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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

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松陰の妹「千代」宛て手紙
【2011/04/30 17:16】 エッセイ
前回で「杉一族」のことを書きました。松陰は父に対して、日本語では最高の尊敬語をつかって「家大人」と書き、兄に対しては「家大兄」という言葉で書簡の宛名をしたためています。この背後には父や兄といった目上の人に対する尊敬の念が込められています。
わたしが、時に吉田松陰は「儒教の申し子」と表現してきましたが、松陰は、まさしくこうした礼儀正しい人となりでありました。なかなか普通人には真似ることも、あやかることも相当な努力が要ります。
妹千代


さて、掲題の記事に入ります。

全集第七巻、279頁:「妹、千代宛て」と題した書簡が収載されています。松陰が萩の野山獄からだした手紙で、安政元年十二月三日の日付です。これは、松陰が野山獄に投獄されて50日程経過したころの手紙である。

人の道、婦人の道、誠の在り方、孝行の在り方など、松陰の価値観、人生観がわかる。最後に、俳句の指導をしている。千代この時23歳。 大変面白い。以下、原文を下記します。
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「松下村塾」の「塾舎」模築のこと
【2011/04/26 20:39】 エッセイ
吉田松陰研究者として名高い海原徹先生が『エピソードでつづる吉田松陰』という本を書いている。奥様の幸子様と共著になっているが、吉田松陰のみならず、史蹟を訪ねるのに「内助の功」を頂き、相協力しあっての著作だそうだ。

それはさておき、掲題の説明を先生の著述に従って下記します。
全国に六つもの「松下村塾」の塾舎が模して築造されている。
松下村塾24.4.25

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長州藩の「士席」(身分)のこと
【2011/04/26 06:34】 エッセイ
安政期の「毛利藩」政府の「士席」つまり、身分階級である。
松陰全集をよむと、藩の要人の名前が沢山出てくる。この階級が解かりにくい。
解かり易くするために、整理したものを書いておいた方が役立つと思う。
萩藩上士屋敷
(この写真は、寄組という上級家臣の邸にイメージです、立派な屋敷です)
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杉一族のこと
【2011/04/20 19:53】 エッセイ
吉田松陰は、養子となって吉田家を継いだのであるが、生まれは杉家で百合之助の二男である。現在でも養子または婿入りの習俗は残っているが、江戸期の武士は、この「養子制度」をフル活用して、家名断絶を防いだ。杉、吉田、玉木は一族である。特に長州は家格がいろいろあったが、この三家では吉田家が最も家格が高かった。「維新の先覚・吉田松陰」の1頁に生い立ちが記されているが、以下のように記されている。


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松下村塾零話(雑録)  
【2011/04/20 09:28】 エッセイ
(全集第十巻:関係雑纂収載)        
明治三十年    天野御民 
天野御民:冷泉雅次郎 名は清稚。号は本清、長州藩士にして、歌人なる冷泉古風の子。天保十二年萩土原に生れる。明治二年天野家に養子となり、重次郎と称したこともある。林百非(真人:松陰幼時の山鹿流の教師)の甥。安政四年(一八五七)、十七歳の時松下村塾に入る。松陰殉難後、奇兵隊に入る。四境戦争の時御楯隊に在りて従軍する。維新後司法官となり、明治三十六年没。

予は幼時水戸の会沢安翁が遺範を読みて、其の師藤田幽谷先生の事蹟を詳述せられたるに深く感じたりき。頃者偶然此の事を思ひ出して、松陰先生の松下村塾に於ける事どもを記述せんとも思ひ立ちしが、如何せん予が先生に従学したるは僅かに一年有餘のみ、加之、予は此の時年甫めて十七八にして、何事も意に留めず、且つ先生没後巳に殆ど四十年、見聞したることも多くは遺亡したり。されども、今世人の多く知らざることを思ひ出づる毎に、左に記載して天下後世に伝えんと欲す。又以て先生の平素と村塾の模範の一斑を伺ふに足らん。・・・
渡邊蒿藏



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松下村塾零話(雑録)
【2011/04/20 09:24】 エッセイ
(全集第十巻:関係雑纂収載)        
渡邊蒿蔵談話 第二    
 昭和六年四月  広瀬 豊(全集編集委員、元海軍大佐)

一、 松陰の写真と称するものの鑑定を乞ふ。曰く、全然異人なり。



二、 自分は安政四年暮より安政五年迄塾に在り、安政六年には十七歳であった。
三、 先生から何の為に学問するかと問はれたる事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない、学者になるには本を読みさへすれば出来る、学問するには立志と云ふ事が大切であると。
吉田松陰と松下村塾24.3.25


四、 東坡策は松陰先生の入獄前に書いて貰って居たのであるが、入獄の時先生獄中に携帯して評をつけて返して呉れたものである。(東坡策批評は、東坡策の活写本「宋蘇軾の策文二十五篇を我が藤森大雅が撰した三巻もの」を、門人渡邊蒿蔵(天野清三郎)が師命で写し取ったものに、松陰が批評したものである。その写取は安政五年で、翌年正月野山獄において松陰が批評した。そいて松陰は、加評して、表紙見返しの短文と巻尾の文とを書き、天野に返した、今萩市松陰神社蔵となって居るのはその渡邊氏の寄贈本である。)
五、 先生は塾生が読書や抄録をして居ると、「ちょっと借せ、書いてやらう」と云はれて、評やら注意やらを書いて呉れ、極めて手軽に指導された。
六、 塾には飛耳長目録と云ふもの(遠方のことを見聞することが出来る耳や目)ありて、今日の新聞様のものを書き綴りしたものである。主に交友又は上方(京都)より来る商人などの談によれり。 


西遊日記③
【2011/04/19 19:30】 エッセイ
松陰の生涯で、大きな意味を持った「鎮西遊学」、この修業の旅は、松陰の人生行路を大旋回させる。まず、松陰が下田での密航に同伴した金子重之介に語った、松陰を知るのに酔う言葉がある。松陰全集第3巻:「講孟余話」401頁に「余嘗て亡友澁木生の為めに、學業の次序を語りて云はく、地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ずる者は地理より始むと」。この言葉通り、長崎へ行く途次での道中、帰路の佐賀から肥後の道中でのお国ぶりの観察を怠っていない。


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『浮世の有様』に見る「文政十年の詔」
【2011/04/19 17:30】 エッセイ
昨年8月20日の記事で「文政十年の詔」について書きました。これの当時の出来事や関連した記事が掲載された、大変珍しい本がありますので、今日はこれを紹介します。


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西遊日記②
【2011/04/19 09:04】 エッセイ
前回で、松陰が独立師範になって鎮西に修業の旅(江戸期はこれを遊學と呼称した)に出て、葉山佐内の下で修業したことを書きました。
今日は、この内容についてもう少し深く語りたいと思う。
財団法人・松風会刊行の『吉田松陰日録』という、松陰研究に大変有用な本があります。
この本は、松陰の生涯を、日時を追って記録した大変便利で、役立つ本である。相当の労力を要して刊行されたものと思う。松陰全集から可能な限りの、行動記録を追って記したものである。


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「西遊日記」①
【2011/04/17 21:00】 エッセイ
松陰は19歳で、「山鹿流兵学師範」となった。真剣な厳しい修業に堪えての成果である。以後、自藩(長州藩)以外に、修業の場を求めて、全国行脚が開始される。
今日は、初めての藩外の遊学先である、「肥前の長崎、平戸」に出発した時に綴った掲題の「序」を書きます。松陰21歳の夏である。

西遊日記(松陰全集第9巻:23頁)

「序」

道を學び己を成すには、古今の跡、天下の事、陋室黄巻にて固より足れり。豈に他に求むることあらんや。顧ふに、人の病は思はざるのみ。則ち四方に周遊すとも何の取る所ぞと。曰く、「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり」と。西遊日記を作る。
庚戌九月                        長陽 吉田矩方識す



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福川家本自賛と跋文
【2011/04/17 17:16】 エッセイ
三分出廬兮諸葛已矣夫一身入洛兮賈彪安在哉心師貫高兮而無素立名志仰魯連兮遂乏釋難才讀書無功兮撲學三十年滅賊失計猛氣廿一回人譏狂頑兮郷黨衆不容身許家國兮死生吾久齊至誠不動兮自古未之有古人難及兮聖賢敢追陪

余再獄繋於野山獄前後篆 司獄福君愛顧甚多褚中有感吾未報者 今茲今月会由有関左厄臨別蒼皇録肖像自賛以贈之
二十一回猛士寅書

※この福川犀之助(野山獄司獄官)は、松陰の在獄中で自分の機転(独自の判断)で何かと便宜をはかってくれた。獄中夜間の「蝋燭の禁止」や「兄、梅太郎の松陰訪問」の頻度、そして自身が「獄中勉強会」で松陰に弟子の礼をとって学んだ。さらに弟にも勉強会参加をさせている。


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吉田松陰肖像自賛(跋文)
【2011/04/17 17:11】 エッセイ
前回、掲題の内容での記事を書きました。読んで下さった方から、質問も頂き、私も調べて応えることを通して、結果として勉強になりました。感謝。

今日は「賛」でなく、賛の後に書き添えられている「跋文」について書きます。
「跋文」は、特定の人物に送るための言葉が、おのおの異なっております。また、これを書いた日と最後の署名が、書かれていて、それぞれ異なっていることも確認下さい。 
吉田松陰自賛画像2012.4.13



では、書き下し文ながら紹介してみます。六幅分です。なお、野山獄の司獄であった「福川犀之助」(福川家本)に書き与えたものは、賛は、久坂家本と同文で、跋文はネットで大体が読めますが少し読み切れず、不明な文字があり、時間をかけても調べてみたいと思っています。
コメントを寄せてくれた「坂本さんが」この、福川家ほんのURLを教えてくれたので、これをクリックすると現物写真がみられますので、折角ですから、坂本さんに感謝してここにそのURLを記しておきます。ぜひ、ご覧になってみて下さい。自画像はありませんが、無ければ無いなりに味わいがあるように思えます。



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「松陰の教育」
【2011/04/13 13:25】 エッセイ
山口県教育会刊行の「維新の先覚・吉田松陰」という写真や絵図が随所に、しかもふんだんに挿入されているB5版サイズの良い本がある。表紙の表と裏には「松下村塾記」の原典が刷られている。松陰の自筆の書体である。吉田松陰の入門には格好の書物である。
内容も、年代記風に構成されていて、重要な文献は抜粋したものが多いが、原典を現代文に書き換えられているので、大変読み易くなっている。(要点部分が抜粋されている)

ここに、掲題の「松陰の教育」が書かれている。(86頁)
吉田松陰に精通した専門家でないと書けないであろうと思える名文がある。
ブログを読んでくれる方には、是非とも推薦したい本である。松陰を学ぶ人々は、この本を「行きつ、戻りつ」して繰り返し、繰り返し精読するとよいと思う。
なお、「山口県教育会」は財団法人であって、山口市大手町にある山口県教育会館内にある。ここには、「財団法人・松風会」という吉田松陰教学研究団体も入っている。
まさしく、教育県の名にふさわしい。
▼▽写真をクリックすると画像が拡大します
松下村塾記

では本文を記すことにする。


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「兄・梅太郎からの手紙」
【2011/04/12 20:14】 エッセイ
松陰は、野山獄で「二十一回猛士の説」を書いた。これを兄に見せたところ、次のような返信が来た。面白いので紹介する。

兄・梅太郎から二十一回兒とは何と云ふことかや? と聞いて来たのが安政元年十一月一日であった。これに対して松陰は返信で「別紙のとおり」と返信の中に「二十一回猛士の説」や、他の原稿を見せたようである。
杉梅太郎


原文の一部を抜粋して、下記します。

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「門下生の松陰先生回想」①
【2011/04/12 20:11】 エッセイ
吉田松陰全集第十巻に門下生の回想録が「関係雑纂」としていくつか収載されている。
門下生に、松陰先生はどのような印象を持たれたのか。興味あるところである。
この回想者は松下村塾の塾生で最も長生した人である。昭和14年まで生きた。聞き取りをした方は、定本版松陰全集の編集委員で、松陰研究の第一人者と言われた方である。

渡邊蒿蔵談話 第一 (全集第十巻:関係雑纂収載) 
大正五年七月八日 聞取    安藤紀一(吉田松陰全集定本版編者)

渡邊蒿蔵談話(わたなべこうぞう):(一八四三~一九三九)旧名天野清三郎。松下村塾の門下生。高杉晋作の奇兵隊創設に尽力。慶応三年イギリスに留学して造船術を研究。明治七年帰国し工部省に入る。のち長崎造船所を創設。昭和十四年没。九七歳。松下村塾生としては最も長命。この談話の当時、翁の年齢は七十四歳であった。
渡邊蒿藏



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「松村文祥を送る序」
【2011/04/12 16:51】 エッセイ
松陰全集第一巻収載:69頁 未忍焚稿:弘化三年(1846)

これは同学の松村文祥が安芸へ修業に行くので書いたものである。
松陰の同学(松下村塾での)に書き与えた「送序」である。送序というのは、人が旅立つときに、その人への期待や旅の意義、安全等を書いて「贈る言葉」である。

松陰は生涯に30通あまりの「送序」を書いている。特に松下村塾時代の門下生への「江戸や京阪への遊学」には、心を打つものが多く、村塾の教育方法の大きな柱でもあった。
ここで注目したいのは、この文に「志」という語が6回も使われている。後年「志を立てて以て万事の源と為す」という名言を遺したが、学問、修業にあたって「志」を重んじた証である。ここでは「医学修業の旅立ち」だが、これが成功するか否かは「志」如何であるといっている。松陰は17歳で、自身も山鹿流兵学師範の修業に勤しんでいた時期である。おそらく、自分にも言い聞かせながら書いたに違いない。
「志」に注目しながら読んでほしい。

では原文を下記する。

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「松陰の勉強ぶり」
【2011/04/12 11:51】 エッセイ
松陰が、下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に、618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても、兄梅太郎の協力があってこそのことである。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛は美しい。
そのこともあってか、松陰は「三余説」を著して自分の読書欲のあり方をここで云っている。
獄中で余暇がたくさんあるのを、無駄にすべきでないと考える松陰であった。
三余


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吉田松陰自賛肖像
【2011/04/11 19:51】 エッセイ
吉田松陰自賛肖像
(全集第九巻収載:東行前日記:543頁)

有名な松陰の肖像画が描かれた掛け軸である。松陰と云えば、この貌を思い浮かべる人が多いだろう。
安政六年(1859)五月、松陰に江戸送りの命令が下された。門下生「久坂玄瑞」の発議によって松浦松洞によって松陰の肖像を描かせたものに、松陰自身が「賛」を書いた。

現在七枚が残されている。最初の保持(贈り先宛名あり)した家に因んで①吉田家本②杉家本③品川家本④岡部家本⑤中谷家本⑥久坂家本⑦福川家は賛のみで跋なし。が描かれた。(中谷家本の「跋」に予人の為に此の賛を書す。凡そ七通。今すでに之れを厭う。賓卿(中谷正亮)復たもって見んことを迫る。嗚呼、賓卿我れにおいて最旧(の友)なり。それ辞すべけんや。将に之れを発せんとするの前夕(五月二十四日二十一回猛士寅書)と書かれているので、それがわかる。)因みに最初に書いた吉田家本が五月十六日であるから、九日かけて書いたことになる。

原文を下記する。
松陰 松陰2



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吉田松陰全集について③
【2011/04/11 16:14】 エッセイ
(3)、大衆版(大和書房
尚、この全集は「江湖の要望」に応えて、2012年2月再度、刊行されました。少し装丁が異なります。

「刊行のことば」

幕末の俊傑吉田松陰に対して、山口県には今もなお「吉田松陰先生」という敬称をつかって呼ぶならわしがある。これは単に松陰が当時生国萩の城下において、山鹿流兵学の師家を継いでいる好学有為の青年として得た信頼からだけのものではない。

三十年を一期とした短い生涯ながらも、最期の際まで道を求め続けるという厳しい人生の歴程が、そのまま真摯な人間行者としての鑑であり、また青年の誘掖にあけくれした罪余の生活が、そのまま偉大な教育哲理の実践であったという事実として、郷土後進の胸裡に敬仰思慕の灯を点じ、脈々として今に伝承したものである。これをただに地縁に結ばれた郷土人の親昵感からくる素朴な情誼としてのみ看過してはならない。松陰先生こそ時代に若さをつくる人間の原型であり、民衆が思慕する魅力ある未完成の人間像である。
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吉田松陰全集について②
【2011/04/11 16:10】 エッセイ
(2)、普及版(岩波書店)

「刊行の辞」

吉田松陰先生は時代を超えていつまでも皇國臣民の行くべき道を指示する英霊的存在である。その精神規気魄は継て起る後輩の血脈に鼓動して永劫に死せず、其の思想信念は繹ぬる者の胸奥に息吹して萬世に滅びない。當時維新回天の偉業を翼賛し奉つた防長の才俊が、其の膝下に學んで躍々たる生命力を育まれた如く、今日新しき世界史の展開を完遂すべき一億臣民は、其の精神に参入して逞しき雄魂を涵養しなければならぬ。此の意味に於て、先生の遺著はまさに國民の書、特に青年の書たるべきものである。襄に本會が吉田松陰全集っを公刊するや、十巻六千頁の厖大且つ難解の書籍たるにも拘らず、絶大なる讃辞と歓迎とを蒙り、忽ちにして肆上に其の影を没するに至つたことは、以て先生の偉大さと江湖鑽仰の熾烈里を證するものと謂ふべく、刊行の事に當つた本會としても誠に欣快に堪へざる所である。

然るに前の全集は其の大部分が漢文であり、文中又漢土の典據故事を引用せる語句多きが為めに、一般人士としては訓讀の困難を歎ずることが尠くない。
かくては折角の金玉の大文字も、一部の學者有識者に獨占せられて、其の内に含蓄抱擁する燦然たる光鋩を遍く後世に発揚するに由なく、舊全集の荷へる眞價と意義とは自ら別として、亦聊か憾みなきを得ざる次第である。
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