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『吉田松陰の命懸けの生き方』について思う
【2012/05/28 22:56】 エッセイ
「吉田松陰の実像」を求めて

吉田松陰の伝記は枚挙に遑ない。明治13年に英国の「スティーブンソン」が『YOSHIDA TORAJIROU』を刊行したのをその嚆矢とする。これは「吉田みどりさん」が二度にわたって刊行した本に詳しい。ただし、この本は、内容的にはさしたる質を問うほどの本ではない。単なる紹介であって、いわば文献学的に名を残す類であると思われる。

考えてみれば、まことに不思議な現象と言わねばならない。今日、「吉田松陰」を知らない人は、数少ないと思われる。真に右翼、左翼を問わずに支持されている人物といってよい。
それは、人間として、そして一人の日本人としてまことに天晴な生き方であった。

因みに、今の時代に「吉田松陰のような生き方」を実践して見ろ!と、言われて、了解したと納得して「国の為」に命を懸ける人物がいるであろうか?
 
答えは否定的である。

松陰の兄に充てた書簡に「さてもさても思うまいと思うても、思うのは國家のことなり」という獄中から兄に宛てて、自分の心情を吐露した文章にもその一端を窺うことが出来るだろう。考えてみて下さい、当時の「クニ」とは、「藩」と同義語であったのである。
そんな時代にあって松陰は、「大和民族」レヴェルで「クニを守る」意識に目覚めていたのであった。
吉田松陰 至誠の教育者


そもそも人間は、自分がかわいいのであって、国家より自分の命を優先的(第一義的)に考えるのが、およそ一般的であるとあると言ってよい。
これは理屈を超えた、人間の本能的なものであって、そこに価値評価をさしはさむことは単なる評論家的な思いの叙述にすぎないことは、人生を真剣に考えた者にとっては、簡単に導き出される性質のものとは次元が異なるである。
 
松陰の辞世の句である『留魂録』の末尾に詠まれている詩を考えてみても、敬服せざるを得ないのが現代人間の一般的な思いであると思われる。
『吾 今國の為に死す!』と、死刑判決言い渡し直後に朗々と謳いあげる心情に対して、思いを致さなければそれが解からないだろうと思うのである。


吉田松陰の研究者を看板に掲げている「学者・研究者」は大変な数を数えることと思われる。しかし、第三者的にこれらの句を読んで、「あやかりたい」と心底思った人物がどれほどいることやら。
恥ずかしながら、私もその一人で、 日本のために命を投げ出すだけの覚悟はない。「クニより自分」が大切なのである。真に教育の力は恐ろしい。戦後の教育を受けた人間には、こうした「覚悟」を持っている人は少ない。人命尊重とか基本的人権なる「ことば」に洗脳されてしまっているのである。

私を含めて、こういう覚悟無き人物が、まことしやかに吉田松陰の研究と称して矢継ぎ早に「吉田松陰」の解説?もどきの書物を刊行し続けている。
『評論家、見てきたような、嘘を言い』と揶揄された俗語があるが、人間の「死」は簡単に語れないものであろう。


少なくとも、吉田松陰の伝記の類を読んで、「涙」して、夜もすがら煩悶した経験を持つくらいでないと、松陰は語れないのではないか。そんな思いに駆られるのである。

部分を語り、それが「視点」という体裁のよい言い訳になっていないかどうか、我々は個々人の胸に手を当てて正直に問うてみる必要があるのではないか?
そんな気がするのである。
王陽明


内緒の話ということで書くしかないが、松陰は処刑場に臨むにあたって「関係者に、久しくご苦労をおかけいたしました」と慇懃に挨拶をして、山田浅右衛門にシグナルを送ったといわれる。だから、「首切り職人」の「山田浅右衛門」の回顧談にも、安政六年の十月二十七日に処刑した人物は、まことに天晴な人物であったとの特別な印象を後々まで忘れさせなかったものと思われる。
さらに、内緒の内緒話であるが、吉田松陰の処刑後の「一物」は、自然体、つまり普通の精神状態にあった男子の「それ」の状態であったといわれる。これは、高名な松陰研究者が「ある企業の社員教育の場」で非公式に披瀝した話である。

理屈だけで松陰を語る人物や研究者の「いましめ」として受け止めて良いのかもしれない。
私のような浅学の者には、正しく「頂門の一針」である。そのくらいに、松陰の性根は座っていたという証左になるのかもしれない。
三島由紀夫


かつて、三島由紀夫が市ヶ谷の東部方面総監本部(現・防衛相)の屋上で、奇異な演説をした直後に、同志と共に「割腹自殺」を遂げた時にも、直後に「死」を予定していた三島の顔は、蒼白で演説をしたのであったという。

さらに、三島の首切りを託された森田なる人物も、自らの「割腹」が直後に迫っていたので、「心乱れて」一刀の下に三島の首を切り落とせなかったと云われる。
つまり、「死」は恐れざるを得ず、というのが人間の本性というものだ。

直後に刊行された書物に「人は思想に殉じて死ねるか!」と題した、文芸評論家の記事を読んだ記憶があるが、人間の「死」を本人が、絶望でなく「意思として」行為の選択をすることの意味を、真剣に考えてみる必要があるように思えてならない。

吉田松陰の刑死を、一般的な「死」と捉えることに、私は賛成できないのである。


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『流れる星は生きている』
【2012/05/14 17:19】 エッセイ
『流れる星は生きている』中公文庫)
流れる星は生きている


昭和20年8月9日夜、10時半、「新京(北満州)」の、「藤原てい」夫婦の住む官舎の玄関に急を告げるためのドアが激しくたたかれた。応対した、夫(作家・新田次郎)は役所へ呼ばれて出掛けた。帰ってきて告げた内容は、翌朝1時半までに「新京駅(北満州)」全員集合せよとの命令であった。

「日本人は新京駅から全員逃げよ!」とのことであった。
不吉な予感は、現実のものとなった。この日、ソ連が不可侵条約を、一方的に破棄することを通告、対日宣戦に参加した日である。

このような書き出しで始まる掲題の『流れる星は生きている』(中公文庫)という物語の辛い悲話が、その後の「生死を彷徨い」辛酸をなめ尽くす「逃避行」のはじまりとなる。
此の時、著者「藤原てい」は夫との間に、長男正広が六歳、二男の正彦(国家の品格の著者)が三歳、長女の咲子は生後1か月の乳飲み子であった。汽車(無蓋車)に乗るも、平壌まで行けない。
奉天を通って、鴨緑江を渡り、平壌の北西に位置する「宣川」まで、南下して、そこにある小学校舎に暫定的に集団で避難生活を送ることになる。ここは、今でいうと、平壌の西北100キロくらい?の所にあるようだ。

つい先日までの平和な生活から、敗戦によって一挙に地獄のどん底に突き落とされた境遇に、一変してしまう。この難行苦行の逃避行は、日本人を一定数の団に分けさせて、共同生活をし、引揚の機会を待つ。この間の苦難の母子の生きる姿は、涙なくしては読めない。
飢えと凍りつく寒さの中での1年間の困難な生活場面が、団体生活の猜疑心や意地悪、利己主義丸出しの人間模様とともに描き出される。ここで夫と強制的に別離を余儀なくされる。この団のメンバーで45歳以下の男子は苦力に強制的に連行され、捕虜となる。老人と女子供の家族だけを残して・・・・・・。
昭和20年8月15日の「日本の敗戦」が、正式に避難民に告げられ、不安と恐怖の入り混じった戦後処理への苦難の「敗者の逃避行」となった。昨日までの統治者としての日本及び日本人が、「侵略の犯罪者」とされて、それまでと180度反対の生き方を余儀なくされ、それからの祖国への引揚のための、悲しく、辛い、困窮した生活が続く体験記である。

家族は引き裂かれ、女子供と老人が、力を合わせて生き延びようとする、命がけの日々を筆舌に尽くしがたい苦労(将に地獄)をしながら乗り越える、感動の物語である。
藤原てい

「母は強し」と言われるとおりの、難行苦行の生活体験と、生きて祖国へ帰ろうとの執念が生々しく綴られる。

私の友人が『満州引揚哀史』を、5年ほど前に出版したものを読んでいたので、ある程度その実態を知っていたが、あまりにも生々しすぎてしばしば読むのをやめた。
この本は、敗戦国の国民の「逃避行の体験記」であり、「生死を賭けた」生き延びんとする戦いの物語である。

昭和21年生まれの私は、この物語の主人公が悪戦苦闘している最中に、川崎から群馬の田舎(実家)に帰郷していたことになる。
私の姉や兄は、これに近い思いで母や父に連れられて帰ってきたのであろう。

昭和21年8月1日に「宣川」で、飢えと寒さの困難と戦いながら生延びて、「平壌」経由で「開城」までの歩行による逃避行に苦しんでいた頃に、私の生命が始まったかと思うと、とても他人事とは思えないのである。

途中まで読み進むと、感極まって感泣してしまう。辛くて読み続けられないのである。
そうして、終章の項を先走って読まないと安心できないのである。精根尽き果てて「上諏訪」の駅で家族と再会し、子供の命を守り抜いた使命を果たして消え失せていくように記憶が途切れるところでこの物語は終わる。

然し「開城」までの、歩行による逃避行は、読む者をして泣かされてしまう。他人の命に構っていられない、ぎりぎりの命がけの姿は子供が小さく、また乳飲み子を背負って生きる「母親としての藤原てい」の執念に感動せずに
はいられない。
藤原正彦、国家の品格


事実は小説よりも奇なりとは、本当にあるのだ。
素晴らしい本に出逢えて大変感動した。読了まで何回涙を流したことか。
多くの日本人に読んで貰いたい思いが、大変強く、また印象的である。

主人公の藤原ていさん、長男の正広さん、二男の正彦さん、長女の咲子さん、生延びられて本当によかったね。咲子さんは、あと一日遅かったら、命が危ない状態だったように描かれている。65才になって、これほど泣かされ、感動出来た本に出逢えたことに感謝!

この「母の生き延びる努力」がなければ、後年の『国家の品格』は当然書かれることはなかった。

『懐旧九十年』 岩波文庫
【2012/05/13 23:26】 エッセイ
『石黒忠悳子爵』の回顧談

日本陸軍の「軍医制度」を創り上げた人物が、掲題の本を口述筆記をまとめて、添削のうえ「岩波文庫」から出版されている「石黒忠悳」子爵である。
懐旧九十年


この本は、大変に興味を喚起してくれる。しかし、口述であるから自分に都合悪い記事は、当然カットされる。


私は、「海軍軍医総監」をつとめ、男爵にまでなった人物で、宮崎県出身の「高木兼寛」博士を調べているうちに、森鴎外の先輩であった石黒忠悳に興味を持ったのであった。
石黒忠悳



高木兼寛博士は、明治初期に「英国医師ウイリス」とのつながりから、英国のセントトーマス医院(医科大学)に留学して、イギリス醫學を学んで帰国した。英国での留学した大学では首席であったそうである。戊辰戦争で、薩摩藩に従軍してウイリスとのご縁が出来たことが、英国留学になったのであった。

一方、陸軍は石黒忠悳の人脈から、「森鴎外」も陸軍衛生問題調査の為にドイツに留学した。

「兵部省」が、大村益次郎亡きあと「陸軍省」と「海軍省」に分かれて、それぞれ独自のの歩みを始める。
実は、これが後年まで尾を引いて、昭和の「陸海軍犬猿の仲」の淵源をなすのである。「陸軍の長州」と「海軍の薩摩」という「閥」が生まれる背景が明治初期から始まっていたのだ。

日清戦争を詳しくみると、山県有朋は、この戦争では大した軍功をあげていないが、勝利者であったことから長州特有の自己主張と、本人の権力欲があり、次第に日本の「軍政家」として政治権力の掌握とともに官僚支配に成功する。
山県有朋

山県も、出自が下級階級であったためか、権力を握る執念は大変なものだった。反面、「閥」の形成にはことのほか熱心だった。後継の軍政家として「桂太郎」を同じ長州の出身からか、後継者とする。
桂は山県のように、江戸期の出身階級は卑しい身分ではなく、高杉晋作などと同じ中級の藩士であった。そこが、権力は魔物たるゆえんである。石黒忠悳は幕府の下級役人の代官の子息として、陸奥郡山に生誕、後にルーツの長岡に移住する。

そして、書生から出発して醫學を学び、学者の道を歩むが、官吏となって文部省から陸軍省に移籍する。
ここから出世の階段をとんとん拍子に上るが、背後に山県の存在があったようだ。軍医制度の創設に尽力し、中将級の軍医となる。

一方の、高木兼寛は海軍の尉官から出世して海軍軍医総監にまで上り詰める。
高木兼寛


明治13年に英国醫學を修めて帰国、慈恵医大の原型創設とともに、当時から問題視されていた「兵士の脚気」を研究し、「米食」によるものとの食事説の仮説を経験論的に研究して、主張する。
「米食」に原因があり、「麦飯」または「洋食・パン」を実験的に導入して、パン・洋食を兵士に食べさせて遠洋航海で実証的に成果を主張するが、陸軍のドイツ醫學の脈絡はこれを認めない。
とりわけ石黒忠悳門下の森鴎外は、否定の急先鋒であった。

この話は、吉村昭著『白い航跡』に詳しい。高木兼寛も、森鴎外もともに結果を見ることなく死去してしまう。
実は、兵隊が田舎の貧困階級出身者が多いため、「白米」の食事は、日常生活では困難だったから、兵役に徴すると「麦飯をはじめとする粗食からの解放」が実現したので、陸軍の兵士は喜び勇んで「米食」にあずかれる幸運を満喫していたのであった。これが、後に実証されるが、「落とし穴」なのであった。
森鴎外と脚気論争


結論を言おう。米食による「ビタミン」の不足が、脚気になったのであった。高木兼寛博士は、大正11年に死去するが、あと10年長生きすれば、主張が正しかった証明を見届けられたのに残念。一方、森鴎外は、大正7年に60歳で死去するが、幸運であった。生きていたら恥をかいたであろう。誠に幸運児というべきか。
森鴎外


掲題の「懐旧九十年」では、「脚気の研究に取り組んだ」とまでしか書いていない。誠に自伝は信用すべきであるか否かは、読む人々の判断如何である。下種の勘繰りではないが、石黒忠悳は高木説が正しいと内心では知っていたように思える。ただ、記述にはそれが削除(口述の添削)されている可能性がある。
自叙伝で、しかも口述であるから、自分に不利になることを、誰が言うか、書こうか?!
石黒忠悳とて人間である。神ではない。

マイナス評価は、現代人なら高木兼寛の正統的な伝記(白い航跡もその一つ)を読んでいる者なら、当然であるが、この書物は読み物としては大変に面白い。まるで、『福翁自伝』を読み直しているかのような錯覚に陥る。
どうして子爵にまでなりえたのか興味があるが、晩年に「日本赤十字」の社長をつとめ、また同郷の大倉喜八郎の出資によって「大倉高商」の創立を実務的に引き受けたり、社会的に大きな貢献をした近代日本の偉人の一人に数えられる人物であった。大正四年に野口英世が凱旋帰国した時に、東大の青山胤通を帝国ホテルに訪問させたのも、その前に野口博士と石黒忠悳が逢っていたことが理由であったといわれる。

つまり、当時の医学界の最高権威をも自在に動かせる、隠然たる医学界の実力者なのであった。
定年を前に、後進に道を譲る名目で陸軍から身を引くのが、どのように読み取れるか?ここに、ヒントがありそうであるが、名誉の為に邪推は避けよう。

昭和16年4月に97歳で死去するが、太平洋戦争を知らずして逝ったのも運命的なものを暗示しているようだ。
ただ、そうした興味本位より、知名度は高くないものの、日本の為に尽くした功績を先ず思うべきかと考えるのである。ドイツ醫學の基礎医学理論からは解明できなかった「脚気の原因」が、昭和のはじめ鈴木梅太郎のビタミンBの証明を知らずして亡くなった森鴎外は幸運児であり、昭和16年まで長生した石黒忠悳は、実は高木兼寛博士の実証的研究の成果である、ビタミン欠乏による「脚気」の原因を、実は晩年には知っていたはずである。

あまり知られていないが、日清・日露戦役の戦死者の何割かが、こうした医学界の派閥的な問題から「脚気」で亡くなったのである。それは数万人の規模である。合掌!
寺内正毅


 日露戦争当時の陸軍大臣をつとめた「寺内正毅」は、麦飯を兵士に食べさせることを主張したが、ついに実現しなかった。
こういうところに、歴史的な悲劇が潜んでいる。
なお、慈恵医大は明治時代に皇室からの「下賜金」を受けている。これは、明治天皇も、重度ではなかったが「脚気」に悩まされており、高木説の世界的な承認を願っていたのではないかと思われるのである。





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