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『日本思想史大系』のおかしな解説文
【2012/03/29 22:39】 エッセイ
『日本思想史大系』第54『吉田松陰』

1978年11月22日に刊行された、【岩波書店】日本思想史大系第54は『吉田松陰』を取り扱っている。
次の第55は一巻の中に「渡邊崋山」「高野長英」「佐久間象山」「横井小楠」「橋本左内」の5人が収載されている。

この吉田松陰が、独立した一巻で収載していることについて、この解説・・・・・・「書目選定理由」を書いた藤田省三なる人物が、特殊で、失礼な解説文を書いている。サブタイトルとして「―松陰の精神史的意味に関する一考察―」としてある。
吉田松陰の精神24.3.25

このシリーズは67巻で構成、古代から近現代に至るまでの、いわば「日本思想史」とでもいうべき企画で刊行されているものである。
この一部を転記して紹介する前に、学者・研究者の「植手通有」さんが『徳富蘇峰』の『吉田松陰』 (岩波書店)の解説で藤田省三の解説文を、苦笑交じりに、次のように紹介・批評?していることも申し添えておきたい。

吉田松陰蘇峰著24.3.31


【この論文はそれほど長くなく、ある意味では読者に不親切―むしろ故らに不親切に書こうとしたよう― なものであるが、蘇峰を乗り超えた最初の松陰論と言えよう。】(徳富蘇峰著、吉田松陰<岩波文庫279頁>

この藤田省三なる唯物史観に凝り固まった人物の解説批評を、本心では卑下しながら、表向きは百歩譲って謙譲・遠慮がちに書いている。確かに読んでみると、それなりに説得力はある。

しかし、天下の岩波書店のスケールの大きな日本の思想史刊行の解説として、これほど不親切な解説はないであろう。

下記の解説文を読めばわかるが、本人は「いやいやながら」とわざわざ断ったうえで、こういう馬鹿な解説を書くから、マルクス主義史観(唯物史観)は、半分は宗教かぶれと揶揄されるのだ。
嫌なら、辞退すればよいのに、それもしない。こういう人物を「ひねくれ者」という。読者に対して、どれほど失礼にあたるか、その礼節を弁えていないのである。しかし、反面、歴史を見る目を、異なった観点から剔抉した功績はあるものの、真剣に読む前に、「何だ!この解説は?」と思うのは、常識ある人ならだれでもこういった感情を抱かざるをえないであろう。
「岩波書店」という、日本のもっとも先覚的な出版業務を行っている会社は、公器である。少なくとも近現代の日本文化に大きく寄与していることは、誰もが首肯し得るものであろう。

みたまえ、近代のインテリと自称、他称する歴史家のマルクスかぶれの手前勝手な理屈と論理を。政権の座にある権力機構が、搾取したという論理でしか歴史を見られない疑似宗教的な観念論のみを「信仰」?して、被搾取階級の悲哀をことさら膨大に主張しているではないか!
出来るだけ教条主義的な見方を拝して、現実を見る歴史観を我々は持ちたい。
吉田松陰銅像24.3.25


さて、本題の転記と紹介に移ろう。掲題の本の597頁に、植手通有さんのいうその不親切な解説が収載されている。

『この限られた叢書の全体の配分の中で、吉田松陰が単独で一冊を占めるのが妥当であるかどうかについては、私自身はいくらかの疑問を持っている。

例えば「渡邊崋山、高野長英、佐久間象山、横井小楠、橋本左内」の五人が一冊に封入されていることと考え合わせただけでも小首をかしげざるをえないものがある。

もし、思想史的真理についてもアリストテレスのいう「配分主義」が考慮されるべきだとすれば、一個の問題がこの配分方法の中に伏在していることは疑いえないであろう。

しかし、その問題の何たるかを明らかにすることは、配分について関与していない私ののなすべき課題ではない。いわんや、今日の文化的状況の中で松陰の巻を担当するについて、終始、消極的であった私としては、そういう問題にまで立ち入って解明しようとする程の熱意を示す必要はないであろう。

今は一つだけ言えば足りるのである。すなわち「吉田松陰」の知名度の名は他の歴史的人物の名を押し除けるほどの知名度を持っているということである。

もし日本史上の人物について投票が行われるなら、松陰は最高点を争うものとなるであろう。・・・・・・まことに松陰は右からも左からも高い人気を得ている。右翼は彼の「尊王攘夷」のナショナリズムに共感し、左翼は彼の変革への情熱に敬意を惜しまない。それ以外の人々も又松陰の純真さに愛着と同情を示さずにはおれない。・・・・・・けれども吉田松陰は古典的な意味では決して「思想家」ではなかった。

或る人の作品が独立してどんな時代に対しても一定の普遍的意味を持っていることを「思想家」の要件であるとするならば、松陰は思想家とは言い難い。彼にはそういう作品がないだけでなく、そういう作品を生み出すための精神的基礎が - 「世界に対する徹底的な考察的態度」が - 恐らく欠けていたのである。・・・・・・松陰は考察の人ではなくて行動の人であり、構成のひとでなくて気概の人であり、全てのものについて距離を維持することに不得意であって状況の真只中に突入していくことを得意とした人であった。
したがって彼の書くものは、体系的な著作ではなくて、彼の目指す当面の方針であり、状況に対する彼の反応であり、人々への説得であり忠告であり、総じて尽く彼自身の精神状況と行動様式を直接的に物語るものなのである。

その意味で,彼には主著なるものはない。・・・・・・彼の歴史は失敗の歴史であった。
その失敗をその失敗に現場で書き記しているのが彼の文章である。だからこそ、そこには臨場感が満ち溢れており、それだからこそ読み進んで終幕近くの緊迫した場面に至るとき或る種の深い感動をもたらすのである。

松陰には主著はなく、彼の短い生涯そのものが彼の唯一つの主著なのであった。』 と、このように記述されている。
松陰の似顔絵24.3.31
岩波書店ともあろうものが、どうしてこんな学者?だか何だか知らないが、おかしな人物に解説をかかせたものである。
おそらく、この編集者は岩波書店内の人事異動で責任をとらされ左遷されて、中途退社を余儀なくされただろうと察せられるのである。
およそ唯物史観なるものは、こんな程度なのである。

見たまえ、マルクスの云ったこと、考えたことを金科玉条のごとくに、むやみに有難がって信仰?しているのである。資本主義が悪いといって、革命こそ人類に理想を齎すものであるという論理構成なのだ。

「旧ソ連」の「社会主義國家」が70年の生涯?を以て失敗を証明した。なぜか? 人為的に國家を造ろうとすると、平等を目指していながら、一部の特権階級が国家を牛耳る結果は、ソ連のみならず「中華人民共和国」でも同様であることは、今日ではほとんどの人が知っている。
マルクス24.4.23

裏では、権力闘争に明け暮れして、表面上は一党独裁ながら「全人代」の名のもとに体裁を取り繕っているのだ。
所詮、人間のやることであるから、マルクス主義の実践と言ってもそんなものなのである。

藤田省三なる人物は、「ソ連」か「中国」にでも行って、国籍を取得して、存分に活躍してもらいたい。一党独裁の下で・・・・・・。


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吉田松陰と久坂玄瑞(6)
【2012/03/21 10:44】 エッセイ
「久坂生の文」を評す⑥ 

最終回・『再び玄瑞に復する書』

青年「久坂玄瑞」が北条時宗に倣って、「虜使」を斬れ! との必死な松陰への訴えかけをする。しかし、松陰は自ら癸丑の頃の体験談を交えて久坂に、最後通牒ともいえる返信を書く。 両者は、互に三度にわたる書簡を交わしたのであった。
こうして吉田松陰と久坂玄瑞との劇的な出逢いとなる。
久坂玄瑞(小)24.3.25


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吉田松陰と久坂玄瑞(5)
【2012/03/20 15:04】 エッセイ
「久坂生の文を評す」⑤

『松陰の再反論に対する久坂の再々反論』

松陰が「久坂生の文を評す」と、久坂からの最初の書簡(安政三年五月末?)を受け取って、掲題の「久坂生の文を評す:六月二日」と題した、返書を書いた。
松陰からの返書に対して納得せぬ久坂は、それに反論を出した(六月六日過ぎ)。
そして、やや間をおいて(一か月程:冷却期間のためか)から、再度の反論を書いた。(これは、松陰全集には『久坂玄瑞に復する書:七月十八日』と題されている)

だが、未だ久坂は納得せず、元寇の時の北条時宗の故事にあやかるべきだという「再び吉田義卿に與ふる書」を、憤激をもって反論の書簡を書いた。
フビライハン


しかし松陰は、以前として久坂の考え(主張)を受け入れないのが前回の記事であった。
そして七月二十四日、三たび『吉田義卿に與ふる書』をしたため、反論を試みる。
白熱した論議の応酬は、松陰の教育的配慮もあってか、ものいいが少し柔らかい印象がある。そのためもあってか、久坂は再々反論となる。では、それを見て行こう。(出典は、前回同様の武田勘治著から)残念ながら、吉田松陰全集には久坂からの書簡は定本版に第一回の漢文のみしか収載されていない。久坂玄瑞(小)

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『吉田松陰』閑話休題
【2012/03/19 22:28】 エッセイ
『吉田松陰』閑話休題

吉田松陰に取り組んだのが、2003年春であったから、思い起こしてみると9年が経過したことになる。

田中彰著の『吉田松陰』(変転する人物像:中公新書)を手掛かりに、研究書、関連書を片端から読破した。
吉田松陰 田中彰

私の場合には、時に精読、乱読、速読ともいえる時もあったが、繰り返し、繰り返し読んだ。

大変ありがたいことに、その当時ミネルヴァ書房から「日本評伝選シリーズが刊行され、その第一弾が『吉田松陰』(海原徹著)-身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも・・・・・・が発売され、新宿の紀伊国屋まで購入にいったことから本格化した。
ミネルヴァ書房の編集者の談では、この『吉田松陰』が最高の販売実績をあげているとのことである。
これは、松蔭大学の「吉田松陰論」の指定テキストに決めた時に、相談して三冊寄贈してもらったときに伺った話である。
吉田松陰の衰えぬ人気ぶり、国民的支持が根強いものであることを、実感させる話である。
内心、大変嬉しかった。
吉田松陰の支持者は、概して堅実派の人生を歩もうとする人々が多いようである。
吉田松陰入門23.3.25


そして、徳富蘇峰、玖村敏雄さんの水準の高い一連の研究書を読んだ。
上記の三冊を何度繰り返して読んだことか。今でも時々紐解くことが多い。
松陰全集も普及版、大衆版、定本版と順次購入した。
廣瀬豊の『吉田松陰の研究』や奈良本辰也さんの『吉田松陰』、福本義亮さんの大著『吉田松陰の殉国教育』や古川薫さんの松陰本、下程勇吉さんの大著『吉田松陰の人間学的研究』、海原徹さんの、通称四点セット(テーマ別の松陰研究書)や関連の研究書などなど、二百冊を超す。


吉田松陰、奈良本辰也24.3.25
さて、これらを読んでいく中で[下田蹈海](徳富蘇峰、吉田松陰:岩波文庫、百頁)なる言葉が妙に「こだわり」として深い意味があるように思えて、何であるか?と疑問が残った。
自賛肖像画の賛に[三分盧を出づ、諸葛已んぬるかな、一身洛に入る、賈彪安くに在りや。心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釋くの才に乏し。読書功無し、朴學三十年、滅賊 計を失す猛氣二十一回。」が妙に、悲しく、疑問と共に私の心に響いて残った。
玖村敏雄著 吉田松陰の思想と教育24.3.25


その頃、この自賛自画像がオークションに出ているとの情報を得て、複製画のあることを知る。
三年位自力で購入機会を探しあぐねるも、遂に機会に出逢えず、熟慮の結果、萩市の選出国会議員を思い立ち、調べたらありがたいことに当時、文部科学大臣を務めていた「河村建夫・衆議院議員」が選出地区であることを知った。

すぐに、事務所とアドレスを調べて強い購入希望の思いを綴り、依頼のメールを送信した。
趣味でなく、教育の場で使いたい旨を記してご協力下さいと、長文のお願いであった。
しかし、待てども返信なし。やはり、直接事務所を訪問してお願いしないといけないのかな?と思い始めた頃、返信の郵便が届いた。
そこには、購入方法や扱い業者、その他関連の諸情報が紹介されていた。
直ちに購入相談に入り、『杉家本』といわれる自賛自画像が購入出来たのであった。
願えば叶うとは、こういう事かと思いながら、早速河村大臣に、お礼と報告の手紙を書いた。


これには後日談があって、私からのお願いを受け取って文部大臣はすぐに「野村萩市長」に協力の調査依頼をしたとのことであった。
国士舘大学での「松蔭学の提唱」のシンボジウムがあった折、パネリストとして参加された野村興児・萩市長が参加者質問を受けた時、私の質問への回答の時に語ったことで判明したのであった。

そして、この自賛自画像の「賛」と、徳富蘇峰以下の研究書に使われる「下田蹈海」の疑問を解くべく、格闘が始まる。
「諸葛亮」や「貫高」、「賈彪」や「魯連」を調べるが魯連が難解であった。
松陰の文には「簡略化」が多く使われていて、魯連は「魯仲連」の名前の略した書き方なのであった。
江戸期の私的文書は、これが多いので注意を要する。

松陰蹈海の図24.3.20


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吉田松陰と久坂玄瑞(4)
【2012/03/17 22:40】 エッセイ
「久坂生の文を評す」④

久坂の反論への松陰の再反論

吉田松陰の予想通り、久坂玄瑞から奮然とした反論が届いた。
松陰の胸中は喜びであっただろう。
天下の大計を必死に論ずる久坂青年の心意気に、喜んで再度の反論を書く。
これは、吉田松陰全集の第二巻「丙辰幽室文稿」、四Ⅰ四頁に収載されている。
タイトルは『久坂玄瑞に復する書』となっているが、此処では「久坂生の文を評す」と統一して、追番を附して書いてゆく。また、讀み易さを優先させて、前掲の武田勘治著から転載する。

松陰は一か月程の冷却期間をおいて再度の反論を書いた。
吉田松陰
さきに再書を辱うした。疾速に答をすべきであったのに、ゆっくりしてい居たのは、敢て怠ったのではない。足下が軽鋭で、未だ深思せず、あはたゞしく憤激不屈の言をなす故、これでは口舌で諭し得ないと考へたからだ。
しかし既に一カ月餘も経った。足下の考へも少しは熟したであろうから、試みに一言しよう。

時宗の擧は、これを丑・寅の年に施すはよいけれども、今日施すことは出来ない。足下が「やれ」といふのは、時勢を察かにせず事機を審にしないからだ。今の天下と古の天下と違ひはない、神功皇后や豊太閤がその昔為し得たことを今為し得ないことがあらうか。足下の「為し得ない」とするのは、志を棄て雄略を忘れてゐるからだ。
時宗2012.5.11


凡そ英雄豪傑が事功を天下に立て善謀を萬世に遺すには、必ずその志っを大にし、その略(企畫)を雄にし、事機を審にし、事機を審にして先後緩急を先づ内に定め。、伸縮張弛を徐に外應させた。今や徳川氏はすでに二虜と和親したのであるから、わが方より斷交すべきではない。我れより斷交すれば、自ら信義を失ふわけである。

今の計たるや、國内っを静にし條約を巌に守って二虜をつなぎとめ、その間に乗じて、蝦夷を開拓し、琉球を我がてに収め、朝鮮を合併し、満州を服させ、支那と提携し、印度にも手を差し伸べ、以て進取の勢を張り以て退守の地盤を固めて、神功皇后の未だ遂げ給わざりしところを遂げ、豊太閤の未だ果たし得ざりしところを果たすに如くはない。誠にかくの如くなり得ば、二虜の如きはたゞ我が駆使するままだ。そこで、前の無禮の罪を責めるのもよろしい。勘辯してやってもよい。何ぞ必ずしも區々たる時宗を眞似て虜使を斬り、さうして愉快がる必要があらう。

けれどもそれは幕府の任であり、諸侯のつとめで、吾が徒の辯じ得るところではないのだ。吾が徒がこれを言ふは空論虚談で、慷慨を装ひ氣節を扮する業たるに過ぎない。聖賢が「辭を修め、誠を立つ」るのとは距離がある。

足下は一醫生でありながら天下の大計をいふ。それで常倫にあらざることが分る。そこで僕は足下を誘うて正道に進めようと思ひ、前回もあのやうに反復した。然るに足下はそれが分らず、あはてゝ「樽俎を越ゆる」を咎めるのだと解した。わけても僕が望みを足下にかけたのは、正にその立場を超越さすことが出來ると1思ふ故であるのを知らず、足下は敢て超越しようとはせず、徒らに坐して論ずるばかりだ。僕が大いに惜しむのはそこだ。

足下の滔々千言の書も、要するに辯に過ぎない。一事として躬行に基づくものはないではないか。一語として空言でないものはないではないか。しかも自ら「憤激の餘りこれを心に発してこれを紙に書す。」といふ。これでは全く、快々鬱々として胸迫り心結ばれて、止むことを得ず來り訴へるのではないか、誠にお氣の毒な次第だ。

そこで今一度足下のために、その胸を闓きその心を廣くして上げ、悉くその空言の病弊をとり去り、これを躬行の域に歸らしめようと思ふ。足下、幸に敬んで聽け。
およそ、道に汚隆(盛衰)があり、時に否泰(塞通)があり、位に尊卑があり、徳に大小がある。大徳が尊位にをり小徳が卑位に居るやうであれば時は泰、道は隆である。否ずんば否ず。これが天地の常形であり、古今の通勢で、ちっとも不思議はない。

けれども人として天地の間に生れ、資性凛氣の萬物に異るからは、まさに綱常・名分のことを以て我が責となし、天下後世のことを我が任とすべきだ。それには先づわが身から始めて家に達し、國より天下に達するのだ。わが身から子に傳へ孫に傳へ、曾玄に傳へ雲仍(遠孫)に傳へるのだ。かうすれば達せざる所なく傳はらざる涯もない。達することの廣狭は實踐の厚薄をあらはし、傳ふることの久近は志の淺深をしめす。

心を天地に立て、命(使命)を生民(人類)に立て、往聖を繼いで萬世を開け。足下が誠によく力をここに用ひ、食息・坐臥・語黙・動静につけて、造次もこゝに於いてし顛沛もこゝに於いてするならば、躬行の軽んずべからざること、空言のたやすく為すべからざることを了解するであらう。

孟子はいって居る、「人の言を易くするは責なきのみ」と。苟も自ら責め自ら任ずる人ならば、どうして易々と論じ得よう。ともかくも、實踐を顧みず論ずる者は、孔孟がこれを裁かうと欲したところだ。足下は誠によく論ずる。何れ天下に裁いてくれる人があるに違ひない―。


松陰はさかんに論議する人であった。このようにその論議は常に地についていた。この立場は我が身、我がたちばを忘れないということである。実践を主とする者(わが本文を盡すに忠実である者)は、我が身我が立場を離れてものを考えるわけには行かない。
久坂は俊敏であり、頭脳も明晰で、しかも身を殺して義を為そうと勇む青年であったが、まだ意氣にまかせて、俊敏な才とよく働く頭とを駆使するに急であった。

手厳しい返信であるが、松陰はまだ見ぬ青年の前途をおもんばかりながら地に着いた論議をせよと久坂を厳しく諭している。この、激しい論議の応酬は、更にもう一通づつ交わされる。
吉田松陰24.3.25

松陰の主催する村塾が開かれる前であるが、既に松陰はこのように、教育的な指導を久坂に行っていたと考えてよい。勿論、後に久坂は松下村塾のリーダーとなり、絶大な信頼を得て、松陰の妹を嫁にして松陰とは義理の兄弟となるのである。これには、最初に江戸遊学した時の友人「中谷正亮」が介在するのであるが、この詳細は後に記す機会があるだろう。


吉田松陰と久坂玄瑞(3)
【2012/03/16 12:22】 エッセイ
「久坂生の文」を評す③

第一回、久坂の松陰への反論

安政三年六月二日付、吉田松陰からの返信は手厳しかった内容であった。
反面では久坂への愛の鞭ともいえる事情を、前回記した。
併せて、久坂に松陰への手紙を出すことを勧めた土屋䔥海へ、松陰は胸の内を語って確認を求めた書簡も紹介した。

今回は、このような松陰の実情を知らずに久坂玄瑞が、反論して来たものを書く。
出典は前回同様(武田勘治著、マツノ書店復刻版。
久坂玄瑞(小)


六月六日辱く尊報を賜りましたが、讀了憤激し、一言坐下に白さざるを得ません。
來示に曰く「凡そ國勢を論ぜば、上は即ち神功皇后下は即ち秀吉にして可なり、時宗は以て國勢を論ずるに足らざる也」と。

一體方今は氣ちぢこまり力抜けして、しかも益々倉皇たるが本邦の情勢である。その勢は退嬰的である。艦を巨にし砲を大にして益々窺窬(きゆ:隙を窺う)するは寇虜(こうりょ、米英夷)であって、その勢は進攻的である。古人は言った、「我れ退くこと一歩なれば即ち彼の進こと一歩」と。寇虜の勢は一歩づつ日に進み、本邦の勢は一歩づつ退いてゐる。退く者は必ず守りがなければならぬ。守りが出來たら、そこで一歩進むべきである。一歩進むことが出來れば寇虜も退き守らざるを得ない・・・・・・。
朝鮮半島


神功皇后の三韓における、秀吉の朝鮮におけるは、瀾濤萬里、勲は海外に建つるもの。それは守るところあって然る後に攻め得たのである。方今は恐らくさうではない、氣ちぢこまり力泪衷(るいちゅう)してゐて、神功皇后の時の如く元氣伸び、秀吉の時の如く力振うてはゐない。しかも米英夷の強いこと朝鮮の弱い如くではない。要するに今日の情勢は昔日の情勢の如くではないのである。銃砲の如きも、寇虜の城郭の如きものは敵し得ないのであって、海外に出兵しようにも無し得るわけがないのである。
だから、神功皇后や秀吉の擧はこれを昔日に施すことは出來ても、これを今日に施すことは出來ない。

時宗元使を斬るや、天下の人は皆言った、「元は必ず来寇する」と。
元寇

かくて弓に絃を張り、劍を砥いで寇を待ち、その来寇するや一戦でこれを殲滅した。方今でもこの如くあらしむれば、ちぢこまってゐる氣必ず振ひ、泪衷してゐる力必ず伸びる。かくて我が守りに餘力があれば、彼も敢て進攻せず、我は進み得るのである。

その時に當ってこそ、神功皇后及び秀吉の擧をなすべきであり、宜しく武内たるべく、清正たるべきであり、その建勲昔日の如きも勿論困難ではない。謂ふところの「守は難く攻むるは易し」とはこれである。

然るに若し「使を斬るの擧、これを癸丑に施すべくして、事機すでに失す」等といって袖手傍観、坐して敗るゝを観てゐるのは果して如何であろうか。鄙語にもいってある、「兎を見て犬を顧みるも未だ遅しとなさず、羊を失ひて牢(羊小屋)を修補するも未だ遅しとなさず」と、必ずしも「事機すでに失す」とはいはれまい。虜使を寸断して四夷に武威を示せ。我に守りあって而して後に彼を攻むれば、何で彼が進攻し得よう。
然れざれば力愈々泪衷し氣愈々ちぢこまる。そして遂に言葉を鴃舌(けつぜつ:モズの声、外国語をさす)にして着物を左袵(ひだりまえ)にせねばならなくなるのは知れたことである。

郁離子はいってゐる、「一指の寒するや焙せ燠(あう:救は)ざれば即ちその手足に及ぶ。手足の寒するや燠せざれば即ちその四體に周し」と。古語にもいってある、「河決すればまた壅ぐべからず、魚爛(ハネ出す意)してまた全うすべからず」と。

然らば、魚ははね出さぬやうにして全うすべきであり、河は堤の切れない前にふさぐべきであり、一指が毒に犯されたた四體にまはらぬ中に斬りとって命を救ふべきである。天下の禍を除くことも、鴃舌をしゃべり袵を左にする前にせねばならぬ。なほ救ひ得るかも知れぬのに袖手傍観してゐてはなるまい。因循して現状維持を圖るなどは駄目である。即ち速に使爺を斬ることのみがこの際の天下の大計である。何で「時宗は以て國勢を論ずるに足らず」などいひ得るのであるか。

いはれるように誠(玄瑞)の任ずる所は醫である。弓馬刀槍ではない。舟艦・銃砲でもない。大将でもなく、使節でもない。一醫生の身で天下の大計を論ずるは樽俎を越える(分を越える)こと甚しきは、義卿(松陰)の言を待って後にやっと知り得ることではない。

けれども若し兵を用ひ、劍槊(けんさく)相磨し巨砲互に発するに至って、區々たる刀圭(醫療器具)を執って、旗皷の間(戦時下)にむなしく死するは、天下國家のために死するのではなく、一身のために死するのである。それを思って居常怏ゝ(おうおう)憤怒に堪へず、憤怒の餘りが心に発して紙に書かせたのである。しかしこれを敢て他人に語らぬのは語っても無益であるからで、義卿は豪傑の士だと知った故、ひそかに告げたのである。

然るに義卿は責むるに「慷慨を装ひ氣節を扮する者」を以てした。その不遜の言何で吾れ屈するものぞ。
醫生が天下の大計を論じたとて人は必ずしも信じないであらう。信じなければ即ち「口焦げ脣たゞると雖も、天下に裨益なし」と謂はるるも尤もである。けれども誠の大計を論ずるは憤怒の餘りに出づるのであって、固より強く責めるには當るまい。

今、義卿の罵詈・妄言・不遜は何と甚だしいことぞ。誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。もし果してこの如き言をなす男だとすれば、先の日に宮部生が賞賛したのも、誠が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったやうである。紙に對して憤怒の餘り覺へず繋案した。
誠、再拜謹白


このように、久坂は松陰の予測通り果して憤激した。この文を書くのに當っても憤りのために机上を殴りつける程だったという。(武田著)この文章が十七歳の青年であることに驚嘆してしまう。この往復書簡は、三通づつ交わされているのであるが、松陰の教育者的態度を知るためにも、一読の価値があるので敢て労苦を厭わずに転記している。文語調や独特の難字が出て来るので、簡単に読めないが根気よく読んで頂きたいのである。まだまだ、この連載は続けます。お楽しみに。
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吉田松陰と久坂玄瑞(2)
【2012/03/13 23:16】 エッセイ
「久坂生の文を評す」現代語訳

前回、掲題の往復書簡を紹介した。久坂玄瑞の「義卿吉田君の案下に奉呈す」を原文の漢文にて記した。書き下しがあるのでそれを記す。(武田勘治著、昭和十九年、道統社:マツノ書店復刻版より)
久坂玄瑞、再拝し謹んで二十一回孟士義卿吉田君の座前に白す。
今茲春、鎮西に遊び、肥後に入りて宮部生を訪れ、談吾兄の事に及ぶ。
久坂玄瑞


生、吾兄を賞讃すること娓々としてやまず。誠の欽慕せること一日に非ず、且つその言を聞きて、欽慕益々堪ふべからざるなり。
乃ち将に短簡を修し以てその鄙衷を陳べんとす。
而して誠は吾兄を識らず、吾兄も固より誠を識らざるなり。
半面の識なくして乃ち短簡を修せんと欲す、自らその鶻突を免れざるを知る。
然れども、誠その面を識らずと雖も、しかし吾兄の慷慨気節にして天下の豪傑の士たることを識る。
之を識らずとは謂ふべからず。
而して吾兄獨り誠を識らざることしかり。

誠や鈍駑閽昧、謂ふに足るものなし。
而れども、皇國の土に居り、皇國の粟を食む、即ち皇國の民なり。
それ方今、皇國の勢如何や。綱紀日に弛み、士風日に頽れ、而して洋夷日に跳梁し、屢々互市(通商)を乞ふ、その意、必ず我が釁(すき)を窺ひてその欲するところを伸すに在るなり。

而して廟議は、暫く互市を許すを以てし、すの隙に兵備を巌にするに若かずとなす。
殊に知らず、互市を許さば即ち天下の人益々その無事に狎れて益々般楽怠傲し、兵備ついに巌なるべからざることを。

昔、弘安の役に、元使屢々我れに至る。
その書辭禮ならざるを以て、遂にその使を斬れり。
元師十萬來寇するや、精兵を以て之に當たり、彼れ一敗蕩然として生歸する者僅に三人。元また我が邊を窺はず。
あゝ我れに男子國の稱ある、うべならずや。もし方今をして弘安の如からしむれば、彼れ互市を請はゞ我れこたへて日はん、國法の禁ずるありと。
彼之を強ひば即ち宜しくその使を斬るべし。
ペリーの顔2012.02.08


天下の人皆いはん、彼れ必ず來寇す、般楽すべからざるなりと、綱紀必ず張り、士風必ず・・・・・・(以下闕損)


此れに対する松陰の厳しい返信も紹介した。
実は、これには裏話がある。大衆版吉田松陰全集の第六巻、三四九頁に「同じ標題の松陰の述作」が収載されている。

これは正しくは「妄見を録し以て來意に酬ふ」と題したもののようである。
此れを讀むと、松陰がどうして「久坂生の文を評す」を書いたか、その胸の内なり、事情が書かれている。
松陰が考え抜いた末に書いたことが解かる。以下、それを記す。
 



僕家居以来、誓って世と通ぜず。今、貴書を得て、答へざらんと欲すれば則ち來意に負き、答へんと欲すれば則前誓在り。因って貴書を還して以て前誓を踏、妄見を録して以て來意に酬ゆ。兄、其の意を知り、其の禮を略し、且つ人に語るなくんば幸甚と為す。〇僕の師治氣翁、余の為に令兄玄機を言ふこと悉せり。後、中村道太も亦屢々之れを言ふ。余、因って一たび其の人を見んと欲す、而して其の人則ち亡し、徒らに涙を堕すのみ。近人説く、玄機弟あり玄瑞と日ふ、亦奇士なりと。而して岸獄の人、固より外人を見るに由なければ、則ち是れ亦望を絶てり。今忽ち此の書を得。玄機を知らんと欲して得ず、玄瑞乃ち在り、玄瑞を見んと欲して能はず、乃ち其の文を讀む。僕の狂妄言ふに足らずと雖も、其の兄と相識るも、亦已に久し。議論浮泛にして、思慮粗淺・・・・・・(略)

更に、もう一つの裏話がある。
この返書をしたためた翌日の六月三日に、松陰が土屋䔥海に送った書簡では、松陰は玄瑞の書簡を讀んで、彼が非凡な人物であると直感した。それで確認したいと考えて、敢て厳しい返信を出した。つまり、ここにも松陰の教育的配慮が窺えるのである。


非常にドラマチックな出会いであり、この後往復書簡が交わされていて、松陰を理解するのに貴重なものなので、以下に「土屋䔥海宛」の書簡を記す。

元々は土屋䔥海の奨めで書簡を書いたのであったから、松陰は敢て土屋に再確認をしたかったのであろう。このようなわけで、久坂玄瑞と吉田松陰の出会いは、誠に劇的である。肥後で松陰の畏友である「宮部鼎蔵」から、「なぜ松陰に従学しないのか」と訝られ、まだ見ぬ松陰を敬慕していたのであったところへ、土屋からの奨めがあって「義卿吉田君の案下に奉呈す」が書かれたわけである。これは、数度に及ぶ往復書簡が遺されているので、可能な限り詳述したい。


「土屋䔥海宛」書簡
安政三年六月三日松陰在萩松本、土屋在萩

䔥海學兄
坂生志氣凡ならず、何卒大成致せかしと存じ、力を極めて辯駁致し候間、是れにて一激して大擧來寇の勢いあらば、僕が本望之れに過ぎず候。若し面従腹誹の人ならば、僕が辯駁は人を知らずして言を失ふといふべし。此の意兄以て如何と為す、如何と為す。
三日
松陰生


松陰は、短文の書簡を土屋䔥海に寄せて、胸中を語っている。後に高杉晋作と共に「松門の双璧」と謳われた久坂玄瑞。
師の松陰と共に、時代の流れによる「非業の死」が惜しまれてならない。
元治元年(一八六四)六月、「禁門の変」で鷹司邸にて負傷し、自刃してしまう。時に、二五歳。惜しみてもあまりある、短い生涯であった。
この連載は松下村塾の教育の一端が垣間見えると思うので、出来る限り詳しく書きたい。


吉田松陰と久坂玄瑞(1)
【2012/03/12 23:17】 エッセイ
『久坂生の文を評す』①(丙辰幽室文稿)

安政三(1858)年六月二日 二十七歳

最初に、久坂玄瑞から松陰に宛てた書簡を記す。
安政三年六月、松陰は免獄後の杉家での孟子の講義が終わり「講孟餘話」としてまとまり、一段落した頃である。
久坂玄瑞は、この年三月鎮西遊学し、肥後で松陰の終生の友である「宮部鼎蔵」と出会い、同じ長州藩の松陰を知らなかったことを惜しまれて歸萩したところである。
久坂玄瑞

そして、松陰宛に書いたのが、下記の漢文の書簡である。
これは吉田松陰全集の定本版第四巻、六九八頁(詩文集)に収載されている。玄瑞十八歳、松陰二十七歳の往復書簡である。
これが機縁となり、久坂玄瑞は松下村塾に入塾し、その後に松陰の妹と結婚して松陰の義弟となる。
全文が漢文の白文だが、正確には理解出来なくても良く、大略の意味はつかめるだろう。
久坂は幼少より神童の誉れ高く、自信満々にてしたためたが、折しも「ハリス」が下田に上陸すべく、開国の具体化が進捗している頃であり、松陰の攘夷思想的な返信を期待していた。だが、意に反して、思いもよらぬ手厳しい内容であった。

奉呈義卿吉田君案下(安政三年五六月頃)

久坂誠玄瑞再拜 謹白二十一回猛士義卿吉田君座前、今茲春遊鎮西入肥後、而訪宮部生、談及吾兄事、生賞讃吾兄娓々不已、誠欽慕非一日、且聞其言欽慕益不可堪也、乃将修短簡以陳其鄙衷而誠不誠吾兄、々々固不識誠也、無半面之識而乃欲修短簡、自知不免其鶻突亦矣、然誠雖不識其面而識兄之慷慨気節天下之豪傑之士矣、則不可謂之不識、而吾兄獨不識誠焉爾、誠鈍駑閽昧無足言者、而居   皇國之土食   皇國之粟則   皇國之民也、夫方今   皇國勢何如也、綱紀日弛、士風日頽、而洋夷日跳梁、屢乞互市、其意必在伺我釁伸其所欲也、而廟議以為不若暫許互市、而巌兵備於其隙、殊不知許互市則天下之人益

狎其無事、而益般楽怠傲也、兵備終不可巌矣、昔者弘安之役、元使屢至、我以其書辞不禮遂斬其使、元師十萬来寇、精兵以當之、彼一敗蕩然生帰者僅三人、元不復窺我邊、嗚呼我有男子國之稱不哉、儻使方今如弘安、彼謂互市、我對日、國法有禁、彼強之則斬其使、天下之人皆謂彼必來寇不可般楽也、不可怠傲也、綱紀必張士風必(以下缼)


まず、今茲三月鎮西遊行して、肥後で宮部鼎蔵から吉田松陰のことを聞かされた。攘夷思想に疑いを抱かず、ハリスを元寇の北条時宗に倣って斬殺すればよいとの、気負った内容が窺える。これに対して吉田松陰は下記の如くに、手厳しい内容の返信を書く。

議論浮泛にして思慮粗浅、至誠中よりするの言に非ず。世の慷慨を装ひ気節を扮ひて、以て名利を要むる者と何ぞ異ならん。僕深く此の種の文を悪み、最も此の種の人を悪む。僕請ふ粗ぼ之れを言はん、兄、幸いに精思せよ。
凡そ國勢を論ずる者は、上は則ち神后、したは則ち豊公にして可なり。時宗は李世に生まれ、急変を慮って、一着偶々中る、固より亦一時の傑なり。然れども以て國勢を論ずるに足らざるなり。
使を斬るの擧、これを癸丑に施すは則ち可なり、これを甲寅に施すは則ち晩し、而れども尚ほ或は及ぶべし。
乙卯を過ぎて今日に至りては、則ち晩きの又晩きなり。大抵事機の去来するは、影の如く響の如し。
往昔の死例を執りて、以て今日の活変を制せんと欲す、難きかな。
謂ふ所の思慮の粗浅とは是れなり。天下為すべからざるの地なく、為すべからざるの身なし。
吉田松陰とその門下24.3.25 

但だ事を論ずるには、當に己れの地、己れの身より見を起こすべし、乃ち着実と為す。故に身、将軍の地に居らば、當に将軍より起こすべし。身、大名の地に居らば當に大名より起こすべし。百姓は百姓より起こし、乞食は乞食より起こす、豈に地を離れ身を離れて、之れを論ぜんや。今吾兄は医者なり、當に医者より起こすべし。寅二は囚徒なり、當に囚徒より起こすべし。
必ずや利害、心に絶ち、死生、念に忘れ、國のみ、君のみ、父のみ。家と身とを忘れ、然る後家族之れに化し、朋友之れに化し、郷党之れに化し、上は君に孚とせられ、下は民に信ぜらる。ここに於いててか、将軍為すべきなり、大名為すべきなり、百姓乞食も為すべきなり。
乃ち医者囚徒に至るまで、為すべからざる者あるなし。是れを之れ論ぜずして、傲然天下の大計を以て言を為す、口焦げ、脣爛るとも、吾れ其の裨益あるを知らざるなり。謂ふ所の議論の浮泛とは是れなり。且つ兄が身の任とする所、弓馬なるか、刀槍なるか、舟船なるか、銑砲なるか。抑々将たらんか、使たらんか。神后の時に遇はば、能く武内たらんか。豊公の時に遇はば能く孝高たらんか、清正たらんか。家族朋友郷党の兄に従って節に死せんと欲する者、計幾人ありや。兄を助けて財を輸さんと欲する者、計幾人ありや。聖賢の貴ぶ所は、議論んに在ずして、事業に在り。多言を費すことなく、積誠之れを蓄へよ。(松陰在萩杉家、久坂在萩)

議論が浮ついていて、松陰は、この種の文や人物を憎む(悪む)とある。
墨夷の使者を斬るのは時期を逸している、北条の元使を斬った昔の逸話を再現しようとしても、短慮でただの議論だけだとある。議論の展開は自分の現在の身の立場から起せ。
貴殿は医者であるから、医者の立場からせよ。

墨夷(ハリス)を斬るとして、どうして実行するのか。神宮皇后の武内宿祢や豊臣の黒田孝高(官兵衛)はいるか、同じ思いでどれだけの者が貴殿の実行に手を貸すか。
実は、松陰自身ペリーを斬ろうと考えたことがあった。「日本刀の切れ味を見せてやる」と、意気盛んに考えたこともあった。しかし、実行には至らなかった。まして、時期が遅すぎ、条約締結してしまった今(安政三年)では話にならない。


孔子や孟子の言わんとしたことは議論でなく、周到な実行、実践である。
多くの議論より、信ぜられるに足る人物を研鑽陶冶せよ。という、意味の返信であった。しかし、これとは逆に、土屋䔥海には、久坂の人となりを評価していた。また、この返信の事情が、別途の項にて全集所載されているので次回で再度紹介する。


『将及私言』 上書のこと
【2012/03/08 15:49】 エッセイ
『将及私言』①

嘉永六年六月~八月 二十四歳

謹んで案ずるに、外夷の患由来する所久し、固より今日に始まるに非ざるなり。然れども今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり、六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察す 軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。
吉田松陰


然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。然らずんば今已に戦争に及ぶこと久しからん。然れども往時は姑く置く。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふの事件。一として許允せらるべきものなし。

夷等来春には答書を取りに来らんに。願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然として歸らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし。然るに太平の氣習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈に嘆ずべきもの甚だしきに非ずや。

今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆坐薪の思ひをなし、君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百戦錬磨の夷と戦ふこと難かるべし。
若し然らずして安然日を渉る時は、追ふべからざるの悔いに及ぶべくと、窃かに國家の為痛心し奉るなり。故に忌諱を憚らず、妄言の罪を避けず、当今の急務条を論列するなり。


『解説』
この『将及私言』は、松陰が「過所手形」の発行を待たずに、江戸藩邸を出奔(脱藩)して藩から罰則を受けたが、藩主の粋な計らいで「向十年諸国遊行」が許されて、凡そ半年をかけて江戸に着いた直後に、ぺりーの開国を迫る来航に出逢って、藩主に上書したものの序論に当たる。かなりの長文の意見書なので、何度かに分けて書く。

実は、松陰は此の時「藩士」の身分を剥奪された「浪人」の身であるから、「上書」の資格がなかったので、江戸藩邸の役人たちから相当の非難を受けたが、それは松陰も承知の上での行為だった。

「夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふ等、一として許允せらるべきものなし」が、彼の主張だが、「軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり」が前提になっている。「砲艦外交」や「対等な國家との通商要求」でない態度に、激しく怒っている。

上記の「国家」は、通常、江戸期は「藩」であるが、ここでは「日本国」、または「大和魂の民族」の意味も込められていると考えてもよい。「外夷の患」は、前年、東北の沿岸防備視察をした松陰であるから、長年にわたる「夷船」の近海出没が脳裏にあったはずである。軽蔑侮慢な態度から、藩主に対応策を誤らないよう「心痛」のあまり、越権行為を承知での上書となった。

後半部分で、次のような文言が見える。「私儀先般御咎めの趣之れあり、御家人召放たれ杉百合之助育に成り居り候処・・・・・・素より罪と知りながら差出し候事故、鄙中さへ上達致し候へば、其の余何程の御厳罰仰せ付けられ候とも決して畏避仕り候事に御座なく候・・・・・・」と、命がけの思いで上書したのである。

後に松陰言うところの「二十一回猛士」の第二回目というわけである。因みに第一回は「過所手形無し出奔」である。國を思うこと、尋常ではない。


吉田松陰の「月性」への書簡
【2012/03/04 13:10】 エッセイ
吉田松陰の書簡から、いくつか節目の事項(事件)が生起した時に、どんな行動をとったかを知るために、いくつか書いてみたい。
ただ、個人名が沢山出て来るので、松陰全集の『関係人物略伝』を参照しながらでないと、理解が難しいかもしれない。

今回は、ハリスとの通商条約交渉で、追い詰められた幕府が、天皇の支持を得る為、老中の堀田正睦が参内したが失敗に終わった情報を、門下の久坂玄瑞から書簡で知った松陰が、「勤皇僧」で知られる「月性」宛てに書いたものである。
勤王僧月性

此の月性という人物は、周防國の人で、宇都宮黙林とともに、松陰に思想的影響を与えた人物として知られる。

西郷隆盛と一緒に、錦江湾に入水して死去した「月照」と間違えられやすいが、この人は京都清水寺の住職で、近衛家と親しかった。「ひらがな」で書くと「げっしょう」なので、しばしば間違えられやすい。

松陰よりはるかにラディカルな思想を持っていた。萩にも講演に何度か訪れている。松下村塾と、藩校の明倫館とが対立関係となって、こじれた時に松陰は、とりなしを頼んだほどの交友があった人物です。早くから討幕を唱えていた人物でもある。

「月性宛書簡」  安政五年四月十二日
松陰在萩松本
月性在周防國遠崎

昨夜玄瑞・秋良(あきら)よりも書来り、二十日堀田参内の事申し来り候。實に天朝の正論抃舞(べんぶ)に堪へず候。二十日 勅諭の趣、外夷の事、箱舘・下田・長崎の外は絶えて来泊差許されずとの事、堀田震慄(しんりつ)拝伏退出と申す事。
右の趣に候へば事已に迫り申し候。秋良より委細申出で候や。勅諭も参り候由(別紙に寫し上げ候)、未だ写し取り申さず候。
玄瑞が先書は文周に寫させ上げ候様申付け候。文周も中々憤発、藝國へも些なりとも正氣発し候様致し度き積りと相見え候。御垂察然るべく御差圖下さるべく候。玄瑞・春軒とも溜京の願の事申し来り、爰許(ここもと)にて取計ひ仕り候。
先日申上げ候䔥海門の仙之允外一人が直八上京の策、昨夜周布へ申入れ置き候。
賞典の議論、政府も面白く相聞き候。
久保外二子一昨日口羽より歸られ候。口羽も母病きのよしなれども國事頻りに苦心□□□ず候。
今朝より来原舟木行、佐世・口羽へも参り候筈。詩觸は此の便に託し候。何分私少々氣分相、特に大紛冗詳かに書すること能はず候。萬、御推察頼み奉り候。
以上
十二日(安政五年五月)
寅白す
清狂上人 座前



『意訳』
昨夜、久坂玄瑞と秋良敦之助(重臣・浦靭負の家臣)から手紙が届いた。四月二十日、老中堀田正睦の参内の詳細。将に朝廷(天皇)の正しい見識に恐懼致します。

四月二十日、天皇はアメリカの申入れのうち、凾館、下田、長崎のみ寄港を許可したとのこと。堀田正睦は、大いに見込み違いで幕府権威を失墜し、愕然として退出したとのこと。まだ書き写していませんが、書類が届き次第書き写してお届けします。

久坂玄瑞からの先便は富樫文周に書き写させたが、彼も憤って安藝にもこれを知らせたい由。久坂・春軒(半井春軒、友人・江戸に遊学中)らも京都に滞留したい由、私も支援を手配中です。仙之允(䔥海の門人)ともう一人の時山直八が上京に向かう事、周布政之助に願いしておきました。

朝廷の勇気ある目出度い話、藩政府もどんな思いで議論しているでしょう。久保他の二人、は帰ったが、口羽は母の体調が悪いながら、国の艱難に苦心しています。今朝から来原良三・佐世主殿・口羽にも伝える由。作詩も添えます。ただ私は体調悪く詳細を書けず、何とか、文意を読み取って下さい。


吉田松陰とメディア
【2012/03/02 01:02】 エッセイ
ジャパンタイムス
吉田松陰とメディア

来年から掲題の科目名にて講座が開講される予定である。幕末期の「メディア」といえば、「かはら版」、「書簡」、「口伝手」、「風聞」、「立札」(掲示)、「命令書」、「書物」の類であろう。現代のような、発達した「マス・メディア」は、すぐれて「近代国民国家」の産物であるから、「テレビ」や「新聞」、「ラジオ」、「官報」の類は存在しなかったのである。
吉田松陰の時代(幕末)では、上記の手段に頼らざるを得なかったのである。だから「メディア」の原点は、広報技術ではなくて「人伝手」そのものなのであろう。

そういった意味で、松陰は「情報」なるものの価値と、速報性を重要視したさきがけの人物である。何故か? それは、ペリーの来航以来、日本中の出来事は急を要することになり、士農工商の全国民挙げての関心事となったのである。
飛耳長目地図


「全国」ということばが現在も使われている。この「語」に違和感を覚える人は少ないように思える。何故か? 「習い性となる」で、慣習となると人は違和感を覚えないのである。この全国という意味は、太政官の「クニ」の六十余ヶ国の名前の名残なのである。

高校で日本史を勉強すると、平安時代に「國司」なる言葉に出会うはずである。では「國司」と何か? 今の、国家中央政府より派遣された『知事』と思えばイメージが近い。(正しくは、知事が国家中央より派遣されたのは明治初期であって、現在の地元公選方式での選出とは異なる)。しかし、中央政府の傀儡であるから、中央の政令(命令、通達)に従わなければならない建前になっていたが、次第に土着化し「地元」での専権事項を増加させていった。その結果、「意」のままに、自分の統治する地域(國)で権力を振うようになる。

藤原氏の権力崩壊はこのような過程を経て、次第に権力を失ってゆくのであった。それは、権力基盤が実は、「経済力」に起因していたから、経済的な支配力をもっていた「國司」は、任期を終了しても、都に帰らないのである。人間、一度禁断の実を食べると、手放せないのである。このことは「日本荘園史」を学び給えというべきだろうか。一度握った権力の美味しさは、経験者でなければ解かるまい。それをやすやすと手放す人物はいないだろう。
吉田松陰

今日、政治家なる職業が、「美味しい」職業であるから、野心ある者は「こぞって」政治家志望である。政治家とは「身を捨てて公僕に甘んじる」という、覚悟がなければならない。
しかるに、それが「利権」というものに変容してしまった。高級サラリーマンとどこが違うのか。それは、魔物と言われる「権力」なのである。業病というに近い精神構造だろう。

官僚天国とはいうが、「事務次官」まで登りつめてからでは、政治家人生は遅いのである。若いうちに政治家?に当選して(転身)、その当選回数を増して、威厳を持たないと国会議員として芽が出ないのである。つまり不遇なのである。能力が問われるのは、今回の「防衛大臣」の失態で明らかになったが、かれは特殊な政治家に属するので、論外としておくしかない。「末は博士か大臣か、はたまた大将か?」といわれた戦前の理想の社会的出世観がまだ残っているのである。

いま、政治家と政治屋とが区分けされ始めている。人格を問われているのに、相変わらずの政治家である。しかも、衆議院議員となると、とてつもない大出世と勘違いしている世相である。見たまえ、官僚の中途退職者が、国会議員となっても、「官僚」から「あいつは、大した人物ではなかった。官僚として最後の出世レースにまで生き残れないから、議員に転身したのだろう」。と、この程度にしか思われていないのである。不祥事が起こるたびに「政治の信頼を取り戻す」努力を致して参ります。てな、言葉が、常套句になっている。その前に、吉田松陰のように「国家に殉ずる覚悟」がありやなしや?こそ、問われるべきものである。國家や民族の存亡をかけた生き方をしていない、現代の政治家たちが、言葉巧みに称えようとも、国民は事前に承知しているのである。
草莽崛起


傑出した政治見識や国際社会での識見を持ち合わせていない人物には、尊崇の念を抱かないのが現代の市民である。その意味では、田中角栄は複雑な立場で見られるであろう。

革新的な見識の実践には、偏見や誹謗が付きまとうのは昔も今も変わりがない。つまり、表面的にはいざ知らず、本質的には、人間そのものは変わっていないのである。
現代人が「偉い・偉人」と尊崇するのはどういう人物か? 熟考を要する問題である。
「伝記」を読めばそれがわかる。それは、自分の使命に敢然と立ち向かい、その結果「道半ば、または功なり名を遂げた」人物が、尊敬の対象となるのである。「一生懸命生きた」人が偉いのである。もっといえば、「世の為、人の為」にあらん限りの力を振り絞って生き抜いた人ということになるのであろう。

見たまえ! 日本の軍人の失敗を! 日清・日露の戦役の勝利を金科玉条として、時代の変遷を読み取れなかったエリート軍人のことを。大正年間の初期に起こった第一次大戦の実態を研究せずに、過去の栄光?と勘違いして、昭和の日本を滅ぼした人たちの精神構造を!
「陸軍大学・海軍大学」を主席乃至、最上位に近い成績で卒業した人物達を、通称『軍刀組』と尊称して、揚句の果ては将官までの栄進が約束されていた。将官を目指す前に、日本国があるだろう! 自分の栄達が、自己目的に変容して、いつしか国家目的がいずこに去ってしまったエリート軍人の姿を、我々は失敗に学ぶという、大きな命題で心底勉強しなければなるまい。

吉田松陰が、安政六年四月に知人(北山安世・佐久間象山の甥)に宛てた『独立不羈三千年の大日本』が、明治維新後、わずか八十年で日本は滅びたのである。つまり他国の占領(支配)を受けたのである。泉下の松陰は「憤怒の限り」の思いであろう。『吾、今国の為に死す!』と言った、彼に対してどのように申し開きが出来るだろう。 私などは、ただただ頭を垂れるのみである。
価値観が多様化した今、往年の価値観や歴史観を持ち出すのは、或る意味不謹慎かもしれない。でも、そのように言わないと【腹門癒し難し】なのである。憂国の至情なのだ。

現在、マスコミは「第三の権力」といわれる。昭和四十年代に、京都大学の会田教授が「日本の四大権威を叱る」なる、論文が文藝春秋に掲載されたが、思い起こしてもらいたいものである。朝日新聞、NHK、岩波書店、東京大学がその対象であったと記憶している。
大阪市の橋下知事が叫んでいる。「身分保障」(保証?)に胡坐をかいた人種に、警告を発している。それが、公平感を希求する民間(国民)の意思として人気を博している原点なのだ。吉田松陰の魂の叫びは、こういったことであったのであろう。
「萬巻の書を讀むに非ざれば寧んぞ千秋の人たるを得ん」なることばは、もって冥福すべしであろう。勉強も、命がけというわけだ。折しも、四十年振りに『吉田松陰全集』が再刊された。その直後にはもうすでに、入荷待ちとなったようである。これは、国家の衰退を救済せんとして、命がけで生きた松陰を希求する証でもあろう。昭和四十七年は「学制発布百年」を記念して「大衆版・吉田松陰全集」が刊行されたのだそうである。それが、再び刊行される意味を、深く考えてみる必要があるように思えてならない。





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