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―明治維新で活躍した経済人―
【2018/04/26 08:33】 エッセイ
『岩崎弥太郎』

一八三四―八五 明治時代の実業家。三菱会社の創始者。天保五年(一八三四)十二月十一日土佐国安芸郡井ノ口村に岩崎弥次郎の長男として生まれた。名は敏、字は好古、維新後名を寛と改めた。雅号ははじめ毅堂、のち東山。地下浪人の家に生まれ、年少から学問で立身する志望をもち、その修業に打ち込んだ。

はじめ土佐の儒者岡本寧浦に学び、のち江戸昌平黌の儒員安積良斎の塾にはいった。その後高知藩参政吉田東洋の門人になり、安政六年(一八五九)師の推挙によって藩に職を得、十月西洋事情の調査を命ぜられて長崎に赴き、翌年四月帰藩した。慶応三年(一八六七)三月、再び起用されて長崎に行き、高知藩の開成館長崎出張所に勤務し、やがてその主任になった。弥太郎の着任は同所開設の一ヶ月後である。そして翌明治元年(一八六八)閏四月これが閉鎖された後も同地に滞在したので、高知藩の長崎貿易は、弥太郎によって行われたといってよい。彼が扱ったのは、維新戦争における勤王戦力としての高知藩の武器・弾薬・艦船・諸器械の買入れと、その資金獲得のための土佐物産の輸出であった。

弥太郎は文久元年(一八六一)に郷士の家格を得、浪人の身分を脱したが、慶応三年十一月長崎貿易での功績を認められて、上士階級の新留守居組に昇進した。明治二年正月には、藩の大坂商会(旧開成館大坂出張所)に転出し、翌三年閏十月、高知藩少参事に任ぜられ、浪華会計係の職に就き藩の大坂事務を重督した。これは彼の再興官歴であって、その出身からいって異例の進級であった。同四年七月、廃藩置県が施行され、全国の藩は廃絶し、旧武士階層の者はその封建的特権と秩禄を失ったが、官職を失った弥太郎は、実業界への転進をはかった。

これよりさき高知藩は、政府の藩営商会所禁止令により、同三年十月大坂十月大坂商会を藩より切り離し、九十九商会の名称で汽船運輸を行わせていたが、同四年廃藩置県後、弥太郎は同志と語らい、この事業を一党の立脚地として独立し、新商社の旗を掲げた。特に明治四年九月十五日であった。新会社は三川商会と称したが、これは三菱創業の意義を持つものである。その後弥太郎は社主の地位に就いた。

彼は長崎・大阪での外国商人との交渉を通じて世界経済に対する眼識を開き、また我が国の旧商人道とは異なる「近代実業」の意義と、実業家の社会的使命について新しい認識をもった。三菱が勃興するまでには、国内の汽船会社との競争があり、社名も三川商会から三菱商会、三菱汽船会社へと改称した。明治七年の台湾出兵の際、軍事輸送の命を受け、これを完遂して政府の信任を得た。翌八年内務卿大久保利通は本邦海運振興政策を実施するにあたり、弥太郎の率いる三菱会社を起用し、これに郵便物の託送と外国定期航路の開設、海員養成などの任務を委託し、合計三十隻の船舶と運航助成金年額二十五万円を交付して、会社を助成した。

郵便汽船三菱会社(八年九月改称)はこれにより国内最大の汽船会社になり、わが沿岸航運に進出した外国汽船会社を駆逐したほか、明治十年の西南戦争の軍事輸送に著大な功績を立て、政府の期待にこたえた。かくて社業の躍進により資本の蓄積に成功した持つ三菱は、漸次海運以外の事業へ多角的に進出した。その着手したものには鉱山・造船・金融・貿易・倉庫・水道などがあり、また多の企業に対する投資も行ったが、当時はまだそれらの企業は大きな発展を見なかった。

企業家としての弥太郎の特長は、国士的精神が旺盛であり、同じ武士出身の官僚が、政治上に行った経綸を、実業界に実現しようとした。彼は明治の新経済社会を建設するために、先進国の技術や経済機関の導入をはかった。為替銀行・海上保険・港湾倉庫の建設を提唱し、政府の着手の遅れるものは、自己の手でこれを作ろうとした。明治初期経済に果たしたその「建設の作業」は高く評価されてよい。

明治十四年十月の政変以後、政府は三菱抑圧方針に転じた。岩崎を大隈の金穴と見做したのと、三菱の海運独占に対する世論の反対が高まったからである。政府は公然と三菱を非難し、新汽船会社(共同運輸会社)の設立を援助して、三菱に対抗させた。明治十六年に始まる両社の競争は激烈をきわめたが、弥太郎は競争途中の明治十八年明治十八年二月七日、五十二歳で病死した。墓は東京都豊島区駒込の染井墓地にある。

没後の同年九月、両社は政府の勧告により合併して日本郵船会社を創立、三菱は海運業を閉鎖した。なお生前弥太郎は三菱商業学校と商船学校を設立し、実業教育と海員養成に努めた。商船学校は明治十五年に政府に上納し、官立東京商船学校となった。現在の東京商船大学の前身である。

【参考文献】:岩崎弥太郎展弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』
中野忠明著:国史大辞典より転載


『渋沢栄一』
一八四○―一九三一 近代日本に指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷及び仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月から昭和六年(一九三一)十一月までの主に社会公共事業に尽力した時代の三期に大別できよう。

(一)  在郷及び仕官時代 栄一は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に市郎右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍と兼業。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て儒者海保漁村及び剣客千葉栄次郎に文武を学んだ。文久三年同志と攘夷を決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。

元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、慶応二年(一八六六)同家の財政充実につとめた功によってその勘定頭に抜擢された。翌三年正月、将軍徳川慶喜の弟昭武がパリ万国博覧会に列席するのに扈従して外遊。フランスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、彼地の進んだ文物と近代技術・経済制度を親しく見学した。この見学は、その後の栄一の開明的な考え方を形成する上で、大きな意味を持つこととなった。

明治元年十一月、幕府倒壊のため帰国。一時静岡藩に仕えたが、同二年十一月明治政府に仕官し、民部省に入って租税正となり、租税事務の処理にあたった。翌三年民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵省に属し、四年五月大蔵権大丞となり、新貨条例・造幣規則ならびに国立銀行条例の起草立案にあたった。また地租改正事務局の設置や第一国立銀行および抄紙会社の設立などにも尽力したが、六年五月、大蔵大輔井上馨とともに健全財政を主張して容れられず、大蔵省を辞任した。
時に三十四歳であった。

(二)  実業界指導時代 大蔵省を退官後、栄一は民間にあって多くの近代的企業の設立と発達に尽力し、この方面で指導的役割を果たした。彼はまず第一国立銀行の監査役、つづいて頭取として同行の発達につとめた。これが彼の本義であった。
その他第十六・第二十・第七十七銀行など、いくつかの国立銀行の設立を指導し、特殊銀行・普通銀行の創立にも力を貸すこと少なくなかった。さらに率先して擇善会とその後身である銀行集会所および手形交換所の設立にあたり、それらの活動にも力を尽くした。銀行以外では、明治六年に我が国最初の洋紙製造会社である抄紙会社(王子製糸会社)の創立を指導し、野に下ってからは事実上の社長として同社の発達に尽力した。十二年には、我が国最初の本格的紡績会社である大阪紡績会社の設立を指導し、十九年からは三重紡績会社の設立にも尽力した。その他家鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会の運営に力を与えた。また十二年には、我が国最初の海上保険会社である東京海上保険会社が設立されたが、その創立も栄一の力によるところが大きかった。

海運においては、十五年に増田孝らとともに郵便汽船三菱会社に対抗して共同運輸会社の設立を助け、十八年両社が合併して日本郵船会社が設立されるとその取締役として同社の発展を援助した。また二十九年には浅野総一郎の東洋汽船会社の創立を助け、四十年には日清汽船会社の創立委員長を務めている。
鉄道では、我が国最初の民営鉄道会社で、東北線を開いた日本鉄道会社の創立・発展に多くの貢献をしたほか、両毛鉄道会社・北海道炭礦鉄道会社などの設立にも尽力した。

以上の他、京都織物会社・北海道製麻会社・東京帽子会社・日本精糖会社・明治製糖会社・札幌麦酒会社・東洋硝子会社・浅野セメント会社・石川島造船所・東京人造肥料会社・東京瓦斯会社・東京電灯会社・東京株式取引所・帝国ホテルなど、栄一が創立したり経営を援助したりした会社は非常に多かった。そして彼は、これらの企業の創立にあたって、多くの人々から資本を調達できる合本組織、すなわち会社組織のよるべきであることを強く主張し、その実現に努力した。

ところで、栄一がこのように多くの企業創立・経営に関与したのは必ずしも財を築くためではなかった。それは、彼が三井・三菱・住友・安田のような大財閥にならなかったことからも知られる。また、企業を起こすこと自体に強い関心を持っていたためでもなかった。それよりも彼は、先進諸外国の圧迫のもとにあった後進国日本にとって、自国の近代産業を育て発達させることこそが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。

彼はまた、商工業の発達には、官尊民卑の風を打破し自主独立の発展をはかることと、実業教育をひろめ実業道徳を向上させることとの二つが必要であると考え、その実現に努力をした。すなわち彼は、明治十一年から同三十八年まで当時の重要経済団体である東京商法会議所・東京商工会・東京商業会議所の会頭として、また時には商業会議所連合会の代表者として、政府にしばしば実業家の主張を建議応答してその実現に努めたほか、東京高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの実業学校の創設・発展に尽くした。さらに「論語」を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済一致説」を唱え、それを実践することによって実業界の道徳水準を高め、その社会的地位を向上させることに努めた。

(三) 社会公共事業尽力時代 栄一は七十歳になったのを機に、明治四十二年六月金融関係以外の事業会社の役職を退任した。その会社数は六十に及んだ。さらに大正五年(一九一六)十月には金融界からも引退し、もっぱら社会公共事業に尽力することとなった。彼は前時代からひきつづいて東京市養育院の院長として活動したのを始め、多くの社会公共事業に関与し、それを育成発達させることに努力したが、この期において特に力を尽くしたのは国際親善についてであった。

彼はすでに明治三十五年にアメリカおよびヨーロッパ諸国を訪問し、これら諸外国との親善をはかっているが、四十二年八月には東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所の代表によって結成された渡米実業団の団長として渡米し、主要都市を歴訪して彼地の実業家との交流を深めた。さらに大正四年十月にもパナマ太平洋万国博覧会の開催を機に渡米し、十年十月ワシントン軍縮会議開催の際にも渡米して側面から平和外交を展開した。また、大正三年五月には中日実業株式会社の設立を機に中国に出かけ、同国実業家との親善をはかっている。

彼はまた各国国際親善事業に進んで協力するとともに、来日した各国の賓客を歓迎接待して国民外交を展開した。王子飛鳥山の栄一の邸宅を訪れた外国人の数は、記録に残っているだけで千名を下らなかったという。こうして近代日本の発達に大きな役割を演じた栄一も、昭和六年十一月十一日死去した。享年九十二。
墓は東京都台東区の谷中墓地にある。法名、泰徳院殿仁 智義譲青淵大居士。
なお明治三十三年に男爵、大正九年に子爵を授けられている。穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。

【参考文献】:竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、
白石喜太郞『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、
渋沢雅英『太平洋にかける橋』。山口和雄著、国史大辞典より転載


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名君『上杉鷹山の兄・秋月種茂』
【2018/03/27 10:56】 エッセイ
江戸期の改革の旗手たち『秋月種茂』


宮崎県高鍋高校と山形県米沢興譲館高校とは、相互訪問等による交流が今でも行われている。これは、両校の創設者が「秋月種茂」と「上杉鷹山」という兄弟の創設にかかわることから実施されている。両校ともに現在も県内有数の進学校として、学問・教育の成果をあげて相互に切磋琢磨しているのである。このことは多くの人の知られざる美談と言って良いと思う。
170609秋月種茂160229上杉鷹山




一般的には、弟である「上杉鷹山」の方が「名君」として人口に膾炙されている。江戸期の三百諸侯中でも名門を誇る家柄で、戦国大名として名を馳せた上杉謙信以来の名門であるが、鷹山が養子として上杉家を継いだ頃は藩の財政状態は瀕死の状態で見通しが立たず、前の藩主・重定は幕府に藩を返上しようと真剣に考えたと伝えられている。
そこに日向高鍋藩第六代藩主、秋月種美の二男として生まれた鷹山が養子として入り、家督を継いで長期にわたる藩政改革の成果をあげて、藩の滅亡を免れたたのみならず、質素倹約と藩営の殖産興業政策を推し進めて蘇らせたのである。幕府が鷹山の長年にわたる藩政努力に対して「善政」を賞したのが、隠居の二年後、鷹山三十七才の時であった。

一方、兄の秋月種茂は鷹山より八才年長になる高鍋藩第七代藩主として、江戸期の十代の藩主が続いた中で「全盛期」を現出した「名君」なのであるが、残念なことに「外様小藩」(二万七千石)ゆえに、その事績についてはあまり語られていない。わずかに地元高鍋町で知られている程度である。それは上杉鷹山が、生涯尊敬して止まなかったというエピソードが遺されていることを以てして、その人となりを想像することが出来る。
鷹山は次のように人に語って曰く、「阿兄の名、大に世に顕れざるは、其の地僻遠なるが故なり。若し阿兄と吾(鷹山)と地を易いへしめば、豈に今日の米沢ならんや」(日向国史・下)と。これは、鷹山が兄の藩主としての手腕を称える言葉として大変意味深長である。即ち、米沢上杉家を若し、兄の種茂が継いだら、米沢の藩地はもっと繁栄したに違いないと云うほどの意味でもある。管見の限り、秋月種茂の評価は極めて高いのである。
こうした兄弟が、今から二世紀半も前に創設した藩校にルーツを持つ両校が、伝統と誇りをもって現在も尚交流が続いていることを知って大変興味を抱いたわけである。日本史の大辞典として権威あるものと思われる、吉川弘文館の「国史大辞典」十七巻を繙いても秋月種茂の名前が出てこないのは、まさに鷹山の云うとおり「僻遠の地の小藩」であった故であると考えられる。従って文献としては、高鍋町の藩史に関連した書物や、現地の教育委員会が発行する小冊子程度で語り継がれている程度なのである。
種茂の藩政で特筆されるのは、民政に意を用いたことと、教育の普及への情熱である。高鍋藩の藩校は「明倫堂」といって、安永六年(1777)の創立になるものであるが、藩主が『明倫堂記』という建学の理念を書き上げていることである。米沢の興譲館が安永五年であるから、ほぼ同時期に創設されているということになる。教育は国家百年の計と言われるが、封建時代の身分制が固定的であった当時において、人材育成に取り組んだことは大変に意味するものが大きいといえる。種茂に建学の進言をした「千手八太郎」の文末に『人材教育の儀は、御家中風俗の盛衰、国家治乱のかかわる重大事』という文言があるが、藩主種茂は、それを受け入れて「明倫堂記」を書いたようである。
抄録してみると次のような内容である。『昔から政治は教育を先とする。教育が起これば人材が出る。有能の士が上に立てば、人民は喜んでその治に服するようになる。・・・・・・学問の方法は朱子学によるのであるが、学問というものは何処までも自分のためにするもので、人のためにすると思ってはならぬ。それからまた、手近なところから次第に高尚なところにすすむという順序を誤ってはならぬ。また、中途半端な意志の弱い事ではいけない。国を治めるのは君主であるけれど、これを輔ける人物がなくてはどうにもならない。従って人材を養成する学校が大切である。人材が多く出るようになると、風俗も改まり・・・・・・ここに理想の政治が実現する。これが政治の本は教育にあるというわけである。この学校に学ぶもの、この精神を体し勉めて怠るなかれ』と。
これは教育の要諦を言い表して見事といえるものと思う。この時、種茂は三十六才の働き盛りであり、この文章をみても名君の一端を垣間見ることが出来るし、たんなる学問好きの文ではない。「輔ける人物」がいて学問の効用が顕現するという言葉は注目に値するものであろう。高鍋藩の学問においては、それは千手八太郎と財津十郎兵衛のふたりであった。この二人の進言によって明倫館が創設されたのでわる。この精神が今日の高鍋高校や米沢興譲館高校が受け継いでいるのだろうと思う。

教育の一方、民政に意を用いた件では庶民(領民)の福祉改善が挙げられる。農民多子家庭救助の施策では次のお触れに注目したい。曰く「百姓三人目より御扶助として一日赤米二合づつ、畠地もの(麦)三合づつ、二品の内その時々の吟味にて下さる段、仰せ出ださる」と。子沢山の家では生活も経済的に大変である。江戸時代の百姓は、中期から二極分化し、富める百姓と潰れ百姓になるのであるが、富める百姓は少数で多くは生活維持が精一杯であった。このことは、八代将軍の徳川吉宗治世下で勘定奉行を務めた神尾春央(かんおはるひで)の『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と云った言葉と対比して考えるとき、一段と意味が鮮明になる。この種茂のお触れは今日の言葉で言えば、「児童手当」ともいうべき困窮百姓の救恤実践という事が出来る。また明和元年(1764)のお触れである「士卒の庶子を三代目より民籍に編入して百姓とし、庄屋に属せしむ」として浮世人の人権を恢復することを眼目として、領民に再生の機会をあたえる仁政と考えられる。また江戸期には双子の誕生を恥じる風潮があったのを、「自今以後・・・・・・双生児出生候はば、貴賤に限らず申し出次第、相応の捨扶持下され候旨仰出さる」といった、双子の救恤策ともいうべき先進的な思想を持っていたのである。このように百姓を賎民視せず、「領民あっての国家(藩)」として大切にする人権思想を読み取ることが出来るのである。実弟である上杉鷹山の「伝国の辞」の精神と相通ずるものがあって、興味をそそられます。
一体に、江戸期は出生してまもなく夭折というケースが多かったが、これも大坂から産婆を招いて夭折の防止策を講じており、初のお国入りの時も江戸から医師の山田玄随を随行させたのも同じ意味を持つものである。当時の医薬品として貴重だった朝鮮人参も栽培したものを藩庫に蓄えておき、病人や疫病の流行の時に備えてと医療の救恤策を施したという。また藩士の教育のみならず、庶民の教育にも意を用いて明倫堂にも篤学な庶民には入学を許可したのをはじめ、毎月十六日には庄屋や乙名(町世話人)宅に支配下の一家から必ず一両人月々代わり合わせに呼び出し、庄屋や乙名から種茂の著である「郷閭学規」等を読み聞かせたのであった。その他、法制の整備や、足軽の困窮救済策(江戸の物価高騰を領地の足軽が経済的に支援)を講じたことも善政の一環として、領民を大切にしたことの証左といえる。大雑把な名君の一端であるが、兄弟そろって大変な名君であった事に、大変驚くのである。また其の一方で幕府の課役である「勅使の馳走役」を何度も仰せつけられ、巷間伝えられる「赤穂浪士」の馳走役の失敗等のようなことがなかったという。これらの事から考えられるのは、まず領民を大切にする仁政、次いで法体系の整備による治者の恣意的な統治方法を排したこと、そうして殖産興業政策を積極的に奨励して国富増進に努めたことなど治国の要諦に叶った政策を実施した。そして学問の奨励による人材育成と、有能な人物ともに善政を常に念頭に置いて、「明倫堂」の精神を体現したことを総合的に勘案してみると「名君」に値する事が十分といえるのではないかと思う。こうしたことの結果として十代の歴代藩主中で、種茂の治世が高鍋藩の全盛期を現出したのも納得がゆくのである。

最後に、兄弟共に似たような心温まる逸話が伝えられているので、これを紹介したい。
上杉鷹山の伝記に必ず出てくる「老婆の手紙」というのがある。これは、藩主(鷹山)が側近と「領内巡検」をしていたところ、急に夕立が来そうな雲行きになって、必死で稲の取り入れをしていたところに出会って、取り入れを鷹山一行が手伝った」という話である。助けて貰った老婆はこの地方で新米から餅を作ってお礼を届ける風習があり、手伝った武士(鷹山一行)にお礼を届ける為に聞いた場所へ持参して、はじめて老婆は藩主が手伝ってくれたことを知る。これに対して鷹山は、金子をご褒美に与えた。受け取った老婆は自分の家族のみならず、嫁に出した娘にも足袋を買い与え、大事にするようにと書いた手紙なのです。これは藩の家老に次ぐ「中老職」にあって、鷹山の側近で藩政改革に貢献した莅戸善政(のぞきよしまさ)の著になる『𧄍楚篇』(ぎょうそへん)に出てくる実話であって、江戸期の藩主が百姓と直接に接することがなかったことと考え合わせるとき、鷹山の人となりを語る逸話である。

このような心温まる鷹山の逸話ですが、兄の種茂にもこれと似た逸話が伝えられている。
それは、同じく領内の巡検中、田で働いている百姓の姿を見て、その百姓が持参した弁当が近くの道ばたに置かれていた。それを種茂と側近はそっと無断で開けて食べたところ、その弁当には米も入ってなくて、不味くてやっと喉を通るほどだったという。そうして種茂は、その百姓に無断で弁当を食べたことをわびながら、自分の持参した弁当を差し出した。この百姓が感謝したことは当然で、藩主の弁当の味は別段のように美味しいのである。種茂は、君主として恥じらいに似た思いを抱き「民百姓のお陰で自らの生活がある」事を知って、百姓を大事にせぬ治世のあり方を反省したという。
この両方に共通するのは『孟子』「尽心章句・下」に出てくる有名な言葉、即ち【民を貴しと為し、社稷(国家・土地と五穀の神)これに次ぎ、君を軽しと為す】である。

有名な上杉鷹山の『伝国の辞』は、将にこれらの逸話を裏付けるものである。かつて米国の大統領選挙に勝利した時、ケネディが尊敬する日本人は誰かとの質問に対して、即座に『それはウエスギヨウザンです』といったのは、孟子の言葉の原点に政治の要諦が語られていて、鷹山が伝国の辞を遺したからに他ならず、ケネディは鷹山を勉強していたに違いない。つい最近、駐日米国大使として赴任した長女のC・ケネディが、上杉鷹山が藩主だった米沢の地を訪問したのも、ケネディ元大統領が上杉鷹山を尊敬していたことの証左でもあろう。私達がこれらのことから学ぶべきは、兄の秋月種茂も弟の上杉鷹山も、藩主として行っていることの原点にこうした『生産者の努力』あって国家が成り立ち、さらに藩主(皇帝)が存在するという貴重な教訓である。有名なケネディの大統領就任演説はこうしたことが念頭にあったに違いない。残念なことに江戸時代の『孟子』は、その「放伐論」(君主がその器でないなら、交代すべき)故に、「異学の禁」として朱子学を奨励したために孟子の教えは日の目を見なかった。名君にもいろいろな君主像があって、一概に名君の定義は出来ないが、秋月種茂、上杉鷹山兄弟に共通する領民を大切(福祉)にし、国を富ます殖産興業(経済)や、教育に対する情熱と人材育成政策を実施した姿を名君と呼称することに反対者は少ないと思われる。

この文稿を書くに当たっては、前高鍋町長のご子息を紹介してくれ、さらにその方が高鍋図書館から特別に「秋月種茂」に関する一連の書籍を借りだしてくれたことで、名君・種茂をより詳しく知ることが出来た。さらに高鍋町の教育課の職員も、私の申し出に対して快く協力してくれて種茂関連書籍リストを作成して送付してくれた。「国史大辞典」に名前すら収載のない、隠れた名君の勉強に惜しみない協力をいただいた事も付記しておきたい。偶々、取手市の市民大学講座で聴講してくれた大学の先輩が高鍋町出身で、講座の後に慰労の席で教えてくれたことで上杉鷹山大好き人間の好奇心から、一年がかりで勉強したことの一端であります。


文久二年の『土佐・尊皇攘夷思想』
【2018/03/03 10:01】 エッセイ
『幕末・土佐の三偉人』

JR高知駅を降りて南口を出ると、ロータリー右側に坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の大きな銅像が並んで立っている。
文久元年に結成された『土佐勤皇党』の代表的志士・三人とでも云うべきか。
結成時の領袖は武市半平太で、龍馬も慎太郎も名を連ねている。

161011武市半平太161004坂本龍馬 いきいき埼玉161011中岡慎太郎

その結成文に曰く、
『堂々たる神州戎狄の辱をうけ、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉ふ。
然れども久しく治れる御代の因循萎惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙げて、皇國の禍を攘ふ人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為に罪を得玉ひぬ。
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落人玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと、況てや皇國の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異性兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に碑補せんとす。
錦旗若し一とたび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患者をも払はんとす。
左すれば此中に私もて、何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪し給ふをもまたで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるし、おさめ置ぬ。』
文久元年辛酉八月  武市半平太小楯(以下百九十一名連署血判)。
『中公新書・武市半平太、入交好脩著』

この盟約書は文久元年、江戸において武市半平太・大石彌太郎によって起草され、それを武市が土佐に持ち帰り勤皇の士を募ろうとしたものである。
そして翌年の文久二年正月に武市は長州へ坂本龍馬に親書を持たせて派遣した。
この時長州で応対したのが久坂玄瑞であった。
龍馬はここで久坂から時勢観を聞かされ、志士として活動を始める(脱藩)ことになるのである。
その久坂が語った内容とは、次の吉田松陰の『草莽崛起論』の何たるかを語ってあまりあるのである。
曰く、
「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合の外にはとても策これなき事と、私共同志中、申し合わせ居り候事に御座候。
失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」と尊攘の「大義」実現には、藩の滅亡も苦しからずといい、幕府や藩を否定しようとする考えにまで進んでいた。
『中公文庫・日本の歴史19、小西四郎』

これを、三年前の安政六年四月に吉田松陰が、佐久間象山の甥・北山安世に宛てた書簡と併記してみると吉田松陰の時勢観がよくわかり、長州藩の指導的思想となっていたことが解る。
曰く、
『今の幕府も諸侯も最早酔人なれば、扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るる方なし。
草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功ある人と云うべし』と。

つまり、龍馬、武市、中岡もここから考えが出発しているのである。
官僚化してしまった幕府を構成している者、諸藩の大名も幕府権力に媚びていて、陋習から抜け出せないまま己の保守に汲々としている。朝廷にあっては、公卿の時勢への認識は全く態をなしていない。
このままでは外国の侵略を受けても、他人事の世界だと警鐘を鳴らしているのである。
吉田松陰が『明治維新の先覚者』と称えられる所以である。
この思想に触れた武市半平太が、すぐさま『土佐勤皇党』結成に向けて行動を開始したことが解るのである。


江戸初期の名君「池田光政」
【2018/01/31 11:13】 エッセイ
『池田光政』

江戸時代初期の名君、池田光政(1609―1682)は備前岡山藩主の藩祖として徳川政権で安定した大名の地位を築き、そして『天下の三賢侯』として名を馳せて以来、池田氏は二世紀あまり続いて明治を迎える「江戸期の名門」といえる。

まず彼の祖父である「池田輝政」(1565―1613)は、「西国将軍」、あるいは「姫路宰相、播磨宰相」と称された人物である。関ヶ原の合戦で、東軍(徳川方)についた輝政は姫路五十二万石を与えられる。ここから池田家の近世名門大名としての出発がある。京阪地区の守りの象徴として世界遺産となった名城・姫路城(白鷺城)の大改修を行って、西国の防御の役目も担った。
彼はそれまでの主君が、織田信長、豊臣秀吉(姫路城築城)、秀頼、最後に徳川家康であったので正しく云えば「外様大名」の範疇である。それが、何故に「西国将軍」という呼称されたか。その謎を解く鍵は「徳川家康の第二女・富子」を継室としたことにある。則ち、家康が姻戚上の父親(義父)であること、これは「神君の婿」として、秀吉陣営から乖離を願った『神経質な家康』(南條幸弘・三島森田病院勤務の精神科医)の慎重かつ周到な判断による「政略結婚」によるものであった。この背景は岡山藩や藩主の池田氏研究の第一人者・谷口澄夫岡山大学教授の著書(岡山藩・吉川弘文館)に詳しいが、富子が光政の父である忠継を生んだのである。忠継の兄利隆(母は糸子)姫路藩主として残った。関ヶ原の論功行賞で家康は輝政に播磨か美濃の何れかを輝政の望みに任せたが、「老臣・伊木長門清兵衛」が、大方の美濃希望者(輝政と老臣)たちを説得し播磨の地を選んだ。そして播磨、備前(利隆の備前監国)、淡路を支配する俗称「百万石」の大大名となったのである。
180202池田輝政180202池田光政と熊沢蕃山


さて本題の池田光政は、寛永九年の岡山移封から寛文十二年(1672)の致仕までの四十年間、藩主として岡山藩政の確立をはかったが、さらに天和二年(1682)までの十年間、西の丸にあって政治に関与したので「半世紀」もの長期間にわたって統治者として君臨し続けたのである。二代将軍秀忠の養女・鶴子を母に、勝子(母は秀忠の女・千姫)との婚儀、そして三代将軍家光の偏諱一字を賜いそれまでの幸隆を「光政」と改めた。このように記述すると将軍家と池田氏は祖父の輝政、光政ともに将軍家との姻戚関係があるので特別な待遇であったかというと必ずしもそうでなく、複雑微妙な問題が伏在していたのである。
だが、光政は幼児から「唯人ならず」の非凡さを評価されていた。

一般に徳川家康は関ヶ原に戦いに勝利して、その後「征夷大将軍」の宣下を受けて大名政策が具体化していくのであるが、普通は親藩(御三家含む)、譜代、外様と区分けし、譜代で幕閣を構成させて、外様を冷遇した印象があるが、それは実は「徳川幕藩体制維持策」であって、冷遇というのは当たらない。南條先生が「徳川家康神経質説」を唱えたように、体制維持に非常に神経を使ったのである。覇道で奪い取った天下人の危うさを極端に警戒していたのである。「三方原の敗戦」の失敗を繰り返さないために、「しかみ像」を保存したのもそれと軌を一にするものと考えてよい。そのために精巧な大名統制策をとったのである。将に「覇道は覇道によって破れる」事を知悉していたので、大藩の経済力をそぐために、江戸からの遠距離に配置し、隣接には信頼できる譜代大名や親藩に「にらみ」を効かせていたのである。

参勤交代、正室の領国への帰国不可(江戸上屋敷に常駐・人質化)、「偏諱政策」、「普請担当政策」で遠距離の外様への経済的負担を負わせたのはすべて「徳川家の長期安泰政策」であった。家康自身、大坂「夏の陣」や「冬の陣」で危険性を孕んだ豊臣氏を滅ぼしたことからわかるように、危険性の除去を意図したものであった。それでも家康は「西国の外様大藩」への危惧が去らなくて、臨終の時西方を向き、反逆の危険性におびえつつ死去したという。

果たして二世紀半経過して、海防の無策等から外様の幕政への容喙を招き、瓦解したのである。幕末維新期の西南雄藩は「薩長土肥」はすべて外様大名であった。「改易」による大名取り潰しもその一環で、武断政治により反逆を封じ込める政策を採ったのである。婚姻政策もそれで、徳川将軍家は危険と裏腹の関係であった。八代将軍の吉宗以降、改易が大きく減少したのも反逆の危険性が低下したことの表れでもある。そうした中で岡山藩政の確立に功績のあった池田光政を知ることの意味は意義がある。池田光政も「松平」を名乗る(家光の偏諱を賜る)ことが許され、将軍家との婚姻政策もその例外でない。だが、光政に見られる如く藩の新田開発や学問の奨励による「仁政政策」は、長期的には「藩の自立化」が進み幕府の統制策は「そろりそろり」と浸蝕されていくのである。幕府自身が吉宗の統治時代に「米の収穫」がピークに達し、収入の増額が限界に達していた。それゆえに、田沼政治にみられる重商主義の時代を迎えることになる。したがって、田沼政治への批判としての「寛政の改革」は吉宗の「享保の改革」への回帰指向が政策の理念となった。

こうした幕府の一連の変容過程を念頭において、岡山藩ならびに池田光政を見ることは幕藩体制確立期の武断政治下での名君と称される光政の政治が、時代に先駆けたものとして改革的な性格を持つと考えられる。まず彼の学問の修行から見ていくと、『孟子』のことばに「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」ということばが「尽心章句下」に出てくる。これと関連したような逸話が光政にある。『有斐録』という本に「十四歳の頃、彼は寝所に入っても容易に眠れず、暁に及んでようやくまどろむという状態が続いた。近侍の者たちが怪しんでその理由を尋ねたが答えが得られなかった。ところがある夜から特に熟睡するようになり、再びその理由を尋ねたところ、光政はこのような大国を治め、民をいかがして養うべきかと、心をつくして思慮した結果、「君主の儒」となりて国民を教え安んずべき」を知って煩悶が解決したという。また当時の京都所司代であった板倉勝重に「治国の要諦」について質問したという。板倉が「大国の領主として寛仁の徳」が大切と教え、それを心がけたと言われる。

「道を学んで独り己を修めるのみでなく、天下を以て自己の任とし、天下を善くしようと決意した」との考えに達し、儒学を崇敬したのである。陽明学の大家、中江藤樹を招聘しようとしたのもその表れである。後に熊沢蕃山が光政に特別な待遇を受けたのも同様で、藤樹の長子も次子も岡山に賓客として招かれている。中江藤樹を尊敬すること尋常でなく、その死後は位牌を西の丸に祀ったと言われる。「寛政異学の禁」で朱子学を官学と規定する前だったが、「幕府は快く」思わなかったようである。だが信念は揺らがずに陽明学を信奉した。光政の晩年になって幕府の干渉も危険視して、謀反の風説が流れ、やむなく朱子学に妥協(転向)した形となった。そこには林家の中傷・非難も絡んでいたことは容易に想像される。

また光政は藩校設置のトップランナーとして知られ、「閑谷学校」や「花畠教場」は寛永から寛文年間の開学であった。光政は広く領民の教化策を視野に入れたもので、これも名君として称えられる理由の一つになっている。藩政の理念には「仁政によって人民に知足安分の生活をさせることが、則ち将軍への忠」と確信していたとされ、次の農政についての逸話はそれを証してくれる。領内巡検で郡奉行に稲の品種を尋ね、答えられなかった奉行に、後になって百姓に尋ねて確認したところ、百姓は殿(光政)の云うとおりと答えたので、農政の第一線の責任者の郡奉行の不勉強を嘆いたと言われる。これも単なる好学でなく、民とともに国政の充実を願った光政の人となりを偲ばせてくれる。

また外様大名でありながら、時の大老である酒井忠清に対して専横(当時下馬将軍とも言われた)を忠告する建白書「八ヶ条」も書いている。これも仁政のあり方を探求する名君ぶりだが、その一つに「高慢な態度を捨てて他人の意見を傾聴すること」というのがある。自らの藩においては「諫箱」を設置して、民の声を政治に反映させようとする努力、政治手法で後の徳川吉宗の「目安箱」の先駆けと言って良い。武断政治から文治政治への移行期とはいえ、光政の藩主としてのあり方には模範的なものがあり、半世紀後の名君「上杉鷹山」を彷彿させるものがある。

今回は池田光政の功績全体を語ることはできないが、これまでの書き綴ったなかに理想の君主像を見ることができると思う。幕府が武力を背景とした「臣従」を強いることに一方では従い、半面では仁政のあり方の不足した専権ぶりにもしっかりとした信念で忠告する諸侯は親藩の立場でも簡単にできることではない。江戸期の藩政改革を進めた名君の諸相にもいろいろあるが、初期においてこれだけの治績をあげた第一級の藩主としては、池田光政はその筆頭レベルに数えられる「名君」といってよい。


【吉田松陰と知行合一】
【2017/12/29 15:03】 エッセイ
吉田松陰の教育と「知行合一」の教え

吉田松陰の松下村塾における教育では、学問の目的を明確にして、ともに学ぶ姿勢を説明しながら「学者になってはいかぬ、人は実行が大切である」として、学んだことの成果が人生の実際に生かされなければ意味がないという実学を教えました。従って、学問の為の学問は否定する考え方でありました。江戸に修業に行った時に、「江戸の学者は知識を切り売りしている」という事に、大きな不満を持ったことがありました。そして世の中の動静に対して全く無関心である学者の姿に、失望を覚えたのでした。「知行合一」の教えに賛同した翌年の事ですから、なおさらに残念な思いを抱いたことと思われます。
170331正装の吉田松陰150821松下村塾松陰の立志実践教育知行合一


さて「知行合一」を掲げる陽明学を提唱したのは、中国の「明」の時代の思想家であり、高級官吏でもあった「王陽明」という人です。これは「伝習録」として門下生との問答録の記録として日本でも出版されています。江戸時代は「朱子学」が官学として幕府の勧めるところでありましたので、陽明学は一部の知識層にしか普及しませんでした。松陰が陽明学に出会ったのは嘉永三年(一八五〇)、平戸藩の家老であった葉山佐内という人物の下で修業旅行をした時でした。この時松陰は二四歳でしたが、筆まめな松陰はこの半年間の修業期間のことを記録した『西遊日記』に克明に書き残しています。
平戸に到着したその晩に早速葉山佐内から伝習録を借り、熱心に読んだことが記されています。少し話が脱線しますが、この陽明学というのは、幕末になって多くの志士といわれる人に影響を与えました。有名なところでは吉田松陰の他に、大塩平八郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作、山田方谷、河井継之助などが熱心な信奉者として知られています。昭和に入ってからは作家の三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」をいう本を書きました。三島由紀夫もまた陽明学の信奉者の一人といえるでしょう。昭和45年11月25日の市谷での割腹自殺は、まさしく陽明学の影響と考えられます。陽明学は学んだことを信じて「行動の実践」に結びつけるというところに特長があります。すこし難しい表現ですが「主観の完全燃焼」と言い換えることが出来ます。
自分の信念をゆるがせにしない生き方に繋がるわけです。ですから時にその行動は死をも恐れないという一面があります。幕末の動乱期はこのような「命懸け」の行動の連続でもありました。松陰が国禁を犯してまで密航を企てた背景には陽明学的な考え方があったといえるでしょう。このような経緯があって松陰は塾生に「知行合一」という考えを日々の学習の中で自然な形で教えて行ったのです。松陰の人材育成のありかたは決して難しく考える必要はなく、普段の何気ない日常の生活の中で、いつも「言行一致」の行動をとることでありましたから、無言の説得力となって塾生の先生に対する信頼を拡大して行きました。そうした中で塾生の人間的成長を願ったのでありました。

塾生の成長度合いや能力を見極めながら判断して教材を適宜に選んで読ませ、一人一人に課題を授けて、自分で考えて解決するという能力開発を願っていたのです。そうして読書が終了すると、感想や自分の立場から批評させて、一緒になって議論し合うというものでした。このように松陰の教育は、教えるという姿勢よりも一緒になって学び合い、その議論の中から塾生に学び取らせるという自主性を重んじるものでした。私達は「陽明学」というと、いかにも難しい学問のような印象を持つかもしれませんが、必ずしもそうではなく、「知識と行動」の一体的な調和を説いているものであることを理解出来ればそれで良いと思います。

学んで得た成果とその行動が、自分をより人間的な成長を促す建設的なものであれば、それは他者への貢献となって信頼されることになります。因みに筆者の勤務する大学は「知行合一」を校是・建学の精神に掲げていまして「吉田松陰論」という珍しい履修科目が設置されております。看護学部もありましてこの学部では「必修科目」の扱いで吉田松陰論の単位を取得しませんと卒業できないようになっています。松陰は「学問の大禁忌は作輟(さくてつ)なり」といって、学問をやったりやらなかったりする態度を厳しく戒めました。それだけに学生の皆さんは、必死でこの科目を勉強します。吉田松陰の勉強をすることは「汲めども尽きない」井戸のように、沢山の教えが「こんこんと」湧き出てくるのです。


2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

171203大東文化会館1171203大東文化会館2



2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。


【戊午の密勅】
【2017/11/05 14:34】 エッセイ
【戊午の密勅】

安政戊午五年(1858)八月、孝明天皇は幕府が朝廷(天皇)に無断で「米国総領事・ハリス」と調印をしたことに激しく怒った。幕府は同年六月九日、江戸湾上で「日米通商条約および貿易章程を締結」し、これを「宿継ぎ」という方法で朝廷に報告した。事後報告である。

これに対して孝明天皇は譲位を云い出すほどであった。それは、この年二月九日、幕府は老中・堀田正睦を勅許奏請の為に上京させて参内させた。然し、勅許は得られずに堀田は四月江戸に帰った。この時に朝廷は「条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再度の勅許を請うべし」と堀田に示した。この直後、大老・井伊直弼は反対派を押し切って勅許のないまま締結したといういきさつがあった。
こうしたことから、同年六月二十九日、事情説明の為、三家・大老のうち一人の上京を命じたが、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため、長幕関係は険悪となった。

160726橋本左内顏写真170331正装の吉田松陰


こうした折、水戸・越前・薩摩の有志らは幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すよう近衛忠煕・三条実万らに入説したことから、「関白九条尚忠」の裁可手続きを経ないで「密勅」となって、八月八日に水戸藩に降下した。(原文には朝廷の最高責任者の関白・九条尚忠の名前はない)二日遅れて幕府宛にも勅諚は出されたが、大老井伊直弼は水戸藩に勅諚の返納を迫った。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

以下、原文を記す。

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


これを読み下してみる。
先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有るべく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


 東京龍馬会 【第六二回総会&講演会】
【2017/10/07 00:35】 エッセイ
 【第六二回総会&講演会】

平成二十七年七月二十三日(日)、「東京龍馬会の総会」が開かれた。
この席上、私は「吉田松陰と松下村塾」の演題で八十分の講演を行った。
この記事は当日の模様を幹事を務めた方が「報告文の形で」纏めて呉れたものである。
個人情報も含まれているので、該当部分のみを修正して掲載します。

平成二十九年七月二十三日(日)新宿グリーンタワービルの東京ビジネスサービス会議室において、
第六十二回臨時総会&講演会を実施いたしました。
曇天模様の小雨交じりの中、八十名もの方が参加してくださり、会場は熱気に包まれました。
初めに開会の挨拶を修行代表幹事が行い、
今回は勝海舟の玄孫・高山みな子さんの密着取材で、BSジャパンの「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」、
の撮影が入るという説明と、会場の皆さんに撮影の同意を求めました。
臨時総会は佐藤会長の挨拶から始まり、昨年東京龍馬会が30周年を迎えたこと、
「龍馬をご縁に出会いを楽しむ」のもとボランティアで幹事会が年4回の龍馬タイムズ発行、
年2回の総会&講演会、2回の史跡探訪を行っている事などを説明し、
修行代表幹事が、事業報告、役員・来賓紹介、新幹事紹介を行いました。
また、山村竜也顧問が『龍馬ガイドブック』出版について、
「今までに龍馬の全国の史跡を一冊にまとめたガイド本はないに等しいので、
東京龍馬会で作る意義は大きく、それには皆さんのご協力が不可欠です!」と熱く語られました。
170723第62回東京龍馬会総会と「吉田松陰と松下村塾」の講演170331正装の吉田松陰170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵


講演会は、長谷川勤先生(松蔭大学・吉田松陰教育研究センター客員教授)を講師に迎え、
『吉田松陰と松下村塾』についてお話しいただきました。
長谷川先生は、生まれて初めて夏風邪を引かれたそうで、
まだ声が嗄れている中、2時間近くにわたり熱弁をふるってくださいました。
歴史が大好きなサラリーマンだった先生が、松蔭大学にスカウトされたのは13年前。
とある会で歴史談義をしたら、講師の方より詳しくて、まだ会社勤務をしていた先生に、
「是非、土曜だけでも講師をしてくれないか?」、と懇願されたのだそうです。
坂本龍馬と吉田松陰の違いは、龍馬の資料は各地に散らばる手紙だけであり、
そのため坂本龍馬を100人が語ると100人が違う、
けれども、松陰は松陰全集が残されているためあまり変わらないという話は興味深かったです。
松陰全集は、昭和十一年版(全文漢文)、昭和十四、昭和四十八年の3回出版されているそうですが、
先生はそれを全部お持ちで主要論文をパソコン入力し、ルビをふり、
松陰がしたようにわかりやすい言葉にして学生に講義をしているといいます。
その成果か、受講者が1000人を超え大学からお祝いをされたとか…。
最初に松陰の伝記を書いたのは徳富蘇峰で、明治二十六年に出版されていますが、
日清・日露戦争を経た明治四十一年に、乃木希典や入江杉蔵に、
「松陰を革命児と呼ぶのはイメージがよくないので書き直せ!」と命じられ、
明治四十一年にやむなく改定本をだしたこと、
先生のご出身の村の人が、初代群馬県令・楫取素彦の妻・寿(松陰の妹)に、
松陰の守り刀を託されて渡米したことなど、長谷川先生ならではの貴重なお話をお聴きすることができました。
幕末から明治にかけて活躍した人材を育て、自身は海外に行くことがかなわなかった点、
松陰と龍馬は似ているかもしれませんね。
講演会は大盛況のうちに終わりましたが、先生は時間内に質問できなかった方々にも丁寧に説明されていました。
 懇親会は場所を移し「龍馬 はなの舞 西新宿店」で催されました。
長谷川先生や山村顧問、高山みな子さんにも参加していただき、
BSジャパンの撮影クルーも引き続き同行して賑やかな懇親会となりました。
今回、谷干城のご子孫・谷光弘さんが初参加とあって、修行代表幹事からが皆さんにご紹介がありました。
谷さんと高山さんは、どうやら勝海舟と谷干城の繋がりの話で大いに盛り上がったようです。
勝海舟の日記に何度も谷干城の名が書かれているとか…。
そして、皆さんが飲んで食べて盛り上がっている中、BSジャパンの撮影クルーは、
何も口にせず黙々と撮影を続けていました。BSジャパンのお二人、ご苦労様でした!
残念ながら、本タイムズ発行時には放映は終わっていますが、
8月12日(土)21:00~23:00放送の「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」を楽しみにしています!
今秋、なんと、長谷川先生は大東文化大学秋期講座で坂本龍馬を取り上げるそうです。
[講座名] 『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』
[場所]   大東文化会館 〒175-0083 東京都板橋区徳丸2-4-21
[日時]   11/11, 18 12/2, 9, 16 (いずれも土曜日の13:30~15:00) の5回。
[パンフレット請求] 大東文化会館地域連携センター TEL: 03-5399-7399
Mail: chiiki@jm.daito.ac,jp HP: http//www.daito/ac/jp
                                 幹事 本下



『明治維新を再考する』②
【2017/09/18 11:20】 エッセイ
明治維新を再考する②

明治維新は、どこにその基点を求めるべきか、学界でも色々な主張がなされているようである。
それらを列挙してみると、以下のようになる。

3ラクスマン一行樣来航図松平定信170918レザノフ



①最も早いのが、『政治史的起点』としての寛政の改革に求める考え方。
これは、寛政4(1792)年ロシア使節ラクスマンが「エカテリーナ二世」の親書を持参し、尚且つ、日本人漂流民である伊勢の人「大黒屋光大夫」の送還を兼ねて「根室」に来航し、交易を求めたことによる。
幕府は、「ラクスマン一行」を役7カ月待たせた上に、「信牌」を公布した。
これは、幕府が公式に「長崎港」に入港を許可したものとして注目される。時の幕閣の責任者、「松平定信」は、「開国を覚悟」したと伝えられる。
漸く、「海防が政治的日程に上った」という意味で、対阿外政策の変更を検討したという意味で、画期的なものとされる。
幸いにして、ラクスマンは、長崎に立ち寄ることなく帰国したので事なきを得た。然し、文化元年(い804)に、この信牌の写しを持参してレザノフが長崎に来航、前回のラクスマン同様漂流民を護送してきたのである。「人道的観点」からの、「通商拒否」が困難になるとのロシア側の作戦でもあったが、半年近くを待たせた挙句、強制退去ということになった。此の時点で、幕閣の責任者はすでに松平定信でなく、「寛政の遺臣」といわれる老中たちであった。対外政策に精通していなかったこと、海外情報が十分でなかったこと、とりわけ「オランダの東インド会社」の衰退によって、「オランダ風説書」が欧州事情を十分に伝えられなかったことも考えられる。幕府の強制退去命令に怒ったレザノフは帰国途次、蝦夷や樺太で狼藉を働き「外交上の礼儀を弁えない」幕府への嫌がらせとなって、幕府は非常な危機感を抱くことになる。以後、連続的に日本近海に船舶が現れることになる。
とりわけ、「フェートン号事件」(文化5年・1808)事件は、遠国奉行たる「長崎奉行」の切腹事件と云う、幕府の対外政策を見直すべき事件であったが、後の「アヘン戦争情報」や「フェートン号事件」、と幕府の対外政策は深刻の度を増してゆく。天保の改革という、内政の失敗によって、幕府は次第に統治力を失って行くことになる。
以下、順を追って書きついで行くことにするが、特に対対外政策の破綻を軸にしたもので明治維新の原因の一端を追ってみる。

『明治維新を』考える
【2017/08/20 09:58】 エッセイ
「明治維新を再考する」①

歴史は常に勝者の側から「過去の記述」が行われる。そうして、築き上げたその新体制が続く限り「礼賛型の史観」が生き続ける。明治維新は、封建的な「徳川幕藩体制」を打倒して「近代国民国家」を築あげたのであったが、それは「世界的な視点」から捕えないと間違う危険性が孕んでいる。徳川幕府(幕閣)は、俗に300諸侯といわれるように最大の経済力と軍事力に裏付けられた「大名としての徳川氏」が、他の大名を屈服させ、臣従させた統治体制であった。そして領地を与えられた大名に、大幅な自治権を持たせ、それを身分制度による分業システムにとって分国統治させ、国家的・公共的事業等は「使役」として各大名に負担させた。宝暦年間の「木曽川治水工事」を薩摩藩に課したのがその典型である。「武家諸法度」や「禁中幷に公家諸法度」の法令は統制策の一環として理解すべき性質のものであった。さらに「参勤交代」や「勅使」を制度に組み込んで国内体制を維持し、対外政策は寛永年間に「キリスト教流入制限」を主目的としつつオランダや中国等に貿易港を長崎に限定した管理貿易システムを取った。それらの国内外政策を制度化し、安定化させるのに半世紀以上の日月を要した。将軍の代でいえば、四代将軍・徳川家綱の時代に一応完成を見たと云える。
170824前田藩格家家紋2170824薩摩藩

徳川時代を一代で現出させた「家康」は、この天下を安定的に維持していくために「反乱分子」の危険性を持つ豊臣系の大名たちを「取り潰し」、「徳川に刃向う事の危険性」を実例で以て示した。それは反面「力の誇示」でもあり、臣従強制策の面を併せ持った。それは一般には「武断政治」といわれる。それ故に、反乱を起こさせない体制は「二世紀半」もの長期にわたる「外見上の平和」が保たれていたのであった。本質的には「覇道主義」であって、「徳治主義による王道政治」とは異なる。したがって、「対外政策の破綻」から統治の牙城を崩され、権力の衰退を「天保の改革の失敗」等でもさらけ出した。「海防」が考え方や、実践論としても政権当初からのものと大差がなかった。各大名に地域をしていして守らせるとしても、全日本としての海防体制は遂に最後まで築きあげられなかった。
170824伊達藩家紋2170824毛利藩家紋


対外政策の破綻は、徳川幕藩体制が当初から持っていた宿命的なものであった。鎖国制度の実施当初はとれで大きな問題はなかったが、なにせ二世紀半と云う長い「徳川政治」が続いている間に、西欧社会は「市民革命」を経験し、人権思想と「合理主義的精神」を発展させた。そのうえに咲いた「第一次産業革命」によって、資本主義(ある意味では近代市民社会)国家を形成した。それは「資源の輸入と製品の販売先の探索」となってくる。英国でまず「綿織物工業」を「動力革命」で発展させたのがその始まりであった。世界の七つの海を制覇した「島国・米国」その国土面積は日本と大して変わらない。製品の輸出先として東アジアにその矛先が向けられたのも故なしとしない。

一方で、米国は18世紀後半の、英国本国からの独立に始まり、開拓者精神と相俟って欧州同様の産業化が進んだ。南に隣接するメキシコとの「米墨戦争」に勝利して、太平洋航路が開けた。それはテキサス併合に始まり、カリフォルニアやニューメキシコ州の併合となって国力は新興国家の大いなる勃興と繁栄の道を開いた。欧州が、隣国との戦争に国力の停滞(英仏を除き)の合間をぬって新興国としての米国が東アジアへの航路の確保から、海外進出を企てたのも多分に好都合に作用したと云える。ナポレオン戦争の余波は、オランダ併合となり「東インド会社」の前線基地としての没落に入れ替わって英国の台頭となる。アヘン戦争が天保の改革の直前に起ったことと、日本の幕末を現出したことは無関係ではない。こうした世界の勢力地図の変遷を徳川幕閣はどの程度まで詳細に知っていたか、18世紀後半から始まる、西欧諸国の日本近海への出没が「何を意味しているか」という、根本的な問いはなされず、稚拙な海防政策が徳川治世の当初に比して大きく進展していなかったことにも原因を求めることが出来る。つまり極端な「内政重視型」の統治体制はそのまま引き継がれたのである。したがって、「オランダ国王の開国勧告」も受け入れないでおわった。「ペリーの来航」で、近代海軍の戦闘能力を確認することで、鎖国制度は終了する。中央集権による、国家としての軍備を持たなかった所に徳川政治の対外政策の盲点ともいえるものが克服できなかった。従って、明治新政府が西欧先進諸国の「近代的軍隊」をいち早く取り入れたのも、徳川幕藩体制の海防の脆弱性を克服すべく、体制整備することが喫緊の課題であったのであった。





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