するが、それは松陰のペリー来航後の難局打開のための行動からやむを得ない人生航路となったのである。後年、多くの国家指導者を輩出したが、松陰は彼らに英才教育を特別に行ったわけでなく、松下村塾記に記したように、君臣の義や華夷の弁をわきまえつつ「奇傑非常の人」の育成をめざし、『学は人たる所以を学ぶなり』として学問への取り組みを奨励したのであった。松下村塾主宰中に書き遺した文稿は迫りくる外圧の難局打開の論策が多いのは兵学家として当然であったが、塾生に対しては問題提起として生きた教材となった。

幕藩体制下にあって松陰は陪臣の身である。一陪臣が国策を公的に論ずることは内容の正否にかかわらず、幕府は厳禁としていた。従って京都の梁川星巌に送った『対策一道』や『愚論』、『続愚論』等の論策が梁川宅に捕縛に向った幕吏によってそれが幕府に押収され、松陰の政治犯扱いが確定的になる。それは安政五年八月のことであった。なお吉田松陰が攘夷論者と理解されることが多いが、松陰は本来開国論者であった。富国強兵の実現によって西欧諸国に対する独立不羈の貫徹を願っていたのであるが、ペリーの砲艦外交や幕府の軟弱な対応策への批判から攘夷を唱えたもので、皇室を中心とした新たな国体の実現を模索していたのである。従って安政五年七月の『大義を議す』の論稿で、無断勅許での条約調印を激しく批判して『天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。・・・・・・征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れを何とか謂はん』と、公然と討幕を唱えたのであった。国の為政者たるもの「義を正し、道を明らかにすること」を怠ってはならない。独立国を全うするため、松陰にとっては『勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』であって、ここに天朝を尊崇して義や道を明らかにしない幕府は討滅してもやむを得ないとする松陰の国家観があったのである。それにしてもさすがに兵学家である。周到に後継者を育成し、国の将来を門下生に托して「志の継承」を願いつつ波乱に富んだ生涯は、今なお私達をして感動させずにはおかない。


【オランダ東インド会社】
【2017/04/04 17:06】 エッセイ
【オランダ東インド会社】
オランダはスペインの支配を脱するとともに登用に進出を企て、国内各地に歩が四インド貿易の会社が十四も乱立した。
オランダの連邦議会はスペイン・ポルトガル船との対抗上、これら諸企業の統合を勧め、1602年、連合オランダ東インド会社を成立させた。設立当時の資本金は六百四十五万万グルデンだった。
その前身である六つの合資会社は支社の形で存続し、カーメルと呼ばれた。
取締役会は最初七十三人で、各カーメルの幹部が横滑りし、のち六十人に減じた。しかし最高執行機関は「十七人会」と呼ばれた理事会で、その出資額に応じて書くカーメルから選ばれた。
中でも会社の全資本金の半額以上出資したアムステルダムは、十七人中八人を占めたから、連合東インド会社は、連邦を事実上支配するアムステルダム商業資本の手中にあるも同樣であった。
170404オランダ国旗出島170404長崎170404オランダ交易船170404オランダ位置図

国から与えられた特許状によれば会社は設立の02年以降二十一年間、喜望峰以東、マジェラン海峡以西の如何なる主権者とも条約を結ぶ権限を持ち、また軍隊をおき、城塞を築き、貨幣を鋳造し、地方長官・司法官を任命することを認められた。
会社は東インドにおける命令系統統一の為09年から総督を任命し、その駐在地としてバタビア(ジャカルタ)を建設し(一六一九年)、バタビアは往年のマラッカに代って、インドネシア東部の主要商品である香料を集積し、西方へ送る中継地となると同時に、アジア内各地間の貿易の中心地となった。
このほか、日本・台湾・インドシナ半島・マライ半島・インドネシア・インド洋沿岸・ペルシャ湾沿岸などにも貿易のための商館を設け、またポルトガル人・スペイン人・イギリス人に対抗するため要塞を築き、これらをつなぐ強力な艦隊を組織した。
これらの商館の中でも、日本商館は、貿易に不可欠な金・銀・銅の補給地として最も利益をあげた商館の一つだった。
また、ヨーロッパの主要な輸入品である香料を、安く、独占的に入手するため、香料の栽培地域を限定し、その他の地域ではこれを伐採させたり、予定の生産額を上回る香料は焼却して、価格を釣上げたりした。
そしてこれに反抗する原住民は殺したり、強制移住させたりした。
これらの収奪政策を行うため、会社は次第に貿易だけでなく、領土獲得に関心を持ち、十八世紀半ば以降、事実上全ジャワを支配下においた。
そのため軍事費は年々増大し、その上会社職員の腐敗、汚職、密貿易の横行などにより、十八世紀には、会社の利益は激減した。
その経営は終始恣意的かつ秘密主義的で、大株主の利益のみはかり、中小株主からしばしば出された会社の経理公開の要求もほとんどかえりみられなかった。
自国の工業製品の販路としての意義を持たぬオランダの東インド会貿易は、香料の商品価値の減少とともに衰え、会社の経営は極度に困難となり、1799年に解散するに至った。


『将軍になれなかった松平定信』―悲劇の宰相ー
【2017/03/08 18:58】 エッセイ
『将軍になれなかった松平定信』     ―田沼意次の将軍職阻止ー

私達は松平定信を「寛政の改革」を断行した人物として、日本史で勉強して知っています。
この定信は、実は徳川第八代将軍「吉宗」の孫になります。
従って、定信の「寛政の改革」の目指したものが主として「享保の改革」に範を置いたものでありました。
160229松平定信160229田沼意次160229徳川吉宗
だが、この二つの改革の間にはおよそ半世紀の時間的隔たりがあります。
徳川時代は1603年の家康の征夷代将軍に就任したのが、その幕開けであることは日本史の定説になっています。反対に終わりは何時かとなりますと簡単に断定できませんが、一般的には1867年10月の徳川慶喜の「大政奉還」を表明した時か、同年の12月の「王政復古の大号令」を以て終焉とするのが一般的です。

この間実に264年もの長きにわたって「徳川政権」が続いたことになります。

これは世界史的にみても稀有なこととされます。ですから徳川吉宗の治世の後半期がその折り返し地点になります。
和暦でいうと「享保」年間です。この翌年の1736年は元号が改まって「元文」となります。つまり、徳川政権の折り返し地点の頃から幕府はその政権維持政策としての改革や、修正の手入れが必要になってくるわけです。それは時代の変化に対応する政策の導入ということばでいいあらわすことができます。そうした意味からは、時代の転換点はまさしく享保の改革と寛政の改革の中間点に位置します。それは米を中心とした国家経済の運営手法が、時間の経過と共に現実と乖離してしまう現象が徐々に拡大して来たからともいえます。ことばを変えていえば「米経済」の政策が行き詰まったとも言うことが出来ます。
徳川期は「士農工商」とい身分階級の固定した時代でしたが、元禄年間(1688~1703)の頃から町人(商人)が台頭してきて治者階級としての武士を圧倒するようになってまいります。この背景には農業生産の技術改良や平和の打続く時代に、人々の生活が贅沢になってきたという事情があります。
米の生産性向上によって「貯蓄」という概念が発生して来ました。
また贅沢志向には金銭的なものへ「価値」を置く生活形態への変化がありました。なおかつ、米は毎年生産高が一定しているとは限りません。豊作の年もあれば不作の年もあります。それにもかかわらず領主(徳川家や大名)達は、安定した年貢収入を確保する必要に迫られているという現実があります。これが「定免法」と言われる、一定の安定的な財政収入を確保するという年貢の徴収方法です。
一方、年貢を徴収される百姓も工夫を凝らしたから、いわゆる新田開発による増収や、さらには「隠し田」といって此の「定免法」の実施に対する知恵比べになります。同時に、殖産興業政策による特産品の製造販売を目的とした「商業化」も拡大して来る世の中になりました。
170309十代将軍徳川家治

この徳川吉宗と松平定信の間に位置したのが「田沼意次」政権でした。御承知のように田沼時代は「重商主義」政策を採用したことでも、江戸期に在っては異色の政権でした。反面、賄賂が活発に行われました。
「礼節」としての贈呈と、「利」を求めての贈呈は金銭的に換算すれば雲泥の差を生じます。この結果世の中の風紀が商業主義の風潮の蔓延や紊乱となって参ります。
徳川吉宗時代の「米」経済中心から、「商業」に重点を置いて「運上金」や「冥加金」の名の下に台頭してきた商人層からの「税金徴収」によって財政収入を確保する方向へと時代が動いていきます。
そして松平定信は此れを否定する形で「享保の改革」の精神に返れ、というのを合言葉に幕府政治を運営しようとします。
この田沼意次と松平定信の「不仲」は有名でありまして、御三卿の一つである「田安家」に生れた松平定信は当然将軍になる資格を持つ家柄です。しかも徳川吉宗の孫です。これが田安家の御家の事情もあって、うまくかみ合わないのでした。
実は定信の兄に治察(はるあき)という人物がいまして、此の人が当時の田安家の当主を継ぐ立場にありましたが、残念なことに病弱な人でありました。田沼意次は田安定信の評判が高いのをよく知っていました。
吉宗に続いた第九代の将軍は徳川家重であり、その嫡子であった第十代将軍の徳川家治の二代にわたって権力者の地位(老中等)にあったのが田沼意次です。田沼はここで一計を案じます。どうしたかというと、奥州白河の松平家に定信を養子に出してしまうのです。


170309家治嫡男家基の暗殺

田安家の当主の可能性(治察が死去した場合)があった定信が、治察が健在なうちに養子に出してしまおうという作戦です。
これを将軍命令という形にしましたから定信も不本意ながら従わざるを得ません。一体に松平定信という人は「清廉潔癖型」の人物でありました。
名門の家柄に誕生し将軍後継資格もあり、頭脳明晰の評判も高い人物を将軍にさせないためには田安家から白河松平家に養子に出すことを将軍命令で行えば定信の将軍就任の可能性は消滅します。
こうすることによって、反対に田沼意次は自分の権力者としての地位保全が図れることになります。
そこに「一橋治済(はるさだ)」という人物が絡んできて、現代にも時々見られる「人間関係」による派閥争いみたいなものが演じられます。
十一代の将軍は徳川家斉(一橋家から徳川宗家を継いだ)ですが、この一橋家のルーツは田安家の弟であった宗尹(むねただ)で、どちらも徳川吉宗の子供です。つまり兄弟の関係にあって、田安宗武の家が一橋家の兄になる立場だったことから、将軍継嗣権の順位は一番が田安家となるわけであります。
家斉の父である治済という人は大変に個性的な人物でした。もっと具体的に言うと「政治的な手腕に優れた」クセ者であったのです。この人が徳川家治の後継者がいないのに付け込んで自分の子供(家斉)を十一代の将軍に就任させるために暗躍します。
したがって田沼意次と一橋治済と松平定信の三者の人間関係は非常に微妙なものがあるのです。

170309一橋家の天下
権力者の座を巡って陰に陽に駆け引きが行われ、最終的には一橋治済が一番「トク」をする立場を貫きます。
半世紀に及ぶ将軍や大御所として徳川の頂点に君臨した、十一代将軍「徳川家斉」の父親として、最も要領のよい立ち回りをしたのが「一橋治済」という「黒幕的立場」にあった人でした。
意次が自分の子息で「若年寄」に出世していた意知が、私怨から江戸城内で殺害されたのを機に権力者としての終末、つまり凋落してしまいます。この突然の凋落にはいろいろな事情が重なっていたようです。
一説には風紀紊乱、公私混同、賄賂政治の悪弊などがその原因とも言われていますが、治済はいち早く「御三家」の一つである「水戸徳川家」の藩主に、次期宰相(老中)候補に「松平定信」が望ましいとの書簡を出します。水戸の徳川家は、同じ御三家の尾張や紀伊の徳川家と相談してその提案を受け入れます。従って、松平定信は通常の経歴(役職経験)を経ずに、いきなり「老中」の座に座ります。勿論その背景には「白河藩主」として名君の名に値する治績があったこともありました。
こうして定信の「寛政の改革」が老中就任とともにスタートします。

第一目標は田沼時代の末期に起きた「天明の大飢饉」や「打ちこわし」といった事件が暗い影を落としていたので、これを克服することでした。寛政の改革が吉宗の享保の改革に範を求めたといっても、時代背景が異なりますから、まず「社会秩序」の安定化を図ることが喫緊の課題でした。ですから寛政の改革は別名、今日でいうところの「社会政策」的な性格が濃厚な改革となりました。将軍の家斉が幼少ということもあって、定信の肩書きは「将軍補佐」がつきます。

3根室に大黒屋光太夫等を護送して通商を求めたラクスマン4松平定信がラクスマンに与えた信牌7 エカテリーナ二世肖像3ラクスマン一行樣来航図170309ラクスマンの肖像写真



この時代は、新たな問題が次々と発生したことでも知られ、ロシアの南下政策としての「ラクスマン」の通商要求という、これまでの徳川政権下では起きなかった問題が起きました。また京都の朝廷では「光格天皇」の尊号事件という新たな問題も発生しています。西洋船の日本近海に表れる機会が次第に多くなってくるのもこの頃からです。
「内憂外患」というのは、天保年間に水戸の徳川斉昭が云い出した造語でしたが、実は既に1790年代からこうした状態が始まりました。そんな経緯もあって、松平定信は情熱を失ってしまったのか短期政権となってしまい将軍補佐や老中を辞職してしまいます。就任が1787年(天明七年)で、辞職(解任)が1793年(寛政五年)ですので足かけ7年間の短期政権でもありました。
ただ、定信政権を支えた同僚だった人物が幕閣に多く残っておりましたので定信の政治遺産は彼らによって引き継がれたので、短期政権だったというのは当らないかもしれません。和暦でいうと文化年間(1804~1817)の半ばころまで続いたようです。

ここで最後に一橋治済の事をもう少し書いて見ます。彼の人生は宝暦二年(1751)に誕生し文政十年(1827)の死去でありましたから、76歳の長寿を保ったことになります。つまり、松平定信が将軍補佐を解任(1793)されてから30年以上生き抜いたわけです。こうしたこともあってか、一説によると定信の辞任の原因の一つが「一橋治済」の「大御所就任」にあったと言われています。
定信の父である田安宗武は将軍家重の弟ですが、家重が言語不明瞭であったことから将軍職を継がせるべきでないと言ったといわれ、そのために吉宗から謹慎させられた経緯がありました。
その宗武の子息である定信もまた「将軍の座」の一歩手前に在りながら、ついに徳川将軍になれなかったという非運に見舞われました。それかあらぬか、定信は自分の書きのこした書物で「田沼意次」を二度も殺害しようと思って「脇差」を準備していたという事を告白しています。この二人の不仲は将に怨念の関係に在ったのでした。そこに「クセ者」の一橋治済が絡んで利害が錯綜し、複雑怪奇な裏面史となったというわけです。
今日は、あまり知られていない珍しい話を書こうっと思って、こんな話題を取り上げてみました。
次回は、ライバルであった田沼意次の知られざる素顔でも書いて見ようかと思っています。



『高杉晋作』―松下村塾の星ー
【2017/03/08 18:44】 エッセイ
『高杉晋作』ー師松陰の教えー

後年「幕末の風雲児」とよばれて、疾風のように時代を駆け抜けた男『高杉晋作』。
萩藩の格式高い良家に生誕し、一人息子の為もあって我儘放題に育てられた。
まず、その生涯の略歴から書いて見よう。
天保十年、萩藩大組士(馬廻り格ともいう、200石)、高杉小忠太の長男として、菊屋横町に生誕。母も300石大組士の出身であるから」、順調に育てば、萩藩政府の要職に就いて、藩主の側近に成れる家柄である。平たく言えば「高杉の御曹司」ということになる。ここが高杉の不思議なところであり、また人気を齎す所以なのかもしれない。
150101高杉晋作150331『留魂録』徳間150625松陰と幕末明治の志士たち 小

高杉家は「毛利元就」以来の、純然たる譜代の家臣である。高杉のエピソードには、「誇り高い」ものが感じられることがあるが、それはこのような「れっき」とした毛利のエリート藩士の誇りによるものであると考えられる。
後の事であるが、吉田松陰の主宰する「松下村塾」にあって、高杉の家柄は別格であった。それは、石高によることもあるが、これは相対的なもので、あまりあてにすると間違いが生じる。藩主との関係が大事なのだ。高杉家は代々「藩官僚」として、重要な職務を担当する家柄である。げんに、父親の高杉小忠太(春樹)は一貫して、藩の重要ポストについている。即ち、「小姓役」・「配膳役」・「小納戸役」・「奥番頭」・「直目付役」といった役職を歴任している。この家柄が、時に高杉晋作の誇りになり、反対に、父親の保守性に悩まされたり、吉田松陰との接触を忌避されたりと、他の塾生とは際立った違いを見せている。

160621松下村塾塾舎

このあたりの事情を、塾生仲間に書いた「僕、一人の愚父を持ち居り候。日夜、僕を呼びつけ俗論を申し聞かせ候。僕も俗論とは相考え候えども、父の事ゆえ、いかんとも致し方御座無く候。恥じつ憂えつ此れ迄諸君と御交わり申上げ候。」と、仲間達と思う様に行動を共に出来ない悩みを打ち明けているのである。名門の父親としては、一人息子の晋作が、多くの批判のある危険な政治活動を認めたがらない、特殊な事情がったのである。久坂玄瑞と並んで「松下村塾の双璧」と目されていただけに、このジレンマは晋作にとって辛かったに違いない。


翻って、高杉晋作自身は「毛利藩」において、どんなポストに就任したか、書いて見よう。全て吉田松陰が刑死してからのことである。「明倫館都講暫役」・世子の「小姓役」・「学習院用掛」・「奇兵隊創設命令と総督」・「政務座役」・「奥番頭役」・「四国連合艦隊停戦講和交渉の正使」・「海軍御興隆御用掛」等々、煌びやかで、多彩をきわめる経歴である。此のほか、上海行き、蒸気船の無断購入、志士活動として英国公使館焼き討ち、亡命、謹慎等々縦横無尽の勝手放題に見える行動をしても、打ち首になるどころか、ここ一番には必ず高杉の活躍の「場」が与えられる。そして最後の極め付けは「功山寺挙兵の藩内クーデター」と「四境戦争」の小倉口の総指揮官である。この勝利は、高杉なくしては起り得なかったのではないか。こうした高杉の決断と行動力は他の追随を許さない。これが、高杉晋作という人物の人気の秘訣であるかもしれない。
神出鬼没とういう言葉を地で行っているかのような行動経歴である。

まさに「暴れん坊」のイメージである。吉田松陰が、高杉の教育を巡って桂小五郎と話し合ったことがある。これは、村塾内の仲間達から傲慢であるとして浮いてしまったことの善後策を話し合ったのであるが、松陰は「欠点を矯正するよりも有り余る才能と長所を伸ばすべきである」との立場を取った。加えて「10年後に國家の大事をなす時は、僕は高杉に諮る」と言って、桂を説得したことでもわかるように、才能・能力が抜きんでていたエピソードを示すものと云えるだろう。松陰が高杉の頑固さを「陽頑」と評して、同様に期待をした吉田稔麿の「陰頑」と対比したのである。毛並みの良さが、陽気であったというべきなのだろう。

この吉田松陰と高杉晋作の関係は「吉田松陰なくして高杉晋作なし」といえる。確かに、高杉の才能を見出したのは、松陰の慧眼であった。「出会いの妙」を大きく開花させたのは、師としての吉田松陰であった。こういう所に松陰の「非凡」な眼力があった。同時に、天分としての高杉の才能を存分に引き出した「教育者としての松陰」の偉大なところといえるだろう。それゆえに、「明治政界の指導者」を多く輩出したともいえる。
170309高杉晋作功山寺挙兵170309功山寺



同時に高杉の松陰先生を信頼すること「一方ならぬもの」があった。松陰の刑死する二ケ月程前に「丈夫(武士)死すべきところ如何?」と高杉が問うたのに対して、松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでもしぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と答えている。
だから、高杉は、武士としての体裁は構わずに、逃げるべき時は逃げた。反対に、命を懸けた乾坤一擲の時は、将に生死を度外視して敢然と権力にも立ち向かったのである。
一見、破天荒な人生に見える晋作の生涯は、実は師の松陰の教えをしっかりと守って行動したのであった。
後輩の伊藤博文の書いた「墓碑銘」に見られるように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如く衆目駭然、あえて正視するなき・・・・・・」は、晋作の行動の人としての真骨頂であったのであろうと思われる。たられば・・・・・・というのは、歴史に禁物だが、高杉晋作が元気に明治の世を見届けたら、と思うのである。


『上杉鷹山』ー米沢藩の再建者②
【2017/03/08 18:17】 エッセイ
「上杉鷹山」②

上杉鷹山が米沢・第九代藩主の家督を継いだ頃は、各藩とも「幕藩体制」の統治機構が現実と乖離して、新たな「藩政改革の努力」が強いられる時代であった。肥後熊本の「細川重賢」、奥州白河の「松平定信」、出羽秋田の「佐竹義和」などが中期の藩政改革を断行した名君として知られる。当然、上杉鷹山はその筆頭格である。江戸期の経済は原則として「米」を中心としたものであった。「農業は治国の本」でありながら、その「本」である農村が疲弊していたのは、時代の変容に十分な対応努力がなされていなかったのであった。従って、藩政の喫緊の課題は「農業の振興策」であったが、この頃から百姓が二極分化を来すようになっていた。「本百姓」と「つぶれ百姓」という現実となって農村人口の減少を招いたのである。「米沢の領民」は疲弊しきっていたのであった。それは、江戸開封当初の三十万石であったものが、寛文四(1664)年に、藩主の綱勝が急死して半知削封という不運に遭遇して、なお家臣はそのままの人数を保持して農民にしわ寄せを行ったことから窮乏を招いたのであった。

現代でもそうだが、「国力」と「人口」は不可分の関係で捉えなければならない。藩の
財源は「米」である。鷹山が「倹約令」とともに「農村復興」に最初に取り組み、農村人口の増加を目指したのも、統治の基本が何であるかを知悉していたので農村再興から手を付けたと考えてよい。安永元(1772)年に白子・春日神社に参詣の後、田地開墾の儀式である「藉田の礼」を行った。
170309上杉鷹山藉田の碑


これは藩主が自ら先頭に立って、農耕の重視をしているということを示し、開墾を奨励する狙いがあるわけである。藩主に続いて、家老以下の重臣、とくに農業政策にかかわる、藩政関係者が参列してそれは行われた。古代中国の周の時代に皇帝が行った儀式にもとづくものであるが、鷹山の率先垂範の思いが込められたものであったろうし、儀式のあとの「御神酒」が、御奉行以下農民にも振舞われたという。そして行政レベルでも農村支配機構を整備拡張して、改革を推進する体制を整え、さらには水不足を解消するために「灌漑用水」を確保して水田面積を拡大するため、黒井堰の造成と飯豊山穴堰の掘削を成し遂げた。こうした藩を挙げての土木技術を駆使しての農業振興策は、やがて実を結ぶこととなる。

もう一つの改革の柱は「殖産興業政策」であった。農民がコメの生産に勤しみながらも、生活維持のために家計の安定を期した「副業」も導入したのである。これには二重の意味があって、領主的商品経済の拡充をも視野に入れた、農民の家計維持策と藩財政の好転が期されているのである。それは、漆、桑、楮などの増殖であった。一般に「百万本政策」とも言われる、藩を挙げての植樹の奨励である。これはやがて「特産品」として藩財政の立て直しに貢献するばかりでなく、「幕府からの藩経済の自立」につながって行く。実はこうした藩政改革の努力は反面では幕府に頼らない自治政策として、幕府との一定の距離を置くことになった。後年、天保から幕末にかけて「経済力」を獲得した藩が台頭し、明治維新の遠因をなすことに至るのであるが、鷹山自身はそこまでは視野に入っていない。

そうして鷹山は天明五(1785)年、三十五歳の若さを以て家督を先代の重定の嫡子に譲るのである。そこには、改革はまだこの時点では大きな成果を見ていないが、こうした早過ぎるかのような隠居は今後も継続させるとの意味合いが込められていた。従って上杉鷹山の藩政改革を語る場合、一般的には「前期」と「後期」に分けられるが、その前に有名な「伝国の辞」を見ておく必要がある。これは鷹山の政治理念、国家観、藩主としての心得を藩内に宣言したとものといえるが、現代人である私達が読んでも、そのまま首肯できるものである。本来は、家督を治廣に譲るに際して与えられたものであるが、多くのものを私達に教えてくれる内容である。簡略であるので、読み下しで記します。

170309伝国の辞の碑


一、 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものには之無く候。
一、 人民は、国家に属したる人民にして、我私すべきものには之無く候。
一、 国家人民の為に立てたる君にて、君の為に国家人民には之無く候。
 右三条、御遺念有間敷候事。
天明五年巳年二月七日                   治憲花押
  治廣殿  机前


こうして、鷹山は先代藩主・重定の子である治廣に家督を譲ると同時に、この訓示三ケ条を書き与えたのであった。さらに、世子御傅役には鷹山自身の御側役であった木村丈八を当て、世子補導を託しながら藩主の後見をすることになる。「米国大統領・ケネディ」が尊敬する日本人に上杉鷹山を挙げたのは、おそらくこの「伝国の辞」の意味するものを知っていたのに違いない。現代の政治家と自認する人達は、全員がこれを学ぶべきだと思う。

藩主の座にあること十九年、三十五才での隠居はいかにも早い印象があるが、これは鷹山一代での「藩政改革」でなく、常に改革の精神で「米沢藩」ひいては、「上杉家」の永続を願ってのことと解すべきであろうと思われる。「藩主」たるもの、人民を大切にしなくてはならないというのが鷹山の政治哲学でもあった。まさに、リンカーン米国大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」に先立つ政治哲学であったと云える。事実これを裏書きすかのような美談(逸話)が残されている。
170309上杉鷹山立像


「老婆の手紙」として、これもまた有名なピソードなので記して紹介することにします。これには、前段としての説明が必要なので、まずそれを記します。安永六(1777)年九月、御城の北門に老女が見えて、約束した「刈り上げ餅」を献上に持参したので、御台所へ行かせて欲しいといい、「福田餅」一包を持ってきた。その訳を聞いたところ、殿様が夕方、老たる嫗が忙しく稲の取り入れをしているのを見て、家中のふりをして、自らこれを手伝ってくれた。そして手伝えば刈り上げ餅でも貰えるかなと戯れに云うので、老婆はそれが殿様とはつい知らず、その約束通り届けたところ、鷹山はこれを受け取り、金子等を与え、礼を尽くしてくれたという。このことに関する農婦の手紙が残っているので、全文を記します。

 一フデ申シ上ゲマイラセ候、アレカラオトサタナク候アイダ タツシャデカセギオルモノトオモイオリ候 オラエモタッシャデオル アンシンナサレタク候 アキエネノザンキリボシシマイ ユーダチガキソウデ キヲモンデイタラ 二タリノオサムライ トリカカッテ オテツダイウケテ カエリニカリアゲモチアゲモウス ドコヘオトドケスルカ  トキイタラ オカミヤシキ キタノゴモンカラ イウテオクトノコト ソレデ フクデモチ 三十三マルメテ モッテユキ候トコロ オサムライトコガ オトノサマデアッタノデ          
コシガヌケルバカリデ タマゲハテ申シ候 ソシテ ゴホウビニ ギン五マイイタダキ候 
ソレデ カナイジュウト マゴコノコラズニ タビクレヤリ候 オマイノコマツノニモヤルカラ オトノサマヨリハイヨーモノトシテ ダイジニ ハカセラレベク候 ソシテ マメニソタテラルベク クレグレモネガイアグ候
一二かつ六か                          トウベイ
                                ヒデヨ
   おかのどの
170909上杉鷹山老婆の手紙


この手紙は、トウベイ・ヒデヨがおかのという女に宛てて書かれたものだが、全文がカタカナ文なのと、米沢独特の言葉が使われているので、現代語に置き換えてみる。

稲仕舞の忙しい夕方、夕立が来そうで気をもんでいるところへ、二人の武士が通りかかり、手伝ってくれた。御礼に「刈り上げ餅」を拵えてお届けしたいので、どこへ持参したらよいかと聞いたら、御上屋敷の北門へ云っておくとのこと。それで「刈り上げ」の日に福田餅を三十三個届けに行ったら、あの時のお侍が、実は「御殿様」だったので腰が抜けるほど驚いた。そのお礼に銀五枚を頂いた。そこで家中と「孫・子」残らず「足袋」を買ってやることにして、宛先(お前)の、おかのの孫マツノにも差上げるから、お殿様からの拝領物として大事に使って欲しい。という程の意味である。

これは、上杉鷹山の「民を大事にする」逸話で、後期の改革で中心人物となった「莅戸善政」の著述になる、鷹山の言行録『翹楚篇』に書かれている。心温まる逸話である。鷹山はこのほかに養蚕も隠居所で行い、後に国産品の第一となって絹織とともに重要視されたようである。こうした改革事業の中心は「青莪社」グループの人達で、鷹山の幼い頃の侍医であり儒者でもあった藁科松柏とその繋がりの人達であった。前半は「江戸家老」にあった竹俣当綱、後半は「中老」として鷹山の信頼の厚かった莅戸善政をはじめとする人たちが推進したのである。「百万本」の植樹は作家の藤沢周平の『漆の実のみのる国』という小説のタイトルのように、米沢の殖産興業の一環として、やがて藩の財政を好転させるだけでなく、領民を慈しむ藩政の成果となるわけである。江戸の本草学者を招いて、医師や藩士に薬草学を学ばせ、一方では藩営の「縮織業」を導入し、青苧の栽培や織物の指導者を「小千谷」から招くなど鷹山の藩政改革は長く善政の模範となった。将軍家斉から老中の連署を以て幕府から賞されたのもこうした「改革の努力」の成果と考えられる。

鷹山はまた学問の奨励も行い、「細井平洲」を招聘して学び、数度にわたり米沢にも足を運ばせ、家臣や領民と共に活用したことで知られる。細井平洲を米沢で迎えるにあたっては、鷹山自らお城の郊外まで迎えに出向いたという。普通の藩主としては及びもつかない行動であり、学問や師を尊敬する態度はまことに謙虚であったと伝えられている。

170309藁科松伯の墓170309平洲の米沢招聘170309米沢興譲館170309米沢興譲館創立碑


今日でも、歴史的な伝統校の「米沢興譲館」は細井平洲の命名になるものです。江戸期の「藩校」は中期以降に各藩とも創設されるが、これも学問によって藩政を改善に向かわせるための、人材を養成する目的もあったようである。
南九州の小藩から、名門上杉家を継ぐにあたって書き与えられた「訓戒書」を常に携行して、存続を危ぶまれた「米沢藩」を見事に立ち直らせた上杉鷹山。江戸期を通じて「名君中の名君」と称えられるのも、この様な継続する努力と領民を大切にし、「民と共に藩財政を蘇生」させた手腕や「鷹山精神」は現在にも生き続けていると思われる。現代の合理主義的精神と、儒教の教示を見事なまでに実践した「出羽・米沢藩主」、上杉鷹山に学ぶことは汲めども尽きないものがあります。
『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』との名言を遺した上杉鷹山、困難に立ち向かう藩主としての使命感を味わいながら私達は学び続けることが肝要との思いを強くするのです。


『上杉鷹山ー米沢藩の再建者』ー①
【2017/03/08 18:14】 エッセイ

『上杉鷹山』 -江戸期の名君ー①

昭和36年(1961年)1月、米国第35代大統領に就任した「G・F・ケネディ」は異色ずくめの大統領だった。競った「R・ニクソン」との大統領選挙史上でも例のない程の接戦の末に勝利したこと。そして、現在は公用語として禁止されている「WASP」に該当しない、アイルランド系の「カトリック教徒」であった。さらに反対者の多いとされた米国南部のテキサス州・ダラスで何者かに銃殺されるという衝撃的な生涯を閉じた。任期半ばでの死であった。現在でも暗殺者は特定されていない。

160229上杉鷹山ケネディ大統領



就任間もないケネディ大統領に日本の新聞記者が「尊敬する日本人は誰か」と質問したところ、即座に、それは「ウエスギヨウザン」です。という答えが返って来たのだが、質問した記者たちが「ウエスギヨウザン」って誰だ。どういう人物で何をした人なのか知らなかったというエピソードが伝えられているのは有名な話で、大半の人達が知らなかったのであった。現在では岩波文庫の『代表的日本人』(内村鑑三著)で読むことが出来るし、九十年代に「上杉鷹山」ブームが起きて、沢山の出版物が刊行されたことは記憶に新しいところである。戦前の『尋常小学修身書』でも上杉鷹山は「倹約」の稿で採り上げられている。将軍補佐で老中となった松平定信から、「全ての藩主の鑑」と激賞され、在世中にして名君としての評価が高かった。事実、天明七(1787)年九月に将軍家斉から、在職中の善政で表彰されている。徳川二百六十年余の中で、「名君中の名君」と誰もが称える、米沢藩主であった。

さて、上杉鷹山は宝暦元年(1751)、日向三万石の第六代高鍋藩主・秋月種美の二男として、秋月家の江戸上屋敷一本松邸に生れた。母は筑前秋月藩第四代藩主黒田長貞(長治)の娘(春姫)で、五代藩主上杉綱憲(吉良義央の長男)の娘豊姫(瑞耀院)であるので、八代藩主の上杉重定とは従姉の関係である。因みに黒田長治(幼名長貞)は筑前の外様大名である黒田家五十二万石の支藩の藩主である。鷹山は幼時から優れた才能と孝心の持ち主として評判であったと言われ、後年の名君・鷹山の功績や人と為りを考え合わせる時、興味深いものがある。「栴檀は双葉より芳し」のことば通りであったようだ。重定には正室の後継ぎがなく、幸姫(よしひめ)のみが成長して、養子内約で鷹山が決定した四か月前に側室の勝煕が米沢で誕生しているが、これは側室の子である事と、行末の成長が現代のように確実視されなかったという理由によって内約はそのまま実行された。

鷹山が高鍋三万石の小藩の二男から、名門上杉家に養子が決定したのは幼時からの評判と、瑞耀院(吉良義央の孫)の働きかけがあったからと言われる。縁戚からの養子ということであるが、江戸期を考える時、「養子制度」と云うのは家系を維持していく上で重要な役割を持つことに注意をすべきである。それは、将軍家から大名、藩士に至るまで養子制度の活用で「家」が継承されていくのである。紀州藩主から八代将軍となった徳川吉宗や、十一代将軍一橋家斉、十四代の徳川家茂、十五代一橋慶喜らがこれによって将軍職を継いでいる。幕末の藩主でも伊達宗城は旗本の山口家からの養子であるし、越前の松平春嶽は御三卿の一つ田安家からの養子である。萩藩の毛利敬親や土佐藩の山内容堂、などは名君として知られるが、宗家の家柄でなく、分家の家系に誕生しながら養子制度の下で藩主の座についたという経緯を持っている。吉田松陰も杉家に生れながら二男ということで吉田家に養子に入って「家学」である山鹿流軍学師範となったのであった。江戸期の「家」は長子相続を原則としたが此れを補ったのが養子制度であった。

話を本論に戻そう。養子が決った鷹山は宝暦十年(1760)、秋月家の一本松邸から上桜田の上杉家上屋敷へ移った。なお鷹山は号であるが、これが最も人口に膾炙したものであると思うので、ここでは鷹山の名称を使う。明和元年(1764)に将軍家治にお目見えし、同年元服して従四位に叙されて弾正大弼治憲と改名した。四年後に家督を継いで出羽米沢藩主となった。しかし、正室の幸姫(前藩主重定の娘)は心身の発達が不十分で、ひな飾りや玩具遊びといった「ママゴト」のような遊び相手を続けたという。鷹山の「忍の人生」はここから始まるのである。家格がものをいった大名家で、小藩の秋月家から名門大名の上杉家に養子入りするにあたって、心配した老臣「三好善大夫重道」(宝永元年・1704~宝暦十年・1761、十一月)は懇切な訓戒書を鷹山に贈っている。これは上杉鷹山の事績を綴った大著『鷹山公世紀』(池田成章編纂:明治三十九年、吉川弘文館刊行)で読むことが出来る。長文なので略記すると、養家を継ぐからには決して恥辱を残す事があってはならぬとし、そのためには忠孝や学問、武芸など上杉家の作法に従い、それに違犯することなきよう生涯にわたって努力精進することなどが詳しく書かれている。三万石という小藩の出身から名門の上杉三十万石に養子として入ることの覚悟を促したもので、鷹山は生涯にわたって此れを秘蔵し続けて守り抜いたと言われる。こうした所に鷹山の人となりを見る事が出来る。鷹山が十歳の頃と思われるから、如何に強固な意志の持ち主だったかが解かる。

170309平洲の米沢招聘

鷹山の「お国入り」は明和六年(1769)であるが、この年に鷹山の師範であり、側医・儒者でもあった「藁科松柏」が死去している。この松柏は時代の危機を示す非常に有名な言葉を残しているので紹介しておきたい。「そこもここも一揆徒党の沙汰にて、日光が済めば山縣大貮が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路ももめれば越路もかしましく、斯様に百姓の心騒がしく成り行き候も、畢竟は一度は治り、一度はみだれ候天道の事に御座候えば、そろりそろりと天下のゆるる兆しも有るべく御座候哉」(鷹山公世紀巻之一)。これは米沢藩士の小川源左衛門の藩政批判への復書の中で書かれている。明和五年(1768)十二月のことで、この頃、明和事件や佐渡一揆、日光社参の伝馬騒動が起きており、幕府は上方や遠国筋農民の徒党や強訴の取り締まりを命じる程であった。田沼意次が徳川家治の側用人となる一方で、鷹山が米沢藩の藩政改革に着手した頃であった。鷹山の改革は、江戸家老の竹俣当綱や藁科松柏、後の中老莅戸善政等のブレーンを擁して着手されたが、重定の頃からの側近であった譜代の老臣・保守派と改革派の竹俣当綱等が対立し、反乱(七家騒動)を起し、改革中止を迫る難儀に遭遇したのであった。安永二年(1773)六月、藩主鷹山に提出された七人の重臣の署名による「言上」であるが、四十五条からなる訴状で「改革を推進する竹俣当綱」への弾劾を含む、改革の政策が誤りであるとする内容であった。いつの世も改革には推進派と反対派(革新対保守)の確執はつきものである。譜代の老臣達からみれば、改革はこれまでの政治手法を否定され、尚且つ人事面でも冷遇されるのが常で、それらは当然不満となって表れる。そうして、七家の代表二人が訴状を持って本丸の鷹山に謁し、即刻に訴状への裁断を迫った。この背景には「米沢藩の極端な財政窮状」があり、この改革を断行しない限り藩が立ち行かなくなるという、危機的状況への対処が必要であった。事実、鷹山が藩主となる直前には「藩」を返上する意見が重臣たちで真剣に話し合われるという事態にまでになっていた。藩主もその覚悟であったと言われ、領地は荒れ果て、農民は逃亡するという深刻な藩政危機の状態にあった。こうした危機に対処するために、鷹山による改革の断行が行われなければならない切羽詰まった窮状があったのである。したがって、保守的な老臣達による、それまでの政治を改革しない限り、この窮状からの脱出は困難であった。その改革グループが「青莪社」を中心とした好学の士たちの集まりで、竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政という鷹山の側近にある人達であった。

170309父は上杉鷹山を称賛記事キャロラインケネディ

此れを年代順に整理してみると次のようになる。便宜上西暦表示とします。
上杉家への養子内約(1759・九才)、上杉家桜田邸へ移る(1760・十才)、竹俣当綱江戸家老(1761・十一才)、森平右衛門殺害と領土の幕府返納問題(1763・十三才)、家督(1767・十七才)、同年米沢春日社に誓文、大倹執行の誓詞、宿老との対立顕在化、米沢初入部と竹俣町奉行、藁科死去(1769・十九才)七家騒動(1773・二十三才)となる。そして三十五才で隠居(1785となり)、先代の嫡子治広に家督を譲る。此の時、有名な「伝国の辞」を書き与える。将軍家斉、在職中の善政を賞す(1787・三十七才)、以後隠居で後見役として藩政改革の継続。1822(文政五年)に七十二才で死去。このように、上杉鷹山の藩政改革・財政再建は「藩主として」、「後見役として」の二度にわたる、息の長いものであった。



『村田清風』--長州藩・天保の改革者
【2017/03/08 11:11】 エッセイ

【村田清風】―天保の藩政改革者―

天保元(一八三〇)年八月、長州藩の瀬戸内地方の各宰判(郡に相当)で「藩専売制」反対の一揆が発生した。その翌年の七月、萩から三田尻へ帰る「藩産物方御用商人」の石見屋嘉左衛門の駕籠と荷物の中から「皮革」が発見されたことを発端として、潘全域を巻き込む「大一揆』が発生した。長州藩ではこれを「天保の大一揆」と呼称している。
長州産の皮革は「長門皮」と呼ばれ、上方(大坂・京都)では上等品として評価が高かったので高価で販売できたのである。だから潘の役人と結託して暴利の期待できる長門皮を始めとして特産物を潘の「産物会所」で統制を加えていたものを、「抜け荷」として秘かに運ぶ所を現行犯的に発見したので農民は一揆をおこしたのである。藩の役人はこうした統制などに商人を利用していたので、農民にとってはこうした統制の裏で「抜け駆け」を監視する必要があったのである。結果は、一行の三人を縛り上げ、三田尻に連行したが、途中からこれを聞いた農民が続々と加わり、石見屋の家を打ち毀しはじめた。

160229村田清風161010毛利敬親



この藩内各地を巻き込んだ一揆の参加した村は百を越え、十三万人を超す農民が一揆に加わったとされる。当然、潘政は滞り、その対策に乗り出さざるを得なかった。吉田宰判の代官だった人物は一揆の首謀者たちに覚書を示した。そこには 一、皆々の腹立ちはもっともなことである。一、上様も気の毒に思っておられる。一、一刻も早く静まってほしい。の三箇条が書かれていた。そして、年貢米の計り方を改正し、百姓が申し立てている「産物会所の廃止」と自由売買の要求や、不正を働く村役人を追放したのであった。
当時の長州藩は巨額の負債を抱え、その解消策として農民たちが商品作物を自由な売買することを禁止し、一方で潘の専売制を強化して藩財政の好転・改善を図ろうとしていた。そのため農民の生活は極端に引き締められていた。この大一揆の背後にあるものが「藩庁役人と御用商人」との結託による「悪政」であると見抜いたのが、村田清風であった。こうした大一揆が発生するのは藩政を司る役人たちが「善政」を行っていないからというわけである。同時に清風は『鎌倉以来六百年、芸(安芸)來三百年の御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事』と自著(此度談)で云っている。即ち伝統ある毛利家と防長二州を百姓どもに蹴散らされて残念であるとの感慨である。反面では、百姓たちが一揆を起さなければならないような事態は、政治を統べる諸役所にあるとも云っている。この年、村田清風は表番頭格に列し「江戸当役用談役」という藩の重要な職務(実質的に家老職に近い)の立場にあった。

長州藩の場合は、藩主とその一門、永代家老二家、寄組の身分階級があり、これらが藩内における「貴族」扱いで、「城から近い堀之内」に邸宅を構えていた。その下の階級に藩士団の中核をなす「大組」(八組とも)があり、高杉晋作や桂小五郎らはこの階級に属し、吉田松陰などは更に下級で家臣として最下級だった。村田清風もこの大組階級の家格で、家老には原則としてなれない階級であった。いわば中級家臣団の一人であったが、清風は人材としては抜群の能力があったことから「江戸当役用談役」という家老級の役職に就き、後年の「天保の改革」の指揮をとることになる。また彼は享和二(一八〇二)年、ニ十歳の時義兄の要務に随行して江戸に出て松平定信に逢い、政治の要諦を伝授されていた。清風は藩庁に対し、多くの建言書を提出していたこともあって、天保八年毛利敬親が新藩主に襲封すると、藩政の改革に乗り出すことになった。公私の区別の厳格な認識を示す逸話が残されているのをみても、清風の願いが藩の善政実施への情熱が高かったものと推察される。「鎌倉以来」が毛利の家臣団の矜持となっていたようである。この意味では、薩摩藩の「島津家」も同様の、鎌倉以来と云う矜持を抱いていただろう。「薩長」の原点が、武家の家門としての誇りとして、「徳川何するものぞ!」という名門意識が内々で働いていたに違いない。事実、島津家も毛利家も鎌倉幕府創設以来の有力な御家人としての誇りある家柄だった。

170425村田清風と藩校明倫館



天保十一年五月と七月に「毛利藩政府」は藩政改革のための大会議を開き、清風や後に好敵手となる坪井九右衛門等をはじめとする有識の士から意見開陳の場を持った。この様子を「群才彙進し、諸職其人を得たり。積年因習の弊風是において將一洗せんとす」と『防長回天史』は記していて、優秀な人材を登用し「藩政の総合的な改革」に藩を挙げて取り組む意気込みが伝わってくるようである。このあたりに同じ頃に改革を進めていた薩摩藩との違いを見ることが出来る。この頃の長州藩は、村田清風が「八万貫の大敵」と呼んだ多額の藩債と多くの家臣も借財(公・私とも)が嵩んで困窮状態にあったのである。結果として御用商人と一部の役人が実権を握っている有様であった。こうした現状に対して、清風は改革の実施にあたって「破綻した藩の財政状況」の現状を藩士・領民に公開して「挙潘一致の協力」を求め、国産会所の専売制下にあった藍の統制を撤廃し、綿・木綿織の自由売買を認め、さらに櫨・蠟の統制を弛めて商品生産者的農民の要求に応じたのであった。藩が抱えていた膨大な負債は、無利息元金据え置き・元金据え置き利払い・年賦償還などの方法に因って改善に向かい、藩士や農民の協力によって藩債は最終的に償還される。ここまでは改革は順調に進められたが、困窮した藩士の借財を救済すべく実施した「三十七カ年皆済仕法」の実施を発令したことから、藩士に貸付けの銀の回収が三十七カ年も延期されることから、商人資本と反対派は猛烈な反対運動を展開した。薩摩藩程でないにせよ、この頃の各藩は大なり小なり藩財政が「火の車」状態であった。この傾向は江戸中期の宝暦年間(一七五一~六三)から顕著になり、肥後熊本の細川重賢や出羽米沢の上杉鷹山らが苦心して立て直し、長州藩も同様であった。清風の実施した政策の柱は「四白政策」と言われる「長州の特産物」を潘営の形で督励・育成し、一方では質素倹約による「支出の削減化」を図った。さらに「藩営の商社」ともいうべき「下関の越荷方」の拡大を実施した事である。北前船に代表される、大坂への各国の特産品を一時保管して相場を見極めて、上方の価格が高騰した時にそれを輸送して売りさばくという金融政策でもあった。これが功を奏して「馬関(下関)」は経済的な要衝として、潘をあげて重要な役割を担うことになる。こうした、一種の倉庫業の営業開設には相当の多額な資金が先行投資されなければならないが、ここが長州藩の特異なところであって、実は江戸中期からの「撫育金」という一般会計と分離した貯蓄がなされていたのである。この撫育金は「宝暦の改革」を主導した八代藩主、「毛利重就」によって「宝暦検地」が行われ、四万一千石の増額となったのを、財源に設置されたもので、藩の一般会計から独立したものであった。

170425義なくば立たず村田清風


長州藩の因習とは藩の役人と結託して暴利をむさぼる特権商人の跋扈する実態を意味していた。清風はこうしたことのしわ寄せが百姓をして忍耐の限界から「天保の大一揆」となったことを見抜いていたのであった。そうであるから「抑商主義」を思い切って導入し、一方では藩営の事業を督励して「藩庫の潤い」を促進させる政策を採用したのである。しかし、これをマクロ的にみると幕藩体制の保全・維持政策の努力であったということもできる。武士の経済的困窮を救うべく、清風の建策として発令された「三十七カ年皆済仕法」は、既存の利益を確保しようとしていた有力商人と、清風に対峙していた一派の反発を招き村田は退陣を余儀なくされた。弘化二(一八四五)年のことであった。しかし、彼の私心なき考えは後輩の周布政之助や吉田松陰に受けつがれ、幕末の最終段階になって高杉晋作の活躍と云う藩内抗争の勝利の伏線へと連なって行くのである。このことは長州藩内では「革新派と俗論派」とに区分けされるが、これは勝利した側の呼称である。村田清風に対峙していた「坪井九右衛門一派」(俗論派)は、清風の退陣と共に特権商人階級の擁護策を復活させる「公内借捌法」実施を断行するのであるが、間もなく多くの支持を失って退陣となる。この「公内借捌法」というのは、お上から借りた公借金は法によって無借とし、内借(内々で私的に借りた借金)も、お上の手により立て替え払いとしてやり、これも無借とするものであった。何時の世も改革には既存の利益体制を保持したい一派とそれを解決しない限り改善の実現は困難として積極的に支持する一群とに分裂するのは、現代でも再三にわたって私達が見聞するところである。
村田清風の行った「天保の改革」は、「天保二年の大一揆」に淵源を持つと考えられるので、時に経済財政方面に力点が置かれた説明がなされるのは致し方ないが、商品経済との格闘に取り組んだのは事実であり、当時の潘は大幅な自治を保持していたことから一藩をどのように統治するかが問われたのであった。従って「国家は経済のみにあらず」で、この頃は西欧各国の艦船が日本の近海に出没を繰り返していた。その真意は時に「開国」や「通商要求」、あるいは「捕鯨船の救済策要請」や「漂流民の護送」等々の形をとったが、大きくは西欧資本主義社会の発展形態としての行動であった。特に清風の改革が進行中に「モリソン号事件」や「アヘン戦争」の情報に衝撃をうけ、海防問題が幕府のみならず政治問題化して来た。総じていえば、徳川幕府の統治策は「国内統治」に専念していれば事足りた事であったのである。そのためには「鎖国」という、徳川幕府の対外政策は大変便利に機能していたということが出来る。これが、国防意識が育たず西欧に大きく後れを取ることになったのは何とも皮肉なことであった。村田清風は早くに国防意識を持っていたことから、「軍事改革」や「洋学と医学」の取り入れ、人勢育成のための「明倫館の大増築」も行った。薩摩藩程に明確な改革の成果は得られなかったが、村田の考えは後継者に引き継がれて周布政之助や吉田松陰、高杉晋作らに引き継がれていくのである。

吉田松陰


吉田松陰は清風死去の報に接して「清風の伝記編纂」を小田村伊之助や友人の土屋䔥海に依頼しているのである。結果的には実現しなかったが、今日「山口県教育会」より上下二巻として「村田清風全集」が刊行されている。此の事を見ても、幕末長州間の活躍の基礎を作ったのは間違いなく村田清風の功績として評価することが出来る。長州藩「天保の改革」の出発時の潘債八万貫は安政年間に返済が完了しているので、長州も藩の改革は成功したと評価することが出来る。そして何よりも潘を挙げての殖産興業政策、とりわけ下関の「越荷方」は藩内の商品でなく他国の商品を活用することができ、そこに長年にわたる「撫育金」の備えがあったことが大きく貢献したものと思える。
この天保期の改革が成功したか否かが、幕末政局のカギとなったのであった。





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