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「幽囚録」の対外政策
【2016/09/02 19:13】 エッセイ
「松陰の国家観と対外政策」を考える

(1)、松陰の最初の修業地は、鎮西遊学で「海外情報」や「海防研究」に取り組んだのであった。長崎・平戸で、迫りくる西欧の東漸に如何に対処するか貪欲なまでに関連書物を読破して対策を見出そうとしたのであった。「アヘン戦争」や「ロシアの南下政策」に関する書物『阿芙蓉彙聞』、『近時海国必読書』『北寇杞憂』、『西洋諸夷略表』、『海防私策』など、国防に関するものを集中して読んだ。同時に兵学以外の『伝習録』や『新論』なども読み、思想的にも成長を遂げた第一回の修業は世界の大勢や列強の東洋侵略のあり方を学ぶ成果となった。「藩の防衛」から「日本の防衛」へと視野の拡大即ち「国家観」の拡大変容である。
(2)、十八世紀以来、西欧とりわけ英国で勃興、発展を遂げた産業革命の成果は資本主義国家への道を歩み、その結果が東洋侵略の原因となったことを知った。一方で西欧の各国は対外(国家間)戦争の結果、近隣国家を征服や併合し「国家の版図」を拡張することを知るに及んで「幕藩体制国家」を見直さなければと考える。即ち民族や国家の繁栄、軍事力の整備なくして、自国の独立はあり得ないとの認識に至る。そうした意味からも「洋学」に取り組み、老中・眞田幸貫(海防掛)の顧問として『海防八策』に纏め上げ、幕府に建白した佐久間象山の主張は「国家観」を藩から日本への視野を広げるのに意義ある事であった。この佐久間象山に入門して大いに嘱望された一人が吉田松陰なのであった。(松陰書簡:嘉永四年五月二十七日)
(3)、そうした情勢の所へ「ペリーの来航」による「砲艦外交」に屈した「日米和親条約」締結による開国があった。この「砲艦外交」は「国家の命運」を憂慮させ、同時に「外国のために支配されはしないかという恐怖心」が「ナショナリズム」を喚起させた。吉田松陰は、自著の論文である『幽囚録』(佐久間象山からの慫慂で著述)で下田蹈海の挙に出た理由を語っている。「宜しく俊才の士数十名を撰び、蘭船に付して海外に出し、其れらをして便宜事に従ひ艦を購はしむべし、則ち往返の間、海勢を識り、操舟に熟し、且つ萬国の情形を知るを得ん、其の益たるや大なりと。因って竊に建白する所あり。然れども官能く之れを断行することなし。予が航海の志實に此に決す」(全集第二巻、四四頁)と。これは、海防策の一手段ではあるが、実は兵学でいう「間諜」の役目をも果しうる可能性を持つ。兵学家松陰の理解は、その域に達していたと考えられるが、肝心の幕府が象山の上書の意味を理解することなく、祖法としての鎖国を維持するのみで、松陰はやむを得ず自ら「厳禁の法」を犯してまでも実行に挑んだのであった。

160902幽囚録


(4)、掲題の「吉田松陰」と「橋本左内」は接点がなく、相互の「国家観」を語り合うことは無く、残念がった。(留魂録、第十四章)従って、松陰は間接的に聴く左内の評価を聞いた程度であった。一方、橋本左内も当然松陰の人となりを知らず、下田蹈海のあった安政元年の四月九日付け書簡で江戸からの福井の藩士宛に「佐久間象山の門人某」とのみ記していた。二人共立場こそ異なるが、「幕末知識人」ということが出来る。この両者が申し合せたように、同様の国家観を持っていたようである。幕末、「安政年間」の対外政策を含む「国家観」として注目すべきである。
(5)、吉田松陰は、『幽囚録』で対外政策を次のように記している。『・・・・・・今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察(かむさつ)加(か)・隩(おこ)都(つ)加(く)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(ちょうきん)會同すること内諸侯と比(ひと)しからめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は臺(たい)湾(わん)・呂(る)宋(そん)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし・・・・・・』(吉田松陰全集第二巻、五十四頁)と。
   この文章は意訳(吉田松陰著作選、百五十九頁参照)をすると、次のようになる。
   【今急いで軍備を無為し、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩主に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩主と同じように幕府に参勤させるべきである。また挑戦を攻め、古代の日本のように従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第に進取の勢いを示すべきである】と。
(6)橋本左内も同時期に藩の重臣である「中根雪江」宛ての有名な書簡(安政四年十一月二十八日)で、『さて日本はとても独立相叶い難く候。独立に致し候には、山(さん)丹(たん)・満州の辺・朝鮮国を併せ、且つ亜墨利加州、或ひは印度地内に領を持たずしては、とても望みの如くならず候。これは当今は甚だ六ケ敷候。その訳は、印度は西洋に領され、山丹辺は魯国にて手を付掛け居り候。その上、今は力足らず、とても西洋諸国の兵に敵対して、比年連戦は覚束なく候間、かへって今の内に同盟国に相成り然るべく候』(啓発録、「講談社学術文庫」五十七頁)と書いている。安政四年十一月という年月は、タンゼント・ハリスが米国総領事として下田に赴任し、江戸へ出て将軍家定と謁見して、大統領親書を上呈したのが前月であり、十二月には「日米通商修好条約」締結に向けて談判に入る時である。

160726橋本左内顏写真

(7)、此処には、幕藩体制下にあって、すでに「国家=藩」を越えて、日本としての「国家観」が語られていることに注意すべきである。これらを考え合わせる時、政府たる「幕府」の重職にある者たちに、この様な国家観を持ち合わせていた人物がどれほどいたかである。佐久間象山の上書である『海防八策』(正式名、感応公に上りて当今の要務を陳ず)が提出されたのが天保十三(1842)年十一月であり、水野忠邦による幕府の「天保の改革」が着手したばかりであった。アヘン戦争勃発の情報が齎されたのが同十一年、「文政の打ち払い令」を改めて「天保の給水令」に政策変更したのが象山の上書提出と同年である。しかも、この上書を採用するどころか結果的に「握り潰して」しまったことは前述した。象山の研究成果が理解出来なかった。つまり、日本国という概念は幕府のトップでさえ十分に持ち得ていなかった。
(8)、この天保年間末期でさえ、この様な国家観であり、まして吉田松陰や橋本左内は藩士すなわち「陪臣」である。ペリーの用いた「砲艦外交」によって、「無理矢理に、なす術もなく」開国させられてしまったのであった。そうして、「和親条約第十一条」に基づいて、米国の総領事として下田に赴任したのが「安政三年七月」である。僅かこの三年間に、幕府の要職者でもない「一陪臣」が「国家的危機」に接して覚醒している。徳川の安泰に汲々として、何ら具体的な対外政策も打ち出せず、一方的に米国に強制された開国の現状を、その場しのぎ的に対応を重ねていたのが幕府の現状である。開国をめぐっての対応策に意見を求める程度でしかなかった。
(9)、西欧先進国の実状を、政府為政者が見聞して「国家政策」を定めたのが、「岩倉遣欧使節団」(明治四年~)であった。それは「富国強兵」や「殖産興業政策」へと収斂していく。ペリー来航以後、難局(植民地化)打開の努力が幕末の動乱であった。吉田松陰が、「幕藩体制」では乗り切れないと考えたのに対し、橋本左内は幕府制度の「再編成」の方法であった。幕末知識人の福澤諭吉さえも「大君のモラルキ」(幕府強化論)という、橋本左内に近い考えであった。
(10)、結語として、「兵学者」は必然的に国家防衛の考え方に収斂していく。『幽囚録』が書かれたのが安政二年(1855)で「野山獄」収監中であった。橋本左内も松陰も、「日本国」の防衛は単独では困難と判断し、隣国を併呑して「小国」としての国力(軍事力)増進が図られない限り「独立国」の達成は出来ないと考えていることである。民族の危機を打開するためには、鎖国主義を是とした徳川政権では覚束なく、しかも一国では無理と判断したのである。結果的には「明治維新」という、国家の再編成によって「中央集権」による「富国強兵」なくしては日本の独立は困難であった。だが、この松陰の対外政策を含む「国家防衛構想」は、昭和に入って、海外侵略の典拠とされて、利用されたことは不幸なことであった。


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『船中八策』と『大政奉還』
【2016/08/10 20:03】 エッセイ
『船中八策と大政奉還』

嘉永6年6月3日、米国太平洋艦隊司令長官「ペリー」率いる軍艦4隻が相模の国・浦賀(現横須賀市)に来航した。
海防問題が松平定信老中の下で政治問題化して以来、半世紀余り経過していた。
この間、幕府をはじめ、多くの藩は海防意識が希薄であった。
後に「西南雄藩」と呼ばれる薩摩、長州、肥前(鍋島)などは、海防意識が高いのみならず、具体的に研究し取り組んでいたのであった。徳川幕閣は、「文化年間の撫恤令」、「文政の打ち払い令」と言われるように、「祖法としての鎖国」遵守の考え方から時勢に応じた(西欧事情)対策を採れないでいた。「無策」と言われても仕方ない。
それが、「アヘン戦争」情報が齎されてから、深刻に受け止めるようになった。この頃の老中で「海防掛」を担当していたのは、何と田安家出身の松代藩主・真田幸貫であった。幸運にも、松代潘には「佐久間象山」という、とびきりの秀才がいたことが幸いして、真田は象山を下級武士ながら「大抜擢」して、「海防掛顧問」として研究させた。

150505佐久間象山


象山は後に天保年間に「海防八策」という研究成果にまとめて、上書したが肝心の幕府官吏にこの意味するものがいなかった。怠慢の最たるものである。そうして水野忠邦による政策で「天保の薪水令」が実施されたが、時すでに遅く、日本の近海には西欧諸国の船舶が頻繁に出没し、対策を採ろうにも打つべき手が打てなかった。さらにオランダ国王の「開国勧告」すらも受け入れず、「祖法遵守」を第一優先の政策とした。世界の大勢の情報が極端に少ないのである。「オランダ風説書」や「唐船」の齎す、僅かな情報でしかなかった。しかも「オランダ」自身が、ナポレオンによって一時併呑の憂き目にあっていることすら知らない。幕府がこのことを知ったのは何時ごろであったろうか。「外交特権」を背景に、限られた海外情勢でどこまで西欧事情を知悉出来たろうか?
二世紀半近くの「政治的特権」に胡坐をかいていた幕閣。その内部は、身分制に基づく『保守主義』で、動脈硬化以上の「わが身の安泰最優先」の意識から抜け出せず、危機意識の著しく欠如したものであった。
ペリーの来航以来、十年近く経過した時点で幕府内部の腐敗体質に手術不可能を見て取った「大久保一翁」の大政奉還論を龍馬は訊くのである。勝海舟は阿部正弘の意見徴集に応じて、「海軍の創設」を建言し、それを高く評価したのも実は「大久保一翁」であった。幕藩体制では、国際社会と比肩して生きる國家の体裁をなしていない。坂本龍馬の生涯で、この二人と松平春嶽と顧問役だった肥後の「横井小楠」に出逢えたことが、龍馬をして幕末のヒーローに仕立て上げたといえる。その延長線上に、「船中八策」と「大政奉還」があることを銘記すべきである。

161004山内容堂
土佐藩は藩主の山内家が、関ヶ原の戦いで東軍側につき、その戦功で遠州掛川六万石から一躍二十四万国の大名に大出世を遂げたことから、外様とはいえ譜代に近い徳川への恩顧を強く持っていた。
したがって、文久元年に、江戸で「土佐勤王党」が結成されたが、その構成員は大半が「郷士・庄屋層」の人達であった。
その中でも、坂本家は商家の出である。これは、江戸中期以降の「譲り受け郷士」といって、郷士株を購入して郷士身分としては、山内家の旧長曾我部家臣を郷士とした初期からの「慶長郷士」とは異なる。
文久年間以降「志士として覚醒」した坂本龍馬は、徳川支配の行く末に時代の行きづまり感を覚えたのであろうか。武市半平太の名代として書簡を携えて萩を訪問する。ここで長州藩を代表して応対したのが、吉田松陰の愛弟子であった久坂玄瑞であった。その「草莽崛起」を基調とした「処士横議」の論を聞かされた龍馬は、土佐が時代遅れの考え方を反省させられる。京阪を経て土佐に戻り、久坂との面談の報告を済ませると、突然脱藩する。京阪を見た時勢は「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れていた現実であった。
土佐藩の因循姑息な潘状からの脱出であり、ここから、「自由児」としての龍馬の、東奔西走の活動が始まる。武市半平太が「あだたらぬ奴」と龍馬を評したのは此の時である。土佐の勤王党も保守派の執政「吉田東洋」を暗殺し、藩の方向転換を図るが、前の藩主である山内容堂は、文久三年の京都における尊王攘夷派追放の政変以降、持論の公武合体運動への自信を深め、難局への対処の指針ととした。土佐勤王党への弾圧と共に、一方では国内政情を見極めつつ藩論を固めて行ったが、長州征伐の収拾策をめぐって徳川の末期を予測。やがて、龍馬や中岡等の活動も幕府の命脈を尽きると読む。それが、「薩長盟約」(慶應二年一月)に結実し、英国との連携も相俟って徳川政権の終焉体制を案出する。それが「大政奉還」であったが、薩長は「討幕」路線を主張。一旦は大政奉還がさらに進んで「新体制」が準備されるかと思わせたが、大政奉還の二か月後の「王政復古の大号令」によって主導権は薩長に移る。やがて戊辰戦争を経て、明治新国家の誕生へと向かうことになる。藩論を倒幕にまとめきれなかったことが、薩長の後塵を拝すことになった。しかし、龍馬の薩長盟約、大政奉還、船中八策は新政府誕生に大きな貢献を為したが、大政奉還一か月後の十一月、同じ土佐藩の同志であった中岡慎太郎と京都で暗殺されてしまった。

161004坂本龍馬 いきいき埼玉


1、 坂本龍馬の「船中八策」:慶應3年(1867)6月10日頃
坂本龍馬が、幕末ギリギリの段階で、徳川に政権返上させるべく進めていたものが、長崎から京都までの「船中」で具体化した。土佐藩の大政奉還論と薩長の討幕論との鎬を削るマッチレースであったが、この考えが「明治維新」への突破口となって行く。
しかし、慶喜の大政奉還発表と討幕の密勅が同じ日に出るという、際どい歴史的な一日であった。
① 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべき事。
② 上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
③ 有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無の 官を除くべき事。
④ 外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
⑤ 古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべきこと。
⑥ 海軍宜しく拡張すべき事。
⑦ 御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
⑧ 金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべきこと。
(龍馬のすべて:平尾道雄 298頁)

161004大政奉還 いきいき埼玉


2、慶喜の「大政奉還」上表:慶應3年(1867)10月14日
坂本龍馬の提唱、「船中八策」を評価した参政・後藤象二郎は、土佐藩の前藩主「山内容堂」に大政奉還の「建白書」を差出すよう要請した。容堂からの建白書の提言を受けて、徳川慶喜は下記のような歴史的な「大政奉還の上表文」を朝廷に提出した。
龍馬はこれを聞いて感激し、「よくも断じ賜えるものかな」と繰り返し、慶喜の行為を称えたといわれる。そして、新政府の財政の相談に越前の由利公正を訪問、その帰りの京都へ颯爽として帰る姿を、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』と掲題してベストセラーになった。
以下、その上表文を読み下したものを書いてみます。

陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元、平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、偏に私の不徳の致すところ、慚愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければ、最早国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷にお返し奉り、広く天下の公議を尽くしたうえで聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことができると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達いたしております。以上、本件について謹んで奏上いたします。(国史大辞典:大政奉還読み下し)


『吉田松陰自賛自画像』吉田家本
【2016/07/11 13:41】 エッセイ
吉田松陰自賛肖像                東行日記・吉田家本 安政六年(一八五九)五月十六日)

十六日  朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の寫す所、之れに賛するは士毅の言に従ふなり。その賛に曰く。

三分出盧兮諸葛已矣夫一身入洛兮賈彪安在哉
心師貫高兮而無素立名志仰魯連兮遂乏釈難才
読書無功兮朴学三十年滅賊死計兮猛氣廿一回
人譏狂頑兮郷党衆不容身許家國兮死生吾久齋
死生不動兮自古未之有古人難及兮聖賢敢追陪

  己未五月吾有関左之厄時幕疑深重復歸難期余
  因以永訣告諸友謀使浦無窮肖吾像吾自賛之顧
  無窮知吾者豈特写吾貌而己哉況吾之自賛乎諸
  友其深蔵之吾即磔市此幅乃有生色也
             二十一回猛士藤寅撰幷書

吉田松陰結跏趺坐小

三分廬を出づ、 諸葛已んぬるかな、一身洛に入る、賈彪安くに在りや。
心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釋くの才に乏し。
読書功無し 樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。
人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず身は家国に許し、死生吾れ久しく斉うせり。
至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず、人は宜しく志を立つべく聖賢敢えて追陪せん。

己未五月、吾れ関左の厄有り。時に幕の疑ひ深く重くして、復た帰ること期し難し。

余、因って永訣を以て諸友に告ぐ。

諸友謀りて、浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自らこれに賛せしむ。

顧ふに、無窮は吾れを知る者なれば、豈に特だ吾が貌を写すのみならんや。

況や吾れの自ら賛するをや。諸友其れ深くこれを蔵せよ。

吾れ即し市に磔せらるとも、この幅乃ち生色有らん。
二十一回猛士藤寅撰并書


賛文大意

私が尊敬する諸葛孔明や賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高や魯仲連のような功績を残す力もなかった。

こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。

故郷の人は私を非難するが、私は国のために命を投げ出す覚悟は出来ている。

誠意を尽くせば、心を動かさない人は古来一人もいないと言われているが、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も追い求めたい。


跋文大意

安政六年五月、私は江戸に送られるが、二度と帰ってこられないと思い、周りの人々に最期の分かれを告げた。

人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言葉を添えることを求めた。

私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。

ましてや私が言葉を添えるのだから。人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。

もし私が処刑されても、この絵に私は生きているのだ。


【語訳】
東行前日記 = 安政六年五月一四日、松陰東送の幕命が下ったことを知らされてより、同月二五日出発するまでの日々の漢詩文・和歌を中心としてまとめられている。諸所に漢文で記事が挿入され永訣遺言の集ともいうべきもの。
自賛 = 画に題して画面中に書かれた詩・歌・文を賛といい、それを自分で書いたもの。
松浦松洞 = 一八三七―六二 名は温古、号は松洞。無窮は字。通称亀太郎。萩の魚商の子。松下村塾生。四条派の絵を学ぶ。安政六年、東送直前の松陰の肖像を画く。公武合体論に痛憤し、自殺。二六才。
士毅 = 小田村伊之助。 一八二九―一九一二 名は哲、字は士毅、号は彝堂。長州藩医松島家に生れ、藩儒小田村家を継ぐ。松島瑞益の弟で、小倉健作の兄。松陰の次妹寿と結婚。寿の死後、松陰の三妹と再婚。のち楫取素彦と改名。大正元年没。八四才。
三分 = 天下三分のこと。三国時代、魏・呉・蜀の三国鼎立をいう。
盧を出づ = 諸葛孔明が、蜀の劉備の三顧の礼に感激して、草ぶきの住まいを出て仕えた。

諸葛 = 諸葛孔明。一八一=二三四三国時代の蜀の忠臣。名は亮、字は孔明。諡は忠武。蜀漢の劉備の三顧の礼による招きを受けて仕え、劉備死後は子の劉禅を補佐して魏と戦ったが、五丈原で病死した。
賈彪 = 後漢の人。賈氏三虎の一人。桓帝のとき、党禁(党錮の禍。後漢末、宦官が政権を専らにしたので、気節の士はこれを憎み攻撃したのに対し、宦官はこれを党人と読んで終身禁固とした。)が起った時、一身で都に入ってこれを訴え、遂に桓帝は党人を赦すに至る。
貫高 = 前漢の人。趙王・張敖の大臣。高祖劉邦が趙を訪れたとき、あぐらをかいたまま張敖をののしったので、六十才余であった貫高は張敖のために高祖を殺したいと申し出て、捕えられた。高祖はこれを壮士として赦したが、貫高は自殺した。
魯連 = 戦国時代、斉の高士、魯仲連のこと。俗世間から遠ざかり、仕官しなかったが、進んで難問にいどみ難問を解決した。
朴学 = 素朴で地味ながくもんのことで経学をさす。ここでは、自己の学問に対する松陰の謙辞。

猛気二十一回 = 私(松陰)自身の虎のような勇猛心。「二十一回猛士」の説。に「杉の字、二十一の象wり、吉田の字も亦二十一回の象あり吾が名は寅、寅は虎に属す。虎の徳は猛なり。吾卑賤にして孱弱(身分は低く体は弱い)、虎の猛を以て師と為すに非ずんば、安んぞ士たることを得ん。」とある。
狂頑 = 理想が高くて実行が伴わず、かたくななこと。
身は家国に許し=自分自身の命は藩国に捧げることにしており。
死生 吾久しく斉うせり = 死も生も、以前からずっと同じで区別はないと思っている。至誠一如の考えで、いつも死を覚悟していることを暗示している。

死生にして動かざるは、古より未だ之れ有らず = 『孟子』の離婁上の言葉「至誠而不動者、未之有也」のほぼそのままの引用。
古人及び難きも = 諸葛孔明をはじめとする昔の立派な人々ほどにはいかないまでも。
聖賢 敢て追陪せん = 聖人・賢人の道を求め進んで追慕しよう。


『石橋信夫記念館文化フォーラム』要旨
【2016/06/21 18:45】 エッセイ
2016.11.12「石橋信夫記念館文化フォーラム」

『吉田松陰の「松下村塾」はなぜ多くの人材を産みだしたのか』

吉田松陰は『福堂策』で、「人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん(人間には賢愚の差こそあれ、皆優れた才能の一つや二つはある。
しっかりとその長所を伸ばしてやれば、必ずやその人なりに立派な人間になれるであろう)」と、自身の「人間観」を語っているのである。
これは松陰の「優れた人間観に基づく教育」の原点と思われる。
人それぞれが持つ才能を個性として見出し、そこに光を当てて愛情を以て塾生を鼓舞した。
そこには「師」という私心は全く無く、塾生の成長を願いつつ一体となって学問に取り組む「師弟同行」の姿がある。
そして「学問の大禁忌は作輟なり(始めたり、止めたりすること)」と云う気ままな学問への取り組み態度を戒め、さらにその原点に人として最も大切な「志」をしっかり持ちなさいと導いた。
つまり「立志・実践」こそ、人間らしい向上心に従った生き方を説いたのである。それが「志を立つるを以て万事の源と為す」という名言となる。

150625松陰と幕末明治の志士たち 小


学問に励み、学ぶことの狙いを「学は人たる所以を学ぶなり」として鼓舞し、学んだことを、より高い次元の行動に結びつける実学こそ価値ある学問であると結論付ける。
これこそ松陰が陽明学から学んだ「知行合一」なのである。
さらに一人一人の成長を願って「字」を贈り大成を期す。
吉田稔麿に与えた「無逸」という字は、「人の道から外れて、恣に振舞って成長の機会を逸するな」という意味を込めて贈った。
江戸等へ修業に旅立つ弟子には「送叙文」を書き与え、修業の目的や、道中の安全を念願し、訪問地の人物へ紹介状を書き有意義な修業となるよう願うのである。

160621松下村塾塾舎


松下村塾に在っては「封建的な縦の身分関係」を取り払い、「平等な塾生同志の関係」としてお互いの切磋琢磨を期した。
従って「相労役」という協同作業も積極的に取り入れた。
塾舎の増築を塾生たちと行ったのは有名な話である。

同時に西欧先進国との条約締結や、将軍継嗣問題等の政治的課題も共に考え活発な討論を行った。
これには、刻々と変化する日本を取り巻く厳しい環境を認識させるために、「飛耳長目帳」という情報収集したものを活用し、萩にいて江戸や京都の情勢把握に役立て、そうして最終期には学問の為の学問を廃し、「生きた現実社会の学問」を推奨した。
門下生の中から国家指導者を始めとする多くの逸材を育てたノウハウは、松陰の教育観や人材育成のための工夫によって「国家有為な人物」(奇傑非常の人)の育成を主たる眼目とした。
そうして、自らの死と向き合いながら『留魂録』を書き残し、自らの志の継承を願ったのであった。
このようにして門下生に課題を託し、西欧諸国からの侵略を防止する課題に立ち向かわせる教育に情熱を注いだのであった。

著作:『松陰と幕末・明治の志士たち』 2015 NHK出版


「いきいき埼玉」講座
【2016/05/25 19:08】 エッセイ
『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』

明治維新は、日本の歴史上最大の『国家レベルの存亡を賭けた一大変革』であった。
「元和偃武」といわれる徳川政権の開府以来、およそ2世紀半もの平和の時代を日本人は享受した。一方、西欧文明は着々と近代国家形成への努力と相俟って、第一次産業革命を現出させ、基本的人権の獲得や資本主義の生成発展と共に「近代国民国家」へと大きな変貌を成し遂げていた。資本主義は必然的に地球規模の地域対象への広がりを内包しており、資材の獲得と生産物の販路拡大を宿命的に伴う。

160516坂本龍馬全集写真160515薩長同盟4 いきいき埼玉2016



19世紀はこの地球規模の市場開拓という「うねり」が、当時の後進国家群としての南アジアから東アジアへの東漸となった。
徳川政権下の中期より、日本に西欧先進国の「交易・開国要求」の使命を持った船舶が出没するようになる。これに対し徳川幕閣は「祖法遵守」として「鎖国」政策継続の姿勢で対応をしたが、国内的には貨幣経済の発展と共に幕府・藩ともに財政は慢性的に窮乏を来し、年々その実態は深刻化して、数度の改革実施も再建策は破綻を来していた。

米墨戦争に勝利したアメリカは太平洋への航路が開けたため、ペリー提督を特派し軍艦四隻を率いて嘉永四年浦賀に来航する。強大な軍事力を背景に「砲艦外交」で日本に開国を迫り、それに屈した徳川政権は開国を余儀なくされた。
その対応策は結果として徳川政権の基本政策を根幹から崩壊させることになる。国政レベルの「海外対策」は幕府の専権事項であったが、海防問題(国防)が日本の存亡をかける重要課題となった。徳川幕藩体制下でのこうした国防への国家的対応は構造的に困難であった。

日本は、こうして世界史の舞台に引き出されることになるが、その方法、対策等をめぐる思潮は「尊王論」や「攘夷論」の主張、「天皇を中心とした朝廷」が様々な主張が絡んで桎梏を重ねた。それとともに、幕府は政権の弱体化を招き、再建を果たそうとして「朝廷」と「幕府」の協力体制による「公武合体政策」でこれを克服しようとするが、最終的に「国家の改造」により近代国家への変貌をもって国際社会に生き残れる国家形成が実現する。
この一連の変革課程が「明治維新」であり、徳川政権末期を「幕末」、明治新政府後を「維新期」と言う。また、両者を包含したものを「幕末維新」とひとくくりで捉える事も可能である。明治維新とは、日本国が存亡をかけて国際社会に対応する懸命の努力でもあった。

161004坂本龍馬 いきいき埼玉161004大政奉還 いきいき埼玉



「歴史は人が動かすものであり、時代への対応努力は幾多の志ある人達によって進展が図られ、そこに介在する個人の活動は必然的に個人的な伝記物を必要とする」。
こうした観点から、幕末維新期に活躍した人物像を学ぶことは、そのまま荻生徂徠のいう『学問は歴史に極まり候ことに候』の言葉に繋がる。
今回は、こうした考えのもとで「歴史を学んで、歴史に学ぶ」を楽しみながら学ぶこととしたい。今回は「坂本龍馬」を中心に、幕末維新期を彩った人達を取上げ「明治維新への道」を勉強したい。

以下、開講日と講座演題・内容を概略列記。

第1回   2016.10.04:坂本龍馬と幕末維新(開講と概略説明)
第2回   2016.10.11:坂本龍馬と長州藩の志士たち
第3回   2016.10.18:坂本龍馬と薩摩藩の志士たち
第4回   2016.10.25:坂本龍馬と幕府要人たち
第5回   2016.11.01:坂本龍馬と土佐藩の要人たち


『吉田松陰』理解の為に①
【2016/04/30 22:03】 エッセイ
『吉田松陰に見る人間観・学問観』

2006年4月から「松蔭大学」にて【吉田松陰論】という履修科目を担当して、2016年3月の卒業生までの10年間、3千名近くの学生に【吉田松陰】を語りつづけている。吉田松陰を語る事は大変に難しい。松陰の人となりの全貌を語り尽くすことは、将に「難事中の難事」である。それは、日本では明治26年に「徳富蘇峰」が、吉田松陰の「伝記」を書いているが、それでも「緒言」で断わりの文が書かれている。曰く、「題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ならん」。と態々、断り書きを記述して刊行目的を最初に提示していることでも理解されるように、吉田松陰の全体像を書ききる事の困難さを吐露しなければならなかった。
吉田松陰と松下村塾25.3.28


1973年に中央公論社が『日本の名著』シリーズを刊行した。そのなかに『吉田松陰』が入っている。この書物の最初の解説部分に、山口県出身の幕末維新期の研究者である「田中彰」氏が『吉田松陰像の変遷』―明治・大正・昭和前期松陰像覚書―と題する書が書かれていて、吉田松陰という人物が、時代により「変転する人物像」として、ある種の吉田松陰研究史の紹介がなされている。この書物は、吉田松陰研究を志す者にとって貴重な研究ヒントを提供してくれている。この解説部分は後に「中公新書」で2001年に『吉田松陰』―変転する人物像―という副題が付いた新書として出版されている。

吉田松陰の人物像を最も客観的な原資料を網羅し、読み込んで研究した書物としては昭和11年に岩波書店から刊行された『吉田松陰全集』の編集委員を務めた「玖村敏雄」氏の『吉田松陰』が、最も水準の高い研究書として刊行された。この研究書は『吉田松陰全集』(通称定本版:その後二度の全集が刊行されている)の第一巻の最初に『吉田松陰伝』として、実に216頁にわたって詳述されたものを、加筆訂正を加えて単行本としたものである。

吉田松陰に直接照射して『伝記』に纏め上げた本格的な伝記である『吉田松陰』(玖村敏雄著)は、松陰の遺著をくまなく読み込んだ上に書かれたものであっただけに、その学術的研究の価値は高い。それは松陰死後の今日(2016年)までに様々な人々によって書かれたどの本より精緻な史料批判と解釈の下に書かれただけに、今後もこれを越える伝記は恐らく書かれないだろうと断言できる程のものである。

玖村敏雄先生


精魂込めて研究し、書き込んだことが読む者をして納得させるには相当の時間を要すると思われる。極めて完璧を期した『吉田松陰全集』の編集意図・努力は大変な労力を要したに違いないが、それを基礎として研究し尽くしたかと思われるこの書の価値は今後も光り輝き続けるに違いない。以下、このタイトルで、書き続けようと思う。その集大成が成った時、価値があるものとなるだろう。抑々、この記事を書く動機は、私の勤務する松蔭大学の『吉田松陰論』を履修する学生に理解を容易にするためである。
さらに言えば、この題名で毎年「期末試験」に同じ記述試験として出題し続けているからである。現在は、高校で「日本史」は選択科目となっているために、吉田松陰を理解してもらうためには、我慢強く、粘り強く一貫して語り続ける必要がある。
まして、松陰の名を冠した大学だけに、建学精神と位置付けられるからその必要性は高いと思うのである。


吉田松陰の「人間観」をたずねて
【2016/04/22 17:42】 エッセイ
『福堂策』から読み取れるもの

『牢獄』転じて『福堂』、名付けて『福堂策』。
吉田松陰は「野山獄」収監中に先輩囚人たちに呼びかけて、「勉強会」を開いた。
在獄中の先輩たちは、個性が豊かすぎて家族から敬遠され、「借牢願い」を提出し、収監代を払ってまで野山獄に入れてしまった。それは、改善が見られないことから出獄の見込みが立たないという、無期限に近い投獄である。
こういう「夢も希望もない」状態に置かれると、人間の心は「荒んで」しまって、やるせない時間の経過に任せて、殆ど無意味な人生を送るしかなくなる。

150420吉田松陰


吉田松陰は何処で「刑罰はその行為にあって人間にはない」ということを知ったのであろうか。
「教育刑」を知って、その方法の意義を認めている。「罪を憎んで人を憎まない」という、西欧の考え方を知っていたのです。
現代人から見れば、当然視されることであるが、「江戸期」にあっては、西欧との情報交換は「オランダ風説書」という、凡そオランダに因って加工された情報しか入ってこない年月が長く続いた。
「徳川の禁令・政令」は「徳川家にとって都合のよいものでそれは、公法性がなく私法である」と見抜いた松陰は流石である。
「人間再生」を図る考えを基本に、「獄中勉強会」の呼びかけが行われた。

その結果「俳諧」の造詣ある者が二人、書道の達人がいる事を知って「先生役」を依頼する形となる。
呼びかけた松陰は『孟子』の講義を約束し、勉強会の行われる日を取り決めて皆で学び合おうとしたのである。
回を重ねるごとに、その効果は松陰の予測通りに展開することになる。とりわけ「句会」即ち「俳句」を詠み合う楽しさは何時しか、各人の心を和ませ、仲間意識を持たせた効果は大きなものがあったに違いない。

一方で、松陰先生の『孟子』講義は、人間再生に効果がある事は十分予測されたことである。『性善説』に始まる孟子の考え方に、囚人たちはかつての親族から敬遠されたことを思い出して反省の思いを抱いたのに違いない。
そうして、ペリー来航以来の「国際化時代」の様相を呈して来る時代相にあって、「夷狄」の跋扈する日本が継続していくことを願ったのであろうが、これ等を説明するのに『孟子』を語る事は誠に正鵠を得た形になるわけだ。泰平の打続く世の中は、治者階級の武士の綱紀を弛緩させ非生産者階級の『要らざる』存在に近かった。
そこに『王道政治』を持論とした孟子を語る事は、世を嘆く人たちにとって納得出来るものであったのだ。司獄官の福川犀之助とその弟までも、松陰の講義に参加して『弟子』の態度をとらせるに至った。
後に面目後の杉家の幽囚生活に於て、中途で終わっていたものが完了し『孔孟箚記』として結実して、その刊行をみるが、それは「人の倫」を語る事で、それとなく人間の再生を促す効果を持っていた。それが証拠に、松陰出獄後に於て彼らの免獄運動が効を奏して半数以上が出獄出来た。親族への「帰参」が叶ったことになる。

160422孔孟箚記


松陰全集には出獄後の彼らがどのようなその後を送ったかは富永有隣を除いては書かれていないので解からないが、人間再生の姿で人生を待とう出来たのではないかと想像される。こうした行動をとった松陰は将に「教育刑」を知っていたからであり、更には『知ゆえの行』として王陽明の「知行合一説」の実践となったのである。
当然、松陰は『学んで良きものは取り入れるべし』の学問的態度であったから、単に王陽明に限らず孟子も、そして多くの中国の義士(高士)達の伝記を読んで、自らの人生に取り入れようと願っていた事は、後に書かれた「自賛肖像画」に書かれる人物への傾倒となっていたことで知れるのである。
『松下村塾記』に書かれている名言中の名言、「学は人たる所以を学ぶ為り」に収斂していくというのを確認することが出来る。

このように見ていくと、松陰の人生に秘められた人間観が随所に見る事が出来るし、そのどれもが孟子の政治観や人間観とも通じていることが解かるのである。それ故、松蔭大学の「吉田松陰論」は、すぐれて「人間学」という性格を持つものなる。福堂策や獄中勉強会の開催に見られる「人間への信頼」は一貫している。そこに、限りなく吉田松陰という人物の魅力があるのである。
森信三先生の『修身録』を読むまでもなく、「吉田松陰全集」には人生知・教訓が一杯詰まっているから騙されたと思って購入して読んで御覧なさいとのことばは、ここまで書いてくるとその言っている意味が非常に良く理解出来るのである。
奈良本辰也さんではないが「ヒョーマニスト吉田松陰」像が此処で理解できることになる。その観点からすると、「福堂策」の意味や、獄中勉強会が目指したものも見えてくるのである。
そうしてさらに高次元では、「知行合一」の人生における価値が一層、深く身近なものとして理解されるのである。


湊川神社『嗚呼忠臣楠公の墓』
【2016/03/24 21:38】 エッセイ
『嗚呼忠臣楠子乃墓』・吉田松陰が感激した碑文

嘉永四年三月十八日、第一回の「江戸軍楽修行」に向かった吉田松陰は、萩を出発してから凡そ二週間後に、「摂津の湊川神社」に立ち寄り、楠正成の墓碑である『嗚呼忠臣楠子之墓』を拝して大変な感激を催した。
このことは、松陰の書き綴った「東遊日記」に詳しく書き残されて「吉田松陰全集・第九巻」に収載されていて、読む者をしてある種の感慨を催す記述となっている。
勤王家であった父親からの思いを受け継いだであろうと思われる吉田松陰。前年の「鎮西旅學」で多大な成果を挙げ、松陰の人間形成に大きな影響を及ぼしたと言える「陽明学」や「水戸学・新論」との出会い、そして「アヘン戦争」に関する書籍に接することができた。このことは、後の吉田松陰にとって「世界観」を確立する契機ともなった。長州藩の先達であった「村田清風」の持論であった『四峠の論』に示唆されての潘外雄飛となる諸国遊学の実践機会ともなった。
この体験によって、「山鹿流兵学師範」としての修行時代の松陰は、「机上論」から現実の「実学」への開眼の機縁を持つことになった。潘政府への遊学願いは、「平戸潘への軍學修行」としてであった。
江戸期の長崎は【世界の情報を得る地】として、唯一の海外情報を得る場所でもあった。
【江戸時代の長崎】は、幕府が「遠国奉行」として長崎奉行を設置し、情報と交易による利益を一元的に管理・蒐集する特別な意味を持った直轄地として重要な役割を持っていた。半年近くに及んだ鎮西遊学は、大きな収穫を得たのであった。
そこで知ったのは、師である「葉山佐内」の蔵書の殆どが、江戸から購入した書籍であった。松陰は帰国するや、江戸での修行を直ちに希望したのである。折しも、藩主の参勤交代で随行しながら「江戸修行」の推薦を受けて、図らずもその機会が訪れてきたのである。三か月の後の嘉永四年三月五日に、念願の江戸修行に旅立つことになる。その十五日後に、湊川神社に詣でる機会に遭遇したのであった。
生涯を閉じることになる二日前に書き上げた『留魂録』の表題の意味するところとなった、「肉体は滅びても魂は永遠」という生涯のテーマとなった命題は、この湊川神社における「嗚呼楠子之墓」の碑文に記されていた「永遠の魂」との出会いであった。
吉田松陰全集に『七生説』という論稿がある。松陰の死生観に大きな影響を与えたと考えられるこの七生説は、南北朝動乱時代の「楠正成」の後醍醐天皇への忠誠を模範としたものであった。ここから松陰の死後への信仰ともいえる、「霊魂の不滅」が胚胎することになったものと考えられる。今日、下田の弁天島の石碑にそれが遺されていて、私達も読むことが出来る。吉田松陰全集の第九巻に、湊川神社の碑文に感激して賦した漢詩を見ることが出来る。
その「原文」および「読み下し文」を記します。
「尊王家」としての吉田松陰を感激させた「嗚呼忠臣楠子の墓」は、以下のような漢文である。これは、徳川光圀の依頼によって「朱舜水」の撰文になるものであって、後年の松陰が「水戸学」の大なる影響を受けた、記念碑ともなるものであった。
160324湊川神社の楠子の墓碑160324湊川神社160324湊川神社の光圀による頌徳文150420吉田松陰





  [楠公碑陰記]      朱 舜 水 
忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相
尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大
抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是
以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復
王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移
鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能
立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言
不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門
盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者
惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
 右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字
  魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽





読み下し文

忠孝天下に著(あらは)れ、日月(じつげつ)天に麗(かがや)く。 天地日月無ければ、則ち晦蒙(かいもう)否塞(ひそく)。 人心忠孝を廃すれば、則ち亂族相尋(あいつ)ぎ、 乾坤反覆す。 余(われ)聞く楠公諱は正成は、忠勇節烈、国士無雙なり。 其の行事を蒐(あつむ)るに、概見すべからず。 大抵公の兵を用ふる、強弱の勢を幾先に審らかにし、成敗の機を呼吸に決す。 人を知って善く任じ。 士を体し誠を推す。 是を以て謀(はかりごと)中(あた)らざるなく、而して戦克たざるはなし。 心を天地に誓ひ、金石渝(かは)らず、利の為に回されず、害の為に怵(おそ)れず。 故に能く王室を興復して舊都(きゅうと)に還る。 諺に云ふ、前門狼を拒(ふせ)げば、後門虎
を進む。 廟謨(びょうも)藏(よ)からず、元兇踵(きびす)を接ぐ、国儲(こくちょ)を構殺(こうさつ)し鐘簴(しょうきょ)を傾移(けいい)す。 功成るに垂(なんなん)として、主に震ひ、策善しと雖も、庸ひられず。 古より未だ有らず元帥前に嫉(ねた)み庸臣断を専らにして、大将能く功を外に立つる者は。 卒(つい)に之身を以て国に許し、死に之(ゆ)いて佗なし。 其の終りに臨んで、子を訓するを観るに、従容義に就き、託孤(たくこ)寄命(きめい)。 言私に及ばず。 精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是(かく)の如く、整にして暇ならんや。 父子兄弟、世々忠貞を篤うし、節孝一門に萃(あつま)る。 盛んなる哉。 今に至り、王公大人より以て里巷(りこう)の士に及ぶまで、口を交へて誦説(しょうせつ)して之れ衰へず。 其れ必ず大いに人に過ぐる者あらん。
惜しいかな、載筆(さいひつ)の者、考信する所なく、其の盛美、大徳を発揚する能(あた)はざるのみ。
 右故摂河泉(せっかせん)三州の守贈正三位近衛中将楠公の賛は、明の徴士舜水朱之瑜(しゅんすいしゅしゆ)字は魯璵(ろよう)の撰する所なり、勒(ろく)して碑文に代へ、以て不朽に垂(た)る。


『嗚呼忠臣楠子之墓』 松蔭東行日記
【2016/03/24 16:34】 エッセイ
『嗚呼忠臣楠子之墓』   嘉永四年三月二十一日  湊川神社に楠公の墓碑を拝して後

嘉永四年三月五日、吉田松陰は「軍学修業」のため、井上壮太郎と藩主の東行に従い、発駕に先だって江戸に向けて出発した。
翌日から中谷正亮と相携えて愉快な旅を続け、四月九日午前八時「長州藩桜田上屋敷」に到着しており、この間一か月余りの行程であった。
この前年秋に軍学修業の名目で、「平戸・長崎」に遊学し「葉山佐内」や「山鹿万介」に師事して多くの成果を得た。
この遊学は「西遊日記」として詳細に書き遺している。(吉田松蔭全集:第九巻収載)

この「鎮西遊学」では、特に葉山佐内の下で多くの書籍を読破したが、殆どが江戸で刊行されたものであることを知り、江戸行きを望んでいた矢先に、潘政府から修業生に選抜されて実現したものである。
萩を出発してから、江戸到着までの旅程行路の日記を詳細に記述したものが『東遊日記』である。
途中、三月十八日に湊川に至って、初めて楠公の墓を拝し「嗚呼忠臣楠子之墓」及び朱瞬水の撰した碑陰の銘の石刷を求めている(玖村敏雄・吉田松陰)。
そして三日後の二十一日に漢詩を作っている。
全集の「吉田松陰年譜」には、『三月十八日、始めて楠公の墓を拝し、感激して詩を賦す』。とある。
そこで松陰の賦した漢詩と、その書き下し文を記して見る。
160324嗚呼忠臣楠子乃墓


「松陰の賦した漢詩」
為道為義豈計名  誓與斯賊不共生  嗚呼忠臣楠子墓  吾且躊躇不忍行  湊川一死魚失水
長城己摧事去矣  人間生死何足言  廉頑立懦公不死  如今朝野悦雷同  僅有圭角之不容
讀書已無衛道志  臨事寧有取義功  君不見滿淸全盛甲宇内  乃為幺麼所破碎 
江南十萬竟何為  陳公之外狗鼠輩  安得如楠公其人  洗盡弊習令一新  獨跪碑前賛嘆息
滿腔客氣空輪囷


「漢詩 読み下し」
道のため義のためにす豈名を計らんや、
誓って斯の賊と共に生きじ。
嗚呼忠臣楠公の墓、
吾れ且(しばら)く躊躇して行くに忍びず。
湊川の一死、魚水(うおみず)を失ひ、
長城已に摧け事去(おわ)りぬ。
人間生死何ぞ言ふに足らん、
頑を廉にし懦を立たしむ公は死せず。
如今朝野雷同を悦び、
僅かに圭角あれば乃ち容れず。
書を讀むも已に道を衛るの志なければ、
事に臨みて寧んぞ義を取るの功あらん。
君見ずや滿淸の全盛宇内に甲たりしも、
乃ち幺麼(ようま)の破碎(はさい)するところとなる。
江南十萬竟(つい)に何をか為せる、
陳公の外は狗鼠(くそ)の輩。
安んぞ楠公其の人の如きを得て、
弊習を洗盡して一新せしめん。
獨り碑前に跪いて三たび嘆息し、
滿腔の客氣(かくき)空しく輪囷(りんきん)す。
150420吉田松陰


<語句説明>
躊躇=行きつもどりつする。ためらう。
長城=楠子(楠正成)を万里の長城に喩えたもの。また中国の南朝宋の将軍檀道済の故事(武帝に従ってすこぶる戦功を立て、征南大将軍となり、魏を破って司空[土地や民事を掌る官]に進んだが、彭城王義康に疑畏されて殺された。)彼はとらわれた時、頭巾を脱いで地に投げ「乃(なんじ)は汝の万里の長城を壊したり」と言ったをも含む。
廉頑立懦=『孟子』万章下篇首章に「故に伯夷の風を聞く者は、頑夫(がんぷ)も廉に、懦夫(だふ)も志を立つるあり」とあるによったもの。愚かで道理にくらい男を正しくし、気の弱い男の志を立たせているのだから、楠公の肉体は滅びても魂は生きているのであるの意。
雷同=事の良し悪しを考えずに他人の説に同意すること。
圭角=言語や行為などに角があって他人と融和しないこと。
滿淸=清(しん)のこと。国号を初め満州といい、後に清と改めたからいう。満州族が明を滅ぼして建てた国。
甲宇内=世界で一番であったが。
幺麼=ちっぽけなもの。ここでは戦争で香港を割譲させたイギリスをさす。
破碎=破りくだく。こなごなにくだく。
陳公=江南提督、陳化成。アヘン戦争の時力戦して戦死した。
狗鼠=いぬとねずみ。くだらぬ小人を喩えていう。
弊習=悪い風習。
滿腔=身中の血気はいたずらにふくれあがる。輪囷は高大な樣。


2015年度天章堂講座終了
【2016/02/28 22:21】 エッセイ
天章堂講座『江戸期の改革の旗手たち』終了に当って

2015年9月から本日(2月16日)まで、5か月間、8回にわたって江戸時代の創成期から「幕藩体制」の維持が困難に直面するまでのおよそ二世紀にわたる期間を、出来事(統治政策)と人物との関連から捉えてみました。
『元和偃武』という、徳川氏による「平和な時代」が外面的には続きましたが、その内面に立ち入って詳しく見てみると、時の課題に応じて統治に苦心したことが解かります。
今日、刊行されている「吉川弘文館・人物叢書」や「ミネルヴァ書房・日本評伝選」の日本史上の主要な人物シリーズでは、「刊行のことば」として同様な趣旨の言葉が書かれていて、そこには「歴史を動かすのは人間である」と共通した認識・言葉が見られます。
160229徳川家康160229池田光政160229徳川吉宗



もっと踏み込んでいえば「歴史を学ぶことは、人間を知ることである」ということを示唆しているように思います。
時代の変遷に伴い、その時代に生きた人物がどのように格闘した姿を知ることは、そのまま「人間の生き方」を学ぶことになります。
ここに、「歴史を学ぶ」から「歴史に学ぶ」という私達の願いがあると思います。
歴史を生きた知識や知恵として学ぶことは、単なる教養という次元にとどまらないものがあると私は考えています。歴史の歩みの一つの側面として「人間の生命や尊厳」から考えてみますと、現代は「基本的人権」が当然のように私達は認識しています。
しかし、江戸期では「年貢や御用金」を苛酷なまでに時の為政者は「民に」求めています。

「民を以て貴(とうと)しと為し、社稷(しゃしょく)(土地の神と穀物の神)これに次ぎ、君を軽(かろ)しと為す。」との言葉は『孟子』の言葉(尽心章句・下)と伝えられていますが、国富増進のためには、国民(衆民)を大切にし、その努力が報いられる國家こそ、必要なのであって、最初に君主や為政者が貴いのではないと言っています。
残念ながら「江戸時代」にあって『孟子』は尊重されませんでした。
思うに「放伐論」が統治者(徳川幕閣)にとって不都合(危険)な論理と捉えられたものと思います。
(寛政異学の禁=朱子学を学ぶ事を正当化)

現代の視点からみると「胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出る」(神尾(かんお)春(はる)央(ひで))という言葉は、完全な死語になっています。まさに『孟子』の言葉の反対ですが、この神尾という人物は苛斂誅求の年貢政策で吉宗政権下では有力者の一人でした。これが「米経済」の限界点で、以後年貢に対する考え方は変容して行きました。
一揆や打ち毀しは、理不尽な搾取への已むに已まれぬ意思表示でした。これが吉宗の頃に発生したのも偶然ではありません。

徳川幕藩体制は堅固な揺るぎない体制でしたが、その体制維持には「寛永の鎖国」も与かって力あったものと思います。
ペリー来航の時「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」との狂歌は綱紀の弛緩した治者階級の怠慢への諧謔を含んだものと言えます。

160229田沼意次160229松平定信160229上杉鷹山



中期以降の改革を見ると、現代における人間関係を彷彿させます。いつの世も保守と革新のせめぎ合い(時に対立した矛盾の関係)を内包しながら時代は変化して行きます。
時代が下るにしたがって改革の成果は得にくくなりました。これは幕藩体制が時代と合わなくなってきたことを物語ります。
内政面さえ問題なければよしと云う国家観では変化する情勢に対応できなくなってきたのが、寛政時代でありました。
時代は動いているのです。

朝廷と対外関係の新たな火種を抱えたのが松平定信政権の時代でした。
迫りくる外圧への対処が劣勢な軍事力では困難という認識はアヘン戦争情報による清の敗北で決定的になりました。
それが「薪水給与令」へと変更を余儀なくされました。
徳川斉昭が「戊戌封事」を将軍家慶に上書したのは、こうした時代を適格に洞察した結果でした。
それは「内憂外患」という言葉に示されています。

151225調所広郷160229村田清風160229水野忠邦




そうして天保の改革の失敗(上知令撤回や藩の三方領地替え)は、幕府の威信を低下させ、追い打ちをかけるようにペリーの砲艦外交で開国を迫られると、なす術もなく軍門に下り朝廷の権威の上昇と入れ替わるように幕府の威信は衰退して行きました。
日本はこれから、「日本史から世界史へ」の舞台に引き出されたことになります。
日本の独立も覚束ない情勢下にあって、英仏は陰に陽に日本への嘴をはさんできました。
それは植民地化への危惧を伴っていました。
徳川の統治の基本は覇道であり、「私政治」でもありました。いみじくも「覇道は覇道に因って亡びる」との歴史の教訓が正しいことが証明されることになりました。しかし、この体制維持に努力した人達も、必要な限り歴史の舞台で精一杯役目を演じてくれました。

今回の「改革の旗手たち」は、「神君としての徳川家康」の創成した幕府と藩の体制を守る努力と、反面では藩の殖産興業政策に見られるように「自立化」が徐々に台頭して来ます。
そうして天保の改革は、成果をあげた西南雄藩と挙げ得なかった幕府が好対照となりました。
成功しなかったとはいえ、水野忠邦は壮大な改革を胸にした有能な人物でした。
これが忠邦でなくとも成功は困難だったと言えると思います。

今回取り上げた八人の人物から多くの教訓を得ることが出来たら、この天章堂講座は一つの使命を果たしたと言えると思います。私も懸命に取り組みました。本業を忘れたかのように勉強しました。多くの教訓を得た思いが致します。
今日の国際情勢は、我が国にとって安穏としていられない時代です。
いつの世も、解決への努力や変化への対応努力は続きます。人類の進歩は無限であります。
五百年後に、現代日本がどのように振り返られるのでしょうか。
次世代に引き継ぐべきものは平和への努力でありますが、その実現の何と難しい事か!こうした時、歴史を学んだ意義が問われるのかもしれません。

150420吉田松陰


吉田松陰の遺した「志を立てて以て万事の源と為す」や「学は人たる所以を学ぶ為り」の言葉は、時代を越えて私達に人間のあり方を教えてくれているように思われるのであります。


この天章堂講座は、江戸期を通観するだけでなく、徳川政権の「覇道政治」システムがどのように構築され、発展し、そして維持の為に、時の為政者(将軍または老中)が悪戦苦闘したかを辿ってみたかったのである。同時に「幕藩体制」であるから「藩政の努力」もまた、明らかにしてみたいとの考え方から八回に亙って試みたものである。
その内容の概略と「講座テーマ」を下記してみる。

第一回 池田光政と徳川創世期の発展 (徳川初期の藩の発展を検証、新田開発や学問の奨励による藩政の確立を検証)を。
第二回 徳川吉宗と享保の改革     (元禄までの発展期から、幕府財政の悪化と、その対策に苦心した米将軍・吉宗)
第三回 上杉鷹山と米沢藩改革     (宝暦から寛政までの米沢藩の、財政再建に尽くした上杉鷹山の努力)
第四回 田沼意次と重商主義政策    (現物経済・米、の限界と貨幣経済への過渡期における田沼時代の検証)
第五回 松平定信と寛政の改革     (田沼意次との確執は、その政策をことごとく否定し、創業の精神を再興願った定信)
第六回 調所広郷の財政再建      (調所広郷を家老に抜擢し、莫大な財政赤字を克服した、天保期の西南雄藩)
第七回 村田清風と長州藩改革     (薩摩藩と同様、八万貫の大敵と潘士の救済、三十七カ年皆済仕法を指揮した清風)
第八回 水野忠邦と天保の改革     (寛政以降の外圧、飢饉と財政再建等多方面にわたった課題に挑んだ水野忠邦)

徳川政権の創業期は、まず政権の安定的確立を目指した。これが約半世紀を要した。反乱の可能性の目を摘んで大名取潰しも辞さなかった。幕閣政治は「徳川政権の功臣」達による幕府の政治システムが、徐々に整備されていく。武断政治を経て文治政治への転換が進み、功名な大名統制策が講じられる。寛永の鎖国や参勤交代、一国一城制、将軍から宰相による統治が進む。老中もこの頃から制度化して行った。

徳川政権の安定化は、四代家綱の頃から「幕閣政治」に象徴されるように徳川の盤石な体制が浸透していくが、政権の安定化や平和な時代の到来は、奢侈や華美の浸透が見られる。元禄時代がその絶頂期でもあるが、反面幕府財政はこの頃から破綻し始める。したがって、十八世紀から幕末までは、財政難と貨幣経済の浸透によって「米経済の矛盾ないし限界」といった現象がみられる。吉宗の綱紀粛正の努力は、米相場との戦いでもあった。江戸の都市政策も政治過程に上がってくるが、一大消費地としての江戸は繁栄の陰で、経済政策の重要性が高まって来る。以後、幕府や藩は財政政策が常に喫緊の課題となって、悪戦苦闘が始まる。加えて対外問題が政治過程に登場し、朝廷の発言権も徐々に増大してくる。江戸後期は「内憂外患」の言葉に代表されるごとく、混迷の度合いを強めてくる。打ち毀しや飢饉が襲い、武士階級の困窮や綱紀の弛緩が顕在化し、幕府政治や藩の政治も保守と改革との確執が次第に政策実行を困難にしてゆくのが江戸時代の姿であった。そうして、改革の成否は幕末の動乱で場l九府の権威が低下し、反面では「潘の独立化」が進んで行く中で開国への外圧が幕藩体制では克服できなくなってくる。




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