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恩人の先達「今泉嘉一郎博士」
【2012/01/30 01:40】 エッセイ
今泉嘉一郎博士

今日は、全くの個人的なことを書く。日本の製鉄産業の功労者、今泉嘉一郎博士に連なるご縁である。
今泉嘉一郎博士は、私の社会人としての出発にあたって、お世話になった恩人の一族の方の先達である。

幼かった私は、還暦を直前にして半世紀近く前にお世話になった恩人に、お礼の挨拶を思い立ったのであった。就職でお世話になりながら、学業不足を実感してその会社を退社、進学を目指した。しかし18歳の私は、退職挨拶をすべきところが、挨拶に行けなかった。お世話してもらいながら、進学を目指すことだけの理由で、確たる裏付けや自信がなかったのであった。しかし、運命の神は見捨てなかった。勿論、その後は悪戦苦闘の人生航路ではあったが、初心を貫徹出来た。
その達成が目前に見えた時、ふと急に思い立ち、恩人への挨拶をしていなかったことを思い出し、念願の御挨拶と報告を兼ねた恩人宅の訪問がかなった。それは、定年退職の直前であった。以下は、省略して掲題の本論を書き連ねたい。
今泉嘉一郎博士23.3.29

今泉嘉一郎博士は、慶應三年、今の群馬県みどり市東町(当時は勢多郡東村)花輪に今泉常子の長男として生誕した。
群馬県


この花輪とは、私の故郷の隣村の村落の一つである。
今なら私の実家から車で15分程度の距離である。
公害の原点として知られる渡良瀬川のせせらぎが聞こえる、山間の寒村である。
花輪小学校

博士は当時の前橋中学(現前橋高校)から東京帝国大学工科大学に進み、「採鉱冶金学科」を学んで明治25年に卒業、その後農商務省に入る。
別子銅山の含銅硫鉄化鉄鉱の湿式収銅法の研究で、榎本武揚に認められ、榎本の大臣就任とともに彼の内命にて、製鉄研究のためにドイツの大学で鉱山を学び、八幡製鉄の勅任技師長となり日本の製鉄産業に貢献した偉人である。
このことは7年前に詳しく知ったのであった。

大正四年に工学博士となるが、その少し前の明治末年に「日本鋼管株式会社」を起し、官営の八幡製鉄との競争原理を生かした品質、生産性等で官営に対する民間企業としての製鉄産業を起業し、「鉄は国家なり」を日本に植え付けた大功労者なのである。
いわば日本の資本主義の創設期に活躍した先達である。
昭和16年に亡くなられたが、私の父親が日本鋼管に努めたことを想起すると、運命的なご縁を感じるのである。
郷里の中学校を昭和37年に卒業した私は、縁あって隣家の方の紹介で、今泉博士のご一族の方にお世話になる。昭和35年、中央公論社刊行・「榎本武揚」(加茂儀一著)の285頁に今泉嘉一郎博士宛に書いた榎本書簡が掲載されている。
私は大変な方の一族の方とご縁があったのであった。
それを知ったのは、平成17年、2005年秋のことである。
それまでの長きにわたり知らなかった自分の不徳を思い、心の中で一人静かに赤面して恥じ入っている。「大変済みませんでした」と心から自分の不勉強を反省したのであった。


入社試験を受ける前日、恩人の家には兄と宿泊の便宜をはかっていただいたことを、50年経過した今でもかなり鮮明に覚えている。
私がお礼に訪問した平成17年、其の時は既に7年前にご逝去されたそうである。ご自宅の仏壇「ありがとうございました、遅くなっての御挨拶で申し訳ございません」と手を合わせていたら、不覚にも涙がこぼれてしまった。
ご子息の方は、大変ご親切な方で、その後入社出来て、お世話になったいきさつや、思い出話をしながら、恩人のアルバムまで見せて頂いた。懐かしかった。
さらに、墓参にまでご案内して下さった。鶴見駅前の大きな寺院に眠っていらした。
墓前でお礼の思いをこめた、私の言葉に対して、逆にお礼のことばをかけていただいた。その翌年の命日には、一人でそっと再度の墓参をしてきた。
帰路に、戦前父が住んでいたと思われる場所を、川崎市役所に当時の住居表示を伝えて現在の所表示を教えて頂き、現地を訪問してきた。私の生まれる前とはいえ、はるかな往時を偲んで、近隣をくまなく廻って脳裏に焼き付けてきた。現地から、携帯電話で姉に連絡して目標物の記憶を思い起こしてもらい、大凡の「居所の見当」をつけてしばし佇んだ。


私も戦後の生まれだが、上の姉や兄の四人は川崎市生まれである。
神奈川県


私一人だけ、兄弟のなかで川崎生まれではない。おそらくこのあたりに居を構えていたに違いないと、想像をたくましくして小1時間ほど立ち尽くした。
近くには渡田小学校があって、姉や兄は此処に入学したようである。
恩人宅を訪問するにあたり、日本鋼管と今泉嘉一郎博士の勉強をした。
我が家には非売品であるが『日本鋼管七十年史』の大著と『日本鋼管(株)二十年回顧録』(今泉嘉一郎著)がある。敬虔な思いで一礼をしてその本を紐解くのである。
因みに後者の刊行は昭和8年12月1日と奥付にある。勿論非売品であるが、古書店から購入して勉強してから、恩人宅を訪問するのが礼儀と心得、目を通してから伺ったのであった。二冊を持参して、ご子息の方にお見せすると、『勉強がすきなのだね!』と言われたが、感慨で胸いっぱいのため返事が出来なかった。


話は、不思議なご縁にもどるが、このご子息の方が、私の大学でお世話になった先輩とのお付き合いがあるという。『何というご縁なのか!?』と茫然とした。
さらに、恩人は夜間と昼間の違いこそあれ高校、大学(学部は異なる)とも同じであった。もう一つ、信じられない程の話がある。それは、前述の本に私の恩師のご縁に連なる方の祖父の名前が記されていた。私はそれを気付かなかったが、恩師はそれをみてすぐに気付いたという。
今もその「恩師を囲む会」と命名して、この十年間に5回程会合(謝恩)を持っている。私は、その会合の幹事を数回経験しているから、その方とも大変親しくお話が出来る間柄でもある。何という不思議か、その15名ほどのなかに今泉博士とともに「七十年史」にその方の祖父が名を連ねているのである。

事実は小説よりも奇なりとの語があるが、まるでそれを地で行っているかのような実話である。その方の祖父は戦前に貴族院議員になるほどの名士であった。
故あって、実名が書けないが、群馬の僻地で生まれ育ち、中卒後に徒手空拳の如き状態で上京した私の人生航路の「巡り会いの妙」に感嘆しきりである。
人はたくさんの方々のご縁を頂いて自分の人生があるという、正しくその通りである。


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「高木兼寛」と「松山棟庵」
【2012/01/23 12:24】 エッセイ
「高木兼寛」と「松山棟庵」

東京慈恵会医科大学の開祖「高木兼寛」は、日本で最初の「医学博士」である。時に明治21年。「開祖」とするのは、「慈恵医大」と通称しているが、これには多少の紆余曲折を経て現在の正式名称である「東京慈恵会医科大学」となった経緯があるからである。高木兼寛


この高木兼寛は一般には「慈恵医大の創立者」として知られているが、掲題のもう一人の人物については、関係者を除くとおそらく知らない人が多いと思われる。
病気を診ずして病人を診よ2012.3.29


高木兼寛より年齢は上であるが、この人がいたからこそ慈恵医大ありである。つまり、創立者の一人とまで言い切って差し支えない。
では、その「松山棟庵」とはどういう人物か、その経歴について少し記して見る。
松山棟庵24.5.6


天保10年(1839)9月17日紀州那賀郡荒川庄神田村生まれであるから、長州の「高杉晋作」と同じ年に誕生である。若かりし時に和漢の学を修めた経歴をもつ人物である。当時儒者であり蘭医であった「新宮涼庭」が京都に開業医として名声を博していて、その婿となった兄新宮凉介の食客となって、安政3年には新宮凉庭塾の塾長となり、漢籍の他に蘭学も学んだ。慶應2年(1866)蘭医ボードインが横浜にいることを聞いて、逢いに横浜へ出て来るが、お目当てのボードインは既に帰国してしまっていた。そして、順天堂の創始者「佐藤泰然」を介して蘭医マイエル、仏医ムリノを訪れ、いわゆる西洋医学を学んだ。その後、福澤塾(慶應義塾)に学んでから、明治2年和歌山に戻り医を開業した。明治4年に大学に徴され、大学東校に出仕、大助教となった。
慶應病院2012.3.29

明治6年三田の慶應義塾の医学所(第一回目の慶應医学部と考えてよい)の所長となった。だから慶應の医学は、明治6年から13年までが最初で、大正時代になって再興したのが現在に続く「名門・慶應義塾大学医学部」である。再興にあたり、生前の福澤にお世話になった「北里柴三郎」の福澤への恩返しの美談があるがこれは後述する。

高木兼寛はイギリス留学から帰国した翌年の明治14年に、松山棟庵と相談して「成医会」を結成、この講習所の所長となった。これが慈恵医大の原点である。それ故に創立者と呼称せずに「学祖」と呼称される。いわば、何名かの創立者たちの代表理事と思えば間違いないだろう。翌15年には有志共立東京病院を共同で設立した。この病院の最初の所長となった人物こそ、「松山棟庵」であって、これが慈恵医大病院となるのである。後年には看護婦養成所を創り「日本で最初の看護学校」となった。この背後には、イギリス留学時代に、ナイチンゲールの看護学校を目の当たりにして日本でも「看護婦」養成所を創るべきであるとの信念を抱いて帰国したのが大きい。
こうした紆余曲折の過程で、皇室との関係から校名や資金(経費)の援助があったので慈恵と皇室とは大変ご縁が深く、今でも慈恵大学の入学式には皇族が出席するのがならわしとなっているそうだ。実は明治天皇が脚気で苦しんでいたという、特別な事情もからんでいたのであった。即ち「松山棟庵」は正しく言えば、高木兼寛を支えた人なのである。

高木兼寛は戊辰戦争を軍医として、師のウイリスと共に活躍した後、明治8年英国留学し、留学先のセント・トーマス病院医学校を主席で卒業したというから、相当に頭脳明晰な人であったようだ。このセント・トーマス病院医学校は、今ではロンドン大学の一部となっているそうで、テームズ川を挟んだ国会議事堂の向かい合いにあったそうである。
嘉永二年(1849)の生まれであるから、ペリー来航の四年前である。生誕地は薩摩藩領の「日向」、今の宮崎市高岡で、穆左(むかさ)という地名や穆左小学校もある所である。宮崎の市街地から内陸に入ったところである。
ドイツ医学が明治新政府の受け入れるところとなったから、イギリス医学は官学的なものとならなかった。師事したのがイギリス人のウイリスという幕末に駐日英国公使館付医官として来日した人物の関係から英国医学に学ぶことになったいきさつがある。海軍の軍医総監となったので森鴎外(陸軍軍医総監)と共に軍医としての功績が大きく、男爵となった。脚気の研究で、別名「麦飯男爵」と呼称されるそうである。

後の日清戦役や日露戦争での死者では、「戦死」以外の「脚気」による死亡が多く、これの克服の研究(食糧の内容改善・ビタミンの不足)を、大々的に行い、実証的に証明するがドイツ医学の「脚気・細菌説」と対立した見解のため、実際には大変大きな発見でありながら世界的にこの仮説が証明されたのは彼の死後であった。大正9年4月72歳で死去したため、このことは高木の生前には大発見にもかかわらず、その証明は途上であった。しかし、高木の創立した大学は大正10年の大学令による私立の大学、而も日本で最初の医科大学という単科大学となった。高木の脚気説と対立したドイツ医学は、陸軍の採用したところとなったから「細菌説」を主張し、その中心人物であった森鴎外とは遂に対立のまま両者ともに、ビタミンによる脚気食糧説の証明を見届けることなく死去してしまった。大正期は「結核」と「脚気」が二大国民病とされていたので、高木兼寛の貢献は誠に大きいと云わねばならない。因みに、『脚気ビタミン欠乏説』が確定するのは、大正14年のことであった。
これを書いていながら『闘う医魂』という、北里柴三郎の事を書いた小説を思い出した。
北里柴三郎24.3.30

北里は東大を出てドイツのコッホ研究所に留学して、医学を学んで世界的な功績を残しているが留学時代に東大教授の学説批判をしたことから、帰国後にいわゆる冷や飯を食わされる立場になってしまう。
この日本の宝とも云うべき優秀な人材を、在野に埋もれさせるのはいけないと立ち上がったのが福澤諭吉である。麻布に北里伝染病研究所を自費で作り、北里に研究の場を作ってやったのである。これは後に国の管理するところとなるが、この福澤への恩返しで大正年間に慶應義塾が医学部を再興する時に、無給で初代医学部長を買って出たのが北里柴三郎であった。これは、語り継がれるべき美談であると私は思っている。

東京帝国大学医学部の権威主義と、「ドイツ医学にあらずんば医学に非ず」の考え方に辛酸を嘗めたのは、一人北里柴三郎だけではない。
高木兼寛もそうした経験者の一人であるのは上に書いた通り。このことは講談社文庫の『白い航跡』(吉村昭著)を読んで見るとそれがわかる。
この慈恵医大の建学の精神は「病気を診ずして病人を診よ」というのであるそうだ。病者の痛みを共感できる「医の心」が、このような建学精神になったものと思われる。これは高木兼寛の精神だそうである。「厳密な医学に裏打ちされた医術と、あたたかい心を兼備した医師の育成」が、慈恵医大の使命だというわけだ。


福沢諭吉と大隈重信②
【2012/01/10 18:59】 エッセイ
福澤諭吉と大隈重信
福澤諭吉が幕末に慶應義塾を創設し、大隈重信が明治15年に早稲田大学を創設して、今日「私学の雄」として近代日本、そして教育界に大きく貢献したことは説明するまでもないだろう。
大隈重信
明治の政治史上、「14年の政変」は薩長藩閥の政治主導を決定づける大きな事件でもあったが、歴史の皮肉とでも云ったらよいのか、この事件がなければ今日の早稲田大学はまず誕生しなかった。つまり、大久保利通亡きあとの政府を代表して「筆頭参議」を務めていた大隈が、国会開設意見書をめぐって薩長出身の政治家達と対立したことから、政府を追われることになったのである。そこから早稲田大学が生まれるのである。
121210早稲田大学

日本国憲法案や国会開設が薩長出身者達と意見を異にしており、時の参議の中で大隈だけが意見書の提出が遅れていた。正しくは彼の知恵袋的存在だった、慶應義塾出身の矢野文雄や、側近だった小野梓らが意見書を起草していたのであったが、一人大隈だけがイギリス流の議院内閣制や早期国会開設という急進的な内容であったので、意識的に提出を遅らせていたのであった。これを訝った伊藤博文が画策して、案文を手に入れたことから事態は急展開することになった。折から、政府は解決を迫られていた二つの案件があった。それは「北海道開拓使官有物払下げ事件」と「自由民権運動の高揚」からくる「国会開設請願」への対応であった。前者は、薩摩の黒田清隆が、開拓のために政府が投下した金額を極端に下回る額で、同じ薩摩出身の五代友厚に払い下げようとしたことが明るみに出て、政府攻撃を受けることになった。この背後に、三菱の岩崎家と結託した大隈、福澤の存在があると、勘ぐられたことから政治事件化したもので、両者はもちろん、彼に連なる慶應義塾出身の官僚たちも一斉に辞職、下野したのであった。
また、憲法については立憲国家への模索から、私擬案が元老院を中心に検討されていたのであった。概ねプロシャがそのモデルであったが、大隈はイギリスに範を置いた考え方であった。明治四年の岩倉遣欧使節団は、当時のビスマルクとプロシャの現状に感じ入って帰国したのであった。その点では大隈は留守の政府を預かりながら、維新後の新政府で改革事業の陣頭指揮をとっていたから、彼らとは異なった構想を持っていたことにその対立の淵源があるといわれる。つまり、明治3年にドイツの誕生があって、普仏戦争に勝利したことから、各国の実情をつぶさに見聞して西欧文明に対する劣等感にさいなまれていた大久保や伊藤が、新生ドイツの宰相であったビスマルクから国家建設の薀蓄を聞いて、俄然日本も殖産興業を盛んにして「富国強兵策」を実現すれば、西欧に追いつく可能性があると気付いたことから、西欧文明の摂取に自信を以て積極的になったのであった。
だから、征韓論などは彼らにいわせれば、とんでもない些細なことであった。

この明治国家形成期の実情を踏まえて、福澤と大隈を見ていくととても面白いのである。
世上、「早稲田・慶應」はライバルとして知られるが、それは一面であってむしろ手を携えて今日を築いてきたという方の側面が強いのである。それとは別の観点から、この二人の大学創立者の異同を見ていくと、意外な面が見えてくる。では二人の実像を見て行こう。福沢諭吉



福澤は中津藩の下級武士の出身で、漢学を相当に修めた後の19歳の時に長崎へ蘭学修行(砲術稽古)に出発したことから、人生が開ける。時に安政元年であった。幕末に勤皇僧として有名な「月性」(この人物は吉田松陰と大変親交が深く、書簡が松陰全集に収載されている)という周防の国の人物がいる。この人が詠んだ、大坂への遊学の旅立ち時の決意で「立志の詩」というのが有名で、福澤の胸中も同様だったと思われる。
その有名な詩は次の如し。「男児志を立てて郷関を出づ。学若し成る無くんば復た還らず。骨を埋むる何ぞ期せんや墳墓の地、人間到る処青山有り」と。はるか後年の野口英世が、上京にあたって生家の柱に刻み込んだ文言を思い出す。「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」である。つまり、学問を成就し、世間に認められる一かどの人物にならなければ、二度と故郷の地を踏まない。という決意表明である。ここには「志」が強く秘められている。

福翁自伝に、中津を脱出したくて堪らなかった45年前の心境を回想しているくだりがある。「そもそも私の長崎に往ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのが嫌でいやで堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば有難いというので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯(こんな)所に誰が居るものか、一度出たら鉄砲玉で、再び帰って来はしないぞ、今日こそ宜い心地(こころもち)だと独り心で喜び、後向いて唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えている」。(岩波文庫28頁)
 そして、長崎での精進ぶりは、大酒飲みの福澤が「酒断ち」したことでも、必死だったのが目に浮ぶようである。(福翁自伝には、お酒の話がしばしば登場する)


一方、佐賀藩の砲術家で、比較的裕福な家柄に生誕して育った大隈。その大隈が、自分の学問修行をこんな風に回想している。「初め、わたしが弘道館で学んだ時、早くからその窮屈な学制に反対して、改革論の主動者となった程であるから、朱子学派の順序に従うて、熱心に四書五経を研究せず、反って諸子百家の本を捜し求め、好んで経世済民の方法を研究したが、中でも最も愛読したのは、管子と白石(新井)、徂徠(荻生)の著書であった。このように一方では和漢の雑書を研究すると同時に、また他方では蘭書によって、地理、兵制、物理等西洋の実用的な学問を修めたが、たとえこれらが簡単な書物であったとしても、その当時では、知識を啓発した功績は本当に少なくはなかった。これによって初めて欧米諸国の貧富、強弱、土地の肥瘠、物産の豊乏、並びに制度、文物等の一般を知ることが出来た。そうして当時最も強くわたしの頭脳を刺激したのは、オランダの建国法であった。・・・これこそ実にわたしが立憲的思想を起した初めで、これまで長い年月を立憲政体の設立に苦心し、考え悩んだのは、全くこの思想が発達した結果であった。それのみならずわたしは、北アメリカ合衆国がイギリスに叛いて独立したその時の宣言文を読んで、初めていわゆる自由の権利というものの真意がわかり、その文物制度が非常にわが国のものより勝れているのを知り、秘かにこれを日本に移さんと云う考えを抱いたのである」(大隈伯昔日談・118頁)。


二人とも学問修行が、漢学を相当に修めた後に「洋学」が優れているのを自覚して取り組んだのである。福澤の儒教嫌いは有名だが、大隈も儒学修行の本道には、懐疑的だったことが回想されているのも面白い。ともに長崎で洋学の優秀性を自覚し、啓蒙的な思いを抱いたのであった。それは福澤の有名な『学問のススメ』が、アメリカの独立宣言をよく学んでヒントを得たのに対して、大隈も同様にアメリカの独立宣言を相当に勉強したと回想している。大隈が長崎で「フルベッキ」に学んでいた頃、飛びぬけた優秀な学生として、「副島種臣と大隈重信」の二人の名を、先生だったフルベッキが挙げたことは大隈を知る人にとっては常識化している。洋学に学んで新日本建設のために尽くしたのである。奇しくも、この二人は長崎での修学が人生の一つの節目として共通しているのである。しかし、直接の出会いは、はるか後年の明治6、7年の頃である。
そして、福澤は「官」に仕えずに啓蒙家として獅子奮迅に健筆を振るい、大隈は革新的な政治家として異なる人生を歩むが、二人とも生き方に信念を持っての人生航路であった。


福澤は明治新政府の再三の呼び掛けにも応ぜず、「在野」での生涯にて明治の啓蒙家の第一人者となった。一方の大隈は、『新日本』(明治44年創刊、大隈主宰の月間総合雑誌)誌上で「政治は我が生命」と云い、二度の総理大臣をつとめた政治家となった。同誌上で大隈は「失敗はわが師なり、失敗はわが大なる進歩の一部と心得たり」と云っている。福澤も大隈も共に「進取の精神」で人生を開拓した努力奮闘の人であった。また、当時としては精紳的な自由人だったといってよいだろう。そして明治14年の政変で、運命を共にするような経験をしたが、かつて、福澤の助言である「学校をおやりなさい」を実現し、明治15年に今日の早稲田大学の前身である「東京専門学校」の誕生となったのである。


福沢はその意味では早稲田大学の生みの親でもあった。そうして二人は、信頼し合いながら、大隈は常に福澤を師と仰いで生きた。大隈にとって福澤は人生の先輩であり、また大なる恩人でもあったのである。そして20世紀を迎えると共に死去した福澤の葬儀に、涙ながら供花を届け、ご供物を固辞した福澤家も唯一これを受け入れたのであった。二人の深い親交振りを物語る美談である。恐らく善福寺の福澤、護国寺の大隈ともに今日の早稲田・慶應の姿に満足しつつ、黄泉の国にて硬い握手を交わしていることだろう。
ライバルどころか、大隈は福澤に心酔して心から尊敬したのであった。明治11年頃、大蔵卿であった大隈は福澤から金銭的な相談を受けた。慶應義塾の財政状況が悪化(西南戦争の影響)して、経営資金が行き詰まってしまった。この窮地を脱すべく、政府資金からの借用を思い立った福澤が、政府要職者に金策相談したが、誰もがつれない態度であった。然し大隈だけは、協力の道はないものかと一緒になって考えてくれた。大隈も政府内部の大半が反対した為、協力援助は実現しなかったがこのことから福澤も大隈を尊敬する。
早稲田と慶應24.3.31

この両者は、実に仲が良く、お互いに認め合った仲であった。だから、後年早稲田、慶應とも創立記念日の節目には来賓として、互いに招待し合う関係が現在までも続いている。
慶應義塾大学2012.3.30

福田総理(当時)の挨拶の後、安西塾長(当時)の挨拶は、出色だったそうである。創立者の仲睦まじい関係が、一世紀以上も共存共栄を願って互いに切磋琢磨していることを知る人は、意外と少ないようである。大隈は政治家のイメージが強いが、日本女子大学や同志社大学への援助も惜しまなかった人であることも、併せて記しておきたい。


「勝海舟」のこと
【2012/01/04 09:14】 エッセイ

今回は趣向を変えて、「勝海舟」について書いてみたい。なかなか洒落た雅号である。
浅草駅から隅田川を越える本所吾妻橋を渡ってすぐの川沿いに、勝海舟の銅像が建っている。
幕末には「三舟」なる人物がいて、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人を称したものである。この三者はいずれも幕府側の人物であった。
幕末の三舟24.3.25

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