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吉田松陰の「陽明學」
【2012/11/26 10:44】 エッセイ
吉田松陰と『傳習録』

嘉永六年八月二十五日早朝、吉田松陰は鎮西遊学に旅立った。お供をしたのは「新介」である。長崎の長州藩邸に着いて三日目の九月八日早朝に還すとあるから、二週間付き添ったことになる。

松陰正装画像


長州藩は長崎に「藩邸」を保有していた。ここに「聞役」という蘭船の出入りや海外異聞の報告役を駐在させていた。長門の国が三方を海に囲まれていた事から、海防意識が藩として必要だったのかもしれない。今日流に言えば「情報収集」を怠らなかったということになる。

九月十一日、長崎港に停泊中の「蘭船」に乗る。上層に砲六門ありとあるから、軍艦であることがわかる。後に浦賀へペリーの艦隊を観察に駆けつけたとき、詳細にわたって目測をするが、この時の経験が生きたと言える。
さて遊学目的の平戸についたのが九月十四日、葉山左内を訪問するが、実は宿が取れずに左内の紹介が必要だった。平戸では、紹介なくしては宿が取れないのであった。「紙屋」と言う宿に投宿、ここには今も松陰宿泊の小さな石碑があるという。

この日、葉山左内から『伝習録』と左内の著述である『辺備摘案』を借り、書写する。『西遊日記』では、伝習録を読んで抄録したのは十七日とある。二十三日まで伝習録の記述が続くので、凡そ一週間かけて精読したものと思われる。

王陽明・傅習録


後に松陰は自ら「陽明学徒」たることを否定して(『子遠に語ぐ』:己未文稿、全集第五巻176頁、安政六年正月念七日夜)、以下のように言っている。
『吾れ嘗て王陽明の傳習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に當る。向に日孜(品川弥二郎)に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明學のみを修むるに非ず、但だ其の學の眞、往々吾が眞と會ふのみ』と。

確かに自ら言うごとく陽明學派ではないが、松陰の著作や言動には明らかに陽明學の影響と思われる個所に遭遇する。「事情磨鍊」や「知行合一」的な考えが見られるのである。
高杉晋作


また愛弟子の「高杉晋作」の号には『致良知洞主人』(海原徹:高杉晋作、ミネルヴァ書房)というのがある。これも王陽明の致良知からのものと考えられる。

吉田松陰の場合は、学問の姿勢が人間社会に役立つものを希求する実学志向が強かった。それゆえ門下生の回顧録にあるように、実践を重んじた学問観であった。
『松下村塾記』の「學は人たる所以をまなぶなり」や『志規七則』に記された「志を立つるを以て万事の源と為す」等の意味は、上記との関連で把握なれなければならない。


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「森信三」先生の『吉田松陰全集』講読の奨め
【2012/11/23 23:14】 エッセイ
「森信三先生の講義録」

森信三先生は、善の研究で有名な「西田幾多郎」」の弟子で、教育学者にして哲学者である。今回の「ノーベル医学・生理学賞」を受賞した山中教授の、広い意味での母校に当たる学校である。今は「大阪教育大学」と名称されているが、戦前は「天王寺高等師範」といった。
たくさんの秀才を輩出した、いわゆる名門校のひとつである。加之、森先生も山中教授も「神戸大学」にご縁があったというから、不思議なご縁というべきなのかもしれない。

さて、この高名な森信三教授の講義録に「修身・教授録」(致知出版社刊)という本がある。
師範学校であるから、教育者の養成機関である。

森信三先生


この本の443頁に、吉田松陰全集のススメの一文がある。昭和10年代の講義録であるが、興味ある内容なので、再録してみる。

『さて、講義は一応これまでとして、今日は一つの書物をご紹介しましょう。実はこのたび吉田松陰先生の非常に手頃な「全集」が出ることになりました。先生の「全集」は、この前にも一度岩波書店で出ましたが、その時のは、全部原文のままで大部分が漢文でした。ところが今度のは、旧版の漢文を全部仮名混じり文にして、かつ難解なところには一々註をつけて、だれにも読めるようにしたものです。
そこで諸君にはやや高価なものでありますが、これだけは何とか工面して求めるようにされるがよいと思います。そして私の考えではこれをもって、諸君の卒業記念とされるがよいと思うのです。
実際、国民教育者は、ある意味では、この本だけを読んでいても十分と言えるほどで、あらゆる人生の教訓は、このうちにこもっているとも言えます。
もし諸君が、この本を求めて三年間読んでも、その真価が分からなかったら、私が引き取ってもらってもよいです。古本屋へ持っていっても、おそらく原価に近い値段でとってくれましょう。
マァ諸君“一つ私にだまされたと思って、求めてごらんなさい。三年もたてば、必ずうなずける時が来ましょう。私は以前の版を持っていますが、今度の分も買おうと思っているのです。これによっても私が、諸君にお奨めするわけが分かりましょう』。

『定本版・吉田松陰全集』


少し長い引用になったが、森先生はこのように「吉田松陰全集」を読むことを奨めているのです。このなかで言っている「全集」というのは昭和11年に刊行された「定本番・吉田松陰全集」を森先生が保持しているのですが、内容が原文(実は大半が漢文の白文)で、これを自家薬籠中のものにするのは大変なのである。中国の古代史、人物史や思想史、長州藩の内情、幕末史、漢文の素養等々が基本的に身についていないと太刀打ちできない難解な書物なのである。
私も保持しているが、大変な書物である。このため、国民的な知的財産足り得なかったので、原文を書き下しにし、さらに特殊用語には註を施して、理解しやすいように工夫して再度の刊行となったことを、森先生が「読んでご覧なさい!」と奨めているのです。

『杉家本・吉田松陰』


この内容ですと、ある程度の努力をすれば理解できるものなのです。
これを精読するだけで、師範学校卒業の価値があると言っているわけですから、自ずとその意味がわかるでしょう。この全集を「普及版・吉田松陰全集」と呼称しているのです。

さらに、戦後生まれの世代にとっては、これすらも難解であることから、昭和47年に「学制発布百年記念」として大和書房から、さらに読みやすくして、脚注を沢山挿入して江湖の期待に応えたのが「大衆版・吉田松陰全集」なのです。
戦前の「高等師範」の講義でこれを言っているわけですから、その教育的価値の高さが伺えるものと思うのです。

この『修身教授録』という本には「流石に一流教育者のことば!」と思わせる記述がたくさん出て来る。
●人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形作る支柱となるのであって、受身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もないと言う、考えさせる言葉である。
●人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにある。教育とは、そういう知恵を身につけた人間をつくることである。
●「自己教育」についてはこんなことも言っている。『自分が躬をもって処理し、解決したことのみが真に自己の力となる』と。
●もし教師にして、真に限りなく自らの道を求めて已まないならば、自分もまた生徒たちと共に歩んでいる、一人の求道者に過ぎないという自覚が生ずる。そして求道者たる点では自分と生徒たちとの間に、何らの区別もない。この時、生徒は我と共に道を求めて歩むものである・・・・・・。松陰は、教えることはできないが、一緒に講究することは出来ると入塾希望者に答えたという門下生の回顧談が残っている。なるほど、と首肯されられる。


『松陰の妹婿・小田村伊之助』
【2012/11/02 21:51】 エッセイ
『小田村伊之助』(楫取素彦) 
(関係人物略伝、吉田松陰全集第9巻:494頁)収載分より


吉田松陰を陰で支えた人物に「小田村伊之助」という学者がいる。
江戸在勤が長く、松陰は松下村塾を主催するに当たり彼を教授陣の一人として、帰国を待ちわびた。
松陰が江戸遊学中に妹・壽と婚姻しており、この時に松陰は立ち会っていなく、書簡でこの慶事を知った。
松陰は篤くこの人物を信頼し、松下村塾はこの妹婿に運営を委ねる積りだった。

『杉家本・吉田松陰』


学者肌のため、政治的に脚光を浴びる機会は少なかったが、藩内の「革新派」と「俗論派」の内訌で、松陰と同じ野山獄投獄も経験する。

この内訌戦(長州では元治の内訌と呼称)で兄「松島剛藏」は、松陰の修行時代の師であった「山田亦介」と共に恭順派の為に斬殺され「野山十一烈士」と言われた。小田村は生き延びて、維新後國家の重鎮の一人として活躍する機会を得た。
先妻の壽亡きあと、母「たき」の勧めに従い、久坂玄瑞に嫁いだ文が、再婚せずにいたことから再婚。松陰の妹二人と婚姻という深い縁があった人物である。

安政六年五月松陰が江戸召喚を受けた時に、小田村に送った『至誠にして動かざるは未だ之れ有らざるなり』は大変有名である。元来は『孟子』の言葉だが、松陰はこの言葉を座右の銘として生涯を送ったほど大切にしていたのである。このことは、松陰全集の『東行前日記』に収載されている。


小田村伊之助



名は哲、諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、通称を久米次郎又は内藏次郎といひ、小田村氏の養嗣となるに及び伊之助と改め、後に文助・素太郎といひ、慶應三年九月楫取素彦と改む。號は耕堂・彝堂(いどう)・晩稼・棋山・不如帰耕堂等あり。

文政十二年三月十五日萩魚棚沖町藩醫松島瑞蟠の次男として生る。松島瑞益(剛蔵)の弟にして、小倉健作の兄なり。小田村家の養子となれるは天保十一年にして、その家は世々儒官なり。

弘化元年明倫館(長州藩藩校)に入り、同四年十九歳にして司典助役兼助講たり。

二十二歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積良齋・佐藤一齋に教を受く。
松陰は嘉永四年江戸に遊学して小田村と相識るに至り、後同六年松陰の妹壽が小田村に嫁ぐや、両人の関係更に密接となり、爾後公私ともに骨肉も及ばざるものあるに至れり。

松陰曾て小田村に感謝して曰く、「吾れ曾て三たび罪を獲(亡命・入海・再獄)、君皆其の間に周旋す。吾れ再び野山獄に繋がるるに及びて君力を致す最も多し・・・・・・」と。

概ねこの類なり。安政二年四月小田村は明倫館舎長書紀兼講師見習となりて令名あり。翌三年二月相模出衛を命ぜられ、同四年四月歸國、明倫館都講兼助講となる。

この頃より松陰の教育事業は漸く盛んになり、翌五年十一月松下塾閉鎖まで、小田村は直接關係なきも、松陰の信頼篤く、始めはその計画に参与し、時々過訪して間接の援助を與へ塾生とも相識るに至る。

而して松陰の激論を拘制しつつ相敬愛せるところは二人の交の特色なり。松陰投獄後塾生指導の任に膺(あた)り、國事逼るや又塾政を顧ること能はざりしも、明治以後杉民治と共に一門の中心となりて松陰の顕彰に尽力せしこと多大なり。

至誠 松陰


萬延元年山口講習堂及び三田尻越氏塾に教へ、文久元年以後専ら藩主に扈従して、江戸・京都・防長の間を東奔西走す。元治元年十二月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶應元年二月出獄。

五月には藩命により當時大宰府滞在中の五卿を訪ひ、四境戦争の時は、廣島へ出張の幕軍總督への正使宍戸備後介(山県半藏)に副使たり。

慶應三年冬長藩兵上京の命を受くるや緒隊參謀として出征し、公卿諸藩の間に周旋し、遂に伏見鳥羽の戰に於て江戸幕府の死命を制するに至らしめたり。

維新後一旦歸國して自藩に出仕、五年出でて足柄縣參事となり、累進して群馬縣令となり、その後元老院議官・高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等歴任し、又貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられしことあり。

これより先き明治二十年男爵を授けらる。大正元年八月十四日歿す、享年八十四。特旨を以て正二位勳一等に敍せらる。

松陰の妹・寿


妻壽よく家を守り、二兒を教育して夫をして後顧の憂なからしめ、夫の入獄時又は四境戰争時の如きは烈婦として令名を馳せたり。惜しいかな晩年健康勝れず、明治十四年遂に夫に先だちて歿す、年四十三。後妹美和入りて嫁す。





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