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『吉田松陰研究者』としての玖村敏雄先生
【2012/12/03 22:52】 エッセイ
哲学者にして教育学者の「森信三」先生が、その著『修身教授録』で『吉田松陰全集』の購読のススメを書いていることは前回紹介した。
その『吉田松陰全集』の編纂(定本版・普及版とも)、刊行に深くかかわった研究者に、「玖村敏雄先生」がいる。この二人の恩師は「西晋一郎」先生である。


西先生は、「東の西田幾多郎」、「西の西晋一郎」と言われ、日本の哲学会をリードした著名な方である。知名度という点では西田幾多郎が『善の研究』という名著を残したため一般には多くの人の知るところとなった。

玖村敏雄先生が西晋一郎に学び、森信三先生は西田幾多郎に学んだ。ともに明治29年生まれである。当初は玖村先生も、教育学の研究者であったから、二人とも教育学者なのである。この森先生が『私の古い友人の玖村敏雄教授が、松陰先生については、恐らく現在わが国における最高の権威者といってよかろうと思う』といっている。

実は、森信三先生は当初「広島文理科大学」(今の広島大学)に入学し、西先生門下の一人なのである。同じ年の誕生だから同級生の可能性があるわけである。

広島大学
   (写真は 現在の広島大学)

「古い友人」とはこのあたりを意味しているのであろう。これを詳しく詮索するのはこの記事の主題ではないから、ここまでで留めて置く。

今日、書きたいのは「玖村敏雄先生」が、ペスタロッチの伝記に取り組もうとしていた時に、「定本版・吉田松陰全集」の企画が具體化し、意見を求められたところから、玖村先生の研究目標が大きく変化したのである。玖村さんは学者としての「人生の選択」にあたって、初心を変更するに躊躇して悩み抜いたようである。


西晋一郎


そして、恩師である「西晋一郎」に相談に伺ったのである。
此れに對して西先生は、「ペスタロッチ傅」をライフワークとすることと「吉田松陰全集」刊行に尽力することの「意味」を詳しく説明したという。
「ペスタロッチ傅」は玖村君でなくても研究・刊行は可能で、後継者の研究でも可能であるが、「吉田松陰全集」は「全日本」の意義があるから、松陰全集の刊行・研究に打ち込むべきだとの教示を受けて「吉田松陰研究」を撰んだという。

玖村敏雄先生


恩師の期待に沿うべく、以後の玖村さんは松陰研究に誠心誠意打ち込んだという。これは、玖村さんの門下生たちの筆になる『玖村敏雄先生伝』に臨場感をもって書かれている。
松陰研究には、「漢文の素養」「中国古代史への精通」「中国思想史」「日本の幕末史・毛利藩」等に就いて精通していなければならない。
「鬼神」ということばがあるが、それを彷彿させるほどの打ち込みようであったと門下生に回想されている。


一般に吉田松陰研究は「教育学・教育史」の観点から研究されるケースと「日本政治思想史」の面から研究される場合が多いといわれる。そしてまた「日本近代史」の分野からも研究がなされる。

今、吉田松陰の研究書での秀逸な著書(複数も含む)を挙げるとすれば、徳富蘇峰の『吉田松陰』と玖村敏雄の『吉田松陰』関連書、そして現代の海原徹先生の『吉田松陰』関連研究の三者の著作がそれに該当するのではないかと思われる。
徳富蘇峰の場合は『近世国民の歴史』という「社会史」的な観点からの叙述であり、玖村敏雄・海原徹先生の場合は「教育学」の分野からの研究といえるかと思われる。ただし、研究方法が玖村先生の場合は「教育者としての吉田松陰像」に對し、海原先生は「松陰と言う教育者の総合的な誕生背景」を網羅しながらの研究方法といえるだろうか。
しかし、吉田松陰の研究は管見の限り「慶應義塾」の福澤諭吉研究と双璧と言ってよく、誠に詳細の限りを尽くした各方面からの研究成果の刊行をみている。

福澤の場合は慶應義塾という一大教育機関が総力をあげて、微に入り細にわたってなされているのは当然としても、松陰の場合は山口県教育会という後ろ盾があるものの、各層に亘る非常に広い分野から研究発表がなされている。日本人の典型と原点を問うかのようである。

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『東行前日記』連載⑪
【2012/12/03 18:14】 エッセイ
『東行前日記』⑪
吉田松陰全集大和書房版五七二頁 (編者附載)
   ○
夫れ人の一身、親に於ては則ち之れを子と謂ひ、君に於ては則ち之れを臣と謂ふ、之れを均しくして逃るる所なき者なり。然れども其の君に事ふるに方りては、其の親を忘れざるものあること鮮く、其の親に事ふるに及んでは、又其の君を忘れざる者あること鮮し。是れ君に忠して孝衰へ、親に孝して忠廢す、又焉之れを忠と孝と謂ふを得んや。
 右、楊椒山先生の語、吾れと清太兄と並びに深く感ずるあり、故に録して以て永訣の贈と為す。二十一回猛士

【用語】
楊椒山先生=楊繼盛
清太兄 = 久保清太郎
二十一回猛士= 吉田松陰の別号

   ○
士苟も正を得て斃る、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。機を見て作つ能はずんば、猶ほ當に身を殺して仁を成すべし。道並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。
己未五月、余、將に關東の行あらんとす。此れを書して舊友杜君松如に贈る。二十一回生


『吉田家本・吉田松陰座像』


   肖像自賛(原文)
三分出蘆兮諸葛己矣夫一身入洛矣賈彪安在哉 
心師貫高矣而無素立名志仰魯連矣遂乏釋難才
讀書無功矣撲學三十年滅賊失計矣猛氣廿一回
人譏狂頑矣郷黨衆不容身許家國矣死生吾久齊
至誠不動矣自古未之有人宜立志矣聖賢敢追陪


   (同上読み下し)
三分盧を出づ諸葛やんぬるかな、一身洛に入る、賈彪安くにありや。心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釋くの才に乏し。讀書功無し、朴學三十年、滅賊計を失す、猛氣廿一回。人は狂頑と譏り、郷黨衆く容れず、みは家國に許し、死生吾久しく斉うせり。至誠にして動かざるは古より未だ之有らず、人宜しく志を立つべし、聖賢敢て追陪せん。


【通釈と解説】
天下三分の計を図り草廬から出仕したという、諸葛孔明は最早この世に無く、
黨禁を訴えるため、一身で都に入ったという、あの賈彪はどこにいるというのか。
私の心はあの壮士の貫高を師としているが、元来世間に立てる程の名声は無く、
私の志は齊の高士の魯仲連を尊敬しているが、結局は難事を解決する才に乏しい。
読書もその効果がなく、学問に従って三十年になりながら、
外夷を滅ぼそうとの企ても失敗したー 勇猛心を二十一回振り起そうとしたのに。
世の人は私を頑固者と非難して、村人は多く私を受け入れてくれないが、
吾が命は國家に捧げており、死ぬにしろ生きるにしろ忠誠を尽くす心に変りはない。
至誠を盡せば心を動かさない者は古来一人もいないと孟子は述べたが、
諸葛孔明などの俊傑ほどには及ばないまでも、聖賢が求めたものを精一杯追慕したい。

諸葛孔明


この「自賛肖像」は、久坂玄瑞が村塾の画家松浦松洞に描かせ、これに小田村伊之助の発案で松陰が「賛」をしたことがわかる。五月十六日の朝から、萩出発の前日である五月二十四日の夕刻にかけて、八ないし九幅が画かれたようで、現在そのうちの七幅の所在が明らかである。なお、「賛」には「跋文」が添えられている。

【跋文】
己未五月、吾れ關左の厄あり、時に幕疑深重、復た歸ること期し難し。余因って永訣を以て諸友に告ぐ。諸友謀り、浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自ら之れに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に特だ吾が像を寫すのみならんや。況や吾れの自ら賛するをや。諸友其れ深く之れを藏せよ。吾れ卽し市に磔せらるとも、此の幅乃ち生色あらん。
二十一回猛士藤寅撰並書

【用語】
自賛=画に題して画面中に書かれた詩・歌・文を「賛」と云い、それを自分で書いたもの。
松洞=松浦松洞(門下生)
士毅=小田村伊之助
三分=天下三分のこと。三国時代、魏・蜀・呉の三国鼎立をいう。
盧を出ず=諸葛孔明が蜀の劉備の三顧の礼に感激して草ぶきの住まいを出て仕えた。
諸葛=諸葛孔明。三国時代の蜀の忠臣。五丈原で病死。
賈彪=後漢の人。党禁(宦官の専横問題)が起こった時、賈彪は一人で都に入り訴えた。
貫高=前漢の人。高祖の言動を怒り、殺害を公言。捉えられ許されるも、自殺した。
魯連=魯仲連。戦国時代斉の高士。有能なれど仕官せず、野に遇って難問解決にあたった。
朴學=素朴で地味な学問の事で、経學。松陰の自身の学問の謙譲表現。
猛氣二十一回=松陰の勇猛心を「杉」「吉田」を分解すると二十一の画数となる。
狂頑=理想が高くて実行が伴わず、頑なこと。
身は家國に許し=自身の命は藩に捧げる覚悟。
死生 吾久しく斉うせり=死生一如。いつでも死を覚悟している。
至誠にして・・・・・・未だ之れ有らず=『孟子』の離婁上にあることば。
古人 及び難きも=孔明をはじめとする昔の立派な人々には及ばないが。
聖賢 敢て追陪せん=聖人・賢人の道を求め進んで追慕しよう。





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