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『東行前日記』 連載⑧
【2012/08/28 14:39】 エッセイ
『東行前日記』 ⑧


二十二日(安政六年五月)
松陰正装画像

増野無咎に留別す

吾嘗抄奉使    吾れ嘗て奉使を抄し、
宋明極其選    宋・明その選を極む。 
就中最所欽    就中最も欽ふところは(したう)
富弼及楊善    富弼と楊善。(ふひつ)、(ようぜん)
存心常在君    心を存する常に君にあり、
匪躬自蹇々    匪躬自ら蹇々たり。(ひきゅう)、(けんけん)
往向虜廷説    往いて虜廷に向って説く、(りょてい)
利害為分辯    利害のために分辯す。
言皆發至誠    言皆至誠より發す、
何唯縦横辯    何ぞ唯だ縦横の辯のみならんや。
非是色莊者    是れ色莊者に非ず(しょくそうしゃ)、
眞心見実踐    眞心、実踐に見る。(あらわる))
上皇正蒙塵    上皇まさに蒙塵し、(もうじん)
正賀雙涙泫    正賀、雙涙泫たり。(そうるいげん)
國難方蠭午    國難まさに蠭午し、(ほうご)
家事渾放遣    家事すべて放ち遣る。
今我檻輿行    今我が檻輿の行、(かんよ)
臨難寧苟免    難に臨んで寧んぞ苟も免かれんや。(いやしくこ)
増生愛我深    増生我れを愛すること深く、
驪歌情綣々    驪歌の情綣々たり。(りか)、(けんけん)
起念及昔賢    念ひを起して昔賢におよべば、
吾心乃慙捵    吾が心乃ち慙捵す。(ざんてん)

【用語】
増野無咎 = 増野徳民。松下村塾の最初の寄宿生。
奉使を抄し = 國家の命を奉じて外国に使いし、外交の衝にあたること。松陰は安政三年頃に『宋元明鑑杞抄』の一書をつくった。
その選を極む = 人選に慎重を極めた。
富弼 = 宋の仁宗の時、さいど契丹に使いして、極力兩度の割譲を拒んだ。晩年王安石
     と合わず、奸を辞した。其の名は諸外国の轟き、忠義の心は老いても篤かった。

楊善 = 明の成祖の挙兵に功あり景帝の時オイラート(部族名)の部長エッセンに使いして上皇英宗を迎えて帰った。
匪躬自ら蹇々たり = 一身の利害を顧みず君主につくした。
虜廷 = 異民族の朝廷。
縦横の辯 = 春秋戦国時代に、蘇秦・張儀が各国に遊説して合従連衡の弁をふるったが、そのような政客の徒の辯舌をいう。
色莊者 = 表面だけ君子を装っている者。『論語』先進篇第二十章にでている。
上皇まさに蒙塵し、正賀、雙涙泫たり = 明の英宗。エッセンに虜にされて北方に監禁されていた。この時、和議が成立して群臣が正月の雅誓を述べても、楊善は上皇が他国に在るのを思って泣いた。蒙塵は天子が難を避けて都をのがれること。
蠭午し = 蠭は蜂に同じ。『漢書』の劉向傅に『蜂午並び起る』とある。事が一斉に群がり起ること。蜂起。
檻輿 = 罪人護送用の駕籠に乗せられて江戸へおくられることをいう。
増生 = 増野徳民。
驪歌情 = 宋別の歌。昔驪(りく)という誌編があり、客を送る時に歌ったという。
綣々たり = まつわって離れず情の厚いさま。
慙捵す = 深く恥じ入ること。
野山獄24.3.23


従兄弟毅甫に留別す
嗟我狂悖士    嗟、我れは狂悖の士、(きょうはい)
檻車送關東    檻車もて關東に送らる。(かんしゃ)
既貽父母憂    既に父母の憂ひを貽し、(のこし)
於國未為忠    國に未だ忠を為さず。
勤儉我毅甫    勤儉の我が毅甫、(きほ)
幸不墜家風    幸はくは家風を墜さず、
讀書撃劍外    讀書撃劍の外
致力畎畝中    力を畎畝の中に致せ。(けんぽ)
世事易變換    世事變換し易し、
括目待阿蒙    括目して阿蒙を待たん。(あもう)
訣別無限恨    訣別限りなきの恨、
梅天晝濛々    梅天晝濛々たり。(もうもう)

【用語】
毅甫 = 玉木彦介。松陰の叔父玉木文之進の嫡男。
狂悖の士 = 気ちがいじみて道義に悖ったひと。
檻車 = ここでは、罪人護送用の駕籠を言う。
國に未だ忠 = ここでは長州に忠という意。
力を畎畝の中に致せ = 田畑の耕作にもはげめ。
括目して阿蒙を待たん = 三国時代、呉の呂蒙が初めて學に就いて勉励した時、魯粛という者が蒙に「大弟は武略のみと思ひしに、今は学識英博、復た呉したの舊阿蒙に非ず」といったところ、蒙が「士別れて三日なれば即ち当に刮目して待つべし」と言ったことによる。目をこすって注意して見ることから、人の学業が著しく進むのを待ち望むことを言う。
梅天晝濛々たり = 梅雨空のもと、昼でありながら、ぼうっとして薄暗いことである。

安政の大獄


   ○
家大兄に留別す。大兄十四日の事聞えてより日として獄に來り相勵まさざるはなし。或は夜分乃知去る、言私(事)に及ぶもの少なし
杉梅太郎


囚窓客去夜沈々    囚窓客去って夜沈々、(しゅうそう)
無限悲愁又復侵    無限悲愁またまた侵る。(せまる)
萬里重傷父母志    萬里重ねて傷む父母の志、(いたむ)
卅年無益邦家心    卅年益なし邦家の心。(ほうか)
狂頑弟尚為豪語    狂頑の弟なほ豪語を為し、(きょうがん)
友愛兄強助放唫    友愛の兄強ひて放唫を助く。(ほうぎん)
情至鶺鴒難説得    情は鶺鴒に至り説き得がたく、
棣花落盡緑陰深    棣花落ち盡して緑陰深し。(ていか)、

【用語】
家大兄 = 松陰の兄、梅太郎。
沈々 = 夜が更けていくさま。
萬里重ねて傷む父母の志 = 遠い江戸への道程であるので、父母の気持ちを思うと心が痛む。
邦家の心 = 國家の安泰を思う心。
狂頑 = 気ちがいじみており、心が頑ななこと。
放唫 = 声を張り上げて歌うこと。ここでは、國家の危局に際し、松陰が尊王攘夷の大義を人々に訴えることをいう。
情は鶺鴒に至り説き得がたく = 鶺鴒は飛ぶとき波状を為して、常に尾っを上下して火急の情があるので、気球困難の喩えにひく。私の気持ちはこの急難に際して詳しく説明し難いの意。『詩経』の少雅・常棣の篇に「鶺鴒原に在り、兄弟急難あり」とある。
棣花 = 庭桜の花。『詩経』の少雅・常棣の篇に「常棣の華、卾として韡々たらざらん」とあり、前句と共に兄弟の情愛裏に含めている。

※松陰の「東行出発」が迫っているのにもかかわらず、愛弟子や従兄弟、そして兄の梅太郎に決別の漢詩を贈っている。漢詩は、文字数に対して、含意がとても深く作者の心がこもっている。
出発予定が、明後日であることから、親族に宛てて書かれ始めてている。

門下生や従兄弟には激励を、兄には毎日松陰を励ましに来る事に、感謝やお詫びに近い感傷的な文言も並ぶ。

だが、こうして全集筆写を丁寧にしてみると、行間に漂う誠実な松陰像が読み取れる。至誠を座右の銘に舌と言われる、松陰の人となりが鮮明になってくる。次回は、父親への訣別の詩である。
吉田松陰に「幕府から召喚命令」がでた経緯は、上記の「安政の大獄」の本に述べられている。(263・264頁)
複雑な経緯があるので、いつか書いてみたいが、『井伊直弼の腹心・長野義言』の首唱によるものである。
更に「流刑」を「死罪」と一段重い刑に改めたのは、「直弼自身」であった。

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『東行前日記』 連載⑦
【2012/08/26 23:48】 エッセイ
『東行前日記』⑦

二十一日(安政六年五月)
吉田松陰とその門下25.5.6


國司仙吉に與ふ
今朝志氣已全灰    今朝志氣已に全く灰となる、
前日塾童第一才    前日塾童第一の才。
安石多情傷仲永    安石多情、仲永を傷む、
猶将學業望将来    猶ほ學業を以て将来を望まん。

 人は言ふ、仙吉折けたりと。仙吉豈に其れ然らんや。今吾れ苦言するは、仙吉を棄つるに非ず、乃ち仙吉を愛すればなり。之れを識れ、之れを識れ。


   ○
自賛に跋するの一
長井を切腹に追い込んだ久坂24.8.20


實甫、無窮をして清狂の遺像を模し、余をして之れに賛せしむ。(賛)なる。又吾が像の賛を作りて之れに配せんと欲し、重ねて無窮を煩はして吾れに及ぶ。夫れ清狂は棺已に蓋はれ、論已に定まれり。吾れは大難まえにあるも、利鈍未だ覩ず、安んぞ遽かに清狂の對たるを得んや。然も吾が名節に玷あらば、歿しては亡友に負き、生きては存友に愧づ。是れを以て逼らるるは、我れに激すること深し。我れ得て辭せざるなり。


其の二
無窮、我れを貌し、我れ自ら賛を作り之れに題す。諸友多く絹紙を出して其の副(本)を存せんことを求む。杜碑・白集は前人其の名を好むこと過甚なるを譏る。然れども李卓吾言へることあり、「吾が死旦夕に在り、猶ほ名に近づくの累を免れず」と。眞なるかな、此の言。吾れの辭せずして之れに應ずるも亦何ぞ可ならん。況や子揖の敦く逼るを以てやを。時に己未五月、東行の期近し、吾が字多く得べからざるなり。


其の三
吾が友無窮は畫家にして、慷慨志あるも、反って乃ち畫に隠れ、好んで吾が黨に従って遊ぶ。其の天下を跋渉するや、奇人偉士に遇ふ毎に必ず其の面を貌して去る。前年已に清狂を貌す、清狂逝けり。今吾れ将に清狂と幷せ傳ふべし。此の像連作數本あり、此れ其の家藏に係る。其の意を用ふることを他幅に過ぎたるや知るべきなり。

品川彌二郎


其の四
思父は年少なるも能く我れを敬することを知る。我れ是を以て深く思父を愛す。思父無為にして死せば、思父我れに辜くと為し、我れ義を害ひて生きなば、我れ思父に負くと為す。思父、室に我が像を懸け、两心相照さば、一幅感深からん。辜負の二字は天地豈に之れを容れんや。歳の五月念一、松陰書す。


   ○

東へ出立つ時亡友金子生の事を思ひて
箱根山けはしき道を越す時は過ぎにし友を猶ほや思はん


   ○
冷泉雅次郎に贈る
 賤が身はよには合はねど大空をてりゆく日やは照さざらめや

   ○
 岡田耕作に留別す
奇童田耕作    奇童田耕作、
勿慙汗血駒   汗血の駒に慙づるなかれ。汗血駒
期汝十年後    期す汝十年の後
堂々一丈夫    堂々たる一丈夫

   ○
 座右の銘 木々主人の為めに
一日在世    一日世に在れば、
一日有為    一日為す有り。
人言何問    人言何ぞ問はん(じんげん)
吾心自知    吾が心自ら知る。
雲霧雖翳    雲霧翳ると雖も、
天日赫曦    天日、赫として曦らす。
姦賊得志    姦賊、志を得るも、
能保幾時    能く幾時を保せんや。
道若得聞    道もし聞くを得ば、
死何足悲    死は何ぞ悲しむに足らん。
妖壽不貮    妖壽うたがはず、
修身俟之    身を修めて之れを俟つ。

吉田松陰画像2012.3.30


【用語】
國司仙吉 = 松陰の兵学門下の長州藩藩士。後に松下村塾に学ぶ。
王安石 = 北宋の神宗時代の宰相。博学能文で唐宋八大家の一人。
仲永 = 王安石に「仲永を傷む」の一文がある。「唐宋八家文」収載。神童も学問を怠ればただの人の意。
論已に定まれり = 清狂の人物評価のこと。
利鈍 = 事がうまくいくか、いかないか。
名節 = 名誉と節操。
是れを以て = 自賛をいっている。
杜碑 = 晋の杜預。後世自分の名が伝わらないことを憂い、石碑を建てた。左伝に通ず。
白集 = 唐の詩人白楽天の詩文集。彼は自己の作品の散逸を恐れ、諸方で保存させた。
李卓吾 = 明代の学者。陽明のながれを汲み禅の影響を受けていると思え、松陰の晩年に影響を与えた。
旦夕 = 朝と夕。ここでは時期が迫っているということ。
名に近づく = 名声を得たいと思い煩うこと。
子揖 = 岡部富太郎。門下生。
跋渉 = 山を踏み越え、川を渡ること。転じて、諸国を遍歴すること。
思父 = 品川彌二郎。後の内務大臣。松陰門下生。
辜負 = 相手の意向に負く事。
念一 = 二十一日。
金子生 = 松陰と共に下田蹈海を試みるが、失敗、萩の岩倉獄で病没。
冷泉雅次郎 = 長州藩大組士。後に天野徳民となる。
賤が身 = 松陰自身をさす。
奇童 = 才知ある優れた子供。
汗血の駒= 一日に千里を走る駿馬。走る時に血のような汗を出すという。転じて、賢才の人に喩えて云う。
丈夫 = 才能ある立派な男子。
木々 = 未詳。
人言何ぞ問はん = 他人のことなど気にする必要ない。
赫として曦らす = 輝くさま。
姦族 = 悪人。
道若得聞 = 『論語』里仁篇第四章に「朝聞道夕死可矣」とある。
妖壽不貮(妖壽うたがはず) - 短命も長命も天命に任せて疑わない。『孟子』尽心上篇首章。

この日、松陰は久坂玄瑞の慫慂で自賛肖像を作った。松浦松洞が清狂上人の貌を画いたことから、松陰の貌を画かせたことがわかるが、門下生に宛てた「跋文」を次々に書いたり、詩を贈ったりして将来の大成を願っている。
幕末にこれだけ門下生を「愛する」と書いたものを遺した人物は、おそらく吉田松陰のみであろう。
門下生に寄せる愛情と期待、一人一人の門弟の人となりを見抜いて、巧みに、誠実に贈る言葉を選んでいる。
嘗て、10歳の岡田耕作が、新年の挨拶に訪れ、挨拶終了後に現況を乞うたことに感激した師は、「岡田耕作に示す」を書き与え、褒めちぎった。その時の思いが残っているのか、「奇童」と表現して、激励、十年後を期待する留別の詩である。


こうした、人間教育を自分の大難をさておいて、行えることは「至誠」を貫いた松陰らしい。そして、自ら先頭に立って勉学に励み、「万巻の書」を読んだ。その原点は「志」であり。「人たる所以を知るための」学問であった。こうして、新時代を切り開く教育をし、自らは信念を貫いて死んで見せたのであった。なかなか出来ないことであって、最後のダイイングメッセージを発して、後事を門下生に託したのであった。


『東行前日記』 連載⑥ 補足
【2012/08/24 17:40】 エッセイ
『諸妹宛』書簡

五月十四日(安政六年)
松陰在野山獄 諸妹在萩   二十九才
松陰正装画像


拙者儀此の度江戸表へ引かれ候由、如何なることか趣は分り申さず候へども、いづれ五年十年に歸國相成るべき事と存ぜず候へば、先づは再歸仕らずと覺悟を決め候事に付き、何か申し置くべき儀あるべき様に候へども、先日委細申上げ進じ置き候故別に申すに及ばず候。

拙者此の度假令一命差棄て候とも、國家の為に相成る事に候はば本望と申すものに候。两親様へ大不孝の段は先日申候様其の許達仰せ合され、拙者代わりに御盡しくださるべく候。

併し两親様へ孝と申し候とも、其の許達各々自分の家之れある事に候へば、家を捨てて實家へ協力を盡され候様の事は却って道にあらず候。各々其の家其の家を齊へ夫を敬ひ子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。

婦人は夫を敬ふ事父母同様にするが道なり。夫を輕く思ふ當時の惡風なり。又驕りが甚だ惡い事、家が貧に成るのみならず、子供の育ちまで惡しく成るなり。心學本間合い合いに讀んで見るべし。高須の兄様抔に讀んで貰ふべし。高須兄は従兄弟中の長者なれば大切にせねば成らぬ御方なり。

五月十四日夜            寅二
 松陰の妹・寿
(松陰の妹・壽、小田村伊之助と結婚したが早世)



児玉お方様
小田村お方様
久坂お方様  參る。
尚々時もあらば又々申し進ずべく候。

【用語】
先日委細申上げ進じ置き = 四月十四日付け「千代宛」書簡をさす。野山獄中から。
肝をやかぬ様に = 心配をかけたり、悩ませたりしないように。
當時 = この頃。
心學本 = 石田梅岩が創唱した平易な実践道徳。神・儒・仏・道諸教のあらゆる心理を摂取して、農工商平民のために通俗卑近の例をあげて、忠孝信義を説いたもの。
高須の兄様 = 高須為之進。松陰等兄弟の従兄弟にあたる。
児玉・小田村・久坂お方様 = 児玉祐之妻千代(祐之は杉家五代目百合之助常道)の妻瀧子の義父児玉太兵衛寛備の嫡子である)・小田村伊之助妻寿・久坂玄瑞妻文、ともに松陰の妹。文は寿の死後、小田村伊之助(後の楫取素彦)の後妻として嫁している。

、安政六年五月、野山獄にあった松陰は兄より「幕府召喚命令」を伝えられた。生還の実現性が少ないと考えた松陰は、嫁いでいる妹たちに事情説明と心の内を語り、なおかつ「婦人の道」を説きつつ、従兄弟の高須為之進に教育の一助を願えと進言している。

小田村伊之助


嫁ぎ先の家の親族に孝養を説き、実家の両親へも心遣いを忘れぬよう諭して(ほぼ遺言に近い内容)いる。
「人の道」を説いて止まなかった松陰、覚悟の東行にあたっても妹達への心得を申し送る姿に感動せずにはいられまい。誠に「言行一致」で、己を欺かないだけでなく、親族に対しても礼節を盡そうとする「誠実な人」は読み取れる。
この半年後に、斬刑となるのであるが、覚悟ができていたようで、刑場に臨む姿が全集の『関係雜纂』に収録されている。一部、世古格太郎の語りも伝えられているが、松陰の生涯を追ってゆくと、これが誤りで、命惜しさに「気色」も荒々しく云々は、全体を知らずに部分のみの点描に過ぎないことがわかる。吉田松陰の名誉のためにも、わざわざ茲に特筆しておきたい。そうでなければ、高杉に与えた「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と書簡に書いたこと等が、松陰の常なる言動が偽りとなってしまう。


『東行前日記』 連載⑥
【2012/08/24 11:00】 エッセイ
『東行前日記』⑥

二十日(安政六年五月)
傅輔に別る、傅輔時に揚屋に繋がるその近作の韻に仍る
松陰先生24.3.31


坐死嘗慙状蓐間    坐死嘗て慙づ状蓐の間、
此行豈是涙潸々    此の行豈に是れ涙潸々たらんや。
幽囚汝自知吾志    幽囚汝自ら吾が志を知らん
欲向芙蓉照笑顔    芙蓉に照向って笑顔を照らさんと欲す

【用語】
傅輔 = 伊藤傅之輔。大原三位(重徳)西下策に活躍して萩の岩倉獄に投ぜられた。
坐死嘗慙状蓐間 = 生きている時に何の功業も立てず、寝床の上で安らかに死ぬことは、男子として恥ずべきことであると考えていた。
此行豈是涙潸々 = この東行は幕府吏に尊王攘夷の大義を説く好機であるから、どうしてさめざめと別れの涙を流すことがあろう、の意。
芙蓉 = 富士山。


  ○
野村靖
(野村和作、後の内務大臣・神奈川県知事、入江杉蔵の弟。『留魂録』受取者)

 和作に與ふ
和作は鋭敏果斷なること、頗る阿兄に過ぐ、而れども精思熟慮は少しく譲る。其の資性異るものありと雖も、抑々學問經歴未だ足らざるなり。今、獄に在りて書を讀むは天の佑これより大なるはなし。和作の後來、眞子と詢に賴むべきなり。


【用語】
和作 = 野村和作。入江杉蔵の弟。後、神奈川県知事、内務大臣。子爵。
阿兄 = 和作の実兄、入江杉蔵。字は子遠。
今 = 和作は当時、兄杉蔵と共に要駕策の一件で萩の岩倉獄に収監中。

 
清狂道人の賛
四十二年    四十二年、
寓身塵域    身を塵域に寓す。
腹富文章    腹は文章に富み、
世滿相識    世に相識滿つ。
瀝誠動人    瀝誠人を動かし、
血涙塡臆    血涙臆を塡む。
状貌奇偉    状貌奇偉に、
氣魄鬱塞    氣魄鬱塞す。
尊王攘夷    王を尊び夷を攘ひ、
護法護國    法を護り國を護る。
清哉狂哉    清なる哉狂なる哉、
頭髠衣黑    頭は髠に衣は黑し。
月性

(勤王僧・月性。松陰と親交があり、この肖像画は門弟の松浦松洞作になる)

實甫、清狂の像を出し、文を余に索(もと)む。余、向に祭文一篇あり。已に實甫に託して、清狂の稿の後に附す、因って復た賛を撰ぶこと此くの如し。嗚呼、清狂は死せり。囘も亦将に去らんとす。一幅三人、死別の感深し。実甫、時々出して之れを觀よ。

今茲に東行す、舊友䔥海頗る周旋を為す、微言もて之れを謝す
 此行吾死所    此の行は吾が死所、
 百年心已抛    百年の心已に抛つ。(なげうつ)
 猶存緒里感    猶も緒里の感を存し、
 含涙謝故交    涙を含んで故交を謝す。


【用語】
清狂道人 = 周防、妙円寺住職「月性」上人。安政五年五月没。勤皇僧として有名。
       「男児志を立てて郷関を出づ。學若し成る無くんば復た還らず。骨を埋むる何ぞ期せんや墳墓の地、人間到る処青山有り」の立志の詩が有名。
塵域 = 俗世間。
腹 = 詩文に秀でた才能を有していたことを言う。
相識 = 知人。
瀝誠 = にじみ出る至誠心。
血涙塡臆 = 事に対して感じやすい情熱家であったことをいう。
氣魄鬱塞 = 気力が満ち溢れていた。
髠(こん) = 髪を剃り落して、青々としているさま。
實甫(じっぽ) = 久坂玄瑞。村塾の双璧といわれ、松陰の妹婿。禁門の変で自刃。
祭文 = 『己未文稿』に収載。清狂の死を悼む詩。安政五年三月頃。
囘 = 二十一回猛士。即ち松陰自身をいう。
一幅三人 = 月性・松陰・久坂。
䔥海 = 土屋矢之助(䔥海)。佐世の臣。幽室に松陰を訪問、文章の添削を求めた。
     松陰の幽室・東行の時にも厚い友情を寄せた。
緒里 = 『左伝』の成公三年の条に晋の荀罃(じゅんおう)が楚に囚われた時、商人が緒中即ちに衣囊に入れて脱出させようとしたが、結局は商人の手を借らないで晋に歸ることができた。後にその商人に会った時、あたかもその囊中より脱出したかのごとく感謝善遇したことが見えている。ここでは土屋䔥海の周旋ならびに計画は実現出来なかったが、なお荀罃が商人に感謝したと同じように感謝の気持ちでいっぱいである、という意。
故交 = 古くからの交わり。

※ 東行前日記を筆写しているが、幕府からの江戸召喚に對し、生きて帰れぬ覚悟と、身辺整理、門人・知人への感謝をこめた詩や文が書かれ続けている。
誠実な人となりを絵に描いたような松陰の人となりである。至誠という言葉を座右の銘にし続けたが、将に言行一致で、こうした松陰の人柄が、門下生たちに感化力となって、自己教育として結実したのであろう。
讀む者をして胸の詰まるような思いである。
愛国心も、このように至誠から発したものであろう。
しかも、死を掛けての信念の実践であった。



『東行前日記』 連載⑤
【2012/08/22 20:04】 エッセイ
『東行前日記』⑤

十九日(安政六年五月)

 『宗族に示す書』
吾が宗祖の行、吾れ詳かにするに及ばず、子の行、吾れ未だ知る能はず。謹んで吾が父母伯淑を觀るに、忠厚勤儉を以て本と為す。吾れ竊かに祖母の風を仰ぐ、蓋し由あり。今吾が兄弟行漸く将に泰者の風を萌さんとす、誠に惧るべきなり。而して其の忠厚を存する者は兄伯教に若くはなし。その勤儉を存する者は妹千代・従兄弟毅甫に若くはなし。為之兄は兄弟中の長者、敬せざるべからず。矩方の如きは一鴟梟なり、然れども亦嘗て泮桑を食ふ。時に或は好音あり、況や其の将に死せんとする、其の言哀しく且つ善きをや。群弟群姪、宜しく愼んで之れを聽き、永く後人に傳ふべし。
【用語】
宗族 = 本家と分家と一族。
宗素= 一家一門の先祖。
泰者の風を萌さん = 贅沢をすること。
兄伯教 = 実兄梅太郎。伯教はそのあざな。
毅甫 = 叔父玉木文之進の嫡男・玉木彦介。
為之兄 = 従兄・高須為之進。
松陰正装画像



讀餘雜抄に跋す
此の十冊は素と自ら觀るに便す、他人之れを觀るも解すべからざるり。然れども平生の苦心は全て茲に在り。文を作り、事を論ずるも、皆此の冊より出ず。今謹んで彝堂君に呈す。村君これを家藏に充てて可なり。
【用語】
讀餘雜抄 = 定本全集第八巻にその抄要が記載されている。安政元年以後東行前までに幽室又は獄中で読んだ諸書よりの抄録、及び短評を加えた雑録。
彝堂君 = 小田村伊之助。松陰の妹婿。


   ○
五車韻瑞に題す
此の書二十五巻、字典四十巻、余これを彝堂村君に借ること前後六年、再び携えて獄に上る。平生書を讀むには力を字典に得、而して詩を作るには力を此の書に得。此の書の功、字典に比して更に多し、最も寶とすべきなり。今、余東行す、復た此くの若き大部を携ふるを得ず、逐冊検査してこれを彝堂に返すと云ふ。
【用語】
五車韻瑞 = 明の凌稚隆編。韻によって引く成語字引。百六十巻。
逐冊(ちくさつ) = 一冊づつ。


   ○
楫取素彦24.4.24


彝堂村君に與ふ
子揖・無窮は要駕策の議、僕と合はず、今其の(顔)色を觀るに猶ほ前事を以て嫌を為すものに似たり、何ぞ松陰を窺うことの淺きや。夫れ朋友は猶ほ兄弟のごとし。二生既にに兄を以て我れを敬ひ、我れ固より弟を以て之れを愛せり。況や無窮の才、子揖の氣、豈に其れ得易しとして輙く之れを棄てんや。兄弟は小忿ありと雖も、遂に大義を害せざるなり。老幸に明かに此の意を二生に傅へよ。至嘱至嘱。
【用語】
子揖・無窮 = 岡部富太郎・松浦亀太郎(松洞)
嫌 = 快く思わぬこと。


   ○
  作間子大に答ふ
四海皆王土    四海みな王土、
兆民仰太陽    兆民、太陽を仰ぐ。
歸期君勿問    歸期、君問ふなかれ、
到處講尊攘    到る處尊攘を講ぜん。

【用語】
作間子大 = 後の寺島忠三郎。村塾生。禁門の変で戦死。
兆民 = 多くの人民。万民。
尊攘 = 尊王攘夷の略。

明倫館


   ○
  藤野・瀬能・阿座上に與ふ
子大至り、具さに三生及び林榮の讀書頗る進むことの状を語る。僕が喜び知るべきなり。男兒斯の世に生れて、酔生夢死、一として稱道すべきものなければ、啻に君父に辜負するのみならず、将に何を以て天地に俯仰せんとするや。今僕将に東に往かんとす、歸來期なく、復た諸生を見るべからず。諸生厚く自ら淬勵し、忠孝を天地に立てよ、乃ち學ぶ所に負かざるなり。目今吾が黨頗る志士あり、吾れの去る、未だ悲しむに足らざるなり。
【用語】
藤野・瀬能・阿座上 = 藤野荒次郎・瀬能百合熊・阿座上正蔵。何れも松陰の兵學門下であり、又村塾生であった。
林榮 = 未詳。
稱道 = 褒め称える。
辜負(こふ) = そむく。
天地 = 『孟子』尽心上篇第二十章「仰不愧於天、府不作於人」を踏まえている。
淬勵(さいれい) = 刻苦勉励すること。

   ○
嚴光の詩に跋す
右、嚴子陵の詩、録して天野清三郎に示す。余、曾て子陵の志は天下第一流に在りしことを論ず。但鄧・桓諸人の為に先鞭を著けられ、身其の下に立つを欲せず、枉げて加脚の一著を為せるのみ。清三(郎)は奇識あり、余因って此れを示し、且つ曰く、子、宜しく子陵以上の人となるべしと。嗚呼、吾れ此れより去る、清三の後來果して如何を見ること能はざるなり。
【用語】
嚴光 = 後漢の人。後漢の清節の士は、この人より興る。故事による。
鄧・桓 = 鄧兎と桓栄。共に光武帝に信任され、諸侯に任ぜられる。
先鞭を著けられ = 先に功名を立てられ。
加脚の一著を為せる = 光武帝の腹上に足を置くという著名な事柄。

松下村塾24.4.25



  村士毅に與ふ
狂囚護送の事、行府蓋し定議あり、國府の議能く移す所に非ず。況や書生の筆舌、能く其の萬の一を轉廻せんや。且つ狂囚縦令人より棄てられるとも、安んぞ天より弔まれざらん。
天の祐くるところ、人安んぞ之れを害せんや。老兄願はくは明かに此の意を國府に通じ、且つ諸友を諭し、復た狂囚を以て念慮と為すことなからしめよ。是れ僕明かに見る所ありて之れを言ふ、飾辭に非ざるなり。疑ふなかれ、疑ふなかれ。


【用語】
村士毅 = 小田村伊之助。松陰の妹婿。
狂囚 = 松陰自身のことを指す。
國府 = 正しくは行相府。江戸詰の長州藩政府、これに対して萩にある政府を國相府
又は國府という。
飾辭 = 偽り飾ったことば。


    ○
村塾の年少中最も讀書を好む者は馬島甫仙に若くはなし、吾れ獄に投じて來、一書も寄せらるるなし。しかれども我が心中遂に此の生を忘るる能はざるなり。
 故に贈詩の中、獨り甫仙の韻に次して以て諸子に答ふ
離合休霑男子巾    離合もて霑すことを休めよ男子の巾(きぬ)、
一囘用猛一囘新    一囘猛を用ふれば一囘より新たなり。
吾州我去何加損    吾州我去るも何ぞ損を加へん、
松下陰深更有人    松下陰深きところ更に人あり。


【用語】
馬島甫仙 = 塾生。医家に生れ当時十六歳、松陰の遺稿整理に当った。二十八歳で病没。
韻に次して = 後出。
離合もて霑すことを休めよ男子の巾 = 会うとか別れるとかで男子たる者は涙を流して手拭きを濡らすことはやめよう。
一囘用猛 = 松陰は二十一回猛士と自称。
吾州 = 長州。
松下陰深更有人 = 松下村塾を指す。

※この「東行前日記」を筆写していて、つくづく吉田松陰という人物は誠実な人であることがわかる。
さぞかし、内心的には辛いものがよぎり続けたに違いない。
にもかかわらず、門下生に對して、懇切丁寧な「送序」を書き与えている。
自らの「東行」が、期限もなく、帰郷出来る確かな裏付けもない、不安な行く末に思いを致しながら、最後の最期まで教師であり続けた。
心ある人々は、松陰のこうした生き方に対して、感服したに違いない。その強い「精神力」のみならず、最後まで門下生に対する愛情を失わず、将来を託そうとする人となりに、敬服あるのみである。
こうした人生態度に徹して、自己の信念を貫き通した松陰の生き方から、日本人は多くのことを学びとらなければなるまい。現代の国会議員に、言い聞かせたいと思うのは、現代国民共通の思いであろう。



『東行前日記』 連載④
【2012/08/21 14:34】 エッセイ
『東行前日記』④

十八日(安政六年五月)

思父に與ふ
思父は情ある人、但だ辭章を解せず、常に以て闕と為す。別れに臨みての二章は情辭兼ね到り、讀み去って涙下る。故に余醻(むく)ゆるに此の詩を以てす

既是神交    既にこれ神交、
離合何問    離合何ぞ問はん。
雖然眞哀    然りと雖眞に哀し、
心傷眼暈    心傷み眼暈む。

品川彌二郎24.3.25


木木氏に別る
郭公今を限りと鳴出とも君より見れば未だにやあらん

   ○
 小田村米甥を賀するの詩に跋す
吾が妹婿彝堂(いどう)村君は頸直敢言、夙に風采を著はす。吾れ嘗て三次(にたび)罪を獲しに、君皆その間に周旋す。吾れ再び野山獄に繋がるるに及ぶや、君力を致すこと最も多し。此の行再歸、期なし、寧んぞ一言なきを得んや。然れども情懷蝟聚し、言豈措き易からんや。因って今茲に端午阿甥に贈るの詩を書し、以て永訣の詞に代ふ。時己未の皐月、梅雨連天、白日見えず、中情知るべきなり。

   ○
 歌
鳴かずては誰か知らなむ郭公皐月雨くらく降りつづく夜は

   ○
 子遠の送詩の韵に次して却寄す。子遠云はく、斷琴の感切なり、終身誓って此の韻を廢せんと。其の言最も泣くべきなり 

 
入江九一

臣罪如山今日行    臣が罪山の如くして今日行く、
檻輿何面拝皇京    檻輿何の面あって皇京を拝せん。(面=かんばせ)
上林陰雨愁難霽    上林の陰雨、愁ひ霽れ難く、(霽れ=はれ)
東海風波険未平    東海の風波、険未だ平がず。(未平=いまだ平がず)
無補蜻洲千歳業    蜻洲千歳の業に補なく、
空偸蠹簡百年名    空しく蠹簡百年の名を偸む。(蠹簡=とかん)
極知汝痛加人痛    極めて知る汝の痛みは人の痛みに加り、(加り=まさり)
眞涙神交隔世情    眞に涙す神交世情に隔たるを。

   ○
 端午の詩に跋す
余、曾て屈原の詩を作り、之れを憂菴羽君に示す。羽君、深く激賞を加ふ。蓋し其の詩の言ふに足るに非ずして、羽君の屈原に於ける、均しく國の宗臣たれば、則ち其の感自(お)ら人に加(まさ)ること一等なるものありしならん。余、今将に東に往かんとす、頗る亦秦・楚の事に感ずるあり。因って復た此の詩を録して羽君に寄せ、永訣の贈と為すと云ふ。

   ○
家大人、岡田以伯を携へて臨まる。
『吉田家本・吉田松陰座像』



【用語】
思父= 品川彌二郎。村塾で松陰の教えを受け、薩長同盟、戊辰の役に活躍。明治後、内務大臣、子爵。松陰の遺品を蒐集して、京都に「尊攘堂」を建立。
辭章 = 文章。
闕と為す = 欠点。
別れに臨みての二章 = 後出の「思父」に與ふ(全集九巻・五七五頁)との二つの文。
神交 = 心交に同じ。心と心の交わり。全集第六巻・『照顏録』にもある。
木木氏 = 未詳。
小田村米甥 = 甥。小田村伊之助(松陰の妹)、後・初代群馬県知事、子爵。
頸直敢言 = 憶することなく自己の意見を堂々と述べること。
風采 = 名声。
情懷蝟聚 = 様々な思いが一時に胸に込み上げて来て、の意。
蝟聚は針鼠の毛の様に、多くのものが一時に集まるさま。

端午 = 陰暦五月五日の節句。古来この日を男子の節句として武者人形を飾り、鯉幟を立てて祝う。
中情 = 私の心情を察して欲しいの意。
鳴かずては = 乱れた世に、自分が今、殉国の大義を高唱しなくては、誰が大義名分を知ることができようという意を言外に含めている。
子遠 = 入江杉蔵。禁門の変で自刃。弟は後の子爵・野村和作。
斷琴 = 知己の友を失うの感。伯牙(春秋の人)の故事による。
檻輿 = おりかご。ここでは松陰が罪人護送用の駕籠に乗せられて東行することを言う。
上林 = 皇居をさす。
東海 = 江戸方面の海。
蜻洲 = 蜻蛉洲(せいれいしゅう)あきつしま。日本の別称。
蠹簡 = 図書を食う虫のこと。功なき読書家であることをいう。
端午の詩 = 松陰全集五巻、三一六頁の詩。『己未文稿』に収載。
屈原 = 屈平。楚の懷王に仕えて信任されるも、讒言に逢い左遷。「懷沙賦」を作って汨羅に投身自殺。
憂菴羽君 = 口羽徳祐。藩の老臣の家柄で、寺社奉行。詩文に巧みで松陰と意気投合。
宗臣 = 重要な地位にいる家来。重臣。
家大人 = 他人に対して自分の父を言う。父・杉百合之助。
岡田以伯 = 藩医。

この『東行前日記』を精読すると、いろいろなことがわかる。松陰自身の胸中や、門下生、家族、知己に対する思いもつづられている。
特に、「思父」には、松陰は特別な感慨があったようで、大変面白い。
全集には「思父をなじる」という文稿もあれば、今回のように、人となりの賛辞と、不足しているところもキチンとしている。いわゆる「可愛がった」との表現が相応しいと思われる。
尊攘堂


これに応えるかのように、思父の松陰への感謝の思いは、後に「尊攘堂」を建立して、師の恩に報いている。
愛すべき品川弥二郎子爵(内務大臣)の人となりが、何とも微笑ましい。松陰亡き後、薩長同盟や戊辰の役でも活躍し、見事、松陰の期待に応えた。

昭憲皇太后24.8.21


明治22年、明治の皇太后から、松陰の母に「下賜品」を賜ったとき、杉家に変わって下賜品を受け取ったときの感涙にむせびつつ、「地下の松陰もさぞかし喜んでいることだろう」と、畳に両手をついて感謝している姿は感動的でさえある。
そうして、下賜品を受け取って後、萩に添書した文言には、「弥次の心事、お察しくだされ!」と、松陰の兄、杉民冶(梅太郎)に宛てて書かれているのである。
生前、松陰が、目をかけた品川の人間性を偲ぶに、格好の秘話である。
この文章を読んで「靖国神社」の境内にある、品川の銅像が、微笑んでいるような気持にさせるのである。


『東行前日記』 連載③の補足記事
【2012/08/20 13:16】 エッセイ
『東行前日記』③関連補足

『入江兄弟宛』(吉田松陰全集第九巻・三四八頁)

安政六年五月十七日     松陰在野山獄  入江兄弟在岩倉獄

吉田松陰全集第九巻・五四六頁(東行前日記)に「密かに子遠・和作」に寄すと題した「漢詩」がある。
野村靖入江九一
(入江兄弟です・左が弟、で子爵内務大臣になった。右が、兄の杉蔵で松下村塾の四天王と呼称された。惜しくも禁門の変で自刃した。松陰が晩年に最も信頼しました)。



作成日は幕府から「江戸召喚」が届いて、生きて帰れないかもしれないとの思いの中で書かれた。当時、藩内で「公武合体」の考えを持っていた、長州藩の「直目付」という重職にあった長井雅樂と言う人物がいる。彼は幕府からの松陰の召喚命令を、受けるに大いにかかわった人物のようである。この漢詩の中で、松陰は長井雅樂を擬して、『鬼色疑有人 頗似宣慰行』と表現している。全集の本人の言では、「書きかけながら涙が出た」と告白している。この漢詩も本題の書簡に同様の内容で出て来る。
では、先ず漢詩の転記から入る。(一部が東行前日記と異なる)


東行感を書す(吉田松陰全集第九巻・三四八頁)

時無韓淮陰    時に韓淮陰なくんば、
豈就酈生烹    豈に酈生烹に就かんや。
時無李衛公    時に李衛公なくんば、
豈幸唐儉生    豈に幸唐儉生を幸せんや。
藍面疑有人    藍面 疑ふらくは人あり、(九巻では藍面 ⇒ 鬼色)
頗似宣慰行    頗る宣慰の行に似たり。
人生必有死    人生必らず死あり、
願全青史名    願はくは青史の名を全うせん。
勿謂我受欺    謂ふなかれ我れ欺きを受くと、
知己汝弟兄    知己、汝弟兄。
(此の詩又清太に贈る、「我保兄」)に作る。(九巻では「密かに子遠・和作に寄す」である

右子遠・和作に示す                          寅二拝
松陰先生24.3.31
此の意早く諸友へ知らせると、此の節は日下・福原・岡部なども大分に激勵して居る故、又一暴を發する。暴を發しると此の行稽延すにども相成りては吾が本意は遂げぬなり。故に吾れちとも東行を意とせぬ面で居る。予が餘り平氣なるを以て事を慮る粗脱なと思うな。
長井雅樂24.8.20
      (此の男が、松陰を売った人物・藩の官僚でした)

吾れ若し道中又は江邸にて毒殺せらるるとも、長井(雅樂)の甘言に陥れられたと他友は云ひもせよう、汝兄弟のみは義卿毒を知って飲みたるを知って呉れよ。人に告げずともよし。心に知って呉れよ。爰で涙が落ちた。
此の詩は成る丈けは諸友へは示さぬ積りなり。此の度長井の處置、實に其の意を得ず。手を李希烈にかりて顏魯公を殺す手段と覺え候。諸友未だ慮爰に到らざれば、吾れは愉快愉快と抃躍して居るなり。尤も千吉の事を行って呉れぬ時は、道中飲食甚だ以て覺束なきに付き一言吐く積りなり。幕吏の手にさえ亙り候へば、李希烈との對論は甘んずる所なり。
此の行吾れ一銭を帯ぶるを欲せず。人の贐を致すあれば皆之れを思父に附して和作の償金と為す。                                松陰

________________________________________
此の詩別に子遠に寄す。「吾保兄」を「汝弟兄」に作る。此の意切に諸友に漏らすなかれ。諸友騒擾し反って事に益なからん。然れども僕萬一あらば、人皆、余の欺かれ易きを謗らんこと必っせり。
故に豫め之れが為めに此の事を謀る。相信ずる者老兄及び子遠のみ。   二十一回生


【用語】
東行感を書す = 此の詩は「東行前日記」(第九巻)にある。
日下・福原・岡部 = 久坂玄瑞・福原又四郎・岡部富太郎のこと。
一暴 = 過激な行動にでる。
稽延 = (けいえん)延期する。
事を慮る粗脱なと思うな = 事態の把握に手抜かりがあると思うな。
長井の甘言に陥れられた = 謂ふなかれ我れ欺きを受くと、知己、汝弟兄の詩文のこと。
其の意を得ず = 納得できない。
李希烈 = 唐の顔真卿が命により反将軍「李希烈」の慰撫に行き、遂に殺されたこと。右の詩中「宣慰の行」とはこれをさす。
抃躍 = 手を打ち小躍りして喜んでいる。
千吉の事 = 岡仙吉が護送の役人に加わって松陰に随行すること。道中、松陰身辺の世話の為である。
和作の償金 = 入江和作が伏見要駕策の為に萩から脱走の時に要した二十両の金を償おうとするのである。
此の詩別に子遠に寄す。「吾保兄」を「汝弟兄」に作る。 = これは久保五郎右衛門に与えた詩の跋文であるが、少し表現を変えてある。第五句の「藍面」⇒「鬼色」と終句を「知己吾保兄」とである。

毛利藩印24.8.20


※、長井雅樂が急行して帰国した後、松陰に逢って、「長州藩の利益にならないことは話すな」と言ったという。こうした長井の行動から、松陰はこの「東行召喚命令」を長井の謀と睨んで、「納得がいかない」と言っているのである。つまり、松陰を幕府に「売って」、その見返りに藩の安泰を謀ったのである。召喚命令の発せられた当時、長井は江戸藩邸におり、松陰の召喚阻止に動くべき立場にあったのである。怪しからぬ長井雅樂は、「航海遠略策」の自己主張を企んでいたのである。


『東行前日記』 連載③
【2012/08/19 23:26】 エッセイ
『東行前日記』③

十七日(安政六年五月)   圖賛の跋を作る。 


松陰正装画像


吾れ執拘せられて關左に送らる。
馬角羝乳、歸期定めなし。諸友謀りて、(松)浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自ら之れに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に特だ吾が貌を寫すのみならんや。
況や吾れの自ら之れに賛するをや。嗚呼、吾れ去る
。諸友此れに對せば、宜しく隔世の想を為すべし。
吾れ即し市に磔せらるとも、此の幅乃ち生色あらん。


   ○
佐々木叔母に呈す
今更に驚くべくもあらぬなり兼て待ち來し此の度の旅

   ○
 密かに子遠・和作に寄す
吉田松陰とその門下24.3.25


時無韓淮陰    時に韓淮陰なくんば、
豈就酈生烹    豈に酈生烹に就かんや。
時無李衛公    時に李衛公なくんば、
豈幸唐儉生    豈に幸唐儉生を幸せんや。
鬼色疑有人    鬼色 疑ふらくは人あり、
頗似宣慰行    頗る宣慰の行に似たり。
人生必有死    人生必らず死あり、
願全青史名    願はくは青史の名を全うせん。
勿謂我受欺    謂ふなかれ我れ欺きを受くと
知己汝弟兄    知己、汝弟兄。
 此の詩別に久保清太に與ふ、我保兄に作る。

【用語】
和作 = 野村和作。入江杉蔵の弟。明治で神奈川県知事、内務大臣を歴任。子爵。
圖賛 = 松浦松洞の画いた肖像画に、跋文(特定の人に宛てた、文で賛の後部に書く)
己未 = 安政六年
關左 = 江戸
馬角羝乳 = 馬に角が生え、牡羊が乳を出すこと。不可能の例え。
吾が貌を寫すのみならんや = 私の容貌を画く丈でなく、私の精神迄画き出している。
幅 = 掛け軸。
佐々木叔母 = 松陰の父親杉百合之助の妹、佐々木孫右衛門の妻。
密かに = 同日、の子遠・和作への書簡にもこの詩あり。『吾れ若し道中又は江戸藩邸にて毒殺せらるるとも、長井(雅樂)の甘言に陥れられたと他友はいいもせよう、汝兄弟のみは義卿毒を知って飲みたるを知って呉れよ。人に告げずともよし、心に知って呉れよ。爰で涙が落ちた。此の詩は成る丈は諸友へ示さぬ積りなり。此の度長井の處置、実にその意を得ぬ』。とある。松陰と長井の関係が微妙だったことが解かる。
子遠 = 入江杉蔵。松陰が贈った字。野村和作の兄。禁門の変で戦死。村塾四天王。
韓淮陰 = 漢の高祖の功臣、淮陰侯韓信。淮陰の人。
酈生 = 漢の高祖の臣。酈食其(れきいき)。秦末の弁論家。齊の国に使して巧みな弁説で、その七十餘城を降した。韓信は不意に齊を討ち、食其は遂に齊王に烹殺(ほうさつ)された。烹は釜ゆでの刑。
李衛公 = 唐の将軍、衛国公李靖(りせい)。
鬼色疑有人 = 鬼のような人物がいるようであるの意。ここは長井雅樂が松陰を幕府の手に渡すために画策したと思って、長井を暗に擬している。
宣慰行 = 唐の忠臣顔真卿が奸臣廬杞に嫌われて、反将李希烈の宣慰使を命ぜられ任赴いたが、遂に殺されたことを言う。松陰の東行もこれと同じであると言っている。
青史 = 歴史。
知己 = 自分の心や真価をよく知ってくれる人。
我保兄 = 汝弟兄とあるところを我が保兄と書いたという意。

   ○
緒妹に贈る
妹・千代


心あれや人の母たる人達よかからん事は武士の常

   ○
 子楫に別る

君質如素絹    君が質は素絹の如く、
朱墨易受色    朱墨、色を受け易し。
君性如喬木    君が性は喬木の如く、
従繩自然直    繩に従って自然に直し。
知君畢生事    知るや君畢生の事、
尤得朋友力    尤も朋友の力に得るを。
此間非無人    此間人なきにあらず、
切劘報君國    切劘して君國に報ぜよ。

松陰岡部本24.4.23
(この肖像画が岡部本と言われ、門下生の岡部宛に画かれた)


【用語】
子楫 = (しゆう)、岡部富太郎。大原三位下向策を密告し、入江兄弟を入獄させた。
素絹 = (しろぎぬ)白い絹布。
喬木 = (きょうぼく)松や檜など、高くそびえる木の総称。
繩墨 = (じょうぼく)、墨縄の意。
畢生 = (ひっせい)一生涯を賭けた事業。
切劘 = (せつび)切磋琢磨に同じ。学友、同朋などがお互に戒めあって勉強し、向上すること。

※ 松陰の死後、文久年間に『航海遠略策』の国策(藩策=藩のとるべき方策)を上書して、藩はもとより、朝廷も賛意を示し、揚句には幕府にも採用さすべく、説明に行き、一時藩論や幕府も賛意を示した。内容は、公武合体政策にて国難を克服しようとする、井伊直弼の執政時代の政策を公にしたものであった。
※ 当時、国策として有為なものとして歓迎されるが、松陰の門下生や桂(小五郎)などの反論から、追い込まれ、最終的には藩論としても否定され、自刃した。

※、此れを読むと、松陰と藩論は異なっており、松陰は長井の奸計と思い込んでた。事実、長井は、帰国すると、松陰と合い、毛利藩に不利な証言をしないよう慫慂している。
従って、松陰が、長井の「奸計」と訝ったのも故なしとは言えない。


この頃から、長州藩内にて、藩論の「ゆれ」があったことがうかがえる。松陰の思想や行動が、「賛」に「郷党衆く容れず」とはこれらを意味する。いつの時代でも、先覚者への理解には、時間を要するものである。松陰の悲劇は、先覚者故であった。


『東行前日記』 連載②
【2012/08/18 11:48】 エッセイ
『東行前日記』②

 十六日(安政六年五月)
   朝、肖像の自賛を作る。
像は松洞の寫す所、之れに賛するは士毅の言に従うなり。

吉田松陰自賛画像2012.4.13



その賛に曰く

三分出盧兮諸葛已矣夫    三分盧を出づ、諸葛 已(や)んぬるかな、
一身入洛兮賈彪安在哉   一身洛に入る、賈彪(かひょう)安くに在りや。
心師貫高兮而無素立名   心は貫高を師とするも、而も素より立つる名なく、
志仰魯連兮遂乏釋難才   志は魯連を仰ぐも遂に難を釋くの才に乏し。
讀書無功兮朴學三十年   讀書功無し、朴學三十年
滅賊失計兮猛氣廿一回   滅賊 計失す、猛氣廿一回
人譏狂頑兮郷黨衆不容   人は狂頑と譏り、郷黨衆く容れず
身許家國兮死生吾久齊   身は家國に許し、死生 吾久しうせり。
至誠不動兮自古未之有   至誠にして動かざるは古より未だ之れ有らず、
古人難及兮聖賢敢追陪   古人 及び難きも、聖賢 敢へて追陪せん。


至誠


【通釈】
天下三分の計を図り草廬から出仕したという、諸葛孔明は最早この世に無く、
党禁を訴える為、一身で都に入ったという、あの賈彪はどこにいると云うのか。
吾が心はあの壮士の貫高を師としているが、もともと世間に立てるほどの名声は無く、
自分の志は齊の魯仲連を尊敬しているが、結局は国難を解決する才は乏しい。
自分の読書もその効果も無く、學問に勤しんで三十年にもなるというのに、
外夷を滅亡させようとの企ても失敗してしまった、勇猛心を二十一回も振り起したのに。
世の人は私を頑固者として非難し、松本村の人達の多くは私を受け入れてくれなかったが、
自分の命は國家に捧げていて、死ぬにしろ生きるにしろ忠誠を尽くす心に変りは無い。
至誠を尽くせば心を動かさない人は、古来一人もいないと、孟子は言ったが、
諸葛孔明などの俊傑程にには及ばない迄も、聖人・賢人が求めたものを精一杯追慕したい。

【註】
自賛 = 画に題して画面中に書かれた詩・歌・文を賛と言う。それを自分で書いたもの。
松洞 = 松浦松洞。村塾生で画を学んでいた。後に松陰に教えを受け、期待された。
士毅 = 小田村伊之助。松陰の妹婿。更に死後もう一人の妹(玄瑞の夫人)と再婚した。
三分 = 天下三分のこと。三国時代、魏・呉・蜀の三国鼎立。
廬を出づ = 孔明が、蜀の劉備の三顧の礼に感激して、草ぶきの家を出て出仕したこと。
賈彪 = 後漢の壮士。党禁が起こった時、一人で都に入り、訴えて成功させた。
貫高 = 前漢の壮士。劉邦の不遜な態度を怒り、殺そうとする。許されるも自殺した。
魯連 = 戦国時代、齊の高士、魯仲連。仕官せずも国難や紛争を解決した人物。
朴學 = 素朴で地味な学問で經学のこと。ここでな松陰自身の学問に対する謙遜。
猛氣廿一回 = 松陰のこと。國家のために、二十一回の猛を発する意味がある。
狂頑 = 理想が高く実行が伴わず、また頑ななこと。
身は家國に許し = 自分自身の命は藩(國)に捧げることにしているの意。
死生 吾久しく齊うせり = 生も死も、以前から区別などないと思っている。
              いつでも死を覚悟しているとの意味が込められている。
至誠にして動かざるは 古より未だ之れ有らず = 『孟子』離婁上の言葉の引用。
古人 及び難きも = 孔明のような昔の俊傑には及ばないながらも。
聖賢 敢て追倍せん = 聖人・賢人の道を求めて追慕したいものだ。

※此れを読むと、久坂玄瑞が村塾の画家、松浦松洞に描かせ、これに小田村伊之助の進言 で松陰が賛を書いたことがわかる。
五月十六日から出発前日までに書いたようである。

最近、『長州維 新の道・下巻』に此のことが詳細に解説された本が出版された。
一読を薦めたい。

松下村塾24.3.25


畫史藍田、䔥海を介して詩を寄す。次韻して却下寄す。云はく、

 少小讀書師昔賢     少小より書を讀み昔賢を師とす、
 殺生今委理官權     殺生今は理官の權に委ぬ。
 眞誠不動來奸吏     眞誠、奸吏を動かし來たらず、
 冤枉爭怨得碧天     冤枉、爭でか碧天を怨み得ん。
 千里檻輿鼾睡穩     千里の檻輿、鼾睡穩かに、
 滿城風雨虜氛羶     滿城の風雨、虜氛羶し。
 赤心報國背無涅     赤心報國、背に涅なきも、
 願學岳爺終我年     願はくは岳爺を學んで我が年を終らん。

【註】
藍田 = 藤井藍田。畫や書を学んだ大阪の商家の人。桂とも親交があった。
次韻 = 贈られた詩への返却の詩。
理官 = 裁判官。
奸吏 = 邪悪な役人。ここでは幕府の役人の意。
冤枉爭怨得碧天 = 無実の罪に問われ、今この様に東行を命ぜられ、至誠が不足ゆえ、どうして天を怨もうか。
千里檻輿鼾睡穩 = 長旅の檻(駕籠)の中で、鼾をかいて穏やかに眠ろう。
滿城風雨虜氛羶 = 江戸は梅雨時だが、夷人の跋扈で生臭いだろう。
岳爺 = 宋の岳飛のこと。またその故事。

野山獄24.3.23

(松陰はこの野山獄で自賛を作った)
   ○
夜、岡部(富太郎)・福原(又四郎)・松洞至る。書きて示す。
 龍は畫を以て愛せられ、余は去るを以て重んぜらる。此の間、無眼の人物連りに絹紙扇面を以て余に逼る。余、皆揮寫して以て來意を厭す。是れに坐して事務繁劇、頗る困屈を致す、而して同志の諸友に至りては反って乃ち闕如す。其の實、同氏の諸友は平素相盡し、別れに臨みて更にいふことなし。別れに臨んで言多きは、極めて兒女の態に似たり。男兒相知る、何ぞ必ずしも然なさんや。然りと雖も、此の別れ想へば當に永訣なるべし。已むなくんば、余に一の護身の符あり。孟子云はく「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」と。其れ是れのみ。諸友其れ之れを記せよ。其の他千萬の言語は八十一鱗に至ると雖も、苟も一晴れを點ずるに非ずんば、遂に是れ眞にあらざるなり。


【註】
無眼の人物 = 思慮分別の無い人間。
余に逼る = 揮毫をしてくれと頻りに賴む。
闕如す = 訪ねてこなかった。
「至誠にして・・・・・・」 = 『孟子』離婁篇第十二章にある。
八十一鱗に至ると雖も、・・・・・・ = 画竜点睛を欠くほどの意。

   ○
余向に福原又四郎の為に名字を撰定すること此の如し。夫れ華實相無かるべからず。而して天下の草木未だ曾て華なくして實あるものはあらざるなり。今、名は實にして而も、字は去華とは何の説ぞや。曰く、是れ弊を矯むるの言なり。當今、華ありて實なきは、比々皆是れなり。故に去華と曰ひて之れを醒ますなり。又四(郎)の人物は沈重簡黙、自ら能く華を去り實に就く者、故にこの名字最も當れり。其の説は猶ほ曲折あるも、今は特だ之れを略言す。

【註】
華なくして實ある = うわべの華やかなこと。言葉は立派であるが実行の伴わない。
比々皆是れなり = どれも、皆すべて。
沈重簡黙 = 落ち着いていて言葉がすくないこと。

   ○
和作に與ふ
云はずとも君のみは知る吾が心心の限り筆も盡さじ。


『東行前日記』 連載①
【2012/08/16 17:36】 エッセイ
『東行前日記』①

安政六年五月、幕府から松陰に召喚命令が出た。(結果的には長野義言の謀)が、その間の十日間の日記を読むと、重要なことが解かると思われるので、転記して勉強することにします。
この「東行前日記」には、門人宛の述作や親族、宗族に関するものが書かれているので、順次番号を附しながら、勉強の為に転記を続けて行こうと思う。


『杉家本・吉田松陰』


東行前日記は松陰三十歳の夏即ち安政六年五月十四日に、幕府より江戸召喚の命が下ったことを聞き知ってから、同月二十五日に出發するに至る間の日々の漢詩文和歌を中心とし、諸所に漢文を以て記事を挿入した謂わば萩における訣別遺言に相當するものである。
松蔭自筆の原本は萩市松陰神社所藏の「東下雜集」と稱する一綴の最初に綴ぢこまれてある。「東下雜集」
といふのは、この日記の他に東下前後に關係ある「縛吾集」「涙松集」「留魂録」「坐獄日録」「西洋歩兵論」が集められ、これに松陰江戸よりの書簡が加へられてあるが、その中で松陰自筆はこの日記のみである。題名はこの「東下雜集」巻尾の目次に他筆で「東行前日記」と書いてあるのみで、他に松陰自ら命名した跡も見えないから、恐らく後人の命名と思はれる。原本は半紙二ツ折形、原紙澁引表紙の見返しには「志」と題して自筆和歌三首がある。本文は五月二十四日の「飯田吉次郎に留別す」までが自筆で、それ以後は門人の追録である。



東行前日記

   

かけまくも君の國だに安からば身を捨つるこそ賤がほいなり

五月雨の曇りに身をば埋むとも君の御ひかり月と晴れてよ

今更に言の葉草もなかりけり五月雨晴るる時をこそ待て

(※筆写註=以上、普及版全集176頁、東行前日記表紙裏の自筆和歌)


東行前日記

五月十四日  午後、家兄伯教至り、東行の事を報じて云はく、「長井雅樂、之れが為め故ら特に國に歸りしなり」と。薄暮、家兄復た至り、飯田正伯・高杉晋作・尾寺新之允連名の書っを致す。云はく、「幕府有志の官員佐々木信濃守・板倉周防守等、水府及び諸藩の正士の罪を寛くせんことを請ひ、聽かれず、是れに坐して罷免せらる。今先生幕逮を蒙る。

井伊直弼24.3.25
(安政の大獄を指揮した大老・井伊直弼)
願はくは身を以て國難に代り、且つ懇ろに公武を合體するの議を陳べられなば社稷の大幸なり」と。家兄の初め至りしときは事未だ確定せず。乃ち一絶を作る。

密使星馳事若何     密使星馳す事若何(こといかん)
人傳縛我向秦和     人は傳ふ我れを縛して秦に向って和すと。
武關一死寧無日     武關の一死、寧んぞ日なからんや、
何倣屈平投汨羅     何ぞ倣(ならわ)ん屈平汨羅(べきら)に投ずるに。

屈平
(松陰が好んだ高潔の士:屈平=屈原)

政府頗る余が幕訊に就き、事の國家に連及せんことを慮る。余、因って今春正月論建せし所の一條を書し、家兄に託して、之れを長井に致す、附するに一詩を以てす。
   東命執拘我れを致す、行くに期あり、詩もて親戚故舊に別る。謝枋得北行別の詩の韻による
幽囚六歳對燈青     幽囚六歳、燈青に對(むか)ふ、
此際復為關左行     此の際復た關左(かんさ)の行を為す。
枋得縦停旬日食     枋得縦(ほしいまま)に旬日の食を停め、
屈平寧事獨身清     屈平寧んぞ獨り身の清きを事とせしや。
邦家榮辱山如重     邦家の榮辱、山の如く重く、
軀穀存亡塵様輕     軀穀の存亡、塵様(ごと)く輕し。
萬巻於今無寸用     萬巻今に於て寸用なく、
裁嬴大義見分明     裁(わずか)に嬴(あます)大義見て分明なるを。

【註】
五月十四日 = 安政五年(1858)
家兄伯教 = 兄の梅太郎(が、野山獄に来て江戸護送を知らせて)
長井雅樂 = 長州藩士。松陰は間部要撃策以降、彼と意見が合わず、東送の命を彼が持ち帰ったので、長井の謀と疑った。
正士 = 安政の大獄連累者のこと。
幕逮 = 幕府の手が身に及ぶこと。
社稷 = 國家
一絶 = 一言絶句
密使星馳す = 江戸から長井が非常に急いで帰藩した。
秦に向って和す = 長州藩が幕府に和従すること。
武關 = 秦と楚の国境にある関所。転じて江戸の意。
屈平 = 屈平の様に(汨羅に投身自殺)はしない。
幕訊 = 江戸評定所での幕府の訊問。
論建 = 松陰の提案(高島・大高來萩時の意見)。「愚按の趣」(己未文稿)参照。
東命執拘我れを致す = 幕命で私を逮捕する。
謝枋得 = 宋末の人。元の要求を拒み絶食死した。
燈青 = 燈下のもとで読書したこと。
關左 = 関東に行くこと。
屈平 = 屈平はどうして、自身の潔白さだけを考えて汨羅に入水したのか。
軀穀 = からだ。精神に對して云う。
裁嬴大義見分明 = 大義をはっきり見分ける事だけが漸く身についた。


十五日
   家兄及び徳民至る。徳民に託して書を子遠に致す。○䔥海來り問ふ、書き示すこと左の如し。
此の行、復び歸ること未だ期すべからず。平生吾れを愛せし者は公なり。公宜しく蓋棺(がいかん)の觀を為すべし。吾が知己尠からざるも、善く吾が文を不朽ならしむる者は、公に非ずんば人なし。文稿五巻、一貫生に附して之れを公に致す。公間(ひま)に乗じて瀏覧し、其の略ぼ讀むべきものを録存し、従って之れが敍を為(つく)れ。清人云はく「人の遺編斷簡を拾収するは、その功徳更に暴骨露骸を瘞埋(えいまい)するに倍す」と。今吾が骨は未だ何れの所に暴露するかを知らず、而れども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり。
 品川彌二郎24.3.25高杉晋作
杉梅太郎久坂玄瑞(小)24.3.25



夜、家兄・村士毅・思父・實甫相繼いで至る。

【註】
蓋棺の觀を為すべし = 死後の人物批評。
一貫生 = 高橋藤之進。福川司獄官の弟、松陰の教えを受けた。䔥海の弟子。
瀏覧 = 書物や文書に目を通すこと。人に見て貰う時に云う語。
敍 = 序文。
暴骨露骸を瘞埋するに倍す = 山野に晒されている死骸を手厚く葬ること。
村士毅・思父・實甫 = 小田村伊之助(妹婿)・品川彌二郎・久坂玄瑞


筑波山の山頂にて松陰を思う
【2012/08/15 14:35】 エッセイ
筑波山に登る(平成24年8月14日)

娘家族と一緒に、筑波温泉に一泊旅行して来た。
13日に大洗水族館に遊んで、孫は大喜び。2時間を費やすも疲れを知らずに、興味の趣くままに夢中。有名な大洗GCも隣接。筑波神社は参拝出来なかったが、14日筑波山に登る。

吉田松陰全集第九巻169頁、『東北遊日記』に筑波山に登った記述がある。
(嘉永四年十二月)
十六日 晴。驛を出て行くこと少許、右折して田間の小路に入り、舟にて小貝川を濟る。是れを四手の渡と為す。川は源を小栗に發し、土田井に至りて刀根川に入ると云ふ。豊田驛に出で又右折して松間の小路に入り、大砂・田中の諸村を經て北條驛に出づ。是れ土浦侯の領する所なり。筑波の半腹登れば驛あり、是に宿す。筑波は山名、亦以て驛に名づけ郡に名づく、常陸國に属す。時に天日ほ高く、眺望甚だ闊し、快言ふべからず。行程七里。

志ありせば


十七日 晴。驛を出て、筑波の二巓(てん)を極む。一を男體と日ひ、一を女體と日ふ。是の日天氣晴朗、眺望特に宜しく、關東八州の形勢歴々として指すべし。山としては富士・日光・那須、水としては刀根・那珂、皆目前に聚まる。但だ余は地理に暗く且つ獨行踽々たれば、其の山水っを論評する能はざるを憾みと為すのみ。詩あり、云はく。

 去年今月在鎮西      去年の今月鎮西に在り、
 温泉嶽上極攀躋      温泉嶽上 攀躋を極む。
 當時風雪掠空起      當時風雪空を掠めて起り、
 蘇山筑水望總迷      蘇山筑水、望總べて迷ふ。
 今年反作關東役      今年反って關東の役をなす、
 季冬乃跨筑波脊      季冬乃ち筑波の脊に跨る。
 左右顧眄快愉哉      左右を顧眄すれば快愉なるかな、
 富山白玉刀水翠      富山は白玉、刀水は翠。
 一身踪跡且難常      一身の踪跡且常なり難し、
 何況天上陰與晴      何況や天上の陰と晴とをや。
 賀生哭死定幾許      生を賀し死を哭す定めて幾許ぞ、
 千里人煙色蒼々      千里人煙色蒼々たり。
 嗚呼温泉自蘇筑友     嗚呼、温泉は自ら蘇筑の友あり、
 筑波自有富刀耦      筑波は自ら富刀の耦あり。
 不似遊子辭家郷      似ず遊子家郷を辭して
 睽離兄弟與父母      兄弟と父母に睽離するに。


筑波山
(吉田松陰が東北遊旅行で登った筑波山)


嶺を越えて眞壁に下る。眞壁は驛名、亦以て郡に名づく、笠間侯の領する所に係る。驛を過ぎて行くこと里許、休惠山を越えて便道より笠間に出づ。笠間は文武、館を分ち、分を時習館と日ひ、武を講武館と日ふ。夜、余が姓名を録し、人をして文館教授森田哲之進に使はし、且つ來りし所以のものは兵と經とを學ばんが為なるを告げしむ。

【解説】
この日記は「東北遊日記」の一部である。この「序文」に松陰の考え方が良く記されているので書いてみる。

有志の士、時平らかならば則ち書を讀み道を學び、經國の大計を論じ、古今の得失を議す。一旦變起らば則ち戎馬の間に従ひ、敵を料り交を締び、長策を建てて國家を利す。是れ平生の志なり。然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以てか之れを得ん。余客歳鎮西に遊び、今春東武に抵る、略ぼ畿内・山陽・西海・東海を跋渉せり。而して東山・北陸は土曠く山険しくして、古より英雄割據し、奸兇巣穴す。且つ東は満州に連り、北は卾羅に隣す。是れ最も經國の大計に關る所にして、宜しく古今の得失を觀るべきものなり。而して余未だ其の地を經ず、深く以て恨み堵為せり。頃肥人宮部鼎蔵東北遊を余に謀る。余喜びて之を諾す。會々奥人安藝五藏も亦将に常奥に抵らんとす、遂に同行を相約せり。余因って一冊子を作り、古今の得失、山川の形勢、凡そ目撃する所は皆日を以て之れを記さんとす。
  嘉永四年臘月
                            吉田大次郎(藤)矩方識す。



この序文を読むと、兵学者としての素養も窺われ、また「坤輿圖識」で学んだ、日本との隣接國家のも言及されている。兵学者らしい「經國の大計」の為に東北遊学が単なる修業のみでなく、幕末の時勢を念頭に置いているのが解かる。兵学者の國家観ともいうべき経綸である。嘉永四年臘月に秘められたことがある。
過所手形(過書手形)とも書く
(個所手形の写真)

それは、同行の安藝五藏(盛岡人)が、兄の仇を果たそうとの事情があった。

この東北遊日記の初日の書き出しに、是に触れた一文で解る。
「辛亥十二月十四日」 翳。 巳時、櫻田邸を亡命す、・・・・・・。とある。

江戸期は他藩(他国)を通る時、関所通過の為に、「過所手形」という藩主の允形が印された身分証明書が必要であった。是を持参しないと正式に他国通過は出来ないのが原則で、是を犯すことは「脱藩」といって、藩士にとって重罪とされた。


事実、松陰はこの五カ月に及ぶ遊学から江戸に戻った時、藩邸には行かぬ積りであったが友人の勧めに応じて出頭したところ、裁決待ちの為に強制帰国させられ、後に吉田家取り潰し、即ち「浪人」となる。長州藩の軍学師範が、父親の「育」(はぐくみ)という、中途半端な身分に転落する。これ以降松陰の「有為転変」の人生航路がはじまる。「亡命=脱藩」の罪を犯した松陰を評して、将来を期待していた藩主・毛利敬親は『國の宝を失った』として、残念がったのであった。

この亡命行の研究は、これまで何名かの松陰研究者が考察しているが、嘉永四年十二月十二日付の兄梅太郎宛ての書簡に「官倘(も)し允さざれば吾れ必ず亡命せん。仮令今日君親に負くとも、後來決して國と家とに負かじ。」(全集七巻116頁)と、強い決意で敢行したことが解かる。藩主や親に一時的には負いても、将来はそうではないと言い切っている。
茨城県


こうして、江戸藩邸から亡命した松陰は、松戸を経由して筑波山に遊んだ。こののち、笠間を経由して水戸に入り、そこで『新論』の著者、会澤正志斎から「水戸学」を学び、人生の大きな糧を獲得するのであった。


私も筑波山に登り、「松陰を思い出していた」が、ロープウェイや近辺の売店等にも吉田松陰の来訪は書かれておらず、聴いてみても来訪の事実すら知らなかった。残念。

常用 藝文


帰宅してすぐ、常陸に在住する小学校以来の友人が、贈ってくれた吉田松陰の來常記事を掲載した『常陽 藝文』(2010年10月号)を読み直す。そこには、詳しく常陸の國での松陰の解説と行動とが記されていた。
また『水戸史學』第十号にも「吉田松陰と水戸学」の記事が掲載されていて、親近感を以て読み直した。

関東平野の中にある「筑波山」からは、雲間から「富士山」の雄姿が望め、松陰もここから江戸の町や富士山、霞ヶ浦、太平洋を望んだに違いない。


松陰が傾倒した「王陽明の良知説」について④
【2012/08/01 13:22】 エッセイ
『良知』について・『伝習録』 (陽明学)

江戸の旅人吉田松陰24.3.25

吉田松陰は、嘉永三年(1850)八月、鎮西遊学に旅立った。平戸の「山鹿万介」「葉山佐内」の下で、家学修行のためであった。松陰、時に二十一歳。この修行は『西遊日記』として全集第九巻に収載されている。陽明学者として著名であった平戸藩の仕置家老、「葉山佐内」は、熱心に学問する松陰に好感を抱いたようで、松陰の表現によれば『老師陽明学を好み、深く一斎先生(佐藤一斎・幕府の儒者・陽朱陰王といわれる陽明学者)を尊信し、『言一斎の事に及べば、必ず其の傍に在るが如し』(同三十六頁・九月十六日)とある。松陰は、葉山佐内の下で、『伝習録』に出会い九月二十三日の項に『伝習録上、知惟行的主意 行是知的工夫 知是行始、行是知成』(六十四頁)とある。この伝習録の主たるものの一つに『良知説』がある。
平戸


良知は陽明が「良知の二字は実に千古聖聖相伝の一点滴の骨肉なり。」「この二字は真に聖門の正法眼蔵なり。」「是学者の究竟の話題。」といって、学問の精髄、聖人の道の窮極と見たものである。彼は良知説を発見した喜びを、「今幸ひに此の意を見出だし、一語の下、全体を洞見す。直だ是れ痛快、手のひ足の踏むを覚えず。」と言っている。
王陽明


良知の語は、上巻の徐愛の筆録にも見えるが、後年のものとは意味が異なる。陽明が良知説を得た時期を銭徳洪は広西赴任以後、五十歳の正徳十六年とし、「良知の説は正徳辛已の年に発す。蓋し先生再び寗藩の変、張・許の難に罹って、學又一番二澄透す。」と言い、年譜にも同年の条に「是の年先生始めて致良知の教を掲ぐ。」とあって、共に以前から胸中に醞醸していたものが、事件に遭遇して明確になったとしている。
孔子が五十にして天命を知ったのと、奇しくも年を同じうしたといえよう。

「良知」の語は、孟子の尽心篇(上)に「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良能なり。」とあるに基づく。陽明はこの良知を、同じく孟子の公孫丑篇(上)の「是非の心は、智の端なり。」告子篇(上)の「是非の心は智なり。」の「智」と同一のものと見て、良知とは人間に固有する自然の本能で、是非善悪を知るものとした。
孟子24.4.23


彼は言う、「夫れ良知は、即ち所謂是非の心にして人皆之有り。学を待たずして有り、慮るを待たずして得る者なり。人孰れか是の良知無からんや。」と。陽明は孟子の語によって良知を説くが、しかし概念の内容には若干の相違がある。その著しい点は孟子の是非の心はやがて完全な智となる端、すなわち萌芽・根基であり、良知も幼時が生まれながらにしてもつ親を親しみ、兄を敬する本能の意味であったのに対し、陽明の言うところは「良知は是れ完全完全。」「自己の良知は原聖人と一般なり。」で初めから完全なものとしたことである。


 良知が是非善悪を知ることについて、陽明は「凡そ意念の発するや、吾が心の良知は自ら之を知る。其の不善ならんか、亦惟だ吾が心の良知自ら之を知る。」として、それが他人の行動の判定ではなく、自己の意念の判別決定であることを明らかにしている。この故にりょうちが完全な活動をすれば、自然に意は善となり、行動は道徳的となるのであって、良知が道徳の根源であり基準である意味はそこにある。陽明はこのことを、方円・長短・軽重における規矩・尺度・権衡、舟における舵に譬えている。

良知が善悪是非を判別決定出来る理由は、それが天理の霊明・霊覚の発現であり、また天理そのものであるからである。「良知は只だ是れ一箇の天理の自然に明覚発見する処。」「天理の昭明霊覚は所謂良知なり。」「良知は即ち是れ天理。」などの語は、良知と天理との関係を示している。彼はまた良知を、性や心の本体ともした。「良知は是れ天命の性、吾が心の本体、自然に霊昭明覚の者なり。」かく見ると、良知は天理・性・心の本体と同じものであって、特にそれが明覚霊昭な活動をする時において、善悪是非の判別決定をするものであることが推測できる。

 良知は知る活動をするだけでなく、他人に同情し親愛して一体となるものであった。「蓋し良知は、只だ是れ一箇の真誠惻怛(そくだつ)。」の語は、純粋自然の同情心を良知とするものであり、良知を致すの極は、天地万物をも一体とするに至るとして、「世の君子惟だ務めて良知を致せば、即ち自ら能く是非を公にし、好悪をおなじくし、人を視ること猶ほ己の如くにし、天地万物を以て一体と為す。天下治まる無きを求むるも得可らず。」と言っているのは、良知が博愛的仁であることを示している。
良知が善悪是非を判定したり、人に同情する念であるとすれば、個人的なもののように見えるが、陽明は天地万物を成立させる宇宙の本体の如くにも説く。「良知は是れ造化の精霊なり。此の精霊點を生み地を生み、鬼を成し帝を成巣も皆此れより出づ。真に是れ物と対なし。」このような本体的良知と、個人的な良知との関係は明白ではない。

「若し草木瓦石も、人の良知無ければ、以て草木瓦石たる可からず。」の語から察すると、良知を知覚認識の主体と見て、良知の存在によって天地万物は存在し、人が死に、良知がなくなれば天地万物もなくなる、との主観的立場に立ってのことらしくもあるが、またちほうでは、良知や道を天として、「夫れ良知は即ち道。」「道は即ちこれ良知。」「天は即ち良知なり、良知は即ち天なり。」と言っていて、むしろ良知を超個人的なものとするような表現もある。この両者の関係は、陽明のよく使う論法を借りるなら、超個人的良知は本原から説いたものであり、個人的良知は工夫の面から説いたもので、その実は一つとなるであろうか。

良知が本来完全で平等だとすれば、個人に遇っても個人的ではなく、もともと客観的なものでなければならないことを、かく表現したとも見られよう。
伝習録・明治書院


陽明はこの良知を致すことを最高の工夫とした。「致す」は朱子が「致知」の解釈で、「至る」としたのに従った。しかし、それは外に向かってのことではなくて、良知の妨害をなす人欲や己私を排除して、良知を完全に発現する意味であった。

良知を致す方法は、常に戒慎恐懼して独りを慎むことであり、心を惺惺としておくことであり、時時刻刻義を集めることであり、事として怠らぬことであった。

「若し時時刻刻自心上に就いて義を集むれば、則ち良知の体は洞然として明白に、自然に是を是とし、非を非として、繊毫も遁るる莫し。」陽明は良知を致すことについては、多くを説いていない。それは恐らく致知として説いたことと変わらないのと、良知が明らかになればおのずから分ることで、徒らに議論するのは意味がないとしたからであろう。

「良知は本是れ明白なり。実落に功を用ひば便ち是なり。肯へて功を用ひず、只だ語言上に在って転た説けば転た糊塗す。」と言う如く、実際に工夫しないで言葉で理解しようとすることは、最も戒むべきことであったのである。

 良知説が陽明五十歳以後の定論であるとすると、それ以前の説は未定の論となるが、おそらくそれは良知説に対して比較的未定の意味であって、陽明が廃棄した説の意味ではあるまい。事実、陽明は前節の誤りを言ったことはなく、殊に致知格物・知行合一・心即理・事上磨錬・天理人欲・萬物一体などの諸説は、良知説の基礎であったと共に、良知説が出てから後も依然として説かれているのである。未定として退く手はならないばかりか、良知説の理解のためには欠くことのできないものである。





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