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茨城県県南生涯学習センター【天章堂講座】①
【2012/12/30 12:29】 エッセイ
【天章堂講座】登場人物の概略①

2013年10月から開講される「茨城県県南生涯教育センター」の【天章堂講座】に登場する人物を、写真入りで概略説明を書いてみた。

茨城県と言えば、江戸時代に在っては「御三家・水戸藩」の最重要な藩であり幕末に建設された「弘道館」である。この弘道館は、広い意味で言えば「大日本史」編纂の流れから「水戸学の系譜に位置づけられる、「学問の府」であり、「日本三大庭園の一つ偕楽園」もほぼ同時期に、徳川斉昭藩主時代に成ったものである。従って、この講座名も「茨城県弘道館アカデミー」が総合的な名称で、「県民大学、天章堂講座、等の緒講座に細分化」されていて、「天章堂講座」は、教養、歴史を主とした講座の位置づけであるようだ。

そこで、最小限の説明と、写真を添付して概略をブログにも掲載して置く。この二枚の写真は、「弘道館」と「弘道館にある水戸学の象徴的な尊攘の書」である。
弘道館を訪れた人なら、必ず見たことがあるに違いない。ここには嘉永四年・東北旅行の途次立寄った「吉田松陰」の「漢詩」も保存されていて観光客や吉田松陰ファンを楽しませてくれる。


弘道館24.10.5尊攘(弘道館)


原則的には時系列を意識しながら構成したが、多彩な人物が登場する。

第1回、 徳川斉昭(出来れば水戸学の系や、藤田東湖、会澤正志斎も触れたい)。徳川斉昭は水戸藩第九代の藩主として、「天保の改革」を指揮し、藩政改革に顕著な実績を挙げた人物。「尊王攘夷の巨魁」としても知られる。ただ個性が強く、己の信念で改革を実行したが為に、反対派の誣告もあり、意味不明ながら幕府から謹慎を言い渡され、さらに安政の大獄では、大老・井伊直弼との対立もあって晩年は苦悩した。永蟄居という大名としては改易に次ぐ処罰を受けた。改革派のブレーンとともに推進した「天保の改革」は、藩政レベルのものだったとはいえ、これを断行した功績、そして天下の副将軍(定府:参勤交代がなく江戸常駐)として、ペリー来航以来、海防参与として幕政に貢献。幕末名君の一人として良いと思われる。

徳川斉昭24.10.5

第2回、 島津斉彬(幕末の名君たちと銘打ってあるので、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城も)。
薩摩77万石の藩主、島津斉彬は前藩主の隠退・隠居の実現が長引いたため、難産だった。43歳であるから、早ければとうじでは隠居もありうる年齢でもあった。しかし、世子時代からその見識、力量を認められ、待望久しい殿様の実現であった。藩の近代化を図り、薩摩を雄藩にした原動力は大藩の藩主という立場もさることながら斉彬の存在が大きい。雄図半ばで急死してしまったのが惜しまれる。この頃の名君と言えば宇和島藩の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の松平慶永らが挙げられる。その筆頭にあるのが島津斉彬であることは誰もが認めるにちがいない。

島津斉彬24.10.12

第4回、 佐久間象山と横井小楠、(幕末維新期の先駆的思想家として、先覚者の人生を紹介)。
ほぼ同年代に生まれ、幕末の先駆的思想家として活躍したが、先覚者というのは実像が理解されず悲劇的な人生の結末を迎えるもののようである。
象山は松代藩(準譜代)の生まれ、藩主は田安家出身の真田幸貫であった。真田は天保年間に老中(海防掛)を務めたことから、象山はその顧問として海防研究をすることになる。元来が朱子学者であるが、二度の江戸遊学の機会を持つ。勝海舟の妹と結婚。多彩な人脈をもつが、門下に米百俵で有名な小林虎三郎、松下村塾を主催して多くの俊英を育成し、明治維新の発火点となった吉田松陰がいる。松陰の密航に連座して蟄居、禁が解けて間もなく京都で暗殺される。一方横井小楠は、肥後熊本(細川54万石)の藩士の家に生まれる。時習館の秀才として肥後実学党を率いる。嫡子相続の時代にあって次男であった事から、藩内では恵まれぬが、縁あって越前藩に招かれ、藩政をリードした。藩主は松平慶永であることから、幕府への建言も行う。新政府の参与となるが、間もなく象山同様京都で暗殺されてしまう。

佐久間象山24.11.02

第5回、 吉田松陰『明治維新の発火点』となり【松下村塾】での教育と留魂録の精神等を紹介したい。
日米和親条約の締結された年の嘉永7年3月、下田からペリーの艦隊に渡米を企てるも失敗。この勇気ある行動は一躍吉田松陰の名を全国に知らしめた。以後、その刑死までの六年半は自由を奪われてしまう。類まれな教育への情熱は「松下村塾主宰者」として幾多の人材を育成する。高杉晋作、久坂玄瑞は「松下村塾の双璧」といわれ、幕末期の活躍は松陰の人材育成の手腕に負うところが大きい。
「草莽崛起論」の実践が藩から咎められて、再度の獄中生活を余儀なくされるも日本への侵略を阻止する情熱は最後まで衰えず、幕府否定の考えが「安政の大獄」に巻き込まれてしまい、惜しまれる人生の終結となる。若干29歳であった。門下生への遺書たる『留魂録』を残し、松陰精神の継承を託しつつ刑死。
膨大な読書と思索、著述を残し『吉田松陰全集10巻』が昭和十一年に刊行される。
この全集は、皇室に献上されるという貴重な書籍でもあり、幕末史および吉田松陰の生涯を余すところなく伝えている。
長州藩の思想的先駆者の役割は、それのみにとどまらず「尊王攘夷」を旗印として、幕末志士たちに大きな影響を与えた。

吉田松陰25.11.09

第6回、 井伊直弼(大老と井伊直弼、徳川斉昭との確執、一橋派への処罰、橋本左内も紹介したい)。
譜代大名の筆頭の家柄に生誕するが、14男ということから部屋済みでの生涯を覚悟するが、歴史の女神は直弼に藩主の座を与える。ペリー来航以来の難局を乗り切るために、時の課題に果敢に挑み、将軍継嗣問題、日米修好通商条約の調印を大老就任とともに処理するも、朝廷との齟齬から幕府権力の再興を期して、ついに「安政の大獄」を引き起こす。その処罰者は有力大名の謹慎、強制隠居に始まり、公卿、志士たちを厳しく罰した。徳川斉昭との対立が、水戸藩への峻烈を極めたことから、反動として、万延元年三月、登城の機会に報復の暗殺を企てた水戸の浪士たちによって横死する。いわゆる「桜田門外の変」となって幕府権力の衰退となり、動乱の時代の幕開けとなる。処刑された惜しまれる人材は、一橋派の越前藩士、橋本左内、吉田松陰らの幾多の人材を刑死させ、自身は死後も悪役となってしまった。

井伊直弼


第8回、 高杉晋作(「松下村塾の双璧、久坂玄瑞との対比、吉田稔麿や入江九一等」も語りたい)。
『留魂録』の遺書を残して刑死した吉田松陰の精神は、自らが育てた門下生に継承される。後継者の筆頭は久坂玄瑞と高杉晋作であることは、あまりにもゆうめいであるが、此の他に「松下村塾の四天王」といわれた吉田稔麿や入江九一らもいる。松陰晩年の考えは、幕府や諸侯を頼りにしていては、西欧に対処できる日本は覚束ない。「草莽崛起」に賭けるしかないというものだった。この考えは、門下生のよきく理解する所となり、難局打開策として長州藩の努力へとつながってゆく。とりわけ高杉晋作は「奇兵隊」を創設し、藩の正規の兵隊と異なる藩軍として長州征伐や戊辰の役に華々しい活躍をする。藩内の激しい内訌戦を勝ち抜いて、割拠論を主張して「功山寺の挙兵」はつとに有名である。一方の久坂玄瑞は、航海遠略策を是とした反論を潰し、尊王攘夷に転換させた。幕末長州藩の苦悩を卓抜な頭脳と行動力で打開し、志半ばの「禁門の変」で自刃。最も有能と言われたその才能を開花し切れず、惜しまれる人材として大成させたかった人物である。

高杉晋作25.12.07
今回が第1回目で、続いて登場人物が続々と出てきます。
3回位の分割で書きます。
急遽、事情があって女性に関する記事も追加予定です。
順番も変更になります。
幕末にあっては、芸者幾松。
明治にあっては女子教育の先駆者・津田梅子を登場させます。
また、鎖国に終止符を打たせたM・ペリー、やT・ハリスも取り上げます。<つづく>



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『天章堂講座』へのアプローチ
【2012/12/24 23:50】 エッセイ
「幕末・維新史をどのように学ぶか」

弘道館24.10.5


幕末維新史に関心・興味を持つ人は、一般的には「嘉永6年のペリー来航」を以て幕末史の開幕を告げたように思う人が多いかもしれない。
それはそれで、間違いではない。


ただ、その事件が歴史の大きなターニングポイントになったことは、誰もが首肯するところである。
近年の流行言葉でいえば「ペリーショック」という表現になるだろう。
しかし、歴史の変遷は、単なる一つの事件を以て、十全たりえない。

黒船2425.10


歴史学は、多面的な変遷を見渡さなければならない。いわく『社会史、政治史、経済史、人物史、地域史、民衆史、芸能史、様々な立場の人々が複雑に織り成す生活史』等々を網羅して認識、記述しなければならない。それを、実証するものとして、「信頼されるに堪え得る史料」が存在し、それらが「史料批判」を経て、正しく認識・叙述されなければ『過去との絶えない対話としての歴史の再構成は不可能』である。

『偶然・必然・自由』という要素が基本的な認識が基底に在って、様々な事象を総合的にとらえなければならない。「分析と総合」は学問研究に欠かせない要件である。そこで見逃してはならないのは、人間の在り方、考え方、行動のありかた等を学ぶことである。大変に多面的なので、困難が伴うが、現実の世の中とはそういうものである。「見えない自然」という言葉がある。人間の考え方や行動は帰納的に認識される。

今回の講座は、そのうちの「人物」に焦点をあてて「歴史に学ぼうとする」試みである。一般に、政治史や経済史は、教科書的な学び方になるが、人物史は社会人経験者にとっては、まことに興味が尽きない。なぜか?。
人生を生き抜くことの困難さを体験的に知っている人々にとっては、興味津々なのである。自己の確立した人は、歴史の動かし方にたいして、自分だったらどのように行動するか?と自らに引きつけて考えることが出来るからである。幸運、悲運様々に織り成す人生模様。それが歴史を学ぶ醍醐味なのであろう。

松陰正装画像



吉田松陰がいみじくも喝破したように歴史を学ぶことは、とりもなおさず人間とは?を学ぶことなのである。松下村塾記に強調される「学は人たる所以を学ぶ為り」との名言は、けだし人生一般に当てはまる名言なのである。
人は常に「どう生きるか」を模索し続ける。それは、人生の実際そのものなのである。それゆえ、生き方を学ぶ機会を提供してくれるのが「歴史を学ぶ」ということなのである。
そうして、「歴史に学んで」己の人生に役立てる契機となることこそ「歴史講座・教養講座を学びたい」として多くの人々からの要請が発せられる。

茨城県県南生涯学習センターが、「歴史講座を求める」理由の一端がそこにある。人間の持つ向上心がそれを求めてやまないのである。そういう観点に立って考えると、小学校に始まる教育制度としての学校は、豊かな社会を反映して『人間とは何か?』を考える遑を与えない。知識偏重の過程に堕落してしまっている。聖職者観の消え去った今日、自由と権利を混同して、分別すらつかないままに、実社会へ送り出される人々がいかに多いことか。
人間を教えない教育は、教育では実はないのである。

徳川斉昭24.10.5


わたしが、「人は教育によって人間となる」と説明をした時の若き大学生諸君たちが、眼を丸くしていた。おそらく、こうした自分を、そしてまた人間を考える教育が、文部科学省の指導要領に組み込まれていないか、さもなくば、軽視されているのであろう。難関大学に多数の合格者を輩出することをもって使命を全うしたという、本末転倒した教育職についとぃる人々が多いのではなかろうか? 


教育は國家百年の計であるとは明治このかた、心ある人たちから発せられた重要なメッセージであるが、現実にはそれが生かされているとは、とうてい思えない。

今回の『天章堂講座』の開講にあたって、心すべきことと思う。聴講者の方々と共に、ある種の共通認識をもって学べることを願うのみである。吉田松陰が嘉永年間に江戸遊学して、他藩の仲間から「御藩の人は日本のなりたちについての認識が欠けている」と指摘され、赤面ものだったことが吉田松陰全集の書簡篇に出ている。
その後、過所手形(他国を通るときに提示する身分証明書・藩主の印形が必要)の発行を待たずに東北旅行を強行した時、水戸の会澤正志斎に親しく教えをうけて、目からうろこのおもいだった吉田松陰。

帰還するや、待罪期間中に日本書紀、続日本紀等を猛烈に精読したことが『睡餘事録』という文稿に記されている。
曰く、「身皇國に生まれて、皇國の皇國樽所以を知らずんば、何を以てか天地に立たん、ゆえに日本書紀三十巻、続日本紀四十巻を読破せり」と、すさまじいまでの取り組みようが記されている。

歴史に学ぶ


歴史を学ぶことは、単なる趣味ではないのである。いわく「人間開眼」の契機となることを祈って、開講に臨みたい。それが、指名された講師の使命なのである。

『日本の政治を通観してみると』
【2012/12/23 22:54】 エッセイ
『松陰人気』と『現代政治家』

長らく、私の胸にくすぶっていたことがあります。
それは、日本の政治家や政治の在り方が、何時も不満足な思いが残るのは何故か?浮かんでは消え、浮かんでは消えしていました。

日本人は「公の精神が不足・または欠けている」ということに思い至った。
そう「吉田松陰人気の源泉は徹底的な公の精神に貫かれていた」29年の生涯であった。

それを松陰流に言えば「至誠」なのである。
松陰にとって「誠とは人の道なり」なのであった。
それも徹底したもので、断然他の追随を許さず、自分に対しても峻厳を課したものであった。
ここが、現代政治家と決定的に異なる。


吉田松陰25.11.09

どうしてこれ程に「吉田松陰の人気が衰えないのか?」を両面から考えてみました。
『日本人には、孟子の言う「惻隠の情」が不足しているのだということ。』エゴイズムとは「間一髪の違い」があるけれど、「博愛の精神が欠けているのではないか?」勿論、すべてとは言わない。
徳川封建体制がどうして持続し・そうしてまた崩壊したのか?

身分世襲制度の長所と欠点を考えてみよう。人間は、誰もが自分が可愛いのは、異論あるまい。そして、様々な欲望を心中に潜ませている。
「人賢愚ありと雖も一二の才能無きは無し」(吉田松陰全集・福堂策)という吉田松陰の人間観は間違いない。
ここから、松陰の「長所を引き出す教育」が展開される。

高杉晋作


頑質な高杉晋作を巡って、木戸孝允と意見交換をしたのが安政6年の2月。
「矯正」を主張する木戸孝允(幕末期は桂小五郎)に対し、松陰は高杉の大成を実現するには、「長所を伸ばすことこそ高杉の為になる」として、木戸孝允に「十年後に國家の大事を議する時は、僕は高杉に諮る」として、晋作の潜在能力に期待すると木戸を説得。

果たせるかな、高杉は松陰亡きあと、「松陰精神の継承者」として幕末長州の雄として大車輪の活躍をしたのは幕末史に興味ある人なら、誰でも知っているだろう。
問題は、ここにある。
「角を矯めて牛を殺す」という言葉がある。欠点の指摘や矯正は慎重を要する。

高杉家は200石の格式を誇る家柄で、松下村塾生の中でも、最上等の家柄に属する。
良家の一人息子として、わがまま一杯に育てられた。
父の小忠太は藩府の高級吏員として、守ること、つまり高杉に家名の傷つくことをしてくれるな!といつも言い聞かせていた。高杉本人は、松下村塾に内緒で通っていた。
藩校明倫館の教育の在り方に納得していなかったのである。
だから、盟友の久坂玄瑞の誘いのままに、確固たる信念無きままに松陰を訪問した。

和歌を披露して、松陰に評価されず、松陰をいつか屈服させたい願いが、次第に松下村塾にのめりこんでゆくという、知られざる一面を持っていた。
通い続けるうち、いつしか松陰の魅力に取りつかれてしまう。
さらに、いつも久坂玄瑞との比較で、高杉の負けん気をくすぐられ続ける。
この経緯は「高杉暢夫を送る序」に書かれている。
これは、教育的価値の高い文稿として多くの松陰の著述の中でも高い評価を得ている。

歴史に学ぶ


「人を見て法を説け!」と言う。将に松陰は高杉の人となりを見抜いて、説いたのである。
結果は「してやったり!」であることは、おおくの高杉を識る人々にとっては、首肯するだろう。ここに松陰の教育者の真骨頂とでもいうべきものがある。品川弥二郎しかり、入江杉蔵しかりである。

さて、掲題の原点に戻る。世襲の政治家は、「起業家」のような覇気や執念がない。血のにじむような努力をしなくても「地盤・看板」がある故、「土下座して、這いつくばる」ような信念の吐露がない。
加えて、世襲制の「うま味」を先天的に持っている。

二世三世の議員が跋扈する淵源がここにある。
本当に、この日本をどうする?の気迫はいずこに在りや?選挙区の支持者獲得に勤しむあまり、代表と代理をはき違えてしまっては困るのである。
「死と隣合わせ」の覚悟なくして、國家を背負えますか?恥の文化を保持する日本は、渾身の努力を時に妨げることがある。
きれいごとで、日本の舵取りをしようとすると間違えますよ!と言いたい。

なぜ吉田松陰が下田密航を企てたか?大変なリスクを冒してまで、挑んだか?

24.3.20松陰下田蹈海


日本人としての矜持を保持せんがための「捨て身」の行為であったのだ。
それが証拠に、幕府の評定所での取り調べに対して、「もとより、万死は覚悟の上と意見を開陳している」。
松陰の赤誠に打たれた奉行は、寛典を以て処罰をランクダウンして、国元にて謹慎・蟄居を言い渡す。
松陰の「国を思う心に打たれたのである」。
日本の政治史を通観してみると、「私」的な政治運営手法がとられ続けてきたことがわかる。それも、常に天皇を利用してきたのである。
天皇の存在が侵されそうになっている現状打破に立ち向かったのが、後の天智天皇と藤原鎌足の策謀による「大化の改新」という、古代日本史の最大の政治的事件である。

藤原鎌足24.12.23

曽我氏の専横の危険を読んだ藤原鎌足の、洞察力と、果敢な行動が日本の危機を救った。


いま、政治家と称して国会議員に名を連ねる方々に、「歴史をこのように学ぶ」姿勢持っていただきたいものである。
当選の暁のバラ色に憧れるのではなく、日本国の為に「公の精神」を忘れずに願いたい。
公設秘書の人件費だけでも、一人当たり800万円を要すると言われる。3人で2,400万円です。
それは表向きの経費ですよ。
そのほかに私設秘書を数人雇用する。政党助成金だけで切り盛りできないから、「政治献金」を無限大に欲しがる。
日本に本当の政治家が育たない淵源ともいうべきものがここらへんにあるように思えてならない。
今日は、年末でもあるので、何時もと趣向をかえた記事を書いてみた。




天章堂講座=【幕末維新のヒーローたち】
【2012/12/22 19:41】 エッセイ
「天章堂」講座・茨城県県南生涯学習センター

弘道館24.10.5

平成25年10月から表記の講座の講師依頼があったが、連絡をとってみて驚いたのは、ネットで「大東文化大学のオープンカレッジを検索」して、講師依頼が大学の地域連携センター事務局あてに届き、それを私が受け取ったことで、担当講師となった。講師依頼がネットでなされる時代に驚きを禁じ得ない。
15回の連続講座で『幕末維新のヒーローたち』の講座名は、大東文化大学と同名にした。講座計画は以下のようにしました
徳川斉昭24.10.5

①徳川斉昭
②島津斉彬と幕末名君たち
③「ペリー」と「ハリス」
④佐久間象山と横井小楠
⑤吉田松陰
⑥井伊直弼と「安政の大獄」
⑦「天璋院篤姫」と「皇女和宮」
⑧「高杉晋作」と「松下村塾の俊英」たち
⑨徳川慶喜と勝海舟
⑩幕末・明治を彩る女性たち「芸者幾松と津田梅子」ほか
⑪西郷隆盛と大村益次郎
⑫坂本龍馬と中岡慎太郎
⑬福沢諭吉と大隈重信
⑭大久保利通と木戸孝允 ⑮伊藤博文と山県有朋
の15回である。
西郷隆盛25.01.11


以上が、講座計画である。③と⑦・⑩は先輩に講師を依頼した。好評ならば、翌年の連続講師継続もあるという。市民大学講座的なコンセプトのようである。

大変残念なことであるが、この講座計画書を書いてから、①タウンゼント・ハリス②幕末恋物語、③幕末・明治を彩る女性群像、を担当予定だった加賀谷稔講師が年末の12月29日早朝に急逝された。残念。合掌。
そうして、この予定は長谷川が担当することに変更された。

上記の中で、研究書籍が少ないのが、徳川斉昭、横井小楠、大村益次郎である。茨城県なので、斉昭をトップバッターに据えたが、勉強してみると意外な事実に出逢う。藩主就任をめぐる事情が、薩長と伍して行けなかった水戸藩独特の特殊事情があるのである。

大日本史に始まる「水戸学」の系譜のなかで、後期水戸学は内紛をはらんでいた。加えて斉昭と井伊直弼の対立から、安政の大獄に発展し井伊直弼の過酷な水戸藩への処罰が裏目となり、現職大老の白昼暗殺という前代未聞の不祥事として復讐されてしまう。幕府権力維持の強硬策が結果として、幕府権力の崩壊過程の促進化を促す皮肉な幕末史となる。


茨城県


結局、水戸藩も藩内抗争のために藩論が統一を見ることが出来ず幕末政局から脱落、譜代大名の筆頭である井伊家とともに『貧乏くじ』を引くはめになる。そういう意味では会津藩と同様の犠牲者的な藩の命運をたどることになった。

幕末維新は、こうした有力藩や有能な人物、志士、に幕府と朝廷が複雑に入り乱れ、徳川の政権返上、討幕へと連なり、明治維新政府誕生となる。徳川斉昭の誕生が寛政12年(1800年)、最後を飾る山県有朋の死去が大正11年(1921年)であるから一世紀以上に及ぶ期間を扱う形となる。

吉田松陰25.11.09


明治維新は、日本が世界史の舞台に引っ張り出され、国際社会の一国家として対応努力のための、国家改造の変革過程である。唯物史観的に表現すると、幕藩体制の諸矛盾が顕著になり、苦悶する統治体制の在り方に、ペリー来航が重なり、革命(あえてブルジョワという言葉は避ける)を起こさざるを得なかったということになり、天保元年(1830)から、明治23年の帝国議会開催までの長い変革過程と捉えられる。
歴史に学ぶ


「歴史は人によって作られる」、同時に「歴史は過去との対話である(E・Hカー)」。「歴史を人物面から照射して学んでみるのも、一つの楽しみ方の一方法である」。楽しみながら学ぶ講座としたい。

『吉田松陰先生』に聞いてみたい
【2012/12/19 00:42】 エッセイ
民主党・野田総理大臣2012.12.18
『国政選挙の結果に思う』

2012年12月16日、衆議院選挙が実施された。

敗戦を予測しながらも「覚悟の解散」を決断した野田総理大臣。
この決断は、三年間に務めた「三人の総理大臣」のなかで唯一「称えられるべき」決断だったと思える。

我が身可愛さに、「公の精神」を忘れて、私利私欲に走る国会議員が多い中で、「捨て身」の思いでの決断だったろうと思われる。



現職、前職の国会議員の代議士(参議院議員は代議士とは呼称しない)に問うてみたい。「国のために殉職の運命に出会って、その覚悟があるか?」と。
吉田松陰は、その覚悟で生涯を送った。だから評定所での「言い渡し」の直後、朗々と『吾、今国のために死す、死して君恩に負かず、悠々たり天地のこと、鑑照明神に在り』と吟唱した。

この心が、国会議員の方々はどの程度お持ちなのであろうか?問いたいものである。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし』と、愛弟子の問い合わせにたいして、獄中から答えた吉田松陰。

松陰岡部本24.4.23


「死」は一度しかできない一人の人間の人生において、堂々と覚悟し、自らの「死」を以て、これを手本と認識させ、門下生のために死んで見せた師匠(吉田松陰)の生き様。これを「凶頑と謗り、故郷党衆く容れず」と心残りの文字が「自賛肖像画の賛に書かれている」。いつの世も先覚者への理解は、なかなか思うようには得られないものである。

「死の前日」に五千字に及ぶ「門下生宛に書き上げた遺書としての留魂録・二通」。今日まで伝わるのは二通のうちの一通。それは、「伝馬牢」の名主であった「沼崎吉五郎」に託したものである。
普通なら、「牢名主」は高飛車に高慢なたいどで「いばりくさって」いるのだが、この二本松藩士たる沼崎は吉田松陰に私淑してしまい、「松陰先生」と尊敬の念を抱き、松陰の遺書を命懸けで保持し続けた。

そして、二十年に及ぶ「遠島」の刑期を三宅島で過ごし、帰還したときは「徳川時代」ははるかに過ぎて、文明開化を謳歌する明治九年であった。託された趣旨は「長州藩」の人物なら誰でも良い、刑期を終えたら必ずとどけられたい!というものであった。おそらく命懸けの思いで懐に大切にしていたのであろう、「男の約束」を果たすべく、時の神奈川県令だった野村靖(幕末期は野村和作)を訪問して手渡したのが今日に残る、松陰自筆の『留魂録』である。これは今、「萩の松蔭神社」に大切に保管されている。

留魂録


安政三年八月、生家の「杉家」に幽囚の身であった吉田松陰は、安芸の勤王僧「默林」との往復書簡で『若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり・・・・・・』(松陰全集第七巻・四四二頁)と書いた。

松陰死後の門下生の奮起への促しは、留魂録の精神として有名な話である。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江杉蔵の「松下村塾の四天王」をはじめとして、幕末維新期の「吉田松陰の志を継ぐ人々」の活躍は歴史ファンなら誰もが知るところである。だから、明治維新(徳川の政権返上)以来150年を経た今日でも松陰の「志」は脈々と受け継がれ、全国で最多の総理大臣を輩出したのである。

「知行合一」の教えに賛同した松陰は、身を以てその王陽明が説くところの精神を実践して見せたのである。見事なまでの言行一致は、他の例を私は知らない。今日の民主党政権が、単なる政権欲しさに「権力イコール数」と馬鹿な信仰にマインドコントロールされて「マニフェスト」を自ら偽る行動となった。菅直人元総理大臣は、出身は山口となっている。この人物が、総理の就任の時「奇兵隊内閣」とでも呼称してもらおう・・・・・・と言った。
彼は、山口県立宇部高校から東京都立小山台高校に転入学した人生行路をもつ。したがって卒業は都立小山台高校である。この高校は昭和21年生まれを境に、東京都の学制改革で「学区」から「学校群」へ変更する前の最後の年代である。当時は「第一学区」として、「名門・日比谷高校」に次いで、東京大学の合格者数が40名前後。東京工業大学に至っては、数年間全国一の合格者数を誇った名門高校である。

小山台高校24.3.23


菅直人、御手洗経団連会長、山田洋二映画監督、筑紫哲也等々、多くの功績を遺した人物を輩出した名門校である。勿論、山口の宇部高校は知る人ぞ知る進学の名門校で、山口県下では下関西高校や山口高校、徳山高校などとともに県下の有数な進学の名門校である。でも、言行不一致では、松陰門下の高杉晋作の創設になる「奇兵隊」精神とは相いれない。鳩山元総理などは、先を読んでか「さっさ」と立候補をおりて落選の汚名を免れている。賢いというか狡猾というか、この形容詞はどういった表現があてはまるものか、私は知らない。

国民は、この民主党政権の実態を知っている。自民党の長期政権による腐敗政治への鉄槌の結果、幸運にも政権を握ったに過ぎない。それを、国民に支持があったかのように錯覚したしたことが、今回の選挙結果を見た。
「青ざめた馬を見よ!」といった、題名の小説の言辞が想起される。
「内憂外患」は幕末の水戸藩主だった「徳川斉昭」の造語であるが、まさしく今日の日本はこれである。
さあ!どうするか。
黄泉の国から吉田松陰が『大喝!』と叱っているに違いない。

歴史に学ぶ


「歴史を学んで、歴史に学ぶ」ということばがある。
この「を・に」とでその意味するものは、大きく異なるのである。
心して忘れてはいけない言葉だと思う。

頑張れ!日本。としか、言いようがない。
変則的なナショナリズムが台頭してこないことを願うばかりのみである。


『吉田松陰研究者』としての玖村敏雄先生
【2012/12/03 22:52】 エッセイ
哲学者にして教育学者の「森信三」先生が、その著『修身教授録』で『吉田松陰全集』の購読のススメを書いていることは前回紹介した。
その『吉田松陰全集』の編纂(定本版・普及版とも)、刊行に深くかかわった研究者に、「玖村敏雄先生」がいる。この二人の恩師は「西晋一郎」先生である。


西先生は、「東の西田幾多郎」、「西の西晋一郎」と言われ、日本の哲学会をリードした著名な方である。知名度という点では西田幾多郎が『善の研究』という名著を残したため一般には多くの人の知るところとなった。

玖村敏雄先生が西晋一郎に学び、森信三先生は西田幾多郎に学んだ。ともに明治29年生まれである。当初は玖村先生も、教育学の研究者であったから、二人とも教育学者なのである。この森先生が『私の古い友人の玖村敏雄教授が、松陰先生については、恐らく現在わが国における最高の権威者といってよかろうと思う』といっている。

実は、森信三先生は当初「広島文理科大学」(今の広島大学)に入学し、西先生門下の一人なのである。同じ年の誕生だから同級生の可能性があるわけである。

広島大学
   (写真は 現在の広島大学)

「古い友人」とはこのあたりを意味しているのであろう。これを詳しく詮索するのはこの記事の主題ではないから、ここまでで留めて置く。

今日、書きたいのは「玖村敏雄先生」が、ペスタロッチの伝記に取り組もうとしていた時に、「定本版・吉田松陰全集」の企画が具體化し、意見を求められたところから、玖村先生の研究目標が大きく変化したのである。玖村さんは学者としての「人生の選択」にあたって、初心を変更するに躊躇して悩み抜いたようである。


西晋一郎


そして、恩師である「西晋一郎」に相談に伺ったのである。
此れに對して西先生は、「ペスタロッチ傅」をライフワークとすることと「吉田松陰全集」刊行に尽力することの「意味」を詳しく説明したという。
「ペスタロッチ傅」は玖村君でなくても研究・刊行は可能で、後継者の研究でも可能であるが、「吉田松陰全集」は「全日本」の意義があるから、松陰全集の刊行・研究に打ち込むべきだとの教示を受けて「吉田松陰研究」を撰んだという。

玖村敏雄先生


恩師の期待に沿うべく、以後の玖村さんは松陰研究に誠心誠意打ち込んだという。これは、玖村さんの門下生たちの筆になる『玖村敏雄先生伝』に臨場感をもって書かれている。
松陰研究には、「漢文の素養」「中国古代史への精通」「中国思想史」「日本の幕末史・毛利藩」等に就いて精通していなければならない。
「鬼神」ということばがあるが、それを彷彿させるほどの打ち込みようであったと門下生に回想されている。


一般に吉田松陰研究は「教育学・教育史」の観点から研究されるケースと「日本政治思想史」の面から研究される場合が多いといわれる。そしてまた「日本近代史」の分野からも研究がなされる。

今、吉田松陰の研究書での秀逸な著書(複数も含む)を挙げるとすれば、徳富蘇峰の『吉田松陰』と玖村敏雄の『吉田松陰』関連書、そして現代の海原徹先生の『吉田松陰』関連研究の三者の著作がそれに該当するのではないかと思われる。
徳富蘇峰の場合は『近世国民の歴史』という「社会史」的な観点からの叙述であり、玖村敏雄・海原徹先生の場合は「教育学」の分野からの研究といえるかと思われる。ただし、研究方法が玖村先生の場合は「教育者としての吉田松陰像」に對し、海原先生は「松陰と言う教育者の総合的な誕生背景」を網羅しながらの研究方法といえるだろうか。
しかし、吉田松陰の研究は管見の限り「慶應義塾」の福澤諭吉研究と双璧と言ってよく、誠に詳細の限りを尽くした各方面からの研究成果の刊行をみている。

福澤の場合は慶應義塾という一大教育機関が総力をあげて、微に入り細にわたってなされているのは当然としても、松陰の場合は山口県教育会という後ろ盾があるものの、各層に亘る非常に広い分野から研究発表がなされている。日本人の典型と原点を問うかのようである。

『東行前日記』連載⑪
【2012/12/03 18:14】 エッセイ
『東行前日記』⑪
吉田松陰全集大和書房版五七二頁 (編者附載)
   ○
夫れ人の一身、親に於ては則ち之れを子と謂ひ、君に於ては則ち之れを臣と謂ふ、之れを均しくして逃るる所なき者なり。然れども其の君に事ふるに方りては、其の親を忘れざるものあること鮮く、其の親に事ふるに及んでは、又其の君を忘れざる者あること鮮し。是れ君に忠して孝衰へ、親に孝して忠廢す、又焉之れを忠と孝と謂ふを得んや。
 右、楊椒山先生の語、吾れと清太兄と並びに深く感ずるあり、故に録して以て永訣の贈と為す。二十一回猛士

【用語】
楊椒山先生=楊繼盛
清太兄 = 久保清太郎
二十一回猛士= 吉田松陰の別号

   ○
士苟も正を得て斃る、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。機を見て作つ能はずんば、猶ほ當に身を殺して仁を成すべし。道並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。
己未五月、余、將に關東の行あらんとす。此れを書して舊友杜君松如に贈る。二十一回生


『吉田家本・吉田松陰座像』


   肖像自賛(原文)
三分出蘆兮諸葛己矣夫一身入洛矣賈彪安在哉 
心師貫高矣而無素立名志仰魯連矣遂乏釋難才
讀書無功矣撲學三十年滅賊失計矣猛氣廿一回
人譏狂頑矣郷黨衆不容身許家國矣死生吾久齊
至誠不動矣自古未之有人宜立志矣聖賢敢追陪


   (同上読み下し)
三分盧を出づ諸葛やんぬるかな、一身洛に入る、賈彪安くにありや。心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釋くの才に乏し。讀書功無し、朴學三十年、滅賊計を失す、猛氣廿一回。人は狂頑と譏り、郷黨衆く容れず、みは家國に許し、死生吾久しく斉うせり。至誠にして動かざるは古より未だ之有らず、人宜しく志を立つべし、聖賢敢て追陪せん。


【通釈と解説】
天下三分の計を図り草廬から出仕したという、諸葛孔明は最早この世に無く、
黨禁を訴えるため、一身で都に入ったという、あの賈彪はどこにいるというのか。
私の心はあの壮士の貫高を師としているが、元来世間に立てる程の名声は無く、
私の志は齊の高士の魯仲連を尊敬しているが、結局は難事を解決する才に乏しい。
読書もその効果がなく、学問に従って三十年になりながら、
外夷を滅ぼそうとの企ても失敗したー 勇猛心を二十一回振り起そうとしたのに。
世の人は私を頑固者と非難して、村人は多く私を受け入れてくれないが、
吾が命は國家に捧げており、死ぬにしろ生きるにしろ忠誠を尽くす心に変りはない。
至誠を盡せば心を動かさない者は古来一人もいないと孟子は述べたが、
諸葛孔明などの俊傑ほどには及ばないまでも、聖賢が求めたものを精一杯追慕したい。

諸葛孔明


この「自賛肖像」は、久坂玄瑞が村塾の画家松浦松洞に描かせ、これに小田村伊之助の発案で松陰が「賛」をしたことがわかる。五月十六日の朝から、萩出発の前日である五月二十四日の夕刻にかけて、八ないし九幅が画かれたようで、現在そのうちの七幅の所在が明らかである。なお、「賛」には「跋文」が添えられている。

【跋文】
己未五月、吾れ關左の厄あり、時に幕疑深重、復た歸ること期し難し。余因って永訣を以て諸友に告ぐ。諸友謀り、浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自ら之れに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に特だ吾が像を寫すのみならんや。況や吾れの自ら賛するをや。諸友其れ深く之れを藏せよ。吾れ卽し市に磔せらるとも、此の幅乃ち生色あらん。
二十一回猛士藤寅撰並書

【用語】
自賛=画に題して画面中に書かれた詩・歌・文を「賛」と云い、それを自分で書いたもの。
松洞=松浦松洞(門下生)
士毅=小田村伊之助
三分=天下三分のこと。三国時代、魏・蜀・呉の三国鼎立をいう。
盧を出ず=諸葛孔明が蜀の劉備の三顧の礼に感激して草ぶきの住まいを出て仕えた。
諸葛=諸葛孔明。三国時代の蜀の忠臣。五丈原で病死。
賈彪=後漢の人。党禁(宦官の専横問題)が起こった時、賈彪は一人で都に入り訴えた。
貫高=前漢の人。高祖の言動を怒り、殺害を公言。捉えられ許されるも、自殺した。
魯連=魯仲連。戦国時代斉の高士。有能なれど仕官せず、野に遇って難問解決にあたった。
朴學=素朴で地味な学問の事で、経學。松陰の自身の学問の謙譲表現。
猛氣二十一回=松陰の勇猛心を「杉」「吉田」を分解すると二十一の画数となる。
狂頑=理想が高くて実行が伴わず、頑なこと。
身は家國に許し=自身の命は藩に捧げる覚悟。
死生 吾久しく斉うせり=死生一如。いつでも死を覚悟している。
至誠にして・・・・・・未だ之れ有らず=『孟子』の離婁上にあることば。
古人 及び難きも=孔明をはじめとする昔の立派な人々には及ばないが。
聖賢 敢て追陪せん=聖人・賢人の道を求め進んで追慕しよう。





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