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東京湾を海から眺めて見ると!
【2012/04/30 23:37】 エッセイ
『お台場』散策から思うこと

2012年4月29日、快晴の行楽日和に、掲題の「お台場散策ウォーキング」を仲間と散策してきた。
新橋、「ゆりかもめ」改札口に10時集合。芝浦埠頭駅で下車して、レインボーブリッジ・の歩道を歩きながら東京のウォーターフロントや名所を遠望。春特有の「霞」がかっていて「スカイツリー」は見えず、残念。

お台場公園を散策して、役に立たなかった「備え付けの大砲」残滓に魅入る。「お台場」なることばは、この江戸湾に構築された人工的な陸地の形に由来するが、この大砲は幕末には江戸城防備を期待されながら、役立たずに運命を終えたかに見えたが、歴史の皮肉か『日露戦争』で爾霊山攻略の場面で役立つことになったのは、『坂の上の雲』で描かれる「児玉源太郎」大将の発案から有効活用されて、存在意義を発揮する。
反面、乃木大将がこの小説では貧乏籤を引く運命となる。
児玉源太郎大将2012.4.30

「乃木神社」から、この小説で描かれる乃木愚将論にクレームがついたそうである。
児玉大将が有能な将軍として描かれており、軍司令官交替が乃木大将にとってマイナスイメージとなったようである。大事なことは、陸軍大将とはいえど、神ではない。
人間である。人には長短がつきものである。
乃木将軍は、その人格的魅力によって、乃木大将のためならば命を投げ出すことを惜しまなかった兵隊さんが多かったという。
武将として、大変に統率力に優れていたという。明治天皇は、そういった乃木大将に全幅の信頼を置いていたと云われる。反面、儒教的教養を身に着けていた乃木将軍は、ある種の完全主義と、軍人はかくありたい・・・・・・という思いが強かったようである。

西南戦争で「連隊旗」を敵軍に奪われたことが終生の汚点として、自責の念が消えなかったようである。それが「殉死」という、ある種の時代錯誤的な行動となった。
徳川時代も四代将軍、家綱の代に禁止された、武士の忠誠心への警告の「御触れ」だった。
しかし、乃木大将は晩年になって、学習院の院長を務めた人である。
乃木大将2012.4.30

後の昭和天皇に「中朝事実」という本を、詳細に語らずに渡して死に就いたのであった。静子夫人も、夫の殉死に従った、女丈夫である。
江戸湾の海防の話題から、脇道にそれてしまったが、江戸城防備に完璧を期した徳川家康の予期し得なかった判断が二つあったと云われる。
その一つは、江戸100kmの有力譜代の大名配置は陸上の防備であった。従って西洋で勃興した「産業革命」、とりわけ蒸気機関の発明を知らずして生涯を終えたことである。すなわち、帆船でなく蒸気船という、すぐれて近代的な軍事技術のなしえた大砲を装備した軍艦が出現したことである。
もう一つは農本主義の経済が貨幣経済に経時変化することが読み切れなかったことである。
農業技術の生産力向上や、新田開発に伴う余剰生産物がもたらした「商品」としての農産物の出現である。これは、必然的に商人という階級の存在価値が、家康の時代には考えられなかったことであった。
徳川家康24.4.24


そうして、経済活動の変容という事態を予測しきれなかったことで、「馬関」(現下関市)を直轄地(天領)にしなかったことから、毛利藩の反撃を読み切れなかった。
誠に経済は自在に変化する。
マルクス経済学も、近代経済学も数多の与件の前提があって論理が構築されている。「生き物としての経済」が招く世界は、極めて予測が困難である。
仮に徳川家康が「北前船」の役割を認識していたら、馬関を直轄領(天領)としていたに違いない。

考えてみれば、今年は西暦では2012年である。家康が天下を取ってから、150年と想定すれば、元禄時代が過ぎた頃で、時の将軍は六代の家宣であり、側近は新井白石であった。漸く経済の矛盾が表面化し、間もなく吉宗の「享保の改革」が行われ、軌道修正を余儀なくされた時期に当たる。
今日、国債発行残高は一千兆円に喃喃として、秒速億単位の金利が発生している現実を考えると、家康と言えども想定外といわざるを得ないかもしれない。

明治維新規模の改革が必要になって来る可能性が、年々現実味を帯びてくる。
一つの社会体制が無事に継続するのは、100年か200年程度の時間的制約があるのかもしれない。
現在も、昭和27年のサンフランシスコ体制の下で、軍事費の国家予算が先進国のなかで低水準を維持できている現実に、まともに向き合って、それこそ取り越し苦労している国民ははたしてどれほどいるだろうか。
平和ボケもここに極まれり、とでも言いたくなるような世相である。

戦後の教育の誤りが、瀰漫して取り返しがつかない。
一般国民はおろか、政治家の言動を見聞するにつけ絶望感に悩まされるのは、一人私だけではあるまい。
吉田松陰のような、國家を憂える「勇気ある日本人」が待望される所以である。それかあらぬか、ほぼ毎年『吉田松陰』の著書が刊行されている。
何時の世も、時代に先駆ける考え方は、一般に受け入れられにくいようである。松陰が、生きて萩に戻れぬ覚悟で書いた、自賛自画像の賛の言葉に「人は狂頑と譏り、郷党衆く容れず」とある。考えさせられることばである。



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『それでええやんか!』
【2012/04/28 00:46】 エッセイ
『中井政嗣さん』のこと


今日は、吉田松陰と離れた記事を書きます。
とは言っても、「ご縁」の原点は、やはり吉田松陰なのです。


昨年10月18日に群馬県太田市にある「大谷労政事務所」の所長から依頼を頂いて、『吉田松陰の人材育成術』という演題で講演を致しました。
講演の窓口をしてくださった所長とは10年来の友人で、やはり昨年4月に「太田中央ロータリークラブ」で、吉田松陰の講演を行った。此の時は、持ち時間が40分でしたので、私の語りたかった内容が十分に満たされなかった。
大谷祐三さん


それを察知した所長が、ご自身の経営される会社の主催という事で講演機会を設けて頂いたのであった。 此の時は70分位の持ち時間を設定してくれたので、思いのたけを語ることが出来た。この講演は30名程の方が聴講して下さったのであるが、この中に岩瀬さんという方がおられた。
その後、懇親会があり、聴講して下さった方々としばし歓談。

そして、お開きの後に受付をして下さった方に「お世話になりました」と、御挨拶をしたら、「岩瀬様から、お渡しするようお願いされております」と、贈り物を頂いた。

帰路の電車の中から、頂いた名刺に記してあったアドレス宛にお礼のメールを送信した。自宅についたのと同時に「返信メール」がとどいた。秋に相応しい、紅葉の美しい背景に丁寧な文章が書かれてあった。

中井政嗣24.4.26


3月に私の勤務する大学に掲題の中井政嗣さんの著書が送られてきた。春休み中であったので、2か月ぶりに大学へ行き、受け取ったのであった。したがって1か月もの間、私は送り主の岩瀬さんに、結果として大変失礼なことをしてしまったことになる。
当日の大学の仕事を終えて、小田急線の車中で読み始めて、驚いてしまった。さらに帰宅して読み続け、三日後に読了した。その本と一緒に「手紙」が同封されていた。その末尾に、「感想文を書き送っていただけたら著者も喜んでくれるでしょう」との一筆があった。

読了後、感想文を書いて投函して、その場で、贈ってくれた岩瀬さんにメールを送信した。
その本は「できるやんか!」というタイトルで書かれた、ご自身の半生記を兼ねた、今も経営する会社の体験的ノウハウや、そこから導かれた人生訓が満載された素晴らしい本だった。私は、読了して瞬時、茫然とする思いだった。
内容が、多岐にわたるが、「事実は小説より奇なり」の諺通り、信じられないほどの体験談の数々が記されていた。ただただ、感服のみの思いであった。何と爽やかな読後感であったことか、筆舌に尽くしがたいものであった。

そして、昨日、大学の授業でこの本を紹介して、学生に回覧した。出来れば購入して読んで下さいと希望を伝えた。朱引き線だらけになってしまったが、恥じらいもなく学生に回覧。電車の中でも、読んでは線を引き、線を引いては読み返したのであった。
思えば、隣席の乗客がいぶかしそうに、私の、読んでは線を引いている姿を見つめているのが感じられたが、構わず読み続けた。それほどまでに、魅せられてしまったのであった。

その読後感を書いて投函して10日あまり経過した今日、著者からの直近の刊行本と、ご丁寧な「手紙」、そして新規オープンのお店の招待券(商品券)が同封されて我が家に届いた。
私は、この10日の間に、同じ中井社長の処女作「無印人間でも社長になれた!」を購入して、読了していた。

今日、届いた本を50頁程読みだしたところで、私の知る沢山の方々に読んで貰おうと思い、出版社に問い合わせして、品切れの心配がないことを確認し、そのまま書店に、5冊の在庫確認の問い合わせ電話をした。幸いに「在庫有り」の返信をもらったので、すぐに車を駆って受取に行ってきた。

自宅に戻って、すぐに知人にメール、さらに著者の中井さんから頂いた手紙の末尾にアドレスが書かれてあったので、著者宛にメールを書いて送信した。
大忙しの一日だったが、半分は読了。明日には読み終えるだろう。
中井政嗣さん24.7.6


簡単に、送られてきた本の内容を紹介してみる。
まず、受刑者の猶予期間中に、著者の経営する会社で雇用し、そして猶予期間後に本採用となって、会社に貢献する実話が語られる。
しかも、来し方を反省し、模範社員として、社業に尽くす姿が描かれている。感動的な記述が、読む者をして引きつけてやまない。
将に、吉田松陰の「福堂策」の著述に起因する「獄中勉強会」の再演を見ているが如しである。感動し、さらに、また感動が伴う本である。

この記事を全国の、多くの方々が読まれて、読んでくれることを切望しながら書いている。三部作のタイトルを紹介する。①「無印人間でも社長になれた」、②「できるやんか!」、③「それでええやんか!」である。

出版社によると、②の「できるやんか!」は、5万部も刊行されたとのことである。
私が頂いた本が11刷であったので、相当数の販売実績が予想されたが、正しくそうであった。
いかがわしい本や雑誌がコンビニや書店の店頭に並んでおり、、よく見かけるがこういった本こそ、多くの読者の目に触れ、且つ読んで貰いたいと心から願う。

経済学の法則に『悪貨は良貨を駆逐する』という、グレシャムの法則があるが、こういった良書はその反対であってほしい。
いかがわしい本を駆逐して、多くの日本人に読んで貰いたいものである。
因みに、私の住む【さいたま市】の図書館には在庫がない、残念である。
これから、諸々の手段で購入をお願いしたいと願っている。
同時に、願うだけではなく、働きかけをしたい。


松陰が敬仰した「賈彪」
【2012/04/13 13:53】 エッセイ
『賈彪』について(吉田松陰自賛画像)

安政6年5月、幕府からの呼び出しを受けた松陰は、久坂玄瑞や小田村伊之助たちの奨めで、松浦松洞に肖像画を画かせ、自らそれに「賛」と「跋」を書いた。
この「賛」には松陰が敬仰していた四人の名前が記されている。
曰く、「諸葛孔明」、「賈彪」、「貫高、「魯仲連」がそれである。

このうち、「賈彪」だけは、その人物の詳細が容易に調べられず、困っていた。
「賛」に、「一身洛に入る賈彪安くに在りや」と書かれている人物である。
意を決して多方面から、少ない情報を頼りに集中的に追跡調査を試みた。

その結果、岩波書店刊行の『後漢書』第八冊、「列伝六」(巻五十四~巻六十五)に収載されていることが判明した。
その二一九頁に詳細が記されている。 以下、長文になるがそれを記す。

吉田松陰自賛画像2012.4.13


賈彪、字は偉節、潁川定陵の人なり。
若くして京師匠(みやこ)に遊び、志節慷慨にして同郡の荀爽と名を斉しくす。
初め州郡に仕え、孝廉に擧げられ、新息の長に補せらる。

少民困貧にして、多く子を養わず。彪厳しく其の制を為(つく)り、殺人と罪を同じくす。
城の南に盗劫のひとを害(あや)めし者有り、北に婦人の子を殺せし者あり。
彪出でて案発せんとす。  而して掾吏は引きて南せんと欲す。

彪怒りて曰わく、「賊寇の人を害むるは、此れ則ち常理なり。 母子相い残(そこな)うは、天に逆い道に違う」。
遂に車を駆って北に行き、其の罪を案験す。

城(まち)の南の賊之を聞き、亦た面縛して自首す。
数年の間に、人の子を養うものは千もて数え、僉(み)な曰わく、賈父の長(やしな)いし所なりと。
男を生めば名づけて賈女となす。

延熹九年(166)、党事起る。
大尉の陳蕃之を争うも得ること能わず。朝廷は寒心し、敢て復た言うもの莫(な)し。
彪、同志に謂いて曰わく「吾、西に行かざれば、大禍は解けず」。乃ち洛陽に入り、城門校尉の竇武(とうぶ)と尚書の雀諝(かくしょ)に説く。

武等之を訟(うった)え、桓帝は此れを以て大いに党人を赦す。
李膺出でて曰わく、「吾の免るることを得しは、此れ賈生の謀なり」と。
是より先、岑晊(しんひつ)は党事を以て逃亡し、親友多く焉(これ)を匿いしも、彪は独り門を閉ざして納れず。時人之を望(うら)む。
彪曰わく「伝に言わく、時を相(み)て動き、後人を累(わずら)わすこと無しと。

公孝は君に要むるを以て釁(つみ)を致(まね)き、自ら其の咎を遺す。
吾は以(すで)に戈を奮いて相い待つこと能はず、反って之を容隠す可けん乎」。

是に於いて咸(み)な其の裁正に服す。
党を以て禁固せられ、家に卒す。
初め彪の兄弟三人並びに高名有って、而して彪最も優る。故に天下称して曰わく、「賈氏の三虎、偉節最も怒る」。


【註】
新息=河南省息県
困貧=生活が苦しく貧しい。
盗劫=強盗
案発せん=事件現場に就きて案験しよう
引きて南せん=車を引きて南に行く者(こと):資治通鑑
面縛=顔を正面に向けて後手に縛る。
寒心:怖氣立つ
西に行く=洛陽に行く
望=「望は怨なり」
伝=左伝
相て動き=「相は視なり」:左伝
公孝=岑晊の字
容隠=かばい匿う。
裁正=判断の正しいこと。
賈氏=賈彪と同じく、二人の弟も「虎」にちなむ名であったのであろう。

『宮部鼎蔵宛』の意味深な書簡
【2012/04/08 23:16】 エッセイ
「宮部鼎蔵宛」書簡

嘉永六年六月十六日         松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)

久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。
即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。
未だ數行ならざるに魂を消すこと數々なり。
豈にの大故相踵いでここに至る、風樹の感如何ぞや。
向に僕の一書もなきを疑ふ、今此の書を讀み覺えず聲を失ふ。
宮部鼎蔵写真24.4.8

但だ両尊共に高齢、加ふるに兄が平生の誠孝を以てせしは憾みなからん、別に亦或は少しく慰むべし。
僕屏居中言ふべきものなし。

昨年十二月八日官裁下り、藩籍を削らる。
早春の間に書を呈し、其の詳を言ふ。料るに已に覧に達せるならん。
僕痩駑と雖も為すあるの時至る。幸に高念を勞するなかれ。
梁山泊恙なし、二生ありこれに従ふ。僕居所未だ定まらず、假居す。
尊藩佐分利君も亦居未だ定まらず。九月に江戸に來りてより徒らに旅店に在り。
僕昨日を以て始めて相見る。其の旅店の便を闕くを恐れ、急に之れを梁山泊に引く。
梁山泊の光景頗る繁華を覺ゆ。佐分利君志を洋文に有するよし、僕甚だ心を同じうす。
将に相與に之れを謀ること少なからざらんとす。
濱田の生一人、僕嘗て知る所、此の節兵學修業の為め江戸に來れり。素より未熟なれども人物孑介(けっかい)、立志甚だ鋭し、亦洋文を學ぶの志あり。

濃人生長原も亦僕に先んずる數十日に來府し、交友尠からず。
獨り老臺なきを恨むのみ。然れども老臺善しとする所に見い、亦少しく慰むべきなり。
老臺善しとする所の三四君、三四月の交弊國へ御立寄下され候由、僕発程後にて甚だ残念に御座候。家兄内々拝顔を得、種々御高話拝聽仕り候よし、且つ容易ならざる御厚情の御傅言も之れあり恐れ入り候事の由、委悉家兄より申越し候。
僕放廢の身と雖も、幸に父叔兄弟あり、溝壑に轉ぜずして素志とする所を得、願はくは放念せよ。扨て四君の内佐分利君の外未だ御到着之れなく候。
併し近日御着と相待ち居り申し候。
徳川斉昭24.4.9


水府の事御同慶に存じ奉り候。一昨年接する所の人物も皆々芽を出したるよし、尤も喜ぶべきなり。藩人村田が書の事敬承し奉り候。水府老公上書得と穿鑿の上申上ぐべく候。

僕正月二十五日を以て発し、大和に過り森田謙蔵・谷昌平(新助事改名)・安元杜預三を訪ひ、留まること雨月に及び、森田と河泉の間に遊ぶ。森田は頃ろ酒を廃し讀書甚だ勉強仕り候。詩あり云ふ、「落剝江湖卅歳餘。放浪詩酒費居諸。慨然今日碎盃去。欲著人間有用書。」

伊勢に過り斎藤拙堂を訪ひ、美濃より中山道通りにて五月二十四日江戸に達す。二十五日より鎌府に至り、六月朔日江戸に歸る。

四日乃ち浦賀の吶々たる怪事を聞き、其の夜より浦賀に至り其の様子を視る。當今列藩の士氣奮起するもの甚だ多し。
奈ともするなし閣老の犢鼻なく、此の度の一事國體を失ふもの甚だ多きを。有志の士、豈に慨嘆の至りに堪へんや。委曲の様子定めて御承知成さるべく候。
扨て尊藩御軍備の整ひたること聲名都下に噪がし。其の他越前侯・岡崎侯など令名あり。

佐久間象山24.3.25
佐久間修理、羽倉外記頻りに幕吏へ苦心せしよし、然れども遂に修理を用ひず。其の藩侯の為めには大いに用をなしたる趣。
僕日夜其の家に至りその詳をきく、中々長鬚生も忼慨を起し申し候。
僕十日を以て江戸に歸る。
是れより両三日、江戸尤も噪がし。

九日浦賀の隣栗濱にて両奉行出張、夷の圖書受取の次第僕細かに之れを見る。誰れか之れが為め泣憤せざらんや。
かの話聖東國なるもの新造の陋那、乃ち堂々たる天朝を以て屈して之れに下る、如何如何。唯だ待つ所は春秋冬間又來るよし、此の時こそ一當にて日本刀の切れ味を見せたきものなり。此の度の事列藩の士及び策士論者、内拂いに決する者十に七八。噫、惜しいかな。
六月十六日              (又故ありて名を改む)吉田寅次郎矩方
宮部鼎蔵殿


山鹿素水安全無異。僕先書甚だ無稽の妄節申上げ、甚だ赧然(たんぜん)仕り候。然れども都下も亦此の風説ありしよし。
此れ已下一覧之れを火かれよ。
那珂通高(江幡五郎)24.4.8

通高の事、僕江戸に來り始めて其の詳を聽く。鳥山へも其の後両三次は來りし由。
併し昨年機を失ひしを甚だ悔い、人に接するを欲せず。

鳥山も亦甚だ氣の毒に存じ候。大事を成す迄は暫く聲息を絶し、交友間へも所在を隱す位のことなり。併し英氣益々勃々たる様子なり。下妻邊に徘徊するよし。
僕一たび之れを訪はんと欲す。
然れども春時以来遊んで日を過せし故、未だ及ぶに暇あらず候。
鳥山幷に大渕鼎三・和田修義等より周旋千苦慢辛、甚だ感ずべき事也。森田へ書の一事、僕森田を訪ひし日委曲申したる事などは必ずしも事結局を待たざるか。
甚だ之れを疑ひ、江戸にて堅約仕りたる様子相話候處、森田大いに怒る。
僕因って兄決して此の信を失ふの事なきを思ひ、料るに兄江戸御發迄五郎の事聽えず、故に再び議論之れありたることなるべしと存じ、森田へ其の故なるべしと申し候處、森田も鳴程夫れ等の事なるべしと後には心解け申し候。

當時兄従來の御事は夢にも知らざれども、僕料る所即ち兄の所謂大事結局迄五郎の書は案頭に閣くべしと申すに符号仕り候。
然れども右の通り僕已に之れを言ひたれば、鶏肋集・五郎の書を兄の僕に賜へる書と合併して、僕よりこの故にて遲達に相成りたる段を森田へ申越すは如何。
御同意に御座候へば差急ぎ候ことに付き、及ばずとも僕迄御遣はし下さるべく候。已上。
二白
南部侯は當秋登府、奸臣之れに従ふよし。

宮部鼎蔵は肥後の人で、松陰と同じ「山鹿流兵学師範」である。松陰が、独立師範となってすぐに「鎮西旅行」で長・平戸での修行を終えて、帰路に清正公の廟に祈りをささげた。弟の敏三郎の「聾唖」を治して下さいと祈願した。その途次で、肥後の宮部鼎蔵と逢い、意気投合して松陰の終生の友となる。松陰より十歳年長だが、東北旅行や房総の海岸防備、相州の防備視察等を共にする仲であった。宮部は、池田屋の変で討死してしまうが、東北旅行を途中まで同行した「通高」(当時は江幡五郎)は、明治まで生き延びて文部省の官吏となった。松陰や宮部と同行したのは、南部藩の藩内抗争で兄が死去、政敵の田鎖への仇討を求めて、江戸から白河迄同行、伊達藩領内で再会している。

この書簡に記されている『日本刀の切れ味を見せ度きものなり』とは、ペリーへの刺客と解されいることもあるらしく、「膺懲」の表現ながら、松陰のペリー乗船は刺客目的だったとの説で松陰の著書を書いた本もある。
これが、意味深長な書簡とタイトルをつけた所以である。


ペリー浦賀に来たる
【2012/04/08 16:12】 エッセイ
「吉田松陰の書簡」 ―ペリー来航の報―

(1)瀬能吉次郎宛
嘉永六年六月四日  松陰・瀬能在江戸
瀬能様                               吉田


浦賀へ異船來りたる由に付き、私只今より夜船にて参り申し候。海陸共に路留にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ飛ぶが如し。

六月四日
御國へもし飛脚参り候はば、此の書直様御さしだし頼み奉り候。左候へば、僕壮健にて英氣勃勃の様子も相分るべく候。事急ぎ別に手紙を認むること能はず。
吉田松陰画像2012.3.30


この書簡は、六月四日であるから、ペリー来航の翌日である。
宛先の「瀬能吉次郎」(一八○七~一八七○)は、長州藩士で、松陰の父の友人である。
松本村の杉の家はもと瀬能から借りていて、明治以降に購入した。
十九歳で江戸に遊学し国学・和歌に志す。明倫館教授も務めた人物である。
松陰は江戸遊学中や杉家幽囚中、世話になっており借本も瀬能から借り、読書した。
子息の瀬能百合熊は、松下村塾生となる。


※嘉永六年六月四日、松陰は江戸藩邸にて、長州藩の砲術係道家龍助に逢い、ペリーの浦賀来航を初めて知った。すぐに、佐久間象山を尋ねたが、もう既に塾生達と来航現場に出立していた。宿泊していた鳥山宅に戻ったが、午後八時頃、「意を決し」て「書を簡単に認め」た、後に「袂を振って象山の後を追うように浦賀へ単身で向かった」。
文中、「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し」の有名な言葉は、松陰のいたたまれない焦りにも似た、急ぐ思いをもどかしさと共に言い表している。
書簡は、短いだけになおさら松陰の思いが伝わる。
そして、浦賀からの高台から、兵学者のめで、詳しく観察して、次の報告となる。


(2)道家龍助宛
嘉永六年六月六日  松陰在浦賀・道家在江戸
僕四日の夜、船を発し候処、甚だ遅し。且つ風潮共に順ならず。五日朝四ツ時(午前十時)漸く品川に到り上陸仕り、夜四ツ時浦賀に着仕り候。今朝高処に登り賊船の様子相窺ひ候処、四艘(二艘は蒸気船、砲二十門餘、船長四十間許り。二艘はコルベット、長さ二十四五間許り)陸を離るること十町以内の処に繋泊し、船の間相距ること五町程なり。
黒船24.4.8

然るに此の方の臺場筒數も甚だ寡く、徒に切歯のみ。且つ聽く、賊船の方申分には、明後日晝九ツ時(正午)迄に願筋の事御免之れなく候へば船砲打出し申す由、申出たる段相違之れなく候。(船は来たアメリカ國に相違之れなく、願筋は昨年より風聞の通りなるべし。然れどもかの國書は御奉行御船へ乗られ候へば出し申すべく、左なく候へば江戸へ直に持ち参るべく申す由。願筋の他の事にては日本より舟をやりても一向に舟に乗せ申さずそうろう。朝夕賊船中にて打砲いたし禁ずれどもかず。)
佐久間幷に塾生等其の外好事の輩多く相會し、議論紛分に御座候。濱田生近澤も参り居り候こと。
此の度の事中々容易に相濟み申す間敷く、孰れ交兵に及ぶべきか。併し船も砲も敵せず、勝算甚だ少なくそうろう。御奉行其の外下曽禰氏なども夷人のてに首を渡し候よりは切腹仕るべくとて、頻りに寺の掃除申付けられ候。佐久間は慷慨し、事斯に及ぶは知れたこと故、先年より船と砲との事やかましく申したるに聽かれず、今は陸戦にて手詰めの勝負の外手段之れなくとの事なり。
何分太平を頼み餘り腹つっづみをうちをると事ここに至り、大狼狽の體憐れむべし、憐れむべし。
且つ外夷へ對し面目を失ふの事之れに過ぎず。併し此れにて日本武士へこしめる機會來り申し候。賀すべきも亦大なり。
佐久間より江戸へ飛脚を立て候故、この一書認め申し候。御國へ別に手紙差出さず候間、玉木文之進迄此の手紙直様御送り下さるべく候。
  六月六日                          吉田寅二郎矩方
私事も今少し當地に相止まり、事の様子落着見届け歸る積もりなり。
  道家龍助様 人々御中
御やしき内瀬能吉次郎・工藤半右衛門へ此の事一寸御聽かせ下さるべく候。

※これは浦賀からの、松陰の黒船観察の第一報である。さすがに兵学家の眼で、四隻の軍艦を詳しく観察している。来たアメリカ船であることは、風聞の通りといっていっる。砲艦外交に對し。「交戦」の可能性を示唆しているが、戦力が違い過ぎていることで勝ち目はなく、陸戦に持ち込むしかないと言っている。
黒船2425.10


反面、泰平に慣れた武士階級の「狼狽ぶり」を憐れみながら、日本武士への「へこしめる」(褌を絞める)良い機会だともいっている。師の象山の慷慨ぶりは、実は以前に建策していたのに実行しない幕府に憤慨しているのである。
いずれにしても、幕末動乱の幕開けとなった、ペリーの来航を松陰は国難とと受け止め、以後、日本の独立のために奮闘し、またドラマチックは人生の始まりでもあった。


最早「酔人」ばかりか?
【2012/04/05 14:17】 エッセイ
「石原都知事」と「橋下大阪市長」

今日は、特別に掲題の生々しい記事を書きます。
私は、このブログでは原則として此の種の記事は書かないことにしています。
吉田松陰について、全国の皆様への伝道師でありたいとの念願からです。
我が家には、吉田松陰に関する直接、間接を含めると数百冊に上る書籍がいつの間にか蓄積されて、整理がつかない程になりました。
吉田松陰久坂家本24.3.30


さて、今日は「時事問題」的に、掲題の話題について書きたい。
今の国会議員は与党だの野党だのと言いながら、国民不在の国会運営がNHKなどで放映されています。今の国会議員には、吉田松陰の様に自分の生涯を賭けた信念での生き方が感じられません。
どうしてかというと、国会議員は歳費(議員給料)の他に、公設秘書費用3名(経費として税金から支給)、他に通信費と称して電話、切手代が数百万円支払われている。(これもすべて税金、つまり国費)、乗用車は運転手つき、つまり総額五千万前後の、費用が税金から支出される、先生の上の大先生扱いなのだ。もっと言えば、高級サラリーマンと大差ない。サラリーマンは職責を果たさないと、左遷や降格人事が待っているが、国会議員はそれがない。

今の国会議員に、国のために自分の信念を貫くために命を懸ける覚悟があるか。問いたい。
答えは、「否」であることは、小学生でも知っていよう。
支持政党がないのも、投票率が低いのも 選挙民は、選挙区組織会に所属して、何が何でも「おらが先生」を国会に送り出そうと必死だ。
馬鹿を言ってはいけない、国会議員が選挙民のために気配りするのは、当選の為の目先の事なのだ。エゴイズムとは言わないまでも、根が自分の為なのだ。
だから「当選前の代議士、当選後の代議士」と、その豹変ぶりを揶揄されるのだ。

私は、昨年の三月十一日の大震災直後に、民主党と自民党は一定期間、復興が軌道に乗るまで『期限付き大同団結』すべきと、朝日新聞に投書した。
残念ながら、朝日新聞はとりあげなかった。
民主党と自民党が作る内閣を組織すべきでとの私の提案は、全く無視された。
あの時以降、がれき処理も、各県が自主的に引き受けるどころか、風評被害をあおらんばかりに、マスコミは報道している。
福島県民の苦悩の何割かは、マスコミに責任があると思っている。


参議院は、解散がないから次回の選挙までのスパンで、対策を自分の取り巻きに対して選挙対策の命令に異常な関心を示す。当選すれば任期の六年間は安穏としていられる。問題が起きると責任は、「秘書が」「秘書が」と秘書任せを表向きは防波堤にしている。
衆議院で落選したら参議院に立候補出来ない法律を作るべきだ。
反対に、参議院に落選したら衆議院に立候補出来ない法律を造ったらよい。
国民より、倒閣運動が先と見えて、ねじれ国会をいいことに、政争の具としている。
参議院議員は代議士とは言わないのです。

通称は「先生」なのだ。不要論が唱えられるのも、もとはといえば国民のための政治をやっていないからである。ああ、日本に「リンカーン」大統領のような政治家は出てこないものか。
リンカーン元大統領24.4.5

美しい国『日本』の実現は、遥かなりです。
あとは北海道の議員の様に、懲役を経験しても勤続二十五年で肖像画を誇らしげに掲げる。法に触れなければ、何でもありだ。

だから、衆議院はダメだったから参議院に立候補しようという安易な考えが出て来る。
これが本当の民意なのですか? と全部の国会議員に問いたい。
そして、衆議院は法案が通過したが、参議院は通過できないのが審議の前に解かってしまう。
これが民主主義ですか?党利党略でしか国会は動いていないのです。

それを有難がっている選挙民にも問題があります。
つまり、国の為はうそなのでした。日本は政治音痴で、形式さえ踏めばそれでOKなのです。目を見開いて、こういう人なら国会議員として相応しいという人物が立候補しなければなるまい。

ですから、石原都知事と橋下市長がいくら頑張ったって、所詮は紙芝居みたいなもの。
選挙民が党のありかた、考え方、政策等々斟酌なしで「ひもつき」になっているところに問題があるのです。
人物本位や政策で選んだ結果として、党があることを知らない所に問題があるのです。

みたまえ、選挙直前の行動を! 法にふれなければよいのだ! と言わんばかりに電話がかかってくる。特に宗教団体をバックにして立候補すると、それが如実に現れます。
選挙運動は、百パーセント水面下の動きを禁止しなければ、真の民主主義とは言えない。
皆「つるんで」民意だと思い込んでいる。NHKの選挙速報を不思議に思う人はいないのか。開票率一パーセントで、当選確実だなんて、そんな選挙に誰が熱意を持ちますか。
橋下徹24.4.4


NHKに代表される、マスコミの在り方にも疑問を持ってもらいたい。今は、人気さえ出れば「偉人、有名人」なのだ。わけの分からない芸能人が、演じるバラエティ番組のオンパレードである。芸能人というと社会のエリートだと言わんばっかりに、「私は女優よ!」と、誇らしげに語っているバカな女の発言している姿をテレビで見聞したことがある。
梨園のような芸術性もなく、ただ面白ければよいだけの素人も、大差ない社会なのかな?芸能界というところは。
これでは、血のにじむような努力をして、志を遂げようとしている梨園の名優と言われる人物は、ばかばかしくなって、「しらけ」てしまうだろう。

こんな拝金主義の世の中に誰がしたのか? 芸能人になって名前が売れれば、巨万の富が得られると、一億二千万の国民が鵜の目鷹の目である。
政治外交は三流、経済は一流と言われたのは、昔の話だ。GDPの中国に追い抜かれ、さらにまたランクダウンとなるだろう。
石原新太郎24.4.4

明るい未来が描けない、日本。これで良いのかな。
吉田松陰が現在に存在したら、現状をどうみるだろうか。
今の諸侯も幕府も最早酔人なれば扶持のすべなし。
「草莽崛起の人」を頼む他に活路が開けないというかもしれない。
国会議員も、政治家も酔人と変わりない。
「扶持の術」なしと怒るに違いない。


昭和の初めは、馬鹿な軍人が日本を滅ぼした。
六十年経って、平和ボケとなった日本は、一億総酔人化の状態なのかもしれない。
石原慎太郎さん、橋本徹さん、この日本をどうするのですか。
問いたいところです。
早く既成政党の、既得権益を御破算にしないと、日本国が没役するのみになってしまう。

政治に対する不信感は、最早どうすることもできない。絶望してしまっているのは、国民の大半がそうであろう。

石原慎太郎さんと橋下徹さんが『極秘会談』をしたそうだが、何を話し合ったのか。

本人は、黙秘だ! そうな。
石原さんが、あと十年若かったら?と考えるのは、多くの国民が思っていることだろう。


吉田松陰の門下生『人物評価』
【2012/04/02 17:29】 エッセイ
『子遠』に告ぐ
(己未幽室文稿・野山日記)安政六年正月二十七日  三十歳
松陰在萩野山獄、子遠在萩(原漢文)

この文は、松陰が処刑される年であり、その正月(一月)門下生と松陰の齟齬のため、往復を絶ったのが桂小五郎であった。江戸にいる、高杉や中谷・久坂と伏見要駕策や間部要撃をめぐって松陰と考えが異なり、有名な松陰の言葉になる。この年一月十一日に次の様な書簡が書かれている。

『某宛』と題して、「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。その分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り・・・・・・」以下略。そして、遂に松陰は絶食の擧にでるが、母「たき」や父、叔父の玉木などから説得されて翻意する。
吉田松陰画像2012.3.30

この頃、松陰の身近にいて、支えになったのは入江杉蔵(子遠)兄弟であった。
この年のはじめから四月頃までは、松陰の書簡がこの二人宛に沢山書かれている。
ここでは、入江に宛てて書いた、門下生評が、松陰の言葉で語られているので、非常に興味深いものとなっているので紹介しよう。
全集の原文を、長文ながら記す。

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等數密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に來たり、船越清蔵・村田蔵六、萩に來たるの事を談ず。

子遠に告ぐ  正月念七夜
木戸孝允24.3.25
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。獨り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。汝其れ之れを察せよ。
防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。然らば則ち防長唯だ汝一人のみ。切に自ら軽んずるなかれ。

汝、國を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隱すの便あり、三には生活の計あり。且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅學も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
氏は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶せば則ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。但し今日の時勢、宜しく佳族となるべし、切に無頼の賊となるべからず。

徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。然れども仁既に至らば則ち之れに繼ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。
天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠義義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。

天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聽かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聽かずんば則ち干戈を用ひて可なり。是れ亦仁至り義尽くるの論なり。

汝識高く胆大、吾れの敬愛する所なり。恨むらくは才足らず、學尤も足らず、怨讐の氣過当なり。是れ汝の病なり。必ず荘四を罰せんと欲するが如き、是れ過当の怨讐なり。然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。

才は言ふに足らず。学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。戎場馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ真心實意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

吾れ嘗て王陽明の傅収録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。向に日孜に借るに洗心堂箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の學の真、往々吾が真と会ふのみ
今の世界、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観ならんと。諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。

是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしか思量すべし。余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり。吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の流風學術、篤厚眞實を以て世々相傳ふ。ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。
之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。但だ一旧友は前書に略ぼ之れを言へり。
 
高杉晋作
新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。然れども両暢夫相抗すれば、必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れと一言せしに、も之れを首肯せり。

無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些かの才あり。是れ大いに其の気魄を害す。気魄一たび衰へば識見亦昏む、嘆ずべし嘆ずべし。諷するに老家の説を以てせば、或いは一開発あらんか。抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。

但し前日絶粒の事の如き、八十・子楫・無咎・各々諫書あり。其の懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの虜短きに非ざるも、才の長ぜざるをしればなり。

嗚呼、鐘子期遇ほ難しとは其れ唯だ無逸か。實甫の才は縦横無礙なり。暢夫は陽頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。
久坂玄瑞
實甫は高からずに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。然れども自ら人に愛せらるるは、潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当にこの三人を推すべし。
前原一誠24.4.2

八十は勇あり智あり誠実人に過ぐ。所謂、布帛粟米なり、適くとして用ひられざるはなし。其の才は實甫に及ばず、その識は暢夫に及ばず、而れどもその人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。
吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり。

子揖は英邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌しことあらば、駟馬もこれに及ばず。吾れ平生最も愛する所は子揖・無逸なり。
無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子揖は吾れ其の気鋭なるを愛す。皆其の己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或は平にすること能はざらん。
是れ其の敬すべき処なり。子揖はその頑なし。然れども氣自ら恃むべし。且つ子揖は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。

福原
は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子揖の鋭気愛すべきに如かず。然れども其の頑固自ら是とする処は子揖及ばざるなり。

無窮は才あり氣あり、一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も實用は之れに勝るに似たり。無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着實あり、又気魄あり。大節に臨みて、又苟も生きざるなり。

子徳はは満家俗論にして、恐らくは自ら辞すること能はざらん。然れども其の正直慷慨未だ必ずしも磨滅せず、則ち亦時あるて発せんのみ。子大は俗論中に在りて顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。又些の頑骨あり、愛すべし。

日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ち吾れこれを信ぜず。
品川彌二郎の貌2012.3.28
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。
誠に李卓吾の如きを以て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。吾が交遊中に於て暢夫・日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。

嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。吾が交遊中、言ふに足る者なし。汝の知る所は仙吉・直八・松介・傅之輔
山縣有朋正装

小助・太郎。太郎・松介の才、直八、小助の氣、傅之輔の勇敢にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。然れども大識見大才氣の如き、恐らくは亦ここに在らず。天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。



ここには、村塾の門下生評がなされているが、まず、門生の「字」が、ふんだんに出て来るので、それを注記しておきたい。下記の内二十名が門下生である。
實甫=久坂玄瑞、 暢夫=高杉晋作、 無逸=吉田利麿、 子遠=入江杉蔵、 日孜=品川彌二郎、 子揖=岡部富太郎、 無咎=増野徳民、 無窮=松浦松洞、 子徳=有吉熊二郎、 子大=佐久間忠三郎、 天野=天野清三郎(渡辺蒿蔵)、 仙吉=岡仙吉、 直八=時山直八、 松介=杉山松介、 傅之輔=伊藤傅之輔、 小助=山県小助(有朋)、 太郎=原田太郎、 福原=福原又四郎、 士毅=小田村伊之助、 八十=佐世八十郎(前原一誠)、以上が松下村塾の門下生である。

 有隣=富永有隣、 平象山=佐久間象山、 前田=前田孫右衛門、星巌=梁川星巌、 桂生=桂小五郎、 村田蔵六=大村益次郎、船越清蔵=船越清蔵


この書き出しで桂生とは桂小五郎である。このが、叔父の玉木文之進を使い、松陰と門下生との交信を絶つようにしたことを、怒っている。そして、主だった村塾性の人物評を書いているのは、決起の時に資するために松陰から見た門下生の評価である。
非常に興味ある文である。

余程に信頼がないと、此れを打ち明けるのは難しいと思うが、宛先は「四天王」の一人、入江杉蔵だからこそだろう。杉蔵は村塾の末期に松陰と出会い、短期間で松陰から大変信頼された人物であった。ここでは、なぜか利輔(伊藤博文)が書かれてない。山県小助(有朋)は、その他の一員の部類であり、後に、自分の師とした山県の言とは微妙に違う。





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