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『松陰神社』について
【2020/08/03 13:45】 エッセイ

『二つの松陰神社』  ー東京世田谷区と萩市ー

吉田松陰を祀る「松陰神社」は二つある。しかし、二つの神社は「吉田松陰」を祀りながら両者の関係は別々のようである。

200803世田谷松陰神社200803萩松陰神社



東京の松陰神社は、関係者である旧藩主の毛利家や友人であった木戸孝允・門下生の品川彌二郎が中心になって建立した経緯がある。
建立地である東京都世田谷区若林の地は、江戸時代の毛利藩の「火除地」であって、その広さは一万八千坪あまりで、江戸期には藩主の鷹狩りや保養の場所だったという。
明治十五年一月、品川彌二郎らの旧門下生らが中心になって募金活動を行い、文久三年正月五日、二ヶ月前に行った「安政の大獄の大赦令」によって松陰等の罪が赦され、それまで罪人としての墓地で会った千住小塚原から高杉晋作らが世田谷に移設したもので、松陰の墓の南側に建てられたものである。
その時上野寛永寺の将軍しか渡れなかった橋を堂々と高杉晋作が渡ったという逸話があるくらいである。
慶応年間に幕府と対立した長州藩はこの松陰の墓も破壊されたが、維新後になって木戸孝允らの手で修復された。
社殿正面に向かって左右に石灯籠が並ぶが、この筆頭ともいうべき位置に毛利と木戸の名が刻まれている。

一方、萩の松陰神社は明治二十三年、旧門下生で明治になって島根県令を務めた境二郎が中心になって村塾の保存会を発足させ、西側のみかん畑に土蔵造りの祠を建てたのが始まりで、それ以後例大祭などを行うごとに多くの参詣者が集った。
そうして明治四十年十月、この祠を基に社殿を創った。
今では松陰のふるさと萩の松陰神社の方が、多くの観光客を集め「萩市の観光スポット」の代表とも云うべきものなっていて、先発の世田谷よりも多くの参詣者や観光客が訪れるようだ。
当然、松陰の遺品としての著作物などが陳列されている「至誠館」も整備されて、静かにたたずむ世田谷の神社に比して、萩のそれは活気ある神社の様相を呈している。

なお、世田谷の松陰神社にまつわる話を二つほど記しておこう。
生前の松陰と親しかった人物も、神社の一画に墓が在ること。もう一つは、松陰を信奉する二人の人物とのゆかりである。
一人は日露戦争当時の総理大臣を務めた萩市出身の桂太郎の墓が、彼の遺言によって隣接している所に大きな墓石がそびえ立つ。
もう一つは国士舘大学の創設者柴田徳次郎が熱烈な松陰信奉者であったことから、隣接地に大学を移設していることである。
さらに、境内に模築されている松下村塾の塾舎は、もともと国士舘の大学構内の「景松塾」を移築したものである。
柴田は昭和十三年の模築に当り材木を萩から取り寄せるほどの力の入れようであった。
全国の吉田松陰ファンとしてのこうした営為は根強い松陰人気を今日に伝えているものだろう。


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【憲政記念館】の「吉田松陰の書」
【2020/07/01 17:57】 エッセイ
憲政記念館・吉田松陰の書

憲政記念館に、下の写真の様に松陰の書が展示されていた。
吉田松陰全集で調べてみると、第九巻の『東行前日記』に収載されていました。

【畫史藍田】(藤井藍田)、蕭海を介して詩を寄す。次韻して却寄す。云はく、


少小讀書師昔賢   少小より書を讀昔賢を師とす、

殺生今委理官權   殺生今は理官の權に委ぬ。

眞誠不動來奸吏   眞誠、奸吏を動かし來たらず、

冤枉爭怨得碧天   冤枉、爭でか碧天を怨に得ん。

千里檻輿鼾睡穏   千里の檻輿、鼾睡穏かに、

滿城風雨虜氛羶   滿城の風雨、虜氛羶し。

赤心報國背無涅   赤心報國、背に涅なきも、

願學岳爺終我年   願はくは岳爺を學んで我が年を終らん。

補注
土屋蕭海は松陰の友人である。文をよくし、名文家でもあった。
松陰の死後、伝記を書き始めるも、高杉が破いてしまったという、逸話がある。

藤井藍田とは、大坂の商家綿屋某の子なれども、十五歳田能村竹田に就ききて畫を學び、次いで書を八木巽處に、詩を廣瀬淡窓に學ぶ。
後家を嫡男に譲り文人墨客義人烈士と交り、又諸方を遊歴す。
安政六年萩に来り、土屋蕭海を通じて松陰に詩を贈り、又五月東送前にも扇面にゑがきて贈る。
松陰は詩を以てその厚意を謝し、且つその一を入江杉蔵に贈り、他の一を自ら携えて江戸に下れり。
藍田はその後も長州に来り滞在三年、桂小五郎等とは親交ありしといふ。
慶應元年五月大阪の自邸に在り、壬生の浪士に縛せられ獄に繋がれしが、閏五月十二日歿せり。
享年五十。大正三年正五位を贈らる。(吉田松陰全集第十巻より引用)


181216憲政記念館にて吉田松陰、相馬さんより

『大意』
幼い時から学問に励み、師は昔の賢人たち。
殺されるも生かされるも、今は役人の手に運命を委ねている。
だが誠なる心は動じることなく、よこしまな役人の心を耕す。無実の罪に問われ、青空(移送)となりどうして天を怨もうか、長旅の檻の中、鼾(いびき)でもかいて穏やかに眠ろう。
移送先の江戸城内は雨また風に覆われ、囚われの者たちで血生臭いであろう。
国のために心底尽くさんとし一点の偽りもなかった。
最後まで学ぼうとしたが、岳爺(南宋時代の武将岳飛)は私と同年で一生を終えた。
私の友、杜棖卿(ととうけい)はよく藍田画史( 藤井藍田)なる人物を褒め称えているが、世間では画工としてまだ知られていない。
私の関東の厄に会して画史は漢詩を贈られた。
これを味わうに、誠に絵と詩の両方に長けた士というべき人物である。
そこで私は詠み贈られた礼とするものである。 
                      二十一回藤寅拝


佐久間象山の『海防八策』
【2020/06/04 16:46】 エッセイ
『老中・真田幸貫への上書』 ー佐久間象山ー

真田幸貫は【寛政の改革】を指揮した、松平定信の四子であり、外様大名である真田の松代藩主家に養子として入るのは異例な人事であったが、さすがに人物であった。
老中になって、海防掛を担当するや、佐久間象山を抜擢して日本の海防問題を研究させた。
期待に応えた象山は、当時の世界情勢について、数少ない情報通であった。
結果として、この上書は幕府で採用とならなかったが、十五年経過するとその必要性を認識する者が出てくる。
いつの世も、先覚者の努力は、早急に成果を見ないが、人材の発掘をした真田幸貫は流石と言わねばならない。
まず、象山の情報収集から上書までの経緯を記してみる。

① 天保十年、六月二四日付、「阿蘭陀風説書」にて「アヘン戦争」関連情報伝達。清国政府が、広東の英人に対してアヘン密売を禁止する為に欣差大臣を派遣し、貯蔵アヘンを全て没収することを厳命、北京に於てもアヘンを吸飲したものは厳罰に処す等記されて。
② 天保十一年、六月のオランダ船、清国が英国に対して『無理非道之事共有有之候所』から英国は「仇を報いんが為」清に軍隊を派遣、英国の対清宣戦布告を伝える。
(13年終結、香港の割譲、上海、厦門、福州、寧波の開港=南京条約)
③ 「文政の打ち払い令」から「天保の薪水令」への対外緩和策へ切り替え。
④ 浦賀奉行と下田奉行各々独立へ。羽田奉行、浮砲台設置。
⑤ 徳川斉昭の推挙で、天保十二年、眞田幸貫(松平定信の四子)老中へ、翌年「海防掛へ。」同年、「佐久間象山」幸貫の顧問へ、
⑥ かつて幸貫は象山を「修理は随分疵の多い男であるが、しかし天下の英雄だ」と評した。
象山、感激して「あの賢明な殿様から天下の英雄との折り紙は、身命も惜しまぬ忠臣たらん」と決意。
儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と評した。

アヘン戦争24.5.5佐久間象山


天保十三年十一月「感応公に上りて当今の要務を陳ず」(海防意見書)『海防八策』
一、 諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、 阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、 西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき樣仕度候事。
四、 海運御取締の義、御人選を以て仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、 洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駈引習わせ申度候事。
六、 辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、 御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、 貢士の法を起し申度候事。


佐久間象山の有名な「海防八策」で、これが建白されたのが『天保十三年』である。
そのように考えて見ると、象山の世界認識が、如何に先進性に富んだものであったかが解かる。
吉田松陰への大きな影響を見る事が出来る。
幕府で、象山の卓見をそれなりに評価したのは「川路聖謨」のみであったといわれる。
危機が人材を創出する一例と云えるかも知れない。


『吉田松陰の家族観』
【2020/05/08 20:54】 エッセイ
【家族を大切にしていた松陰】

この記事は、女性週刊誌の記者から、インタビューを受けて、語ったものが記事にされたものです。

 NHK大河ドラマ親のこころ若い楫取美和子松陰の妹 壽


『花燃ゆ』で、いまあらためて注目される吉田松陰と、その家族・杉家。ドラマではこれまでのところ、幕末という緊張感みなぎる時代に、まるでホームコメディのように温かく描かれている松蔭とその家族。実際の杉家も江戸時代とは思えぬ、おおらかな家風の家だったという。



 松蔭大学の客員教授で、長年、松蔭を研究している長谷川勤さんがこう解説する。
「人間とは皆で力を合わせて幸せな生き方を目指すもの、というのが松蔭の持っていた人間観。あの時代にそういった考えに至れるというのも、杉家の家風によるものが少なからずありました。松蔭は安政元年(1854年)、妹・千代に宛てた手紙のなかで、婦道=女性の生き方をといています。すでに嫁いでいた千代に、杉家のよいところを忘れるな、という思いを込めたのです」
 それが、吉田松陰「母の道」7カ条だった。
一、子どもの教育について母の教えというものを軽んじてはいけない。
二、子どもがお腹にいるときに言葉遣いや立ち居振る舞いに心を配れば、優れた子が産まれる。
三、氏より育ちというたとえもある。子どもを育てるのはそれほど重要な役目だ。
四、代々の先祖を敬いなさい。
五、嫁ぎ先は自分の家なのだから、夫の家の先祖も大切にしなさい。
六、親族が睦まじくすることが大切である。
七、夫人の言葉から親族が不和になることが多い。忘れないように。
 男性絶対優位の家父長制が敷かれた江戸時代に「母の教えを軽んじるな」と説く松蔭。コラムニストのペリー荻野さんは「そこが松蔭の新しさですよね」と話す。
「松蔭はお母さんが大好きだったんですよ。だからこそ、生涯独身の彼が、妹に婦道を説くこともできたんでしょう。ドラマでは、檀ふみさん演じる母・滝は折々で口癖のように『世話ぁない(どうってことない)』と、いい味をだしてますけど。まさに、あの母の柔らかさが杉家の家風そのもの」
 前出の長谷川さんは、次のように語る。
「千代への手紙で婦道を説いた松蔭ですが、大河ドラマのヒロイン・文にも、彼女が嫁ぐ際に言葉を送っています。『お前は年も若く、優秀な夫に比べ知識も劣る。だが、心配はいらない。そのぶんこれから勉強すればいいんだ』と。松蔭は女性の学問の必要性を、この時代、すでに訴えていました。その点だけを見ても、いかに進歩的な考えの持ち主かがわかると思います」

吉田松陰がこのように妹達に諭したのは、「自助努力」、則ち人はその境遇に適応しながら生きるのであるが、そこに、いつも自分がよりよく生きる(松陰の場合は、世界の国々のなかで、日本が誇りを持って生きる)為に、国民一人一人が、懸命に努力して、経済的にも、文化的にも、高い水準のなかで素晴らしい日本を創ろうとの切なる願いがあったのである。
武力で制圧される「香港」の生き方は、日本人はしてはならないという、切実なる願いが吉田松陰の願いであったのです。そのためには、自分の命は、万が一捨ててもかまわないという殉国精神があったのです。


『毛利氏発祥の地』
【2020/04/08 17:14】 エッセイ
『毛利氏発祥の地』

180318毛利氏発祥の地②DSC04043

厚木市下古沢659 三島神社境内にある毛利氏発祥の地碑文
(毛利季光屋敷跡)


毛利氏は源頼朝が開いた鎌倉幕府の功臣であった大江廣元(一一四八―一二二五)から出ている。
大江廣元は頼朝の政治を補佐し、とくに守護・地頭の設置を献策したことで知られている。これらの功により現在の厚木市小鮎・荻野・南毛利地区などを中心とした『相模国毛利庄』をはじめとした多くの所領が与えられた。
廣元には六男五女の子供があり、四男の季光(一二○五―一二四七)が後を継ぎ、庄名をそのまま名字として毛利季光と名乗った。
季光は毛利元就(一四九七―一五七一)や毛利輝元(一五五三―一六二五)の先祖であって大江流毛利氏の始まりである。
季光が居住した屋敷は遺物等に残っていないものの、地域伝承や古地図、古い地名などからこの三島神社を中心とした一画にあったと伝えられている。

神奈川県厚木市の三島神社境内に、「毛利氏発祥の地碑」があり、その碑文には、上記のような説明がなされている。平安時代には「森」と呼称された土地(荘園)を安堵されたことから、【森=毛利】となったのである。
現在も、厚木市内に、「毛利台団地」と呼称される一画がある。おそらく、この土地一帯を安堵されたものであろう。
三島神社は、毛利季光の邸があった場所である。
厚木市は、現在の神奈川県のほぼ中央にあり、東名高速道路が通り、小田急小田原線の主要駅のひとつである。
新宿駅からほぼ一時間(急行)で到着し、北に丹沢山系を背負い、豊かな田園風景の名残が見られる。

江戸期は幕府の天領や旗本の所領等であった。
2020年2月現在の人口は22万4千人で、神奈川県北部の中核都市となっていて相模川を挟んで立地する。

『西郷隆盛と吉田松陰』
【2020/03/11 18:08】 エッセイ
【西郷隆盛と吉田松陰】ー名利を求めぬ心ー

岩波文庫に「西郷南洲翁遺訓」(山田済斎編)(1939年2月2日第一刷発行)がある。全編で108頁の薄い本である。その105頁に「書後の辞」と題してこれが刊行された経緯が書かれている。比較的短文なので記して見る。
「遺訓の由来は、明治三年荘内候の公子酒井忠篤・忠實を初め、藩士菅實秀・三矢藤太郎・石川静正等数人来たって薩に寓し、屡々翁に就いて教を乞ふ。已に帰り、其聞く所を纂めて一書となし、之を同志に頒ちしによ起る。明治23年三矢藤太郎之を荘内に印行し「南洲翁遺訓」と題す、是れ遺訓印行の始か。29年佐賀の人片淵塚琢再び之を東京にて板行し、「西郷南洲先生遺訓」と題す。爾来有志者往々之を傅寫し印刷して珍惜愛誦せり」と。

西郷隆盛と吉田松陰西郷隆盛と吉田松陰190927人は何故勉強するのか



なぜ、このようなことが行われたかについてである。簡単に言えば、荘内藩の人々が戊辰戦争の時に受けた西郷の姿勢、態度に感じ入ってしまったのである。その結果「西郷信者」となったのである。事情は、次のようなものであった。戊辰戦争で敗者となった荘内藩に対し、官軍の総大将であった西郷隆盛は城下に兵を進駐させる時、みずからの兵士の刀を取り上げたのである。その反面、敗者側の刀はそのまま帯刀を許したのであった。荘内藩は譜代中の譜代大名である酒井家であり、三河武士の精神を伝える「武士道」を誇り高いものとしていた。西郷隆盛もこと「武士道」の体現者として、敵とはいえ荘内藩の誇りを理解していたうえでの行動であった。即ち、荘内藩は最後の最後まで徳川家の為に戦ったことへの深い理解があったのである。それゆえ、参謀の黒田清隆に対し、敗者として扱わせず、丁重なる態度で寓した。荘内藩はどちらが勝者なのかと戸惑ったと言い伝えられている。この黒田の態度から、西郷の胸中を知った荘内藩は藩を挙げて西郷に対し尊崇の念を抱いた。幕末期に三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした荘内藩である。仇敵の関係でもあったのに、この西郷の「武士道」的態度に尊敬、信頼の念を抱く。戊辰戦争後、荘内藩は有望な若者たちが私淑する西郷の下に書生として直接教えを請うたのであった。その教えから学んだ成果がこの「西郷南洲翁遺訓」に纏められたというわけである。敵軍をして尊敬させてしまう西郷の度量の大きさというものである。

実はあまり知られていないが、西郷は二十代のころ陽明学を学んでいる。吉田松陰も平戸で陽明学と出会っている。松陰は独学に近い学びであったが、西郷は松陰以上に陽明学を信奉したようだ。元来、陽明学は知行合一を理念とし、知識を世人に役立てようと行動する在り方に、西郷と松陰の共通性を見るのである。松陰の思いやりは松下村塾の塾生に対する接し方でもわかるように、それが感化力の原点ともいえるものとなった。単なる武士の情けと次元を異にするのであって、西郷の荘内藩への態度にもそれを見ることが出来る。しかも、名利を求めない生き方も松陰と西郷は共通する。吉田松陰が安政六年初頭、江戸の情勢を知らせてくる門下生の情勢観望論に対して、意見を異にした時、「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違うなり。其の別れる所は、僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」、と断定したのである。此の時、松陰は野山獄に再度の収監中であった。西郷も、功業への思いより忠義の思いが強かったと思える。西郷の陽明学は伊藤茂右衛門に学び、大塩平八郎や春日潜庵を高く評価していたようだ。この二者は陽明学者でもある。明治維新の陰に陽明学ありと云われる所以でもある。因みに山田方谷、大塩平八郎、河井継之助、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、春日潜庵など陽明学信奉者である。西郷が揮毫を頼まれると「敬天愛人」と書したのは有名である。松陰が松下村塾で、指示に従わず、反抗した態度をとった「市之進」に対して叱った言葉も「私を相手にせず、天を相手にせよ」と厳しく指導したのも「天」に対する考え方の共通性を見てよい。いずれにしても、人間愛にあふれた逸話の多い両人である。西郷も松陰も出発は朱子学である。そこに、多感な青年気に陽明学と出会い、行動的で、功利や名利を求めない主体性を重んじた考え方の下に自らの信じる道を生きたのであり、自己の生命への執着が少なかったようであって、二人の最期もある種の潔さがあったのであろうと思うのである。
西郷隆盛は、戊辰戦争の後、明治元年11月、鹿児島に帰る。「福澤諭吉の、学問のススメ・文明論の概略」を読んでいた。私学校の青年たちを慶應義塾に入学させた。両者は面識がなかったが、お互いに認め合っていたようだ。福澤も「丁丑乙論」を著し、西郷を擁護の論陣を張っている。
福澤諭吉著作集の「丁丑乙論」の解説には次のように記されている。「福澤と西郷とは面識はなかったが相互に認め合う間柄だったようである。福澤は、廃藩置県が西郷のイニシアティブによってなされたことを高く評価し、西郷は、みずから福澤の著書を読んで感銘するところがあり、鹿児島出身者を慶應義塾に学ばせたという」


【高杉晋作から周布政之輔】宛ての書翰
【2020/02/19 18:23】 エッセイ
『高杉晋作』から『周布政之輔』への書簡

安政六年十月十二日、江戸にいた高杉晋作に帰国命令が出た。五日後の十七日江戸を発ち、京阪地方を見物して、翌月十六日萩城下に到着した。高杉を待っていたのは江戸から萩までの帰国途次の間に執行された師・松陰の「刑死情報」であった。
安政五年七月二十日、高杉は「江戸遊学」を目指して萩を出発した。
八月十六日に江戸到着以来、一年二か月の江戸滞在であったが、この間に「師・吉田松陰」が安政の大獄に巻き込まれ、江戸召喚命令が下り六月二十五日に江戸藩邸に到着。
そして、七月九日第一回の取り調べを受け、即日揚り屋入りとなって伝馬町の獄に収監された。

高杉は、獄にいる松陰の世話をしつつ多くの接触機会や、書簡を受け取っている。
萩の松下村塾で学んでいた頃より、師との語り合いや接触機会が格段と多くなったであろう。
重要な書簡も交わされて、「丈夫(武士)死すべき処如何」と問うた事に対する松陰からの返信は、晋作に大きな影響を与えたとされる。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(安政六年七月中旬・書簡)の有名な言葉はかくして生まれた。



前年七月江戸へ発つ高杉に松陰は、有名な『高杉暢夫を送る叙』(安政五年七月十九日・戊午幽室文稿)を書き与え、大いに激励をした松陰であったが、今度は恩師が獄に収監されて、恩返しともいえる身辺の世話をしているのである。
松陰は幕府の取り調べの様子を詳しく高杉に手紙で知らせている。(安政六年七月九日頃・書簡)
これが残っているために取り調べの内容が今日にあっても我々は詳しく知ることが出来る。
高杉は毛利藩に在って「大組」という中核をなす階級に属し、また毛利譜代の名門家臣として普通の状態であれば藩主の側近にまで取り立てられる家格の出身である。従って晋作の父小忠太は、常に「大それたことをしてくれるな」と云っていた。
高杉家の御曹司の一人っ子として生誕しているから、親として子の安泰を願う思いはひとしお強かったのであった。

150101高杉晋作150420正装の吉田松陰200219周布正之輔


武士階級のみが学べる藩校「明倫館」で、当時の通常の学問である「四書五経」を始めとする儒学を学べば、大過なく送れる人生を約束されていた晋作であった。
しかし明倫館の学問にあきたらず、松下村塾の門を叩いたのが彼の人生を大きく変えたのであった。
だが親はそれを快く思わず、晋作は夜になってそっと家を抜け出して松下村塾に通った。
元来が素質豊かな青年であったこと、久坂玄瑞という優秀な人物が先に入門していた事もあって奮起し、努力の甲斐あって成長著しい成果となるのである。
それは師の松陰をして喜ばせるに充分であり、『高杉暢夫を送る叙』にそれが赤裸々に綴られている。
こうして期待を担って江戸遊学を果したのだが、晋作の安泰を願う父親は尊王攘夷活動の危険を回避させようとする。
だからこうした態度を忌み嫌う親を評して『僕、一つの愚父を持ち居り候故、日夜僕を呼びつけ俗論を申し聞かせ候』(高杉晋作全集・上、九四頁。安政三年三月二十五日・久坂宛て書簡)となるのである。
そのように悩みを抱えながらも、時勢を知る晋作にとっては親との葛藤状態は続くのであったが、江戸に在った晋作にとって思わぬ機会が巡ってくる。
それは獄中にある松陰との濃密な接触機会であった。そうして、またもや松陰との接触を嫌う親の願いで帰国命令となる。

江戸遊学も松下村塾で、吉田松陰との接触を避けるべく父親の潘府への申し入れで実現した経緯がある。
そしてまた江戸からの帰国を画策されたのも、松陰との間を引き裂こうとする父親の願いであった。
そして冒頭に書いた如くに帰国命令を受け萩に戻されるのであった。しかし、今度は事情が異なる。晋作が帰国途上の間に師の松陰が幕吏の手によって処刑されたのである。


晋作の無念さは余りあり、当時の藩府の重職に在った周布政之輔に対し次のような激しい文意の手紙を書かずにはいられなかった。
即ち『我が師松陰の首、遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交わりを結び候程の事故、仇を報い候わで安心仕らず候』と。
確かに当時の状況からすれば尊王攘夷の活動には危険が伴うが、松陰の時勢観と「死の教育」を見せられては黙視するわけにはいかなかったことであろう。
高杉の言う「愚父」の願う俗論では神国日本の存在そのものが危うい状況に在る。
師松陰からの死生観を聞かされた晋作は、松陰の死後それを実行する。
「生きて大業の見込み」があれば、一時の逃避も辞さない。
本藩の下関の直轄を嫌う支藩や当時の潘庁を動かしていた反対派(俗論派)から命を付け狙われていると知ると、筑前に逃亡して潜伏する。
そして割拠論の実現のために舞い戻り功山寺の挙兵となり、元治の内戦に勝利する。
これが第二次長州征伐での勝利に繋がり、松陰の説く「大業」のために命がけの行動となった。
半面から言えば「死してはならない」という師の教えでもあった。
また松陰の晩年に行きついた草莽崛起の考えも継承発展させて「奇兵隊」の創設という、封建制度下の厳しい身分制度を打破して近代軍隊の基を実践して見せたのであった。
このように松陰の教えを継承した高杉は、久坂玄瑞と共に「松門の双璧」と称えられるのであった。
そうして、幕府との戦い(四境戦争)に勝利し、「不朽の大事業」を果してその生命の完全燃焼という生涯を送ったのである。
大政奉還の半年前、慶應三年四月のことであった。


【東行前日記】①
【2020/01/28 13:52】 エッセイ
東行前日記

吉田松陰が二度目の野山獄に収監されていたときの、「安政六年5月14日」兄の杉梅太郎が「幕府の召喚命令」を伝えたことがかかれている。
その報は当時「江戸桜田藩邸」にいた、直目付の長井雅楽がわざわざ帰国して、このことを持ち帰って藩に伝えている。
とかく松陰と確執があったと云われる長井雅楽だけに、わざわざ自分が帰国しているのも、「長井が松陰を幕府に売った」と門下生の一部は信じ込んでいたという。
松陰死して二年後の文久元年、長井雅楽は「航海遠略説」を建言し「幕朝関係の一体」を説いて時代の寵児となった。
これが、幕末において外様藩が幕府政治に公然と容喙する端緒となった。

その後に「薩摩藩」も負けじと、幕府政治に関与してくる。
久光の上京がそれである。
そしてその足で江戸に向かい、幕政改革(徳川慶喜に将軍後見職、政事総裁職に松平慶永を登用)を押しつける。
さらに「参勤交代の緩和」となり、以後開国と攘夷を巡る確執を伴いながら、国内政治は混迷と混乱の度を深めてゆくことになる。

五月十四日  午後、家兄伯教至り、東行の事を報じて云はく、「長井雅樂、之れが為め故ら特に國に歸りしなり」と。
薄暮、家兄復た至り、飯田正伯・高杉晋作・尾寺新之允連名の書を致す。
云はく、「幕府有志の官員佐々木信濃守・板倉周防守等、水府及び諸藩の正士の罪を寛くせんことを請ひ、聽かれず、是れに坐して罷免せらる。
今先生幕逮を蒙る。願はくは身を以て國難に代り、且つ懇ろに公武を合體するの議を陳べられなば社稷の大幸なり」と。
家兄の初め至りしときは事未だ確定せず。
乃ち一絶を作る。

密使星馳事若何     密使星馳す事若何(こといかん)
人傳縛我向秦和     人は傳ふ我れを縛して秦に向って和すと。
武關一死寧無日     武關の一死、寧んぞ日なからんや、
何倣屈平投汨羅     何ぞ倣(ならわ)ん屈平汨羅(べきら)に投ずるに。

政府頗る余が幕訊に就き、事の國家に連及せんことを慮る。
余、因って今春正月論建せし所の一條を書し、家兄に託して、之れを長井に致す、附するに一詩を以てす。
   東命執拘我れを致す、行くに期あり、詩もて親戚故舊に別る。謝枋得北行別の詩の韻による

幽囚六歳對燈青     幽囚六歳、燈青に對(むか)ふ、
此際復為關左行     此の際復た關左(かんさ)の行を為す。
枋得縦停旬日食     枋得縦(ほしいまま)に旬日の食を停め、
屈平寧事獨身清     屈平寧んぞ獨り身の清きを事とせしや。
邦家榮辱山如重     邦家の榮辱、山の如く重く、
軀穀存亡塵様輕     軀穀の存亡、塵様(ごと)く輕し。
萬巻於今無寸用     萬巻今に於て寸用なく、
裁嬴大義見分明     裁(わずか)に嬴(あます)大義見て分明なるを。

政府(長州藩・藩府)頗る余が幕尋に就き、事の國家に連及せんことを慮る。

このように、長井が松陰の召喚命令をもって帰国したのは、藩への悪影響(幕府からの嫌疑を蒙る)を恐れていたことが解る。
これは、「安政の大獄」が江戸で吹き荒れていたために、長州藩が連座しないようにとの判断が背後で為されていたことを物語る。
松陰は、この時は勿論、翌月末に桜田の「江戸藩邸」でも、再度、藩の立場を守るよう、評定所の尋問での「想定問答」を確認されたのであった。


『国史大辞典』の【松下村塾】
【2020/01/01 18:09】 エッセイ
【松下村塾】国史大辞典の説明

「松下村塾」という名称は日本人ならば、大半の人が知っているに違いない。しかし、正しく知っている人もまた少ないように思われる。恐らく、「松下村塾=吉田松陰」と理解されている向きが多いと思われるので、「国史大辞典」での説明を記しておくことも必要と思われるので転記しておこう。

幕末・維新期の私塾。天保十三年(1842)創設。長門国萩城下の東郊松本村(山口県萩市椿東)にあったことから、この名が付けられた。史跡。もとは吉田松陰の叔父の玉木文之進の家塾。ここからは、吉田松陰・杉梅太郎(民治)・山県半蔵(宍戸璣)が出た。文之進が役職に就いてのち、松陰の外叔久保五郎左衛門の家塾がこの名を襲用した。
安政元年(1854)三月の密航未遂事件で獄中にあった松陰は、許されて生家の杉家にもどり、同三年に事実上の村塾の主宰者となった。同四年十一月杉家の宅内にあった廃屋を改修して塾舎とし、翌年七月藩許を得た。村塾は、元来、庶民・下級氏族の教育機関だったが、松陰の思想を慕って入門する者が相つぎ、次第に政治集団の性格をつよめた。
門下から、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田栄太郎・入江杉蔵・楢崎弥八郎・寺島忠三郎・中谷正亮・大楽源太郎・野村和作(靖)・佐世八十郎(前原一誠)・伊藤俊輔(博文)・山県小助(有朋)・山田市之丞(顕義)・品川彌二郎等々が輩出し、長州藩尊攘・討幕運動の指導者、そしてのちに長州藩閥の中枢をなす人々が輩出した。安政五年違勅条約調印問題が政治争点となり、これを契機として松陰と塾生の政治行動は急に活発となった。その行動は激化の一途をたどる。藩政府は松陰を獄に投じ、村塾を強力な監視下に置いた。こうしたなかで、松陰が塾の指導者と期待した富永有隣も去り、村塾は一時廃絶の状態となった。
のち、村塾は再興され、明治元年(1868)二月藩庁は塾舎補修の費用を与えた。同二年官を辞した玉木文之進が再び主宰者となって塾の指導にあたったが、九年十一月門弟が萩の乱に参加した責めを負うて自刃。明治十三年頃、杉民亊により再興、村塾は同二十五年頃まで存続していたらしい。
明治三十三年八月塾舎の改修が成り、同四十年十月村塾内に松陰神社が創建されて県社となった。
参考文献『吉田松陰全集』、廣瀬豊『吉田松陰の研究』、玖村敏雄『吉田松陰』 (井上勲)

吉川弘文館の『国史大辞典』(全15巻)ではこのように説明されている。ここでは、どのような教育・学問が講じられたかは書かれていないが、一般的にはこの説明で充分であろうと思われる。学問や授業、教育方針や理念等々に就いては別途記して見たい。


『松陰の義弟・小田村伊之助』の遺書
【2019/12/11 22:06】 エッセイ
「小田村伊之助」の遺書

「楫取家文書」(Ⅰ)に掲題の文書が収載されている。妻の「壽」宛て。289頁。
正式な題名は『楫取素彦手記』元治元年十一月である。(この時はまだ楫取ではない)

先ず、この遺書の書かれた背景と、長州藩の抗争等の特殊性から記します。
長州藩は、積年の藩財政の赤字を立て直すべく、「村田清風」を改革の責任者に命じる。
田中彰著『幕末の長州』には、次に様に記述されている。
「村田清風は、文政年間すでに藩の財政改革に与かったりしていたが、一揆の余燼なおさめやらぬ天保二年十月二十三日、江戸当役用談役に任ぜられ、表番頭格となった。ときに四十九歳。その五日後には、かれとともに天保改革の主要メンバーである長屋藤兵衛や木原源右衛門もあいついで登用されている。そして、天保三年早々に藩政改革の基本綱領がつくられる。実は、この基本綱領こそが、のちに実行される長州藩天保改革の原案なのである。」(24頁)そして、清風が「八万貫目の大敵」とよんだ経常歳入額の役二十二倍の大借金を抱えていた。天保八年、毛利敬親が襲封。翌年郡奉行香川作兵衛とともに、清風は地江戸仕組掛に任ぜられる。「地江戸仕組掛」とは、改革担当者のことである。この改革はうまくいかず、清風はいったん辞任を申し出る(天保十一年)も、却下される。

そうして、天保十一年五月十日、七月七日に藩政府は会議を開く。村田清風(当役用談役)、坪井九右衛門(当役御用筆)、木原源右衛門(両人役)、中谷市左衛門(当役手元役)、長屋藤兵衛(御用所役)、仁保弥右衛門(同役)、小川善左衛門(同役)福原与左衛門(同役)、などの主要なメンバーが改革への活発な意見開陳を行った。そして非公開の原則を破って、藩財政が公開され、清風は天保十四年四月に「三十七カ年賦皆済仕法」を発令。これにより、一貫目につき毎年三十目の割で三十七カ年納入することで、藩に対する負債は元利とも皆済される。実は、これは商人負債への踏み倒しに近い。三十七年間元金を据え置き、その間は年利のみを支払い、最後の年に元金を皆済するという。そして、清風は天保十五年退陣、替わって坪井九右衛門が担当。早速、三十七カ年皆済仕法は破棄されて、「公内借捌仕法」が導入。ここから、清風の流れを汲む周布政之助(正義派)と坪井の流れを汲む椋梨藤太(俗論派)とが抗争を繰り返すことになる。(防長回天史)。高杉晋作の挙兵で俗論派を撃破して維新を迎えたという藩内抗争・政争の繰り返しが幕末の長州藩なのである。   
禁門の変や長州征伐での対幕府政策も、こうした抗争が背後にあった。そして「楫取素彦」は、正義派に属すると目されていた。従って、幕府恭順派(俗論派)による粛正が正義派に向けられたことで、楫取は、野山獄に収監され死を覚悟したのである。因みに、楫取の実兄である松島剛藏や、松陰が教えを乞うた長沼流軍学者の山田亦介もともに野山獄で俗論派のために斬殺された。(野山十一烈士)長い背景説明となったが、このことを踏まえて、楫取の遺書を読むことが必要である。以下、楫取文書176の読み下しを記す。

楫取素彦松陰の妹 壽



『申し残し候言の葉』
1、 邪正混雑、善悪入り乱れての時節柄に候えば、我々の身の上は、御裁許振りからして、遠島獄舎、または減知没収となるか、如何樣に立ち行き候やも計り難し。
去り乍ら我々の事は御主意を承り、道理を枉げぬ樣、心掛け候事に候えば、天地神明へ對し愧ずべきとも存ぜず候故、即今の、罪の有無は喋々(ちょうちょう)しく申す分には仕らず。天道は循環にして端無きものに候えば、只今の時勢は左迄に永続致すきにもあらず、我々の冤枉も霽れ候の時節も之無きとも申し難く、かかる困厄を気の毒とは思われ間敷く候。昔年、松陰兄のそこ元達へ申し残され候歌に、かくあらんをば武士の常とも申されしは此の時の事と思い合わさるべし。
此往は我々の心を察し貮人(ふたり)の子供を養育いたし、忠義へ道を訓導して賤しく淺ましきを見習うことを仕らぬ樣心を用いられ候儀頼み入り候事。
1、 むかし、菅原道真は博士の家柄なれども、宇多天皇からの御寵愛を以て三公(左右内大臣)と申して、朝政の御相談相手に成らせられしは、藤原時平など、その上首尾を妬まれて、終に大宰府へ配流の御身と成らせられ候。さりとても、道真の御忠誠は萬々年までも光り輝き天満宮と御崇敬仕り、時平の仕打ちを惡まぬ者はこれ無く、我々が不肖を以て道真に比べ候儀はもったいなき事なり。
御上の御寵愛を受け、御直の御用筋までも承り遂げ奉る其の節義に候はば、道真へ宇多天皇の御信用あらせられしにも似よりし事なれば、外々よりの嫉妬、讒言を沢山に被り候事、本より其の栝(はず)とも申すべきなり。之に依り罪名は、情実に浮き候儀、恠(あや)しき儀とも存じ申さぬ身柄にて斯様穩に落着きを付け候へば家内は本より骨肉眷族に至る迄、上を怨み、法吏を残酷と思い怨み嘆かれまじく候。
1、 此迄は、御役の余沢にて篤太郎、粂次郎とも見の廻りより、腰物類、雪下駄等に到る迄人並みに劣らぬ樣、相仕立てよ。尚、筆墨紙、その外の不足は見せ申さず候へども、家門へ衰薄に向い候より以前へ身慣れを打ち捨て、不自由を忍び、富家の子弟を見習い申さぬよう、厳重に申し聞かせる事が肝要の事に候。身柄は幼年より父上に離れ三人の兄弟母上の養育を以て人となるを得たり。その節のことを思いだし候へば、所帯邊(家計)も甚だ貧乏にして物習いを致すべき風情も之無く、母上、賃引織は禄の余力にて筆墨の買い出しまでも成され候へ。何も我々不自由を忍び、物習いも心掛け候へば、今日に到りとりあえず人並みに劣らぬ樣、成立つことが出來候。以來は此方幼年の事を思い出され母上様の御辛抱を手本と致し、子供等に不自由をこらえさせ、養育あるべし。
1、 身柄(私は)十二歳にして小田村姓を嗣ぎ、爾来艱難流離の身となり廿一歳にして、江戸へ罷登り永詰中、母上様方亡き人と成られ、五ケ年を経て帰国に候へども、我家と定まりし内も之無く、御親族中の厄害と成り、気兼ね、気苦労に打ち過ぎ候處、其元(壽)共當家に嫁せられし時の風情、烹焼きの道具さへ不足にて込(困)り勝ちの事は承知あるべし。その後、互いの辛抱にて、しばらくして一軒を立て、建具、敷物、台所道具迄も、蟻の餌を拾う如くにして集めし事なれば、汗の油とも申すべき也。只今にては一身の存亡すら測り難く、家財の損失を懸念するにも及ばぬ事なれども、一軒を建て居り候へば、日用道具は無くて叶わぬ物故、家財の始末も心懸りあり度き事也。まして、眼前手廻りの調度は、互いに辛抱の種に候へば、ざっと心得申さずて取扱いあるべき事なり。
1、 具足箱に藏置候、古具足、陣羽織等、此れ亦家伝來の物と申す物にも之無く候へども、やはり此方の辛抱溜にて仕調置(ととのえお)き、尚蔵書類も沢山には之無く候へども、四書五経抔(など)其の外、當季(当面)の物に、事は缺け申さぬ様に調置くべく候。
就中、四書幷に詩経などは、以前骨折り候て読み候故、書入れも致し置き候間、格別他人へ見せ、益にも成るまじく候へども、子供へは能々(よくよく)身柄(私の)勤學の有様を、此れにて知らせ度く候。左候はば、子供達が物の合点の参り候迄は、その元にて念を入れ、書物類も紛失致さぬ樣に心遣いあるべきなり。
1、身柄(私は)、大逆不道の罪を犯し候、覺えも御座無く候わば、拝領の品迄御取り揚げ相成るべき儀とも存ぜず候。此れ迄戴き候御品は、皆々御上(殿様)の御垢膩(あか)に染まり候呉服にて、勿体なき物なれば、大切に持ち傳え在り度き事也。又、家に残し置き候御先祖方の筆物幷に名高き人の掛物類も麁末(そまつ)に取扱い有るまじく候。此れも身柄の、物数奇(物好き)にて集め候儀にも之無く、やはり子供中成長の後、手蹟を見るも其の人となりを思い出し候へば、成立の助かりともなるべし。
1、親類、眷族の交わりを始め、隣里、郷党の契り迄、心を用いられ度き事にて、尤も附き合いなど申し候へば、物入りも之有る樣、相考え候へども、格別物を入れ候て、附き合いを致し候にも及ばず。手前の人柄を能くいたし賤敷胡亂(せんしきこらん)の者の仲間に入り申さず、士の楯を崩さず、婦徳を失わぬよう心得有るべし。

元治元年子の霜月
もと太郎
お久どのへ





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