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吉田松陰の支持者が何故多いのか
【2012/06/23 00:14】 エッセイ
 「衰えぬ吉田松陰人気」に想う
吉田松陰 至誠の教育者


今日は、平成24年6月23日。前年の東北大震災への対応の在り方が、批判された東京電力。企業延命策としての大口顧客に対する「値上げ」通告に対して、公正取引委員会からは「独占禁止法」違反にはならないが、顧客に対する十分な事前説明が行われたとは言い難いとの判断がなされたそうである。競争原理が働いていない企業の「私の常識は、あなたの非常識」を想起した国民は多かっただろう。これは「企業体質」といわれる。
歴史に学ぶ


日本には「親方日の丸」という、国際社会で通用しない言葉がある。
わずか数年前に「日本航空」が、似たような経営体質に対して国民的批判を浴びたばかりである。『ブルータスよ、お前もか!』が、自分の理解の可否を越えて頭を過るのである。
年金不安が国民的関心を呼ぶ中で、日本航空も東京電力も、同様の殿様経営ぶりが暴露された。
その一つの、日本航空は「総懺悔」の効果があったのかどうか、記録的な利益計上となり、早くも「再上場」の申請となったという。
日本航空の企業体質の象徴的な話を聞いたことがある。それは、ライバル会社の「社内稟議書」の速度と経営者の判断の速さの比較である。倒産などということは思いもよらなかったに違いない。
片や、自助努力にて必死に社会的使命に即して、企業努力にいそしむライバル会社。この違いは、何であろう。経営トップの管理の在り方の違いを如実に語る以外の何物でもないだろう。

なぜ、掲題とかけ離れたかのような文辞を連ねたか? 実は、吉田松陰が、同様の事を言っているのである。硬直した身分制度、驕りとあきらめの錯綜した徳川封建制度の二世紀半。武士は「何ものをも生産しない純然たる消費者」で君臨し、治者階級の名目の下で正しく太平をむさぼっていた。
幕末の諸事件で暴露された武士階級の、存在価値の無さ。
「祖法」としての「鎖国」体制堅持が至上命題で、予告されていたペリーに開国要求の為の来航に、何ら対策を打ち出せなかった幕府高官。しかも、外交特権の名目で情報公開を怠った末に、現実問題としてニッチもサッチも行かなくなった時、初めて外交と情報の独占を放棄せざるを得なかった。
その挙句、政治参加出来ない「御三家」や「外様大名」にすがりつくように、助言を求めたのみならず、責任転嫁の「勅許」を言いだして、自爆してしまった。幕府の権威の衰退は留まる所を知らない。幕府権力維持をかたくなに目論んだ末の行動が、悪名高い「安政の大獄」であった。その指揮権発動の「つけ」は、早くも翌年の万延元年の三月にやってくる。

井伊直弼座像


白昼堂々と、幕府の最高権力者の「首」が飛ぶのである。
さらに、その首は現場から運び去られても、なお公表せず、死去が公に傳えられたのは三週間近く経ってからであった。さらに追い打ちが駆けられる。坂下門外の変では、命惜しさに草履も脱ぎ捨てたまま駕籠から逃げ去ったという醜態まで演じて見せた。万事休す。

「城下の盟」を激しく憤った吉田松陰。大国と言わず、小国と言わず、「クニ」には、プライドがあり、脅しで外交要求をすることは受け入れる所とはならない。
黒船という四隻の軍艦を詳細に観察した松陰は、その背後にある文明の力を察知した。時は鎖国。台風に出逢って漂流した漁民といえども、海外脱出は違法なりと処罰された時代である。


それを百も承知で、しかも当面の敵ともいえるペリーの軍艦にて「密航」を企てた吉田松陰。
松陰蹈海の図24.3.20


國家を思う情熱は、徳川の鎖国は「単なる徳川の私法」で、公法性は少ないと知りつつ、あえて危険を冒した。自首後の取り調べでは、「万死は覚悟」と堂々と陳述した。
現代に生きる我々は、西欧先進国の18世紀後半の出来事を知っている。「第一次産業革命」と呼称される、一連の大変革の過程があった。
発明と技術開発とがもたらしたものが、松陰は恐らく黒船を観察して、その背後の実情を嗅ぎ取ったに違いない。

有名な『華盛頓(ワシントン)がどこにあるやら、竜動(ロンドン)が如何なる処やら、画そらごとにて何の控馭を能くなさんや』の科白も、自分さえ問題なければ・・・・・・の、現代に通じる課題への警告であったに違いない。松陰は、妹達にも生前、邦(國家)の為に尽くすことが自分の命以上に大切であるとの認識を語っている。(安政六年五月十日・諸妹宛)『拙者此の度仮令一命差捨て候とも、國家の御為に相成る事に候はば本望と申すものに候』(全集八巻・三四二頁)との言葉は、偽りがなく同年十月の、評定所での死罪申付け直後に吟唱した『吾今國の為に死す』とも一致する。将に「言行一致」である。
弁天島の吉田松陰2012.3.28


現代に生きる私達は、驚嘆するばかりである。「命がけで生きる」という姿勢に対して、特別な感慨を持つ。
私心のない見事な人生航路が、衰えない「吉田松陰」の人気の秘密であるに違いない。


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吉田松陰の最期への感慨
【2012/06/20 19:59】 エッセイ
吉田松陰の最期

安政六年十月十六日、四度目の評定所呼び出しが行われた。

七月九日、九月五日、十月五日に続く呼出しであるが、此の時には、前回、前々回の時と比べてまるで異なる厳しい調子であったという。(海原徹・吉田松陰)
前回から僅か十一日しか経過してないので、この間に取調べに対する何らかの変化があったのではないかと言われている。
巷間言われている「井伊直弼」による介入があったとすれば、おそらくこの時期であろうかと思われる。
即ち、「遠島」の処分を大老が「死罪」に改めたと云われているものである。
松陰先生24.3.31

そして、この翌日に尾寺新之丞宛に書かれている書簡に,このことは窺うことが出来る。
全集には以下の如く書かれている。
『一翰呈上仕り候。私儀昨日御呼出しにて口上書書判仕り候。・・・・・・左候て総人数、口書相済後又々呼出しに相成り又讀聞せの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。僕又大いに辯争致し候所、・・・・・・末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。』とある。
以後、松陰は親族あての書簡や、二日間かけて書き上げた『留魂録』二通を門下生宛に書いている。
この十日間に書かれた書簡や、著述を読むと「人間・吉田松陰」がどのような人間であったかが解かる。

親族に宛てた書簡は、世俗欲や、自分の生命を超越した、澄み切った心境がうかがわれる。門下生宛には、難局打開への松陰精神が、翌日に処刑を覚悟しながら書き上げられている。
誠に読む者をして、心を動かされる。吉田松陰の国民的な人気の秘密は、こうした私心のない態度にこそあるのであろう。

それゆえ、辞世の句となった『吾今國のために死す、死して君親に負かず。悠々たり天地の事、鑑照明神に在り。』と吟誦した内容にも、「國の為に死ぬ」と言っている。
同時に、松下村塾の教師として、門下生に「死んで見せた」のである。
この最期の緊迫した十日間のことは、どう考えてみても、通常ではない。天晴な人生としか言いようがないのである。そして、松陰の心に思いを致すと、「もっと長生きさせたかった」と
の思いが自然に湧いてくる。
限りなく美しく、私達を感動させる。
反面、死罪に処した井伊直弼に対する、独特な感情を湧出させるのである。

試みに、東京都世田谷区の両者の「墓」を訪れてみると良い。
残念ながら、井伊家の当主であったことから、大きな墳墓ではあるが、何の感慨も湧かないのである。
一方、松陰神社の境内にある松陰の小さな墓碑には、敬虔なる思いで両手を合わせてしまうのである。
高杉晋作24.3.25


そして、かつて高杉晋作から教えを乞うた「丈夫死す処如何」に対して、『死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし』という解答を書簡に託した吉田松陰先生。人間の生き方を、一方で説きつつ、自らそれを実践して見せたた吉田松陰の人生。それに対しては、誠に天晴れとしか言いようのない、言行一致の考え方と、実践に対してただただ頭が下がるのみである。そこには、全くことばはいらない。 合掌。


『レポート課題の試み』・松陰と人間学
【2012/06/01 11:00】 エッセイ
「吉田松陰論」の人間学の修得をめざして

今年度は、期末試験を実施せず、以下の「レポート」を書いて提出させ、此れと、授業態度、出席点を加味して採点することにした。二問めは、副学長に読んでいただき了承を得たうえでの、初の試みである。
これを導入しようと思ったのは、著書の中に書かれている「大阪の某大学」で、ゼミのテキストとしてとりあげ、人間教育を目指しているとの記述に出会ったからであった。

下田の吉田松陰24.3.25


2012.6.1
2012年度「前期」
『吉田松陰論』レポート提出課題

「吉田松陰論」担当長谷川 勤

下記の二問の課題についてレポートを作成して、提出してください。

(1)、吉田松陰の「士規七則」と「松下村塾記」の史料から読み取れる、吉田松陰の「人間観」と「学問観」を書いて下さい。その場合、「志を立てて以て万事の源と為す」と、「学は人たる所以を学ぶなり」の語を必ず使用してレポート作成のこと。
志ありせば


(2)、中井政嗣著「できるやんか!」または、「それでええやんか!」(潮出版社)の、どちらかを読んで(購入)、「自分の人生の展望・志」を、各自書いてレポート提出のこと。

   ◆一般書店での定価はそれぞれ¥1,300、¥1,000です。(アマゾンを活用するとより安く購入できます。)
※注意:提出期限:7月12日(木曜日)厳守のこと。
※レポート用紙4枚以内。(学籍番号と名前、提出日を明記すること)
※注意:出席が規定に達しない(15/10)学生は、出席点が加味されませんから、質の高いレポートでないと合格点が出ません。


私は、(1)の吉田松陰が従兄弟の「加冠の儀」を祝して獄中から書き与えた、『士規七則』には「武士道」または「士道論」についての、松陰の考え方が凝縮されており、封建社会に生きる武士の心得と思っている。

原文には、志の項目に続いて『交を択びては以て仁義の行を輔く。書を讀みて以て聖賢の訓へを稽ふ』。へと続く。そうして「成人」が成就するという。
事実、松陰の人生は、これを基本としており、自らの信念を語ったものであり、此処に彼の人生観の一端を読み取れる。
士規七則24.3.25


これと不可分の関係として『松下村塾記』のなかで、「学は人たる所以を学ぶなり」という名語が綴られる。洵に松陰の人生は、学問と、己を修める目標にまっしぐらに突き進む態度、姿勢であった。是を誠実に希求し、実践することが彼の眼目であった。

「修己治人」「治国平天下」を片時も忘れず励んだ生涯は美しい。君主や親族への忠孝の在り方は、彼の書簡を讀むとそれが如実に現れている。

封建時代に在って、儒教の申し子ともいえるが、彼の場合、此処に「陽明学」が加わり、相当に影響を受けていることが察せられる。松下村塾の入門を請うものにたいして、「学者になってはいかん、人は実行が大切である」と諭したのはそのあらわれである。

「軍記物」や「中国の古典、故事、人物列伝」、さらには「水戸学」や「歴史」に関する書籍を共に学び、これ等を通して「人間學」を学んだのであった。しかも、彼の残した名語録は誠実な表現が多く、技巧をてらう類の語がほとんどない。
松下村塾24.4.25


例えば、日本人としての自覚や国体への認識をふかめたといわれる『睡餘事録』における「身皇国に生れて皇国の行為国たる所以を知らずんば何を以て天地に立たん」と書き綴った自己への戒めや決意の語。そして塾生に対しては「萬巻の書を書を讀むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人たるを得ん」と鼓舞し、さらには「松下は陋村なりと雖も誓って神国の幹とならん」と、自らへの決意を塾生に伝えるメッセージを発している。

一方では、塾生に対してやわらかい表現ながら「お勉強なされい」と学問への取り組みの促進を願ったのであった。性善説に立って「至誠にして動かざる者は古より未だこれ有らざる也」と『孟子』のことばを座右の銘として人間の尊厳さ、大切なものへの認識を透徹させたのであった。

『福堂策』に言う「人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし」として、各人の潜在的な才能を引き出すことも忘れなかった。松陰はこのように、あらゆる面から、人、日本、時勢を見つめながら、自らは素より、塾生と共に難局打開を目指して奮闘努力したのであった。こうしたことから、「今天下はいかなる時ぞ!」との警告も忘れていなかったのである。
これらのことを、学生諸君が、どこまで勉強して「質の伴った」レポートを書いてくるか、待ちわびるような思いでいる。
中井政嗣24.4.26


もう一つの課題は「できるやんか!」と「それでええやんか!」の読後感から、自分の人生に対して、向上、努力する姿勢を決意するレポートを期待している。
「艱難辛苦」は、人生のところどころにおいて遭遇するに違いない。それらを、耐えて克服していくことによって人間は成長する。特別な技術を要する仕事というのは、実際には遭遇する機会が少ない。

「人生に苦労はつきもの」を心得て、難問を乗り越えて「世の為・人の為に尽くす」という思いがつづられるのを待っている。
上記の本を真面目に読んだら、必ず感動をもって読了するに違いない。その感動が、自らの人生の運命を切り開いて努力しようとの認識が芽生えたならば、このレポート提出をもって「試験」に変え得る目的は達せられたことになる。
レポート作成中の姿


そして感動は、必ず人生に勇気や奮起を起させるに違いない。それが実感できた時に「自己教育」を眼目とした吉田松陰論の価値が顕現するに違いない。こんな思いで学生がレポートを書いてくれることを願ってやまないのである。





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