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『飛耳長目帳』のこと
【2012/02/25 18:33】 エッセイ
飛耳長目帳24.03
『飛耳長目帳』のこと

掲題の言葉を何人が知っていることだろう。読み方は「ひじちょうもくちょう」と読むのである。ではその意味はとなると、これまた殆どの方がわからないであろう。広辞苑によると次のように説明されている。「遠方のことをよく見聞する耳目。物事の観察に鋭敏なこと。転じて書籍のこと」とある.


実は、これが吉田松陰の「松下村塾」に常備されていて、塾生は等しく読める機会を提供されていたのであった。
松陰が遊学時代に知り合った全国に居る先輩、知人や松陰の門下生たちが江戸や京都、大阪などに修業や藩命を帯びて滞在している先から、国内の政情不安からくる諸々の大事な情報、たとえばハリスの江戸入りと将軍謁見のことや日米修好通商条約の無断勅許調印のことなどが刻々と入ってくるのである。 これらは、今日でいう新聞の切り抜き集を小冊子風にしたものと考えるとイメージが湧きやすいだろう。
この時事論(松陰は時務論と言った)を巡って、松下村塾では対論が盛んに行われたという。今日風にいえば「大いに議論を交わす」という事になる。したがって、塾生や吉田松陰は「萩の近郊」という、当時の陋村に居ながらにして国内情勢に詳しくなると同時に、一定の見識を持つようになる。

また松陰は「経済」という言葉も良く使ったと門下生が回想している。(村塾零話)形而上学的な思惟を避け、現実的なものから物事を考えることを重んじたわけである。そうであるから、「学者になるための学問を強く否定」したのであった。同時に、久坂玄瑞との往復書簡でも、自分のよって立つところから議論を組み立てよと、厳しく戒めたのであった。「墨夷の使者を斬るべし」という、久坂の勇ましい書簡に対して、「議論が浮薄」とやりこめたのであった。(久坂玄瑞に復する書)

吉田松陰の「松下村塾」が、結果として政治的であったことも、このような勉強法を取り入れたことも与って大きい。
飛耳長目


難局(国難)への立ち向かい方が、断然普通の人物と違うのである。勿論、いわゆるテキストは、多岐にわたっており、塾生一人ひとりがその学力に応じて松陰が推奨したのであった。基本的には、松陰自身が朱子学、とりわけ孟子を幼児から勉強させられたこともあり、漢学塾ではあったものの、松陰のオリジナルな教育手法が取り入れられていたのである。

松陰の学問への姿勢は、晩年に門下生の入江杉蔵に語っているように、「一つの学説、思想に拘泥しない」のが特徴である。良いと思われるものはどしどし取り入れて可であった。基本は朱子学ではあったが、鎮西遊学で葉山佐内の下、陽明学に出会ったのは有名であり、また松陰を「陽明学徒」と呼称する書物も散見されるが、彼自身それを否定しているのである。

情報の持つ意味を知悉していたという意味では、さきがけの人物であった。
彼は読書量も大変なものであったが、著述も大変な数になる。
大著の『講孟余話』は、全集のなかで独立した一巻に収載されているが、『幽囚録』や『回顧録』は相当の長文である。従って、松陰は「よく書物を読み、且つ著述した」人物であった。しかも、例外なく彼の文章は美しい。巧みな文章家であることは間違いない。また彼の読書法は、必ず「抄録」して要点を把握する方法で、門下生にも強くこの方法を奨励したのであった。
吉田松陰とその門下24.3.25


掲題の「飛耳長目」は、松陰にとっては情報源であったと同時に、下田踏海に失敗するまでは徹底して現地踏破も厭わなかった。浦賀に四日間も滞在して、黒船の情報を詳細に自分の眼で見て、そして聞いて確認を怠らない観察や情報に対する態度一つを見ても、情報に対する価値判断、そこから導き出される洞察力とその後への展望予測も鋭いものであった。つまり「情報の収集、分析」を怠らないことが彼の「実用の學」ともいわれる所以なのであろう。

「飛耳長目帳」で、幽囚の身でありながら情報を知悉していたことが、評定所で逆に奉行から訝られたのは何とも皮肉な結果であった。しかし、信念に従っての行動であったが故に、「死罪」を感じ取ってもきちんとした人生の幕引きをし、「国のために死んでみせた」天晴な人生であった。それゆえ、根強い「松蔭人気」は、浮ついたものとは異なる。人生を真剣に生きようとする人たちや、娯楽的要素のない松陰先生を勉強する人たちが多いのである。


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母校、「小山台高校」
【2012/02/25 15:08】 エッセイ
小山台高校のこと

平成24年2月14日、私の母校である「都立小山台高校」の授業の一環に参加して来た。
45年前に卒業した懐かしい思い出がある母校である。

私の在学した当時は、第一学区といって後に導入される「学校群」の前であったから、大学進学の実績は大変なものであった。名だたる有名大学に殆ど入学している名門校であった。私はここの定時制で学んだ。2年次から転入学したが、高校の掲示板を見て腰を抜かすほど驚愕した。
全日制高校の大学進学実績が、当時で東大、東工大、一橋大等々の超難関大学に大変な人数が合格していた。全国レベルでみても、有名校のひとつであった。

全日制の実績も大変だったが定時制もこれまた、進学実績が「これで定時制?」と思える程なのである。
小山台高校

東大、東工大、等に代表される国立系が多かったのは、経済的な事情から、全日制に進学できなかった生徒が、定時制に進学して来たことの事情もあったのかもしれない。しかも、全国区に近い出身者も相当に多いのである。私のクラスで知っている限りでも、北は秋田県、山形県、南は九州鹿児島の出身者までいた。
小山台高校校章2012.3.29

先輩、同輩、後輩の昭和30年から50年頃までの進学実績は信じられない程のものを残したのである。戦後の経済復興途上のためか、定時制といえども、生徒数は各学年200名近いのである。全日制と異なり4年間かけて卒業するわけだから在校生が800名近くの大所帯であった。学費は安く、夜食つきで学ぶので、時間的な制約を除けば誠に楽しい。豊かな社会が実現した今では、なかなかイメージが湧かないかも知れない。

現在は国際色豊かで、海外からの学生もいた。体験交流的に各グループに分かれて、先輩を交えた話し合いが持たれた。
驚いたのは定時制高校に対する偏見が残っていることだった。我々の時代には、そんなになかったように記憶しているが、或る意味で日本が豊かでなかった時代という事もあってか、多くの若者たちが定時制に学んだものだった。しかし、豊かな日本が現出した今、定時制高校に通うのは「おちこぼれ」だと見られているケースがあるという。体験談を紹介すると、交番に勤務する「巡査」に職務質問されると定時制高校生というと、侮蔑的な言葉やまなざしに出会ったことがあるという生徒が何人かいた。まことに怪しからぬことである。これは東京だけの現象かどうか調べてみる必要がある。警視総監宛に、抗議文を書きたい思いである。私たちの時代は、むしろ激励された記憶さえある。時代の変化というべきか?

さて、例年のこの行事の一環として講演が行われることから、今年の講師を依頼された。約40分間での中で私は、自分の体験談を語り、吉田松陰が修業に旅立つ門下生の画き与えた「送序文」に模して、教訓を交えた激励のメッセージを送らんが為の話をした。題して『私の越えてきた道』。此の中で、とりわけ吉田松陰が力説した「志をたてて以て万事の源と為す」を説明しながら後輩の生徒諸君に語りかけるように話した。野口英世の生き方なども参考例として交えながらの話であった。
松陰は政治犯として、下田踏海以来自由を奪われる身となり、その生涯を終えるまでそれは続いた。しかし、野山獄や江戸伝馬牢にあってもめげることなく、読書と著述と思索の日々を送ったのであった。逞しい生命力あるいは向上心と言ってしまえばそれまでだが、実はそれは「自己教育」の場でもあった。初心貫徹ともいえるが、自己教育の精神無くして何の教育ぞ!とばかりに、学問の向上に励んだ。
同時に「人は一人では生きられない」から、自分を取り巻く、家族、友人、恩師、先輩、後輩の人々を大切にすること、それが結局は自分を大切にすることに連なって、還元されてくるものなのであろうと思う。
こんなことを念頭におきながら話して、最後に「クラーク博士」の言葉で締めくくった。

若い世代との人生観や価値観が異なるかもしれないが、人が人であるためには向上心は欠かせない。自ら志をたてて、自分の人生目標達成に勵むことこそ、人間の人間たる所以である。人生に山あり谷ありはつきものである。山に会っておごらず、谷に会って踏ん張ることが大切なのは勿論だが、上り坂、下り坂、そして「まさかの坂」があるのも人生である。生徒たちは、先生によると普段とは異なり、真剣で私の話に聞き入ってくれたとのことである。そうであれば、一生懸命話したことが無駄にならないだろう。
時代の流れは、ある意味ではいかんとも出来ない部分があるが、現代の定時制生徒には生気を感じるものが少なかったように印象される。奮起を促したいと願うばかりである。


吉田松陰の学問観、人間観の一節
【2012/02/10 13:44】 エッセイ
「自ら松柳の詩の後に書す」
丙辰幽室文稿 安政三年(1856)三月二十五日 二十七歳
吉田松陰と高杉晋作24.3.25


予が友來原良三は志確くして量広く、将に往々俊傑の才を顕はさんとす。而して獨りその学未だ充たざるを惜しむのみ。謂う所の學とは、書を讀み、古を稽ふるの力に非ざるなり、天下の事體に達し、四海の形勢を審かにする、是れのみ。方今天下の事、四海の勢、吾れ未だ其の底止する所を見ざるなり。唯だ其れ未だ底止せず、當に為すべき所以なり。必ずや一国を正し、而して諸侯を正し、而して幕府を正し、而して朝廷を正し、而して四海を正す。規模先づ己に定まりて、次に仍て之れを施す。是れ吾が謂ふ所の學なり。然るに良三は実に未だ其の學あらざるなり。去年良三栄選に中り祐筆となる。余書を投じ歎じて曰く「良三復た學ぶに暇あらざるなり。良三の才識、畫せられて進まざるなり。何ぞ俊傑を之れ望まんや」と。・・・・・・親に事ふるに誠を以てし、己の外に得るものを以て父母の
栄と為さざるなり。躁進の韓愈すら猶ほ能く之れを言へり。良三にして行ふ能はずとは、何ぞや。何ぞ「晁錯、劉を安んずるも親に負句を奈んせん」と謂はざる。其の第二句に云ふ「已に孝子たり定ず忠臣ならん」と。夫れ忠を孝に求むるは、其の心を論ずるなり。人は唯一の心のみ。心は唯一の誠のみ。ここを以て君に事へば則ち忠ここを以て父に事へば孝、ここを以て官長に奉ぜば則ち敬、ここを以て子弟を誨へば則ち友、是れ其の義なり。

其の行に至りては所謂忠孝両全する能はざる、趙苞・徐庶の如き者あり。其の人皆自ら以て大罪と為す、而も君子は之れを恕せり。忠を以て孝と為し、孝を以て忠と為すは、固より自ら其の説あり。然れども良三の官となる如きは適々其の親を危うする所以にして而持自ら以て孝と為すは則ち誤れり。若し必ずしも父母を危うせずと為し、而も自ら以忠と為すとも、亦惑へり。然らば則ち孝子の忠臣たる、吾れ知らざるなり。何ぞ「孝子たらざるも乃ち忠臣」と謂はざる。其の第三句に云ふ、「官途多く清流の擯するところとなる。噫、良蔵も亦書生にして清流を以て自ら居りし者、一たび官途に進めば、乃ち清流を外視して以て此の言を作す、甚だしいかな。夫れ士の道を講ずるは、固より将に朝に登り官に當り、君に致し民に澤せんとすればなり。」・・・・・・(以下、省略)

これには「躁進を戒むるなり」という副題がついている。それは、世間の者は、あげて大器晩成を嫌い、軽薄な才子は出世の早いことを競っているという世情を聞いて、柳と松を比喩として批判したものである。柳は成長が早いが弱いし用材にも適さない。これに比して松は育成するのに時間がかかるものの家屋に不可欠な材となるのであり、人も松の木のようにありたい。この文は松陰が第一の友とする來原良蔵が二十七歳で祐筆役に抜擢されたことを憂慮して綴ったものである。良蔵は「俊傑」になる素地をもっているが、なお学問が未熟である。今、この重い役に就けば学問する暇がなく「俊傑」は望めなくなると憂慮している。松陰が「學は人たる所以を学ぶなり」と、松下村塾記に書いたことと考え合わせるとこの意味がよくわかる。

吉田松陰の「死刑」察知の手紙のこと
【2012/02/08 21:55】 エッセイ
松陰の「死刑判決」察知の手紙

吉田松陰の書簡中、安政六年十月十七日に門下生の「尾寺新之丞宛」の書簡がある。前日の評定所でのことから、「死罪」の判決を予知したくだりが書かれているので紹介したい。
出来るだけ讀み易くするために、全集を改変(改行)して讀み易くしてみます。

一翰呈上仕り候。私儀昨日御呼出しにて口上書書判仕り候。然る處存外の儀ども之れあり、今更當惑は仕らず候へども、屹と覺悟仕り候。・・・・・・之れに因り小生云はく、差違へるは思ひも寄らず、切り拂ひと申す事も志に之れなき事、口に云はざる事と大いに辯争致し候所、然らば下れ、後に申し聞けることありとのことなり。
左候て總人數、口書相済み候後又々呼出しに相成り、又讀聞せの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。
僕又大いに辯争致し候所、遂に口上の事はどちらへ違うても罪科の軽重に預る事に非ざれば、迚もの事に其の方の申分通りに致し遣はすべし、併し他の文言に存念はなきかとて、末文の所両度御讀聞せ之れあり候故、志になきこと口に発せぬ事は何分にも一字も受難く、仰せ懸けられ候儀何ぞ敢て拒まんと申し、書判致し候。
井伊直弼24.3.25


末文の處「公儀に對し不敬の至り」と申す文あり、「御吟味を受け誤り入り奉り候」と申す文あり。
迚も生路(いきみち)はなきことと覺悟致し候。
右初日七月九日と昨日と三奉行出座なり。
九月五日と十月五日とは吟味役出座なり。
吟味役寛容の調べは全く無用に僕をだました計りにて、石谷・池田其の外最初見込を付けた所は首を取る積りに相違なく、差違と切拂との四字を骨を折って抜き候へども、末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。
不敬の二字餘り承り馴れざる文なれども、不届など云ふよりは餘程手重き事に考へられ候。鵜飼や頼・橋本なんどの名士と同じく死罪なれば、小生においては本望なり。
昨日辯争に付いては随分不服の語も多けれども、是れを一々云ふも面白からず、只だ天下後世の賢者吾が志を知って呉れよかし。・・・・・・十月十七日       寅二拝

ここでのポイントは
① 十月十六日は、最初の取り調べ(七月九日)と同じく、三奉行が出てきている。江戸期の最高裁判所に相当するから、相当に重みのあることがわかる。
② は「差し違え」と「切り拂い」をめぐって、松陰が必死に弁明している。
③ しかし、判決には影響を及ぼさないことを松陰は読み取った。
④ 吟味役の取り調べは、実際の効力のない、いわば松陰にしてみれば「騙された!」との思いがして、納得いかないのであること。
⑤ 強引に「書判」つまり、サインさせられたことに、憤りを覚えていること。
⑥ 「公儀に對し不敬の至り」として、「末文」を変えていないこと。
⑦ これらを考え合わせると、「首を取るに相違なし」との結論に至るまでの過程が読み取れる。つまり「死刑」を確信するのである。だから『吾れ今國の為に死す、死して君恩に負かず。悠々たり天地の事、鑑賞明神に在り』。と判決言い渡し直後の「詠歌」となるのだ。
親思ふ23.3.29

この手紙の三日後に、松陰は「身辺整理」に向かう。その第一弾が、親族に対する状況報告としての「永訣書」をしたためることになる。そこには「遺言」として、兵学師範として独立した時の初めての「公用」で藩の海防視察をした時に、赤間関(今の下関)で購入した【硯】を祀って欲しいとの言葉になるわけである。
そうして「留魂録」の頭書の詠歌に繋がるのである。『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂』と。これは、死罪申し渡しの直後にも吟じたようである。正しく遺言の絶句である。
安政の大獄は、江戸期を通じて最もいまわしい事件であったが、吉田松陰、橋本左内を失ったことは、日本にとって大損失であった。惜しんでも余りある。残念、無念。

余談だが、この安政の大獄は後世の研究家からも頗る評判が良くない。さらに井伊直弼は翌年三月、水戸家の家臣達から襲撃されて横死する。二世紀半にわたる統治の幕閣最高権力者が白昼に暗殺されることから、幕府の権威は著しく失墜する。同時に、「井伊家」は昭和二十年の終戦まで肩身の狭い思いを続ける。つまり「皇国史観」、「薩長史観」である。
したがって、安政の大獄が史料に基づいて実証的に研究される機会がなかったが、戦後になって「井伊家文書」としての史料が維新史に貢献するまでには、多大な時間を要したと云えるだろう。井伊直弼を「開国の父」と呼称することがあるようだが、それは間違いで、ただただ徳川家の安泰のみを願ったことであって、歴史の流れに抗うだけのことだった。

現在では、彦根市の「殿様」として市民から崇められているようである。
それはそれで良し!ということであろう。


吉田松陰の美しい書簡紹介
【2012/02/07 23:11】 エッセイ
「吉田松陰書簡」の一節

吉田松陰は生涯に六百三十通もの書簡を残している。(全集第七・八巻、大和書房版)吉田松陰の書簡は、その数量もさることながら、内容も多岐にわたり、多くの人々に宛てたものであるが、最も人口に膾炙し、読む人の心を打つものを紹介してみたい。
ここで採り上げるものは、全六百三十通のうちで、六百二十四通目となっているものであって、それは処刑される一週間ほど前に、親族に宛てて書かれた書簡である。安政六年十月十六日に四度目の呼び出しが行われ、「口書」(調書)の読み聞かせがあった。(全集第六巻『留魂録』)この時に、松陰は死刑の判決を察知したようである。
そこには以下の様に記述されているので、記して見る。
『十月十六日に至り、口書讀み聞せありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使應接、航海雄略等の論、一も記載せず。唯だ數個所開港の事を程克く申し延べて、國力充實の後、御打拂ひ然るべくなど、吾が心にも非ざる迂腐の論を書き付けて口書とす。吾れ言ひて益なきを知る、故に敢へて云はず。不満の甚だしきなり。甲寅の歳、航海一條の口書に比する時は雲泥の違と云ふべし』とある。
おそらく、安政元年の下田踏海の取り調べの時と比べて、評定所役人の態度が全く異なり、これでは尋常ならざる判決に違いないと松陰は覚ったものと思われる。

この書簡を読むと、父百合之助と叔父玉木文之進や兄梅太郎への訣別の言葉となっていて、一般的には「永訣の書」と呼ばれている。
特に、この書簡で詠まれている『親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』は、松陰の親思いの、心を打つ歌として、松陰関連の本には必ずと言ってよい程に紹介されている。
日本の将来を案じ、「至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり」と云う信念でこれまで生き、真摯に事に当って来た松陰であったが、彼の計画は殆ど頓挫となってしまった。処刑による死を覚悟した松陰の心境は、挫折感と将来への期待とが入りまじったものと想像されるのである。
この書簡は、三十歳に満たない松陰の遺書とはいえ、澄み切った心境で書かれており、松陰の人生観を垣間見るような文章である。「神国未だ地に堕ち申さず」や「松下陋村と雖も誓って神国の幹とならん」との、自分の志を継承してくれる者がいることを確信したから、このような美しい文章になったものと考えられる。
最後の著作となった『留魂録』と、あわせてよむことをすすめたい。それは、講談社学術文庫に、古川薫さんが現代語訳と共に、『史伝・吉田松陰』も書いており、松陰研究の入門書ともなっている。これを読むと、「松陰精神」とはどのようなものであったのかと知ることが出来るように思う。また、この書簡からは、松下村塾で幾多の人材を育てたという、自身への納得感から来る将来への期待を込めた思いや、これまでの精一杯生きた充実感も読み取れると思う。それでもなお、誰を恨むわけでもなく、平生の學問が足りなかったために、このような事態になったと自身の来し方や学問を振り返っている姿には、讀む者をして自然と頭をたれてしまうのである。
短文なので全文を紹介します。
親思ふ23.3.29
父叔兄宛 (書簡)         安政六年(一八五九)十月二十日
松陰在江戸獄父叔兄在萩 三十歳

平生の學問浅薄にして、至誠天地を感覚すること出来申さず、非常の變に立ち到り申し候。嘸々御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。
 親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらんさりながら去年十月六日差上げ置き候書、篤と御覧遊ばされ候はば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。尚ほ又當五月出立の節心事一々申上げ置き候事に付き、今更何も思ひ残し候事御座無く候。此の漢文にて相認め候諸友に語ぐる書も御轉覧遊ばさるべく候。幕府正義は丸に御取用ひ之れなく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に堕ち申さず、上に聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も餘り御力落し之れなく候様願ひ奉り候。随分御気分御大切に遊ばされ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上。
十月二十日認め置く。
家大人 膝下
玉丈人 膝下
家大人(兄) 座下                       寅二郎百拝
杉梅太郎


両北堂様随分御気體御厭ひ専一に存じ奉り候。私誅せられ候とも、首までも葬り呉れ候人あれば、未だ天下の人には棄てられ申さずと御一笑願ひ奉り候。児玉・小田村・久坂の三妹へ五月に申し置き候事忘れぬ様御申し聞かせ頼み奉り候。呉々も人を哀しまんよりは自ら勤むること肝要御座候。○私首は江戸に葬り、家祭には私平生用ひ候硯と、去年十(一)月六日呈上仕り候書とを神主と成され候様頼み奉り候。
千住回向院松陰墓2012.3.28

硯は巳酉の七月か、赤間関回浦の節賈得せしなり、十年餘著述を助けたる功臣なり。松陰二十一回猛士とのみ御記し頼み奉り候。
以上


人生の巡り合いと、青年時代回顧
【2012/02/01 00:14】 エッセイ
青春時代の頃

今日も、個人的な思い出の話を書きます。前回の恩人の家系に連なる、今泉博士の記事を書きながら、「あれもあった、これもあった!」と、思い出が津波のように私の胸に迫り、夜中に目が覚める始末であった。「人生山あり、谷あり」とは誰もが実感していることと思うが、翻って、沢山の思い出が回顧できる幸せもあるのだろうと思い返した。

人生とは、そういうものだと思う。48時間睡眠なしで、仕事・勉強に取り組んで「落第」を免れた思い出は、おそらく生涯忘れられないことだろう。
小山台高校校章2012.3.29

そう、小山台高校は私に試練を課したのであった。そう考えることによって、自分への納得感が出て来る。
もっとも、野口英世の母「しか」さんは、赤子の子息を自分の不注意から招いたこととして、その罪の意識を背負い、7日間不眠で「清作」を抱き続けたという。
そして、息子の将来に対して、精一杯の援助の気持ちを抱き続けた。それが、息子の幸運な出会いの人生を繰り返いながら、栄達をとげる契機になっていくのだ.
野口英世

人生のドラマとは、そういったものの積み重なりである。
ニューヨークに在住していて、世界的な医学的な業績を挙げた息子宛に書き綴った手紙は「名文中の名文」として、末永く日本人の心を打ち続けることだろう。
本人も「学士院賞」という、栄えある賞を、多忙を理由に恩師(血脇守之助)に代理を頼んで間もなく、この手紙に接し、望郷の念やみがたく急遽帰国したのであった。
それは、正しく凱旋帰国であった。時に大正4年初秋。以後、伝説は続き、二か月間の講演旅行に「母」を同伴する美談が伝えられているが省略する。「親孝行伝説」である。

かつて田中角栄と総理の座を競った「福田赳夫」の自叙伝、「回顧九十年」という本が岩波書店から刊行されたことがある。
私は夢中で読んで、一晩で読み上げてしまったためか、記憶が乏しくなってしまった。
小学校から、中学、高崎高校、第一高等学校、東大法学部と全てトップで過ごしてきた福田さんにとっては、自民党総裁選で敗北したことは、さぞかし辛かったことだろうという思いがする。
福田赳夫2012.3.28

それが「選りによって田中角栄」という、正反対の人生経歴を歩んだ人物と競わねばならなかったのは「運命のいたずら」としか言いようがない。
卒業後の大蔵省でも官僚として、エリートを続け主計局長になるまで、常にトップであった人生は順風満帆に満ちていた。ところが、昭和電工事件から、躓きだす。大蔵省辞職後は、無所属で衆議院選挙に立候補するが、次点で落選。
中曽根康弘23.3.28

田中角栄と同年生まれの中曽根康弘と同じ選挙区で、東大では後輩ながら議員としては後塵を拝す。だが、持前の実力は、次第に頭角を現すことになるが、運命の糸はまだ断ち切れなかった。後に総理大臣を辞職することになったのも、田中角栄であった。
総理大臣在任中、大きな失政もなく、長期間の政権運営をするものと思ったが、田中角栄をライバルに持ったことがそれを果たせなかった。それ故に福田総理は『天の声にも時には変な声もある』との名語を残して、総理の座を降板した。これは、30年以上経過して、日本の為には不幸だったと思われる。
田中角栄2012.3.28
田中角栄は、何としてでも歴史的な功績を残したい。それが、「日中国交回復」の調印であった。まこと、点稼ぎには、もってこいの離れ業でもあったが、時代の寵児になるにはこういったことが必用なのであった。そうすることによって、「今太閤」ともてはやされ、佐藤栄作政権の下で、自民党幹事長、大蔵大臣、通産大臣を経歴したことが、なるほどと国民を納得させることでもあった。

こういった経歴から振り返れば、福田赳夫さんも幹事長や大蔵大臣、外務大臣の重要閣僚の職責を佐藤政権の下で果たし続けたことであった。佐藤栄作は、この二人を利用することによって、記録的な長期政権を維持した。しかし、禅譲を託する積りだった福田赳夫へのバトンタッチを田中が金の力に物を言わせて、奪い取ってしまう。
これに便乗したというか、タッグチームを組んだのが「大平正芳」で、彼は当時のボスであった前尾三郎から、派閥のトップをもぎとった人物である。
彼は、無理がたたったのか、福田のしっぺ返しを食って、党内派閥抗争のあおりで、選挙運動の指揮をとる最中に急死する。
田中角栄も大平正芳も幸せな死に方が出来なかった。
一方の福田さんは「昭和の水戸黄門」を自認して、総理大臣辞任後も、政治家人生を有意義なものとした。世界人口問題をOB総理として、ドイツのシュミット元首相と協力して功績を残す。
今日、人口問題は深刻な問題になっていることを思うと、政権争いに淡泊な態度で、ある意味で時の流れに身を任せた、自然体の生き方が90年もの長寿を保ち、晩年を汚すこともなく人生の幕引きをしたのは見事であったといえるだろう。

以前、私は「岸信介」元総理の記事を書いたが、それは吉田松陰と岸さんの先祖が松陰先生からの直接の書簡を頂いたことが、胸の中に、誇りを抱き続けて来たと書いた。
実は福田さんの生まれ育った群馬県も、吉田松陰との関係がある。福田さんご自身ではないが、吉田松陰の娘婿の「楫取素彦」さんが、初代の群馬県知事を務め、産業奨励策や、教育体制の整備を行ったことは、一般の方々は恐らく知らないことだろう。
私は、偶然にも群馬県の生まれ育ちである。
還暦近くになって吉田松陰の研究をすることになったが、此のことを知って大変驚いたのであった。しかし、それはまだまだ不勉強であって、明治初期における「山口県」出身の「國家功労者」は枚挙に遑ないほど、輩出しているのである。それも、現場回帰的に見ると吉田松陰に連なってくるのである。
菅直人元首相2012.3.28

前総理の「菅直人」さんは、山口県立宇部高校に入学したが、父親の転勤に伴って東京の高校に転入学した。その高校は「東京府立第八中学校」という伝統ある学び舎であった。
現在は「都立小山台高校」となっているが、私もこの高校に転入学している。然し、定時制であった。だから私は、菅さんが下校時に登校という「ニアミス」を繰り返していたことになる。同じ昭和21年生まれだから、思い出が沢山詰まっている高校だ。

この高校に来月、卒業生として講話に行くことになった。そのきっかけはOB会組織での会合で、現役の小山台高校の教諭と出会ったことであった。
たまたま昨年9月、一般公開の講演で「吉田松陰の生涯」を語る講師の依頼があったので、引き受けたことから、この教諭に日程調整が可能でしたら、聴講にご参加願いたい旨連絡したところ、かなりの無理な調整をしてくれた末に、参加してくれたようだった。
見通しが立たないニュアンスの返信であったが、当日参加してくれたことに大変感謝した。
小山台高校
今回の講師指名も、これが機縁であったのだろうと思う。これで母校に恩返しができることになる。中学校、高校、大学とお世話になったすべての学校に対し、形の上でも、精神的にも念願がかなうことになって大変うれしく思っている。
それも、これも人生の巡り会いという「天の配剤」なのであろうか。「努力即幸福」と、禅を思わせる名語を残した精神医学者がいたが、一生懸命生きたことへの訓戒の意味が込められているように思えてならないのである。





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