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【週刊現代】掲載の私の書斎
【2016/12/02 12:49】 エッセイ
「書斎のある家への憧れ」

私の生家は群馬の赤城山麓で、八人家族の小農家だった。夕食時、病身の父が「丸いちゃぶ台」の定位置に座り、幼い私達に中国の出征談を毎日聞かせてくれた。夕食時が「勉強兼家庭教育の場」でもあった。後に私と娘が「日本史」の教師となったのもこんなところに起因しているかもしれない。なぜか、今もその光景が懐かしく思い出される。私が大学生の頃「若者たち」という映画があった。それを見た時、私の家がモデルだったのではないかと本気で考えた。
 年長の兄姉が、必死に働いて家計を支えていた。ですから、兄姉は高校進学が経済的事情で出来なかった。私も十五才の中卒で上京して会社で働きながら夜間高校に通った。

161202私の書斎 知行合一写真150420正装の吉田松陰



そして、仕事と勉強と貯蓄に励み、自分で学費を全て工面して大学進学をした。必死に家計を支える兄姉に対しては、自然と家庭内では長幼の序が形成されていた。だから、兄姉は全員仲睦まじかった。そうした反面、いつもヨーモアの交歓があり、貧しいながらも笑いの絶えない家だった。こんな私の家は、まさしく「憩いと教育の場」であった。兄姉が競って新聞小説の感想談義をしていた。こうした家庭に育った私は、「読書や音楽を楽しめる書斎のある家」に住みたいとの強い願いがあった。
この願いは早くに実現し、私は二十代で自宅を購入して隣家に気遣う子育てをしないようにした。数年後に娘から「友達を連れて来られる家」が欲しいといわれて、もう一度踏ん張り現在の家を購入した。ここで念願の書斎のある部屋を持った。自分専用の書斎で、所せましと本が並んでいる。吉田松陰の研究をしていることから「知行合一」を書家に注文して書いてもらい、向かい側に「大学の恩師」の写真とともに額に入れて飾ってある。

161202難波田先生 私の書斎161202早稲田大学大隈講堂


恩師は『日本の経済学を築いた五十人』に登場する先生である。
人は生涯に三度家を購入すると念願の家に住めるといわれるそうだが、私は二度である。多少の満たされないことはあるが、それはそれでよしとしている。現在「さいたま市」に住んでいるが、それは実家に帰省するのに便利であること、子供の通学は自宅からと願っていた結果である。この両方ともに条件が満たせて、子供は小学校から大学まで自宅から通えた。新宿まで電車で三十分の距離だが、近隣には生産緑地としての田畑が残り、埼玉県でも指折りの由緒ある公園もあって、四季それぞれの風景が愉しめる「我が家」です。
夕暮れには「さいたま新都心」の夜景が美しく眺められる。読書後の日課にしている散歩中もそれを楽しめる、とても良い環境の中で、念願の「書斎のある家」での「楽しい我が家」の生活を満喫しています。

このエッセイは、私が「大和ハウス・石橋信夫記念館文化フォーラム」に出演したことが機縁となって依頼が来ました。大和ハウスの関連からの依頼でしたので『家』に関する話題と、個人的な思いを綴ってくださいとのことでした。
『若者たち』の映画を見たときは、本当に不思議な気持ちになりました。
田中邦衛役に相当するのが、私の長兄とイメージがダブって懐かしいやら、感動の涙が自然と出てきたものだった。末弟が早稲田大学を受験するのも全く同じで、『ボン・大学へ行け!』 と田中邦衛が、無い学資を何とかすると決心するくだりは、私の人生と重なって、他人事には思えなかった。我が家の再現をした映画のように錯覚したものです。
貧しいながらも、兄弟が力を合わせて生き抜いていく素晴らしい映画でした。我が家にはそのDVDが購入してあります。


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『尊王思想の源流』を訪ねて
【2016/11/07 23:01】 エッセイ
『宝暦・明和事件』を調べよう!

平成28年11月19日から、大東文化大学オープンカレッジで「明治維新への道」と題して5回の講座を行うことになった。幕末の「尊王攘夷」思想の淵源を辿ってみると、「ペリー来航」の100年前に、武家政治への極めて日本的な思想である、「尊王思想」の弾圧事件があった。これを一般的には「宝暦・明和事件」と名付けて、歴史書でも簡単に触れるにとどまることが多い。だが、実は、幕府の崩壊過程は四方八方からその兆しを見せていた。「覇道」による武家政治であっただけに、250年余り続いた中で、埋もれがちであった「事件」を見直す意味で、この吉川弘文館の「宝暦・明和事件」の解説は貴重な解説をしてくれる。その全文を転記してみます。

161107山県大弐1161107竹内式部1161107藤井右門の石碑1 京都(左から、山県大弐、竹内式部、藤井右門の関連写真です)



江戸時代中期の尊王論弾圧事件として一括して論じられることがあるが、両者は本来かかわりのないものである。
まず、宝暦事件であるが、これは、朱子学者にして神道家であった山崎闇斎を学祖とする崎門派の松岡仲良や玉木葦斎(正英)に儒学や神道を学んだ竹内式部が京都朝廷における少壮の公卿たちに影響を与えたことから、当時「神道長上」として全国の神社を支配し、神職の任免・補填を司っていた吉田家が、式部を通じて垂加流の神道が公家衆の間に浸透することを蔑視したこと、天皇の近習たちの間での相互の確執、さらに若い桃園天皇に垂加流の神書の講読をすることに関しての、正親町三条公積(きんつむ)・西洞院(にしのとういん)時名ら少壮公卿と関白近衛内前ら老臣たちとの意見の対立、などから起った事件である。事件は二回あった。第一回目は、宝暦六(1756)年京中洛外で式部が公卿衆に軍学武術を指南しているとの風聞があり、そのため式部が同年十二月京都町奉行所に呼び出されて取調を受けた事件であるが、これは事実無根ということで容易に解決した。第二回目は、それから約一年後、式部に入門する公卿が増加したことに加えて、近習衆が桃園天皇に対して垂加流による「日本書紀」神代巻の講釈を積極的に進講したため、関白ら朝廷の重臣たちが、幕府を憚ってこれを抑圧し、式部門人の公卿達の大量処分を幕府に無断で断行するとともに、その思想的元凶と見做されていた式部を京都所司代に告発し、そのため一年近い取り調べの結果、同年九月に式部が重追放となった事件である。

他方、明和事件はそれから八年後の明和三(1766)年八月、江戸で起こった。江戸で軍学教授をしていた元甲府与力山県大弐の門人に上州小幡藩の家老吉田玄番なる者があり、この玄番が同藩用人相原郡大夫の私怨により藩から処罰されると、それが大弐との交際の故であるとの噂が立ち、浪人桃井久馬・町医師宮沢準曹らは禍が我が身に及ぶことを怖れて、大弐を幕府に対する謀反の企てありとの理由で、その交友関係を記して、同年壱二月老中に直訴するとともに町奉行所に出訴した。そのため幕府は、大弐及び大弐方に寄宿していた浪人藤井右門を捕縛し、八カ月に及ぶ取り調べの結果、両者ともに謀反の事実はないが、その言動に幕府の忌避にふれることがあったことが不敬であるとの理由で、大弐は死罪、右門は獄門という極刑を受け、また竹内式部も、本来この事件とは何のかかわりもなかったが、前述の重追放中の身京都に立ち入ったのは不都合であるとの理由で八丈島へ遠島となった(式部は途中の三宅島で病没)。これを明和事件と云う。

この二つの事件は、それぞれ京都朝廷内部における老臣と少壮公卿との対立、江戸における浪人の舌禍事件と云う相互に全くかかわりのない事件であり、また彼らの抱懐していた思想それ自体が裁きの対象とされたわけではなかったが、現象の背後にある思想面について見ると共通する点も少なからず存在する。竹内式部は、宝暦八年京都奉行所における取調べにおいて、「経書之趣」であるとしつつも「天下無道則礼楽征伐従諸侯出、従諸侯出則十世少不衰」といい、あるいはまた当代を「危キ天下」と言い表して取調べ役人たちの耳目を動かし、門人の公卿たちに対しては「於日本天子程貴き御身柄無之候に、将軍を貴と申儀は人々も存知、天子を(の)貴を不存候、(中略)これは天子御代々不足御学問御不徳、臣下関白已下何も非器無才故之儀ニ候、天子より諸臣一等ニ学問を励み、五常之道備候得ハ、天下之万民皆服其徳而、天子ニ心を寄せ、自然と将軍も天下之政統を被返上候様ニ相成候儀ハ必定、実ニ如指掌、公家之天下ニ相成候」と教授していたという。

他方山県大弐も、政治の要諦は礼楽制度を建てることであり、礼楽制度は天子から出てこそ道であるとの立場から、鎌倉以降の武家政治を厳しく批判するとともに、「苟も害を天下になすものは、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ、故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なるものなり」「」
たとひその群下にあるも、善くこれを用ひてその害を除き、而してその志その利を興すにあれば、則ち放伐もまた且つ以て仁となす、他なし、民と志を同じうすればなりと放伐のじんなるゆえんを「民志」との一致に帰することによって放伐を肯定した。
この式部や大弐の思想は、それぞれ闇斎学派の神道論、徂徠学派の政治思想に淵源するものであり、両者の思想の性格も大きく異なるものではあったが、第一に、ともに「天に二日なく、地に二王なし」とし、礼楽征伐は天子よりでることが道に正統なる所以であるとする点で儒教の原理主義的立場に立脚していること、第二に、そのような儒教的正統性の立場から、一方では、天子の君徳の培養と朝臣の奮起を促し、他方では、武家政治の批判と放伐論が、それぞれ朝廷の衰微や幕藩体制の政治的現実への批判を媒介にして主張されていること、第三に、それらの主張が、下級の武士や神官・医師などの民間の知識人層からなされたこと、等々は注目すべき新しい動向であった。

江戸時代の初期の儒学者たちは、確立した、幕府を頂点とする政治的現実に即して儒学を読み直し、それに相応しい政治思想を形象化したが、式部や大弐らは、十八世紀後半、幕藩支配体制の動揺を眼前にしつつ、儒教の原理主義的立場から当時の政治的現実を厳しく批判する契機をつかみつつあったといえる。二つの事件そのものは、いずれも関係者が処罰されることで「政治的」には一応の決着を見ることになるが、このような「思想的」伏流が、寛政期になると、一方では尊号問題など朝廷と幕府の緊張関係を生み出し、他方では尊王思想を包懐した高山彦九郎らの全国行脚に継承されていくことになる。(出典:吉川弘文館『国史大辞典』、本郷隆盛著)

長い説明文だが、丁寧に読むと幕末の尊王攘夷の考え方が解ってきます。吉田松陰が安政三年に書いた『松下村塾記』で、「今、天下は如何なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の瓣を合わせて又之を失ふ」と力説した意味がよく解るのである。松陰は、極めて日本人的な、あまりにも日本的な発想をしていたかがこれで解るのである。松陰の思想は、儒学、孟子、水戸学、国学、等々の思想が混然一体となって形成されている。武家政権が日本にとって、本来的な統治体制出なかったことを洞察しているのである。ですから、軽々に「天皇制」を論ずるのでなく、神国思想から説き起こされた長い日本の固有思想にも続いたものとして理解されなければならない。この解説文にあるように「放伐論」が説かれているのは、松陰が孟子から受けた思想的影響の大きさに思いを致さなければならないと思われる。

『高杉晋作への信頼』の書簡
【2016/10/10 21:54】 エッセイ
『高杉晋作宛て松陰書簡』

吉田松陰は、その短い生涯で大変な数量の書簡を遺して(書いて)いる、その中で、幾つか松陰の松下村塾における有名な書簡の一つに、高杉晋作宛の「安政六年二月一五以前」がある。吉田松陰の人物眼の一端を知る上で貴重なものであるので、全集から転記して見る。愛弟子の高杉宛に書かれた、貴重な書簡である。松陰の人となりを理解に大変に有用です。

150101高杉晋作150420正装の吉田松陰



高杉晋作宛 安政六年二月一五以前 松陰在野山獄 高杉在江戸
此の書には御答は御無用。只だ屈平の詩一見したとのみ小田村か愚兄か其の外久坂なりかに御申し贈り下され度く候。
先日は御書成し下され候虚言々服鬱問休まず候處、今日また家兄より承り候へば口羽にも御申越され候由、覚えず感泣。さりながら、天子は不世出の聖王、君公の賢明は申すに及ばず、御當年の御勧政は恐れながら御世始め已來稀有の御事なるに、有司德意を奉ずること能はず今日の次第に成り降り、此の時を失しては三四十年も只々此くの如きのみ。誠に恐れ多き事に候へども萬々一も近年の内公御遁世遊ばされ候はば、吾が輩の忠竭すべき所なし。小子今公樣への忠心止む能はざるは抑々故あり。小子幼年より深く御知遇を蒙り、往年は御前會にも屢々召出され親しく德音を伏聽仕り、一々肺肝に徹し候。其の後感慨已む能はざる事之れあり亡命仕り候處、後にさる人より承り候處、其の節斯様の事他言必ず無用君公國の寶を失うたとの御意あり由。
一乳臭國に何の損益ありてかく難有く仰せられ候事か、何とも誠に忝く候へども、小生に於ては感激身に餘り此の世に生きては居られ申さず候。墨夷行思ひ立ち候處、夫れも遂げず死にもせず、剰へ昨年已來又々恩旨を蒙り候事ぞもあり、昨年より屹度志を立て當御在國中には是非一死を遂げ、積る重罪の申譯仕るべくと存じ候處、又死にそこなひ野山屋敷にて三度の食事衣服襟枕等事を缺き申さず、最早御発駕も近く候へども死すべき折も之れなし。加之、世間は俗論の眞晝にて一事の快と称すべきものなし。風聞には至尊も御禅位の叡慮など、誠に鳴く鳥もさく花も涙の種ならざるはなし。端なく屈平の往時思ひ起し頻りに死に度く相成り食を絶ち死を待ち候積りの處、二日にも滿たざるに又由ありて食に復し、靈均の九原に笑ひて死を顧みざる事止みに致し候。さりながら君公は遠からず御發駕あるべし。國是は立たず、御發駕相済み候へば國相府の手合いは肩の任を卸したる心地にてぐっすり寐込むなり。大臣の般楽台敖いかんいかん。御着府の上は長井・井上・周布などの俊才相連結してさぞ巧みなる處置あるべし。來る御歸城の上は地・江戸合體、國事一定すべし。其の後の御参府は恐れながら期し難きなり。天朝の論は別にして吾が藩の事を案ずるに、今公の為めに死なんとすれば當御在國中より他なし。墨今公の恩遇を蒙り當御在國中に得死に申さず、天地に辜負し、父母に辜負す。かく申す事老兄には嘸々不満なるべし。然れども此の心事語るべき人なし。岸獄獨座、諸友を回顧するに、老兄ならでは聞いて呉れる人なし。故に一言を此の世に留むるなり。哀し哀し。平生無二の知己なる來原・桂さへ僕が心事を知る能はず、何ぞその他を望まんや。哀し哀し。今後才略功業の人は出來もしよう、忠義の種は最早絶滅と思召さるべく候。
晁錯・朱雲・屈原・楊繼盛・翟儀・徐敬業・燕太子丹・田光・侯嬴、此の人々は勿體なき人樣なり。
子遠が心事は僕と一般かと察し候。其の他は青年の人なれば留めて足下輩の用に供すべし。僕は君に負き父に負くの人、死を求むべきの人、萬事念なし。但だ朋友の情甚だ深し、良朋親友寝寐も忘るべからず。此の念頭だに絶ち候へば眞の槁灰死木となることを得らるるなり。天野清三郎、此の生昨年以來一事も吾が説に同意せず。奇見異識他日必ず異人たあん。此の人深く老兄に服す、其の他一人も服する人なし。僕遂に其の才を竭す能はず。足下幸に之れを心に記せよ。

161010毛利敬親161010屈原


屈原
楚國無謀却秦。宗臣未死生憂辰。漁父何知行唫意。枯形顦色屈靈均。
すなどりのささやくきけば思ふなり澤邊に迷ふ人の心を。
古人云はく、「泣かんと欲すれば婦人に近し」と。信なるかな。今七ツ時、足下書を口羽に寄せられ候事を承り感泣休まず。然れども泣けば他囚の笑はんことを恥ぢ、病と称し被を擁し打伏し、夜食後又此の書を作る。
中谷・久坂も山口まで歸り候由なれど未だ歸萩せず、仮令歸萩したりとて喜ぶべき事もなし。人間の楽しみ盡きたり。死生の年忘れたり。

野山獄小木戸孝允26.02.01


余獄に赴くの前二夕、桂小五郎至る。小五郎は僕無二の知己なり。話中左の問答あり。僕今叙して以て足下に遺る。
寅云ふ、「暢夫如何」。桂云はく、「俊邁の少年なり、惜しむらくは少しく頑質あり、後来來の人言を容れざらんことを恐る。老兄何ぞ今に及んで一言せざる、必ず益あるなり」と。寅云ふ、「然り、僕も亦之れを思ふ。但だ暢夫は十年遊方を期す。僕心に書信を絶ち其の為す所に任せんと期す。暢夫後必ず成るあるなり。今妄りに其の頑質を矯めば、人と成らざらん。暢夫他年成るあらば、假令人言を容れずとも必ず其の言を棄てざらん。十年の後、僕或は為すあらば、必ず之れを暢夫に謀らん、必ず吾れに負かじ。二人相濟へば、以て大過なかるべきなり」と。
桂之れを肯んず。
此の談今僕既に自ら負く。桂の苦心故老兄に通ずるなり。その當否は僕知らず。然れども桂は厚情の人物なり。此の節諸同志と絶交せよと、桂の言なるを以て勉強して之れを守るなり。深愛の無逸にすら一書を通ぜず。小田村と子遠とは由ありて書を通ず。

※ 松陰の高杉への愛情と(師として)、甘え(信頼する弟子へ)とが一緒に伝わってくる書簡である。高杉が涙を溜めながら読んだであろうことは、容易に想像がつく。尊敬する恩師への「思い」を強くしたに違いない、心の籠った書簡だと思う。


坂崎紫瀾と汗血千里駒
【2016/09/28 18:22】 エッセイ
「坂崎紫瀾」と『汗血千里駒』

幕末の「坂本龍馬」を最初に小説として書いた坂崎紫瀾(本名斌:サカン)の『汗血千里駒』は、明治十六年(一八八三)の一月から高知の『土陽新聞』から掲載されて評判を呼んだものである。一般に「坂本龍馬」のイメージはこの「坂崎紫瀾」の「汗血千里駒」がモデルのようになっている。学術的な研究者による『坂本龍馬伝』はほとんど書かれてなく、その原因は「史料」が少ないことから、人物像の再現が難しいことによると思われる。現存する史料は、大半が「書簡」であり、参考文献として『坂本龍馬関係文書』や『坂本龍馬手帳摘要』くらいしかないのである。実際に龍馬が書いた『手紙』が何通あるか、まだ未発見のものがあるようである。だが、坂本龍馬の関連は多くの関係人物や関連文書に登場するので、それに依拠して龍馬像を創り上げて行くのが普通の手法である。『人脈図』を見ると、非常に幅が広く「外様の軽格としての譲り受け郷士」としては極めて異彩を放っている。幕府の要人(松平春嶽・大久保一翁・勝海舟)との接点があることが特徴的である。反面、出身潘である「土佐藩」では、「山内容堂」と直接面識がなかったようで、容堂は間接的に知っていたに過ぎない。むしろ「軽輩ゆえ相手にしない」という態度である。こうした「身分制」がまかり通っていた時代であるだけに、「土佐藩の旧態依然たる制度や考え方」に嫌気がさしたのである。だから、「脱藩」という当時の武士(下級)の厳しい掟も無視するかのように土佐藩を捨てたのであった。そうしたこともあってか、出身潘以外の人脈が多いのも坂本龍馬の特徴である。
160928汗血千里駒 本161004坂本龍馬 いきいき埼玉


復刻版の「解題」によると『千里を駈ける駿馬(参照「漢書、大宛国伝」)にも比すべき坂本龍馬の生涯を、実伝的小説として描きながら、そのなかに当時の明治・自由党の理想を挿入したもので、いわば実伝的政治小説といってよいものであるが、なかなかの傑作である。・・・・・・起承転結の巧みな作品構成である・・・・・・紫瀾はこの作品で、明治御一新を上士と下士・軽格との対立から把握し、明治御一新は、“天賦同等の感情に胸の炎(ほむら)を焦がしつつ其の門閥を憎み階級を軽んずる(第十八齣)”下士・軽格たちの、上士への抵抗、封建時代への反抗であったとみなし、軽格坂本龍馬を代表とする明治御一新へ向かっての大精神は、自由民権運動につながると考え、この自由党的思想性でもって、「汗血千里の駒」を支えようとした・・・・・・「汗血千里の駒」は実伝てき史実性と政治的主張性とを、その底辺に置いた、大衆的魅力のある小説となっているといえようが、とにかく当時大変な人気を呼んだ作品である。あたかも、昭和の御代に大人気を博した司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和三七年六月二一から昭和四一年五月一九日、産経新聞夕刊連載・一三三五回)の明治版といえるかもしれない。』と説明されている。
明治十六年一月二十四日から連載され、同年三月三十日まで続き、以後三ヶ月間、作者の紫瀾が不敬罪で入獄したため中絶したのだが、明治十六年六月末出獄するや、七月十日から再び掲載をはじめ、同年九月二十七日完結した。

160928坂崎紫瀾

さて、坂本龍馬を天下に知らしめた『汗血千里駒』の政治小説を書いて人気を博した「坂崎紫瀾」についての人物説明は、国史大辞典(吉川弘文館)によれば、次のように記述されている。
一八五三~一九一三、明治時代の文筆家。名は謙次のち斌。号は紫瀾、別号鳴々(うう)道人・咄々道人。嘉永六年(一八五三)十一月十八日江戸鍛冶橋の土佐藩邸に生まれる。父耕雲(医を業とす)・母きさの次男。安政三年(一八五六)巧緻に帰り城下の廿代町に居住。致道館に学び十六才で同館の素読席句読師補助となる。明治三年(一八七〇)広島に遊学、ついで彦根の学校教官となったが、六年上京してニコライ塾に学び、七年愛国公党に加わる。同八年司法省に入り松本裁判所に赴任したが辞職後「松本新聞」主筆となる。同十三年「高知新聞」編集長となり自由民権派の論客として活躍する。政談演説禁止で東洋一派民権講釈一座を組織し馬鹿林鈍翁と名乗り民権運動を展開し『土陽新聞』『自由燈』のほか諸新聞に論陣をはった。大正元年(一九一二)維新史料編纂事務局に入ったが同二年二月十七日、東京市牛込区新小川町の自宅で没す。六十一才。墓は青山墓地。著書に『汗血千里駒』『維新土佐勤王史』『鯨海酔侯』などがある。

因みに、「坂崎紫瀾」の「政談演説禁止」によって、『土陽新聞』で三か月間の連載中断となったのは、「解題」によると『不敬罪』で入獄したことになっているという。それは、馬鹿林一座の民権講釈で坂崎紫瀾が『天子ハ人民ヨリ税ヲ絞リテ独リ安座ス、税ヲ取リテ上座ニ位スルハ天子ト私トノ二人ナリ』と述べた事によったものである。明治天皇制国家に対する、露骨な批判となる文言が明治新政府の受け入れるところとならなかったというわけである。

「幽囚録」の対外政策
【2016/09/02 19:13】 エッセイ
「松陰の国家観と対外政策」を考える

(1)、松陰の最初の修業地は、鎮西遊学で「海外情報」や「海防研究」に取り組んだのであった。長崎・平戸で、迫りくる西欧の東漸に如何に対処するか貪欲なまでに関連書物を読破して対策を見出そうとしたのであった。「アヘン戦争」や「ロシアの南下政策」に関する書物『阿芙蓉彙聞』、『近時海国必読書』『北寇杞憂』、『西洋諸夷略表』、『海防私策』など、国防に関するものを集中して読んだ。同時に兵学以外の『伝習録』や『新論』なども読み、思想的にも成長を遂げた第一回の修業は世界の大勢や列強の東洋侵略のあり方を学ぶ成果となった。「藩の防衛」から「日本の防衛」へと視野の拡大即ち「国家観」の拡大変容である。
(2)、十八世紀以来、西欧とりわけ英国で勃興、発展を遂げた産業革命の成果は資本主義国家への道を歩み、その結果が東洋侵略の原因となったことを知った。一方で西欧の各国は対外(国家間)戦争の結果、近隣国家を征服や併合し「国家の版図」を拡張することを知るに及んで「幕藩体制国家」を見直さなければと考える。即ち民族や国家の繁栄、軍事力の整備なくして、自国の独立はあり得ないとの認識に至る。そうした意味からも「洋学」に取り組み、老中・眞田幸貫(海防掛)の顧問として『海防八策』に纏め上げ、幕府に建白した佐久間象山の主張は「国家観」を藩から日本への視野を広げるのに意義ある事であった。この佐久間象山に入門して大いに嘱望された一人が吉田松陰なのであった。(松陰書簡:嘉永四年五月二十七日)
(3)、そうした情勢の所へ「ペリーの来航」による「砲艦外交」に屈した「日米和親条約」締結による開国があった。この「砲艦外交」は「国家の命運」を憂慮させ、同時に「外国のために支配されはしないかという恐怖心」が「ナショナリズム」を喚起させた。吉田松陰は、自著の論文である『幽囚録』(佐久間象山からの慫慂で著述)で下田蹈海の挙に出た理由を語っている。「宜しく俊才の士数十名を撰び、蘭船に付して海外に出し、其れらをして便宜事に従ひ艦を購はしむべし、則ち往返の間、海勢を識り、操舟に熟し、且つ萬国の情形を知るを得ん、其の益たるや大なりと。因って竊に建白する所あり。然れども官能く之れを断行することなし。予が航海の志實に此に決す」(全集第二巻、四四頁)と。これは、海防策の一手段ではあるが、実は兵学でいう「間諜」の役目をも果しうる可能性を持つ。兵学家松陰の理解は、その域に達していたと考えられるが、肝心の幕府が象山の上書の意味を理解することなく、祖法としての鎖国を維持するのみで、松陰はやむを得ず自ら「厳禁の法」を犯してまでも実行に挑んだのであった。

160902幽囚録


(4)、掲題の「吉田松陰」と「橋本左内」は接点がなく、相互の「国家観」を語り合うことは無く、残念がった。(留魂録、第十四章)従って、松陰は間接的に聴く左内の評価を聞いた程度であった。一方、橋本左内も当然松陰の人となりを知らず、下田蹈海のあった安政元年の四月九日付け書簡で江戸からの福井の藩士宛に「佐久間象山の門人某」とのみ記していた。二人共立場こそ異なるが、「幕末知識人」ということが出来る。この両者が申し合せたように、同様の国家観を持っていたようである。幕末、「安政年間」の対外政策を含む「国家観」として注目すべきである。
(5)、吉田松陰は、『幽囚録』で対外政策を次のように記している。『・・・・・・今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察(かむさつ)加(か)・隩(おこ)都(つ)加(く)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(ちょうきん)會同すること内諸侯と比(ひと)しからめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は臺(たい)湾(わん)・呂(る)宋(そん)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし・・・・・・』(吉田松陰全集第二巻、五十四頁)と。
   この文章は意訳(吉田松陰著作選、百五十九頁参照)をすると、次のようになる。
   【今急いで軍備を無為し、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩主に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩主と同じように幕府に参勤させるべきである。また挑戦を攻め、古代の日本のように従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第に進取の勢いを示すべきである】と。
(6)橋本左内も同時期に藩の重臣である「中根雪江」宛ての有名な書簡(安政四年十一月二十八日)で、『さて日本はとても独立相叶い難く候。独立に致し候には、山(さん)丹(たん)・満州の辺・朝鮮国を併せ、且つ亜墨利加州、或ひは印度地内に領を持たずしては、とても望みの如くならず候。これは当今は甚だ六ケ敷候。その訳は、印度は西洋に領され、山丹辺は魯国にて手を付掛け居り候。その上、今は力足らず、とても西洋諸国の兵に敵対して、比年連戦は覚束なく候間、かへって今の内に同盟国に相成り然るべく候』(啓発録、「講談社学術文庫」五十七頁)と書いている。安政四年十一月という年月は、タンゼント・ハリスが米国総領事として下田に赴任し、江戸へ出て将軍家定と謁見して、大統領親書を上呈したのが前月であり、十二月には「日米通商修好条約」締結に向けて談判に入る時である。

160726橋本左内顏写真

(7)、此処には、幕藩体制下にあって、すでに「国家=藩」を越えて、日本としての「国家観」が語られていることに注意すべきである。これらを考え合わせる時、政府たる「幕府」の重職にある者たちに、この様な国家観を持ち合わせていた人物がどれほどいたかである。佐久間象山の上書である『海防八策』(正式名、感応公に上りて当今の要務を陳ず)が提出されたのが天保十三(1842)年十一月であり、水野忠邦による幕府の「天保の改革」が着手したばかりであった。アヘン戦争勃発の情報が齎されたのが同十一年、「文政の打ち払い令」を改めて「天保の給水令」に政策変更したのが象山の上書提出と同年である。しかも、この上書を採用するどころか結果的に「握り潰して」しまったことは前述した。象山の研究成果が理解出来なかった。つまり、日本国という概念は幕府のトップでさえ十分に持ち得ていなかった。
(8)、この天保年間末期でさえ、この様な国家観であり、まして吉田松陰や橋本左内は藩士すなわち「陪臣」である。ペリーの用いた「砲艦外交」によって、「無理矢理に、なす術もなく」開国させられてしまったのであった。そうして、「和親条約第十一条」に基づいて、米国の総領事として下田に赴任したのが「安政三年七月」である。僅かこの三年間に、幕府の要職者でもない「一陪臣」が「国家的危機」に接して覚醒している。徳川の安泰に汲々として、何ら具体的な対外政策も打ち出せず、一方的に米国に強制された開国の現状を、その場しのぎ的に対応を重ねていたのが幕府の現状である。開国をめぐっての対応策に意見を求める程度でしかなかった。
(9)、西欧先進国の実状を、政府為政者が見聞して「国家政策」を定めたのが、「岩倉遣欧使節団」(明治四年~)であった。それは「富国強兵」や「殖産興業政策」へと収斂していく。ペリー来航以後、難局(植民地化)打開の努力が幕末の動乱であった。吉田松陰が、「幕藩体制」では乗り切れないと考えたのに対し、橋本左内は幕府制度の「再編成」の方法であった。幕末知識人の福澤諭吉さえも「大君のモラルキ」(幕府強化論)という、橋本左内に近い考えであった。
(10)、結語として、「兵学者」は必然的に国家防衛の考え方に収斂していく。『幽囚録』が書かれたのが安政二年(1855)で「野山獄」収監中であった。橋本左内も松陰も、「日本国」の防衛は単独では困難と判断し、隣国を併呑して「小国」としての国力(軍事力)増進が図られない限り「独立国」の達成は出来ないと考えていることである。民族の危機を打開するためには、鎖国主義を是とした徳川政権では覚束なく、しかも一国では無理と判断したのである。結果的には「明治維新」という、国家の再編成によって「中央集権」による「富国強兵」なくしては日本の独立は困難であった。だが、この松陰の対外政策を含む「国家防衛構想」は、昭和に入って、海外侵略の典拠とされて、利用されたことは不幸なことであった。


『船中八策』と『大政奉還』
【2016/08/10 20:03】 エッセイ
『船中八策と大政奉還』

嘉永6年6月3日、米国太平洋艦隊司令長官「ペリー」率いる軍艦4隻が相模の国・浦賀(現横須賀市)に来航した。
海防問題が松平定信老中の下で政治問題化して以来、半世紀余り経過していた。
この間、幕府をはじめ、多くの藩は海防意識が希薄であった。
後に「西南雄藩」と呼ばれる薩摩、長州、肥前(鍋島)などは、海防意識が高いのみならず、具体的に研究し取り組んでいたのであった。徳川幕閣は、「文化年間の撫恤令」、「文政の打ち払い令」と言われるように、「祖法としての鎖国」遵守の考え方から時勢に応じた(西欧事情)対策を採れないでいた。「無策」と言われても仕方ない。
それが、「アヘン戦争」情報が齎されてから、深刻に受け止めるようになった。この頃の老中で「海防掛」を担当していたのは、何と田安家出身の松代藩主・真田幸貫であった。幸運にも、松代潘には「佐久間象山」という、とびきりの秀才がいたことが幸いして、真田は象山を下級武士ながら「大抜擢」して、「海防掛顧問」として研究させた。

150505佐久間象山


象山は後に天保年間に「海防八策」という研究成果にまとめて、上書したが肝心の幕府官吏にこの意味するものがいなかった。怠慢の最たるものである。そうして水野忠邦による政策で「天保の薪水令」が実施されたが、時すでに遅く、日本の近海には西欧諸国の船舶が頻繁に出没し、対策を採ろうにも打つべき手が打てなかった。さらにオランダ国王の「開国勧告」すらも受け入れず、「祖法遵守」を第一優先の政策とした。世界の大勢の情報が極端に少ないのである。「オランダ風説書」や「唐船」の齎す、僅かな情報でしかなかった。しかも「オランダ」自身が、ナポレオンによって一時併呑の憂き目にあっていることすら知らない。幕府がこのことを知ったのは何時ごろであったろうか。「外交特権」を背景に、限られた海外情勢でどこまで西欧事情を知悉出来たろうか?
二世紀半近くの「政治的特権」に胡坐をかいていた幕閣。その内部は、身分制に基づく『保守主義』で、動脈硬化以上の「わが身の安泰最優先」の意識から抜け出せず、危機意識の著しく欠如したものであった。
ペリーの来航以来、十年近く経過した時点で幕府内部の腐敗体質に手術不可能を見て取った「大久保一翁」の大政奉還論を龍馬は訊くのである。勝海舟は阿部正弘の意見徴集に応じて、「海軍の創設」を建言し、それを高く評価したのも実は「大久保一翁」であった。幕藩体制では、国際社会と比肩して生きる國家の体裁をなしていない。坂本龍馬の生涯で、この二人と松平春嶽と顧問役だった肥後の「横井小楠」に出逢えたことが、龍馬をして幕末のヒーローに仕立て上げたといえる。その延長線上に、「船中八策」と「大政奉還」があることを銘記すべきである。

161004山内容堂
土佐藩は藩主の山内家が、関ヶ原の戦いで東軍側につき、その戦功で遠州掛川六万石から一躍二十四万国の大名に大出世を遂げたことから、外様とはいえ譜代に近い徳川への恩顧を強く持っていた。
したがって、文久元年に、江戸で「土佐勤王党」が結成されたが、その構成員は大半が「郷士・庄屋層」の人達であった。
その中でも、坂本家は商家の出である。これは、江戸中期以降の「譲り受け郷士」といって、郷士株を購入して郷士身分としては、山内家の旧長曾我部家臣を郷士とした初期からの「慶長郷士」とは異なる。
文久年間以降「志士として覚醒」した坂本龍馬は、徳川支配の行く末に時代の行きづまり感を覚えたのであろうか。武市半平太の名代として書簡を携えて萩を訪問する。ここで長州藩を代表して応対したのが、吉田松陰の愛弟子であった久坂玄瑞であった。その「草莽崛起」を基調とした「処士横議」の論を聞かされた龍馬は、土佐が時代遅れの考え方を反省させられる。京阪を経て土佐に戻り、久坂との面談の報告を済ませると、突然脱藩する。京阪を見た時勢は「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れていた現実であった。
土佐藩の因循姑息な潘状からの脱出であり、ここから、「自由児」としての龍馬の、東奔西走の活動が始まる。武市半平太が「あだたらぬ奴」と龍馬を評したのは此の時である。土佐の勤王党も保守派の執政「吉田東洋」を暗殺し、藩の方向転換を図るが、前の藩主である山内容堂は、文久三年の京都における尊王攘夷派追放の政変以降、持論の公武合体運動への自信を深め、難局への対処の指針ととした。土佐勤王党への弾圧と共に、一方では国内政情を見極めつつ藩論を固めて行ったが、長州征伐の収拾策をめぐって徳川の末期を予測。やがて、龍馬や中岡等の活動も幕府の命脈を尽きると読む。それが、「薩長盟約」(慶應二年一月)に結実し、英国との連携も相俟って徳川政権の終焉体制を案出する。それが「大政奉還」であったが、薩長は「討幕」路線を主張。一旦は大政奉還がさらに進んで「新体制」が準備されるかと思わせたが、大政奉還の二か月後の「王政復古の大号令」によって主導権は薩長に移る。やがて戊辰戦争を経て、明治新国家の誕生へと向かうことになる。藩論を倒幕にまとめきれなかったことが、薩長の後塵を拝すことになった。しかし、龍馬の薩長盟約、大政奉還、船中八策は新政府誕生に大きな貢献を為したが、大政奉還一か月後の十一月、同じ土佐藩の同志であった中岡慎太郎と京都で暗殺されてしまった。

161004坂本龍馬 いきいき埼玉


1、 坂本龍馬の「船中八策」:慶應3年(1867)6月10日頃
坂本龍馬が、幕末ギリギリの段階で、徳川に政権返上させるべく進めていたものが、長崎から京都までの「船中」で具体化した。土佐藩の大政奉還論と薩長の討幕論との鎬を削るマッチレースであったが、この考えが「明治維新」への突破口となって行く。
しかし、慶喜の大政奉還発表と討幕の密勅が同じ日に出るという、際どい歴史的な一日であった。
① 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべき事。
② 上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
③ 有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無の 官を除くべき事。
④ 外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
⑤ 古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべきこと。
⑥ 海軍宜しく拡張すべき事。
⑦ 御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
⑧ 金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべきこと。
(龍馬のすべて:平尾道雄 298頁)

161004大政奉還 いきいき埼玉


2、慶喜の「大政奉還」上表:慶應3年(1867)10月14日
坂本龍馬の提唱、「船中八策」を評価した参政・後藤象二郎は、土佐藩の前藩主「山内容堂」に大政奉還の「建白書」を差出すよう要請した。容堂からの建白書の提言を受けて、徳川慶喜は下記のような歴史的な「大政奉還の上表文」を朝廷に提出した。
龍馬はこれを聞いて感激し、「よくも断じ賜えるものかな」と繰り返し、慶喜の行為を称えたといわれる。そして、新政府の財政の相談に越前の由利公正を訪問、その帰りの京都へ颯爽として帰る姿を、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』と掲題してベストセラーになった。
以下、その上表文を読み下したものを書いてみます。

陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元、平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、偏に私の不徳の致すところ、慚愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければ、最早国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷にお返し奉り、広く天下の公議を尽くしたうえで聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことができると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達いたしております。以上、本件について謹んで奏上いたします。(国史大辞典:大政奉還読み下し)


『吉田松陰自賛自画像』吉田家本
【2016/07/11 13:41】 エッセイ
吉田松陰自賛肖像                東行日記・吉田家本 安政六年(一八五九)五月十六日)

十六日  朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の寫す所、之れに賛するは士毅の言に従ふなり。その賛に曰く。

三分出盧兮諸葛已矣夫一身入洛兮賈彪安在哉
心師貫高兮而無素立名志仰魯連兮遂乏釈難才
読書無功兮朴学三十年滅賊死計兮猛氣廿一回
人譏狂頑兮郷党衆不容身許家國兮死生吾久齋
死生不動兮自古未之有古人難及兮聖賢敢追陪

  己未五月吾有関左之厄時幕疑深重復歸難期余
  因以永訣告諸友謀使浦無窮肖吾像吾自賛之顧
  無窮知吾者豈特写吾貌而己哉況吾之自賛乎諸
  友其深蔵之吾即磔市此幅乃有生色也
             二十一回猛士藤寅撰幷書

吉田松陰結跏趺坐小

三分廬を出づ、 諸葛已んぬるかな、一身洛に入る、賈彪安くに在りや。
心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釋くの才に乏し。
読書功無し 樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。
人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず身は家国に許し、死生吾れ久しく斉うせり。
至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず、人は宜しく志を立つべく聖賢敢えて追陪せん。

己未五月、吾れ関左の厄有り。時に幕の疑ひ深く重くして、復た帰ること期し難し。

余、因って永訣を以て諸友に告ぐ。

諸友謀りて、浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自らこれに賛せしむ。

顧ふに、無窮は吾れを知る者なれば、豈に特だ吾が貌を写すのみならんや。

況や吾れの自ら賛するをや。諸友其れ深くこれを蔵せよ。

吾れ即し市に磔せらるとも、この幅乃ち生色有らん。
二十一回猛士藤寅撰并書


賛文大意

私が尊敬する諸葛孔明や賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高や魯仲連のような功績を残す力もなかった。

こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。

故郷の人は私を非難するが、私は国のために命を投げ出す覚悟は出来ている。

誠意を尽くせば、心を動かさない人は古来一人もいないと言われているが、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も追い求めたい。


跋文大意

安政六年五月、私は江戸に送られるが、二度と帰ってこられないと思い、周りの人々に最期の分かれを告げた。

人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言葉を添えることを求めた。

私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。

ましてや私が言葉を添えるのだから。人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。

もし私が処刑されても、この絵に私は生きているのだ。


【語訳】
東行前日記 = 安政六年五月一四日、松陰東送の幕命が下ったことを知らされてより、同月二五日出発するまでの日々の漢詩文・和歌を中心としてまとめられている。諸所に漢文で記事が挿入され永訣遺言の集ともいうべきもの。
自賛 = 画に題して画面中に書かれた詩・歌・文を賛といい、それを自分で書いたもの。
松浦松洞 = 一八三七―六二 名は温古、号は松洞。無窮は字。通称亀太郎。萩の魚商の子。松下村塾生。四条派の絵を学ぶ。安政六年、東送直前の松陰の肖像を画く。公武合体論に痛憤し、自殺。二六才。
士毅 = 小田村伊之助。 一八二九―一九一二 名は哲、字は士毅、号は彝堂。長州藩医松島家に生れ、藩儒小田村家を継ぐ。松島瑞益の弟で、小倉健作の兄。松陰の次妹寿と結婚。寿の死後、松陰の三妹と再婚。のち楫取素彦と改名。大正元年没。八四才。
三分 = 天下三分のこと。三国時代、魏・呉・蜀の三国鼎立をいう。
盧を出づ = 諸葛孔明が、蜀の劉備の三顧の礼に感激して、草ぶきの住まいを出て仕えた。

諸葛 = 諸葛孔明。一八一=二三四三国時代の蜀の忠臣。名は亮、字は孔明。諡は忠武。蜀漢の劉備の三顧の礼による招きを受けて仕え、劉備死後は子の劉禅を補佐して魏と戦ったが、五丈原で病死した。
賈彪 = 後漢の人。賈氏三虎の一人。桓帝のとき、党禁(党錮の禍。後漢末、宦官が政権を専らにしたので、気節の士はこれを憎み攻撃したのに対し、宦官はこれを党人と読んで終身禁固とした。)が起った時、一身で都に入ってこれを訴え、遂に桓帝は党人を赦すに至る。
貫高 = 前漢の人。趙王・張敖の大臣。高祖劉邦が趙を訪れたとき、あぐらをかいたまま張敖をののしったので、六十才余であった貫高は張敖のために高祖を殺したいと申し出て、捕えられた。高祖はこれを壮士として赦したが、貫高は自殺した。
魯連 = 戦国時代、斉の高士、魯仲連のこと。俗世間から遠ざかり、仕官しなかったが、進んで難問にいどみ難問を解決した。
朴学 = 素朴で地味ながくもんのことで経学をさす。ここでは、自己の学問に対する松陰の謙辞。

猛気二十一回 = 私(松陰)自身の虎のような勇猛心。「二十一回猛士」の説。に「杉の字、二十一の象wり、吉田の字も亦二十一回の象あり吾が名は寅、寅は虎に属す。虎の徳は猛なり。吾卑賤にして孱弱(身分は低く体は弱い)、虎の猛を以て師と為すに非ずんば、安んぞ士たることを得ん。」とある。
狂頑 = 理想が高くて実行が伴わず、かたくななこと。
身は家国に許し=自分自身の命は藩国に捧げることにしており。
死生 吾久しく斉うせり = 死も生も、以前からずっと同じで区別はないと思っている。至誠一如の考えで、いつも死を覚悟していることを暗示している。

死生にして動かざるは、古より未だ之れ有らず = 『孟子』の離婁上の言葉「至誠而不動者、未之有也」のほぼそのままの引用。
古人及び難きも = 諸葛孔明をはじめとする昔の立派な人々ほどにはいかないまでも。
聖賢 敢て追陪せん = 聖人・賢人の道を求め進んで追慕しよう。


『石橋信夫記念館文化フォーラム』要旨
【2016/06/21 18:45】 エッセイ
2016.11.12「石橋信夫記念館文化フォーラム」

『吉田松陰の「松下村塾」はなぜ多くの人材を産みだしたのか』

吉田松陰は『福堂策』で、「人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん(人間には賢愚の差こそあれ、皆優れた才能の一つや二つはある。
しっかりとその長所を伸ばしてやれば、必ずやその人なりに立派な人間になれるであろう)」と、自身の「人間観」を語っているのである。
これは松陰の「優れた人間観に基づく教育」の原点と思われる。
人それぞれが持つ才能を個性として見出し、そこに光を当てて愛情を以て塾生を鼓舞した。
そこには「師」という私心は全く無く、塾生の成長を願いつつ一体となって学問に取り組む「師弟同行」の姿がある。
そして「学問の大禁忌は作輟なり(始めたり、止めたりすること)」と云う気ままな学問への取り組み態度を戒め、さらにその原点に人として最も大切な「志」をしっかり持ちなさいと導いた。
つまり「立志・実践」こそ、人間らしい向上心に従った生き方を説いたのである。それが「志を立つるを以て万事の源と為す」という名言となる。

150625松陰と幕末明治の志士たち 小


学問に励み、学ぶことの狙いを「学は人たる所以を学ぶなり」として鼓舞し、学んだことを、より高い次元の行動に結びつける実学こそ価値ある学問であると結論付ける。
これこそ松陰が陽明学から学んだ「知行合一」なのである。
さらに一人一人の成長を願って「字」を贈り大成を期す。
吉田稔麿に与えた「無逸」という字は、「人の道から外れて、恣に振舞って成長の機会を逸するな」という意味を込めて贈った。
江戸等へ修業に旅立つ弟子には「送叙文」を書き与え、修業の目的や、道中の安全を念願し、訪問地の人物へ紹介状を書き有意義な修業となるよう願うのである。

160621松下村塾塾舎


松下村塾に在っては「封建的な縦の身分関係」を取り払い、「平等な塾生同志の関係」としてお互いの切磋琢磨を期した。
従って「相労役」という協同作業も積極的に取り入れた。
塾舎の増築を塾生たちと行ったのは有名な話である。

同時に西欧先進国との条約締結や、将軍継嗣問題等の政治的課題も共に考え活発な討論を行った。
これには、刻々と変化する日本を取り巻く厳しい環境を認識させるために、「飛耳長目帳」という情報収集したものを活用し、萩にいて江戸や京都の情勢把握に役立て、そうして最終期には学問の為の学問を廃し、「生きた現実社会の学問」を推奨した。
門下生の中から国家指導者を始めとする多くの逸材を育てたノウハウは、松陰の教育観や人材育成のための工夫によって「国家有為な人物」(奇傑非常の人)の育成を主たる眼目とした。
そうして、自らの死と向き合いながら『留魂録』を書き残し、自らの志の継承を願ったのであった。
このようにして門下生に課題を託し、西欧諸国からの侵略を防止する課題に立ち向かわせる教育に情熱を注いだのであった。

著作:『松陰と幕末・明治の志士たち』 2015 NHK出版


「いきいき埼玉」講座
【2016/05/25 19:08】 エッセイ
『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』

明治維新は、日本の歴史上最大の『国家レベルの存亡を賭けた一大変革』であった。
「元和偃武」といわれる徳川政権の開府以来、およそ2世紀半もの平和の時代を日本人は享受した。一方、西欧文明は着々と近代国家形成への努力と相俟って、第一次産業革命を現出させ、基本的人権の獲得や資本主義の生成発展と共に「近代国民国家」へと大きな変貌を成し遂げていた。資本主義は必然的に地球規模の地域対象への広がりを内包しており、資材の獲得と生産物の販路拡大を宿命的に伴う。

160516坂本龍馬全集写真160515薩長同盟4 いきいき埼玉2016



19世紀はこの地球規模の市場開拓という「うねり」が、当時の後進国家群としての南アジアから東アジアへの東漸となった。
徳川政権下の中期より、日本に西欧先進国の「交易・開国要求」の使命を持った船舶が出没するようになる。これに対し徳川幕閣は「祖法遵守」として「鎖国」政策継続の姿勢で対応をしたが、国内的には貨幣経済の発展と共に幕府・藩ともに財政は慢性的に窮乏を来し、年々その実態は深刻化して、数度の改革実施も再建策は破綻を来していた。

米墨戦争に勝利したアメリカは太平洋への航路が開けたため、ペリー提督を特派し軍艦四隻を率いて嘉永四年浦賀に来航する。強大な軍事力を背景に「砲艦外交」で日本に開国を迫り、それに屈した徳川政権は開国を余儀なくされた。
その対応策は結果として徳川政権の基本政策を根幹から崩壊させることになる。国政レベルの「海外対策」は幕府の専権事項であったが、海防問題(国防)が日本の存亡をかける重要課題となった。徳川幕藩体制下でのこうした国防への国家的対応は構造的に困難であった。

日本は、こうして世界史の舞台に引き出されることになるが、その方法、対策等をめぐる思潮は「尊王論」や「攘夷論」の主張、「天皇を中心とした朝廷」が様々な主張が絡んで桎梏を重ねた。それとともに、幕府は政権の弱体化を招き、再建を果たそうとして「朝廷」と「幕府」の協力体制による「公武合体政策」でこれを克服しようとするが、最終的に「国家の改造」により近代国家への変貌をもって国際社会に生き残れる国家形成が実現する。
この一連の変革課程が「明治維新」であり、徳川政権末期を「幕末」、明治新政府後を「維新期」と言う。また、両者を包含したものを「幕末維新」とひとくくりで捉える事も可能である。明治維新とは、日本国が存亡をかけて国際社会に対応する懸命の努力でもあった。

161004坂本龍馬 いきいき埼玉161004大政奉還 いきいき埼玉



「歴史は人が動かすものであり、時代への対応努力は幾多の志ある人達によって進展が図られ、そこに介在する個人の活動は必然的に個人的な伝記物を必要とする」。
こうした観点から、幕末維新期に活躍した人物像を学ぶことは、そのまま荻生徂徠のいう『学問は歴史に極まり候ことに候』の言葉に繋がる。
今回は、こうした考えのもとで「歴史を学んで、歴史に学ぶ」を楽しみながら学ぶこととしたい。今回は「坂本龍馬」を中心に、幕末維新期を彩った人達を取上げ「明治維新への道」を勉強したい。

以下、開講日と講座演題・内容を概略列記。

第1回   2016.10.04:坂本龍馬と幕末維新(開講と概略説明)
第2回   2016.10.11:坂本龍馬と長州藩の志士たち
第3回   2016.10.18:坂本龍馬と薩摩藩の志士たち
第4回   2016.10.25:坂本龍馬と幕府要人たち
第5回   2016.11.01:坂本龍馬と土佐藩の要人たち


『吉田松陰』理解の為に①
【2016/04/30 22:03】 エッセイ
『吉田松陰に見る人間観・学問観』

2006年4月から「松蔭大学」にて【吉田松陰論】という履修科目を担当して、2016年3月の卒業生までの10年間、3千名近くの学生に【吉田松陰】を語りつづけている。吉田松陰を語る事は大変に難しい。松陰の人となりの全貌を語り尽くすことは、将に「難事中の難事」である。それは、日本では明治26年に「徳富蘇峰」が、吉田松陰の「伝記」を書いているが、それでも「緒言」で断わりの文が書かれている。曰く、「題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ならん」。と態々、断り書きを記述して刊行目的を最初に提示していることでも理解されるように、吉田松陰の全体像を書ききる事の困難さを吐露しなければならなかった。
吉田松陰と松下村塾25.3.28


1973年に中央公論社が『日本の名著』シリーズを刊行した。そのなかに『吉田松陰』が入っている。この書物の最初の解説部分に、山口県出身の幕末維新期の研究者である「田中彰」氏が『吉田松陰像の変遷』―明治・大正・昭和前期松陰像覚書―と題する書が書かれていて、吉田松陰という人物が、時代により「変転する人物像」として、ある種の吉田松陰研究史の紹介がなされている。この書物は、吉田松陰研究を志す者にとって貴重な研究ヒントを提供してくれている。この解説部分は後に「中公新書」で2001年に『吉田松陰』―変転する人物像―という副題が付いた新書として出版されている。

吉田松陰の人物像を最も客観的な原資料を網羅し、読み込んで研究した書物としては昭和11年に岩波書店から刊行された『吉田松陰全集』の編集委員を務めた「玖村敏雄」氏の『吉田松陰』が、最も水準の高い研究書として刊行された。この研究書は『吉田松陰全集』(通称定本版:その後二度の全集が刊行されている)の第一巻の最初に『吉田松陰伝』として、実に216頁にわたって詳述されたものを、加筆訂正を加えて単行本としたものである。

吉田松陰に直接照射して『伝記』に纏め上げた本格的な伝記である『吉田松陰』(玖村敏雄著)は、松陰の遺著をくまなく読み込んだ上に書かれたものであっただけに、その学術的研究の価値は高い。それは松陰死後の今日(2016年)までに様々な人々によって書かれたどの本より精緻な史料批判と解釈の下に書かれただけに、今後もこれを越える伝記は恐らく書かれないだろうと断言できる程のものである。

玖村敏雄先生


精魂込めて研究し、書き込んだことが読む者をして納得させるには相当の時間を要すると思われる。極めて完璧を期した『吉田松陰全集』の編集意図・努力は大変な労力を要したに違いないが、それを基礎として研究し尽くしたかと思われるこの書の価値は今後も光り輝き続けるに違いない。以下、このタイトルで、書き続けようと思う。その集大成が成った時、価値があるものとなるだろう。抑々、この記事を書く動機は、私の勤務する松蔭大学の『吉田松陰論』を履修する学生に理解を容易にするためである。
さらに言えば、この題名で毎年「期末試験」に同じ記述試験として出題し続けているからである。現在は、高校で「日本史」は選択科目となっているために、吉田松陰を理解してもらうためには、我慢強く、粘り強く一貫して語り続ける必要がある。
まして、松陰の名を冠した大学だけに、建学精神と位置付けられるからその必要性は高いと思うのである。





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