FC2ブログ
長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

【社学稲門会OB訪問記】
【2019/09/29 17:28】 エッセイ
がんばれ! 同窓生 ~次世代へ贈る言葉~

平成27年のNHK大河ドラマは、吉田松陰の妹、「文」を主人公にした『花燃ゆ』が放送されています。
早稲田大学社会科学部の2期生(昭和46年卒)の長谷川勤さんは、松蔭大学の客員教授として教鞭をとり、同時に吉田松陰の研究家として、各地で講演や講座を行っています。
そして今まさにNHKのラジオ第2放送で『歴史再発見 松陰と幕末・明治の志士たち』という講座を展開中。
勤労学生だった早稲田大学時代のお話や、日本近代史とのかかわりについて聞きました。

190930早稲田大学190930グラスゴー大学190930小山台高校校章190930アダムスミス肖像吉田松陰

(広報)長谷川先輩、今日はよろしくお願いします。まずは、長谷川さんが早稲田を目指した経緯などをお聞かせいただけますか。

(長谷川)私が群馬県勢多郡黒保根村(現桐生市)の中学校を卒業したのは、昭和37年です。
当時ほとんどの同級生が中学を出たら就職するというのが普通でしたから、私は三菱電機という巨大企業に迷わず就職致しました。
そこで三年間、給料をもらいながら工業高校のような勉強をし、これを卒業すると現場に配属になるといういわば社内高校みたいな制度(昔は、乙種工業高校と云った)。そこに籍を置いたわけです。
15歳で就職して、ある先輩から高校に入らないかと勧められて、自分でも「高校くらい出ておこうかな」という気になって神奈川県立茅ヶ崎高校の夜間部に1年遅れで入学したのです。

茅ヶ崎高校で2年生になった時、掲示板に「ある大学の入試要項」が掲示してありました。
その内容をよく読んでみました。
それまでは出身地や田舎の人間には、高校や大学の受験の仕方・要領などが私にはわからなかったのです。
大学というところは、大いに勉強ができる学業優秀な人間だけが行く【特別な所】だとばかり思い込んでいました・・・・・・。
ところがその入試案内を見たら、国語・英語・社会の3教科が受験科目と書いてある。これで合格すれば晴れて入学できる。
「これなら俺にもできる!」と、合格実現の可能性を見出した時は体中の血液が逆流するような感動体験をしました。

(広報)企業内高校に通いながら受験の決意をされたのですか。

(長谷川)そうです。普通に生活するなら失業の心配ない今の会社に残るか、または大学進学を目指そうか。
半年ほど真剣に悩んだ末に進学する道を選んで、2年生の3学期に都立小山台高校の夜間部に編入したのです。
ところが小山台高校のレベルが今までの茅ヶ崎高校と全然違うので、5だった成績が2や3になってしまった。
生まれて初めて英語で赤点をもらって、そこから奮起しましたね。 それまで英語の成績は抜群でしたから、ショックでした。
仕事が終わって学校に行き、帰ってきて勉強し、翌日また会社に行って・・・・・・。
ついに丸二日間、48時間睡眠なしで英語の勉強に打ち込みんで再試験を受けて何とか落第を免れました。
ところが後で聞いてみたら、約200人の同級生のうちで再試験なしでパスしたのはたった2人だけで、皆再試験でした。
転校直後でそうした事情を知らなかった私は、「これは大変なところに来てしまった」と思いましたが、後戻りできないし、前進するのみしか選択肢がなかったのです。

(広報)そのころには早稲田が視野に入ってきていたのですか。

(長谷川)そう、小山台高校の3年次に成績が平均値を超えるところまでたどり着いて、4年次には生活費と大学の入学資金の貯金ができたのです。この資金で行ける一番良い学校は・・・・・・と考えたら早稲田大学の社会科学部が浮かび上がってきたのです。

(広報)晴れて早稲田大学の社会科学部に合格されたわけですね。

(長谷川)そうです。早稲田に入学したら、会社に行くわけじゃなくて牛乳配達のアルバイトだけですから、勉強する時間がたくさんあった。勉強するのが楽しくて単位もどんどん取りましたね。
昼間は他学部で聴講し、夜は社学で勉強して、1年、2年と連続で上限単位取得と卒業単位に使える夏期講座をこれまた2年連続で受講して単位を取得してしまい、3年、4年は卒業は問題なく見通しが付いたので気楽に過ごしました。
在学中の4年間で「不可」の成績は、教職資格を取る科目試験(第二文学部)の時間帯が重なってしまい、途中退場して文学部の試験へかけつけた時の1教科だけでした。四年の時で、必要単位はおつりが来るほど取得していたので心配なしでした。

(広報)私らの頃は大学に行っても遊んでばかりで恥ずかしい限りですが、当時の学生気質ってどんな感じでしたか。

(長谷川)そうですね。私が在学したのは昭和42年から46年3月迄ですが、あの頃の社学生の半分以上は勤労学生だったのではないかな。
経済的な理由で早稲田の社学にやってくる優秀な勤労学生が多かったと思いますよ。みんな一生懸命勉強していましたね。

(広報)ご友人の思い出を聞かせていただけませんか。

(長谷川)40代や30代の年配の同級生も在学していて、いろんな人がいました。
島根県出身で厚生省に勤務していた友人は、とても学業ができて、確か優を35個も取得して学年で3番だったかな。
そのあと彼は我々の憧れだった全日空に入社しました。
また能弁な友人もいて、彼は入社試験の時の面接試験で「尊敬する人物は大隈重信」と語ってリコーに入った。
さらに仙台二高のラグビー部出身で早稲田でもラグビー部で活躍した友人がいて、この友人は博報堂に入社しました。
彼の会社の同期生に、後に私が研究することになった吉田松陰の妹と結婚し群馬県の初代県令になった楫取素彦の子孫がいたのです。
人の縁は、何時どこでどんな出会いがあるかわからないですね。
そういう意味でも早稲田って出会いの機会が本当に多い、素晴らしい大学だと思います。

(広報)その当時は70年安保で学生運動が盛んだった頃ではないですか。

(長谷川)うん、時代的にはそうだったのかもしれませんが、私自身は学生運動とは無縁な生活をしていました。
当時の社学は創設されたばかりで、社会的評価が定まっていなかった為か、皆さん本当に良く学んで頑張っていたと思います。

(広報)完全昼間部に移行して偏差値が高くなったということも現在の社学の人気の一因かもしれませんが、草創期の学生が良く学び社会に出てからも頑張ったことが学部の評価や信用を高めていった大きな要因ですね。
その草創期の早稲田の社学に入って思い出に残る先生というとどなたですか。

(長谷川)一年生の時の必修科目で、難波田春夫先生の社会科学方法論に出会えて大変感動しましたね~。
聴講しているうちに武者震いがしてきて、聴き終わった後には大変に感動して虚脱感(過度の充足感)を覚え、動けなくなった思い出がありました。
「ああ、こういうのが大学の研究者が打ち込む学問なのだな」と心底から思い、最高の先生との出会えたことに感謝しました。

(広報)私たちの時の社会科学方法論は難波田先生の愛弟子の田村正勝先生が担当されていました。

(長谷川)その後は、先輩に同行をお願いして案内を願い、難波田先生の研究室にご挨拶に行き、4年の時に難波田ゼミに入りました。ゼミ論は「アダム・スミスの経済学成立事情」というタイトルでした。
12月くらいから昼夜逆転の生活で勉強してゼミ論を書き上げました。
アダム・スミスの『国富論』は、1776年に著されたものなのですが、アメリカの独立宣言もこの年です。
国富論が何度目かの改訂版が出されたのは1789年でフランス革命の年です。
その時の日本は田沼意次の時代でもあるのですが、近代社会のメモリアルな時期に書かれたのです。
ちなみにアダム・スミスは、グラスゴー大学で道徳哲学の教授をしていて『道徳感情論』を著しています。
国家・国民の秩序はいかにして形成されるのかというようなことを説いていたのです。
人間は競争することによって生産性も上がり、さらに努力するということなのですが、
1.社会の秩序を保つためには法が必要である。
2.法を導くためには政治が必要である。
3.政治をやり遂げるには国民が豊かでなければいけないという理論で、
最終的には「経済」が社会科学の王座を占めるという教えを難波田先生から授かりました。

この『道徳感情論』と、後の『国富論』の関連性を理解することがとても大事で、日本評論社から出版された『グラスゴー大学講義』を読むとそれが解かるのですが、当時は絶版になっていて購入に大変な苦労をしましたが、執念で購入しました。
この時に、神田の古書店街へ行って『グラスゴー大学講義』を探し当てた。ところが昭和45年当時で六千円の価格でした。
最初六百円と思い込んで喜んだのもつかの間で、よく見たら六千円でした。
がっかりして家に帰りました。ところが、ゼミで研究途上の話をする機会があって、私がこの話をしたら、難波田先生は【それは僕が買ってあげる】と云われた。嬉しさで舞い上がるような感動でした。その時の感動は今でも忘れませんね。
しかし私は本に線を引いてしまうので、熟考して先生に『何とか自力で購入します』と報告したら、先生は【承諾】してくれた。
先生のご厚意がありがたくて、本当に嬉し涙が出る思いでした。
この『グラスゴー大学』が理解できると、難波田先生の『國家と経済』がとてもよく理解出来るのです。
今でも大事に保持していますよ。思い出が沢山詰まっているので処分する気持ちになれないのですよ。

(広報)後任の田村先生の『ロゴスの導くままに』という教えを思い出します。

(長谷川)難波田先生の講義を聞いて段々理解できるようになってくるのですが、理解できた時は物凄い感動を覚えましたね。
学生時代は勉強もたくさんしたし、楽しくて仕方なかったです。

(広報)そう言えば、長谷川さんの娘さんがエミレーツ航空に勤務されていた時にグラスゴーに行く機会があったという話を以前お聞きしましたね。

(長谷川)そうなんですよ、ある時に娘から「今度グラスゴーにフライトする」という連絡をもらったのです。「えっ、ちょっと待てよ。グラスゴー大学は私にとって思い入れのある大学だから、是非写真を撮って来てくれ」と頼んだら、2週間後にたくさんの写真を送ってくれました。あの時は感動したなぁ。自分が若かりし頃、一生懸命勉強したアダム・スミス、その憧れの人が教鞭をとった憧れのグラスゴー大学ですからね。

(広報)素晴らしいプレゼントですね。他に学生時代で何か思い出に残る出来事はありますか。

(長谷川)中学校を出てから9年後の大学4年生の時に教育実習で帰郷した時に、地元で大きな話題になりました。

(広報)どうしてですか。

(長谷川)当時、村では学年で1番か2番くらいの成績の良い学生しか進学しないような状況でしたから、中卒で村を飛び出した若者が九年経って、いきなり教員の免許を取りに教壇に立ったので周りがびっくりしたのでしょうね。
中学校のクラブ活動で、WASEDAのジャージを着て卓球の実技指導もしたこともあってか子供達と仲良くなって、普段勉強しない子たちも勉強しだしました。
テストの平均点も75点くらいになってこれまた周りがびっくりです。教員会議で話題になり、問題が易しいのだろうと後で確認したら、そうでは無かった。このことを私の父親が大変喜んだらしく、後日そのことを聞いた時には嬉しかったですね。

(広報)卒業後は、教師ではなくて企業に就職されたのですよね。

(長谷川)そう、昭和46年に三陽商会に入社しました。我々の頃は業務拡大のために採用が多くて同期が100人以上いました。
私は主に百貨店の担当で、平日に休みがあるものだからゴルフの練習も接待も良くやりましたよ。
今は全然ダメになってしまったけど、良い時はハンディが13くらいまでいったかな。

(広報)三陽商会と言えばバーバリーというか、長島茂雄さんをイメージしますね。

(長谷川)そうね、営業課長時代に長島さんにバーバリースーツのCMキャラクターになってもらいました。
今でもその時にいただいた長嶋さんの色紙が3枚あります。

(広報)長谷川さんの課長時代だったのですか。長島さんのCMは記憶があります。

(長谷川)それから44歳の時に働きすぎて病気になってしまい、100日ほど会社を休んでしまいました。

(広報)歴史との出会いはいつごろですか。

(長谷川)長期病欠して会社での出世はもうないだろうなぁと思い、それからもともとやりたかった近代史をやろうと思ったのです。
五十歳で慶応義塾の文学部史学科の通信課程に学士入学しました。
同時にその頃は、社学稲門会の前身の二水会にも参加していたのですが、合同クラス会の懇親会場で社会科学部の学生担当副主任だった島善高先生にお目にかかったのです。
島先生は社学の名物教授だった木村時夫先生の後任の方で、近代史を勉強したいのですが、と相談を持ちかけたわけです。
論文の試験に通って大学院の科目履修生として1年間、島先生の下で近代史の勉強の仕方を直接学ぶことになったのです。
これが歴史との出会いの大きな一歩だったと思います。慶応の方は『福沢諭吉論』に取り組んで頑張ったのですが、なかなかレポートが通らない、5回出しても駄目であともう少しで卒業のところまで単位を取得しながら中退してしまいました。反面、福澤諭吉は相当に打ち込んで勉強しました。自宅には『福澤諭吉全集』の二十二巻があります。

(広報)吉田松陰の研究はその後ですか。

(長谷川)そうですね、ある時、小学校時代の友人から東松山にある大東文化大学で吉田松陰論の講座があるということを聞いて聴講に行ったのが始まりです。講座の後、帰りにその講師と一杯飲みながら話をする機会があり、「あなた、一度講義をしてみてはどうだ」と持ちかけられたのです。
次回は半年後だというので、『私も吉田松陰の勉強をしてみよう』ということになった。
こういうことも一つの転機なのかなと思いますね。講義はテキストを読まないで語りかけるスタイルでやってみたら受講生の評判が良かった。大東文化大学の講座を何度かやっているうちに松蔭大学の副学長のところにも『吉田松陰の面白い講座を持っているのがいる』という評判が届いたようで、お声が掛ったわけです。
そこでこれまでに学んだことや考えなどの経緯を手紙に書いて副学長に送りました。
その後、松蔭大学の講師として招かれたのは2005年、59歳の時のことです。松蔭大学とは、吉田松陰の松下村塾における教育実績に共鳴して名付けられた大学名なのですが、吉田松陰の研究講座はある意味でこの大学の憲法みたいなものなのです。
今では必修科目になっている学部もあって、みな一生懸命勉強しています。

(広報)吉田松陰の言葉で『草莽崛起(そうもうくっき)』という言葉がありますが、わかりやすく言うとどういうことですか。

(長谷川)志ある民衆の結集こそが幕末の難局打開の秘策だということで、言いかえれば志のある在野の人々の中から日本を変えようと立ち上がることを呼びかけたのです。「立志と実践」ですね。

(広報)アップルの創業者もやる気がなければイノベーションは起きないと言っています。

(長谷川)人間は絶対に「志」を失ってはいけない。その「志の導くままに」学問した先に人生が拓けるのではないかなぁ。
吉田松陰も『学問の大禁忌は作輟なり』と、学問はやったり、やらなかったりではいけないと戒めの言葉を残しています。

(広報)今の学生さんや若者にその言葉を贈りたいですね。

(長谷川)『志があれば道は拓ける』というのが私の座右の銘ですが、これは松陰が残した『士規七則』という教えの中にある「志を立てて以て万事の源となし、全ての源は志にあり」というところから戴いています。
高い志をもって実践することによって素晴らしい人間の出会いが必ずあります。

(広報)まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、この後の話は、NHKのラジオ講座「歴史再発見」と著書に譲りたいと思います。今日は、貴重なお時間とお話をありがとうございました。



<プロフィール>
1946年群馬県生まれ。1971年早稲田大学社会科学部卒業、三陽商会入社。
2005年より松陰大学非常勤講師。2015年より同大学客員教授。「吉田松陰論」を担当。
明治維新の研究から出発し「吉田松陰なくして明治維新なし」との結論に至り、松陰研究に専念。日本歴史学会会員。

スポンサーサイト



松蔭大学の試験問題
【2019/09/28 21:06】 エッセイ
『吉田松陰に見る人間観・学問観』①

2005年4月から「松蔭大学」にて【吉田松陰論】という履修科目を担当して、2019年3月の卒業生までの15年間、3千名近くの学生に【吉田松陰】を語りつづけている。吉田松陰を語る事は大変に難しい。
松陰の人となりの全貌を語り尽くすことは、将に「難事中の難事」である。それは、日本では明治26年に「徳富蘇峰」が、吉田松陰の「伝記」を書いているが、それでも「緒言」で断わりの文が書かれている。曰く、「題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ならん」。と態々、断り書きを記述して刊行目的を最初に提示していることでも理解されるように、吉田松陰の全体像を書ききる事の困難さを吐露しなければならなかった。
1973年に中央公論社が『日本の名著』シリーズを刊行した。そのなかに『吉田松陰』が入っている。この書物の最初の解説部分に、山口県出身の幕末維新期の研究者である「田中彰」氏が『吉田松陰像の変遷』―明治・大正・昭和前期松陰像覚書―と題する書が書かれていて、吉田松陰という人物が、時代により「変転する人物像」として、ある種の吉田松陰研究史の紹介がなされている。この書物は、吉田松陰研究を志す者にとって貴重な研究ヒントを提供してくれている。この解説部分は後に「中公新書」で2001年に『吉田松陰』―変転する人物像―という副題が付いた新書として出版されている。

190927人は何故勉強するのか

吉田松陰の人物像を最も客観的な原資料を網羅し、読み込んで研究した書物としては昭和11年に岩波書店から刊行された『吉田松陰全集』の編集委員を務めた「玖村敏雄」氏の『吉田松陰』が、最も水準の高い研究書として刊行された。この研究書は『吉田松陰全集』(通称定本版:その後二度の全集が刊行されている)の第一巻の最初に『吉田松陰伝』として、実に216頁にわたって詳述されたものを、加筆訂正を加えて単行本としたものである。
吉田松陰に直接照射して『伝記』に纏め上げた本格的な伝記である『吉田松陰』(玖村敏雄著)は、松陰の遺著をくまなく読み込んだ上に書かれたものであっただけに、その学術的研究の価値は高い。それは松陰死後の今日(2016年)までに様々な人々によって書かれたどの本より精緻な史料批判と解釈の下に書かれただけに、今後もこれを越える伝記は恐らく書かれないだろうと断言できる程のものである。

精魂込めて研究し、書き込んだことが読む者をして納得させるには相当の時間を要すると思われる。極めて完璧を期した『吉田松陰全集』の編集意図・努力は大変な労力を要したに違いないが、それを基礎として研究し尽くしたかと思われるこの書の価値は今後も光り輝き続けるに違いない。以下、このタイトルで、書き続けようと思う。その集大成が成った時、価値があるものとなるだろう。抑々、この記事を書く動機は、私の勤務する松蔭大学の『吉田松陰論』を履修する学生に理解容易にするためである。


吉田松陰の対外政策 ①
【2019/08/29 10:02】 エッセイ
「栗原良三に復する書」(嘉永五年六、七月頃)

吉田松陰は前年の江戸遊学で、ロシアが我が国の東北の海防の無備をついて津軽海峡を我が物顔に航行しているとの情報を得た。さらに津軽半島に上陸し狼藉を働いているという情報は、検証の必要があると即座に思い立った。
そこで、鎮西遊学以来の友人で、同じ「山鹿流兵学」の先輩でもある宮部鼎蔵とともに北辺の海防視察を敢行することとなった。
ただし、この行動を是としない藩の上層(具体的には、江戸藩邸の佐世主殿は、松陰からの〔願い書〕提出の時点(嘉永五年七月二十三日)では許可したものの、直前になって許可しないとのことになった。
これには、藩主の毛利敬親が急遽、九月に国元に帰国して不在という事情があり、藩主の印形のない箇所手形は無断で発行出来ぬ故に、出発延期を指示してきた。その時、松陰は宮部鼎蔵と江幡五郎とで出発の日を約束していたことから、松陰は板挟み状態となった。そこで、藩主の許可(箇所手形発行)なきままに、かれら二人との約束を強行したのであった。
半年後、東北の海防視察を終えて江戸に戻った松陰を待っていたのは「国元で屏居待罪」で、処罰が下るまで国元蟄居の命令であった。この東北旅行途次、水戸に一ヶ月滞在して会澤正志斎から親しく水戸学を学んでいる。松陰の思想形成にとって大きな転換点であった。水戸学(後期)は「尊王攘夷」を掲げる幕末の指導的イデオロギーとなった藩であった。とりわけ、会澤正志斎は前藩主の徳川斉昭の教育掛を担当した、水戸学の大家の一人で、文政年間に起きた北茨城での「英国人の無断上陸」の取調べを行った経験に基づいて『新論』を著述していた。尊王攘夷はいわば水戸藩の藩是ともいうべき対外観を有していた。松陰の攘夷思想の原典はこの水戸学にあったこと、先年の鎮西旅行で学んだアヘン戦争における英国の清国侵略の実体とともに「攘夷思想」を形成したのであった。松陰の攘夷思想は「洋夷」排斥の思想に特徴がある。この先進列強国からの脅威を如何にして皇国の防備に転用して「国防」を達成するかが、彼の思想と行動の中で大きな比重を占めたのは、山鹿流軍学師範という家職と無縁ではなかった。そこから、列強国への対応策が巡らされることになる。

この來原良蔵に対して書かれた内容は、こうした背景の下に考察されるべきであろう。時期的にもペリーの来航の一年前になり、脱藩の処罰確定前の萩で屏居待罪中であったことと合わせて見るべきである。この屏居待罪中における読書の内容は『睡餘事録』と『來原良蔵に復する書』に詳しい。「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」、故に
先づ「日本書紀」三十巻を読み、之れに継ぐに「続日本紀」四十巻を以てす。其のあいだ、古昔四夷を懾服せし術にして構成に法とすべきものあれば、必ず抄出してこれを録し、名づけて皇国雄略と為せり。(9-283・睡餘事録)
ここに松陰の「皇国雄略」たる対外政策がある。東アジアにおける祖国の独立貫徹には、朝鮮や満州の懾服が必要であるとする。

これを前提に、
「皇朝、武を以て國を立つ、その盛時は高麗・新羅を懾服して使者を百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。寛平に至りて、新羅来寇す、則ち撃つちて之れを却けたるも、是の時は古の雄略復た見るべきなし而れども防守は尚ほ人ありき。其の他は則ち言ふべきものなし。豈に時不可なるか。夫れ盛衰は何の時か之れあらん。豊関白起こるや、三韓を鏖にし、有明を壓し、勢い将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継がざりしは惜しむべきかな。然れども余威猶ほ百蛮に震ひて數世に延ぶ、盛なりと謂ふべし。降りて近時に及んでは、事言ふに忍びず。羅刹、蝦夷を擾すも、大恥未だ雪がず、英・拂、琉虯に逼るも、深い患未だ除かず。浦賀に闖入すれば則ち慰して之れを遣り、下田を劫掠すれば則ち免して之れを脱す。国威の衰頽、最も未だ嘗て有らざる所なり」。(6-316)を読まなくてはならない。

190927人は何故勉強するのか

松陰が、『武を以て國を立つ』とした古代の日本が朝鮮半島に進出し、それらを『属国』として扱ったという日本書紀の『歴史的神話』に、『皇國』が他の国との相違を示すところであり、豊臣秀吉の『朝鮮出兵』は『古の路』を復活させたものである。しかし、それが終わってからというもの『国威の衰頽』は甚だしいものであると認識される。
松陰の『國體』の発見、すなわち『尊王』と天皇の下に周辺諸国を武力によって『懾伏』させることがリンクしており、両者は不可分な存在なのである。
このように『武』の國であったはずの日本が、米国艦隊の『武』に威圧されて条約を締結してしまった。再度の来航時にこそ日本の『武』を輝かせて往時の栄光をとり戻すべしと開戦に期待した松陰は肩透かしを食らったかたちになってしまうのである。

吉田松陰初期の世界戦略である、これが書かれたのが嘉永五年七月。このとき松陰は箇所手形なしで東北遊学に出奔したため、帰朝してから藩の処分が下るのを謹慎して待っていた時なのである。
松陰の「東北游日記」の末に「睡餘事録」と題した小論がある。其れによると、一ヶ月足らずの内に『日本書紀』『続日本紀』を立て続けに読了している。すさまじいまでの読書ぶりであるが、これには伏線があって、江戸での仲間から、長州人は日本の古代史に暗いと指摘され、冷や汗をかいたことがあったが、多忙に追われ日本の成り立ちを勉強する余裕がなかった。
そこに、東北遊学の機会が訪れ、水戸で会澤正志斎(後期水戸学の大家)から親しく講義を受け、念願が叶ったのである。
その感激が覚めやらぬ内に、上記の異常とも言える読書になった。
そしてして日本書紀の記述に基づく、神功皇后の三韓征伐や雄略天皇の朝鮮侵攻に感激し、隣国の懾服論が形成されたのであった。この記事は、『万年書生気分』の名前で書かれている方の、吉田松陰の朝鮮論の述作からの引用です。
松陰の対外政策勉強で非常に勉強になりましたので、原文はそのままにして記述し、戦前の日本陸軍が大東亜戦争に利用したとされる検証の一環として書いている。これを読むと、松陰が尊王攘夷の権化のように理解されているのを見直す機会になると思える。


『子遠に語ぐ』安政六年一月
【2019/08/03 14:25】 エッセイ
子遠に語ぐ  
(己未文稿野山日記)  安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に来り、船越清蔵.村田蔵六、萩に来るの事を談ず。

170331正装の吉田松陰160621松下村塾塾舎150405野山獄小



    ○
  子遠に語ぐ  正月念七夜
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。
汝其れ之れを察せよ。防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。
然らば則ち防長唯だ汝一のみ。切に自ら軽んずるなかれ。

汝、国を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隠すの便あり、三には生活の計あり。
且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅学も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
兵は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。
切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶背ば即ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。
但し今日の時勢、宜しく佳賊となるべし、切に無頼の賊となるべからず。
徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。
然れども仁既に至らば則ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。
天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。
此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。
草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。
天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。
吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聴かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聴かずんば則ち干戈を用いて可なり。
是れ亦仁至り義尽くるの論なり。汝識高く胆大、吾れの愛敬する所なり。
恨むらくは才足らず、学尤も足らず、怨讎の気過当なり。是れ汝の病なり。
必ず荘四を罪せんと欲するが如き、是れ過当の怨讎なり。
然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。
才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。
戎馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ、真心実意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

知行合一24.3.30伝習禄



吾れ曾て王陽明の伝習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。
向に日孜に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。
然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の学の真、往々吾が真と会ふのみ。

今の世界、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。
吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ、敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。
諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。
是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。
是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしかを思量すべし。
(余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚真実を以て世々相伝ふ。

ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。
之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。
旧友は前書に略ぼ之れを言へり。新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。
但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。
然れども両暢夫相抗すれば必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れ桂と一言せしに、桂も之れを首肯せり。
無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些の才あり。是れ大いにその気魄を害す。
気魄一たび衰へば識見亦昏む、歎ずべし歎ずべし。諷するに老屋の説を以てせば、或いは一開発あらんか。
抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒の事の如き、八十.子楫.無咎、各々諌書あり。
その懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。
試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの慮短きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。
嗚呼、鐘子期遇ひ難しとは其れ唯だ無逸か。実甫の才は縦横無碍なり。
暢夫は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。
然れども自ら人に愛せらるるは潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当に此の三人を推すべし。
八十は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。所謂、布帛栗米なり、適くとして用ひられざるはなし。
其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。
吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を持ってすべからざるなり。
子楫は鋭邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌すことあらば、駟馬もこれに及ばず。
吾れ平生最も愛する所は子楫.無逸なり。無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭(きえい)なるを愛す。
皆その己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或いは平にすること能はざらん。是れ其の敬すべき処なり。
子楫は其の頑なし。然れども気自ら恃むべし。且つ子楫は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。
是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。
福原は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子楫の鋭気(えいき)愛すべきに如かず。
然れども其の頑固自ら是とする処は子楫及ばざるなり。
無窮は才あり気あり。一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。
無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節に臨みて、亦苟も生きざるなり。
子徳は満家俗論にして、恐らくは自ら持すること能はざらん。然れどもその正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ。
子大は俗論中に在りて、顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし。
日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。
天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。
誠に李卓吾の如きを得て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。
吾が交友中に於いて暢夫.日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。
嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。
大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。
吾が交友中、言ふに足る者なし。
汝の知る所は仙吉.直八.松介.伝之輔.小助.太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢(ゆうかん)にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
然れども大識見大才の如き、恐らくは亦ここに在らず。
天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。

吉田松陰は二度目の野山獄にあって、門下生との交友も行き詰まり状態となった。
江戸では、井伊直弼の指揮する【安政の大獄】が吹き荒れていた。
これを書いていた頃の松陰は孤独であった。唯一、恩師に着いてくるのは入江杉蔵兄弟であった。
この文稿は、松陰が松下村塾の門下生をどのように評価していたかを知る、貴重な文献である。
桂小五郎が、松陰と門下生との交信を断ち切らせたと冒頭にある。
また陽明学についても、すこぶる味あるを覚ゆ年ながらも、陽明学とではないと言っている。
「万々心に当ると」といっている。
一連の門下生評価は、松陰がどのように見ていたかがしれて大変興味深い。
高杉への評価が抜群なのは、松陰死後の活躍を見ても、松陰の人物評価が確かであったと言えるだろう。
【他人の駕御を受けぬ高等の人物】や【新知の暢夫識見・気迫他人及ぶなし】等と松陰の表現は独特で面白い。


『J 万次郎の軌跡』
【2019/07/31 21:34】 エッセイ
『漂巽紀略』ージョン万次郎漂流生活記(河田小龍記)ー
昨年末に講談社学術文庫から『漂巽紀略』の現代語訳が刊行された。半年間で大変な売れ行きで増刷となっている。
西欧では第一次産業革命の進展の成果が市民生活に変革を及ぼしていた。天保八年、土佐の漁師五人とともに漂流し、運良く米国捕鯨船に救助されて米国での生活は十年の長きにわたった。
万次郎さんはホイットフィールド船長にその才覚を見出された(養子となる)ようです。
漂流した五名のうち万次郎だけが捕鯨の仕事で世界を航海して様々な見聞を広めた。
このことが海外渡航禁止の徳川政権下にあって、生き延びることはもちろん、世界の大勢や米国の政治システムを体験的に識ることになる。
それは鎖国日本にとって、得がたい世界情報となって罪人どころか、れっきとした「土佐藩士」となり、さらに「幕臣」となる。
さらに、万延元年の咸臨丸での太平洋横断の一行に加わり、堪能な英語力を駆使して漁民から三段階特進となって日本に為に尽くすことになる。そうして米国生活体験が、当時の日本人達にとって貴重な財産となるのである。
その体験を河田小龍が取調に立ち会って聞取り、纏めたものが『漂巽紀略』である。
これは、後に日本が世界史の舞台に引き出されて『世界に伍して』いく針路ともなった。
幕府の老中をはじめ、鎖国体制下の情報不足を思い知らされることになるが、長崎では幾つかの事件を経験している。
それが有名な「フェートン号事件」である。時の長崎奉行が責任をとって自決したのは情報不足の悲劇としかいいようがない。
結果としてペリー来航後に万次郎の知識が国家的に必要となるばかりでなく、世界認識に思いを致した坂本龍馬の世界観に影響を与えたと云われる。
いま、土佐清水市に【ジョン万次郎資料館】が建つ。幕末期に彼の体験とそれの基づく知識は、国家的見地からも大いに嘱望されたが、不幸にして明治四年に脳溢血を患い、幸いにして一命はとりとめたものの再度の脳溢血で死去した。
明治維新後の万次郎の消息がプッツリと途絶えたのは、かれの健康上の理由があったのである。
幸い、長男の東一郎さんが明治期に医学者として活躍し、その子息も活躍し世に裨益してくれたことを我々は感謝しなければならないと思うのである。

190802ジョン万次郎190730川田小龍190730漂巽紀略




望郷の念止みがたく帰国した直後にペリーの来航となり、密出国転じて世界を見聞した情報が幕府要路や開明的な諸侯から罪人どころか藩士・幕臣へと待遇が三段跳びの栄達となる。
特異な運命は幕末期に重要人物になった。有名な咸臨丸の太平洋横断の航海に、万次郎は通訳・技術指導員として随行する。
明治二年には新政府より、『開成学校』(現東京大学)の教授に任命され、翌年にはヨーロッパで起った「普仏戦争」の視察団として派遣される。この帰路に、恩人であったホイットフィールド(フェアヘーブン在住)を訪問し、再開を果たす。
まさに劇的な生涯を送った一である。明治四年の脳溢血を経験して、以後静かな余生を送ったとされ、明治三十一年に、再度の脳溢血を発症して七十一年の生涯を閉じた。子息は明治医学界でも活躍(東大医学部卒・中浜東一郎)する。
北里柴三郎の伝記を読むと、東一郎さんが登場する。
その東一郎さんの子息が『中浜万次郎の生涯』という本を書いている。

『近代日本と独逸医学の導入』
【2019/07/01 21:32】 エッセイ
明治政府が独逸医学を導入した理由

佐賀藩士・相良知安は、藩主・鍋島閑叟の侍医であった。明治新政府は西洋医学の採用を決めたが、戊辰戦争におけるウィリスの活躍からイギリス医学の採用が当然視されていた。
医学政策の責任者でもあった山内容堂は、自らもウィリスの治療によって治癒したことから、イギリス医学およびウィリスへの個人的信頼もあってウィリスに一任してイギリス医学でよいと考えていた。
戊辰戦争におけるウィリスの献身的な治療とその実績は新政府内でも高く評価され、新政府内ではそれに異論を唱える者はいなかった。
したがって、明治二年に相良知安と岩佐純(越前藩士・春嶽の侍医)が医学行政官(医学校取調掛)に任命されるまでは、廟堂においてはイギリス医学の導入は決定したも同然であった。

190703相良知安2


相良は幕末期に佐賀藩において蘭学の習得をし、さらに佐倉にある佐藤尚中の順天堂に留学した。
二年後に長崎の精得館で蘭医のボードウィンについて学んだ。オランダ医学は、江戸期を通じて唯一の通商国であったことから日本で西洋医学の導入・貢献があったが、実はドイツ医学のオランダ語版がわが国に紹介されたのであった。
西欧社会の国勢は斜陽のオランダに変わって、新興のドイツが躍進していた。オランダは西欧社会において17世紀のような隆盛は既になく、イギリスやフランスに遅れをとり、ドイツにも抜かれていたのであった。
幕末期に東洋への進出が遅れたドイツは、日本でもそうしたオランダの凋落した実情を知悉している人物は稀であった。
相良は修業期間中に、ドイツ医学こそ世界に冠たるものであって、国家百年の計の観点からすればドイツ医学こそ採用すべきであるとの確信を抱くに至った。
更に、特別の利害が絡まぬフルベッキのドイツ醫學への高い評価を聴いて、いよいよ独逸医学への信頼を抱くに至る。
ここから、相良と岩佐の医学校取調掛の二人は精力的に独逸医学の採用に向けて精力的に動き出す。
相良の論は、あくまで独逸医学が世界水準での一頭地を抜く存在であることから、私情をを挟まぬ科学的根拠を基にしたものであって、山内容堂の政治的判断とはその論拠が違っていた。
当初は殆どイギリス医学採用方針が決まりかけていた新政府の要路者を説得し、ドイツ医学の水準の高さこそ評価すべきであるとする相良の考えは廟堂の方針を覆すのは困難とみられていた。
しかし、相良の性格もあって精力的な説得工作は、壁に阻まれつつも次第にドイツ医学の優秀性が受容れられる方向に向かった。
当然薩摩や土佐系の人達は相良説に反対で、後に相良は冤罪で入獄となるも明治五年竟にドイツ医学採用の決定を見、相良自身は第一学区医学校長と文部省初代医務局長を兼任する。
この功績から、現在の東京大学構内に昭和10年12月に相良の顕彰碑が建つ。
しかし、相良の妥協しない個性は政府内でも次第に支持者が減少し、間もなく官を辞した。
晩年は不遇の人生を送ることになり、明治39年窮乏のうちに死去する。
新政府での活躍期間は短かったものの、医学行政に大きく貢献した。
現在では、相良の功績や人となりを知る人は、医学関係に携わる人々を除けばごく少数の人といえるだろう。
今日の東京大学の医学部の圧倒的な権威と存在感を考えるとき、短期間ながらの活動でドイツ医学を導入した功績に思いを馳せたいと思うのである。


『吉田松陰と水戸学』
【2019/05/31 15:25】 エッセイ
後期水戸学(天保学)

水戸学は一般には前期水戸学、後期水戸学に分けられる。もともとは二代藩主の光圀の編纂事業である『大日本史』から始まったが、幕末史に影響を及ぼしたのは後期水戸学または天保学といわれるものをさす。
吉田松陰は、嘉永3年、鎮西遊学で新論に接した。ただし、この時は目次の書写程度であった。嘉永四年末から五年正月にかけて、水戸に滞在して新論の著者『会沢正志斎』から親しく講義を受けて、水戸学及び日本の国体の由来を知る。松陰の思想形成に大きな影響を及ぼした。

以下、Wikipediaの説明を転記してみる。
後期水戸学は、第6代藩主徳川治保(はるもり)の治世(1766-1805)、彰考館総裁立原翠軒・たちはらすいけん(1744-1823)を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。翠軒の弟子には小宮山楓軒(1761-1840)、青山延于・あおやまのぶゆき(1776-1843)らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷・ふじたゆうこく(1774-1826)は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」(せいめいろん)を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎・あいざわせいしさい(1782-1863)、藤田東湖・ふじたとうこ(1806-1855)、豊田天功・とよだてんこう(1805-1864)らが、その後の水戸学派の中心となる。

190810水戸弘道館


文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文で、いずれも佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。嘉永2年(1849年)、斉昭の藩政関与が許可される。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

このように、水戸学は主として幕末にあって藩主であった徳川斉昭の教育担当として会沢正志斎が担当したことから、斉昭の強い個性と相俟って多くの人々に知られるようになった側面もある。斉昭の襲封時、門閥派と改革派との確執がその後にも影響を与えたのであった。この門閥派との対立抗争は幕末の最終段階まで続き、水戸藩は多くの人材をこの内訌で失い、ついに明治新政府に要人を輩出できなかった。戊午の密勅の返納をめぐっても対立が続き、安政の大獄で幕府(大老・井伊直弼)から、厳しく処罰され、多くの犠牲者を出した。そのため、井伊大老の暗殺へと発展し、結果として幕府権力の衰退の要因となった。桜田門外の変は、徳川政権の最後の権力維持を目論んだが、かえって衰亡へのみちを開いた。

『嗚呼・山縣有朋』 ー国家を私物視した男ー
【2019/04/30 22:12】 エッセイ
「吉田松陰」の的外れな人物観

近代日本、「明治維新」は国家的な成功例として日本国はもとより、中国の清朝末期にも影響を与えた。
だが、日本は夜郎自大な錯誤の国家間観を抱いてしまった。
西欧が個人の努力の集合体として、英々の努力を積み重ねた結果に気付いたものは『国家と共に生きる』人間の生き方であった。
その国家とは、『人は生まれながらに人権を保証された存在である』国民が造り上げたものが近代市民社会の到来を前提とした、近代国民国家であった。
その意味で、日本の明治維新は三段跳びのような国家を模索したのであった。
人権の何たるかを知らず、始めに天皇制国家ありきの考え方であった。
日本の成り立ちを知って、古代にその範を求めたのであった。
西欧において、王制の専制打破が結果として国民主権という人権思想を求めるうねりが、長い徳川幕藩体制の在り方から、三段飛びのごとくに西欧先進食国からの侵略を排撃できる新国家を模索したのは、ある意味では」致し方ないことであったといえる。
しかし、西欧社会の国民国家への指向は、長年にわたる国民の願望であった経緯を知悉して、西欧に学べ!という大号令とはいささか事情を異にする。
正しい国家間と、それに付随する軍隊は、本来的な意味における国家防衛としての機能を有するという、使命を逸脱してしまい、己の権力のみを指向した山縣有朋の手に因って、いつしか軍事国家への道を歩ませてしまった。
所詮は軍人である。帝国主義時代の背後にある『国家とは何か』を見極めない権力機構を作り上げてしまった。

山縣有朋の犯した罪は大きい。国家権力から糾弾されてしかるべきものである。
どうして、こんな人物が最高権力者に登り詰めたのか?
国権の発動の源泉を知らず、国際社会において、存立することが至上命題と心得ていた狭量な思考が生んだ悲劇に他ならない。
長州が日本の近代国家を創出したのは幻想である。
萩の松陰神社の正門をくぐると、左手に『明治維新胎動の地』と、特筆大書した佐藤栄作の書になる石碑に出会う。
不完全な明治国家を創出した長州藩の努力を、無批判に礼賛したものである。
その所以は、心ある人には『下らない幻影』としての近代国民国家を礼賛するあまり、こうした歴史を直視できない人達にとっては好都合の結果であったのに違いない。

その結果を見よ! 『国破れて山河あり』の状態、すなわち、大日本帝国の崩壊である。
正しい国家間や、それの属性としての軍隊の在り方に固執した姿が、国家(日本国)を消滅に追いやった。
『枢密院議長、元帥陸軍大将、従一位大勲位、功一級公爵』。この墓誌が誰のものであるか?問いたい。
近代日本は、成功した国家との幻影は棄てなければなるまい。

『薩長土肥越水』 ー明治維新のふるさと巡りー
【2019/04/15 11:42】 エッセイ
『明治維新のふるさと』 ー大和魂とはー

6年の歳月と時間を費やして薩摩、長州、土佐、肥前、越前、水戸の幕末維新期の雄藩を現地に踏査しました。
明治維新は何故起ったか?ここをしっかりと押さえないと、現在の日本の姿は正しく理解出来ません。最近の傾向として、『薩長史観』への批判の書が幾つか散見される。だが、ある意味では乱暴な、我田引水的な論調で、感情論もどきの内容である。歴史は、理路整然と矛盾無き姿で進展して行くものではない。時に矛盾を孕みつつ、力の論理で強者が弱者を抹消してしまう場合も多い。
何故、米国の在り方や指示に対して、現在の日本は対米追従の国際外交を日本は行っているのか、この問題をしっかりと理解しておく必要があります。源流は、明治維新の在り方に問題があるのです。近代国家のビジョンを正しく描けていないまま、あるいは有ある部署の台頭と専横によって国家が歪められる。日露戦争後の日本のありかたを見るとき、それが顕著である。軍人または軍政家が恣意的な倒閣を目論み、政治のありかたを歪め軍国主義にはしって亡国を招いたのは、大いに反省しなければならない。その結果は、自国の防衛すら憲法で明記出来ていない、不思議な独立国家となっている。自衛隊員が自国の防衛のためという重大な任務を持ちながら、その存在根拠が憲法に記されていないのです。ハンムラビ法典を持ち出す以前に、当然の国家の在り方が自衛の軍を持てない。その代償はあまりにも大きい。帝国主義の敗北というだけでは語りきれない。

190415家紋毛利家

私の幕末維新史の研究は吉田松陰がメインで、長州(現山口県)には3度も足を運んだ。
初めて萩の街を見た時、それは想像もしていなかった世界でありました。
江戸情緒の風情が残る武家屋敷一帯を散策した時は感動ものでした。
萩城址、松陰神社と松陰生誕地と杉家・吉田家の墓も忘られない。
野山獄、大照院、高杉晋作生家、木戸孝允の生家、萩博物館。萩は美しい街である。
菊屋横町、呉服町あたりの家並みは頭に焼き付いている。
何故に、長州藩が幕末維新史のみならず、現代も総理大臣排出県として君臨しているのか。

これには、村田清風という偉人を知らなければならない。
多くの本を読んでも、村田清風の生き方に異論を唱える人にまだ出会えていない。
当時は藩=国家であった。清風は、狭い情報網の中から現実の世界情勢に対して識見を持っていた。
それ故、吉田松陰が安政元年三月に下田からペリーの軍艦で米国行きを敢行したか。
その命懸けの行為に対して、『これはよいことをしてくれた、これが物事の端緒というものじゃ!』。
といって松陰の行為を高く評価した一人だった。

西欧社会では、18世紀の半ばから、いわゆる『第一次産業革命』が進行していたのであった。
動力や機械の工夫によって、大量生産を実現して安価な商品を販売する、近代経済の萌芽がそこに見られる。
米国が本国たる英国の植民地の人々に、高い税金を収奪していた。
これに対する反発が独立戦争となった。だから、1776年に『独立宣言』がなされる。
人間は生まれながらにして平等なのだ。人権を踏みにじる国家は糾弾されてしかるべきという考え方(思想)であった。

おりしも、こうした近代化への目覚めは、近代合理主義を生み出す土壌を内包していた。
英国で、アダムスミスが、いわゆる『国富論』を刊行したのが、同じ1776年であった。
生産性を高めることが、国富の増進となるということを社会現象の中から見出したのであった。
アダム・スミス、スコットランドの名門大学である『グラスゴー大学』の総長をしていたのであった。
当時は英国と競っていたフランスがパリを中心に、欧州のシンボルとして多くの知識人、政治家が集ったという。
いわゆる『百科全書派の人達』で、ここに多くのノウハウを持った人達が国運の隆盛を願いつつ、人が集まり、情報の発信基地になった。英米仏が世界の指導的地位を築いたのあはこの頃であった。
190415家紋島津家

鹿児島は、西郷人気が圧倒的です。維新展示館や甲突川沿いの加治屋町から維新の元勲が輩出されている意味がよく分かる。城山、照國神社、鶴丸城、尚古集成館等々、あの時代で西洋の技術導入に取り組んだ島津斉彬。名君として地元の人気は高い。西郷隆盛も斉彬ありてこそである。反面、大久保利通は鹿児島中央駅近くの銅像と維新展示館に名前が見られるのみ。歴史上の人物は一方では正しく評価されないけれど、実績・功績も正当に評価してやらないと大久保がかわいそうな気もする。征韓論が正しく理解されないと、西郷を追いやった大久保が悪者になるのだ。決して喧嘩状態では無い。日本の近代化を成し遂げるために、優先順位をめぐっての政策や世界の大勢を知って日本の将来のあるべき姿を追求した大久保。岩倉遣欧使節団の成果は、大久保や木戸らは征韓論(遣韓論が正しい言い方)より富国強兵、殖産興業政策が優先された。その結果『廟堂の敗者』西郷隆盛は大きな銅像のとおり、鹿児島では英雄である。

190415家紋土佐山内家

薩長に比べ、土佐は山内容堂の個性が藩の動きをある面では掣肘している。関ヶ原の後の抜擢への恩顧意識が、公武合体政策から抜け出せなかった。土佐は現代でも、中央に横たわる四国山脈の南側は独特で、その昔、土佐日記に見られるように僻地であった。武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎等々の活躍に負うところが大きい。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は三千万部の出版史上空前の売れ行きが示すように、司馬さんの作品が土佐の地位を上げた観が残る。藩の上層部と志士たちの一体化ができなかった事が、薩長の後塵を拝することになるのはやむを得ないところだ。その意味では山内容堂と島津斉彬を同じ土俵で比較するのは、斉彬に対して失礼だろう。土佐藩が長崎で武器や船舶の購入に、藩をあげて取り組むのは慶応年間に入ってからである。藩主の経綸がしっかりしていないと、志士たちの活動が結果的に徒労に終わってしまう。後藤象二郎が明治以降の活動を通じて有能であったかどうかは疑問が残るところだ。薩長と土佐の功績の溝は限りなく大きいと云わざるをえない。『薩長・・・土肥』と表現するのが正しいのかも知れない。


190415鍋島家

肥前佐賀藩は、藩主の鍋島侯が天保年間に進んだ技術で軍事大国の様相を見せたが、肝心の幕末期に『佐幕思想』から脱却できないこととなった。佐賀城本丸歴史観の職員が、鍋島侯の不人気を嘆いていたのは象徴的だ。しかし、維新以降は優秀な官僚が大隈、江藤、大木、副島等々続出したので、薩長土肥の集まりには参加出来た。しかし、肩身の狭い思いが残るようだ。弘道館に学んだ秀才達は概して能吏型の人物が多いといえる。大隈は『佐賀の七賢人』と云われる群像の中では、最年少であった。総理大臣を二度務め、大久保利通亡き後の政治家で実質上の首相格で明治政府を牽引したが、独逸に範を求めようとした長州派との違いから政界を追われたのは残念である。英国流の議会に範を求めなかった伊藤博文達の政策は正しかったかどうか、もう一度考えて見る必要があるようだ。鍋島閑叟は島津斉彬とは従兄弟の関係にある。薩摩と共同歩調をとれなかったのは、佐賀藩の二重鎖国という特殊な他藩人との交流を持たなかったことにあるのかも知れない。江藤新平などは大久保利通の最も嫌った人物だった。佐賀の乱の鎮圧に向かった大久保利通の行動は、三権分立を越えて、全権委任の下であった。だから十分に調査をすることもなく、葬り去ることに急で即刻処刑してしまったのであった。


190415越前松平家

越前は藩主の慶永の存在無くして語れまい。親藩筆頭の地位にありながら、幕府の屋台骨を支えなければならなかったのは致し方ない。横井小楠を顧問で招聘したことで、慶永は要職を務められたといってよい。しかも、将軍継嗣問題で橋本左内を活躍させたものの、安政の大獄で慶永が謹慎させられ、その間に有能な橋本左内が犠牲になってしまった。しかし、幕末期の重要資料を遺してくれたことで、研究者にとってはありがたい藩の一つである。中根雪江、鈴木主税、村田氏壽、由利公正等々の人材を輩出出来たのも春嶽の功績ながら、地元では『ぼっちゃん』と揶揄を込めた言い方が為されるのは、田安家からの養子で入った事情も勘案しなければなるまい。徳川慶喜との協力関係は、竟に信頼関係を築けず薩長への理解ある態度と徳川政府を擁護しようという思いが、薩長との決定的な違いとなってしまった。越前松平は家康の次男である結城秀康を藩祖に持つので、徳川政権に叛旗を翻せなかったのは、ある意味でやむを得ないかも知れなかった。その点では、会津松平、あるいは尾張徳川家も多少の違いこそあれ、似たような運命にあったと言えるかも知れない。明治の政界で指導者を出せ無かったのは共通していると言えよう。


190415水戸徳川家

最後に水戸藩である。御三家でありながら、天保の改革で突っ走った斉昭が、幕府から時に睨まれ、時に海防参与として揺れ動いた。尊王攘夷の魁けの藩でありながら、『戊午の密勅』で大きく門閥派と斉昭支持はで内訌となり、共倒れで維新期に人材が払底してしまい、維新のばすに乗り遅れてしまった。しかし、斉昭のブレーンだった人達の功績は不運もあるが一定の評価を与えないと明治維新が歪んでしまう。最後に斉昭の七男が徳川の将軍となったことで、貢献は出来たかも知れない。

【松蔭大学】の吉田松陰論
【2019/03/14 13:00】 エッセイ
松蔭大学における『吉田松陰論』は、半期十五回の講義である。そうして一年を前期・後期に分けて行われる。二単位である。それでも、看護学部においては必修科目、文系学部では選択科目となっていて、多くの学生が履修登録してくる。2005年4月から担当して、通算では三千名ほどの学生が吉田松陰論を履修した。
優秀な成績者には、解答文をコピーして返却し、無言の最優秀者であることを示唆することにしている。その毎期の最終回の講義の終わりには、『吉田松陰論の授業終了にあたって』と題した、短い文を配布する。吉田松陰の『送る叙』にあやかったわけではないが、話すのと、印刷物を配布するのでは印象が異なる。良き社会人となることを願っての、来し方の私の人生経験から学んだ、人としての大切なことを箇条書きにしたものである。以下、それを書き写します。

学生諸君へ

吉田松陰論の授業終了にあたって
担当 長谷川勤

半年間、15回にわたって諸君と一緒に「吉田松陰論」を勉強してきました。
本学の講座においては、出来る限り吉田松陰の原典に触れる(書き下し)ことを心掛けてやってきました。そのため、原典(書き下し)や諸史料を作成して学生諸君に配布しました。これは、吉田松陰を知る上で最も大切なこと、との考えによるものでした。
本日で、今年度の授業を終了します。終わりに当って幾つかの諸君へのメッセージを記します。これを胸に、人生の糧として歩んでくれたら私の喜びはこの上ないものです。

1、 吉田松陰とは、どのような人物であったか?(松陰の行動や思想、時代背景と認識等)
2、 吉田松陰と現代をリンクして考えてみる。(吉田松陰の現代的意義は何か)
3、 私立大学の建学精神を考える時、松下村塾と松下村塾記の精神は大変参考になります。
松蔭大学の建学理念(知行合一)や精神を忘れずに、卒業生として今後の生きる誇りを持って社会人になって欲しい。特に吉田松陰から学んだものは、大切に願いたい。

大学生活と社会人になるに当って
1、 健康第一(但し、健康管理は、原則として自分でやるもの。)万一、健康を損った場合に備えて、自分の主治医を作ること。必ずしも大病院でなくてもよい。定期的に健康診断をして下さい。(企業に入ると、年一回ありますが、これは必ず受けてください。)
2、 大学生活を楽しく有意義に過ごすコツは『よく遊び、よく学べ』と昔から言われる通りです。たくさんの人と交わって、色々な経験をし、広い視野を持ってください。
3、 よき友人、よき師を持つよう心掛けて下さい。これは社会人になっても同じです。
4、 人は、一人で生きられません。皆で助け合って生きるのが人間です。ですから、自分をとりまく人を大切にしてください。遠くの親戚より近くの他人と云う言葉もあります。
5、 社会人になって特に大切なことは、約束したことは必ず守る事です。万一約束を違える時は、勇気を持って事前に相手に説明し了解を求めて下さい。(信頼関係の基本です)
6、 『報告・連絡・相談』は社会人として仕事をして行く時は、必ず実行してください。略して「報(ほう)・連(れん)・相(そう)」と言いますが、仕事の目的、意味を明確に知り、お互いに協力関係の下で仕事する時に非常に大切なことです。仕事は、挨拶から始まることも忘れずに!
7、 企業はよくなるのも、悪くなるのも構成する社員の質、仕事の質です。会社員なら自分の担当する仕事に精通することです。自分が会社をよくして見せる、の気概を持って取り組んでください。それが信頼される企業人の条件です。         以上





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR