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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

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吉田義卿を送る
【2011/05/31 06:42】 エッセイ
松陰の海外渡航は、「ジョン・万次郎」の漂流にヒントを得て考えられたものと云われている。万次郎は天保12年出漁中に遭難して漂流中アメリカ捕鯨船に救助され、アメリカでの教育を受ける機会を持った土佐の漁師である。10年後の嘉永四年(1841)に帰国、土佐藩庁に出仕、翌年幕府に出仕して翻訳等を担当。咸臨丸での渡米では通訳を務めるなど、数奇な人生を送る。江戸期は理由の如何を問わず「出国禁止」で、罰則が与えられるのが掟であったが、幕末にあって外国船が頻繁に近海に現れるようになり、罰則どころか「仕官」するという、時代の味方に助けられる配慮のお蔭で命拾いした経歴を持つ。これが、佐久間象山の考え出す海外渡航の非常手段であった。ここから、松陰に激励文の漢詩が贈られたのであった。全集二巻に収載されているが、漢文なので書き下してみる。
佐久間象山
佐久間象山 

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有名な奉拝鳳闕詩のこと
【2011/05/30 13:01】 エッセイ
宮内庁の御物となった『奉拝鳳闕詩』です。
かなり、詳しく説明をいれました。
岩倉具視が感激して言葉を失うほどでした。
吉田松陰碑
平安神宮の鳥居前にある京都府立近代図書館
前庭、吉田松陰の「奉拝鳳闕詩」石碑

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吉田松陰名語録
【2011/05/29 23:36】 エッセイ
吉田松陰は、いくつかの「名語録」とでも云うべき、印象的なことばを遺している。
今日は、私の好きな「15の語録」を書きだしてみた。「致知出版社」からは、三冊もの本が刊行されている。
松陰の学問は「誠」に象徴されるごとく、心を打つものが多い。そして、「志」にちなむことばが印象的である。一面、「詩人」と称す人がいるのも首肯しえる。
親に対する思いはまるで『孝教』そのものである。親孝行といいたのであるが、それは、本人の思いと裏腹の現実であった。まことに、自分の信念を貫くために、親兄弟や親戚に迷惑のかけ通しの人生であった。杉一族は松陰が「事件」を起こすたびに連帯責任をとらされた。
添付の写真は、有名な「山河禁帯」で始まる、『奉拝鳳闕詩』は尊王の心が伝わってくる「美しい詩」でもある。明治22年、皇后陛下より松陰の母宛に「下賜品」を受け取った、かつての「門下生」内務大臣、品川彌二郎が感涙にむせびながら、これを松陰の兄、民治(旧名梅太郎)に『彌二が心中お察し下さるべく候』と書簡をしたためた気持ちも解ろうというものである。
003.jpg 

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「吉田松陰の日本人としての誇り」
【2011/05/28 19:05】 エッセイ
吉田松陰の生涯を概観すると、日本人としての誇りを持つに至った理由がわかる。いくつか列挙してみよう。
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「久坂玄瑞」と「坂本竜馬」
【2011/05/24 21:32】 エッセイ
平成四年、以前にこのブログで記事に書いた「マツノ書店」から『久坂玄瑞全集』が刊行されている。編者は萩市出身の福本義亮氏である。この方は吉田松陰の著作も大著『吉田松陰の殉国教育』をはじめ、松下村塾関連の著書も多く残している。この全集に「久坂玄瑞先生年譜」が詳細に書かれてある。この年譜の文久二年正月十四日と二十一日に、龍馬との有名な出会いが記述されている。坂本龍馬関連の書物には必ず掲載されているものだが、そのまま書いてみる。
萩市平安古 久坂玄瑞誕生之地
久坂誕生の地 

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吉田松陰と西郷隆盛
【2011/05/18 21:34】 エッセイ
岩波文庫に「西郷南洲翁遺訓」(山田済斎編)(1939年2月2日第一刷発行)がある。。全編で108頁の薄い本である。その105頁に「書後の辞」と題してこれが刊行された経緯が書かれている。比較的短文なので記して見る。
「遺訓の由来は、明治三年荘内候の公子酒井忠篤・忠實を初め、藩士菅實秀・三矢藤太郎・石川静正等数人来たって薩に寓し、屡々翁に就いて教を乞ふ。已に帰り、其聞く所を纂めて一書となし、之を同志に頒ちしによ起る。明治23年三矢藤太郎之を荘内に印行し「南洲翁遺訓」と題す、是れ遺訓印行の始か。29年佐賀の人片淵塚琢再び之を東京にて板行し、「西郷南洲先生遺訓」と題す。爾来有志者往々之を傅寫し印刷して珍惜愛誦せり」と。 
西郷隆盛

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松下村塾④
【2011/05/18 08:47】 エッセイ
吉田松陰の人気が、衰えるどころか益々増大している。何故かと、いつも自分に問う。社会にも問われているのだと思う。
昨年も、何冊かの松陰研究書、または吉田松陰の伝記的書物の多くが刊行され、あちこちで吉田松陰に関する講演会が開かれている。
私も、仕事の性質上、関心を抱かざるを得ない。「吉田松陰の人気は、日本の歴史上指呼に入るのみならず、常に上位を占め続けるに違いない」。と、その衰えることのない人気ぶりと同時に「多くの支持者」が常に存在することを指摘した研究者が云っている。
確かに、この指摘は正しい。
吉田松陰と高杉晋作24.3.25

しかし、残念ながら読み易い研究書や伝記の刊行は後を絶たないが、原典に立ち向かうとなると、これはもう、「根気と忍耐」を大変に必要とする。それは、難しいのである。現代の「何事も素早く、合理的に」という考えでは、とても実現できないのである。つまり、ダイジェスト的に理解することは困難で、その上に奥深いのである。吉田松陰全集が過去に三度刊行されているが、それには「訳」があるのである。
昭和九年に刊行された『定本版』の第十巻の編集後記に、記されているが時代性も考え合わせないといけないと思う。

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嘉永四年八月十七日の「兄」への書簡
【2011/05/15 14:30】 エッセイ
この書簡は、数ある松陰のなかでも、大変意味深長なものである。
松陰は、前年の鎮西遊学にて自分の精神世界の狭さを知った。多くの人々に交わりながら自分の世界観を広げるに如かずというのが心の奥底にあったことが、自分の体験によって確かめられたのであった。江戸に留学して、見聞を広めることの大切さを身を以て学んだのである。
これに関連して、江戸に遊学して半年経過したころに、故郷にいる兄に送った書簡がある。非常に素直で、尊敬する兄に思うままを吐露した書簡である。沢山のやるべき學問に対してほとんど悲鳴に近い、心の叫びが聞こえてくるようである。経學への思いが頭の中を相当に占めてきて、本業の兵學への懐疑も勃々たるものがあったように読める。方寸錯乱ぞ!と心の整理がつかない苦しさを吐露している。これは信頼する兄に宛てたから書けたのであって、少し甘えているようにも聞こえる。この四か月後に問題の「東北旅行」に「過所手形」の発行を待たずに、「稽古切手」という、藩邸の外出用の許可書のみで飛び出してしむのである。思うに、伝統的な日本古来の學問や兵學に対する懐疑の思いが、日増しに強く成っていったと推測される。昭和19年に「吉田松陰東北遊歴と其亡命考察」(諸根樟一著)という、専門の高価な研究書がある。いつかこれを読んでみたと思っている。
少し長いが、そのまま原文を記してみる。是非とも最後まで読んで頂きたい。
吉田松陰の思想と行動24.3.25



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松下村塾③
【2011/05/15 11:02】 エッセイ
松陰の「松下村塾」は、日本の教育史上極めて特異な光彩を放っている。
一介の浪人、而も国事犯の人間が、ある種の「暇つぶし」的に促されて実践したことの延長線上に、その「塾」があったからである。
したがって、全国的には勿論、藩として公認するまでには時間を要したのであった。私塾とは江戸期に在っては、これといった基準があったわけではない。教育の目的や、学問の本質的な意義が問われたわけでもない。このようなことから「学問とは何か?」、「何の為にするか?」といった基本的な問いは発せられないまま運営されていた。
松下村塾 

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運命の東北旅行出発
【2011/05/15 11:00】 エッセイ
前年の鎮西旅行で大きな収穫をえた松陰は、翌嘉永四年一月、藩主の参勤交代と共に江戸遊学することになる。中谷正亮と一緒に、江戸へと向かう。
江戸での成果に期待はしたものの、江戸の大先生方は學問を商売としていて、期待外れにやや気落ちしたようだ。ただ佐久間象山のみは、違った。入門の時に正装をしていなかったことで「門前払い」に近い、出直しを要求されてしまう。再度出直しで入門を請い、許可を得る。偶々、鎮西旅行で知り合った宮部鼎蔵も江戸に来ていて再会。薩摩の藩士からの情報では、ロシア人が南下して、略奪を重ねている由。
竜飛岬24.5.9

では、北辺の守りを視察に行こうということになって、七月に藩から内諾を得た。ところが直前になって、「過所手形」が交付されていないことに気付く。藩邸では出発時期を延期せよという。さらに、南部藩の江幡五郎が兄の仇討を遂げたいことから、途中まで一緒に行くことになる。
東北地図


約束はしたものの、肝心の過所手形が間に合わない。無許可のまま、出発すると「脱藩行為」と見做され、藩士として最も許されないことになるが、約束もある。板挟みの状態で出した松陰の結論は手形なしのままでの出発である。


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大義を議す
【2011/05/11 19:47】 エッセイ
(戊午幽室文稿)安政五(1858)年七月十三日

まず、原文を記す前に、私の解説的なことを少し書きます。この年、幕府は天皇の合意無きまま「日米修好通商条約」に調印。大老「井伊直弼」は就任時に二つの大きな解決すべき問題を抱えていた。一つは、将軍家定の後継をめぐって一橋慶喜か紀伊の徳川慶福(後の家茂)の決定を迫られていた。もう一つは、この日米通商条約の勅許問題である。結果として、将軍継嗣問題は紀伊の慶福と決定した。朝廷工作に当たっていた一橋派の英邁な将軍の実現をという願いは、井伊を始めとする「溜間詰」派の推す慶福の世子実現で決着。条約締結は、ハリスに押されまくった交渉で追い込まれた、已むを得ない措置として調印。しかも無断勅許である。これに怒った松陰は掲題の稿を書いた。此の書は『討幕』なる語が初めて出る論文で、松陰がラジカルな方向へ急旋回する重要なものである。文中『征夷は天下の賊なり・・・勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』という激しい語が並ぶ。松下村塾も「政治結社」化していく。以後、松陰は政治的決起のプランを矢継ぎ早に打ち出すことになる。尊王開国からペリーの砲艦外交に屈した時、攘夷へと変容、さらに無断調印で遂に松陰は「尊王討幕」へと変わる。
井伊直弼正装24.3.25

安政五年という年は、幕末前半期では一つの大きな節目となった。以後、動乱へと急旋回していくのである。


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「兄杉梅太郎」宛て書簡
【2011/05/11 07:14】 エッセイ
嘉永四年九月十三日」

松蔭:在江戸
兄 :在萩

この書簡は、その後の松陰を発奮させることになった、ある種の記念すべき書簡である。
なぜか?
それは、抜粋ながら、以下の文面を読んで下さい・・・・・或るひと云ふ、「漢唐宋明代のこと最も精しく記得すべし」と。
杉梅太郎


此れ亦其の理ある事なれば御玩味下さるべき様、同人へ御傅言頼み奉り候。且つ日本歴史・軍書類尤も力を用ふべきものの由、或る人に聞き候へども、未だ及ぶに暇あらず。其のひと云ふ、「御藩(長州藩)の人は日本の事に暗し」と。私輩國命を辱むる段汗背に堪へず候。此れ等の事た承りながら、火吹竹流にて直様人に譲り、人をして大名を成さしめ、己れ遂に其れが為めに鞭を取りて従ふに至らんとす。遺憾萬々。然れども朋友の義黙止難く、仍つて件の如し。・・・・・
松陰の手紙24.4.25



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松下村塾②
【2011/05/09 06:20】 エッセイ
松下村塾の外観については、日本全国に模築したものが六ヶ所もあると言う記事を4月26日に書いた。根強い「松陰人気」というか、支持者、ファンがそれだけ多いということの、一つの証左になるものと思って間違いない。しかも、世代を超えて、息の長い人気である。何故そんなに松陰ファンが多いのか?
これは興味ある疑問である。思うに、松陰を知る者にとっては、真剣に自分の人生を生き抜いたということが、日本人のお手本になると受け止める方が多いものと私は推測する。
「最も日本人らしい日本人」として、松陰を尊崇する人々、とりわけ教育に関心ある方々にとっては魅力ある日本人の典型として印象されるのかも知れない。

松陰の立志実践教育

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松下村塾①
【2011/05/07 20:15】 エッセイ
吉田松陰と云えば、イコール 「松下村塾」とイメージされて、幕末の「教育者」を連想させるが、それは松陰と云う人物の僅か30年という短い人生での、「修己治人」の事業であったと云うこともできる。己に厳しく、門下生には常に「師弟同道」を念頭に置き、門弟の成長を願って、優しく「諸友」として遇し、時には厳しく「人の道」を研鑽探究したのである。この成果が、人間教育として大きな足跡を残すことになる。将に「松陰」という人格のなせる「感化力」が時代を超えて、今日でも共感を呼ぶ所以である。

基本的には漢学を柱としながらも、時代性を鋭く意識した「時務論」なども一緒になって勉強した。だから「学問の為の学問を」を厳しく排除し、「実学」を追及する姿勢を常に持っていた。『士規七則』に言うところの「志を立てて以て万事の源と為す」や、『松下村塾記』に書かれた「学は人たる所以を学ぶなり」などの名言を残した一方で、「今、天下は如何なる時ぞや」と問いかけることも忘れなかった。
これらは、松陰の人生観、世界観、学問観の一端を垣間見せてくれると思うのである。


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品川思父に與ふ
【2011/05/05 22:21】 エッセイ
松陰は15歳で松下村塾にきた品川彌二郎を彌二、彌二と呼んで可愛がった。反面、彼が塾を何日か続けて休んだことがあった。この時は、歩いても、ほんの2~3分なのにわざわざ手紙を書いている。この手紙を読んで出てこないなら、もう君は友人ではないと、厳しく接している。

反省した品川は、再度塾にて学ぶことになる。以心伝心なのか、明治になって内務大臣にまで出世した品川は、「尊攘堂」を建てて松陰の遺品の保存に尽くす。
品川彌二郎24.3.25

現在京都大学の構内にそれがある。ここには、例の「吉田松陰自賛肖像画」の「品川家本」も蔵している。近年、明治神宮で明治維新に因んだ文化催事の展示会があったが、この時この「品川家本」が展示されていた。残念ながら撮影禁止のため、写真に撮れなかった。


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小田村伊之助に與ふ
【2011/05/05 21:05】 エッセイ
安政六年五月十八日、全集第九巻:東行前日記、574頁収載
吉田松陰は、野山獄に再度収監中の安政六年五月十四日、兄より「幕府からの江戸送りの命令」を聞かされる。以後、10日間蒼皇たる日々がつづいた。七幅とも八福とも云われる「自賛肖像画」に、賛を書き入れ、最後の中谷家本の跋には、もう飽いたと悲鳴?をあげている。この間、門弟、友人に書を贈った。掲題のはとくに松陰の妹婿にあたるので、正直な心中を吐露しているようだ。
楫取素彦24.4.24

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再び『吉田松陰自賛肖像』について
【2011/05/05 21:03】 エッセイ
前回、掲題の記事を書きましたら、深い関心を示してくれた方がおりました。ありがたいことで、励みになると同時に、副産物として「福川家本」の自賛が『文化遺産データベース』で見られました。ありがたいことです。今回、その「福川家本」の跋文が全集に収載されているので書いてみます。



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『文政十年の詔』補足としての「歴代将軍官位」
【2011/05/04 06:30】 エッセイ
徳川十一代将軍「徳川家斉」が朝廷から太政大臣の位階を受けるにあたって、江戸城でこれを受けた。本来なら上京して京都でこの栄誉を拝受すべきであるのに、それをしなかった。幼児に父親の杉百合之助が、この家斉の不遜な態度を憤っていたことを聞かされていた松陰は忘れていなかった。
徳川家斉24.5.9

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小説『花の生涯』の松陰の最期をめぐって
【2011/05/01 06:31】 エッセイ
『花の生涯』 NHK第一回大河ドラマ

掲題の小説がある。舟橋聖一の作品であるが、これはNHKの大河ドラマの第一回(昭和38年)で放映された。以後、今日まで、この大河ドラマは日曜日の看板番組ともいえる息の長いシリーズとなっている。昨年(平成22年)福山雅治演じる「坂本竜馬」が話題をよんだのは、記憶に新しいところである。
この「花の生涯」の原作は昭和27年7月10日から、翌28年8月23日までの408回毎日新聞夕刊に連載された。(日本歴史文学館26、花の生涯483頁、「たか女覚書に収載」

この小説の主人公は、安政の大獄を指揮したことで有名な幕府大老「井伊直弼」の生涯である。井伊家は徳川治世期の譜代大名の筆頭で、大老を輩出できる名門の家柄であった。
主人公の直弼は文化12年生まれで、井伊家第11代当主の直中の14男であるから、世子となるのは閉ざされていると本人も当然のように考えていた。因みに直中は名君として名高い。しかし、運命は以外な展開で直弼を藩主にする。「埋木の舎」と称した部屋住みの生活を過ごしていたが、世子だった兄の死により、嘉永3年に36歳で彦根35万石を継ぎ13代藩主になる。14男が世子となるというまことに珍しい運命であった。彼は吉田松陰と同じく「山鹿流の免許皆伝」であった。これが運命のいたずらのような関係を齎す。
舟橋聖一


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