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【諸友に語ぐる書】
【2018/06/04 10:21】 エッセイ
松蔭大学の【文化研究センター】に寄稿した小論が出てきたので、ブログに転記してみる。この書は、江戸の『伝馬牢』に収監中、四日前に松陰が、死罪を覚悟して松下村塾の門下生宛に書いたが、途中でやめている。構想の練り直しとなったと考えられる。その書き直しが『留魂録』として、萩の松陰神社に保管されている。この『諸友に語ぐる書』と『留魂録』は、同じ目的で書かれたものと思われる。小伝馬町の江戸獄で『牢名主』だった沼崎吉五郎に託され、八丈島に遠島の刑期を終えた沼崎が、東京に戻り、時の神奈川県権令だった野村靖に手渡されたことから、今日に遺る貴重な史料である。

文化教育研究所年報
タイトル : 『諸友に語(つ)ぐる書』 センター名: 吉田松陰文化教育センター

1、 はじめに
安政6(1859)年10月16日、吉田松陰は幕府評定所に4度目の呼出しを受けた。
第1回目が7月9日、続いて9月5日、10月5日、そして10月16日であるが、当日は前3回と異なり、「口上書書判」命令と言ってこれまでの取り調べの内容を記したものを奉行より読み上げられて署名(花押)せよとのことであった。しかし、松陰のこれまでの取り調べに対する応答と記された内容が異なっているため、その確認をめぐって奉行との間で激しい応酬が行われ、松陰は強く訂正(弁駁)を求めた。しかし、老中間部詮勝への「要撃」をめぐって「切払い」か「刺し違え」の文言の修正にとどまっていたため、末文の所に「公儀に対し不敬の至り」という極刑を想定させる文言は修正されずにそのままであった。
評定所側の不条理な要求に納得せぬままこれを確認した松陰は「末文の改まらざるをみれば首を取るに相違なし」と判断したのであった。この日以来松陰は親族、関係者、門下生宛に書簡や遺書等を精力的に書き綴る事になる。掲題の書は、松陰の予てからの「志の継承」を願って書かれた強いメッセージと理解されるものである。

2、「志の継承」を強く願った吉田松陰
  吉田松陰は、その短い生涯に於て最も大切にし、自らに求めるのみならず、門下生にも厳しく言い聞かせていた語に「志」持つこととその継承があった。松陰にとって「志」は人間だけが持ち得る人生知の意味があった。従って志を持たない人物は松下村塾に於て受け入れがたいのであった。長逝した門下生の回顧談に『何のために勉強するか』と入塾希望を尋ね、志の所在を問いただした逸話が残されているが、この「立志・実行」こそが松下村塾の精神であった。安政2年に従兄弟の加冠を祝して書いた『士規七則』にも「志を立てて以て万事の源と為す」と有名な人生訓が書かれている。これは松陰の人生観、人間観に於て基調をなすものといえるのみならず、連綿と力強く門下生に継承されるべきものとして位置づけられる。
安政3年8月に松陰の幽囚中に萩を訪れた安芸の勤皇僧・黙林に宛てた書簡にもそのこと示す文言が綴られている。即ち『若し僕幽囚中の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之れなく候。』と、自分の志の継承が成果に結実する時が必ず訪れるとの信念を吐露している。こうした松陰の信念ともいうべき志は、自らの死をも忌避しない。生涯を通じて常に言行一致の態度を貫いた松陰は、評定所の判決にも従容として従い、死の恐怖におびえる姿は皆無で、これは後に述べる松陰の死生観に起因しているものと考えられ『諸友に語ぐる書』はこのような彼の信念を貫く形で松下村塾の門下生宛に書かれたと解される。


3、『諸友に語ぐる書』の性質
  「吾れ甲寅の擧、自ら万死を分とす。」の書き出しで始まる700字程のこの書は、実は完結していなく途中で書き止めている。従って書かれた日時も記されていないが、その内容によって安政6年10月20日頃と推定される。恐らく松陰自身が、これよりも優先して書きのこすべきものがあったと考えたためと思われる。因みに、10月20日に書かれたものがこのほかに幾つかある。「死を覚悟して」なお、自らの人生を完成させようとの強い意志が感ぜられるのである。まずこの日『父叔兄宛て』と題する有名な家族、親族あての書簡が書かれる。文意からして、生への執着を断ち切った清らかな心境で書かれたであろうと思われるこの書簡は、「死罪」を確実視した報告の形で書かれる。さらに、親族への感謝と気遣いの文面に溢れていて、死後の処置(祀り)についての希望を述べており、人としての道を求め続けた松陰らしい心の籠った報告文となっている。有名な和歌『親思ふこころにまさる親ごころけふの音でれ何ときくらん』はこの書簡の中で書かれる。同日付で門下生宛に書かれたものが2通、更に3日後の伝馬牢の同志宛に2通が書かれて、生涯に書かれた6百通を越える書簡が終了となり、全ての周到な準備を整えて最後の『留魂録』の執筆に取り掛かかったものと思われる。従って、この『諸友に語ぐる書』は留魂録とともに、松下村塾の門下生への遺著としての性格を持つものであり、ここで松陰が強調して述べているのは『諸友蓋し吾が志を知らん、為めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり』と書かれている通りであって、師の死を悲しむことより私の志を継承発展させてほしいとの願いである。日本国の植民地化の危機感を他の誰よりも強く深刻に受け止めていた松陰は、自らの死が日本の植民地化防止の端緒となる事を願っていた。それは安政6年3月26日の小田村伊之助・岡部富太郎宛ての書簡に、次のような記述があることからもうかがえる。『僕は諸友の名代に一死を賜はりたく候。罪名は大逆の律へ的當なり。』(全集八巻)。また同年4月4日の野村和作宛書簡にもこれを裏付けるかのように『人は吾れを以て亂を好むと云ふけれど、草莽崛起の豪傑ありて神州の墨夷の支配を受けぬ樣にありたし。然れども他国人共崛起して吾が藩人虚空にして居るなり。吾が藩に忠臣あらば早くいづれにか崛起して外より吾が藩を救ふ手段あるべし。何卒亂痲となれかし。亂痲となる勢御見居(す)ゑ候か。治世から直に亡国にはならぬか、此の所僕大いに惑ふ所なり。』として、日本国及び萩藩の防衛を強く望んでいるのである。安政6年の松陰は、迫りくる外圧の危機に対して日本国の防衛を担うべき人物が現れない現状に対して幕府や朝廷、藩のいずれをも期待できず失望していた。
そこには自らの死を以て起爆剤となるしか活路を見出し得ない思いを持っていた。このような考えの下に『吾れの死を哀しむなかれ』との門下生へのメッセージを強く打ち出すことによって、奮起を促したのであったものと考えられる。

4、「死して不朽の人とならん」―松陰の死生観―
  松陰は一方で、自らの死をもって「不朽の人」となるべき願いも併せ持っていたと考えられる。即ち自らの死を有意義ならしめたい心中を吐露している。「松下村塾聯」にも書かれているように『万巻の書を読むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人と為らん』は松陰の門下生への呼びかけであったとともに、自らへも言い聞かせた言葉でもあったと考えられる。そしてまた、安政6年7月の高杉晋作宛の書簡でも自らの死生観を語っている。そこでは次のように書かれている。『死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。』そうしてこれに続けて『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。』と李卓吾の焚書や楠正成の「七生報国」の言葉を念頭に置きつつ教え諭している。こうした「意義ある死」こそ松陰が願ってやまなかったことで、日本国の存亡危機を説いて止まなかった松陰は自らの生死に重ね合せて門下の高杉に伝えたのであった。ここに松陰の志の継承に対する強い願望を見出すことができると同時に、松陰亡きあとの高杉晋作の行動の持つ意味を見ること事ができる。

長州藩内の政権運営をめぐって対立する反対派の「俗論党」一派から殺害の危険を感じた晋作は無駄死にを避けるべく逃避も辞さなかったし、文久年間に結成された「奇兵隊」も松陰の晩年に行きついた「草莽崛起」の考え方の延長線上において理解されなければならない。そこには「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」との師の教えを忠実に守ろうとした門下生の生き方が見られるのである。米英仏蘭連合艦隊の下関襲撃後の英国からの「彦島租借」の要請に対し強硬に反対を貫き通したのも師から学んだ「アヘン戦争」の教訓であったに違いない。こうして松陰の死生観や志は、多面的な形で門下生に受け継がれていったのである。松陰自身は常に言行一致の人であった。そうして『諸友に語ぐる書』は単なる死を目前にした遺著というべきものであるばかりでなく、多面性を持ったものと理解されるべきである。彼の願った僧・清狂や橋本左内、或は古代中国の高士等の人物と比肩されつつ処刑される事に松陰なりの満たされる死生観があったのである。それゆえに読むものをして訴える遺著であるというべきであり、日本の独立維持のために門下生達が奮起してくれることを願ってこれが書かれた。
5、『留魂録』の先駆をなす書
この凝縮した彼の死生観をより解り易く伝えるために、獄中で語り合い志を共にできる同士も含めて門下生に伝える必要があるとの考えに至った松陰は、この書を書き止めて再度書き直すことにしたものと考えられる。『留魂録』執筆までの時間を、熟考に費やしたのに違いない。尊王攘夷に基づく新国家建設―それは外圧に耐えての日本の独立した姿であった¬が、安政年間という時点ではまだ具体的に描ききれなかった。嘉永7年の日米和親条約、安政5年の日米修好通商条約の締結後間もない時点ではそれは困難であったと考えられる。松陰が最も心を砕いたのは存亡の危機に在る日本の現状に対し、為政者の不作為を諌めることであったと思われる。自らを「志士を以て任ずる」考えを持っていた松陰は、国家に準ずる覚悟は当然出来ていたものと考えられる。安政6年5月の「江戸召喚」にあたって書かれた『家大人に別れ奉る』の中でも「少少より尊攘 志は早くに決し」と自分を振り返っているのである。
そして『諸友に語ぐる書』の通り、十月二十七日の幕府評定所において「公儀を憚らぬ不敬の至り」の罪状にて死罪宣告を受けるのである。そうして松陰の辞世となった『吾今国の為に死す、死して君心に負かず。悠々たり天地の事、観照明神に在り』を朗朗と謳いあげつつ従容として斬刑を受け入れたのであった。『諸友に語ぐる』の通り、自らの死を以て門下生への教育を完成させるとともに「志の継承」を確かな手ごたえとして感じつつ生涯を閉じたということが出来るのである。こうした松陰の最期は『留魂録』の最末尾に詠われている三首の和歌にも見出すことが出来る。即ち『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払えよ。愚かなる吾れをも友とめづ人はががとも友とめでよ人々。七たびも生きへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや。』の三首である。己の死を目前にしてなお国家の行末や門下生への遺言を塾考し、人生の終末時まで志の継承を託そうとする生き方に心を動かされない人はいないであろう。誠に天晴な日本人の典型を吉田松陰の生涯に見出すことが出来るのである。


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【吉田松陰伝記】の略伝 ー玖村敏雄先生著ー
【2018/05/19 22:01】 エッセイ

『吉田松陰略伝』

吉田松陰研究家の泰斗「玖村敏雄」先生が、掲題の略伝(世界教育宝典・玉川大学出版部)を書いているので、転記して丁寧に読むことに資することとした。
昭和十一年に「岩波書店」から刊行された『吉田松陰全集』(通称定本版)の第一巻の巻頭に「吉田松陰伝」が収載され、後に岩波書店から単行本として刊行された。
これは「吉田松陰」の伝記として最も権威のあるものとして高く評価され、吉田松陰の研究に必須の書籍である。
しかし、これを読んで自家薬篭中のものとするのには大変な努力を要する。
そこで、略伝が欲しいと探していたところ、「手頃な分量」である事と相俟って、内容が解かり易い記述になっていること、記述の正当性の観点から最も伝記として一般の読者に親切なものと思われるので転記することにした。
著作権の侵害にならないよう、出版社及び著作者等を明記して出典を明らかにしておきます。
吉田松陰を知ることとは、単に幕末史の研究にとどまらず、【人間とはどのように生きるべきか】?、あるいは【学問とはどう求めて人間形成に役立つべきか】?、【人間は完全ではない、しかし賢愚はあるとしても、各人は一、二の才能を必ず有している。
己を知って、世のため人の為に役立つように、各人の長所を生かして、世に貢献できれば、それでよし】等々の人生訓、あるいは人生知に基づいて向上的に生きようとする事に価値がある!。
 卓見であると思う反面、【簡にして要】の見事な吉田松陰の人間に対する見識や世界観、教育観、人間観をこの玖村先生の略伝から読み取っていただけたら、この著しく長い文章を転記した価値があるに違いないと思う。
少々の困難をこらえて、是非とも読み取っていただきたいとの願いから、労苦を忍んで転記しました。
一人でも多くの人に読んでいただきたいと願っています。

170331正装の吉田松陰



(一) 山鹿流兵家
吉田松陰、名は矩方、字は子義または義卿、通称は虎之助、後に幾度か改められたが終に寅次郎。松陰または二十一回猛士はその号。文政十三(一八三〇)年八月、長門萩の郊外松本村今の萩市大字椿東字椎原に生れた。父は杉百合之助、母は瀧。杉家は元禄の頃から毛利氏に仕えた下級武士の身分で、松陰の産まれた頃の禄高は二十六石であった。松陰には兄梅太郎、妹千代ほか三人、それに唖の弟一人があった。松陰五歳(数え年以下同じ)のとき、父の弟吉田大助の仮養子となり、翌年その病死に遭い、この家を継いだ。吉田家も杉家とほぼ同じ頃から毛利氏に仕えたが、家職は山鹿流兵学師範で、松陰は養父の禄をそのまま受けて五十七石六斗を給せられた。この禄高は中士の格に属する。

松陰はそれからもひきつづき杉家に同居した。そうして終生娶らず一家を構えることもなくして終わった。松陰は篤実勤倹好学の家風の中に、従順で誠実な少年として、儒学的な基礎教養と兵学者としての専門教育の手ほどきを受けたが、頭脳の鋭い英才として前途を嘱望され、殊に藩主はこの少年に眼をつけてその大成を期待した。
 さて一八三〇年代からのおよそ二十年間、年号は天保―弘化―嘉永と変わったが、それは松陰の兵学修行の時代であった。ところであたかもこの期間はわが幕末史上最も重要な転換期にあたる。江戸幕府が抱懐した内部要因を幕藩体制自体が包蔵する矛盾と困難に見出そうとする学者達は、天保九(一八三八)年に始まる老中水野忠邦の政治改革に注目する。
これに対して欧米列強の勢力が次第にアジア地域にまで迫り、わが国もまたその外圧を受けるようになったとき、これに対処する政策をあやまったために、幕府はみずから墓穴を掘ったとみる学者達がいる。この人達は嘉永六(一八五三)年六月、米使ペリーの浦賀入港を重要な転期とする。いうまでもなく江戸幕府の崩壊と明治維新の成立は、錯雑した因子が複合しての結果起こったのであって、単に政治的、経済的な面からだけでなく、其の間に国体に関する反省を促した歴史研究や水戸学、国学などの影響も見逃してはならないように思われるが、ともかくこの頃のわが国は重要な転期にたっていたことは疑うべくもない。
松陰はそのような時代に、史家のいう西南の雄藩のひとつであった長州藩にあって、その青年時代までを生活したのである。

兵学者松陰の修業は藩学明倫館で藩士のために、山鹿素行を学祖とする山鹿流兵学の講義や図上戦術の指導ができるように、ということを一応の目標とした。山鹿流兵学は戦国時代の武将武田信玄の兵法に基く小幡景憲やその門人北条氏長の甲州流軍学の流派を汲むもので、素行の博学は支那の経書はもとより、孫子呉子その他支那における兵法古典の趣意までも採って伝来の兵法を深め、これを和漢の歴史に徴するという形に仕上げた学問である。松陰は家学の高弟についてこの扁額を熱心に研究し、更に他の流派をも兼修した。そして十九才で独立師範となり、嘉永四年四月二十二才の春には極秘三重伝という山鹿流最高の免許を受けた。これによって明倫館兵学師範としての地歩は確立されたと見てよい。しかし松陰はこれを以て満足しないで、嘉永三(一八五〇)年秋冬の間は九州に、次の年は江戸に遊学した。あるいは平戸や江戸にある山鹿流宗家を訪ねて教えを乞い、或は沿道ならびに江戸に著名な学者の門を叩いてその所説を聴いた。
ところで江戸において勉学中の松陰は重大な失策をした。かねてから熊本の同学宮部鼎蔵と東北地方への視察旅行を計画し藩の内諾をうけていたころ、友人江幡五郎(後の那珂通高)が南部藩の内訌により獄死したその兄春庵復仇を志して同行を求めた。義に感じ易い二人はこれに同意し、赤穂義士討ち入りの十二月十五日を出発の日と決めた。ところが松陰は藩からの過書(身分証明書)が届かないのに、男子の一諾を重しとし、断然藩邸を亡命して水戸に赴き、一カ月ばかり滞在の後東北遊の旅に上がった。四月の初め江戸二毛って自首し、結局萩に追い下しの命をうけて帰った。亡命中江戸において国史国典の重要さを感じたので、罪を待つ間主として国史の研究に没頭した。この年十二月、亡命の挙は「上を憚らず、却って他国人へ信義を立て候心底本末転倒の儀、その筋相立たず」(全集九巻。三二七頁)という理由で「御家人召放」の処分を受けて家禄を奪われた。こうして二十三才の松陰は浪人の身となった。ついでながら、江幡はこの時復仇を果さず、そのうち仇は病死したが、自分は安政六年南部藩士に取立てられた。
藩主は松陰の亡命をきいたとき「国の宝を失った」と側近に語ったと伝えられる。(普及版九、二四六頁)が、杉百合之助に内命して松陰の十カ年諸国遊学を願い出させた。機を見て再び取り立てるつもりであったらしい。少年時代から藩主が特に松陰に眼を着けていたことは伝え聞いていたが、今罪余の身に対しひそかにこの恩命があったことは、一族わけても松陰の感激に堪えぬところであった。みずからの罪を悔い、いかにしてもこの藩主の恩顧に報いなければならないという心情は、封建時代に特異なものと見られるかも知れないが、松陰はこの心情においてこれからの新しい人生を生き抜こうとするのである。嘉永六年の春正月、松陰は希望を前途にえがいて諸国遊学の旅に上る。
瀬戸内海を船で大坂までゆき、摂津、河内、和泉、大和、伊勢を歩いて十数名の学者を訪ね、五月下旬江戸に入る。六月三日にはあたかも松陰の到着を待っていたかの如く、米国の水師提督ペリーが軍艦四隻をひきいて浦賀に入港した。この報をうけた松陰は単身浦賀におもむき、つぶさに事情を視察した。信州松代藩の軍師で、先年松陰が江戸遊学中しばらく教えを受けた佐久間象山も現地にあって幕府の無策を憤慨していた。松陰はこの時ここで「ようやく変革の勢を兆す」日本を自分の肌で感じ取った。
先年江戸遊学のときは安積良斎・山鹿素水・古賀茶渓・佐久間象山等の名高い学者に出入りしてみて、「わが学を託すべき」学者はいるけれども、「師とすべき人ない」(普及版巻二、一二五頁)と感じた松陰である。しかし再びここに来てようやく変革の兆しを看て取った今、何の躊躇もなく佐久間象山に師事することにした。同年九月、家兄にあてた手紙の中で「佐久間象山は当今の豪傑、都下一人に御座候・・・慷慨気節、学問あり、識見あり」(普及版巻八、二一五頁)と書いている。象山もまた松陰の人物を見込んで、「天下の事をなす」に足るよう、全力をあげて、その成長を助けた。先年すでにオランダ語をこの人から教わっており、今度もそれは続けたけれども、次に述べるような事情もあって、この方面では大成しなかったようである。西洋砲術については本格的に学習した。しかし最も注目しなければならない点は、象山が世界的視野に立って展開する当今の急務、国策の諸論によって、従来むしろ保守的な傾向において物を考えた松陰が、その姿勢をはっきり進歩的に切り換えたことである。問題の焦点をしぼって、東洋諸国が欧米列強の侵略に屈し次々と植民地化してゆく現状の中にあって、日本の独立をどのようにして守るかだけでなく彼等と対等の地位に立ってわが国策を行うかに主軸を置いて、思想し行動するという姿勢が松陰において確立してゆくのである。安政元(一八五四)年の著「幽囚録」(普及版巻一、三二九頁)はこの姿勢における松陰の思想見解を簡潔にまとめたものと見てよいであろう。

「幽囚録」によれば、幕府はその頃急場の用にオランダから軍艦を購入する計画を立てたという。佐久間象山はこのことを聞いて幕府に意見書を出した。オランダの軍艦を江戸で受け取るよりも、優秀な青年十数名を撰んで彼の国に派遣し、その往復の間に航海術を習得させ、兼ねて海外の形勢を視察させるのが上策であるという。当面の責任者、勘定奉行川路聖謨はこの説に同意し、象山もその門下から候補者を推薦するよう求めた。象山はこのことを松陰には洩らして、その一人に松陰を押したことも知らせた。ところで、この計画は遂に実行に移されないで終った。そもそも幕府の命令によらないで、勝手に海外へ出ることは三代将軍家光以来禁じられていた。難破した者が外国船によって送還された場合、その者は終身禁固に処せられるという厳しさであった。さてこれより先、土佐の漁夫万次郎という者が台風に難破して米国船に助けられ、渡米十年の後、嘉永四年正月送還された。この万次郎は慣例のようには扱われないで、幕府の役人から海外の事情を聴取されたり、薩摩の島津氏に招かれたりといった待遇をうけた。当時わが国には英語を話せる者がいなかったから、嘉永六年十一月には幕府の下役人に登用されることになった。異例の措置である、時勢の変である。

象山はここで漂流して海外に出るという道が開けたとし、有為の青年をしてこの道を行かせようと考えるようになった。もとより大きな冒険である、しかし海外を知ることの必要は今や絶対的である。そこでこの冒険を再び入門して来た松陰に示唆した。罪の償いということを肝に銘じている松陰は喜び勇んでこの呼びかけに応えようと決意した。
嘉永六年九月、松陰は江戸を出発して長崎へと志した。その頃長崎にはロシアの特使プチャーチンが国境問題をもって来泊し幕府の解答を待っていた。松陰はその船を目あてに漂流策を行おうとするのである。十月二十七日長崎に着いたが、聞けばプチャーチンは二日前に出港したという。雄図空しく敗れた松陰は帰途郷里の萩に両親を見舞ったが、年の暮には江戸に着いている。ここで本筋を離れるけれども附け加えて置おかねばならぬことがある。それは往復の途上、京都に立ち寄り、皇居を拝し、梁川星巌・梅田雲濱・鵜飼吉右衛門等尊王派の志士達と面会し、時局や政治に何の関係もあられぬと思っていた天皇が時勢を深く憂えていられることを伝え聞いたのである。このことは松陰のこれからの思想展開に重要な関係があることをここではただ指摘するにとどめて置こう。
松陰は「明春は一戦に相定まり申し候」(普及版巻八、一八九頁)と信じていたのであるが、その安政元年正月、ペリーが昨年の解答を求めて浦賀に入港したとき、幕府には一戦に及ぶ士気も戦備もなくて、その三月下田、函館の二港を拓く和親条約を結んだ。米国と結んだ条約はつぎつぎと他の列強とも結ばないわけにはいかなくなった。軟弱外交だと非難する声は巷にあふれた。松陰も幕府の無作為失政を憤慨した一人であるが、漂流策の必要をいよいよ痛感してその機会をねらった。その頃熊本の友宮部鼎蔵とペリーを斬ろうと謀ったこともあるが、むしろ国家に害をもたらすであろうと思い直してやめたという秘話もある。
(普及版巻四、一六〇頁)
さて途中いろいろなこともあるけれども省略して、三月二十七日の深夜、松陰は同藩の青年金子重之助と共に伊豆の下田港に停泊中の米艦ポーハタン号に小舟で乗りつけペリーに面会を求めた。通訳のウィリアムスが代って面接した。松陰は辞を尽して海外出遊のことを願ったが許されない。近い将来に両国民は自由に往復できる日が来るのであるからその時を待てという。米国としては今の段階では日本の国法を定めたことは尊重しなくてはならないと考えたようである。事、志と違った松陰達は自首して下田の獄につながれ、四月十五日江戸獄に送られた。途中高輪泉岳寺の赤穂義士に捧げる和歌一首、「かくすればくなるものとしりながらやむにやまれぬ大和魂」と。九月十八日の判決によれば、幕府の量刑は意外に軽く、自藩内に蟄居を命じるにとどめた。佐久間象山も関係者として起訴されたが同じ判決を受けた。これはペリーから、有為な青年に過酷な処分をしないよう申し入れたこともあずかって力があったという。松陰達は十月二十四日萩に送還された。判決に従って父の家に帰るのであろうと思っていたのに、潘政府は父百合之助に野山獄を借牢するよう強制した。金子重之助は平民であったから岩倉獄に入れられた。思うに松陰は孫子のいわゆる「彼を知り己れを知らば百戦危うからず」の鉄則に従い、彼を知るために海外に出ようと企てて失敗した。自分では「敗軍すれば一概に下手のように云えども、その曲折を聞かば必ずよんどころあるべし・・・洞春公(毛利元就)・東照公(徳川家康)の名将にてさえ、大敗軍には一騎落ちしたこともあり」(普及版巻十、四六六頁)といっているけれども、兵学者としてはいささか計画が周密を欠き、戦陣の場合とちがって、その失敗の原因のほとんどすべてが松陰の側にあるのではないか。これはまた別な話であるが、同志社の創設者新島襄は安政六年日本脱出に成功した。先ず函館に行き、そこから上海に渡り、上海から米国の船便をえて無事に初志を遂げた。ともあれ、松陰はオランダ語の研究も洋式兵学の研究も半ばにして、獄中の人となり、再び藩士に取立てられる機会を自分でつぶし、兵学的立場からの実践ももはや不可能な状態に自分自身を追いこんでしまったのである。索漠たる終末である。

野山獄小


 (二) 獄中の読書と教育
 獄中の松陰に対する杉家一族の心遣りは、本書に兄梅太郎との往復書簡を集録しただけからもその一端を想像することができる、まことに至れり尽くせりである。松陰はその恩愛のなかに平常心を取りもどし、家兄の差入れる書物をむさぼるように読み始めた。時代の課題をむしろ行動的に解決したいと考えて来たこれまでの行き方をもっと広い立場から見直さなければならない。課題は今日の問題であるが、これまでの行動に中で違和感をもって受け取ったものを思想的に統合しなければならないところへ押しつめられて来た。先年東北遊歴の途次、水戸に滞在して会澤正志斎や豊田天功などの学者をたずね、水戸学の精神に触れ、国史国典の重要さを痛感していたことを忘れていない。いっぽうでは佐久間象山に傾倒して進歩的な時務論に転向し、その結果として海外脱出も企てた。しかもそのために長崎へ下った往復の途次京都に立ち寄り尊王派の志士達と交わって強い感銘を覚えた。松陰はこれらの異なった立場にある人達のいずれにも尊敬の情を感じたが、そのどれか一つの立場を固守するのであれば簡単である。しかしそうするにはそれぞれの立場にある人達から受けた印象と感銘が余りにも強かった。ここに課題の上に課題があることが問題とならざるをえない。それが読書という形で松陰の獄中生活を生気あふれるものとする。
家兄への手紙に「正月早々から多忙々々。(日本)外史も読まねばならず、詩も造りたし。信玄全集も借りたし、(靖献)遺言も覆読しかけた。入蜀記一読、甚だ面白し、今一読と思い候。中庸も始めの方二三枚読みかけあり。大学は一読。詩も吟詠したし。さてそれにどうも唐土の歴史が読みたい」(普及版巻八、四〇七頁)というのがある。この頃の獄中生活を想像し得るではないか。「野山獄読書記」(普及版巻十、三頁)によれば、在獄一年二ヶ月の間に読んだ書物は六百十八冊にのぼっている。その中には国史、支那史、西洋史に関するものが最も多く、経書、兵書、地理書、時務論、詩文類もかなりある。もとより松陰の希望するものが順序よく差入れられているわけではないが、目的を忘れて多岐に迷う段階ではない。
 獄中でいま一つ注目しなければならないのは、同囚と学習グループを結成したことである。「野山獄囚名録叙論」(普及版巻四、一二〇頁)にもあるように、同囚の士分のもの十一名、うち借牢四人、犯罪者二人、その他も親戚間の折合いがわるいからというのでいわば軟禁である。安政二年を以ていえば最年長者は七十五歳、在獄四十八年、最年少者は松陰、その次が三十五歳。在獄年数は十八年、十五年から七年ないし三年といったような状態で、ひとたびここに入れば再び世間に出ることは先ず望めない。獄中には陰惨な絶望的な空気がみなぎっていた。松陰はこういう事態を知るとたまらなくなり、何とかしなければならないと思うようになった。そこで獄中座談会を開いて共に語り、更に俳句の得意な吉村善作・河野数馬、書道漢詩のできる富永有隣に呼びかけて俳句会、書道会を作り、自分は「孟子」の講義を始めることにした。このようなグループができるまでには種々の問題もあったけれども、およそ半年かかってそれらのグループ学習団が成立した。家兄宛の手紙の一節に「吉村は発句を以てし、頑弟は文学を以てし、外に富永氏書法を以て人を誘い候。今はこの三種の内なにかを学び申さぬ人とては之れ無く、かつ孰れも出精の趣きなり」(普及版巻八、四四五頁)と報告されている。「孟子」の講義は四月十二日夜から始められ六月十日で一たん終わっている。そこで今度は同囚達が同じ「孟子」を分担して輪講しようという。松陰も勿論同席した。そして松陰は各章毎に感想を述べ章意を敷衍することにした。名著「講孟余話」はそれを整理して成ったものである。松陰は別に「論語」の、富永は「唐詩選」の、講義もした。司獄福川犀之助は強く松陰の人物に感銘し、弟高橋藤之進と共に松陰から教えを受けるようになり、ここに野山獄はあたかも一つの学校の形をとり、囚人達の人間性も回復され、獄風も改善されるに至った。これは世界教育史上でも稀有な出来事であると云わねばならない。なお松陰は出獄後、これらの同囚を獄から出すために人を通じて藩政府にはたらきかけ、十一人のうち七人が許されるという結果を見ることができた。

  (三) 幽室の読書と思索
安政二年十二月十五日、藩は病気保養を名として松陰を父の家に帰らせた。その十七日夜、幽室には父百合之助、兄梅太郎それに外叔久保五郎左衛門が集った。けだし松陰が獄中で書き始めた「講孟余話」が萬章上篇までしか済んでいなかったので、この三人が講義をきき、余話を完成させようというのである。松陰の感激は察するに余りがある。講義は萬章下篇から始まり、いろいろな事情で断続はあったが翌年六月十三日をもって完了した。この会には叔父玉木文之進が参加したこともあり、またその子彦介その他親戚の青年も加わるようになった。そうして父や兄はじめ右の青年たちは別に松陰と和漢の書を対読したり講読を受けたりもした。
 さて安政三年から二年半ばかりの間、松陰はその生涯のうちで最も平和な幸福な時代を過ごしたといってよかろう。読書と思索、著述と教育に専念する静かな充実した日々であった。しかしそれ故にこそ次に来た狂瀾怒濤の時代への準備された時期でもある。
 日記によれば、安政三年の読書量は五百五冊、同四年は十一月までしか記されていないが約四百冊である。そのうち最も多いのは「史記」・「漢書」以下「明朝紀事本末」に及ぶ厖大な支那史籍である。国史国典の研究は水戸遊歴以来着手し、いわゆる「六国史」はすでに卒えていた。この時期には「中朝事実」・「神皇正統記」・「外藩通書」・「日本政記」をはじめ通俗国史も読み、「古事記伝」には特に力を入れた。なお会澤正志斎・藤田東湖などの水戸学派及び山県大弐・雨森芳洲・平田篤胤などの代表作も読んだ。これらはそれぞれ日本的立場を強調する学者である。松陰はさらに中江藤樹・伊藤仁斎・熊沢蕃山・荻生徂徠などの著作も研究している。その他毛利藩史・詩文・時務論・民政産業から医学の書籍まで及んでいるが、読書の眼目はどこまでも経世的実学に資しようとするにあった。
 松陰は読書の際必ず要点を抄録した。今日保存されている抄録のすべてを印刷するとなれば、岩波版の吉田松陰全集十巻はさらに二巻を増すことになるであろう。もっとも右の全集の第八、第九巻はそれらの一部を収録している。「鴻鵠志」・「明倫抄」・「宋元明鑑紀奉使抄」・「外蕃通略」などがそれである。著作としては前述の「講孟余話」のひかに「叢棘随筆」・「武教全書講録」・「幽窓随筆」・「討賊始末」、安政三年から同五年までの「幽室文稿」がある。
 松陰の読書と思索について述べたいことは幾らもあるが、ここには前に触れて置いた思想的課題だけについて少しく論究しよう。上述したように松陰の読書は学派にこだわらず、儒学については漢籍はもとよりわが国の代表的な著作はじゅうぶんとは言えないまでも一応眼をとおしている。それに実学の立場から和漢の歴史を最も重んじ、自分で実践的な方向を見定めようとした。そうなると先ず本人の人生観の根本が確立していなければならない。それが文章の形をとったものとして「七生説」(普及版巻四、一二七頁)は貴重な文献である。
 宋代の儒学では太極とか理気とかの論に精緻を尽しているが、松陰はそれを知らないにもかかわらず、むしろ逆に自己の体験から出発してそれを理気の説でそれを裏付けようとする。体験というものは、まだ自由の身であった頃、三たび湊川に楠正成の墓を拝したがいつも感動はかわらない。また墓側にある明の遺臣朱瞬水の楠公を弔う碑文を読んで涙をこぼした。楠公と朱瞬水と松陰、この三人が血縁関係もなく、時代をへだてて、国籍をこえて、互いに共鳴感動するのはどうしたことであろうか。三人を共通につなぐのは、根源が一つであるからでなくてはならない。「すなわち知る、楠公、朱生及び余の不肖みなこの理を資りて以てこころとなせば、則ち気は属かずと雖も心は則ち通ずるなり。これ涙の禁ぜざる所以なり」。人間の心は宇宙の理を資ち、身体は宇宙の気を稟けて成る。身体は物であり物欲の宿るところ、その死はその構成分子の分解破裂である、「腐爛潰敗して復た収むべからず」である。心は宇宙の理をうけていて人間は人間として在らねばならぬ道を知り、また知って行おうとする。君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友とその対応関係の中に自分の在り方を見つける。「私は体なり、心は公なり。私を役いて公に殉う者を大人となし、公を役いて私に殉う者を小人となす」。楠公父子は血がつながる点で気もまたつづいているが、心の命ずるところに従って南朝の忠臣として行動した点で理もまたつづいている。楠公と血縁関係のない者も楠公の心を心とするものはひとしく理の世界に共存する。楠公がわれわれを感奮興起させるのは、楠公を忠節に駆りやる理をわれわれもうけているからである。七たび人間に生れて、と楠公はいったが、此の人の忠節に感ずる者の絶えぬ限り、楠公の精神は七たびどころではない、不滅である。人間とは結局この亡びゆく身体を以て理すなわち公なる精神を顕現する座とすることである。松陰はこれまで幾たびか失敗をしたけれども、志すところは「聖賢の心を存し、忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼす」にあった。この志は私利私欲の私でなく、「この心すでに楠公諸人とこの理を同じくす」るのであって、「必ずや後の人をしてまた余を観て興起せしめ」ようとするにある。これは大言壮語であってはならない、自分の生きている間にどれだけ公の道に自分を捧げることができたかによって決まることであるから、七生説は「ああ、これ我に在るなり」と結ばれているのである。
 公の道は世界に共通のそれと、一国一身に独特のそれとがある。「講孟余話」(普及、巻三、四四一頁)に「道の大本をいわば、人と生れては人たる所以を知り五倫を明らかにし、皇国に居ては皇国の体を知り、本藩に仕えては本藩の体を知り、以て根基を建て、さてその上にて人々各々その職掌を治むべし。儒官は経史を博覧精究し、天文家は天文、地理家は地理、医家は医術、画家は画法、また弓馬刀槍銃砲各々その技芸を以て専攻の家業とする者は更にその精妙を究め、その他士は士、農は農、工は工、商は商、みなその職掌を治むるなり。かくの如く大小網目井然画定する上は西洋究理学の如きもまたおのずから世に廃すべきにあらず」とある。五倫の道は、松陰に従えば、万国共通であり、わが国体、毛利藩の在り方は一国一藩の独特なものであり、各種職掌は皆一身の独特の拠って立つところである。
 次に松陰の国体観は初めは兵学者らしく、しかも当時欧米列強の武力政策とも対応して、幕府は天皇の下に征夷大将軍の任を負い、国力を充実して兵を強くし、外国に対して屈従的政策をとらないばかりか、進んで弱国を併合して皇化に浴させるようにするのが、久しく忘れられているけれども、わが国体であるとしている。次に松陰は「古事記伝」の著者本居宣長から強く影響をうけたようで、天照大神の神勅をはじめとするわが国の肇まりについての神話をそのまま信じる一種宗教的な立場において天皇の絶対を信じている。大日本は神国なりといって北畠親房と同じ根本の信念に立っている。支那で先王の道といってものがわが国においてのみ実存し「皇朝は万葉一統にして・・・人君は民を養いて以て祖業を続ぎたまい、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致なるは、唯わが国を然りとなす」(普及版巻第四、二〇頁)と要約し、ここでは明らかに水戸学の思想につながっている。以上は江戸時代に末期までに到達した日本の学問上の国体究明における結論というべきものを松陰が採って自己の見解に統一したのである。現実には幕府のもとで天皇は軽んぜられ、諸大名はまた幕府の命のままに動くだけである。ここにもと朝廷と深い関係にあって政治の枢機に参与したが、広元にいたり源頼朝を佐けて幕府を開かせた大江氏の子孫である毛利氏の在り方について松陰は考えるのである。毛利元就の時代から孫の輝元時代まで、毛利氏は中国地方の大部分を領有した雄藩であり、尊王の大義もおろそかではなかった。しかるに輝元は関ヶ原の戦いに豊臣方に加わって敗れ、領土も防長二国にせばめられて、徳川氏の外様大名となって二百余年を経過した。長州人の中には関ヶ原の敗戦を忘れ得ず、何時か機を見て徳川氏への屈従をはね返し、毛利氏がとって替ることを謀るべきだと力む者も少なくなかったらしい。松陰は「この論余が深く痛心するところなり。およそ七道の諸藩いずれか天子の命を奉じ、幕府の令に従う者にあらずや」(普及版巻三、四九頁)という。しかし現実には天子の命を奉じて事を運ぶという体制ではない。このような体制は鎌倉幕府創設以前にあったことで、江戸時代の今において討幕論者でない松陰としては幕府が天子の命を奉じて政治を行う変革を心にえがかなければならない。その際諸般の大名が幕府に対して強くその変革を要請することが、封建社会の秩序を守る限り、穏やかな道である。松陰は朝廷との関係の浅くない毛利氏こそ率先してこの任に当たるべきであるとし、毛利藩主をそのように考え直してもらうように政務の首脳部を動かさねばならないと考えたのである。「先ずわが大夫(家老)を諭し、六百年の罪と今日忠勤の償いとを知らせ、またわが主人(藩主)をしてこれを知らしめ、主人同列の人々をして悉くこの義を知らしめ、それより幕府をして前罪を悉く知らしめ、天子へ忠勤を遂げさするなり」(普及版巻八、五一八頁)。ここで注目しなければならない点は、このような変革論の着手の処に松陰自身が立っていることである。評論家の評論とは根本的に違う。そうしてその根底には「世の君に事うることを論ずる者謂えらく、功業立たざれば国家に益なしと。これ大いに誤りなり。道を明らかにして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云え、君に事えて遇わざる時は諫死するも可なり、幽囚するも可なり、餓死するも可なり。これ等の事に遇えば其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず永く後世の模範となり、必ず其の風を感観して興起するものあり」(普及版巻三、一九頁)という思想がある。封建制度の中の改革論者松陰はこのように自己をギリギリの一線にたててものを考えたのである。
 なおこの時期の松陰の思索で重要と思われるのは、時局を憂える心と天朝を憂える心との本末についてである。兵学者松陰は外国の圧力に先ず着眼し、国家の独立の脅かされることを憂えた。そして図らずも京都の尊王派の志士と交わるようになって天皇の深き憂えの趣きを聞いた。時局を縁として天皇の憂えを知ったのである。従って天皇は松陰においては無意識にではあっても時局打開のための機勢としての意義において見られた。時局が平穏であれば天皇の存在には思いも及ばぬですんだであろう。松陰はそのことに気づかないでいた。安政三年八月、安芸の僧黙林が萩に来て、松陰との数次の書簡往復の間に、矍然として始めて悟った。「従前天朝を憂えしはみな夷狄(外敵)に憤をなして見を起せり。本末すでに錯う、真に天朝を憂えしにあらざるなり」(普及版巻四、一八六頁)。国体が本で、時局は末だという思想の転回である。時局対策として、例えば攘夷論とか開国論とかを唱えても、それは尊王論に基かなければならない、尊王の一点で国民が統合されていれば、時局の対策は攘夷開港いずれでも、その時の宜しきを制すればよいのである。事実松陰自身も、学校に外国語科や航海科を設けるとか、西洋究理の学を入れるべきであるとか論じており、またわが国史研究によって江戸幕府の鎖国以前は海外の諸国と交わっていたことを挙げている。これらは佐久間象山から承けた進歩的な思想に根差しており、背景には勿論開国論がある。松陰は処刑の前日に書いた「留魂録」のはじめの方に、幕吏が予審調書の中に、松陰の主張した航海雄略のことを記載していないのを不満であるとしているが、航海は積極的に海外に乗り出すこと、雄略は海外文化の採用、国力の充実、そして次第に隣国から始めてアジア諸国や濠州をわが国威の下に置こうとする政策である。これは欧米列強の武力政策に反発する松陰の兵学者的対抗である。「鎖国の一条は時勢御察観成され御変革これなくては皇国御興復はとても出来申さず」(「愚論」普及版巻五、一五三頁)というのはこの立場においてである。とはいえ、当時わが国の国力は衰え士気は振わず、外圧に屈服していつ欧米の属国になるかも解からないような状態に在った。これを百八十度転換して航海雄略の国策に切替えることは難事のなかの難事である。松陰はここで「鎖国を開き候には墨夷丸に御拒絶なされず候ては、御国威立ち申さず」(同上)という。「愚論」が書かれた五月下旬にはまだ調印はしていなかったとはいえ、すでに議定されていたことであるから、これを破棄することの困難は承知の上での発言である。結局両国の開戦を予想し、これによって国民の士気を振い起し、団結を固くし、従来の消極的態度を積極的に転換しようとする。孫子の「これを死地に陥れて然る後生く」という冒険である。開国論に立ちながら攘夷論を主張するのであるいかにも暴論のようであるけれども、松陰没後四年の文久三年四月には、将軍家茂はその五月十日を以て攘夷開始の期限とする旨を天皇に奏し、各藩へも布告した。そうしてその日長州藩は馬関沖で米船を砲撃し、次いで米仏蘭英四ヵ国の連合艦隊との海峡戦に突入した。

150625松陰と幕末明治の志士たちアマゾン写真160621松下村塾塾舎



  (四) 松下村塾
 父兄や親戚の者を相手に読書し講義するという様式は松陰自身の読書と思索の一部を成したことはすでに述べた。安政三年もこのようにして経過してゆくが、私としては特に、八月山鹿素行の「武教小学」を講じ始めたことに重要な意義を認めたいのである。「丙辰日記」はこの八月二十二日から筆を起しているが、その初めに「午後、武教全書を開講す。外叔久保翁、家大兄、佐々木兄弟、高洲滝生、従弟毅甫これに会す」とある。「武教全書」とあるが日記の進行を見ると先ず「武教小学」を講じている。佐々木亀之助・弟梅三郎・高洲滝之丞・玉木彦介みな親戚の青年である。松陰はこの年も読書日記は継続しているが、この「丙辰日記」(普及版巻一一、八四頁)はいわば教育日記である。
 松陰はあたかもこの頃「松下村塾の記」を構想中であった。松下村塾は、天保十三年叔父玉木文之進がその私塾にかかげた号であるが、数年後公務のため閉鎖し、多分嘉永年代になって外叔久保五郎左衛門がその家塾にその号を用いて安政三年に及んだ。この久保翁が松陰にその塾の記を作るよう依頼したのである。「丙辰幽室文稿」に収めた「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)は九月四日に成っている。この文において松陰は教育の目的を論じ、青少年の在り方と使命にまで及んでいるが、その終りの方に「余は罪囚の余、言うに足るものなし。然れども幸に族人の末に在り、その子弟を糾輯して以て二先生の後を継ぐがごときことあらば、すなわち敢て勉めずんばあらざるなり」とある。外叔の塾の記を作ってこのようなことを書き加えるのはいかにも非礼のようであるが、実は久保翁の意志がそこの在ったからのことであると見られる。しかし謹慎中の身分をはばかり、松陰はこの次の年十一月自分の私塾にあてる八畳一室がたてられたときも「久保氏の新塾」という呼び方をしている。この建物ができるまでは杉家の客室が教授の場となっていた。ついでながら松陰の松下村塾は安政五年三月さらに十畳半を増築し、同年七月に至って漸く藩府から家学の教授を許可されている。安政三年十月、岩国の奥地山代から入門した増野徳民が、親戚でない者として初めてであり、次いで近隣の吉田栄太郎、松浦亀太郎が来た。徳民は医、栄太郎は足軽、亀太郎は商家の出で画家を志した。ここに初めて士分でない者を加えたことになる。そうして三人が松下村塾拡張のために活躍して次第に有為な青年をここに集めるきっかけを作った。中谷正亮・高杉晋作・久坂玄瑞・尾寺新之丞などが入門したのは安政四年になってからである。
 ここで塾の発展していった経緯については述べないが、安政五年十一月二十九日藩命によって塾を閉鎖するまでの間門人の列に加わった者は八十名前後であると推定される。そのうちで松陰の書いたものにしばしば出るのは次の二十数名である。
 高杉晋作(十九)、久坂玄瑞(十八)、入江杉蔵(二十一)、吉田栄太郎(十七)、佐世八十郎(二十四)、岡部富太郎(二十七)、福原又四郎(?)、松浦亀太郎(二十一)、増野徳民(十六)、有吉熊次郎(十五)、作間忠三郎(十五)、品川弥二郎(十五)、天野清三郎(十五)、国司仙吉(十二)、時山直八(二十)、杉山松介(二十)、山県小助(十八)、玉木彦介(十六)、中谷正亮(二十七)、尾寺新之丞(?)、伊藤利助(十七)、野村和作(十六)、冷泉雅二郎(十七)、僧提山(十九)、馬島甫仙(十四)、山田市之充(十四)
氏名の次に括弧して記した数字は安政四年における数えの年齢で、このうち数人は安政五年に入門したものである。なお桂小五郎、のちの木戸孝允を門人に加える著作家もあるが、嘉永二年の兵学門下であって松下村塾では教育を受けていない。
 当時は階級性がきびしく藩学明倫館は士分の者以外の入学は許さなかった。松陰の塾ではそうした差別はしない。上記二十七名のうち出身別にみると士分十六、足軽七、医二、僧と商各々一である。入江杉蔵、吉田栄太郎、野村和作、品川弥二郎、伊藤利助、山県小助等は足軽出身である。
 さて松下村塾の教育目的は「士規七則」(普及版巻四、一九頁)、「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)などで明らかなように、人倫国体を弁えて士道と士行の活躍を期待した。だから家格にかかわらないで人材の登用の要を力説した上書もある。テキストとしては漢籍もかなり多く用いたが、「異国の書を読めばとかく異国の事をのみ善しと思い、わが国をば却って賤しみて異国を羨む様に成行くこと学者の通患」(「武教全書講録」普及版巻四、二一〇頁)あることを戒め、大言壮語することを止めて着実に下手即ち実行の端緒を求める態度を要請しようとする。士道は義に、士行は質実で欺かないところに立つという。以上が根本的思想であって、その限りにおいて甚だ倫理的色彩が強い。併しながら松陰の特色はこのような根甚をふまえて人各々の職分と個性に応じて自分のはたらく分野を見出し、そこに必要な知識才能を身につけなくてはならないとしたところにある。根本思想においてすでに立身出世的な利己主義を排し、公に奉ずる精神を強調する松陰は、この時代の危機感において政治外交経済などの問題を大胆に取り上げ、国政改革への方向と方法を探求する知性と情熱を盛り立てようとした。このようにはっきりと自己の立場を明らかにして政治教育を行ったことは、教育史上松陰の著しい特色である。もっとも一人一人の才能個性や家庭の事情等により国事にはたらくこと以外にも人間として生きる道のあることを示し、励ましたことはいうまでもない。松陰は文武・心身の教育の調和に心を配り、とかく文と精神に偏し易い当時の私塾としてはめずらしく野外演習、水泳、撃剣を奨励し米搗き、耕作などもさせた。また塾生間の敬愛に基づく協同社会的関係の設定には最も注意し、その結果松下村塾の教育は驚くべき成果を挙げた。個性的指導と協同社会性の陶冶、この両面が塾教育成功の方法的原理と見てよいかも知れない。個性の指導についてはここに詳述し得ないが、本書中にはその指導例が豊富に収められているから、就いて考察されるように望みたい。なお共同討議法を活用したこともこの塾の特色として挙げられるであろう。
 松陰主著の原文を読むとき、そこには大成した学者が未熟な青年を静かに教えているといった趣よりも、未完成な、自分自身もなお日々自己反省と向上をしなくてはならない青年が、その未完成な学問と思想を以て若い生命にぶつかっているという生々しい印象を受ける。「妄りに人の師となるべからず、また妄りに人を師とすべからず。・・・師弟ともに諸共聖賢の門人というものなり、同門人の中にて妄りに師といい弟子というは第一聖賢へ対して憚りおおきことならずや」(普及版巻三、一三八頁)。松陰にとって門人達は同志でありわが友である。しかも「気体血肉皆吾れと連接する」(普及版巻九、二四四頁)友である。
 松下村塾は英才教育の場であったという誤解がある。黙林への書簡に「若し僕幽囚の身にて死なば吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をが後世に残し置くなり。子々孫々に至り候わばいつか時なきことはこれなく候」(普及版巻八、五一九頁)烈しい執念にも似た悲願は、これを教育によって実現するほかないし、それに称う者は正しい意味での英才でなければならない。そのような英才を松陰が強く求めたことは当然である。入江杉蔵に塾生の人物評を書き送った中に、高杉晋作・吉田栄太郎・久坂玄瑞の三人を挙げ、「人の駕御を受けざる高等の人物也・・・吾れにおいて良薬の利ある、まさにこの三人を推すべし」とある。(普及版巻六、一二四頁)この三人に入江を加えて松門の四天王とも呼ばれたという。しかしながら塾を開いたからにはそのような英才ばかりを待つのではない。「来る者は拒まず去る者は追わず」というのが松陰の態度であった。だから吉田栄太郎が連れて来た市之進・溝三郎・音三郎等は悪くすると村の不良青年になりかねない傾向さえ持っていた。義務教育制度でないあの時代のことであるから、全然その志のないものが入門することはなかったであろうが、いろいろな資料から察せられることは、普通の知能の青年がやはり多かったようである。大者は大成し、小者は小成する。教育は遺伝的素質の大小をどうすることもできるのではない。唯各々の持ち前を成らせることにだけに関与する。そうして松陰はそのことに成功し、能力相応の人材を育成した。それらの中から幕末の改革的運動の指導者も出たが下働きをした者もでた。前にあげた四天王はよく松陰の志を継いでこれが実現に奮闘したが悉く維新前に殉難した。幸に生き残った人達の中に前原一誠・山田顕義・野村靖・品川弥二郎・伊藤博文・山県有朋等の大臣を出したからといって、それは英才教育を目標としたというべきではない。松陰は一人一人を大切にして、人間らしい人間に育てあげることをねらいとしたのである。

(五) 狂瀾怒濤
安政五(一八五八)年四月、井伊直弼が幕府の大老に就任した。幕府では、懸案となっていた二つの重要問題の解決をこの大老に期待したのである。その一つは、前年十一月、米国の総領事ハリスに迫られて日米修好通商条約を議定したが、勅許を得ることができないままになっていた。その二つは、将軍の継嗣として水戸徳川斉昭の子の一橋慶喜と紀伊の徳川慶福(家茂)が候補に擬せられていたけれども、それぞれに有力な支持が対立して決定されないでいた。井伊大老はその六月この二つの困難な懸案を一挙に解決した。一は勅許を経ないで新条約に調印し、二は尾張・水戸など徳川親藩の反対を押し切って慶福を将軍の継嗣と決めた。大老には大老としての見解があってのことと思われるが、心ある人々にとってこの処置は予想外のことであったから、にわかに激しい反対論が沸き立ち、殊に勅許を経ないで条約調印という点で尊王派の志士達は激怒した。これに対して井伊大老は水戸や尾張の藩主等を罰し、京都には間部老中を遣わし、志士達を捕えて獄につなぐという弾圧手段に出た。これが導火線となって、封建体制下の複雑な各藩の事情を踏まえて、しかも当時英仏両国軍が、隣国支那を屈服させた余威を仮りてわが国にのしかかろうとする勢を示し始めた中に、尊王と佐幕、開国と攘夷と一見相容れない主張を楯に論戦が展開され、志士達の暗躍が活発になり、中には過激な行動にまで爆発する者もあり、世を挙げて一大混乱が始まった。明治維新への狂瀾怒濤の時代である。
 松下村塾は時代の課題と取り組む実学的立場に立っていたから、このような時代の激変に対処する一人一人の姿勢を問題とするのは当然である。あたかもよし、当時藩政府はむしろ進歩派と見られる人達で構成されていた。その首班は家老増田弾正で松陰の兵学門下、その下の実力者周布政之助や前田孫右衛門・井上与四郎も松陰の支持者である。従って塾で討議したことのうち、藩政につながる事項は意見書として提出すれば、藩は好意的に検討し、時にはそれを藩の方針として採用さえする。だから塾での討議はいわゆる書生の空論に終ることを許されない。塾生達はその共同討議の持つ意味をよく理解し、責任感と自尊心のうちに、それぞれ一人一人を形成していくのである。
 討議資料の問題がある。あの僻地の地では刻々に変動する時局の情報が手に入らぬのではないかと一応は想像される。ところが正確な情報入手と現状視察の必要についての松陰の建策は藩も採用して、多くの人材を江戸や京都に派遣していた。安政五年七月までに松下村塾からこれらの地に出かけていた者を挙げるなら、中谷正亮・久坂玄瑞・入江杉蔵・吉田栄太郎・松浦亀太郎、それに高杉晋作がおり、この月また形勢視察のため潘から京都に出張を命じられた六人のうち、杉山松介・岡仙吉・伊藤利助・伊藤伝之助は塾生である。その他松陰の友人も幾人か出かけている。これらの者から送ってくる情報や資料、それに藩政府の実力者に質して得た情報がある。それらを資料として共同討議は行われる。松陰はこれまでに述べたような基本的立場に立って討議の方向を示し、筋金を入れる。しかし決して無理に自分の流儀に引込もうとしたのではない。安政五年二月頃、塾生の討議が或る結論に達したところ、高杉が後にこれを聞いて反対論を唱えた。松陰はその言に従って塾の結論を採らぬことに決めた。高杉への書簡に「近日の議の如き、清太(久保)諸友その説なきにあらず。然れども鋭甚だ過ぎ、すなわちこれを疎脱に失す。足下の一言これを阻むことなかりせば、僕ほとんどまさに大事を誤らんとす。事過ぎてこれを思えば、大夢の一覚の如し」(普及版巻五、一一二頁)とある。
 ここで注意したいことは、右に述べたように、安政五年になると塾の俊英は次から次へと京都や江戸に出かけて、塾には年少者か凡庸者しか残っていないという事態である。殊に高杉・久保・入江・吉田等が一人もいないことになっていると松陰の論敵は先ずなくなってしまう。それに時局は変化する、憂うべき情報はしきりにはいって来る。共同討議といっても松陰の独擅場になり、年少未熟な塾生達は引きずられるばかりになる。松陰の焦燥感がつよくなるに随って考え方は激烈になり、計画は疎漏になる。門人達に反論する力はないけれども、内心では常に必ずしも納得しているとは限らぬこともある。ぐずぐずしていると松陰の怒りを買い、決意をにぶらすと命が惜しくなったかと責められる。十月十九日萩に帰った入江杉蔵が江戸の吉田栄太郎に送った手紙の末尾に「栄太早々帰れ、先生のもりに困る人ばかりなり」(全集巻六一一三頁)とあるのはこの間の消息を伝えるものであろう。
 八月二十二日、京都から密使が萩に来て、いわゆる戊午の密勅を藩政府に手渡した。幕府に万一不義のことがあった場合、京都の守護を要請したもので、水戸ほか十四の藩に下ったのである。当時井伊大老は天皇を彦根に遷す意図があるとの流言が長州にまで飛んでいた。藩としては極秘のうちに事を議し、翌月周布政之助を京都に上らせ、勤王派の公卿達を訪ねて藩主の意を伝えさせた。このことから藩は次第に松陰にも洩らされぬ秘密をもつようになり、また藩の方針とは異なった行き方の言論や行動を警戒するようになる。京都や江戸に在る藩の士卒、その中には松下村塾の門人もいたこと前述のごとくであるが、それらの者に対しては警告を与え妄動を戒めた。松陰に対しても周布はその家兄を通じて、勤皇の事は藩においてすでに計画は立っている、来春藩主参勤で江戸に出てからそれは着々と連ばれるのであろうから、この際書生の妄動は慎まねばならないと伝えた。この時点における藩の方針は、「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖宗へ孝道」という原則に立ち、公武一和の方向に周旋するに在った。それは松陰の思想から示唆されたもののようである。例えば松陰のこの頃書いたものに「大義を議す」という論文がある、その一節に「今日に務は大義を明らかにするに在り。大義すでに明らかなれば征夷と雖も二百年来恩義の在るところ、当に再四忠告し勉めて勅に遵わんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまわず。征夷翻然悔悟せば決して前罪を追咎したまわず。是れ吾れ(長州藩)・長幕府の間に立ちて之が調停をなし、天朝をして寛洪に、幕府をして恭順に、邦内を協和に、四夷をして懾伏せしむる所以の大旨なり」(普及版巻五、一九四頁)と。松陰は対立闘争でなく反省和解の途を強く願っているのである。公武一和という言葉は当時いろいろな立場の人によって使われたが、松陰は大義を明らかにするという立場においてこの言葉を用いた。藩の方針にはもっと現実的な打算があったかも知れない。
 松陰はこれより先、京都の公卿大原重徳を長州へ迎える策を立てたり、梅田雲浜門下の赤根武人が松陰を訪れたとき、再び亡命して京都に潜入し雲浜がつながれていた伏見の語句を破壊する策を授けたりしたが、共に実現はされなかった。今周布から、藩主江戸に下り勤皇のことに周旋すると聞かされて満足するどころか、不安を感じないでは居られない。藩主を危地に陥れることを恐れずに居られない。藩主の出馬より前に藩士が動き、素地をつくった上で藩主を迎えるべきと考える。そこで松陰は来年の参勤延期論を唱え、一方では再び大原重徳を迎えて長州で義挙を起そうと企てる。野村和作と田原荘四郎をその使として出発させたが、田原が裏切って、京都の長州藩邸に密告したため野村は追い落としの命をうけた。
 十月の終り頃、尾張・水戸・越前・薩摩の四藩が連合して井伊大老暗殺の計画を立て、長州へも協力を求めて来たという情報が入った。勤皇の魁を以て自ら任じる松陰はこれを聞いてじっとしてしては居られなくなった。塾生との討議はこの魁の問題を中心に重ねられた。そして十月下旬に至って一つの計画が成立した。京都に滞在して勤皇の志士を逮捕し、朝廷に圧力を加えて正義の公卿を斥け、条約の勅許を得ようとする老中間部詮勝を要撃しようというのである。前に引用した入江が「先生のもりに困る」といって手紙を書いたのはこの頃である。この計画には十七名の塾生が血盟した。その姓名は三人だけ解かっているが、その他は記録がない。しかし多分青年組のほとんど全員であったと想像される。ともかく十七名は十二月十五日入京の予定を以て準備にとりかかった。いうまでもなく謀は密でなければならない。ところが松陰は事成れば藩主が続いて出るきっかけを作り、事敗れるならば十七名が罪を負うても天下の正気を奮い起すに足ると自信し、近頃藩の方策に苦慮しているらしい周布政之助や前田孫右衛門等を励ますに足るとでも思ったのか、十一月六日にこの秘密計画を二人に内報し且つ許可と援助を求めた。前田は賛意を表したというが、周布は驚き憂え、また松陰の身の上も案じ、その兄や友人を通じ百方手を尽くして思いとどまらせようと努めた。しかし結局それが空しい努力に終ったので、十一月二十九日藩主に乞うて松陰の厳囚を命じ、ついで十二月五日借牢の形式で野山獄に入れるよう父百合之助に内命を発した。このことについて門人作間忠三郎・吉田栄太郎・入江杉蔵・佐世八十郎・岡部富太郎・福原又四郎・有吉熊次郎・品川弥二郎の八名は憤激し、周布政之助、井上与四郎の邸に押しかけ罪名を明らかにせよと迫ったが、代理者しか出会わず要領を得なかった。次の日この八人は暴徒としてそれぞれ自宅に謹慎を命じられた。松陰の父はその頃重病の床に臥していたので松陰は看護のために入獄の延期を請うて許され、その二十六日ほぼ安静を得たので入獄した。こうして松陰の主宰した松下村塾は閉鎖された。
     留題村塾壁   村塾の壁に留題す(普及版巻五、三七一頁)
  宝祚隆天壌   宝祚は天壌と隆え
  千秋同其貫   千秋その貫を同じくす
  何如今世運   如何ぞ今の世運
  大道属糜爛   大道は糜爛に属す
  今我岸獄投   今我れ岸獄に投じ
  諸友半及難   諸友半ば難に及ぶ
  此挙旋可観   この挙旋観るべし
  東林振季明   東林は季明に振い
  太学持衰漢   太学は衰漢を持す
  松下雖陋村   松下は陋村と雖も
  誓為神国幹   誓って神国の幹と為らん
東林は明末に、太学は漢末に起った義党の名である。万世一系の天皇をいただくわが国も、今や全くすたれた。その中に松下村塾徒が松陰の入獄前に示した正気はやや観るべきものがある、東林党や太学党がかつて示したような意気を観ることができる。松本邑は陋村であるが、誓って神国の幹となる人物がいることを信じて、自分は安んじて獄に入るという意味であろう。


  (六) 死の教育
獄中の松陰はやがて新年をむかえ、再び読書の時間を得たことを喜び、同囚と読書の会を始めもした。しかし先年在獄のときとはちがって、時局の切迫感が強く、悠々自適というわけにはいかなかった。間部老中は京都における活動に成功し、去年の大晦日、攘夷猶予の勅許を得た。その前日、水戸の関鉄之助・矢野長九郎が前藩主斉昭の密使なるものをもたらして、藩府の重役に面会を申し入れた。当時周布・前田等は京都に出張中であって、藩は代理人を以て水戸との連携を辞退した。二人が萩を去って数日後の正月十五日、播磨の大高又次郎と備中の平島武二郎が萩を訪れたが、藩では大高が梅田雲浜の門下であると聞き面会を拒んだ。この二つの事件について、松陰は小田村伊之助に善処するよう要望したが、いずれも徒労に終わった。その小田村は松陰の妹婿で当時松下村塾の世話をしていたが、松陰から前に述べた大原重徳西下策の実行を促されたのに対して、塾生達と討議した結果を松陰に報告して「これは炎火に投じ候迄にて塾中の志かの卿へ未だ通ぜず候内早く執捕を受け申すべくや」といい、井上与四郎・周布政之助、次いで北条瀬兵衛が上京したのは皆長州藩士の妄動を警戒するためであるから「多分事成り申すまじく候」(普及版巻九、一八七頁)と結んでいる。折も折、正月十四日頃、江戸の高杉・久坂・中谷・尾寺・飯田の五人連名血判の書簡を受け取った。これは去年十二月一日に認められたもので、松陰の間部老中要撃策を時機が早すぎるという理由で思いとどまるように諌める趣意のものであった。
 小田村の手紙にしても、江戸の五人からのそれにしても、松陰の勢込んだ心持とは全くちぐはぐである。どうしてこんなにも意気地なしになるのだろう。「江戸居の諸友・・・皆僕と所見違うなり。その分かれる所は僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積り」(普及版巻九、一九二頁)と松陰はいう。今はその時機でないというのは行動の結果が功業にならないで、逆に処罰を受けることになりそうだからである。失敗するに決っていることに命をかけるのは犬死であると考える。治まった世であれば忠義がそのまま功業になることもある。今は乱世であり、国家の危機である。忠義一途の心だけが危機を済う。功業を立てようとする心は利己心に外ならぬ。幕府や藩府が因循姑息であるのも自己保存の利己心を超えて国家の危機を救おうとする誠の心に至らぬかららである。それを非難攻撃する者は、天朝のためにとか国家のためにとか口では唱えていても、肚の底では功業を立てたいという利己心が動いているのではないか、と松陰は思うのである。この問題はそう簡単に割り切れるかかどうか、にわかに決めにくいことであると思われるが、この頃の松陰はこのような見方で人を見たのである。そうして友人や門人の誰れ彼れを怒り罵り、憤り悲しみ、結局は絶望の底に孤独な自分を見つめざるを得なくなる。
 「平生の師友最も敬信する者交々吾れを遺棄し、交々吾れを沮抑す。尊(王)攘(夷)なすべからざるにあらず、吾れの尊攘を非とするなり。尊攘自ら期してしかも尊攘を非とせらる。吾が事已んぬ」(普及版巻六、一〇八頁)といって、松陰は絶食に入ってしまった。正月二十四日である。家族親族も友人門下も皆心配して思いとどまるようにと手紙を書いた。幸にその二十六日に、松陰の罪名問題で謹慎を命じられていた入江杉蔵・吉田栄太郎・野村和作等が解除されたと聞いて、絶食はやめることにした。
 さて藩主はこの三月、東勤の途に上る予定である。松陰は昨年の冬「己未御参府の議」を書き、違勅の幕府へ参勤することは正義に負くばかりでなく、形勢不穏の今、藩主の身上の安全も測り難いから延期されるよう意見書を潘府へ出した。それに昨冬野村・田原が密使となって京都で大原重徳に面会したとき、来年三月、長州藩主を伏見に待ち伏せて京都に伴い義挙をはかるつもりである、と松陰に伝えよと云ったことが気にかかる。あたかもそれを裏書きするかのように、正月始め萩に来た大高・平島は、去るに臨み、同志三十名と共に伏見に長州藩主を待っているといった。そのときも大原重徳の名が出された。松陰にとっては江戸に着くまでの藩主の安否が先ずもって憂慮される。藩主の側近に正義の士がいないと見て、誰か私に伏見に赴き万一に備える必要を感じる、塾生のうち誰かを行かせたいと思って誘いをかける。その頃江戸から帰った久坂・松浦は松陰の意見に反対である、佐世八十郎も途中で志を変えた。ところが謹慎を解除されたばかりの入江杉蔵は松陰と同意見で、事に当ろうと申し出た。しかしその入江も老母や妹のことで思い悩み、結局弟の野村和作がこれに代ることとなり、二月二十四日にこの大任を負うて出発した。
 しかるに、この秘密は野村の母から佐世へ、佐世から岡部富太郎へ、岡部から小田村へ、そうして小田村は藩主の出発も近いので事態を憂えてこれを藩府に告げた。藩府では狼狽して田原荘四郎を追手として野村を追わせ、兄の入江杉蔵を獄につないだ。こうして入江の孝心はふみにじられ、松陰の謀も妨げられることになったが、事ここに至る経過に与ったのは悉く松下村塾の門人であり、また親友の小田村である。松陰の憤激と失望は察するに余りがある。「平生の所謂同志今はすなわち国賊なり」(普及版巻六、二二六頁)と怒り、小田村・桂小五郎・久保・岡部・佐世・松浦・福原等と絶交する。作間・増野・品川の三人は松陰の志に同じて、入江との連絡やその家族の慰問にあたった。吉田栄太郎は松陰が最も愛しまた期待した青年であるが松陰入獄後同志との関係を絶ち、松陰の幾度かの呼びかけに対しても沈黙を守って動かない。こうして教育者として最大の苦悩の日が続く。そのうち野村は三月二十二日萩に帰ったが、直ちに兄のつながれている岩倉獄に入れられた。その報告によれば、京都で大高・平島に会い、ともに大原重徳を訪うて事を議した。大原はまだ時機が熟しないからといって決行をしぶり、大高等もこれに同意した。こうして野村は窮地に立ち、遂に京都の藩邸に自首して萩に送りかえされたのである。大原や大高等は慷慨家ではあったが実践力の足りないところがあるのに、松陰は容易に人を信じる性格であったところにこの喰い違いが起ったとも見られる。しかし野村が長州藩にも義を知る人のあることを身を以て示した功績は認められなければならないと松陰は褒めている。
 これから松陰は獄中に在る入江と野村を死に誘って三人で義死を遂げ、長州藩の正気を振い立たせようと思い立つ。すなわち野村の取調が始まったらこの策の首謀は松陰であることを潘府に申し入れ、野村を代りに上京させた入江と共に処刑をうけようというのである。自分の死が友人や門人に与える積極的影響を固く信じて死を求める心がしきりりに起こる。ところが四月七日に至って一転機に達する。「要駕策(伏見で藩主の駕を待ちうける策)を題にして死を請うの説、思うて見るに、微功を書き立てて上進を求むると同様なり」(普及版巻九、三二四頁)と入江に書き送っているのがそれである。功業を求めるのは利己心であると門人達を責めた松陰は、命がけである点は異なるけれども、やはり自分の行動に誇る私心は離れてはいなかった。上進は求めて与えられるものであってはならないように、死も亦こちらから求めるべきものではない。この頃松陰の説得にも拘らず、入江杉蔵は母への孝養に専念したいと願って已まない。忠義一本の松陰にとっては孝心一本の入江が厚い壁となって立ちはだかる。「士規七則」では忠孝一致でわが国においてのみあるといったけれども、それは決して容易でないことを思い知らされる。陽明学派で仏教にも出入りしていた明の李卓吾の「李氏焚書」や「続蔵書」を貪るように読んだのはこの頃である。李卓吾の童心説は純一無垢の天真であり、松陰のいう「真心実意」(普及版巻六、一二二頁)であろう。しかも仏教の影響もあってか、常に執着を離れ己を超える工夫をし、再び俗世間に帰って人それぞれの立場において生かし、自然に感化が行われるようにと説くのである。松陰は李卓吾から多くの啓発をうけたといっている。入江に与えた手紙に「死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在りては獄で出来ることをする。獄を出てはでて出来る事をする。時はいわず勢はいわず、出来ることをして行当つれば、又獄なりと首の座になりと行く所に行く。吾が公に直に尊攘をなされよというは無理なり。尊攘の出来る様なことをこしらえて差上げるがよし」(普及版巻九、三五○頁)といってあるところに心境の変化が見られるようである。
 しかし更に一歩を進めて考える。「肉食者は鄙なり」という語がある。幕府も藩府もその重要な地位に在る者は肉食者であるが、彼等は今の制度が存続する限り肉食者であり得るのである。だから保守的になり、固陋すなわち鄙となる。松陰の意図する大改革の具体的な計画は必ずしも明確ではないが、幕府や藩府が固陋を死守しようとするのであれば、その点が先ず攻撃の目標とならないわけにはいかない。これまでは反省悔悟によって改革が可能であると考えて来たが、今や肉食者は遂に鄙なりと断定し、野村への手紙に、「義卿(松陰)、義を知る、時を待つ人に非ず。草莽の崛起、あに他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ、只六尺の微躯が入用。されど義卿豈義に負くの人ならんや。御安心々々々。」(普及版巻九、三六一頁)とある。天朝、幕府、吾が藩がいらぬというのはそこに仕えている肉食者をあてにしない、その人達の考え方などを自分の動く条件にしないことである。そうして野に在る自由人、草莽崛起の人だけが大改革はなし得る。けれどもそれを他に求めるのは他をあてにするのである。今までの経験からあてにした者があてにならぬことは痛いほど知らされた。六尺(支那風の表現で身長の低い意味)の微躯たる松陰一人が頼みになることは自分のことだから疑いない。そこに腰をすえて獄に在っては獄で出来ることをして自由の与えられる日をまたねばならぬ。自由を得た上で義のためにしなければならぬ事態に遭遇すれば時を待つようなことはしない、甘んじて死地に入る決心は出来ている。そういえば何を仕出かすかと心配するかも知れないが、私は義に基いて事を処するのであるから安心していてくれよというのである。
 こうなると最早松下村塾の門人達のことをとやかくといって見たのも過去のこととして忘れる、張り切ってはいてもさらりとした心境である。そこから不思議なことが起きて来る。野村の脱走を告げ口した佐世が前非を詫びる手紙をよこした、岡部も悔悟の情を伝えて来る。他の門人もそれぞれ自分自身の反省を始め、再び松陰の懐に還ろうとする心のきざしを感じるようになった。松陰はそれを「しきりに和議を言うて来る」(普及版巻九、三六二頁)と書いている。
以上わたくしは獄中にある入江兄弟と松陰の間に往復された手紙を中心に死生の問題に取り組んだ経過を略述した。松陰が悟っていて二人が教えを受けるという形ではない。松陰も迷い疑い、時には野村から逆襲を受けて気がつき、入江が同意しないので考え直しをするといったような、全く血みどろな協同思索である。この死生の問題には品川・作間・増野などはもとより一時松陰を離れた門人達も無関心ではあり得ず、それぞれ自己の問題として苦悩し思索し、五月頃になると松陰と入江兄弟の真剣さに打たれて、それぞれ悔悟の自己を発見するようになる。
 さて井伊大老の弾圧政策は志士の逮捕と、公家ならびに水戸藩の圧迫に重点を置いて続けられた。京都では梅田雲浜についで水戸藩士鵜飼吉左衛門・同幸吉・鷹司家の小林民部・三国大学・志士頼三樹三郎等をはじめ四十数名を逮捕し、前年十二月から今年二月にかけて前後三回を以て江戸に檻送、取調を始めた。江戸では元三条家の臣飯泉喜内・薩摩藩士日下部伊三次・越前藩士橋本左内その他を捕え、終に五月水戸藩の重臣安島帯刀・茅根伊予之助を喚問し、鮎沢伊太夫を獄につないだ。こうして最後に「長州藩吉田寅次郎と申す者力量もこれあり、悪謀の働き抜群」(井伊家公用深秘録)とにらんで、これを江戸に送るよう命じたのである。
 松陰の父にこの内命が伝えられたのは五月十四日である。その日江戸にいた尾寺・高杉・飯田連名の書簡も松陰の手に届いた。松陰が即座に思ったことは幕吏に体面の節、平素の持論を詳しく述べて幕府の政策を転換させるという希望であった。それが為には「余に一護身符あり。孟子云く、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなりと、それ是れのみ」(「東行前日記」普及版巻十、一八二頁)と覚悟した。この覚悟が成ると心中爽快なものを感じる。だから父への手紙に「この度の東行は国難に代るの存念に御座候えば、かねての狂悖には随分出かしたると存じ奉り候」(普及版巻九、三八九頁)と言うことができた。
門人知友は驚き悲しみ、獄に馳せつけて松陰を見舞った。松陰は家族、門人、知友にそれぞれ自分の志や感懐を詩、文あるいは短歌の形で書き遺した。ここにはそれらのすべてを省略するけれども、全集中に「東行前日記」というのがあるから参照せられたい。五月二十四日公式の支配書が手交された日の夜、野山獄司福川犀之助は独断を以て松陰をその家に帰らせ、一族門人達との訣別の機会を与えた。そうして次の日静かな雨の中を護送役、番人等三十余人に囲まれて萩を出発した。護送の形式は厳格に見えたが、松陰は駕籠の中では自由を許され、途上で成った漢詩や短歌は口で伝えて文字を解する者に書きとらせることも認められた。「縛吾集」「涙松集」(普及版巻七)がそれである。
 六月二十五日、江戸の長州藩邸に着き、七月九日初めて幕府の評定所に呼出しがあり、即日伝馬町の獄に入れられた。松陰への容疑は一、梅田雲浜と萩で面会したそうだが何の密議をしたか、二、御所内に落文があり、その筆蹟が松陰のものらしいと雲浜その外が申し立てている、覚えがあるか、という二件である。雲浜に面会したことはあるが、尊大ぶって人を子ども扱いにするので事を共にしようなどと考えなかったから密議などしなかった、落文などいう方法をとることは潔しとせぬ、また落文の用紙も文章も全く松陰のものでないと説明した。それで幕府の疑いは解けたけれども、松陰自身の覚悟もあったこととてそのまま沈黙してはおられぬ。嘉永六年ペリー来港以来の国策について穏やかに、しかも本質をついた批判をはじめ、遂に大原重徳西下策と間部老中要諌策を自白してしまった。これが結局揚屋(未決囚の牢)入りの理由となるわけである。獄中では同囚からも大切にされ、また取調をうけている志士達との文通によって天下の正気の鬱勃たるもののあることを知った。また松下村塾の門人達のことも志士達に通じることができた。飯田・尾寺・高杉等は獄外から松陰のために出来るだけのことはしてくれた。とくに高杉との文通はしばしばで、そのうち重要なもの(高杉宛書簡、普及版巻九、四一八・四六一頁)を見ると、門人達への最後の教育、画竜点睛に松陰が如何に真剣であったかを読み取ってもらいたい。取調はそれから二回、九月五日と十月五日に行われたが別にたいしたこともなく、或は島流し程度の処分で済むのではないかとさえ感じたのであった。しかし十月十六日の予審読み聞かせによれば、松陰の至誠を籠めての建言も真面には取り上げられず、間部要諌策を重視し「公儀を憚らず不敬の至り」などの語があり、重罪であることが暗示されてあった。そしてその二十日には死罪は免れないと悟るに至った。
 「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立ち到り、さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん。」
と書き出された両親、叔父、兄宛の永訣の書(普及版巻、四八○頁)は切々たる松陰の至情を伝え、紙面なお声あるを思わせる。門人達には「留魂録」(普及版巻七、三一九頁)を書いて詳しく取調のの状況や獄中同志の消息を述べ、京都に学校を興す論などまでして、後起の人達への嘱望を伝えている。自分の死生観を述べて今の心境は極めて静かであるとなし、「是れまた平生学問の得力然るなり」という。別に「諸友に語るの書」(普及版巻九、四八二頁)も書いた。その終りに方に「諸友けだし吾が志を知らん。為に我れを哀しむことなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りてこれを大にするに如かず」とある。
十月二十七日、評定所に呼び出されて死罪の判決を言い渡され、正午過ぎ伝馬町の獄で処刑をうけた。泰然自若たる死であった。絶命の詩にいう、
「吾今為国死  死不負君親  悠々天地事  観照在明伸」と。
これより先、高杉晋作は藩命によって国に帰る途上にあったが、江戸には尾寺・飯田・伊藤利輔がいた。友人の桂小五郎もいた。この四人はせめて松陰の遺骸を請い受け、ねんごろに葬りたいと願って奔走したが許されない。しかしあきらめ切れないので、「二十九日飯田正伯は自ら松陰門下である旨を告げて獄吏に面会して熱心に陳情し」、その日の午後、小塚原回向院で四斗樽に収められた遺骸を受け取ることが出来た。「飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて血を洗い、また柄杓を取りて首体を接せんとしたるに、吏これを制して曰く、重刑の屍は他日検視あらんも測られず。接首のこと発覚せば、余等罪軽からず、幸に推察を請うと。飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して体に纏い、伊藤は帯を解きてこれを結び、首をその上に置き甕に収め、橋本左内の墓左に葬り、上に巨石を覆いて去れり・・・この時四人の憤恨遺憾御推察下さるべく候」(普及版巻一一、四三七頁及び同四二八頁)と飯田・尾寺から高杉・久坂・久保清太郎あてに報告されている。その後間もなく墓石も建てられたが、文久三年正月には高杉等の門下生が世田谷区若林村の毛利氏所有地に改葬した。今日の松陰神社に隣る地である。
 萩では父百合之助は、遺著「留魂録」、「埋葬報告書」などを読んで「児(松陰)一死君国に報いたり、真にその平生に負かず。」といいて、深い悲しみのうちにも満足した。高杉は潘の重役周布政之助に一書を贈り「我が師松陰の首遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交を結び候程の事ゆえ、仇を報い候わでは安心仕らず候」(全集巻六、四二三頁)という。久坂は「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ樣肝要なり」と獄中の入江に語げる。高杉の前掲の手紙の終りのところで、「明日二十七日は吾が師初命日ゆえ松下村塾へ玄瑞と相会し、吾が師の文章なりとも読み候わんと約し候」と書いて継承の決意を述べている。やがて萬延元年になり、その三月三日には大老井伊直弼が桜田門外に刺されるという事件が起こる。それより前二月七日は松陰の百日祭の日にあたるので、吉田家の墓地に遺髪を埋めることになった。門人達は相謀って松陰の墓碑を建設することとし、当日は萩にいた門人二十名ばかりが墓前祭に列なった。墓碑は少しおくれて十五日に成った。自然石の表に「松陰二十一回孟士墓」と刻み、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿享年三十歳」とある。墓前の水盤、花筒、燈籠は石製であるが、その表に門人として久保・佐世・久坂・岡部・福原・松浦・増野・品川・伊藤(利)・入江・野村・中谷・高杉・有吉・天野・作間・時山の氏名が刻まれている。この時点でこれを敢てしたことは大胆不敵というほかない。ここに松陰門下の決意が公然と表明されていると見ることが出来る。
 わたくしはこれから以後の時勢の変遷とその間における長州藩の動き、わけても長州藩の青年の活躍について述べるべきであると思うが、もはやそれに与えられる紙数がなくなったので、ここで筆をとめることにしなくてはならない。併し最後に数言を費やしたいことがある。長州藩の正気を盛り上げて、幕府の長州征伐をはね返し、回天の偉業に重要な転機を作ったのは高杉晋作の指揮した奇兵隊である。その奇兵隊の幹部には松下村塾の出身者が多かった。そうして高杉は、十五代将軍徳川慶喜が政権奉還を奏上した慶応三(一八六七)年十月に先立つこと半年前に肺結核で斃れた。これより先吉田稔麿(栄太郎)は元治元(一八六四)年六月、京都池田屋の変に闘死し、翌七月蛤門の変には久坂玄瑞・寺島(作間)忠三郎・入江九一(杉蔵)が戦死している。明治維新は長州藩の力で成ったのではないことはいうまでもなく、他の潘でも多くの尊い生命が捧げられての偉業である。ただ長州藩では松陰が松下村塾の教育を通して成した貢献がひとしお鮮やかである。しかも松陰自身が自己の思想に殉じて処刑を受けたという事実がその完成したと見られるところに敬虔の思いを禁じ得ない。わたくしは何も政治教育、社会改革だけが教育の目標だといいたいのではない、悲壮な死を讃美するのでもない。自分自身を、また自分の教えた青年たちを死に赴かせなければならなかった時代を悲劇的であると思う。時代が変わり、課題がちがい、またその解決法も進歩して来れば、一人一人がその個性を発揚して公共のために貢献する仕方は変るであろう。しかし教育者が不滅の火を一人一人の魂に点ずることがどんなに尊いかという実証を松陰において見ることは今日においては不要であろうか。



―明治維新で活躍した経済人―
【2018/04/26 08:33】 エッセイ
『岩崎弥太郎』

一八三四―八五 明治時代の実業家。三菱会社の創始者。天保五年(一八三四)十二月十一日土佐国安芸郡井ノ口村に岩崎弥次郎の長男として生まれた。名は敏、字は好古、維新後名を寛と改めた。雅号ははじめ毅堂、のち東山。地下浪人の家に生まれ、年少から学問で立身する志望をもち、その修業に打ち込んだ。

はじめ土佐の儒者岡本寧浦に学び、のち江戸昌平黌の儒員安積良斎の塾にはいった。その後高知藩参政吉田東洋の門人になり、安政六年(一八五九)師の推挙によって藩に職を得、十月西洋事情の調査を命ぜられて長崎に赴き、翌年四月帰藩した。慶応三年(一八六七)三月、再び起用されて長崎に行き、高知藩の開成館長崎出張所に勤務し、やがてその主任になった。弥太郎の着任は同所開設の一ヶ月後である。そして翌明治元年(一八六八)閏四月これが閉鎖された後も同地に滞在したので、高知藩の長崎貿易は、弥太郎によって行われたといってよい。彼が扱ったのは、維新戦争における勤王戦力としての高知藩の武器・弾薬・艦船・諸器械の買入れと、その資金獲得のための土佐物産の輸出であった。

弥太郎は文久元年(一八六一)に郷士の家格を得、浪人の身分を脱したが、慶応三年十一月長崎貿易での功績を認められて、上士階級の新留守居組に昇進した。明治二年正月には、藩の大坂商会(旧開成館大坂出張所)に転出し、翌三年閏十月、高知藩少参事に任ぜられ、浪華会計係の職に就き藩の大坂事務を重督した。これは彼の再興官歴であって、その出身からいって異例の進級であった。同四年七月、廃藩置県が施行され、全国の藩は廃絶し、旧武士階層の者はその封建的特権と秩禄を失ったが、官職を失った弥太郎は、実業界への転進をはかった。

これよりさき高知藩は、政府の藩営商会所禁止令により、同三年十月大坂十月大坂商会を藩より切り離し、九十九商会の名称で汽船運輸を行わせていたが、同四年廃藩置県後、弥太郎は同志と語らい、この事業を一党の立脚地として独立し、新商社の旗を掲げた。特に明治四年九月十五日であった。新会社は三川商会と称したが、これは三菱創業の意義を持つものである。その後弥太郎は社主の地位に就いた。

彼は長崎・大阪での外国商人との交渉を通じて世界経済に対する眼識を開き、また我が国の旧商人道とは異なる「近代実業」の意義と、実業家の社会的使命について新しい認識をもった。三菱が勃興するまでには、国内の汽船会社との競争があり、社名も三川商会から三菱商会、三菱汽船会社へと改称した。明治七年の台湾出兵の際、軍事輸送の命を受け、これを完遂して政府の信任を得た。翌八年内務卿大久保利通は本邦海運振興政策を実施するにあたり、弥太郎の率いる三菱会社を起用し、これに郵便物の託送と外国定期航路の開設、海員養成などの任務を委託し、合計三十隻の船舶と運航助成金年額二十五万円を交付して、会社を助成した。

郵便汽船三菱会社(八年九月改称)はこれにより国内最大の汽船会社になり、わが沿岸航運に進出した外国汽船会社を駆逐したほか、明治十年の西南戦争の軍事輸送に著大な功績を立て、政府の期待にこたえた。かくて社業の躍進により資本の蓄積に成功した持つ三菱は、漸次海運以外の事業へ多角的に進出した。その着手したものには鉱山・造船・金融・貿易・倉庫・水道などがあり、また多の企業に対する投資も行ったが、当時はまだそれらの企業は大きな発展を見なかった。

企業家としての弥太郎の特長は、国士的精神が旺盛であり、同じ武士出身の官僚が、政治上に行った経綸を、実業界に実現しようとした。彼は明治の新経済社会を建設するために、先進国の技術や経済機関の導入をはかった。為替銀行・海上保険・港湾倉庫の建設を提唱し、政府の着手の遅れるものは、自己の手でこれを作ろうとした。明治初期経済に果たしたその「建設の作業」は高く評価されてよい。

明治十四年十月の政変以後、政府は三菱抑圧方針に転じた。岩崎を大隈の金穴と見做したのと、三菱の海運独占に対する世論の反対が高まったからである。政府は公然と三菱を非難し、新汽船会社(共同運輸会社)の設立を援助して、三菱に対抗させた。明治十六年に始まる両社の競争は激烈をきわめたが、弥太郎は競争途中の明治十八年明治十八年二月七日、五十二歳で病死した。墓は東京都豊島区駒込の染井墓地にある。

没後の同年九月、両社は政府の勧告により合併して日本郵船会社を創立、三菱は海運業を閉鎖した。なお生前弥太郎は三菱商業学校と商船学校を設立し、実業教育と海員養成に努めた。商船学校は明治十五年に政府に上納し、官立東京商船学校となった。現在の東京商船大学の前身である。

【参考文献】:岩崎弥太郎展弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』
中野忠明著:国史大辞典より転載


『渋沢栄一』
一八四○―一九三一 近代日本に指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷及び仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月から昭和六年(一九三一)十一月までの主に社会公共事業に尽力した時代の三期に大別できよう。

(一)  在郷及び仕官時代 栄一は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に市郎右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍と兼業。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て儒者海保漁村及び剣客千葉栄次郎に文武を学んだ。文久三年同志と攘夷を決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。

元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、慶応二年(一八六六)同家の財政充実につとめた功によってその勘定頭に抜擢された。翌三年正月、将軍徳川慶喜の弟昭武がパリ万国博覧会に列席するのに扈従して外遊。フランスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、彼地の進んだ文物と近代技術・経済制度を親しく見学した。この見学は、その後の栄一の開明的な考え方を形成する上で、大きな意味を持つこととなった。

明治元年十一月、幕府倒壊のため帰国。一時静岡藩に仕えたが、同二年十一月明治政府に仕官し、民部省に入って租税正となり、租税事務の処理にあたった。翌三年民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵省に属し、四年五月大蔵権大丞となり、新貨条例・造幣規則ならびに国立銀行条例の起草立案にあたった。また地租改正事務局の設置や第一国立銀行および抄紙会社の設立などにも尽力したが、六年五月、大蔵大輔井上馨とともに健全財政を主張して容れられず、大蔵省を辞任した。
時に三十四歳であった。

(二)  実業界指導時代 大蔵省を退官後、栄一は民間にあって多くの近代的企業の設立と発達に尽力し、この方面で指導的役割を果たした。彼はまず第一国立銀行の監査役、つづいて頭取として同行の発達につとめた。これが彼の本義であった。
その他第十六・第二十・第七十七銀行など、いくつかの国立銀行の設立を指導し、特殊銀行・普通銀行の創立にも力を貸すこと少なくなかった。さらに率先して擇善会とその後身である銀行集会所および手形交換所の設立にあたり、それらの活動にも力を尽くした。銀行以外では、明治六年に我が国最初の洋紙製造会社である抄紙会社(王子製糸会社)の創立を指導し、野に下ってからは事実上の社長として同社の発達に尽力した。十二年には、我が国最初の本格的紡績会社である大阪紡績会社の設立を指導し、十九年からは三重紡績会社の設立にも尽力した。その他家鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会の運営に力を与えた。また十二年には、我が国最初の海上保険会社である東京海上保険会社が設立されたが、その創立も栄一の力によるところが大きかった。

海運においては、十五年に増田孝らとともに郵便汽船三菱会社に対抗して共同運輸会社の設立を助け、十八年両社が合併して日本郵船会社が設立されるとその取締役として同社の発展を援助した。また二十九年には浅野総一郎の東洋汽船会社の創立を助け、四十年には日清汽船会社の創立委員長を務めている。
鉄道では、我が国最初の民営鉄道会社で、東北線を開いた日本鉄道会社の創立・発展に多くの貢献をしたほか、両毛鉄道会社・北海道炭礦鉄道会社などの設立にも尽力した。

以上の他、京都織物会社・北海道製麻会社・東京帽子会社・日本精糖会社・明治製糖会社・札幌麦酒会社・東洋硝子会社・浅野セメント会社・石川島造船所・東京人造肥料会社・東京瓦斯会社・東京電灯会社・東京株式取引所・帝国ホテルなど、栄一が創立したり経営を援助したりした会社は非常に多かった。そして彼は、これらの企業の創立にあたって、多くの人々から資本を調達できる合本組織、すなわち会社組織のよるべきであることを強く主張し、その実現に努力した。

ところで、栄一がこのように多くの企業創立・経営に関与したのは必ずしも財を築くためではなかった。それは、彼が三井・三菱・住友・安田のような大財閥にならなかったことからも知られる。また、企業を起こすこと自体に強い関心を持っていたためでもなかった。それよりも彼は、先進諸外国の圧迫のもとにあった後進国日本にとって、自国の近代産業を育て発達させることこそが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。

彼はまた、商工業の発達には、官尊民卑の風を打破し自主独立の発展をはかることと、実業教育をひろめ実業道徳を向上させることとの二つが必要であると考え、その実現に努力をした。すなわち彼は、明治十一年から同三十八年まで当時の重要経済団体である東京商法会議所・東京商工会・東京商業会議所の会頭として、また時には商業会議所連合会の代表者として、政府にしばしば実業家の主張を建議応答してその実現に努めたほか、東京高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの実業学校の創設・発展に尽くした。さらに「論語」を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済一致説」を唱え、それを実践することによって実業界の道徳水準を高め、その社会的地位を向上させることに努めた。

(三) 社会公共事業尽力時代 栄一は七十歳になったのを機に、明治四十二年六月金融関係以外の事業会社の役職を退任した。その会社数は六十に及んだ。さらに大正五年(一九一六)十月には金融界からも引退し、もっぱら社会公共事業に尽力することとなった。彼は前時代からひきつづいて東京市養育院の院長として活動したのを始め、多くの社会公共事業に関与し、それを育成発達させることに努力したが、この期において特に力を尽くしたのは国際親善についてであった。

彼はすでに明治三十五年にアメリカおよびヨーロッパ諸国を訪問し、これら諸外国との親善をはかっているが、四十二年八月には東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所の代表によって結成された渡米実業団の団長として渡米し、主要都市を歴訪して彼地の実業家との交流を深めた。さらに大正四年十月にもパナマ太平洋万国博覧会の開催を機に渡米し、十年十月ワシントン軍縮会議開催の際にも渡米して側面から平和外交を展開した。また、大正三年五月には中日実業株式会社の設立を機に中国に出かけ、同国実業家との親善をはかっている。

彼はまた各国国際親善事業に進んで協力するとともに、来日した各国の賓客を歓迎接待して国民外交を展開した。王子飛鳥山の栄一の邸宅を訪れた外国人の数は、記録に残っているだけで千名を下らなかったという。こうして近代日本の発達に大きな役割を演じた栄一も、昭和六年十一月十一日死去した。享年九十二。
墓は東京都台東区の谷中墓地にある。法名、泰徳院殿仁 智義譲青淵大居士。
なお明治三十三年に男爵、大正九年に子爵を授けられている。穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。

【参考文献】:竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、
白石喜太郞『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、
渋沢雅英『太平洋にかける橋』。山口和雄著、国史大辞典より転載


名君『上杉鷹山の兄・秋月種茂』
【2018/03/27 10:56】 エッセイ
江戸期の改革の旗手たち『秋月種茂』


宮崎県高鍋高校と山形県米沢興譲館高校とは、相互訪問等による交流が今でも行われている。これは、両校の創設者が「秋月種茂」と「上杉鷹山」という兄弟の創設にかかわることから実施されている。両校ともに現在も県内有数の進学校として、学問・教育の成果をあげて相互に切磋琢磨しているのである。このことは多くの人の知られざる美談と言って良いと思う。
170609秋月種茂160229上杉鷹山




一般的には、弟である「上杉鷹山」の方が「名君」として人口に膾炙されている。江戸期の三百諸侯中でも名門を誇る家柄で、戦国大名として名を馳せた上杉謙信以来の名門であるが、鷹山が養子として上杉家を継いだ頃は藩の財政状態は瀕死の状態で見通しが立たず、前の藩主・重定は幕府に藩を返上しようと真剣に考えたと伝えられている。
そこに日向高鍋藩第六代藩主、秋月種美の二男として生まれた鷹山が養子として入り、家督を継いで長期にわたる藩政改革の成果をあげて、藩の滅亡を免れたたのみならず、質素倹約と藩営の殖産興業政策を推し進めて蘇らせたのである。幕府が鷹山の長年にわたる藩政努力に対して「善政」を賞したのが、隠居の二年後、鷹山三十七才の時であった。

一方、兄の秋月種茂は鷹山より八才年長になる高鍋藩第七代藩主として、江戸期の十代の藩主が続いた中で「全盛期」を現出した「名君」なのであるが、残念なことに「外様小藩」(二万七千石)ゆえに、その事績についてはあまり語られていない。わずかに地元高鍋町で知られている程度である。それは上杉鷹山が、生涯尊敬して止まなかったというエピソードが遺されていることを以てして、その人となりを想像することが出来る。
鷹山は次のように人に語って曰く、「阿兄の名、大に世に顕れざるは、其の地僻遠なるが故なり。若し阿兄と吾(鷹山)と地を易いへしめば、豈に今日の米沢ならんや」(日向国史・下)と。これは、鷹山が兄の藩主としての手腕を称える言葉として大変意味深長である。即ち、米沢上杉家を若し、兄の種茂が継いだら、米沢の藩地はもっと繁栄したに違いないと云うほどの意味でもある。管見の限り、秋月種茂の評価は極めて高いのである。
こうした兄弟が、今から二世紀半も前に創設した藩校にルーツを持つ両校が、伝統と誇りをもって現在も尚交流が続いていることを知って大変興味を抱いたわけである。日本史の大辞典として権威あるものと思われる、吉川弘文館の「国史大辞典」十七巻を繙いても秋月種茂の名前が出てこないのは、まさに鷹山の云うとおり「僻遠の地の小藩」であった故であると考えられる。従って文献としては、高鍋町の藩史に関連した書物や、現地の教育委員会が発行する小冊子程度で語り継がれている程度なのである。
種茂の藩政で特筆されるのは、民政に意を用いたことと、教育の普及への情熱である。高鍋藩の藩校は「明倫堂」といって、安永六年(1777)の創立になるものであるが、藩主が『明倫堂記』という建学の理念を書き上げていることである。米沢の興譲館が安永五年であるから、ほぼ同時期に創設されているということになる。教育は国家百年の計と言われるが、封建時代の身分制が固定的であった当時において、人材育成に取り組んだことは大変に意味するものが大きいといえる。種茂に建学の進言をした「千手八太郎」の文末に『人材教育の儀は、御家中風俗の盛衰、国家治乱のかかわる重大事』という文言があるが、藩主種茂は、それを受け入れて「明倫堂記」を書いたようである。
抄録してみると次のような内容である。『昔から政治は教育を先とする。教育が起これば人材が出る。有能の士が上に立てば、人民は喜んでその治に服するようになる。・・・・・・学問の方法は朱子学によるのであるが、学問というものは何処までも自分のためにするもので、人のためにすると思ってはならぬ。それからまた、手近なところから次第に高尚なところにすすむという順序を誤ってはならぬ。また、中途半端な意志の弱い事ではいけない。国を治めるのは君主であるけれど、これを輔ける人物がなくてはどうにもならない。従って人材を養成する学校が大切である。人材が多く出るようになると、風俗も改まり・・・・・・ここに理想の政治が実現する。これが政治の本は教育にあるというわけである。この学校に学ぶもの、この精神を体し勉めて怠るなかれ』と。
これは教育の要諦を言い表して見事といえるものと思う。この時、種茂は三十六才の働き盛りであり、この文章をみても名君の一端を垣間見ることが出来るし、たんなる学問好きの文ではない。「輔ける人物」がいて学問の効用が顕現するという言葉は注目に値するものであろう。高鍋藩の学問においては、それは千手八太郎と財津十郎兵衛のふたりであった。この二人の進言によって明倫館が創設されたのでわる。この精神が今日の高鍋高校や米沢興譲館高校が受け継いでいるのだろうと思う。

教育の一方、民政に意を用いた件では庶民(領民)の福祉改善が挙げられる。農民多子家庭救助の施策では次のお触れに注目したい。曰く「百姓三人目より御扶助として一日赤米二合づつ、畠地もの(麦)三合づつ、二品の内その時々の吟味にて下さる段、仰せ出ださる」と。子沢山の家では生活も経済的に大変である。江戸時代の百姓は、中期から二極分化し、富める百姓と潰れ百姓になるのであるが、富める百姓は少数で多くは生活維持が精一杯であった。このことは、八代将軍の徳川吉宗治世下で勘定奉行を務めた神尾春央(かんおはるひで)の『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と云った言葉と対比して考えるとき、一段と意味が鮮明になる。この種茂のお触れは今日の言葉で言えば、「児童手当」ともいうべき困窮百姓の救恤実践という事が出来る。また明和元年(1764)のお触れである「士卒の庶子を三代目より民籍に編入して百姓とし、庄屋に属せしむ」として浮世人の人権を恢復することを眼目として、領民に再生の機会をあたえる仁政と考えられる。また江戸期には双子の誕生を恥じる風潮があったのを、「自今以後・・・・・・双生児出生候はば、貴賤に限らず申し出次第、相応の捨扶持下され候旨仰出さる」といった、双子の救恤策ともいうべき先進的な思想を持っていたのである。このように百姓を賎民視せず、「領民あっての国家(藩)」として大切にする人権思想を読み取ることが出来るのである。実弟である上杉鷹山の「伝国の辞」の精神と相通ずるものがあって、興味をそそられます。
一体に、江戸期は出生してまもなく夭折というケースが多かったが、これも大坂から産婆を招いて夭折の防止策を講じており、初のお国入りの時も江戸から医師の山田玄随を随行させたのも同じ意味を持つものである。当時の医薬品として貴重だった朝鮮人参も栽培したものを藩庫に蓄えておき、病人や疫病の流行の時に備えてと医療の救恤策を施したという。また藩士の教育のみならず、庶民の教育にも意を用いて明倫堂にも篤学な庶民には入学を許可したのをはじめ、毎月十六日には庄屋や乙名(町世話人)宅に支配下の一家から必ず一両人月々代わり合わせに呼び出し、庄屋や乙名から種茂の著である「郷閭学規」等を読み聞かせたのであった。その他、法制の整備や、足軽の困窮救済策(江戸の物価高騰を領地の足軽が経済的に支援)を講じたことも善政の一環として、領民を大切にしたことの証左といえる。大雑把な名君の一端であるが、兄弟そろって大変な名君であった事に、大変驚くのである。また其の一方で幕府の課役である「勅使の馳走役」を何度も仰せつけられ、巷間伝えられる「赤穂浪士」の馳走役の失敗等のようなことがなかったという。これらの事から考えられるのは、まず領民を大切にする仁政、次いで法体系の整備による治者の恣意的な統治方法を排したこと、そうして殖産興業政策を積極的に奨励して国富増進に努めたことなど治国の要諦に叶った政策を実施した。そして学問の奨励による人材育成と、有能な人物ともに善政を常に念頭に置いて、「明倫堂」の精神を体現したことを総合的に勘案してみると「名君」に値する事が十分といえるのではないかと思う。こうしたことの結果として十代の歴代藩主中で、種茂の治世が高鍋藩の全盛期を現出したのも納得がゆくのである。

最後に、兄弟共に似たような心温まる逸話が伝えられているので、これを紹介したい。
上杉鷹山の伝記に必ず出てくる「老婆の手紙」というのがある。これは、藩主(鷹山)が側近と「領内巡検」をしていたところ、急に夕立が来そうな雲行きになって、必死で稲の取り入れをしていたところに出会って、取り入れを鷹山一行が手伝った」という話である。助けて貰った老婆はこの地方で新米から餅を作ってお礼を届ける風習があり、手伝った武士(鷹山一行)にお礼を届ける為に聞いた場所へ持参して、はじめて老婆は藩主が手伝ってくれたことを知る。これに対して鷹山は、金子をご褒美に与えた。受け取った老婆は自分の家族のみならず、嫁に出した娘にも足袋を買い与え、大事にするようにと書いた手紙なのです。これは藩の家老に次ぐ「中老職」にあって、鷹山の側近で藩政改革に貢献した莅戸善政(のぞきよしまさ)の著になる『𧄍楚篇』(ぎょうそへん)に出てくる実話であって、江戸期の藩主が百姓と直接に接することがなかったことと考え合わせるとき、鷹山の人となりを語る逸話である。

このような心温まる鷹山の逸話ですが、兄の種茂にもこれと似た逸話が伝えられている。
それは、同じく領内の巡検中、田で働いている百姓の姿を見て、その百姓が持参した弁当が近くの道ばたに置かれていた。それを種茂と側近はそっと無断で開けて食べたところ、その弁当には米も入ってなくて、不味くてやっと喉を通るほどだったという。そうして種茂は、その百姓に無断で弁当を食べたことをわびながら、自分の持参した弁当を差し出した。この百姓が感謝したことは当然で、藩主の弁当の味は別段のように美味しいのである。種茂は、君主として恥じらいに似た思いを抱き「民百姓のお陰で自らの生活がある」事を知って、百姓を大事にせぬ治世のあり方を反省したという。
この両方に共通するのは『孟子』「尽心章句・下」に出てくる有名な言葉、即ち【民を貴しと為し、社稷(国家・土地と五穀の神)これに次ぎ、君を軽しと為す】である。

有名な上杉鷹山の『伝国の辞』は、将にこれらの逸話を裏付けるものである。かつて米国の大統領選挙に勝利した時、ケネディが尊敬する日本人は誰かとの質問に対して、即座に『それはウエスギヨウザンです』といったのは、孟子の言葉の原点に政治の要諦が語られていて、鷹山が伝国の辞を遺したからに他ならず、ケネディは鷹山を勉強していたに違いない。つい最近、駐日米国大使として赴任した長女のC・ケネディが、上杉鷹山が藩主だった米沢の地を訪問したのも、ケネディ元大統領が上杉鷹山を尊敬していたことの証左でもあろう。私達がこれらのことから学ぶべきは、兄の秋月種茂も弟の上杉鷹山も、藩主として行っていることの原点にこうした『生産者の努力』あって国家が成り立ち、さらに藩主(皇帝)が存在するという貴重な教訓である。有名なケネディの大統領就任演説はこうしたことが念頭にあったに違いない。残念なことに江戸時代の『孟子』は、その「放伐論」(君主がその器でないなら、交代すべき)故に、「異学の禁」として朱子学を奨励したために孟子の教えは日の目を見なかった。名君にもいろいろな君主像があって、一概に名君の定義は出来ないが、秋月種茂、上杉鷹山兄弟に共通する領民を大切(福祉)にし、国を富ます殖産興業(経済)や、教育に対する情熱と人材育成政策を実施した姿を名君と呼称することに反対者は少ないと思われる。

この文稿を書くに当たっては、前高鍋町長のご子息を紹介してくれ、さらにその方が高鍋図書館から特別に「秋月種茂」に関する一連の書籍を借りだしてくれたことで、名君・種茂をより詳しく知ることが出来た。さらに高鍋町の教育課の職員も、私の申し出に対して快く協力してくれて種茂関連書籍リストを作成して送付してくれた。「国史大辞典」に名前すら収載のない、隠れた名君の勉強に惜しみない協力をいただいた事も付記しておきたい。偶々、取手市の市民大学講座で聴講してくれた大学の先輩が高鍋町出身で、講座の後に慰労の席で教えてくれたことで上杉鷹山大好き人間の好奇心から、一年がかりで勉強したことの一端であります。


文久二年の『土佐・尊皇攘夷思想』
【2018/03/03 10:01】 エッセイ
『幕末・土佐の三偉人』

JR高知駅を降りて南口を出ると、ロータリー右側に坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の大きな銅像が並んで立っている。
文久元年に結成された『土佐勤皇党』の代表的志士・三人とでも云うべきか。
結成時の領袖は武市半平太で、龍馬も慎太郎も名を連ねている。

161011武市半平太161004坂本龍馬 いきいき埼玉161011中岡慎太郎

その結成文に曰く、
『堂々たる神州戎狄の辱をうけ、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉ふ。
然れども久しく治れる御代の因循萎惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙げて、皇國の禍を攘ふ人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為に罪を得玉ひぬ。
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落人玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと、況てや皇國の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異性兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に碑補せんとす。
錦旗若し一とたび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患者をも払はんとす。
左すれば此中に私もて、何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪し給ふをもまたで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるし、おさめ置ぬ。』
文久元年辛酉八月  武市半平太小楯(以下百九十一名連署血判)。
『中公新書・武市半平太、入交好脩著』

この盟約書は文久元年、江戸において武市半平太・大石彌太郎によって起草され、それを武市が土佐に持ち帰り勤皇の士を募ろうとしたものである。
そして翌年の文久二年正月に武市は長州へ坂本龍馬に親書を持たせて派遣した。
この時長州で応対したのが久坂玄瑞であった。
龍馬はここで久坂から時勢観を聞かされ、志士として活動を始める(脱藩)ことになるのである。
その久坂が語った内容とは、次の吉田松陰の『草莽崛起論』の何たるかを語ってあまりあるのである。
曰く、
「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合の外にはとても策これなき事と、私共同志中、申し合わせ居り候事に御座候。
失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」と尊攘の「大義」実現には、藩の滅亡も苦しからずといい、幕府や藩を否定しようとする考えにまで進んでいた。
『中公文庫・日本の歴史19、小西四郎』

これを、三年前の安政六年四月に吉田松陰が、佐久間象山の甥・北山安世に宛てた書簡と併記してみると吉田松陰の時勢観がよくわかり、長州藩の指導的思想となっていたことが解る。
曰く、
『今の幕府も諸侯も最早酔人なれば、扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るる方なし。
草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功ある人と云うべし』と。

つまり、龍馬、武市、中岡もここから考えが出発しているのである。
官僚化してしまった幕府を構成している者、諸藩の大名も幕府権力に媚びていて、陋習から抜け出せないまま己の保守に汲々としている。朝廷にあっては、公卿の時勢への認識は全く態をなしていない。
このままでは外国の侵略を受けても、他人事の世界だと警鐘を鳴らしているのである。
吉田松陰が『明治維新の先覚者』と称えられる所以である。
この思想に触れた武市半平太が、すぐさま『土佐勤皇党』結成に向けて行動を開始したことが解るのである。


江戸初期の名君「池田光政」
【2018/01/31 11:13】 エッセイ
『池田光政』

江戸時代初期の名君、池田光政(1609―1682)は備前岡山藩主の藩祖として徳川政権で安定した大名の地位を築き、そして『天下の三賢侯』として名を馳せて以来、池田氏は二世紀あまり続いて明治を迎える「江戸期の名門」といえる。

まず彼の祖父である「池田輝政」(1565―1613)は、「西国将軍」、あるいは「姫路宰相、播磨宰相」と称された人物である。関ヶ原の合戦で、東軍(徳川方)についた輝政は姫路五十二万石を与えられる。ここから池田家の近世名門大名としての出発がある。京阪地区の守りの象徴として世界遺産となった名城・姫路城(白鷺城)の大改修を行って、西国の防御の役目も担った。
彼はそれまでの主君が、織田信長、豊臣秀吉(姫路城築城)、秀頼、最後に徳川家康であったので正しく云えば「外様大名」の範疇である。それが、何故に「西国将軍」という呼称されたか。その謎を解く鍵は「徳川家康の第二女・富子」を継室としたことにある。則ち、家康が姻戚上の父親(義父)であること、これは「神君の婿」として、秀吉陣営から乖離を願った『神経質な家康』(南條幸弘・三島森田病院勤務の精神科医)の慎重かつ周到な判断による「政略結婚」によるものであった。この背景は岡山藩や藩主の池田氏研究の第一人者・谷口澄夫岡山大学教授の著書(岡山藩・吉川弘文館)に詳しいが、富子が光政の父である忠継を生んだのである。忠継の兄利隆(母は糸子)姫路藩主として残った。関ヶ原の論功行賞で家康は輝政に播磨か美濃の何れかを輝政の望みに任せたが、「老臣・伊木長門清兵衛」が、大方の美濃希望者(輝政と老臣)たちを説得し播磨の地を選んだ。そして播磨、備前(利隆の備前監国)、淡路を支配する俗称「百万石」の大大名となったのである。
180202池田輝政180202池田光政と熊沢蕃山


さて本題の池田光政は、寛永九年の岡山移封から寛文十二年(1672)の致仕までの四十年間、藩主として岡山藩政の確立をはかったが、さらに天和二年(1682)までの十年間、西の丸にあって政治に関与したので「半世紀」もの長期間にわたって統治者として君臨し続けたのである。二代将軍秀忠の養女・鶴子を母に、勝子(母は秀忠の女・千姫)との婚儀、そして三代将軍家光の偏諱一字を賜いそれまでの幸隆を「光政」と改めた。このように記述すると将軍家と池田氏は祖父の輝政、光政ともに将軍家との姻戚関係があるので特別な待遇であったかというと必ずしもそうでなく、複雑微妙な問題が伏在していたのである。
だが、光政は幼児から「唯人ならず」の非凡さを評価されていた。

一般に徳川家康は関ヶ原に戦いに勝利して、その後「征夷大将軍」の宣下を受けて大名政策が具体化していくのであるが、普通は親藩(御三家含む)、譜代、外様と区分けし、譜代で幕閣を構成させて、外様を冷遇した印象があるが、それは実は「徳川幕藩体制維持策」であって、冷遇というのは当たらない。南條先生が「徳川家康神経質説」を唱えたように、体制維持に非常に神経を使ったのである。覇道で奪い取った天下人の危うさを極端に警戒していたのである。「三方原の敗戦」の失敗を繰り返さないために、「しかみ像」を保存したのもそれと軌を一にするものと考えてよい。そのために精巧な大名統制策をとったのである。将に「覇道は覇道によって破れる」事を知悉していたので、大藩の経済力をそぐために、江戸からの遠距離に配置し、隣接には信頼できる譜代大名や親藩に「にらみ」を効かせていたのである。

参勤交代、正室の領国への帰国不可(江戸上屋敷に常駐・人質化)、「偏諱政策」、「普請担当政策」で遠距離の外様への経済的負担を負わせたのはすべて「徳川家の長期安泰政策」であった。家康自身、大坂「夏の陣」や「冬の陣」で危険性を孕んだ豊臣氏を滅ぼしたことからわかるように、危険性の除去を意図したものであった。それでも家康は「西国の外様大藩」への危惧が去らなくて、臨終の時西方を向き、反逆の危険性におびえつつ死去したという。

果たして二世紀半経過して、海防の無策等から外様の幕政への容喙を招き、瓦解したのである。幕末維新期の西南雄藩は「薩長土肥」はすべて外様大名であった。「改易」による大名取り潰しもその一環で、武断政治により反逆を封じ込める政策を採ったのである。婚姻政策もそれで、徳川将軍家は危険と裏腹の関係であった。八代将軍の吉宗以降、改易が大きく減少したのも反逆の危険性が低下したことの表れでもある。そうした中で岡山藩政の確立に功績のあった池田光政を知ることの意味は意義がある。池田光政も「松平」を名乗る(家光の偏諱を賜る)ことが許され、将軍家との婚姻政策もその例外でない。だが、光政に見られる如く藩の新田開発や学問の奨励による「仁政政策」は、長期的には「藩の自立化」が進み幕府の統制策は「そろりそろり」と浸蝕されていくのである。幕府自身が吉宗の統治時代に「米の収穫」がピークに達し、収入の増額が限界に達していた。それゆえに、田沼政治にみられる重商主義の時代を迎えることになる。したがって、田沼政治への批判としての「寛政の改革」は吉宗の「享保の改革」への回帰指向が政策の理念となった。

こうした幕府の一連の変容過程を念頭において、岡山藩ならびに池田光政を見ることは幕藩体制確立期の武断政治下での名君と称される光政の政治が、時代に先駆けたものとして改革的な性格を持つと考えられる。まず彼の学問の修行から見ていくと、『孟子』のことばに「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」ということばが「尽心章句下」に出てくる。これと関連したような逸話が光政にある。『有斐録』という本に「十四歳の頃、彼は寝所に入っても容易に眠れず、暁に及んでようやくまどろむという状態が続いた。近侍の者たちが怪しんでその理由を尋ねたが答えが得られなかった。ところがある夜から特に熟睡するようになり、再びその理由を尋ねたところ、光政はこのような大国を治め、民をいかがして養うべきかと、心をつくして思慮した結果、「君主の儒」となりて国民を教え安んずべき」を知って煩悶が解決したという。また当時の京都所司代であった板倉勝重に「治国の要諦」について質問したという。板倉が「大国の領主として寛仁の徳」が大切と教え、それを心がけたと言われる。

「道を学んで独り己を修めるのみでなく、天下を以て自己の任とし、天下を善くしようと決意した」との考えに達し、儒学を崇敬したのである。陽明学の大家、中江藤樹を招聘しようとしたのもその表れである。後に熊沢蕃山が光政に特別な待遇を受けたのも同様で、藤樹の長子も次子も岡山に賓客として招かれている。中江藤樹を尊敬すること尋常でなく、その死後は位牌を西の丸に祀ったと言われる。「寛政異学の禁」で朱子学を官学と規定する前だったが、「幕府は快く」思わなかったようである。だが信念は揺らがずに陽明学を信奉した。光政の晩年になって幕府の干渉も危険視して、謀反の風説が流れ、やむなく朱子学に妥協(転向)した形となった。そこには林家の中傷・非難も絡んでいたことは容易に想像される。

また光政は藩校設置のトップランナーとして知られ、「閑谷学校」や「花畠教場」は寛永から寛文年間の開学であった。光政は広く領民の教化策を視野に入れたもので、これも名君として称えられる理由の一つになっている。藩政の理念には「仁政によって人民に知足安分の生活をさせることが、則ち将軍への忠」と確信していたとされ、次の農政についての逸話はそれを証してくれる。領内巡検で郡奉行に稲の品種を尋ね、答えられなかった奉行に、後になって百姓に尋ねて確認したところ、百姓は殿(光政)の云うとおりと答えたので、農政の第一線の責任者の郡奉行の不勉強を嘆いたと言われる。これも単なる好学でなく、民とともに国政の充実を願った光政の人となりを偲ばせてくれる。

また外様大名でありながら、時の大老である酒井忠清に対して専横(当時下馬将軍とも言われた)を忠告する建白書「八ヶ条」も書いている。これも仁政のあり方を探求する名君ぶりだが、その一つに「高慢な態度を捨てて他人の意見を傾聴すること」というのがある。自らの藩においては「諫箱」を設置して、民の声を政治に反映させようとする努力、政治手法で後の徳川吉宗の「目安箱」の先駆けと言って良い。武断政治から文治政治への移行期とはいえ、光政の藩主としてのあり方には模範的なものがあり、半世紀後の名君「上杉鷹山」を彷彿させるものがある。

今回は池田光政の功績全体を語ることはできないが、これまでの書き綴ったなかに理想の君主像を見ることができると思う。幕府が武力を背景とした「臣従」を強いることに一方では従い、半面では仁政のあり方の不足した専権ぶりにもしっかりとした信念で忠告する諸侯は親藩の立場でも簡単にできることではない。江戸期の藩政改革を進めた名君の諸相にもいろいろあるが、初期においてこれだけの治績をあげた第一級の藩主としては、池田光政はその筆頭レベルに数えられる「名君」といってよい。


【吉田松陰と知行合一】
【2017/12/29 15:03】 エッセイ
吉田松陰の教育と「知行合一」の教え

吉田松陰の松下村塾における教育では、学問の目的を明確にして、ともに学ぶ姿勢を説明しながら「学者になってはいかぬ、人は実行が大切である」として、学んだことの成果が人生の実際に生かされなければ意味がないという実学を教えました。従って、学問の為の学問は否定する考え方でありました。江戸に修業に行った時に、「江戸の学者は知識を切り売りしている」という事に、大きな不満を持ったことがありました。そして世の中の動静に対して全く無関心である学者の姿に、失望を覚えたのでした。「知行合一」の教えに賛同した翌年の事ですから、なおさらに残念な思いを抱いたことと思われます。
170331正装の吉田松陰150821松下村塾松陰の立志実践教育知行合一


さて「知行合一」を掲げる陽明学を提唱したのは、中国の「明」の時代の思想家であり、高級官吏でもあった「王陽明」という人です。これは「伝習録」として門下生との問答録の記録として日本でも出版されています。江戸時代は「朱子学」が官学として幕府の勧めるところでありましたので、陽明学は一部の知識層にしか普及しませんでした。松陰が陽明学に出会ったのは嘉永三年(一八五〇)、平戸藩の家老であった葉山佐内という人物の下で修業旅行をした時でした。この時松陰は二四歳でしたが、筆まめな松陰はこの半年間の修業期間のことを記録した『西遊日記』に克明に書き残しています。
平戸に到着したその晩に早速葉山佐内から伝習録を借り、熱心に読んだことが記されています。少し話が脱線しますが、この陽明学というのは、幕末になって多くの志士といわれる人に影響を与えました。有名なところでは吉田松陰の他に、大塩平八郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作、山田方谷、河井継之助などが熱心な信奉者として知られています。昭和に入ってからは作家の三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」をいう本を書きました。三島由紀夫もまた陽明学の信奉者の一人といえるでしょう。昭和45年11月25日の市谷での割腹自殺は、まさしく陽明学の影響と考えられます。陽明学は学んだことを信じて「行動の実践」に結びつけるというところに特長があります。すこし難しい表現ですが「主観の完全燃焼」と言い換えることが出来ます。
自分の信念をゆるがせにしない生き方に繋がるわけです。ですから時にその行動は死をも恐れないという一面があります。幕末の動乱期はこのような「命懸け」の行動の連続でもありました。松陰が国禁を犯してまで密航を企てた背景には陽明学的な考え方があったといえるでしょう。このような経緯があって松陰は塾生に「知行合一」という考えを日々の学習の中で自然な形で教えて行ったのです。松陰の人材育成のありかたは決して難しく考える必要はなく、普段の何気ない日常の生活の中で、いつも「言行一致」の行動をとることでありましたから、無言の説得力となって塾生の先生に対する信頼を拡大して行きました。そうした中で塾生の人間的成長を願ったのでありました。

塾生の成長度合いや能力を見極めながら判断して教材を適宜に選んで読ませ、一人一人に課題を授けて、自分で考えて解決するという能力開発を願っていたのです。そうして読書が終了すると、感想や自分の立場から批評させて、一緒になって議論し合うというものでした。このように松陰の教育は、教えるという姿勢よりも一緒になって学び合い、その議論の中から塾生に学び取らせるという自主性を重んじるものでした。私達は「陽明学」というと、いかにも難しい学問のような印象を持つかもしれませんが、必ずしもそうではなく、「知識と行動」の一体的な調和を説いているものであることを理解出来ればそれで良いと思います。

学んで得た成果とその行動が、自分をより人間的な成長を促す建設的なものであれば、それは他者への貢献となって信頼されることになります。因みに筆者の勤務する大学は「知行合一」を校是・建学の精神に掲げていまして「吉田松陰論」という珍しい履修科目が設置されております。看護学部もありましてこの学部では「必修科目」の扱いで吉田松陰論の単位を取得しませんと卒業できないようになっています。松陰は「学問の大禁忌は作輟(さくてつ)なり」といって、学問をやったりやらなかったりする態度を厳しく戒めました。それだけに学生の皆さんは、必死でこの科目を勉強します。吉田松陰の勉強をすることは「汲めども尽きない」井戸のように、沢山の教えが「こんこんと」湧き出てくるのです。


2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

171203大東文化会館1171203大東文化会館2



2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。


【戊午の密勅】
【2017/11/05 14:34】 エッセイ
【戊午の密勅】

安政戊午五年(1858)八月、孝明天皇は幕府が朝廷(天皇)に無断で「米国総領事・ハリス」と調印をしたことに激しく怒った。幕府は同年六月九日、江戸湾上で「日米通商条約および貿易章程を締結」し、これを「宿継ぎ」という方法で朝廷に報告した。事後報告である。

これに対して孝明天皇は譲位を云い出すほどであった。それは、この年二月九日、幕府は老中・堀田正睦を勅許奏請の為に上京させて参内させた。然し、勅許は得られずに堀田は四月江戸に帰った。この時に朝廷は「条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再度の勅許を請うべし」と堀田に示した。この直後、大老・井伊直弼は反対派を押し切って勅許のないまま締結したといういきさつがあった。
こうしたことから、同年六月二十九日、事情説明の為、三家・大老のうち一人の上京を命じたが、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため、長幕関係は険悪となった。

160726橋本左内顏写真170331正装の吉田松陰


こうした折、水戸・越前・薩摩の有志らは幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すよう近衛忠煕・三条実万らに入説したことから、「関白九条尚忠」の裁可手続きを経ないで「密勅」となって、八月八日に水戸藩に降下した。(原文には朝廷の最高責任者の関白・九条尚忠の名前はない)二日遅れて幕府宛にも勅諚は出されたが、大老井伊直弼は水戸藩に勅諚の返納を迫った。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

以下、原文を記す。

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


これを読み下してみる。
先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有るべく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


 東京龍馬会 【第六二回総会&講演会】
【2017/10/07 00:35】 エッセイ
 【第六二回総会&講演会】

平成二十七年七月二十三日(日)、「東京龍馬会の総会」が開かれた。
この席上、私は「吉田松陰と松下村塾」の演題で八十分の講演を行った。
この記事は当日の模様を幹事を務めた方が「報告文の形で」纏めて呉れたものである。
個人情報も含まれているので、該当部分のみを修正して掲載します。

平成二十九年七月二十三日(日)新宿グリーンタワービルの東京ビジネスサービス会議室において、
第六十二回臨時総会&講演会を実施いたしました。
曇天模様の小雨交じりの中、八十名もの方が参加してくださり、会場は熱気に包まれました。
初めに開会の挨拶を修行代表幹事が行い、
今回は勝海舟の玄孫・高山みな子さんの密着取材で、BSジャパンの「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」、
の撮影が入るという説明と、会場の皆さんに撮影の同意を求めました。
臨時総会は佐藤会長の挨拶から始まり、昨年東京龍馬会が30周年を迎えたこと、
「龍馬をご縁に出会いを楽しむ」のもとボランティアで幹事会が年4回の龍馬タイムズ発行、
年2回の総会&講演会、2回の史跡探訪を行っている事などを説明し、
修行代表幹事が、事業報告、役員・来賓紹介、新幹事紹介を行いました。
また、山村竜也顧問が『龍馬ガイドブック』出版について、
「今までに龍馬の全国の史跡を一冊にまとめたガイド本はないに等しいので、
東京龍馬会で作る意義は大きく、それには皆さんのご協力が不可欠です!」と熱く語られました。
170723第62回東京龍馬会総会と「吉田松陰と松下村塾」の講演170331正装の吉田松陰170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵


講演会は、長谷川勤先生(松蔭大学・吉田松陰教育研究センター客員教授)を講師に迎え、
『吉田松陰と松下村塾』についてお話しいただきました。
長谷川先生は、生まれて初めて夏風邪を引かれたそうで、
まだ声が嗄れている中、2時間近くにわたり熱弁をふるってくださいました。
歴史が大好きなサラリーマンだった先生が、松蔭大学にスカウトされたのは13年前。
とある会で歴史談義をしたら、講師の方より詳しくて、まだ会社勤務をしていた先生に、
「是非、土曜だけでも講師をしてくれないか?」、と懇願されたのだそうです。
坂本龍馬と吉田松陰の違いは、龍馬の資料は各地に散らばる手紙だけであり、
そのため坂本龍馬を100人が語ると100人が違う、
けれども、松陰は松陰全集が残されているためあまり変わらないという話は興味深かったです。
松陰全集は、昭和十一年版(全文漢文)、昭和十四、昭和四十八年の3回出版されているそうですが、
先生はそれを全部お持ちで主要論文をパソコン入力し、ルビをふり、
松陰がしたようにわかりやすい言葉にして学生に講義をしているといいます。
その成果か、受講者が1000人を超え大学からお祝いをされたとか…。
最初に松陰の伝記を書いたのは徳富蘇峰で、明治二十六年に出版されていますが、
日清・日露戦争を経た明治四十一年に、乃木希典や入江杉蔵に、
「松陰を革命児と呼ぶのはイメージがよくないので書き直せ!」と命じられ、
明治四十一年にやむなく改定本をだしたこと、
先生のご出身の村の人が、初代群馬県令・楫取素彦の妻・寿(松陰の妹)に、
松陰の守り刀を託されて渡米したことなど、長谷川先生ならではの貴重なお話をお聴きすることができました。
幕末から明治にかけて活躍した人材を育て、自身は海外に行くことがかなわなかった点、
松陰と龍馬は似ているかもしれませんね。
講演会は大盛況のうちに終わりましたが、先生は時間内に質問できなかった方々にも丁寧に説明されていました。
 懇親会は場所を移し「龍馬 はなの舞 西新宿店」で催されました。
長谷川先生や山村顧問、高山みな子さんにも参加していただき、
BSジャパンの撮影クルーも引き続き同行して賑やかな懇親会となりました。
今回、谷干城のご子孫・谷光弘さんが初参加とあって、修行代表幹事からが皆さんにご紹介がありました。
谷さんと高山さんは、どうやら勝海舟と谷干城の繋がりの話で大いに盛り上がったようです。
勝海舟の日記に何度も谷干城の名が書かれているとか…。
そして、皆さんが飲んで食べて盛り上がっている中、BSジャパンの撮影クルーは、
何も口にせず黙々と撮影を続けていました。BSジャパンのお二人、ご苦労様でした!
残念ながら、本タイムズ発行時には放映は終わっていますが、
8月12日(土)21:00~23:00放送の「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」を楽しみにしています!
今秋、なんと、長谷川先生は大東文化大学秋期講座で坂本龍馬を取り上げるそうです。
[講座名] 『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』
[場所]   大東文化会館 〒175-0083 東京都板橋区徳丸2-4-21
[日時]   11/11, 18 12/2, 9, 16 (いずれも土曜日の13:30~15:00) の5回。
[パンフレット請求] 大東文化会館地域連携センター TEL: 03-5399-7399
Mail: chiiki@jm.daito.ac,jp HP: http//www.daito/ac/jp
                                 幹事 本下






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