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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

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講孟余話における「誠」
【2010/11/30 09:34】 エッセイ
離婁章句(上)十二章
孟子曰く、下位に居て上に獲(得)らざれば、民得て治むべからざるなり。上に獲らるるに道あり、友に信ぜられざれば、上に獲られず。友に信ぜらるるに道あり、親に事えて悦ばれざれば、友に信ぜられず。親に悦ばるるに道あり、身に反みて誠ならざれば親に悦ばれず。身に誠なるに道あり。善に明らかならざれば、其の身に誠ならず。是の故に誠は天の道なり誠を思うは人の道なり。至誠にして動かされざる者は未だこれあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり。(岩波文庫『孟子』(下)33頁)
(注)誠を思うは人の道なり=誠を思う、誠〔の徳〕を実現しようと思って努力すること。
孟子24.4.23



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「狂夫の言」
【2010/11/22 17:12】 エッセイ
安政五年正月六日、松陰は「狂夫の言」と題する時務論を書いた。そこに曰く「天下の大患は、その大患たる所以を知らざるに在り。苟くも大患の大患たる所以を知らば、寧んぞ之れが計を為さざるを得んや。當今天下の亡びんこと己に決す、その患復た此れより大なるものあらんや。」
「天下の大患」とは、自分が病んでいることを自覚していないことにあるのだ!と松陰は言っているのである。何をもって「病」かというと、幕府の当事者能力のことをいっているのである。もっといえば、ペリーの出航を幕府はオランダからの情報で知っていながら、なす術もなく、対策もとらずに、情報も内密にしたまま、徒に時間を浪費してしまっていたのである。そして運命の嘉永6年6月3日の浦賀来航を迎えるのである。


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松陰と儒教⑤
【2010/11/21 17:47】 エッセイ
今日から、『四書』を離れて吉田松陰の著作との関連で、掲題のことを検証することにしたい。「吉田松陰は儒教の申し子」といったが、全集の中から此れを抽出してみる。松陰は「思想化」の一面をもつが、その思想検証にもなると思う。全集の随所に、思想の一端を垣間見る事が出来るが、ここでは『武教全書講録』(全集第四巻)から見てみよう。


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吉田松陰と儒教④
【2010/11/19 14:35】 エッセイ
孔子24.4.23
今回は『四書』の「中庸と誠」について書いてみたい。
先ず、「中庸」の第九章に下記のように書かれている。
「凡そ天下國家を為(おさ)むるに、九経(きゅうけい)あり。日わく、身を脩むるなり、賢を尊ぶなり、親を親しむるなり、大臣を敬するなり、群臣を体するなり、庶民を子(慈・いつく)しむなり、百工を来(ねぎら)うなり、遠人を柔ぐるなり、諸侯を懐(なつ)くるなり」。身を脩れば、則ち道立つ・・・。
吉田松陰は、この全てを実践している。前回で松陰のことを「儒教から生まれ出でたる人の如し」と評したが、松陰は、この「九経」をまことに純粋に人生の実践目標としたかの如き生涯を送り、かつ著述も残している。

そして恐らく次の十一章の言っている事は、松陰の信念であったと思われるのである。

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吉田松陰と儒教③
【2010/11/17 20:12】 エッセイ
岩波文庫の『大学』に書かれている下記の文は、私にとっては吉田松陰の一生を語っているのではないかと錯覚しそうである。松陰の、あまりにも儒教的な生き方の純粋さに感動すら覚えるのである。松陰の最大の著作である『講孟余話』は『孟子』に託して、時務論を語ったのを纏めたものであるから、それは当然として、全集を紐解くと、いたる所に儒教用語が頻繁出する。歴史に「イフ」は禁物だが、福澤諭吉のように蘭学を修めていたら松陰の人生は一体どのようなものになったであろうかと、ふと考えるたくなる。
孟子24.4.23

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吉田松陰と儒教②
【2010/11/17 11:44】 エッセイ
我々が儒教を理解するのには、①大学・②論語・③孟子・④中庸・の順で、いわゆる『四書』の勉強のススメがよいと言われる。その意味で『大学』は「儒教入門篇」になるわけである。いずれも、岩波文庫で読む事が出来る。
まず、『大学』の解説の冒頭に解りやすく書かれているので、それを記してみる。


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吉田松陰と儒教①
【2010/11/16 20:42】 エッセイ
吉田松陰は『孟子』を5歳ころから読まされたという。叔父の玉木文之進の教育である。考えようによっては随分と乱暴な話である。しかし、江戸時代にあっては「職業選択の自由」がなかったから、吉田家に仮養子となったことがこのような修行を強いられる運命となった。孟子といえば「仁義」・「王道政治」である。松陰の生涯は儒教、とりわけ孟子と神国思想によって貫かれた人生であった。
孔子24.4.23



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『幽囚録』抜粋 意訳
【2010/11/13 14:16】 エッセイ
現在の幕府(日本)は、異人(外国人、特にペリー)の脅しに屈して、彼らの前に跪き、頭を垂れてその言いなりになっている。日本の国威がこんなに衰退してしまったことは、古代有史以来、なかったことである。<以上、序より>

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『幽囚録』
【2010/11/13 08:13】 エッセイ
『幽囚録』
安政元年冬、松陰は萩「野山獄」に収監されていた。ここで松陰最大の論文『幽囚録』が書かれた。これは松陰が佐久間象山の影響を受けつつ抱懐していた國家的時務論であり・・・志士としての松陰を記念する貴重な文献である。(玖村敏雄)
佐久間象山24.3.25

大論文であるので書ききれないため、要所を抜粋してみます。


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吉田松陰の『知行合一』観
【2010/11/10 16:47】 エッセイ
吉田松陰の『知行合一』観
松陰は、鎮西遊学中、葉山佐内の下で王陽明の『伝習録』に出会った。以下は、松陰が「知行合一」について記している部分である。「知先行後」が朱子学の解釈であったのを、陽明は「分離不可」であるとした。幕末期の陽明学信奉者は、西郷隆盛や河井継之助らがおり、明治維新の陰に陽明学ありといわれる。但し、松陰は自ら陽明学者たることを否定している。一つの学派に拘泥せず、良いものと思われるものは積極的に受け入れる立場をとった。



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『士規七則』 
【2010/11/10 13:52】 エッセイ
『士規七則』は、従兄弟の元服(の成人式に相当)に「武士の心得・生き方」を書き与えて、祝したものであるが、松陰の思想を知る上で極めて重要である。難字にはルビを施し(語句説明も)て、学生に配布し、一緒に読むのである。この『士規七則』と『松下村塾記』の史料を持ち込ませて「松陰の人間観・学問観」について記述させることを試験問題にしている。
士規七則24.3.25


  
            
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『松下村塾記』
【2010/11/09 19:55】 エッセイ
『松下村塾記』
吉田松陰の述作で重要なものを列挙すると、①『講孟余話』②『幽囚録』③『松下村塾記』④『士規七則』⑤『留魂録』が先ず挙げられる。しかし、①と②は長文なのでここに掲載は出来ない。
松下村塾記の「学は人たる所以を学ぶなり」や、士規七則の「志を立てて以て万事の源と為す」などの名言があります。
今日は、『松下村塾記』の読下しを記事にします。獄中教育の体験から、人を感化・教育する自信を得た松陰はこの中で「奇傑非常の人」を輩出してみせるといっている。事実、維新の大業で活躍した人物や明治政府の指導者を沢山輩出しました。松下村塾記は「教育宣言書」といえる性格を持ったものです。結果、宣言通りになりました。末尾に「解説」を紹介しておきました。私は、授業で学生と読みます。素読ですが、それに値するものと思います。長いですが、是非最後まで読んで頂きたいのであります。
松下村塾記24.4.20




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加藤公に祷る (西遊日記附録)
【2010/11/09 14:06】 エッセイ
これは、吉田松陰が、長州藩山鹿流兵学の、独立師範となって、すぐに長、平戸に修行旅行をした時の、帰途に肥後を訪問した時のことである。
松陰の生涯で、唯一「神頼み」を加藤清正の廟所に詣でたときのことで、弟の敏三郎の聾唖回復を、神に祈る思いで、松陰が、願掛け、したときの模様をきしたものであります。

少し、大変だが、全集の記事を転記します。
読みにくいでしょうが、頑張って読んでみてください。
難解な文字が並びます。昔の人は漢学だったから、こうした難文字も乗り越えて、自分のものとしたのでしょう。では頑張ってよみましょう。
吉田松陰


伏して惟んみるに我が加藤公は英武虓闙にして、威は三國に奮ひ、名は千載に傅はる、其の神は永へに死せず、霊験今に新たかにして、能く躄者も善く履むことを得、眇者も善く視ることを得しめたまふと。神の斯の民に功徳ある、其れ誰か敢へて尊信せざらん。遠方の人、區々祷ることあり、神其れ降監したまへ。
吉田敏三郎

某に弟あり、敏と曰ふ、生れて五歳、四體缼くるものなく、九竅咸は具はり、笑貌動息、人に異なることなし。唯だ其の言語喃々として章なく、得て聴辨くべからず。父母の慈、是れ憐み是れ痛み、醫治百たび施して至らざる所なし。人事既に竭きたり、将た又如何せん。情の迫る所獨り神明に倚るのみ。大凡人は唯だ其の心のみ、而して心の動くや言に由って述ぶ。苟も言ふ能はずんば則ち猶ほ心なきがごとし。心なきがごとくならば則ち人か、禽か、獣か、将た木石か、未だ知るべからざるなり。夫れ四體缼くるなく九竅咸な具はり、笑貌動息、人に異なることなし、然り而して猶ほ斯くの如し。豈に深憐重痛すべからざらんや。區々祷る所、神其れ降監したまへ。抑々某聞く、朱明の王守仁は五歳にして未だ言はず、其の名を改むるに及んで即ち能く言ふ。既にして其の道徳言功は百代に朽ちずと。天の非常の人を生むは必ず非常の祥あるか。果して然らば則ち神尚くは之を啓へたまへ。神明を冒瀆すは恐懼已むなけれども、亦唯だ尊信の至り已むを得ざるなり。神尚くは之れを察したまへ。某拝祷す。



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ペリー来航と松陰③
【2010/11/08 12:29】 エッセイ
道家龍助宛   六月六日    松陰在浦賀道家在江戸(長州藩邸上屋敷)

僕四日の夜、船を発し候處、甚だ遅し。且つ風潮共に順ならず。五日朝四ツ時漸く品川に到り上陸仕り、夜四ツ時浦賀に着仕り候。今朝高處に登り賊船の様子相窺ひ候處、四艘<二艘は蒸気船、砲二十門餘、船長い四十間許り、二艘はコルベット、砲二十六門、長さ二十四五間許り>陸を離るること十町以内の處に繋泊し、船の間相距(へだた)ること五町程なり。然るに此の方の台場筒数も甚だ寡(すくな)く、徒に切歯のみ。且つ聞く、賊船の方申分には、明後日昼九ツ時迄に願筋の事御免之れなく候へば船砲打出す由、申出たる段相違之れなく候。
黒船2425.10

<船は北アメリカ國に相違之れなく、願筋は昨年より風聞の通りなるべし。然れども國書は御奉行御船へ乗られ候へば出し申すべく、左なく候へば江戸に持ち参るべく申す由。願筋の外のことにては日本より舟をやりても一向に舟に乗せ申さず候。朝夕賊船中にて打砲いたし、禁ずれども聴かず>。佐久間併びに塾生其の外好事の輩多く相会し、議論紛々に御座候。濱田生近澤も参り居り候事。

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ペリー来航と松陰②
【2010/11/08 09:24】 エッセイ
嘉永6(1853)年ペリー艦隊が浦賀に来航、砲艦外交によって鎖国維持が出来ず、開国という国策変更を余儀なくされた幕末動乱の幕開けとなる。この報に接した松陰の書簡が全集に収載されているので書いてみます。大変だ!という松陰の受け止め方が深刻であった様子が読み取れます。6月4日と6日の書簡です。今日は、その第一回目です。短文ですが、深刻で「すわ、一大事」の感覚が臨場感を伴って聴こえて来るようです。



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ペリー来航と吉田松陰①
【2010/11/04 09:25】 エッセイ

吉田松陰は23歳の時、友人であった宮部鼎蔵(熊本藩士・山鹿流兵学者)等と共に、東北地方の沿岸防備視察に出発する時「過所手形」の発行を待たずに出発した為に脱藩行為と看做されて、藩から譴責を蒙ったのである。
それは、吉田家取り潰し、士籍剥奪となり、いわるゆ浪人となったのであった。正しく言うと、長州藩特有の「育」(はぐくみ)という中途半端な状態に置かれたが、実は松陰の才能を惜しんだ藩主の意向がはたらいていた。
つまり松陰は、特例として扱われて命拾いをした結果なのであった。
また、その背後には、松陰自身が日本流の兵学では世界に対応できない。西洋兵学を取り入れなければ、世界に伍して行けないことを、鎮西旅行で知ったのである。長崎でオランダ軍艦を視察して、日本流兵学の限界を悟り、長州藩の兵学師範を捨てるためにはこのような方法を、結果を予測しつつ、あえて敢行したのが実際なのである。
ペリーの顔2012.02.08



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