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【高杉晋作から周布政之輔】宛ての書翰
【2020/02/19 18:23】 エッセイ
『高杉晋作』から『周布政之輔』への書簡

安政六年十月十二日、江戸にいた高杉晋作に帰国命令が出た。五日後の十七日江戸を発ち、京阪地方を見物して、翌月十六日萩城下に到着した。高杉を待っていたのは江戸から萩までの帰国途次の間に執行された師・松陰の「刑死情報」であった。
安政五年七月二十日、高杉は「江戸遊学」を目指して萩を出発した。
八月十六日に江戸到着以来、一年二か月の江戸滞在であったが、この間に「師・吉田松陰」が安政の大獄に巻き込まれ、江戸召喚命令が下り六月二十五日に江戸藩邸に到着。
そして、七月九日第一回の取り調べを受け、即日揚り屋入りとなって伝馬町の獄に収監された。

高杉は、獄にいる松陰の世話をしつつ多くの接触機会や、書簡を受け取っている。
萩の松下村塾で学んでいた頃より、師との語り合いや接触機会が格段と多くなったであろう。
重要な書簡も交わされて、「丈夫(武士)死すべき処如何」と問うた事に対する松陰からの返信は、晋作に大きな影響を与えたとされる。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(安政六年七月中旬・書簡)の有名な言葉はかくして生まれた。
前年七月江戸へ発つ高杉に松陰は、有名な『高杉暢夫を送る叙』(安政五年七月十九日・戊午幽室文稿)を書き与え、大いに激励をした松陰であったが、今度は恩師が獄に収監されて、恩返しともいえる身辺の世話をしているのである。
松陰は幕府の取り調べの様子を詳しく高杉に手紙で知らせている。(安政六年七月九日頃・書簡)
これが残っているために取り調べの内容が今日にあっても我々は詳しく知ることが出来る。
高杉は毛利藩に在って「大組」という中核をなす階級に属し、また毛利譜代の名門家臣として普通の状態であれば藩主の側近にまで取り立てられる家格の出身である。従って晋作の父小忠太は、常に「大それたことをしてくれるな」と云っていた。
高杉家の御曹司の一人っ子として生誕しているから、親として子の安泰を願う思いはひとしお強かったのであった。

武士階級のみが学べる藩校「明倫館」で、当時の通常の学問である「四書五経」を始めとする儒学を学べば、大過なく送れる人生を約束されていた晋作であった。
しかし明倫館の学問にあきたらず、松下村塾の門を叩いたのが彼の人生を大きく変えたのであった。
だが親はそれを快く思わず、晋作は夜になってそっと家を抜け出して松下村塾に通った。
元来が素質豊かな青年であったこと、久坂玄瑞という優秀な人物が先に入門していた事もあって奮起し、努力の甲斐あって成長著しい成果となるのである。
それは師の松陰をして喜ばせるに充分であり、『高杉暢夫を送る叙』にそれが赤裸々に綴られている。
こうして期待を担って江戸遊学を果したのだが、晋作の安泰を願う父親は尊王攘夷活動の危険を回避させようとする。
だからこうした態度を忌み嫌う親を評して『僕、一つの愚父を持ち居り候故、日夜僕を呼びつけ俗論を申し聞かせ候』(高杉晋作全集・上、九四頁。安政三年三月二十五日・久坂宛て書簡)となるのである。
そのように悩みを抱えながらも、時勢を知る晋作にとっては親との葛藤状態は続くのであったが、江戸に在った晋作にとって思わぬ機会が巡ってくる。
それは獄中にある松陰との濃密な接触機会であった。そうして、またもや松陰との接触を嫌う親の願いで帰国命令となる。

江戸遊学も松下村塾で、吉田松陰との接触を避けるべく父親の潘府への申し入れで実現した経緯がある。
そしてまた江戸からの帰国を画策されたのも、松陰との間を引き裂こうとする父親の願いであった。
そして冒頭に書いた如くに帰国命令を受け萩に戻されるのであった。しかし、今度は事情が異なる。晋作が帰国途上の間に師の松陰が幕吏の手によって処刑されたのである。


晋作の無念さは余りあり、当時の藩府の重職に在った周布政之輔に対し次のような激しい文意の手紙を書かずにはいられなかった。
即ち『我が師松陰の首、遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交わりを結び候程の事故、仇を報い候わで安心仕らず候』と。
確かに当時の状況からすれば尊王攘夷の活動には危険が伴うが、松陰の時勢観と「死の教育」を見せられては黙視するわけにはいかなかったことであろう。
高杉の言う「愚父」の願う俗論では神国日本の存在そのものが危うい状況に在る。
師松陰からの死生観を聞かされた晋作は、松陰の死後それを実行する。
「生きて大業の見込み」があれば、一時の逃避も辞さない。
本藩の下関の直轄を嫌う支藩や当時の潘庁を動かしていた反対派(俗論派)から命を付け狙われていると知ると、筑前に逃亡して潜伏する。
そして割拠論の実現のために舞い戻り功山寺の挙兵となり、元治の内戦に勝利する。
これが第二次長州征伐での勝利に繋がり、松陰の説く「大業」のために命がけの行動となった。
半面から言えば「死してはならない」という師の教えでもあった。
また松陰の晩年に行きついた草莽崛起の考えも継承発展させて「奇兵隊」の創設という、封建制度下の厳しい身分制度を打破して近代軍隊の基を実践して見せたのであった。
このように松陰の教えを継承した高杉は、久坂玄瑞と共に「松門の双璧」と称えられるのであった。
そうして、幕府との戦い(四境戦争)に勝利し、「不朽の大事業」を果してその生命の完全燃焼という生涯を送ったのである。
大政奉還の半年前、慶應三年四月のことであった。


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【東行前日記】①
【2020/01/28 13:52】 エッセイ
東行前日記

吉田松陰が二度目の野山獄に収監されていたときの、「安政六年5月14日」兄の杉梅太郎が「幕府の召喚命令」を伝えたことがかかれている。
その報は当時「江戸桜田藩邸」にいた、直目付の長井雅楽がわざわざ帰国して、このことを持ち帰って藩に伝えている。
とかく松陰と確執があったと云われる長井雅楽だけに、わざわざ自分が帰国しているのも、「長井が松陰を幕府に売った」と門下生の一部は信じ込んでいたという。
松陰死して二年後の文久元年、長井雅楽は「航海遠略説」を建言し「幕朝関係の一体」を説いて時代の寵児となった。
これが、幕末において外様藩が幕府政治に公然と容喙する端緒となった。

その後に「薩摩藩」も負けじと、幕府政治に関与してくる。
久光の上京がそれである。
そしてその足で江戸に向かい、幕政改革(徳川慶喜に将軍後見職、政事総裁職に松平慶永を登用)を押しつける。
さらに「参勤交代の緩和」となり、以後開国と攘夷を巡る確執を伴いながら、国内政治は混迷と混乱の度を深めてゆくことになる。

五月十四日  午後、家兄伯教至り、東行の事を報じて云はく、「長井雅樂、之れが為め故ら特に國に歸りしなり」と。
薄暮、家兄復た至り、飯田正伯・高杉晋作・尾寺新之允連名の書を致す。
云はく、「幕府有志の官員佐々木信濃守・板倉周防守等、水府及び諸藩の正士の罪を寛くせんことを請ひ、聽かれず、是れに坐して罷免せらる。
今先生幕逮を蒙る。願はくは身を以て國難に代り、且つ懇ろに公武を合體するの議を陳べられなば社稷の大幸なり」と。
家兄の初め至りしときは事未だ確定せず。
乃ち一絶を作る。

密使星馳事若何     密使星馳す事若何(こといかん)
人傳縛我向秦和     人は傳ふ我れを縛して秦に向って和すと。
武關一死寧無日     武關の一死、寧んぞ日なからんや、
何倣屈平投汨羅     何ぞ倣(ならわ)ん屈平汨羅(べきら)に投ずるに。

政府頗る余が幕訊に就き、事の國家に連及せんことを慮る。
余、因って今春正月論建せし所の一條を書し、家兄に託して、之れを長井に致す、附するに一詩を以てす。
   東命執拘我れを致す、行くに期あり、詩もて親戚故舊に別る。謝枋得北行別の詩の韻による

幽囚六歳對燈青     幽囚六歳、燈青に對(むか)ふ、
此際復為關左行     此の際復た關左(かんさ)の行を為す。
枋得縦停旬日食     枋得縦(ほしいまま)に旬日の食を停め、
屈平寧事獨身清     屈平寧んぞ獨り身の清きを事とせしや。
邦家榮辱山如重     邦家の榮辱、山の如く重く、
軀穀存亡塵様輕     軀穀の存亡、塵様(ごと)く輕し。
萬巻於今無寸用     萬巻今に於て寸用なく、
裁嬴大義見分明     裁(わずか)に嬴(あます)大義見て分明なるを。

政府(長州藩・藩府)頗る余が幕尋に就き、事の國家に連及せんことを慮る。

このように、長井が松陰の召喚命令をもって帰国したのは、藩への悪影響(幕府からの嫌疑を蒙る)を恐れていたことが解る。
これは、「安政の大獄」が江戸で吹き荒れていたために、長州藩が連座しないようにとの判断が背後で為されていたことを物語る。
松陰は、この時は勿論、翌月末に桜田の「江戸藩邸」でも、再度、藩の立場を守るよう、評定所の尋問での「想定問答」を確認されたのであった。


『国史大辞典』の【松下村塾】
【2020/01/01 18:09】 エッセイ
【松下村塾】国史大辞典の説明

「松下村塾」という名称は日本人ならば、大半の人が知っているに違いない。しかし、正しく知っている人もまた少ないように思われる。恐らく、「松下村塾=吉田松陰」と理解されている向きが多いと思われるので、「国史大辞典」での説明を記しておくことも必要と思われるので転記しておこう。

幕末・維新期の私塾。天保十三年(1842)創設。長門国萩城下の東郊松本村(山口県萩市椿東)にあったことから、この名が付けられた。史跡。もとは吉田松陰の叔父の玉木文之進の家塾。ここからは、吉田松陰・杉梅太郎(民治)・山県半蔵(宍戸璣)が出た。文之進が役職に就いてのち、松陰の外叔久保五郎左衛門の家塾がこの名を襲用した。
安政元年(1854)三月の密航未遂事件で獄中にあった松陰は、許されて生家の杉家にもどり、同三年に事実上の村塾の主宰者となった。同四年十一月杉家の宅内にあった廃屋を改修して塾舎とし、翌年七月藩許を得た。村塾は、元来、庶民・下級氏族の教育機関だったが、松陰の思想を慕って入門する者が相つぎ、次第に政治集団の性格をつよめた。
門下から、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田栄太郎・入江杉蔵・楢崎弥八郎・寺島忠三郎・中谷正亮・大楽源太郎・野村和作(靖)・佐世八十郎(前原一誠)・伊藤俊輔(博文)・山県小助(有朋)・山田市之丞(顕義)・品川彌二郎等々が輩出し、長州藩尊攘・討幕運動の指導者、そしてのちに長州藩閥の中枢をなす人々が輩出した。安政五年違勅条約調印問題が政治争点となり、これを契機として松陰と塾生の政治行動は急に活発となった。その行動は激化の一途をたどる。藩政府は松陰を獄に投じ、村塾を強力な監視下に置いた。こうしたなかで、松陰が塾の指導者と期待した富永有隣も去り、村塾は一時廃絶の状態となった。
のち、村塾は再興され、明治元年(1868)二月藩庁は塾舎補修の費用を与えた。同二年官を辞した玉木文之進が再び主宰者となって塾の指導にあたったが、九年十一月門弟が萩の乱に参加した責めを負うて自刃。明治十三年頃、杉民亊により再興、村塾は同二十五年頃まで存続していたらしい。
明治三十三年八月塾舎の改修が成り、同四十年十月村塾内に松陰神社が創建されて県社となった。
参考文献『吉田松陰全集』、廣瀬豊『吉田松陰の研究』、玖村敏雄『吉田松陰』 (井上勲)

吉川弘文館の『国史大辞典』(全15巻)ではこのように説明されている。ここでは、どのような教育・学問が講じられたかは書かれていないが、一般的にはこの説明で充分であろうと思われる。学問や授業、教育方針や理念等々に就いては別途記して見たい。


『松陰の義弟・小田村伊之助』の遺書
【2019/12/11 22:06】 エッセイ
「小田村伊之助」の遺書

「楫取家文書」(Ⅰ)に掲題の文書が収載されている。妻の「壽」宛て。289頁。
正式な題名は『楫取素彦手記』元治元年十一月である。(この時はまだ楫取ではない)

先ず、この遺書の書かれた背景と、長州藩の抗争等の特殊性から記します。
長州藩は、積年の藩財政の赤字を立て直すべく、「村田清風」を改革の責任者に命じる。
田中彰著『幕末の長州』には、次に様に記述されている。
「村田清風は、文政年間すでに藩の財政改革に与かったりしていたが、一揆の余燼なおさめやらぬ天保二年十月二十三日、江戸当役用談役に任ぜられ、表番頭格となった。ときに四十九歳。その五日後には、かれとともに天保改革の主要メンバーである長屋藤兵衛や木原源右衛門もあいついで登用されている。そして、天保三年早々に藩政改革の基本綱領がつくられる。実は、この基本綱領こそが、のちに実行される長州藩天保改革の原案なのである。」(24頁)そして、清風が「八万貫目の大敵」とよんだ経常歳入額の役二十二倍の大借金を抱えていた。天保八年、毛利敬親が襲封。翌年郡奉行香川作兵衛とともに、清風は地江戸仕組掛に任ぜられる。「地江戸仕組掛」とは、改革担当者のことである。この改革はうまくいかず、清風はいったん辞任を申し出る(天保十一年)も、却下される。

そうして、天保十一年五月十日、七月七日に藩政府は会議を開く。村田清風(当役用談役)、坪井九右衛門(当役御用筆)、木原源右衛門(両人役)、中谷市左衛門(当役手元役)、長屋藤兵衛(御用所役)、仁保弥右衛門(同役)、小川善左衛門(同役)福原与左衛門(同役)、などの主要なメンバーが改革への活発な意見開陳を行った。そして非公開の原則を破って、藩財政が公開され、清風は天保十四年四月に「三十七カ年賦皆済仕法」を発令。これにより、一貫目につき毎年三十目の割で三十七カ年納入することで、藩に対する負債は元利とも皆済される。実は、これは商人負債への踏み倒しに近い。三十七年間元金を据え置き、その間は年利のみを支払い、最後の年に元金を皆済するという。そして、清風は天保十五年退陣、替わって坪井九右衛門が担当。早速、三十七カ年皆済仕法は破棄されて、「公内借捌仕法」が導入。ここから、清風の流れを汲む周布政之助(正義派)と坪井の流れを汲む椋梨藤太(俗論派)とが抗争を繰り返すことになる。(防長回天史)。高杉晋作の挙兵で俗論派を撃破して維新を迎えたという藩内抗争・政争の繰り返しが幕末の長州藩なのである。   
禁門の変や長州征伐での対幕府政策も、こうした抗争が背後にあった。そして「楫取素彦」は、正義派に属すると目されていた。従って、幕府恭順派(俗論派)による粛正が正義派に向けられたことで、楫取は、野山獄に収監され死を覚悟したのである。因みに、楫取の実兄である松島剛藏や、松陰が教えを乞うた長沼流軍学者の山田亦介もともに野山獄で俗論派のために斬殺された。(野山十一烈士)長い背景説明となったが、このことを踏まえて、楫取の遺書を読むことが必要である。以下、楫取文書176の読み下しを記す。

楫取素彦松陰の妹 壽



『申し残し候言の葉』
1、 邪正混雑、善悪入り乱れての時節柄に候えば、我々の身の上は、御裁許振りからして、遠島獄舎、または減知没収となるか、如何樣に立ち行き候やも計り難し。
去り乍ら我々の事は御主意を承り、道理を枉げぬ樣、心掛け候事に候えば、天地神明へ對し愧ずべきとも存ぜず候故、即今の、罪の有無は喋々(ちょうちょう)しく申す分には仕らず。天道は循環にして端無きものに候えば、只今の時勢は左迄に永続致すきにもあらず、我々の冤枉も霽れ候の時節も之無きとも申し難く、かかる困厄を気の毒とは思われ間敷く候。昔年、松陰兄のそこ元達へ申し残され候歌に、かくあらんをば武士の常とも申されしは此の時の事と思い合わさるべし。
此往は我々の心を察し貮人(ふたり)の子供を養育いたし、忠義へ道を訓導して賤しく淺ましきを見習うことを仕らぬ樣心を用いられ候儀頼み入り候事。
1、 むかし、菅原道真は博士の家柄なれども、宇多天皇からの御寵愛を以て三公(左右内大臣)と申して、朝政の御相談相手に成らせられしは、藤原時平など、その上首尾を妬まれて、終に大宰府へ配流の御身と成らせられ候。さりとても、道真の御忠誠は萬々年までも光り輝き天満宮と御崇敬仕り、時平の仕打ちを惡まぬ者はこれ無く、我々が不肖を以て道真に比べ候儀はもったいなき事なり。
御上の御寵愛を受け、御直の御用筋までも承り遂げ奉る其の節義に候はば、道真へ宇多天皇の御信用あらせられしにも似よりし事なれば、外々よりの嫉妬、讒言を沢山に被り候事、本より其の栝(はず)とも申すべきなり。之に依り罪名は、情実に浮き候儀、恠(あや)しき儀とも存じ申さぬ身柄にて斯様穩に落着きを付け候へば家内は本より骨肉眷族に至る迄、上を怨み、法吏を残酷と思い怨み嘆かれまじく候。
1、 此迄は、御役の余沢にて篤太郎、粂次郎とも見の廻りより、腰物類、雪下駄等に到る迄人並みに劣らぬ樣、相仕立てよ。尚、筆墨紙、その外の不足は見せ申さず候へども、家門へ衰薄に向い候より以前へ身慣れを打ち捨て、不自由を忍び、富家の子弟を見習い申さぬよう、厳重に申し聞かせる事が肝要の事に候。身柄は幼年より父上に離れ三人の兄弟母上の養育を以て人となるを得たり。その節のことを思いだし候へば、所帯邊(家計)も甚だ貧乏にして物習いを致すべき風情も之無く、母上、賃引織は禄の余力にて筆墨の買い出しまでも成され候へ。何も我々不自由を忍び、物習いも心掛け候へば、今日に到りとりあえず人並みに劣らぬ樣、成立つことが出來候。以來は此方幼年の事を思い出され母上様の御辛抱を手本と致し、子供等に不自由をこらえさせ、養育あるべし。
1、 身柄(私は)十二歳にして小田村姓を嗣ぎ、爾来艱難流離の身となり廿一歳にして、江戸へ罷登り永詰中、母上様方亡き人と成られ、五ケ年を経て帰国に候へども、我家と定まりし内も之無く、御親族中の厄害と成り、気兼ね、気苦労に打ち過ぎ候處、其元(壽)共當家に嫁せられし時の風情、烹焼きの道具さへ不足にて込(困)り勝ちの事は承知あるべし。その後、互いの辛抱にて、しばらくして一軒を立て、建具、敷物、台所道具迄も、蟻の餌を拾う如くにして集めし事なれば、汗の油とも申すべき也。只今にては一身の存亡すら測り難く、家財の損失を懸念するにも及ばぬ事なれども、一軒を建て居り候へば、日用道具は無くて叶わぬ物故、家財の始末も心懸りあり度き事也。まして、眼前手廻りの調度は、互いに辛抱の種に候へば、ざっと心得申さずて取扱いあるべき事なり。
1、 具足箱に藏置候、古具足、陣羽織等、此れ亦家伝來の物と申す物にも之無く候へども、やはり此方の辛抱溜にて仕調置(ととのえお)き、尚蔵書類も沢山には之無く候へども、四書五経抔(など)其の外、當季(当面)の物に、事は缺け申さぬ様に調置くべく候。
就中、四書幷に詩経などは、以前骨折り候て読み候故、書入れも致し置き候間、格別他人へ見せ、益にも成るまじく候へども、子供へは能々(よくよく)身柄(私の)勤學の有様を、此れにて知らせ度く候。左候はば、子供達が物の合点の参り候迄は、その元にて念を入れ、書物類も紛失致さぬ樣に心遣いあるべきなり。
1、身柄(私は)、大逆不道の罪を犯し候、覺えも御座無く候わば、拝領の品迄御取り揚げ相成るべき儀とも存ぜず候。此れ迄戴き候御品は、皆々御上(殿様)の御垢膩(あか)に染まり候呉服にて、勿体なき物なれば、大切に持ち傳え在り度き事也。又、家に残し置き候御先祖方の筆物幷に名高き人の掛物類も麁末(そまつ)に取扱い有るまじく候。此れも身柄の、物数奇(物好き)にて集め候儀にも之無く、やはり子供中成長の後、手蹟を見るも其の人となりを思い出し候へば、成立の助かりともなるべし。
1、親類、眷族の交わりを始め、隣里、郷党の契り迄、心を用いられ度き事にて、尤も附き合いなど申し候へば、物入りも之有る樣、相考え候へども、格別物を入れ候て、附き合いを致し候にも及ばず。手前の人柄を能くいたし賤敷胡亂(せんしきこらん)の者の仲間に入り申さず、士の楯を崩さず、婦徳を失わぬよう心得有るべし。

元治元年子の霜月
もと太郎
お久どのへ


【吉田松陰の母】
【2019/11/27 17:58】 エッセイ

『松陰の母の手紙』ー絶食中止を願う母ー

吉田松陰全集に唯一収載される『母・たき』の手紙。
安政六年正月二十五日。松陰は至誠を込めて尊王攘夷の実践を目指したが、
師友の受容れるところとならず、絶食の挙に出た。
二十五日にこの絶食のことは同囚の安富惣輔から両親に伝えられた。

180202松陰の母 たき


憂慮した母は、遂に野山獄にいる松陰に宛て手紙を書いて届けた。
短文なので、全文を記します。

母杉滝より 正月二十五日(母在萩松本・松陰在野山獄)

一寸申し参らせ候。そもじ樣いかが御くらし成され候や。
さきほどにふりょ(不慮)の事うすうすみみ(耳)に入り、あまりきづかはしきに申し進じ参らせ候。
きのふよりは御食事御たち(断)とか申す事のよし、おどろき入り候。
萬一それにて御はて(果て)成され候てはふかう(不幸)第一口をしきしだいにぞんじ参らせ候。
はは事もやまひおほくよわり居り、ながいきもむづかしく、
たとへ野山やしきに御出で候ても御ぶじにさへこれ有り候へば、せい(勢)になり力になり申し候まま、
たんりょ御やめながらへのほどいのり参らせ候。
此の品わざわざととのへさし送り候まま、ははにたいし御たべ頼み参らせ候。
いくへもいくへも御心御ひきかへ、かへすがへすもいのり参らせ候。
めで度く、かしこ。

ははより

けふ(今日)

大様

松陰の対外政策②
【2019/10/28 16:15】 エッセイ
 「治心気斎先生に与ふる書」(「野山雑著」、二巻一五二頁・安政二年八月朔日)

「苟も其の志を大にし、其の略を雄にして以て事を建て、勢と機とを審かにして以て兵を行らしめば、艦砲なしと雖も猶ほ將に五大洲を横行して餘りあらんとす。
何ぞ魯・墨を畏るるに足らんや。然らざれば艦と砲と將た何くに用ふる所ぞやと。僕竊國家の為め今の策を思ふに、既に魯・墨と和しぬ、其れをして驕悍に至らしめざるべし。
宜しく章程を厳にし約束を謹みて、其れをして驕悍に至らしめざるべし。

191028日本と朝鮮半島

間に乗じて満州を収めて魯に逼り、朝鮮を来たして清を窺ひ、満州を取りて印度を襲ふ。
三者当に其の為し易きものを択びて之れを為すべし。是れ天下万世継ぐべきの業なり。
天下の勢、或は未だここに至らざれば則ち退きて吾がクニを治め、武を偃し文を修め、賢能を招き士民を養ひ、声息を潜めて形跡を歛(おさ)むるも、猶ほ以て一方の安を受けてこれを子孫に伝ふるに足らん。是れ則ち藩国の謀なり。
二者は徳を量り力を度りて、能く為す所を為す。大なれば則ち仁者の業にして、小なれば智者の事なり。是れを之れ勉めずして船を造り砲を鋳るを是れ事とす、是れ僕の甚だ惑ふ所以なり。」

松陰は、幼時の山鹿流兵学の師であった山田宇右衛門宛に、このように自分の考え方を綴っている。
日本の対外政策を雄大にしようとして、機を見出して兵を出動させれば、砲艦を用いずとも世界に覇権を求める事も出来る。
自分が竊かに思うところでは、國の為には米露と条約を締結しているので、日本から反撃を起こすべきではないとする。
むしろ朝鮮を朝貢に来させるべきであって、「取る」わけではない。
清国や魯、印度への侵略構想は、あくまで「余の本志」「万世継ぐべき業」であり、「巨艦」を持てない状態での当面は、その追求はひかえるべき、と述べている。


【社学稲門会OB訪問記】
【2019/09/29 17:28】 エッセイ
がんばれ! 同窓生 ~次世代へ贈る言葉~

平成27年のNHK大河ドラマは、吉田松陰の妹、「文」を主人公にした『花燃ゆ』が放送されています。
早稲田大学社会科学部の2期生(昭和46年卒)の長谷川勤さんは、松蔭大学の客員教授として教鞭をとり、同時に吉田松陰の研究家として、各地で講演や講座を行っています。
そして今まさにNHKのラジオ第2放送で『歴史再発見 松陰と幕末・明治の志士たち』という講座を展開中。
勤労学生だった早稲田大学時代のお話や、日本近代史とのかかわりについて聞きました。

190930早稲田大学190930グラスゴー大学190930小山台高校校章190930アダムスミス肖像吉田松陰

(広報)長谷川先輩、今日はよろしくお願いします。まずは、長谷川さんが早稲田を目指した経緯などをお聞かせいただけますか。

(長谷川)私が群馬県勢多郡黒保根村(現桐生市)の中学校を卒業したのは、昭和37年です。
当時ほとんどの同級生が中学を出たら就職するというのが普通でしたから、私は三菱電機という巨大企業に迷わず就職致しました。
そこで三年間、給料をもらいながら工業高校のような勉強をし、これを卒業すると現場に配属になるといういわば社内高校みたいな制度(昔は、乙種工業高校と云った)。そこに籍を置いたわけです。
15歳で就職して、ある先輩から高校に入らないかと勧められて、自分でも「高校くらい出ておこうかな」という気になって神奈川県立茅ヶ崎高校の夜間部に1年遅れで入学したのです。

茅ヶ崎高校で2年生になった時、掲示板に「ある大学の入試要項」が掲示してありました。
その内容をよく読んでみました。
それまでは出身地や田舎の人間には、高校や大学の受験の仕方・要領などが私にはわからなかったのです。
大学というところは、大いに勉強ができる学業優秀な人間だけが行く【特別な所】だとばかり思い込んでいました・・・・・・。
ところがその入試案内を見たら、国語・英語・社会の3教科が受験科目と書いてある。これで合格すれば晴れて入学できる。
「これなら俺にもできる!」と、合格実現の可能性を見出した時は体中の血液が逆流するような感動体験をしました。

(広報)企業内高校に通いながら受験の決意をされたのですか。

(長谷川)そうです。普通に生活するなら失業の心配ない今の会社に残るか、または大学進学を目指そうか。
半年ほど真剣に悩んだ末に進学する道を選んで、2年生の3学期に都立小山台高校の夜間部に編入したのです。
ところが小山台高校のレベルが今までの茅ヶ崎高校と全然違うので、5だった成績が2や3になってしまった。
生まれて初めて英語で赤点をもらって、そこから奮起しましたね。 それまで英語の成績は抜群でしたから、ショックでした。
仕事が終わって学校に行き、帰ってきて勉強し、翌日また会社に行って・・・・・・。
ついに丸二日間、48時間睡眠なしで英語の勉強に打ち込みんで再試験を受けて何とか落第を免れました。
ところが後で聞いてみたら、約200人の同級生のうちで再試験なしでパスしたのはたった2人だけで、皆再試験でした。
転校直後でそうした事情を知らなかった私は、「これは大変なところに来てしまった」と思いましたが、後戻りできないし、前進するのみしか選択肢がなかったのです。

(広報)そのころには早稲田が視野に入ってきていたのですか。

(長谷川)そう、小山台高校の3年次に成績が平均値を超えるところまでたどり着いて、4年次には生活費と大学の入学資金の貯金ができたのです。この資金で行ける一番良い学校は・・・・・・と考えたら早稲田大学の社会科学部が浮かび上がってきたのです。

(広報)晴れて早稲田大学の社会科学部に合格されたわけですね。

(長谷川)そうです。早稲田に入学したら、会社に行くわけじゃなくて牛乳配達のアルバイトだけですから、勉強する時間がたくさんあった。勉強するのが楽しくて単位もどんどん取りましたね。
昼間は他学部で聴講し、夜は社学で勉強して、1年、2年と連続で上限単位取得と卒業単位に使える夏期講座をこれまた2年連続で受講して単位を取得してしまい、3年、4年は卒業は問題なく見通しが付いたので気楽に過ごしました。
在学中の4年間で「不可」の成績は、教職資格を取る科目試験(第二文学部)の時間帯が重なってしまい、途中退場して文学部の試験へかけつけた時の1教科だけでした。四年の時で、必要単位はおつりが来るほど取得していたので心配なしでした。

(広報)私らの頃は大学に行っても遊んでばかりで恥ずかしい限りですが、当時の学生気質ってどんな感じでしたか。

(長谷川)そうですね。私が在学したのは昭和42年から46年3月迄ですが、あの頃の社学生の半分以上は勤労学生だったのではないかな。
経済的な理由で早稲田の社学にやってくる優秀な勤労学生が多かったと思いますよ。みんな一生懸命勉強していましたね。

(広報)ご友人の思い出を聞かせていただけませんか。

(長谷川)40代や30代の年配の同級生も在学していて、いろんな人がいました。
島根県出身で厚生省に勤務していた友人は、とても学業ができて、確か優を35個も取得して学年で3番だったかな。
そのあと彼は我々の憧れだった全日空に入社しました。
また能弁な友人もいて、彼は入社試験の時の面接試験で「尊敬する人物は大隈重信」と語ってリコーに入った。
さらに仙台二高のラグビー部出身で早稲田でもラグビー部で活躍した友人がいて、この友人は博報堂に入社しました。
彼の会社の同期生に、後に私が研究することになった吉田松陰の妹と結婚し群馬県の初代県令になった楫取素彦の子孫がいたのです。
人の縁は、何時どこでどんな出会いがあるかわからないですね。
そういう意味でも早稲田って出会いの機会が本当に多い、素晴らしい大学だと思います。

(広報)その当時は70年安保で学生運動が盛んだった頃ではないですか。

(長谷川)うん、時代的にはそうだったのかもしれませんが、私自身は学生運動とは無縁な生活をしていました。
当時の社学は創設されたばかりで、社会的評価が定まっていなかった為か、皆さん本当に良く学んで頑張っていたと思います。

(広報)完全昼間部に移行して偏差値が高くなったということも現在の社学の人気の一因かもしれませんが、草創期の学生が良く学び社会に出てからも頑張ったことが学部の評価や信用を高めていった大きな要因ですね。
その草創期の早稲田の社学に入って思い出に残る先生というとどなたですか。

(長谷川)一年生の時の必修科目で、難波田春夫先生の社会科学方法論に出会えて大変感動しましたね~。
聴講しているうちに武者震いがしてきて、聴き終わった後には大変に感動して虚脱感(過度の充足感)を覚え、動けなくなった思い出がありました。
「ああ、こういうのが大学の研究者が打ち込む学問なのだな」と心底から思い、最高の先生との出会えたことに感謝しました。

(広報)私たちの時の社会科学方法論は難波田先生の愛弟子の田村正勝先生が担当されていました。

(長谷川)その後は、先輩に同行をお願いして案内を願い、難波田先生の研究室にご挨拶に行き、4年の時に難波田ゼミに入りました。ゼミ論は「アダム・スミスの経済学成立事情」というタイトルでした。
12月くらいから昼夜逆転の生活で勉強してゼミ論を書き上げました。
アダム・スミスの『国富論』は、1776年に著されたものなのですが、アメリカの独立宣言もこの年です。
国富論が何度目かの改訂版が出されたのは1789年でフランス革命の年です。
その時の日本は田沼意次の時代でもあるのですが、近代社会のメモリアルな時期に書かれたのです。
ちなみにアダム・スミスは、グラスゴー大学で道徳哲学の教授をしていて『道徳感情論』を著しています。
国家・国民の秩序はいかにして形成されるのかというようなことを説いていたのです。
人間は競争することによって生産性も上がり、さらに努力するということなのですが、
1.社会の秩序を保つためには法が必要である。
2.法を導くためには政治が必要である。
3.政治をやり遂げるには国民が豊かでなければいけないという理論で、
最終的には「経済」が社会科学の王座を占めるという教えを難波田先生から授かりました。

この『道徳感情論』と、後の『国富論』の関連性を理解することがとても大事で、日本評論社から出版された『グラスゴー大学講義』を読むとそれが解かるのですが、当時は絶版になっていて購入に大変な苦労をしましたが、執念で購入しました。
この時に、神田の古書店街へ行って『グラスゴー大学講義』を探し当てた。ところが昭和45年当時で六千円の価格でした。
最初六百円と思い込んで喜んだのもつかの間で、よく見たら六千円でした。
がっかりして家に帰りました。ところが、ゼミで研究途上の話をする機会があって、私がこの話をしたら、難波田先生は【それは僕が買ってあげる】と云われた。嬉しさで舞い上がるような感動でした。その時の感動は今でも忘れませんね。
しかし私は本に線を引いてしまうので、熟考して先生に『何とか自力で購入します』と報告したら、先生は【承諾】してくれた。
先生のご厚意がありがたくて、本当に嬉し涙が出る思いでした。
この『グラスゴー大学』が理解できると、難波田先生の『國家と経済』がとてもよく理解出来るのです。
今でも大事に保持していますよ。思い出が沢山詰まっているので処分する気持ちになれないのですよ。

(広報)後任の田村先生の『ロゴスの導くままに』という教えを思い出します。

(長谷川)難波田先生の講義を聞いて段々理解できるようになってくるのですが、理解できた時は物凄い感動を覚えましたね。
学生時代は勉強もたくさんしたし、楽しくて仕方なかったです。

(広報)そう言えば、長谷川さんの娘さんがエミレーツ航空に勤務されていた時にグラスゴーに行く機会があったという話を以前お聞きしましたね。

(長谷川)そうなんですよ、ある時に娘から「今度グラスゴーにフライトする」という連絡をもらったのです。「えっ、ちょっと待てよ。グラスゴー大学は私にとって思い入れのある大学だから、是非写真を撮って来てくれ」と頼んだら、2週間後にたくさんの写真を送ってくれました。あの時は感動したなぁ。自分が若かりし頃、一生懸命勉強したアダム・スミス、その憧れの人が教鞭をとった憧れのグラスゴー大学ですからね。

(広報)素晴らしいプレゼントですね。他に学生時代で何か思い出に残る出来事はありますか。

(長谷川)中学校を出てから9年後の大学4年生の時に教育実習で帰郷した時に、地元で大きな話題になりました。

(広報)どうしてですか。

(長谷川)当時、村では学年で1番か2番くらいの成績の良い学生しか進学しないような状況でしたから、中卒で村を飛び出した若者が九年経って、いきなり教員の免許を取りに教壇に立ったので周りがびっくりしたのでしょうね。
中学校のクラブ活動で、WASEDAのジャージを着て卓球の実技指導もしたこともあってか子供達と仲良くなって、普段勉強しない子たちも勉強しだしました。
テストの平均点も75点くらいになってこれまた周りがびっくりです。教員会議で話題になり、問題が易しいのだろうと後で確認したら、そうでは無かった。このことを私の父親が大変喜んだらしく、後日そのことを聞いた時には嬉しかったですね。

(広報)卒業後は、教師ではなくて企業に就職されたのですよね。

(長谷川)そう、昭和46年に三陽商会に入社しました。我々の頃は業務拡大のために採用が多くて同期が100人以上いました。
私は主に百貨店の担当で、平日に休みがあるものだからゴルフの練習も接待も良くやりましたよ。
今は全然ダメになってしまったけど、良い時はハンディが13くらいまでいったかな。

(広報)三陽商会と言えばバーバリーというか、長島茂雄さんをイメージしますね。

(長谷川)そうね、営業課長時代に長島さんにバーバリースーツのCMキャラクターになってもらいました。
今でもその時にいただいた長嶋さんの色紙が3枚あります。

(広報)長谷川さんの課長時代だったのですか。長島さんのCMは記憶があります。

(長谷川)それから44歳の時に働きすぎて病気になってしまい、100日ほど会社を休んでしまいました。

(広報)歴史との出会いはいつごろですか。

(長谷川)長期病欠して会社での出世はもうないだろうなぁと思い、それからもともとやりたかった近代史をやろうと思ったのです。
五十歳で慶応義塾の文学部史学科の通信課程に学士入学しました。
同時にその頃は、社学稲門会の前身の二水会にも参加していたのですが、合同クラス会の懇親会場で社会科学部の学生担当副主任だった島善高先生にお目にかかったのです。
島先生は社学の名物教授だった木村時夫先生の後任の方で、近代史を勉強したいのですが、と相談を持ちかけたわけです。
論文の試験に通って大学院の科目履修生として1年間、島先生の下で近代史の勉強の仕方を直接学ぶことになったのです。
これが歴史との出会いの大きな一歩だったと思います。慶応の方は『福沢諭吉論』に取り組んで頑張ったのですが、なかなかレポートが通らない、5回出しても駄目であともう少しで卒業のところまで単位を取得しながら中退してしまいました。反面、福澤諭吉は相当に打ち込んで勉強しました。自宅には『福澤諭吉全集』の二十二巻があります。

(広報)吉田松陰の研究はその後ですか。

(長谷川)そうですね、ある時、小学校時代の友人から東松山にある大東文化大学で吉田松陰論の講座があるということを聞いて聴講に行ったのが始まりです。講座の後、帰りにその講師と一杯飲みながら話をする機会があり、「あなた、一度講義をしてみてはどうだ」と持ちかけられたのです。
次回は半年後だというので、『私も吉田松陰の勉強をしてみよう』ということになった。
こういうことも一つの転機なのかなと思いますね。講義はテキストを読まないで語りかけるスタイルでやってみたら受講生の評判が良かった。大東文化大学の講座を何度かやっているうちに松蔭大学の副学長のところにも『吉田松陰の面白い講座を持っているのがいる』という評判が届いたようで、お声が掛ったわけです。
そこでこれまでに学んだことや考えなどの経緯を手紙に書いて副学長に送りました。
その後、松蔭大学の講師として招かれたのは2005年、59歳の時のことです。松蔭大学とは、吉田松陰の松下村塾における教育実績に共鳴して名付けられた大学名なのですが、吉田松陰の研究講座はある意味でこの大学の憲法みたいなものなのです。
今では必修科目になっている学部もあって、みな一生懸命勉強しています。

(広報)吉田松陰の言葉で『草莽崛起(そうもうくっき)』という言葉がありますが、わかりやすく言うとどういうことですか。

(長谷川)志ある民衆の結集こそが幕末の難局打開の秘策だということで、言いかえれば志のある在野の人々の中から日本を変えようと立ち上がることを呼びかけたのです。「立志と実践」ですね。

(広報)アップルの創業者もやる気がなければイノベーションは起きないと言っています。

(長谷川)人間は絶対に「志」を失ってはいけない。その「志の導くままに」学問した先に人生が拓けるのではないかなぁ。
吉田松陰も『学問の大禁忌は作輟なり』と、学問はやったり、やらなかったりではいけないと戒めの言葉を残しています。

(広報)今の学生さんや若者にその言葉を贈りたいですね。

(長谷川)『志があれば道は拓ける』というのが私の座右の銘ですが、これは松陰が残した『士規七則』という教えの中にある「志を立てて以て万事の源となし、全ての源は志にあり」というところから戴いています。
高い志をもって実践することによって素晴らしい人間の出会いが必ずあります。

(広報)まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、この後の話は、NHKのラジオ講座「歴史再発見」と著書に譲りたいと思います。今日は、貴重なお時間とお話をありがとうございました。



<プロフィール>
1946年群馬県生まれ。1971年早稲田大学社会科学部卒業、三陽商会入社。
2005年より松陰大学非常勤講師。2015年より同大学客員教授。「吉田松陰論」を担当。
明治維新の研究から出発し「吉田松陰なくして明治維新なし」との結論に至り、松陰研究に専念。日本歴史学会会員。

松蔭大学の試験問題
【2019/09/28 21:06】 エッセイ
『吉田松陰に見る人間観・学問観』①

2005年4月から「松蔭大学」にて【吉田松陰論】という履修科目を担当して、2019年3月の卒業生までの15年間、3千名近くの学生に【吉田松陰】を語りつづけている。吉田松陰を語る事は大変に難しい。
松陰の人となりの全貌を語り尽くすことは、将に「難事中の難事」である。それは、日本では明治26年に「徳富蘇峰」が、吉田松陰の「伝記」を書いているが、それでも「緒言」で断わりの文が書かれている。曰く、「題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ならん」。と態々、断り書きを記述して刊行目的を最初に提示していることでも理解されるように、吉田松陰の全体像を書ききる事の困難さを吐露しなければならなかった。
1973年に中央公論社が『日本の名著』シリーズを刊行した。そのなかに『吉田松陰』が入っている。この書物の最初の解説部分に、山口県出身の幕末維新期の研究者である「田中彰」氏が『吉田松陰像の変遷』―明治・大正・昭和前期松陰像覚書―と題する書が書かれていて、吉田松陰という人物が、時代により「変転する人物像」として、ある種の吉田松陰研究史の紹介がなされている。この書物は、吉田松陰研究を志す者にとって貴重な研究ヒントを提供してくれている。この解説部分は後に「中公新書」で2001年に『吉田松陰』―変転する人物像―という副題が付いた新書として出版されている。

190927人は何故勉強するのか

吉田松陰の人物像を最も客観的な原資料を網羅し、読み込んで研究した書物としては昭和11年に岩波書店から刊行された『吉田松陰全集』の編集委員を務めた「玖村敏雄」氏の『吉田松陰』が、最も水準の高い研究書として刊行された。この研究書は『吉田松陰全集』(通称定本版:その後二度の全集が刊行されている)の第一巻の最初に『吉田松陰伝』として、実に216頁にわたって詳述されたものを、加筆訂正を加えて単行本としたものである。
吉田松陰に直接照射して『伝記』に纏め上げた本格的な伝記である『吉田松陰』(玖村敏雄著)は、松陰の遺著をくまなく読み込んだ上に書かれたものであっただけに、その学術的研究の価値は高い。それは松陰死後の今日(2016年)までに様々な人々によって書かれたどの本より精緻な史料批判と解釈の下に書かれただけに、今後もこれを越える伝記は恐らく書かれないだろうと断言できる程のものである。

精魂込めて研究し、書き込んだことが読む者をして納得させるには相当の時間を要すると思われる。極めて完璧を期した『吉田松陰全集』の編集意図・努力は大変な労力を要したに違いないが、それを基礎として研究し尽くしたかと思われるこの書の価値は今後も光り輝き続けるに違いない。以下、このタイトルで、書き続けようと思う。その集大成が成った時、価値があるものとなるだろう。抑々、この記事を書く動機は、私の勤務する松蔭大学の『吉田松陰論』を履修する学生に理解容易にするためである。


吉田松陰の対外政策 ①
【2019/08/29 10:02】 エッセイ
「栗原良三に復する書」(嘉永五年六、七月頃)

吉田松陰は前年の江戸遊学で、ロシアが我が国の東北の海防の無備をついて津軽海峡を我が物顔に航行しているとの情報を得た。さらに津軽半島に上陸し狼藉を働いているという情報は、検証の必要があると即座に思い立った。
そこで、鎮西遊学以来の友人で、同じ「山鹿流兵学」の先輩でもある宮部鼎蔵とともに北辺の海防視察を敢行することとなった。
ただし、この行動を是としない藩の上層(具体的には、江戸藩邸の佐世主殿は、松陰からの〔願い書〕提出の時点(嘉永五年七月二十三日)では許可したものの、直前になって許可しないとのことになった。
これには、藩主の毛利敬親が急遽、九月に国元に帰国して不在という事情があり、藩主の印形のない箇所手形は無断で発行出来ぬ故に、出発延期を指示してきた。その時、松陰は宮部鼎蔵と江幡五郎とで出発の日を約束していたことから、松陰は板挟み状態となった。そこで、藩主の許可(箇所手形発行)なきままに、かれら二人との約束を強行したのであった。
半年後、東北の海防視察を終えて江戸に戻った松陰を待っていたのは「国元で屏居待罪」で、処罰が下るまで国元蟄居の命令であった。この東北旅行途次、水戸に一ヶ月滞在して会澤正志斎から親しく水戸学を学んでいる。松陰の思想形成にとって大きな転換点であった。水戸学(後期)は「尊王攘夷」を掲げる幕末の指導的イデオロギーとなった藩であった。とりわけ、会澤正志斎は前藩主の徳川斉昭の教育掛を担当した、水戸学の大家の一人で、文政年間に起きた北茨城での「英国人の無断上陸」の取調べを行った経験に基づいて『新論』を著述していた。尊王攘夷はいわば水戸藩の藩是ともいうべき対外観を有していた。松陰の攘夷思想の原典はこの水戸学にあったこと、先年の鎮西旅行で学んだアヘン戦争における英国の清国侵略の実体とともに「攘夷思想」を形成したのであった。松陰の攘夷思想は「洋夷」排斥の思想に特徴がある。この先進列強国からの脅威を如何にして皇国の防備に転用して「国防」を達成するかが、彼の思想と行動の中で大きな比重を占めたのは、山鹿流軍学師範という家職と無縁ではなかった。そこから、列強国への対応策が巡らされることになる。

この來原良蔵に対して書かれた内容は、こうした背景の下に考察されるべきであろう。時期的にもペリーの来航の一年前になり、脱藩の処罰確定前の萩で屏居待罪中であったことと合わせて見るべきである。この屏居待罪中における読書の内容は『睡餘事録』と『來原良蔵に復する書』に詳しい。「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」、故に
先づ「日本書紀」三十巻を読み、之れに継ぐに「続日本紀」四十巻を以てす。其のあいだ、古昔四夷を懾服せし術にして構成に法とすべきものあれば、必ず抄出してこれを録し、名づけて皇国雄略と為せり。(9-283・睡餘事録)
ここに松陰の「皇国雄略」たる対外政策がある。東アジアにおける祖国の独立貫徹には、朝鮮や満州の懾服が必要であるとする。

これを前提に、
「皇朝、武を以て國を立つ、その盛時は高麗・新羅を懾服して使者を百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。寛平に至りて、新羅来寇す、則ち撃つちて之れを却けたるも、是の時は古の雄略復た見るべきなし而れども防守は尚ほ人ありき。其の他は則ち言ふべきものなし。豈に時不可なるか。夫れ盛衰は何の時か之れあらん。豊関白起こるや、三韓を鏖にし、有明を壓し、勢い将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継がざりしは惜しむべきかな。然れども余威猶ほ百蛮に震ひて數世に延ぶ、盛なりと謂ふべし。降りて近時に及んでは、事言ふに忍びず。羅刹、蝦夷を擾すも、大恥未だ雪がず、英・拂、琉虯に逼るも、深い患未だ除かず。浦賀に闖入すれば則ち慰して之れを遣り、下田を劫掠すれば則ち免して之れを脱す。国威の衰頽、最も未だ嘗て有らざる所なり」。(6-316)を読まなくてはならない。

190927人は何故勉強するのか

松陰が、『武を以て國を立つ』とした古代の日本が朝鮮半島に進出し、それらを『属国』として扱ったという日本書紀の『歴史的神話』に、『皇國』が他の国との相違を示すところであり、豊臣秀吉の『朝鮮出兵』は『古の路』を復活させたものである。しかし、それが終わってからというもの『国威の衰頽』は甚だしいものであると認識される。
松陰の『國體』の発見、すなわち『尊王』と天皇の下に周辺諸国を武力によって『懾伏』させることがリンクしており、両者は不可分な存在なのである。
このように『武』の國であったはずの日本が、米国艦隊の『武』に威圧されて条約を締結してしまった。再度の来航時にこそ日本の『武』を輝かせて往時の栄光をとり戻すべしと開戦に期待した松陰は肩透かしを食らったかたちになってしまうのである。

吉田松陰初期の世界戦略である、これが書かれたのが嘉永五年七月。このとき松陰は箇所手形なしで東北遊学に出奔したため、帰朝してから藩の処分が下るのを謹慎して待っていた時なのである。
松陰の「東北游日記」の末に「睡餘事録」と題した小論がある。其れによると、一ヶ月足らずの内に『日本書紀』『続日本紀』を立て続けに読了している。すさまじいまでの読書ぶりであるが、これには伏線があって、江戸での仲間から、長州人は日本の古代史に暗いと指摘され、冷や汗をかいたことがあったが、多忙に追われ日本の成り立ちを勉強する余裕がなかった。
そこに、東北遊学の機会が訪れ、水戸で会澤正志斎(後期水戸学の大家)から親しく講義を受け、念願が叶ったのである。
その感激が覚めやらぬ内に、上記の異常とも言える読書になった。
そしてして日本書紀の記述に基づく、神功皇后の三韓征伐や雄略天皇の朝鮮侵攻に感激し、隣国の懾服論が形成されたのであった。この記事は、『万年書生気分』の名前で書かれている方の、吉田松陰の朝鮮論の述作からの引用です。
松陰の対外政策勉強で非常に勉強になりましたので、原文はそのままにして記述し、戦前の日本陸軍が大東亜戦争に利用したとされる検証の一環として書いている。これを読むと、松陰が尊王攘夷の権化のように理解されているのを見直す機会になると思える。


『子遠に語ぐ』安政六年一月
【2019/08/03 14:25】 エッセイ
子遠に語ぐ  
(己未文稿野山日記)  安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に来り、船越清蔵.村田蔵六、萩に来るの事を談ず。

170331正装の吉田松陰160621松下村塾塾舎150405野山獄小



    ○
  子遠に語ぐ  正月念七夜
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。
汝其れ之れを察せよ。防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。
然らば則ち防長唯だ汝一のみ。切に自ら軽んずるなかれ。

汝、国を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隠すの便あり、三には生活の計あり。
且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅学も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
兵は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。
切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶背ば即ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。
但し今日の時勢、宜しく佳賊となるべし、切に無頼の賊となるべからず。
徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。
然れども仁既に至らば則ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。
天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。
此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。
草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。
天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。
吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聴かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聴かずんば則ち干戈を用いて可なり。
是れ亦仁至り義尽くるの論なり。汝識高く胆大、吾れの愛敬する所なり。
恨むらくは才足らず、学尤も足らず、怨讎の気過当なり。是れ汝の病なり。
必ず荘四を罪せんと欲するが如き、是れ過当の怨讎なり。
然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。
才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。
戎馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ、真心実意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

知行合一24.3.30伝習禄



吾れ曾て王陽明の伝習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。
向に日孜に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。
然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の学の真、往々吾が真と会ふのみ。

今の世界、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。
吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ、敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。
諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。
是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。
是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしかを思量すべし。
(余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚真実を以て世々相伝ふ。

ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。
之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。
旧友は前書に略ぼ之れを言へり。新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。
但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。
然れども両暢夫相抗すれば必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れ桂と一言せしに、桂も之れを首肯せり。
無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些の才あり。是れ大いにその気魄を害す。
気魄一たび衰へば識見亦昏む、歎ずべし歎ずべし。諷するに老屋の説を以てせば、或いは一開発あらんか。
抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒の事の如き、八十.子楫.無咎、各々諌書あり。
その懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。
試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの慮短きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。
嗚呼、鐘子期遇ひ難しとは其れ唯だ無逸か。実甫の才は縦横無碍なり。
暢夫は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。
然れども自ら人に愛せらるるは潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当に此の三人を推すべし。
八十は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。所謂、布帛栗米なり、適くとして用ひられざるはなし。
其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。
吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を持ってすべからざるなり。
子楫は鋭邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌すことあらば、駟馬もこれに及ばず。
吾れ平生最も愛する所は子楫.無逸なり。無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭(きえい)なるを愛す。
皆その己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或いは平にすること能はざらん。是れ其の敬すべき処なり。
子楫は其の頑なし。然れども気自ら恃むべし。且つ子楫は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。
是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。
福原は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子楫の鋭気(えいき)愛すべきに如かず。
然れども其の頑固自ら是とする処は子楫及ばざるなり。
無窮は才あり気あり。一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。
無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節に臨みて、亦苟も生きざるなり。
子徳は満家俗論にして、恐らくは自ら持すること能はざらん。然れどもその正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ。
子大は俗論中に在りて、顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし。
日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。
天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。
誠に李卓吾の如きを得て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。
吾が交友中に於いて暢夫.日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。
嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。
大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。
吾が交友中、言ふに足る者なし。
汝の知る所は仙吉.直八.松介.伝之輔.小助.太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢(ゆうかん)にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
然れども大識見大才の如き、恐らくは亦ここに在らず。
天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。

吉田松陰は二度目の野山獄にあって、門下生との交友も行き詰まり状態となった。
江戸では、井伊直弼の指揮する【安政の大獄】が吹き荒れていた。
これを書いていた頃の松陰は孤独であった。唯一、恩師に着いてくるのは入江杉蔵兄弟であった。
この文稿は、松陰が松下村塾の門下生をどのように評価していたかを知る、貴重な文献である。
桂小五郎が、松陰と門下生との交信を断ち切らせたと冒頭にある。
また陽明学についても、すこぶる味あるを覚ゆ年ながらも、陽明学とではないと言っている。
「万々心に当ると」といっている。
一連の門下生評価は、松陰がどのように見ていたかがしれて大変興味深い。
高杉への評価が抜群なのは、松陰死後の活躍を見ても、松陰の人物評価が確かであったと言えるだろう。
【他人の駕御を受けぬ高等の人物】や【新知の暢夫識見・気迫他人及ぶなし】等と松陰の表現は独特で面白い。





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