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『知行合一』と『事上磨錬』について③
【2012/07/31 12:17】 エッセイ
『知行合一』と『事上磨錬』


「知行合一」とは、「知と行を合せる。」ことでなく、「知」と「行」は本来一つのものであってる離るべきではないとの意味である。

知行合一24.3.30


「未だ知って行はざる者有らず。知って行はざるは、只だ是れ未だ知らず。」で知れば必ず行えるのであり、行ってこそはじめて知ったことになるのである。知と行は一つであるから、その別は単に表面の姿に外ならない。

「知の真実篤実の処は即ち是れ行。行の明覚精察の処は即ち是れ知。知行の工夫は本離る可からず。」それ故、体験のない知識は真実のものではなく、耳目から入った知識は説話に過ぎない。
虎の恐ろしさを知り、病気の苦痛を知り、悪臭のにくむべきをしり、飲食物の味、通路の険易を知るなどはその良い例である。孝行を知るのは、自然に孝行を考えてからのことである、陽明の説く知は、このように体験的知または真知ともいうべきもので、普通の概念的知識の意味ではなかった。


しかし世の中には無限の道理があるが、すべての理を体験しなければならないとなると、短い生命では到底不可能である。これをどうするかの問いに対しては、理は心にあるから、内に自ら工夫をすればよいのであり、また身体のよる経験のみが行いではなく、読書講習、学問支弁も行いであるからその心配は要らないとする。

王陽明・傅習録


「知行合一」説は理論としては不明確な点もないではないが、陽明独自の学説で、後世に影響するところが大きい。要は表面的な知識や口耳の学を誡めて、工夫・実践・鍛錬の重んずべき事を強調したものである。

陽明が「事情磨錬」を説くに至ったのは、四十二歳の滁陽にあった頃、弟子を世間の功利的風潮に染まらせないで専心求道に向かわせようと念願から、静座澄心を勧めたところ、動を避けて静を好み、枯槁空寂に流れて儒家の本領を忘れる傾向になったのが動機とされる。
事上磨錬24.7.31


もともと陽明自身も座禅や道家の修行に凝ったことがあり、婁一斎の影響もあってか内省的で、初期には「未発の中」「寧静」「寂然不動」「惟れ精、惟れ一」などを説くことが多かったが、弟子のこの弊を見て自らも反省するところがあり、人情事変の現実生活を肯定して積極的に人生を推進する立場をとるに至ったのである。

「事上磨錬」とは、環境や日常の事変に翻弄されることなく、動静を超越して修行することで、常に自ら主体となって、あらゆる機会を修行の場と化する意味である。
そこには知行合一と通ずるものがある。この立場にあれば、行住坐臥みな修行の場でないものはない。陽明が官務・軍務の繁忙の中にあって、常に修行を怠らなかったことは、この事上磨錬の実践に外ならなかったといえるであろう。事上磨錬は全くの修行の態度なのである。

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『講孟餘話』に見る「知行合一」観について②
【2012/07/29 21:44】 エッセイ
『講孟餘話』「萬章下・首章」全集第三巻・二一七頁)

安政二年(一八五五)十二月二十四日二十六歳

「孔孟箚記上下」

孟子曰く、伯夷は目に惡聲を視ず、耳に惡聲を聽かず。其の君に非ざれば事へず、其の民に非ざれば使はず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退く。横政の出づる所、横民の止まる所は、居るの忍びざるなり。 思へらく、郷人と處るは朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如しと。紂の時に當たりて、北海の濱に居り、以て天下の清むを待つ。故に伯夷の風を聽く者は、頑夫も廉に懦夫も志を立つるあり。井尹曰く、「何れに事ふるとして君に非ざらん。何れを使ふとしてか民に非ざらん」と。治にも亦進み、亂にも亦進む。


(又)曰く、「天の斯の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先學をして後學を覺さしむ。予れは天民の先覺者なり。予れ将に此の道を以て此の民を覺さんとするなり」と。思へらく、天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を與かり被らざる者あれば、己れ推して之れを溝中に内るるが若しと。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。柳下惠は汙君を羞ぢず、小官を辭せず。進みて賢を隠さず、必ず其の道を以てす。


遺佚せらるるも怨みず、阨窮すれども憫へず。郷人と處るも、由々然として去るに忍びざるなり。(曰く)「爾は爾たり、我れは我れたり。我が側に衵裼裸裎すと雖も、爾焉んぞ能く我れを浼さんや」と。故に柳下惠の風を聽く者は、鄙夫も寛に薄夫も敦し。

孔子の齊を去るや、淅を接けて行り、魯を去るや。曰く「遲々として吾れ行く」と。父母の國を去るの道なり。以て速かなるべくして速かにし、以て久うすべくして久うし、以て處るべくして處り、以て仕ふべくして仕ふるは、孔子なり。(註:楊氏曰く、孔子去らんと欲するの意久けれども苟めに去るを欲せず、故に遅々として其れ行しなり。膰肉至らざれば則ち微罪を以て行るを得。故に冕を税(ぬが)ずして行る。速かにするに非ざるなり。)
吉田松陰
 


智と聖と是れ全章の綱領なり。智は射の巧にして、即ち所謂致知なり。聖は射の力にして、即ち所謂力行なり。知と行二つにして一つ、一つにして二つ、王陽明知行合一の説、固より自ら當る所ありと云へども、是れ等の所に至りては、知先にして行後とせざれば明らかならず。凡そ人の志を勵まし行を砥するに、學問の工夫を捨てて、唯だ行事一偏にのみ拘泥する時は、的を準ぜすして強弓を引き長箭を放つが如し。其の達する愈々遠くして、其の中る愈々疎なり。

故に知を以て先とせざることを得ず。是れ行を主として學を廢する者の誡めとすべし。又讀書明理のみを専務として、曾て實行實事の上に於て毫も砥勵する所なき者は、的の大小遠近悉く詳審すと云へども、未だ曾て弓を把りて體を習したることなきが如し。一旦矢を放つ、其の遠きに及ぶっこと能はざるは論なきのみ。故に行を以て重しとせざることを得ず。是れ學を主として行を廃する者の誡めとすべし。然れども是れ吾が徒小人知行偏廢の弊を言ふのみ。其の實は知にして行を廃するは眞の知に非ず。行にして知を廃するは實の行に非ず。故に知行二つにして一つ、而して先後相待ちて濟すことあるなり。抑々伯夷・井尹・柳下惠の力ありて巧を闕くと云ふ者は、淺近の論に非ず。孔子の巧力俱に全きを以て是れを比して、初めて其の少しきを闕あるをみるのみ。
講孟箚記24.5.15


孔門の諸子、顏淵・閔子・冉牛の體を具して微なる如き、巧にして力足らずと言ふべし。子夏・子游・子張の一體を具する如き、力ありて巧足らずと言ふべし。後の道を學ぶ者孔子を以て宗とすれば、巧力俱に至り知行兼ね進むべきは勿論なれども、前輩を論じ及び人材を育する如きは、妄りに是れを以て衆人を律することなかれ。
人各々能あり不能あり。



松陰の「誠」・「至誠」・「知行合一」①について
【2012/07/29 14:58】 エッセイ
『講孟餘話』離樓上 第十二章 

講孟餘話(岩波文庫)

安政二年(一八五五)九月三日 二十六歳(全集第三巻一五六頁)

まず原文を記す。

孟子曰く、下位に居りて上に獲られざれば、民得て治むべからざらるなる。上に獲らるるに道あり。友に信ぜられざれば、上に獲られず。友に信ぜらるるに道あり。親に事へて悦ばれざれば、友に信ぜられず。親に悦ばるるに道あり。身に反みて誠ならざれば、親に悦ばれず。身に誠なるに道あり。善に明らかならざれば、その身に誠ならず。是の故に誠は天の道なり。至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かすものはあらざるなり。
孟子24.4.23


【註、(前略)この章は中庸の孔子の言を述べ、誠を思ふを身を治むるの本と為し、善を明らかするを又誠を思ふの本と為すを見はす。乃ち子思が曾子より聽くところにして、孟子の子思に受くる所のものなり。亦大学と相表裏す。學者宜しく心を潜むべし】

此の章、中庸全部の意を括りて一章とす。また大學と表裏す。並びに註已に是れを辨ず。而して善に明らかになると、身に誠なると、誠と、誠を思ふとの四項に歸す。善に明らかなるは多く知に於て發明す。書を讀み道を思ふ、皆是れに屬す。身に誠なるは多く行に於て發明す。仁を行ひ義に由る、皆是れに屬す。然れども知は行の本たり。行は知の實たり。二つの者固より相倚りて離れず。誠は知行の自ら誠なるなり。誠を思ふは知行の誠ならんことを思ふなり。此の義、學庸を熟讀せば、自ら明かなり。今必ずしも贅せず。上章云はく、「道は爾きに在り、事は易きに在り」と云ふもの、此の章に於て益々明かなり。上に獲らるるの獲は、上第九章を得、心を得の得の如し。但だ彼我の差別あるのみ。上に獲らるるは、我が心を上に獲られ上の物となるなり。我れ誠敬を盡し我れ忠貞を致すといへども、上の信孚を得ること能はざるは、是れ我が心を上に獲られざるなり。我れ誠敬を盡せば、上其の誠敬を信じ、我れ忠貞を致せば、上其の忠貞を信じ、凡そ吾が心を竭す所。上皆是れを信ずれば、吾が心皆上の心と流通して、吾が心は上の物となり、上の心は又吾が物ととなる。上下相得るなり。孫子謂ふ所の「衆と相得る」の意なり。是れを上に獲らるると云ふなり。
至誠の人吉田松陰


※これは「誠」の見解を述べるにあたって、王陽明の「知行合一」に関連付けて説明しているところである。「誠は天の道なり」と言い、「誠とは」①「善に明らかになる」②「身に誠なる」③「誠」④「誠を思ふ」の四項目からなるとする。そうして「至誠」は「知」と「行」が真に合一したものの実証であるのが松陰の考えである。それ故、「身に誠なるは多くは知に於て發明す」となり、誠は知行の自ら誠なるなり。誠を思ふは知行の誠ならんことを思ふなり、となるのである。回りくどいようだが、松陰の誠に対する考えは、真に深い意味を持つのである。
至誠


【誠は知行の自ら誠なるなり。誠を思ふは知行の誠ならんことを思ふなり。】という言葉は「知行合一」との関連に於て、誠の実現、即ち「人の道」「至誠」が現成されると説くが、門弟にたいして「学者になるな、人は実践こそ大切である」とせつめいしたのはこのような意味が込められていたのである。
知行合一24.3.30


「至誠にして動かざる者は古より未だ之れ有らざる也」を座右の銘とした松陰の「思想」に思いを致さなければ、「松陰精神」に触れることにはならないのではないかと思うのである。
その意味で、この離樓上・第十二章は極めて重要な意味を持つのである。


「現代日本」の姿
【2012/07/27 22:44】 エッセイ
『松陰精神』の不滅性について

吉田松陰が「安政の大獄」で、その生命を絶たれてしまってから今年で150年余りが経過した。
この人物ほど「日本の為に」尽くそうとした、その精神性の高さに於て「完全なる「ナショナリスト」は極めて稀であるという視点に於て、異論をはさむ余地のない人物の代表の名に値する人物はいないだろう。
理屈抜きで、他の追随を許さない。それは、単なる個人の精神と云う意味でなく「民族精神」を体現したという意味に於いて、自らの思想に殉じた人物は、その「純度」の高さに於ても、稀有な人物であった。
それゆえ、自らの「死」に対しても、従容として臨んだと言い伝えれている。
吉田松陰結跏趺坐小


吉田松陰という「歴史上の人物」と、私なりに向き合って十年が経過した。
この間、「吉田松陰全集」の定本版・普及版・大衆版と呼称される吉田松陰の、著述と向き合いながら、数えきれない程の「伝記」・「研究書」を読む機会を得た。秀逸というに値する研究書物が、そのなかでどれほどあるのであろうか。徳富蘇峰、玖村敏雄、そして現代の代表的研究者の海原徹先生等々の著述物は、誰もが指呼を折るであろう。

吉田松陰「海原徹著」


『中公新書』に「田中彰」著の『吉田松陰』がある。この名著は、「変転する人物像」という副題がついている。
明治24年の日本における『吉田松陰傅』刊行以来の、数々の伝記類や研究書の紹介がされている。この書物は、日本の時代と共に変転してきた「吉田松陰」の人物像を描き出したという点に於て、後世の吉田松陰研究者にとって計り知れないほどの裨益を齎した。
反面、解説的であり、自身が予定していた「吉川弘文館」の『人物叢書』の執筆予定が、遂に刊行されないままに今日に至ってしまっているのは誠に遺憾としなければならない。


この田中彰さんは、松陰と同じ長門の国に生誕し、大東亜戦争に従軍経験があるようで、敗戦後は「東京文理科大学」(この大学は、東の東京高等師範学校・西の広島高等師範学校と併称されて、教育界に幾多の人材を輩出し・日本の国家的使命を果たした)に入学し、郷土の先輩である吉田松陰及び日本の近代史研究にそれなりの業績を残した歴史学者である。残念ながら「渾身の研究成果として世に問う独自の著作を残さなかった」のが残念である。唯物史観の見地に立つ研究者の限界であったのであろうか。勿体ない話である。

吉田松陰 田中彰23.3.23


今日、即ち平成24年現在に於ては、日本國の現状が「閉塞状況」に陥ってしまっている。泰平の世に慣れてしまって、ペリー来航に対する「いざ・かまくら」の危機に対して、何ら為す術を持たなかった、当時の治者階級としての武士の無能ぶりは、それを揶揄した狂歌に詠われている通りであろう。その何年か後に「四国連合艦隊」の報復攻撃に対して、無能ぶりをさらけだした長州武士の在り方は、危機管理に対して全くの見識や肝っ玉を持ち合わせていない事実に、農工商の三民は、いたく失望した。
國家の存立を賭けた危機に役立たない武士への怒りは、吉田松陰の「草莽崛起論」に淵源をもつ「奇兵隊」に結実し、やがて「徴兵令」の思想の基底をなすに至る。

近代国家に「国防」は必須であるが、明治維新の精神をはき違えた「公務員としての職業軍人」の自分勝手な狭い視野での國家観・・・・・・それは、正しい世界観を持たない片寄った軍人(政治家への誤れる容喙)思想が、ゆがんだ國家観へと収斂して破滅に到った。
吉田松陰が叫んだ「独立不羈三千年の大日本」の精神は、遥か彼方に忘れ去られて「エゴ」に基づく変則的な国家へと変容してしまった。長期的な歴史観からすれば、「国家指導者」たるべき人物の在り方が間違いなく問われるに違いない。


日本地図


現代の「政治家」達が、本当に國家のために「殉難」を覚悟しているかどうか問いたいところである。「近代国家の産物」としての「官僚」が、こうした精神に立脚したものでないことは、単なる立身出世主義や、自己保身に長けた機構に託して、賞味期限を持った「知識的な世渡り上手」以外の何物でもないことを暴露した。しかし、「懲りない面々」であることに変わりはないのであって、既得権益は容易に手放さない。
これが、「吉田松陰」本が、あとを絶たない現象生んでいる。それでも、個人の思惑を遥かに凌駕したところで、歴史の小さな日々は刻まれ続けてゆくのである。これが、今の日本の偽りない姿であろうことは、杞憂をこえた危機感として感じ取っているのに違いない。


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『現代学生』への警鐘!
【2012/07/25 22:39】 エッセイ
『長谷川勤のブログ』 二百回目の記事


「吉田松陰のやさしい入門」と銘打って、このブログを書き連ねて、200回に到達いたしました。
私は、神奈川県の厚木市に在る『松蔭学園』という、学校法人の「大学」で、『吉田松陰論』という選択科目の講座を担当しています。

長谷川勤22.1.10慶應大学にて


当初の目的は、『学生向け』に書き始めました。 しかし、現代学生は書物を読みません。 こうした現実に対して、どのように対応することが良いのか、暗中模索をし続けて参りました。 しかし、この願いも空しく、現代学生は書物を読もうとしません。
インターネットで吉田松陰の人物を調べ?て、それをもって「勉強した」と考えているようです。 残念なことであります。


授業中は、「携帯電話」からネットに繋げて、自分の興味あるものに熱中している学生をよく見受けます。
これを注意すると、一度は、その行為を中止しますが、次の授業の時は、また繰り返します。 およそ学問的努力をしないのが現代学生です。人生で最も勉強すべき年代なのに、勿体なく、残念なことです。

困難は可能な限り避け、楽しむ事にのみ熱中して、学費を負担する親の願いは「うわのそら」で、自主的に有益な書物を読もうとしません。 こうした学生が、やがては世の中の中枢を担っていくのかと思うと、絶望感に浸ります。


親は、若かりし頃「学歴社会」の壁の存在に苦悩し、生きるが為に自分の進学できなかった人生の無念を、子供たちに同じ思いをさせたくない一心で、莫大な学費を払って子供たちの幸せを願っています。(戦後の数十年間は、敗戦の復興がたっせいされるまでの期間は、経済的事情が大学進学を許しませんでした。)
昔から「親の心、子知らず」の俚諺通り、現代の大学生は履修登録した授業に「出席さえすれば」の思いだけで登校し、授業に臨みます。



お勉強しよう、24.7.27
指定したテキストは、大半の学生が読まず、不孝なことに、親の思いは形だけのものであって、心底勉強して「世の為・人の為」に社会的な中枢を担う義務感は全くなく、「トコロテン」式に卒業していく。高校生の延長のように心得ている学生がなんとおおいことか。だから、自主的に 「予習する」ことなど思いもよらない。
「教えてもらっていないから、知りません」という言葉が、恥じらいもなく語られるのである。
彼らの、大学生活での経験、人生態度は「実社会」で受け入れられるはずもなく、五年以内に入社した企業から「はじき出され」、大学卒業資格としての「学士号」の形骸化に初めて気が付く。

『吉田家本・吉田松陰座像』


私の講座で、実社会に出て困難に堪えうる学生は、大凡の推定ながら「三分の一」程度であろう。
私は、民間企業で40年近く勤務した経験を持っている。
実社会が、サバイバルゲームの如き、生存競争の実態を学生自身が知らず、学費負担者としての「親」は、大学さえ出ておれば何とかなるだろうとの、甘い、希望的観測を信じて疑わない。はたしてそれでよいのであろうか。

実社会は、そうではなく、そんな甘いものではないのであります。
実力と、「士気」を兼ね備えていない人物など必要としません。自主的に、仕事に内在する問題、課題を発見する、努力を怠り、平和裏に日々がぐぎれば「事足りて」しまう。
なぜなら、「慈善事業」などやっている「暇」や「余裕」などはないのです。

創意工夫、仕事の生産性向上への意欲、の欠落が著しく低下していると感じるのは、私だけであろうか。
実社会が、命がけで生き抜く厳しさを、学生自身も、実態を知らないのです。親も、それらを経験的に家庭で語っていないのではないだろうか。 「大学さえ出ておけば」というのは、実は甘い幻想なのです。
実社会は、企業目的に合致しない考えの持ち主は、必要としません。


現在の企業は、企業経営にとって最大の経費である人件費をどうするかに解決を迫られています。
国際社会は、生産コストの低減による販売競争の真っただ中にあります。

こうした現実にたいして「大学さえ出ていれば」という幻想が、已に破綻を来している現実を知らねばなりません。日本の経済は、諸外国とのコスト競争にさらされています。
経済的競争には、情実は全く通用しません。

私たちは、日本独特の「甘え」という言葉を知っている。同時に、それがどういうものであるかについても、経験的に知っています。 これは、国際社会では受け入れられにくいものです。大学卒業とか高校卒業とかの「日本的」な、「学歴主義」や「終身雇用」の甘い期待は受け入れられません。
生存競争の実態を知らない学生は、私の必死の訴えかけの意味が解かっていないようです。

今後の日本は、益々競争のレヴェルが熾烈になって参ります。この現実を、思い知らされた時には、もう間に合いません。
松蔭大学②24.4.22


『落ちこぼれ』という言葉が、当たり前のようにマスコミ用語としてまかり通っています。 これを、他人事と受け止めてはなりません。敗者復活戦は、実社会には存在しません。 学歴は単なる『目安』でしかありません。これに、胡坐をかいてはなりません。
生き抜く努力は、自分の努力と、『ご縁』のあった、稀に見るやさしさを持った人物に出会えてのみ可能です。
生存競争の厳しさを、体験的に比較的若いうちに、身に染みて味わって欲しいと願うばかりです。

授業中に、眠ることは「人それぞれ」の事情があるのかも知れません。
日本社会が大学生を甘やかし続けていることに、大きな問題が内包されています。
一寸の光陰を惜しんで、勉学に励みながら大学生活を送ってほしい一心から、この随想を書き連ねました。
これが杞憂であることを願って擱筆します


平成24年7月25日記


『村塾の四天王・入江杉蔵』への書簡「自然説」
【2012/07/25 19:45】 エッセイ
入江杉蔵宛
安政六年四月二十二日頃 

松陰在野山獄 入江在岩倉獄

餘り怒りよるととうとう腹もなんにも立たぬ様になる。
吾れは腹はもう立てぬ。
併し又立てたら夫れも自然と恕して呉れ。
『吉田家本・吉田松陰座像』

自然説
子遠子遠、憤慨することは止むべし。義卿は命が惜しいか、腹がきまらぬか、學問が進んだか、忠孝の心が薄く成ったか、他人の評は何ともあれ、自然ときめた。死を求めもせず、死を辞せもせず、獄にあっては獄で出来る事をする、獄を出ては出て出来る事をする。
時は云はず、勢は云はず、出来る事をして行き當つつれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く。吾が公に直に尊攘をなされよといふは無理なり。
尊攘(弘道館)


尊攘の出来る様な事を拵へて差上げるがよし。平生の同志は無理に吾が公に尊攘をつき付けて。出來ねば夫れで自分も止めにする。無理につき付けて見た事、是れ迄は義卿もどうよう。是れからは手段をかへる。周布・前田輩に向って言うたは幾重も吾れが不明。然れども其のときは御存じ通り皆已むべからざるしだいあり。矢張り自然じゃ。吾れを永牢して出さねば夫れも自然。出してくれれば、はや覆轍は踏まぬ。政府は勿論、食禄の人に對しては何も言はぬ。又其の時の曲折は今から言はれはせぬ。大意は足下江戸にて案じ付いた通り、又吾が輩未だ勅諚を聞かぬ内の手段なり。
松陰の立志実践教育


○我れ若し南支の夢に入らば、天子に直に言上すべし。其の次は吾が公に言上すべし。其の他大原卿などは曽て知己を以て許されたれば兎に角一言すべし。其の外には言はず。
今から人が温言して來れば温言して答ふ。厲色して來れば瞑目して居る。怒聲して來れば黙然して居る。彼の輩は實に較ぶるに足らず、惡むに足らず。頻りに和議を言うて來る。子遠・和作の誠心には感じて居るとて頻りに辯じて來る。

入江九一


吾れ未だ一言を答へざれども、是れは自然の道に非ざる故、温然として答ふる積りぢゃ。如何。僕も諸友に先立ちて來獄したれば少しは人より罪重けれども、未だ死罪を賜はらぬは、未だ忠義の罪軽きなり。今死を求むるは微功にて重賞を求むといふものなり。今からもっと積まねば死は賜はらぬと存じ候。

『伯父・竹院和尚宛』門下生の紹介書簡
【2012/07/25 11:07】 エッセイ
『伯父竹院宛』書簡

安政五年三月三日頃     松陰在萩松本  竹院在鎌倉


此の生を松浦松洞と申し、松本村の一奇才子、幼より畫名を得、今は隠然たる一家に御座候。
詩も亦清雋すべし。然れども詩畫以て稱せらるる事は好む所に御座なく候。此の度東遊仕り候ゆゑ、貴寺へ立寄り候はば御尊容照寫仕らせ度く、永く後世に傅ふるの存念に御座候。然るべく御賴み仕り候。委細は別翰申し上ぐべく候と存じ奉り候ゆゑ、匆々擱筆仕り候。
惠純も徳隣寺住職に相成り繁用の趣に御座候。歸國來两度ほど相對致し候。
吉田矩方再拝
錦屏老方丈 獅座下

佐々木小次郎歸國、御近状承知仕り安心仕り候。此の地いづれも無事に御座候。

瑞泉寺

この「瑞泉寺」境内には、「吉田松陰が訪問した石碑」がある。
瑞泉寺の松陰訪問の碑


<用語解説>
竹院 =(一七九六 ~ 一八六七)1 吉田松陰の母の兄。毛利藩では陪臣の村田右中の子息。鎌倉「瑞泉寺」「円覚寺」の住職を務めた後、京都「南禅寺」の住職。慶應三年入寂、七十二歳。
松浦松洞 = (一八三七 ~ 六二)萩の魚屋の息子。幼にして絵に秀で神童の稱あり、四條派の絵を学ぶ。
正装の吉田松陰2012.3.30


初期の松下村塾生で、吉田松陰の「自賛肖像画」を描いた人物。松陰は彼に「無窮」と字を与えて可愛がった。文久元年、同じ長州藩の「長井雅樂」提唱の「航海遠略説」(公武合体策)を破棄させんとして、京都で自刃。松下村塾生最初の殉難者となった。
隠然たる一家に御座候 = どことなく威厳をもった画の大家
清雋 = 清くてすぐれていること。
御尊容 = 御容貌
徳隣寺 = 萩の寺名。恵純はかつて鎌倉円覚寺に遊び、竹院和尚と交際があった。
錦屏 = 鎌倉の錦屏山に竹院住持の瑞泉寺があった。
(今も鎌倉の二階堂に在る。臨済宗円覚寺派の寺院、梅で有名)

<解説メモ>
安政五年、門下生の「松浦松洞」の江戸行きに際して、松陰が伯父の竹院上人に宛てた紹介状である。松浦松洞が肖像画を得意としたことから、訪問を受けたら、肖像画を描いてもらったらよいと記してある。あわせて、かつて伯父と交友のあった人物の近況も知らせてある。今、鎌倉の瑞泉寺を訪れると、小さな松陰の訪問碑が建っている。

当日は「松風会」の「巡検」で瑞泉寺を訪問した塾生の皆様を訪ね、松風会の常任理事と念願の初対面が叶った。このことは、編集後記に記されている通り、楽しい一日となった。


吉田松陰の『学校創設構想』
【2012/07/25 10:09】 エッセイ
入江杉蔵への書簡(学校の興隆構想・女子教育)

安政6年(1859)10月20日(全集第8巻、422頁)

この日、松陰は入江杉蔵、飯田正伯・尾寺新之丞宛、父叔兄宛と6通書いた。
更に途中まで書き掛けて止めた『諸友宛』の、「諸友に語(つ)ぐる書」という遺書を書いた。
この精神力には敬服以外にない。お見事な人生の締めくくりの覚悟であります。
尊攘堂


原文を下記します。
「兼ねて御相談申し置き候尊攘堂(そんじょうどう)のこと、僕は弥々(いよいよ)念を絶ち候。・・・京師に大学校を興し、上、天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿等も出来候様致し、恐れながら天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材英能を天朝の学校に貢し候様致し候へば、天下の人心一定仕るに相違なし。・・・只今学習院は学職方は公家なり。儒官は菅・清家と地下の学者と混じて相務められ、定日ありて講釈之れあり。是の日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上方御出座なり。」

10月16日に評定所での「口書」(調書)の読み聞かせがあり、これで死罪を覚悟しながらも、愛弟子に日本国の将来を託す方策として「学校」を興そうとしていた。
尊攘堂


松陰は国力増大、国富の実現には教育が不可欠としていた。
日本国への切々たる思いが偲ばれます。
同時に「女子教育」のも関心を持ち、構想をめぐらしていたのであった。

教育者「吉田松陰」の面目躍如たる書簡である。
因みに慶応義塾の創立は安政5年であるから、この書簡はその1年後のことであるが福澤諭吉と吉田松陰が教育について語り合う機会が実現しなかったのが何とも残念である。
福澤も女子教育に熱心だったことは松陰と同様である。
品川彌二郎24.3.25


この「尊攘堂」設立は、明治になって「品川彌二郎」が熱心に松陰の意思を継いで、京都に建立した。
松陰関係の展示品等が、蒐集されたが、後に京都大学へ寄贈となり、現在では、京都大学構内に、その施設はある。

京都大学と尊攘堂

(上記の尊攘堂写真参照のこと)


『松陰の民族主義・ナショナリスト』自覚の書簡
【2012/07/15 23:24】 エッセイ
 
「宮部鼎蔵宛」書簡
(下田密航はペリー刺殺目的だったか?)


嘉永六年六月十六日         松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)
宮部鼎蔵



久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。
即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。
未だ數行ならざるに魂を消すこと數々なり。
豈に兄の大故相踵いでここに至る、風樹の感如何ぞや。
向に僕兄の一書もなきを疑ふ、今此の書を讀み覺えず聲を失ふ。
但だ両尊共に高齢、加ふるに兄が平生の誠孝を以てせしは憾みなからん、別に亦或は少しく慰むべし。
僕屏居中言ふべきものなし。

昨年十二月八日官裁下り、藩籍を削らる。
早春の間に書を呈し、其の詳を言ふ。料るに已に覧に達せるならん。
僕痩駑と雖も為すあるの時至る。幸に高念を勞するなかれ。
梁山泊恙なし、二生ありこれに従ふ。僕居所未だ定まらず、假居す。
尊藩佐分利君も亦居未だ定まらず。九月に江戸に來りてより徒らに旅店に在り。
僕昨日を以て始めて相見る。其の旅店の便を闕くを恐れ、急に之れを梁山泊に引く。
梁山泊の光景頗る繁華を覺ゆ。佐分利君志を洋文に有するよし、僕甚だ心を同じうす。
将に相與に之れを謀ること少なからざらんとす。
濱田の生一人、僕嘗て知る所、此の節兵學修業の為め江戸に來れり。素より未熟なれども人物孑介(けっかい)、立志甚だ鋭し、亦洋文を學ぶの志あり。

濃人生長原も亦僕に先んずる數十日に來府し、交友尠からず。
獨り老臺なきを恨むのみ。然れども老臺善しとする所に見い、亦少しく慰むべきなり。
老臺善しとする所の三四君、三四月の交弊國へ御立寄下され候由、僕発程後にて甚だ残念に御座候。家兄内々拝顔を得、種々御高話拝聽仕り候よし、且つ容易ならざる御厚情の御傅言も之れあり恐れ入り候事の由、委悉家兄より申越し候。
僕放廢の身と雖も、幸に父叔兄弟あり、溝壑に轉ぜずして素志とする所を得、願はくは放念せよ。扨て四君の内佐分利君の外未だ御到着之れなく候。
併し近日御着と相待ち居り申し候。
会沢正志斉24.6.13

水府の事御同慶に存じ奉り候。一昨年接する所の人物も皆々芽を出したるよし、尤も喜ぶべきなり。藩人村田が書の事敬承し奉り候。水府老公上書得と穿鑿の上申上ぐべく候。

僕正月二十五日を以て発し、大和に過り森田謙蔵・谷昌平(新助事改名)・安元杜預三を訪ひ、留まること雨月に及び、森田と河泉の間に遊ぶ。森田は頃ろ酒を廃し讀書甚だ勉強仕り候。詩あり云ふ、「落剝江湖卅歳餘。放浪詩酒費居諸。慨然今日碎盃去。欲著人間有用書。」

伊勢に過り斎藤拙堂を訪ひ、美濃より中山道通りにて五月二十四日江戸に達す。二十五日より鎌府に至り、六月朔日江戸に歸る。

四日乃ち浦賀の吶々たる怪事を聞き、其の夜より浦賀に至り其の様子を視る。當今列藩の士氣奮起するもの甚だ多し。
ペリーの顔2012.02.08黒船2425.10



奈ともするなし閣老の犢鼻なく、此の度の一事國體を失ふもの甚だ多きを。有志の士、豈に慨嘆の至りに堪へんや。委曲の様子定めて御承知成さるべく候。
扨て尊藩御軍備の整ひたること聲名都下に噪がし。其の他越前侯・岡崎侯など令名あり。

佐久間修理、羽倉外記頻りに幕吏へ苦心せしよし、然れども遂に修理を用ひず。其の藩侯の為めには大いに用をなしたる趣。
僕日夜其の家に至りその詳をきく、中々長鬚生も忼慨を起し申し候。
僕十日を以て江戸に歸る。
是れより両三日、江戸尤も噪がし。


九日浦賀の隣栗濱にて両奉行出張、夷の圖書受取の次第僕細かに之れを見る。誰れか之れが為め泣憤せざらんや。
久里浜上陸の図


かの話聖東國なるもの新造の陋那、乃ち堂々たる天朝を以て屈して之れに下る、如何如何。唯だ待つ所は春秋冬間又來るよし、此の時こそ一當にて日本刀の切れ味を見せたきものなり。此の度の事列藩の士及び策士論者、内拂いに決する者十に七八。噫、惜しいかな。
六月十六日              (又故ありて名を改む)吉田寅次郎矩方
宮部鼎蔵殿


山鹿素水安全無異。僕先書甚だ無稽の妄節申上げ、甚だ赧然(たんぜん)仕り候。然れども都下も亦此の風説ありしよし。
此れ已下一覧之れを火かれよ。
通高24.7.15

東北地図
通高の事、僕江戸に來り始めて其の詳を聽く。鳥山へも其の後両三次は來りし由。
併し昨年機を失ひしを甚だ悔い、人に接するを欲せず。

鳥山も亦甚だ氣の毒に存じ候。大事を成す迄は暫く聲息を絶し、交友間へも所在を隱す位のことなり。併し英氣益々勃々たる様子なり。下妻邊に徘徊するよし。
僕一たび之れを訪はんと欲す。
然れども春時以来遊んで日を過せし故、未だ及ぶに暇あらず候。
鳥山幷に大渕鼎三・和田修義等より周旋千苦慢辛、甚だ感ずべき事也。森田へ書の一事、僕森田を訪ひし日委曲申したる事などは必ずしも事結局を待たざるか。
甚だ之れを疑ひ、江戸にて堅約仕りたる様子相話候處、森田大いに怒る。
僕因って兄決して此の信を失ふの事なきを思ひ、料るに兄江戸御發迄五郎の事聽えず、故に再び議論之れありたることなるべしと存じ、森田へ其の故なるべしと申し候處、森田も鳴程夫れ等の事なるべしと後には心解け申し候。

當時兄従來の御事は夢にも知らざれども、僕料る所即ち兄の所謂大事結局迄五郎の書は案頭に閣くべしと申すに符号仕り候。
然れども右の通り僕已に之れを言ひたれば、鶏肋集・五郎の書を兄の僕に賜へる書と合併して、僕よりこの故にて遲達に相成りたる段を森田へ申越すは如何。
御同意に御座候へば差急ぎ候ことに付き、及ばずとも僕迄御遣はし下さるべく候。已上。
二白
南部侯は當秋登府、奸臣之れに従ふよし。

※この書簡は、前年(嘉永4年12月から5年4月迄、東北旅行を共にした)以来の音信が絶えていたが、「過所手形」なしで挙行したため、藩政府から処分を受けたこと。そして「特別なはからい」で、諸国修業を許されて、京阪、大和地区の名士を訪ねて語り合って、再度の江戸着となったことが綴られている。

江戸に着いてからの近況や、仲間たちの動向を伝えると同時に、「ペリーの浦賀来航」に出会い、浦賀に急行して観察したことや、「米国大統領の親書を栗濱で受け取った」こと肥後にいる宮部鼎蔵に知らせた手紙である。 この「事件」は、松陰の人生にとっては「一大事件」であった。以後、松陰の人生は、動乱の中に身を投げ入れることになる。 平凡な「泰平なる暮らし」は、彼の人生観にとっては、「ありえないこと」であった。『此の時こそ日本刀の切れ味を見せたきものなり』という、意味深長な文言は、何を意味するか。この部分を、『ペリーへの刺客』と解釈して、『下田渡海考』の論文を書いている松陰研究者もいるのである。
後に、久坂玄瑞との往復書簡で、久坂がハリスを鎌倉時代に「元」の使者を殺害した故事にならって、切り捨てるべしという意見への返信として、僕もかつて「ペリー」を切り捨てようとしたことがあったと告白している。この書簡を根拠として、状況証拠のみで、松陰の密航が「ペリー刺殺」を意図したものだったと断定しているのであるが、さてさていかがなものであろうか。


 「大和魂」に象徴される、彼の日本人としての自覚は、この後ますます昇華していく。 日本人としての誇りは、幼時から徐々に培われたものであろうが、至純な松陰の精神は、純化され続けて、己の命以上に「損なってはならぬもの」として認識されていった。この思いや、松陰の人となりが、後年、多くの人々を感化させることへと発展して、遂には、自分の生命以上に、民族の存亡が松陰にとって、一大関心事となってゆく。


『定本版・吉田松陰全集』刊行事情のこと
【2012/07/11 23:13】 エッセイ
『定本版・吉田松陰全集』刊行事情を書写し終えて
志ありせば


菊版13頁に及ぶ、「定本版・吉田松陰全集」の刊行事情である、「山口県教育會・主事」・斉藤さんの文章を丁寧に読むことと、戦前の記述を再現したい念に駆られて、旧漢字のままに苦労しながら書き写してみた。

解かったことは、「全日本」レベルでの総力をあげて編纂刊行されたことで、感動すら覚える。
『定本版・吉田松陰全集』


門下生の品川が、明治皇后からの下賜品を、松陰の兄「民冶」あてに記した書簡を書いたときのような思いに駆られた。まさしく、「地下の松陰も喜んでいるだろう」との思いである。
日本国の独立維持ために、自分の命を投げ出してまで尽くそうとする「愛国者・吉田松陰」松陰の著作は、「皇室」をも動かした。しかも、全集や長崎紀行の「詩」も「皇室」届いている。きわめて、稀なケ-スといえよう。

尊王と、人は軽い気持ちで言うかもしれない。しかし、松陰にとってはそのような軽い次元でのものではなかった。「國體」という概念が持ち出されたのも、松陰をもって「嚆矢」かも知れない。これは、後日、丹念に調べてみたい。
尊攘(弘道館)



『人は、狂頑と譏り、郷党、衆く容れず』と松陰が、自賛画像に「賛」した文言がそれを端的に物語っている。門下生の回顧談でも、「政治向きの話は厳禁、文學のみ」なら松陰先生の塾へ通うことを許可したといっている。
何時の時代でも、先覚者には、こうした「譏」や「偏見」がなされる。我が子が問題児である「松陰先生」の下へ行くのを禁止しようというのは、ある意味で現状維持型の考えであるが、これは、一概に避難できない。
先覚者ならではの『悲哀』であろうか。
松下村塾24.4.25


19世紀中葉という、松陰の青年時代に西欧では「共産党宣言」が出された。世界は、新しく動き出し、はやくもその矛盾をえぐりだした「マルクス」が活躍する時代であった。1848年の此の年、吉田松陰は「独立師範」となって、山鹿流の家學で後見人を解かれた年であった。

今日からすると、「奇異」に感じられるくらい、鎖国の弊害で「遅れをとって」いた日本。
それから、間もなくペリーが来航する。幕府を始め、日本中が大慌てするが、これは実は徳川のエゴにその淵源をもつことを忘れてはならない。

水戸で日本の成り立ちを勉強した松陰は、鎖国が「公法」でなく、たんなる徳川の「私法」であると見抜いたという。だから、海外雄飛への思いはなおさら強いものとなっていたに違いない。ペリーの「黒船」は、松陰にとっては文明や、先進技術のなせるものと映った。

それ故、「下田蹈海」という、他人からみたら暴挙に映る行動も、松陰にとっては、とりたてて異常行動という認識はなかった。西欧に学ぶしかないと感じ取った、「已むに已まれぬ行動」なのであった。
不幸にして、当時は海外渡航への禁止は今日の憲法にも等しい、絶対的ものであった。
松陰蹈海の図24.3.20


今日、「憲法改正」が、異常なまでの困難な手続きを経なければ、実現しないのと同様に、それは、「決死の覚悟」なくして実行し得ない、高いハードルであった。
敢えて、それに挑んだ松陰の心意気に、内心で賛意を思う人々が多いからこそ、現代の「松陰人気」が衰えない理由に違いない。

山口県教育會が、幾多の困難を乗り越えて、「吉田松陰全集」を刊行した意義は、誠に多きと云わねばならない。
刊行事情を読むと、一般読者には見えない困難な大事業であったことがわかる。
本当に、心からなる敬意を表さなければ、近代日本に対する「先覚者としての松陰」の意味は理解できないだろう。
松陰の辞世句


『吾、今 国の為に 死す』こんな言葉を発することが出来る日本人に、どういう讃辞を送ったらよいのであろうか。そうして、この全集完成に賭けた、「山口懸教育會の執念」を大いに称えなければなるまい。
松陰の立志実践教育


それは、その後、今日まで『個人全集』としては、異例ともいえる、通算四回の刊行がなされていることでもわかる。



『定本版・吉田松陰全集』刊行事情⑦ 最終回
【2012/07/07 18:55】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要⑦・最終回

吉田松陰銅像24.3.25



十月八日岩波書店から第一囘(第二巻)を發行した。そこで十三日の拂暁私は之を携帯し、會を代表して萩松陰神社に参拝し、杉相次郎氏の參列を求めて神社に奉納式を執行した。歸途安藤委員を病床に見舞ひ、且つ祭儀の状況を報じ出來上がった本を贈呈した。
同氏は喜びに溢れて两目に涙を浮べ語ることさえ出來なかった。東京松陰神社には廣瀬委員に奉納方を委嘱した。


十月三十日宮内大臣の許可を得て全集を 天皇陛下 皇后陛下 皇太后陛下に獻上を差許されたことは本會の最も光榮として感激措く能はざるところである。
定本吉田松陰全集


十二月八日岩波書店より第二囘配本(第四巻)を發行した。
昭和十年一月十七日、印刷上に關し端なくも又一問題が惹起した。これに就き廣瀬委員と書店との間に互に意見を異にしたが、渡邊監修・委員・書店・本會との間に文書の往復交渉を重ね、遂に一部の文字を伏せ字として印刷することとし、一月二十八日に到り解決を見た。

二月九日岩波書店より第三囘配本(第七巻)を發行した。二十六日、津守馨氏・華房敏麿氏を本會幹事に委嘱した。
二月末上京した私は三月四日吉川會長に隨ひ、吉田茂子氏・徳富蘇峰氏を訪問して全集編纂に關する挨拶を述べ、翌日は徳富氏及び同秘書・渡邊博士・廣瀬委員・吉田茂子氏・岩波茂雄氏を招待して午餐を俱にし種々懇談を遂げた。

三月三十一日第四囘配本(第三巻)が出來上った。
安藤委員の病氣はその後小康を得て居たが容體急變し、病蓐にあること十カ月で遂に白玉樓中の人となられた。私は訃報に接して萩に急行し、會を代表して弔意を表した。十一日の萩公會堂に於ける告別式には山本副會長とわたしとが參列し賻儀及び榊一對竝に玉串料を供へ山本副會長が會長の寵児を代讀された。玖村委員は訃報に接し委員を代表して遠く廣島から來弔せされた。數ある弔辭中何人も松陰全集編纂の功績を稱へざるはなく、靈前には恭しく全集中既刊の三冊が奉獻され參列者何れも感慨無量であった。
五月二十六日第五囘配本(第八巻)、七月二十七日第六囘配本(第五巻)、九月三十日第七囘配本(第六巻)、十一月十八日第八囘配本(第九巻)を發行した。
松陰神社24.6.9


往年萩神松陰社に御下賜遊ばされた故有栖川威仁親王御染筆、「古道照顏色」の御額面はこれを寫真に撮影して第一巻口繪に掲載の希望であったが、渡邊監修の斡旋を煩はし十一月十四日 高松宮家に願ひ出て、十二月四日御許可あらせられ掲載の光榮に浴した。
是より先廣瀬委員は 高松宮家御所藏の松陰文獻謄寫を差許され、宮内省からは御物二點撮影掲載の儀も許可あらせらるる等、この事業に關して數々 帝室及び 高松宮家んも恩惠に浴し奉ったことは、讀者と共に感激措く能はざる所であって本會の最も光榮とする所である。

ついで津守・熊本の两幹事轉任につき、十二月九日幹事を解嘱した。
昭和十一年一月十三日第九囘(第一巻)發行を了り、三月十二日菊地龍道氏を幹事に委嘱した。
至誠 松陰


四月二十日第十囘配本(第十巻)を以て、既往五年に亙る本會の大事業も茲に目出度完成を告げ、多年の宿望を達し得たことを喜ぶと共にこの資料の大成によって、明治維新建設の原動力となった松陰先生の人格・思想・事業を普及に傳へ、百世の後能く國民精神指導の源泉たらしめ得るであろうことを深く信ずるものである。

終りに、全集編纂の退任に當られ、五年の永きに亘って日夜勵精努力を續けられた監修竝に編纂委員及び謄寫校正に當られたる各位に對し、謹んで感謝の誠意を表すると共にこの事業に共鳴して發行を快諾し本會の希望を達成せしめられたる岩波書店に對して深く敬謝する次第である。

特に 帝室を始め奉り、 高松宮家・萩松陰神社・東京吉田家・其他全國各地の資料所藏家が資料寫取を許され、この事業のために特別の便宜と厚意とを寄せられたること、本縣の先輩各位が事業遂行上懇切なる注意と指導を與へられたること、廣瀬委員の夫人敏子女及び出版の係り主任として岩波書店の永野重麿うじが終始多大の力を添へられたることに對し深甚なる謝意を表したい。

吉田松陰自賛画像2012.4.13


以上事務擔當者としての立場から僭越をも顧みず經過の大要を報告する次第である。
山口県24.7.7


昭和十一年四月                山口縣教育會主事齋藤彦一


※長々と七回にわたって、書き写すべく打ち込んだ「經過の大要」が終了した。
両手に相当の負担がかかり、手首、指先等が異常な感覚を覚えるが、通読してみて、「一大決心」の下にこの編纂事業が進められ、幾多の困難を克服して完成したことが大変よく理解出来た。

途中、安藤紀一先生・玖村敏雄先生は不幸に遭遇しながら、担当の責務を全うされた「秘話」も理解出来た。同時に、少なからぬ人事異動のため委嘱者が何度も変わり、「一以て貫く」編纂方針の困難の様子も解かった。「帝室」にまで協力を仰ぎ、完成させた「吉田松陰の精神」が、これを読む現代人にとって、理解される意義は誠に大きいだろう。
岩波書店24.7.7


大変な時間と労力の末の完成であったのだ。山口県教育會の、吉田松陰に寄せる並々ならぬ敬意と執念がありてこそ、第一級の研究者が勢揃いした豪華な編集委員を動員して、これが刊行されたのだ。
歴史に学ぶ


旧漢字や、旧仮名遣いでも根気よく読み続ける必要があると思う。感謝しながら読まないと、本当に失礼になると思わざるを得ない。

長谷川勤22.1.10慶應大学にて


『定本版・吉田松陰全集』刊行事情⑥
【2012/07/07 16:53】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要⑥

吉田家家紋24.3.25


第一囘の原稿(第二巻)を東京に送り出したのは昭和九年三月十八日であった。

四月六日には代議員會を召集して、發行計畫の變更に伴ふ編纂費の更生豫纂壹萬八千圓を可決した。

ところが愈々岩波書店で原稿の一部を印刷に附して印刷能率を測定してみると、略字俗字變體假名等原稿活字にない文字は一々木活字を制作するので意外な手數を要し、特に詩文評の如きは内容非常に繁雑にして添削批評等様々な弧線を使用してその連絡が示してある關係上、現在の印刷技術では到底實行不可能だといふことで、いささか難色を帯びて來たため、私は五月末上京の機會に廣瀬委員や岩波書店について事情を聽取し、さらに渡邊監修を訪問して幾分譲歩の條件を協議した。
松陰岡部本24.4.23


ついで第二囘(第四巻)・第三回(第七巻)の原稿を廻附するに及んで、印刷上の難點が遂に問題化するに至ったので、私は重ねて上京を決意し再三交渉をなしつゝあったところ、六月二十九日に至って廣瀬委員は岩波茂雄氏を同道して來山せられ、本會幹部打揃って會談した結果、双方の事情が判明して圓滿解決を見るに至った。

玖村委員の母堂二豎に冒され八月三十一日を以て遂に不歸の客となられたことは、同氏にとりこの上もなき打撃だあったにもかゝはらず、屈せず撓まず終に今日あるを致されたことに對しては深く感謝せざるを得ないのである。母堂を病蓐に省みられることも、編纂事務のために或は意の如くならなかったであらうし、全集が完成した今日その喜びを共にせらるゝ母堂のこの世に在さぬことは定めし心殘りのすることでもあらう。
玖村委員母堂の不幸によりまだ悲しみの涙乾かぬ九月六日には、安藤委員が突然の發病で主治醫から絶對安靜を申し渡され、同擔任の校正が全然出來喑なった。しかしこの時已に同氏分擔の原稿が全部纏まってゐたことは、せめてもの仕合せであった。
松下村塾24.4.25


氏は齡既に古希に達し且つ體質も餘り強健といふ程でなかったから、豫後は少からず憂慮された。資性謹巌の上に責任感が非常に強い人であったから、委員となられて以來日夜心身の過勞は一通りでなかったっと思はれる。

安藤委員の殘務は玖村委員の紹介斡旋によって、廣島高等師範學校教授西川平吉氏に交渉して編纂助手たるの快諾を得た。
これより先岩波書店では普く全國に全集出版のことを發表してその豫約募集につとめてゐたが、本會に於ても九月十九日書店よりの豫約募集廣告を各府縣教育會機關雑誌に掲載方を依し、且つ内容見本を各方面に配布した。

松蔭大学②24.4.22


内容見本に明治神宮宮司海軍大将有馬良橘氏・廣島文理科大學教授文學博士西晋一郎氏・國民精神文化研究所所員文學博士紀平正美氏から、懇篤な推奨文を寄せられたことは深く敬謝の意を表する次第である。

次回で最終回です

『定本版・吉田松陰全集』刊行事情⑤
【2012/07/07 12:31】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要⑤

委員の資料採訪記の概要は全集月報に掲載されているが、採訪は大體昭和七年頃から開始された。
萩市24.7.7


即ち概ね委員在住の地域を中心として安藤委員は萩地方を、玖村委員は萩以外の山口縣下及び中國・四國・九州を、廣瀬委員は京阪井東分擔された。
採訪に當たりては前述の如く大部分は豫め照會し了解を得て委員が出張したのであるが、時には次から次へと聞くがまゝに訪問せられた向も少くなかった。
山口県24.7.7


資料の多い処には訪問數十囘を重ね前後七八カ月に亙ったものもあって、委員の煩勞はもとより、所有者側の迷惑をかけたこと一方ならぬものがあった。殊に萩松陰神社の資料閲覧は神社維持會の規定によって同會理事二名の立會を要するから、謄寫校合に長年月を要し維持會理事に煩勞をかけたこと實に多大なものがあった。
萩・松陰神社24.7.7


全集の刊行は當初本會の直營として約二千部ばけを印刷する豫定で編纂印刷費六千餘圓の經費を計上し、代議員會の決議を經たが不朽の難易配給の繁雑等を慮った結果、これを中央の書肆に一任するっことゝし、十月六日私から出版界の王座にある東京岩波書店に交渉を試み、十一月上京の機會に親しく店主岩波重雄氏に面會して詳しく事情を説明したところ、同氏が松陰先生の敬仰者であった關係から快くその出版を消毒せられ、歸來細節について數囘交渉を重ねて、昭和九年二月七日出版に關する契約を締結し、本會は編纂竝後世に關する一切の責任と費用を負擔し、書店は出版發賣に關する全責任とこれが費用の一切を負擔することその他を規定し、尚編纂出版を遅滞なからしむるための原稿の受授及び期日を定めて覚書を交換した。
岩波書店24.7.7


當初の考では菊版六百頁内外のもので五巻で完結の見込であったが、その後續々新發見の資料も加はって全部六千餘頁の多きに上ることゝなったがため、岩波書店は格別の犠牲を拂って購讀者の便利をはかり、菊版拾感の分冊とし價格も出來るだけ低廉を旨とすることゝなり、本會でも當初の目的達成の點から滿足した。

校正は専任の校正者以外に各委員に於ても數囘行ひ、少くとも普通は五校、必要に應じてそれ以上も取ることゝした。そして最後に監修の校閲を經る順序であった。而して印刷に關する監督を専ら廣瀬委員に於て擔當して頂いたことは本會として誠に感謝する次第である。
下田の吉田松陰24.3.25
弁天島24.6.9


本會が委嘱した専任の校正者は當初は荻原淺男氏で、後専ら岡不可止氏であった。廣瀬委員夫人敏子女史及び岩波書店の鈴木三郎氏も亦多大の援助を寄せられた。編纂方針が原書主義で略字俗字假名を原書の通りに載せる趣旨であったから、非常に煩雑で校正者の苦勞が實に容易ならぬものがあった。

昭和八年十一月二十六日、中山春雄氏副會長に當選しその就任を得た。
次回へ



『定本版・吉田松陰全集』刊行事情④
【2012/07/07 00:38】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要④

本事業のやゝその緒に就かんとするに當たって更に一つの難關に遭遇した。

それは本會に於ける全集發行の企畫以外に個人で同様の計畫のあったことである。本會の計畫がやゝ具體化するにつれて、先方の計畫が漸次發行され、同時に同所に同一の事業を两者相對立して計畫するやうな形となった。
松陰岡部本24.4.23


これは啻に經濟上の不利のみならず時間勞力の點についても誠に無益なことであり、もし出版を急ぎ杜撰なものを世に出すことゝなれば獨り本縣の名折れとなるばかりでなく後世を誤ることにもなり、このまゝ推移すれば世間の疑惑を招き資料蒐集上にも支障少からず、勢いの趨くところ遂に紛争を醸し、ひいては神徳を汚し奉らんも圖られず、或は幹事會に或は代議員會に事情を悉してこれが對策について冷静な判斷を求めたが、歸するところは本會の計畫はもともと全く營利を離れ、眞に世のため教育のため先生の精神を永劫に不滅ならんとしての事業で、その間何等不純の考はないのであるからいさゝかも躊躇逡巡を要しない、教育會は資料蒐集の上にも最も便利の地位にあるから到底他の追隨を許さない、吾々は是非教育會に於て完全な全集の發行を實現したい、たとひ完成は遅くなっても費用は多少嵩んでも完璧を期して貰いたい、しかし出來得るならば先方の諒解を求めて本會の趣旨の下に之を統一することにして欲しいが、萬一諒解が出來なければ二者別々に發行するも已むを得ないといふのであった。
定本吉田松陰全集



會としても成るべく圓滿に解決したいと考へて、私が幾度か交渉を重ねたが、先方にもまた先方の主張があって容易に妥協を見るに至らなかったん。當時の山口高等學校長岩田博藏氏も全集事業の性質上、第三者として事業の圓滿なる進行について斡旋せられたことは深く感謝しなければならない。


本件に關しては先輩諸賢竝に吉田家等にもいろいろと心を煩はし、且つ懇切なる援助を賜はったことを感謝するものである。かくて幾囘かの交渉によって、先方も大乗的見地からその主張を放擲し、事業は擧てこれを本會に合一することとなり、謄寫物は全部これを本會に提供せられた為め本會も亦相當の代償を以てこれに報謝し、約一年に亙って錯綜顚綿せる問題も九月二十十九日を以て圓滿解決を告ぐるに至った。
十月四日本縣知事に關し縣費五千圓宛二ヵ年間補助の申請書を提出したところ、年額百圓宛二ヵ年間補助せられることゝなった。


 ついで三編纂委員の下に夫々助手を配属した。廣瀬委員の下には溝部幸雄氏、安藤委員の下には池上岩太郎氏、玖村委員の下には岡不可止氏を廃して筆寫の事務を嘱した。
玖村敏雄吉田松陰


昭和八年二月十三日代議員會を開催し、松陰全集刊行費起債及び償還方法と編纂竝に刊行費五萬六千貮十六圓の豫算を可決した。
同四月には幹事武智啓次郎氏、五月には副會長白石喜太郎氏・幹事原田一二氏が夫々轉任し、六月には靈田壽雄氏・田中眞治氏に幹事を委嘱した。
 

その後八月十一日から三日間、渡邊監修編纂委員及び私は萩松陰神社記念館に參集し、資料の分類、轉寫の分擔、資料の調査採訪區域の擔當等編纂上の打合せを行った。


資料は三委員とも今囘編纂の新方針に基いて、既刊文獻の誤謬を正し、未刊文獻は成るべく廣く探査發見に努め、且つ總て悉く編纂委員が原書にちういて調査しその眞偽を判定した上で寫し取ることとなったから、従前の謄寫物や他で寫し取って貰ったような材料では、そのまゝ原稿に採録する譯には行かない。隨ってこの間に於ける委員の勞苦は一通りのことではなかった。

『定本版・吉田松陰全集』刊行事情③
【2012/07/06 18:42】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要③

六月十六日私は世田谷松陰神社の詣でついで村田峰次郎氏を訪問した。


氏も亦懇ろに注意せらるるところがあった。翌日は神社局長石田馨氏・會計檢査院長湯淺倉平氏及び上山滿之進氏を訪ね、夫々懇切な注意を受けた。
松陰神社24.3.25


七月七日監修竝に編纂委員に公文書を發して、正式承諾囘答を求め、編纂方針の立案を玖村教授に依した。
かくて七月十日には本會長に海軍中将吉川安平氏の就任を見るに至り、本會の事業は頓に活氣を呈して來た。そこで編纂事業進展の第一歩として七月十四日に資料所有者に原本閲覧竝に筆寫等に就いての承諾方依頼状を發した。
松陰神社24.6.9


是より先安藤氏は編纂委員を承諾されてからはその責任の大きさを感ぜられ、京都に居ては萩地方の資料調査寫取等頗る不便であるところから、七月十二日に単身郷里萩に歸り、居を松陰神社の前に移し毎日神社寶庫に入って資料の筆寫校合の當られ、又市内に秘藏せる資料に就いても閲覧蒐集に努められた。その後故あって萩市土原なる赤川氏の宅に移られた。

七月十九日に全國公私立大學・専門學校・師範學校・圖書館及び各府縣教育會に、書面を以て全集發行の計畫を發表した。
同月末には幹事山本昇氏副会長に當選せられ、熊本隆治氏を感じに委嘱した。


その後八月十二日には玖村委員來山せられしを以て、翌十三日萩に歸省中の監修渡邊博士を教育會館に向へ、玖村委員・岡田知事・白石副會長・武智幹事參集して全集編纂上に關する意見を交換した。
『定本版・吉田松陰全集』


八月十七日から三日間、萩市で縣設松陰研究講習會が開催された。その講師は廣瀬・玖村の两委員であった。そこで十八日黎明を期して、松陰神社で本會主催の先生慰靈祭を執行し、吉川會長祝詞を奏上し全集編纂のことを奉告した。會員一同參拝し森巌な靈氣に打たれた。


八月二十日三委員に、私も加はって萩市に編纂委員會を開催した。私はその際に松陰神社の關係者として杉相次郎氏・信國顯治氏・國重政明亮氏・土井幸槌氏を訪問し、全集刊行について諒解を求めた。


資料の所在は豫て各委員の調査以外、先生の縁故先・本縣の先輩名士・防長史家・書畫骨董愛藏家等について、聞くに従って名簿を調製し、又遺墨天覧會出品目録などをも參考して漸次判明し來たったが、尚遺漏なきを期すため、九月九日縣内各學校・各圖書館をはじめ、各府縣廳教育會に向って、先生の遺著遺文はもとより門弟との往復文書等關係文獻所有者の調査を乞ひ、同時に新聞や府縣廳教育會雑誌のも右の趣旨徹底方を依頼した。

九月十六日全集編纂方針竝に資料所在調査簿を監修・編纂委員に送付し、ついで編纂委員費用支拂規定を制定して三委員に配布した。
松陰「身はたとひ」24.3.30


ここに規程の制定に際し特記して感謝の意を表したいのは、各委員ともこの事業計畫の根本精神に鑑みられ、助手の報酬は別として資料の採訪・通信・交通・寫真撮影等、凡て實費を支瓣するに止り一切無報酬にてこの難事業に當らんことを以てせられたる一事である。微力なる本會が敢てこの大事業を實現し得たことは實に編纂委員諸氏の高潔清廉にして犠牲奉仕の精神に燃えられた賜物であることを、讀者と共に深く感謝する所である。

24年度前期レポートと「特別講師」のこと
【2012/07/06 13:22】 エッセイ
『松陰』と「中井さん」のレポート、「菊池講師」

今期は、レポート課題として、
レポート作成中の学生風景24.7.6


①『士規七則』、『松下村塾記』から読み取れる吉田松陰の人間観、学問観を読み取れるだけ記述せよ。
②[中井政嗣さんの著書の読後感]を自由に記述せよ。の課題でレポート提出を求めている。
志ありせば


私の願いは、松陰精神、または人間としてどう生きるかを、学生に決意させることを期待している。そして、提出者には全員甘い採点で、『やる気』をひきださせれば、初期の目標は到達で、達意の文章やレベルは不問にする。一応、採点はするが、特別な出席率の悪い学生、授業態度の悪い学生を除いて全員単位を出そうと思っている。

『吉田松陰論』の授業が、『松下村塾』の現代版的な雰囲気で共に勉強出来ればよい。
「松蔭大学」という地方大学で、高いレベルを求めても無理だろう。
其れよりも『人間教育』に主眼をおいて、励ましてやり、学生自身に自分の人生を切り開く努力なり、人生態度を涵養することの方が大切である。
松陰の立志実践教育


5月31日に、全員に「レポート課題」を配布した。提出期限を7月12日としたが、先日の5日、1年生の高橋君が提出第一号となった。
真剣に取り組んだ姿勢が、文章から読み取れる。赤ペンで目いっぱいコメントを書き込んで、力を極めて激励と、「良い、よし」とのコメントを沢山書いた。同時に、人生を激励するコメントを真っ赤になるほど書き込んだ。

来週、全員の前で、大いに褒めてコメントを説明しながら返却してやろう。
それが、他の学生に良い影響を与えるきっかけとして、多少の演出であっても教育効果は大きいだろう。
エクセルで一覧表を作って、中井さんに反響をお知らせしてみよう。

今日は、第一囘めだが、中井さんと岩瀬さんに情報の第一便をメールした。関西の某大学では、「ゼミ」の教材に取り上げたという。それを模するわけではないが、人間教育という観点からは大いに意義あると思う。
中井政嗣さん24.7.6


来週12日が提出期限で、沢山の提出があるだろう。一仕事になりそうである。「山本五十六」の精神で、やってみよう。
学生が、前向きらレポートを出してくれることを楽しみにしている。

昨日の7月5日、「特別講師」として菊池さんにやってもらった。初体験で内心は大変だったろうが、よどみなく「近現代史の起点となった吉田松陰」を語ってくれた。
講義風景24.7.6


厚木で、二人で祝杯を兼ねて一献。精魂込めて「60分」の講義を初体験は、疲労が相当だったようだ。

終了後は、大変体がだるかったとのことだが、達成感はきっとあじわえたものと思う。余程の機縁に恵まれないと、大学の教壇に立つ機会はないし、まして34歳の若さで、立派にやり遂げてくれたことを素直に称えたい。

自分の7年前の初体験を思い出す。「大学の講義はこれほど大変」との彼の感想だったが、人生の記念碑として良い思い出になるに違いない。今後、沢山の松陰の著作を添付で送信を約束。勉強意欲旺盛だから、きっと大成するに違いない。

何よりも、人間が非常に素直である。人間性を形つくっていくものは、沢山の要素や条件、体験、素質、性格等々が織りなして形成されていくが、一緒に勉強していく楽しみもある。
協同研究の成果が、もしかしたら思わぬところで上がるかも知れない。

昨日、今日と誠に楽しい。わずか1か月前にブログリンクの申出を受けてから、矢継ぎ早に行動し、遂に教壇にまで立ってもらった。昨日は、学生諸君の「拍手」がひときわ大きく、しばし鳴り止まなかった、学生諸君は、若い講師の姿に感動したに違いない。

聡明な人柄だけに、精進すれば大いに成果が上がるに違いない。
今日は、第一便として、高杉と入江への「送序文」を送信した。
今後も、参考になる著作の数々を送信して、ともに勉強して、「日本の為に」ささやかな貢献を試み続けていきたいと念願している。


『死を超越した松陰先生』
【2012/07/04 22:36】 エッセイ
「死後にも果たせる親孝行」

最近、ある思いがあって『定本版・吉田松陰全集』の編纂経過大要を読み,書写しました。
松陰が常日頃からの思いを、愛弟子の高杉晋作に「獄中からの書簡」で、かねてからの質問に答えた内容が「吉田松陰全集」に収載されています。
吉田松陰とその門下24.3.25


この書簡は「安政六年七月中旬」に書かれた愛弟子の高杉に充てて書かれた。抄録します。
「小生去冬十二月二十五日投獄已来、大分學問進み候覺え候・・・・・・小生死して遺憾なき所全く此の二冊にあり。」

約して云はば『死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便ち是れ死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり・・・・・・』

そうして、魂を揺さぶる言語は続く。『死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし』。

『禍敗の後、人を謝し學を修め一箇恬退の人となり給はば、十年の後必ず大忠を立つるの日あらん。極々不幸にても一不朽人となるべし。・・・・・・暢夫と謀り十年計りも名望を養へと申し置き候』

此れを受け取って読んだ、高杉は号泣したに違いない。人間の持つ感化力は、「至誠」の精神から出て来るのかも知れない。

高杉が、松陰の死後、俗説に耳を貸さず、真一文字に己の信じるところを突き進んだのは、恐らく「獄中からの師の教え」を、全身で感じたからに違いない。自らの「死生観を語り」言行一致で、従容として刑場に臨んだといわれる。「愛弟子達に死んでみせる」、これ以上の教育があろうか。最高の教育と称えられる所以である。しかも、その成果は、「維新の先覚者」と位置付けられ、「日本近現代史の起点となった吉田松陰」として、礼賛者はもとより、研究書の刊行が絶え間なく続いている。 松陰は本当に「死に際までの教師」であった。
高杉晋作24.3.25


これを理解したうえで、『留魂録』を読むと、一層迫真的な意味が伝わってくる。この延長線上に「吾今國の為に死す」との辞世の句の意味が、一層重みを増してくる。

自分の命より「日本國家が大事」という、松陰精神を理解して実践できる人物はまずいないだろう。政治家に読ませてあげたい。エゴイズムの最たる者が今の政治家だ。
「國の為に死ぬ覚悟」があるか。問いたい。更に、松陰は金銭に執着しない人であった。それゆえに、入牢して金銭の要求をされると、正直に弟子たちに融通を頼んでいる。

こんな人物は、今の時代にはいない。試みに吉川弘文館の「人物叢書」の「井伊直弼」(吉田常吉著)を読んで見るが良い。井伊も名君なのだ。先君の悪政をことごとく改革し、世嗣となって、藩主になるまでの苦悩が書かれている。著者は、敗戦と共に英断を以て「井伊家史料」の公開に巡り合い、その研究に勤しんだ研究者である。
歴史はどうしてこれほどに残酷なのだろう?と、考え込んでしまう。

「史観」は、現代人を『薩長史観』で殆どの書物が書き、マインドコントロールされた書き方に殆ど疑問を抱かないように、当然の事実の如く書かれている。かくいう私もその恩恵??を蒙った一人である。

歴史の事実、眞實を突き止めることの難しさよ! 苦悩は、果てしなく続くのである。

昭和九年、『定本版・吉田松陰全集』が「山口県教育会」の発案を受けて「岩波書店」から刊行された。この「編纂発行の経緯大要」が詳細につづられている。
吉田松陰の母


定本版『吉田松陰全集』刊行がなった暁に「皇室」に届けられたと書かれている。吉田松陰の「尊王」の功は、明治22年に明治皇后からの下賜品を母の「たき」が受け取ったのである。

この「下賜品」を代理で受け取り、萩市の松陰の兄に届ける書簡が松陰全集に収載されている。
品川彌二郎像2012.3.28


「この人物が品川彌二郎・内務大臣」である。感極まって、涙ながらに書き綴った書簡は、もらい泣きしそうな思いで読むに違いない。「下賜品を受け取り、両手をついたまま、感激の涙が止まらず、しばし感涙にむせび、彌二が心事お察しくだされ候」と書き綴られている。おそらく、これを受け取って読んだ兄の杉民冶(梅太郎)や母の「たき」も同様な思いであったに違いない。

「たき」は、孫たちに「松陰叔父のようになりなさい!」と語ったといわれる。死して不朽は、さらに発展して、「死して親孝行」をしたことになる。この下賜品を頂いた翌年、「たき」は、波乱に富んだ生涯を閉じている。

吉田松陰の「至誠」は、死して後も親孝行となったエピソードの一端である。


『定本版・吉田松陰全集』刊行事情②
【2012/07/02 17:00】 エッセイ
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要②

玖村教授は囊(さき)に私から編纂上に就いて意見を求めた際、同氏年來の希望が郷土の教育會によって實現される機運に到達したことを喜び白熱的の賛意を表し、この事業は實に國家的にして且つ永劫性のものである、重大な決心と準備とを整へ、邦家のため完全なものを後世に遺されたい、自分は全力を擧げて犬馬の労に服するを辞さないと大いに激勵を加へたくらいであるから、計畫行悩みの報に接しては殘懷遣る方なく、急遽上京して先づ吉田家に於て廣瀬豐氏と會し、ついで本縣出身の先輩湯淺倉平氏・粟谷謙氏・渡邊世祐氏・野村益三氏・入江貫一氏・藤本萬治氏などを歴訪し、計畫の現況を説明して後援を求め事業更生に百方斡旋せらるゝところがあった。
吉田松陰画像2012.3.30


然るに清水谷會長竝に島田・末宗両幹事轉任のため、本會幹部に少なからぬ異動を生じた。私は一般の要望と吉田家の期待とを力説して副會長白石喜太郎氏の決心を促したところ、副會長は四月九日に遂に決心の臍(ほぞ)を固め、來たるべき代議員會に諮ってその賛否を確むることとせられ、かくて四月二十三日代議員會を招集し、その賛否を求めたところ全會一致の協賛を得て直ちに準備金の支出を可決した。よって五月一日本會から吉田家に對し正式の諒解を求めた。
時恰も會長の選擧に際し、事情紛糾してその決定を見ざること實に三ヶ月の長きに及び、本事業の進捗上少なからぬ障碍を見た。五月三日には缺員幹事の補充を行ひ、新に山本昇氏・原田一二氏・岩崎卓一氏を委嘱し、二十一日玖村教授の來會を煩はして、本會館に於て幹部參集し事業方針の大綱を定め、編纂委員には松陰研究の権威者たる安藤紀一氏・廣瀬豐氏・玖村敏雄氏を嘱し、監修には徳富猪一郎氏・文學博士渡邊世祐氏を戴くこととした。
至誠 松陰


ついで玖村教授の指導によって、編纂方針の原案を作成し、私はこれを携へて六月四日上京の途についた。途中玖村教授を廣島に訪ひ、翌日京都に退隠せる安藤氏を訪問して親しく意見を叩き、且つ編纂委員たるの内諾を求めた。東京に着しては先づ吉田家を訪問して諒解を得、渡邊博士を訪ねて事業計畫の大要を述べ、且つ監修たらんことを懇請した。博士は快諾を與へられたが、自分は従來から名義ばかりの監修ならば引受けないことにしてゐるから原稿は必ず見せて貰ひたいと折角當方の切望する條件を、博士から先んぜられて大いに喜び種々懇切な指導を受けて辞去した。

ついで六月十日市外保谷村に海軍大佐廣瀬豊氏を訪問して、本會の計畫を述べ編纂委員としての承諾を求めたところ、自分は福島縣人であるが、かかる仕事に従事するには防長先輩の諒解を必要と認める、萬一その諒解がなければ資料の閲覧謄寫において支障を生ずる場合がないとも限らない、幸に余を紹介して諒解を得る見込みあらば喜んでその需めに應ずべしとのことであった。
吉田家家紋24.3.25


そこで私は再會を約して辞去し、都野知若氏・圖書監修官藤本萬治氏・府立第六中學校長阿部宗孝氏・子爵野村益三氏・毛利家史料編纂所員妻木忠太氏・富田武一氏・末村吟藏氏等を訪問して諒解を求め種種有益な教示を受けた。かくて十三日再び保谷村に廣瀬豐を訪問して先輩の諒解を得るの見込みを報じ、本會調査の原案と廣瀬氏の調査案を參酌し、出版業者の意見を徴して出版経費の概算を立てた。
楫取素彦24.4.24


翌十四日には楫取三郎氏を訪ねて賛助を求め午後江木千之氏を訪問した。氏は病中にも拘らず、快く引見せられて懇切に教示せられた。氏は全集の發行はもとより可なり、敢て異議は挟まないが資料の半は漢文であって、讀解が困難であるから果して普及するであらうか、購入者は或は圖書館位に止まりはせぬか、又先生を長州のものの如く取り扱ふことは先生を小さくするものである、編纂委員が何縣人であらうとも、そんなことは問題ではないと極めて公正な意見を披瀝せられ、その上需めに應じて一書を認め、私を徳富蘇峰氏に紹介せられた。
徳富蘇峰の写真


ついで私は徳富氏を訪問して事業企畫の大要を語り、その意見を叩き且つ監修たるの内諾を求めた。氏は全集發行の企ては極めて結構である、是非完成して貰ひたい、この事業は教育會として最も相應しいから資料の散逸しない内に何を差置いても實行されたい、資料は一日遅るれば一日だけなくなる、先生は山口縣人に於てよりも却って他府縣人によって研究されてゐる情況である、先生の書かれたものはいかに斷簡零墨と雖も、後世に於ては頗る貴重な資料となるから成るべく悉く掲載して頂きたい、抄録の如きもその實先生の見識によって成されたもので、同じ書を讀んでも人によって見方が違ふ譯だから、一種の著書と見ても差支ない、紙數の許す限り載せらるることを希望する、山口縣から偉人が澤山輩出したが、先生は實にその師匠であるからその事蹟は是非これを後世に遺さなくてはならぬ、お示しの編纂方針大綱はこれで結構だと思ふ、渡邊博士が既に御參加になるならば私も喜んでおつき合ひ致すとのことであった。 次回へ

『定本版・吉田松陰全集』刊行事情①
【2012/07/02 16:59】 エッセイ
 
「吉田松陰全集」編纂発行の経過大要①

これは、「定本版・吉田松陰全集」刊行の苦労談、経緯等々の貴重な編纂にまつわる、「秘話」等が記されたものを紹介したいための」記事です。
長文ですので、七回に分割して掲載いたします。
今回は第一回として①との記号を賦して書きます。
原文は、菊版13頁にわたります。

これを掲載することは、「吉田松陰研究者」への多大なる便宜を供するとの確信にて敢えて再録致します。
定本吉田松陰全集


吉田松陰全集編纂発行の希望をはじめて本會の議に上したのは、昭和六年九月五日に開かれた幹事會の席上であった。その席で近時松陰先生の研究は漸く旺んで、先生に私淑せんとする者の日に増し多くなることは、現下社會の情勢に鑑みて誠に喜ぶべき現象であるが、何分にも先生の殉節後既に七十餘を経過してゐて、既刊の著述は曾孫庫三氏編纂の「松陰先生遺著」をはじめいづれも絶版となり、容易に手に入れることが出來ないばかりか、未刊のもので、尚ほ幾多の貴重な資料がある。
吉田松陰自賛画像2012.4.13


これ等の文献を蒐集整理して後昆に傅へることは、吾々の義務であって、且つ又國民精神涵養の上にも極めて喫緊のことと信ずるから、資料の散逸せざる今日本會に於て全集の編纂発行を計畫し、先生の人格思想業績等を千載に傅へることとしては如何と私から提案した。當日出席の幹事島田民治氏・武智啓次郎氏・水沼正一氏・弘中傅人氏・末宗殷門氏はいづれも異口同音に賛意を表し、中にも島田氏は特に熱心にその必要を強調し實現の一日も速からんことを切望された。
松陰岡部本24.4.23


そこで私は事業計畫の準備として、松陰研究に造詣深き廣島高等師範校教授玖村敏雄氏をはじめ、萩市の安藤紀一氏・居田泰輔氏・香川敬一氏・藤本瀧江氏に編纂発行についての意見を求めたところ、熱烈なる賛同と懇切なる注意とを寄せられて益々意を強くするに至った。因って十一月には、本會機関誌「山口縣教育」を松陰研究特輯號として発行し、大いに先生の研究を鼓吹した。

全集編纂の計畫に就いては爾来幹部で屢々協議を重ねて見たが、當時本會は教育會館建築費の負債を有し、向後四ヵ年間は毎年経常費を節約して償却の資に充てなければならない情勢にあったため、この事業が會として極めて有意義であることは認めながらも聊かその實現を危ぶまれた。
歴史に学ぶ


ついで昭和七年二月十三日に幹部参集してこの問題に就いて更に討究したが、會長清水谷徹氏は事業の性質としては極めて結構で別に異議はないが、経済上について種々困難が伴ふからこれを見合はせ、手近い事業に力を入れることが本畫としてはむしろ適當ではあるまいかとの意見であった。しかしこれは早晩本會が實行すべき性質の事業でであるから、先づ主事から非公式にでも、吉田家に對し本會に全集編纂の希望を有する旨を通じ、豫め諒解と援助とを求めて置くべきであるとの意見もあって、早速私からその意を通ずるとともに、玖村教授に對してこの成り行きを通知した。続く。





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