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『偉大なる藩政改革者』・「山田方谷」
【2013/01/27 22:21】 エッセイ
『備中聖人山田方谷』

平成25年1月12日、吉祥寺で「幕末史研究会」の例会があった。今回は幕末の「高梁藩」の財政改革の功労者「山田方谷」のご子孫に当たる「野島透」講師が担当してくれた。この「野島透」氏は「山田方谷」の著作も何冊か出版している。

この野島透氏は現役の財務官僚である。昨年末の総選挙で政権交代が成り、自民党の「安倍政権」の誕生となったのであるが、通常でも翌年度の予算案策定の超多忙な時期であるのに、加えて年末ぎりぎりの総選挙で「政権交代」となったので、当日までの異常な日程の中をやりくりして「講師」を務めて下さった。
冒頭に、異常な業務スケジュールを聞かされ、同情や、感心の思いが参加者に伝わったようだ。50代の前半という「若さ」のなせる業と思いながら拝聴した。

「山田方谷」なる人物は「知る人ぞ知る」大変な功績を挙げた人物であり、加えて有名な「陽明学者」としても著名である。明治を代表する漢学者であり、大正天皇の侍講・宮中顧問官を務めた「三島中州」や長岡藩の家老「河井継之助」等の恩師でもある。この三島中州は「二松學舎大学」の創立者「でもある。備中聖人とも呼ばれ」、吉田松陰とは会う機会がなかったが、松陰の一番弟子である久坂玄瑞は二度備中松山に「山田方谷」を訪問しているとの由。明治維新は「陽明学信奉者」が大いに活躍したという側面もある。このことが明治維新は陽明学が成し遂げたといわれるゆえんでもある。

山田方谷25.1.26


天保・幕末期は殆どの藩が財政の悪化に苦しみ、再建に苦労していた時代でもあった。水野忠邦の「天保の改革」は有名であるが、この時期は、一人幕府に限らず、三百諸侯と俗称されるように殆どの藩が枕を並べたように財政の行き詰まりを来していた。

大藩と呼称される藩は、おしなべて財政再建を果たしたのは教科書レベルで記述されているが、「小藩」は抹殺されてしまう。「山田方谷」の高梁藩は現在の岡山県倉敷市の北方に位置する「小藩」であった。藩主は「板倉勝靜」で田安家の血を引く名門の出である。寛政の改革で有名な松平定信や信州上田の「眞田幸貫」、松平春嶽も田安家の出である。

板倉勝靜25.1.28


むしろ、江戸幕府最後の筆頭老中「板倉勝靜」と言った方が解かり易いかもしれない。通称「備中松山藩」と呼称されるケースが多い。因みに上州安中藩の板倉家は支藩になるが、新島襄を輩出したことからこちらの方が有名になって入るかもしれない。


さて、本論に帰ると山田方谷は藩主からの依頼に応えて立派に財政再建を果たした。勿論、言い知れぬ苦労があったに違いない。いつの世も改革には賛成・反対が鎬を削るのは昔も今も変わらない。しかし、山田方谷の改革に依る財政再建がなければ、藩主の板倉勝靜も徳川幕閣にあって十分な采配、判断が覚束なかったことと思われる。

元来、山田方谷は農民の出身であるが、天賦の才能に言い知れぬ努力が加わって才能を開花させた。人材登用の必要性が叫ばれるのは、危機の時である。社会政治史的にはマルクス史観が指摘する通りに「明治維新」は大略、天保時代の幕開けから、明治20年代の国会開設、教育勅語渙発の期間の一連の変革課程を呼称している。それはそれで間違いではないが、半世紀にわたる変革課程を明治維新とひとくくりにして、多くの国民を納得させるにはそれなりの説明が必要になる。

一般的には最も狭義な意味で解釈して、通常「御一新」と一般の国民が呼称したレベルの「ペリー来航」から「廃藩置県」までと捉えるので差支えない。
そこで、山田方谷が苦心して藩主の期待に応えたのは、天保年間から慶應年間に掛けてであるから明治維新準備期間の時代と云える。
最も有名なのが『理財論』と言って、一言でいえば「大局的見地に立って」の改革である。政治の姿勢を正し、人心をひきしめ、文教を興し、武備をはり、治国の大方針を確立するというのがその大略要旨である。財源がないとばかり言って、この治国の大方針を顧みないのでは「理財の道」も活路が開けないという事である。

三島中州と二松学舎大学25.1.28


当日の野島講師によると、山田方谷の講演は「引っ張りだこ」で引く手あまただという。閉塞感ただよう現代と、徳川末期の世相が似ているようである。
とりわけ、山田方谷の人と業績なりについては大いに学ぶべき「現代との相似性」があるように思われる。
今後、大いに学んでこのブログに書きたいと思う。
『明治10年からの大学ノート』という本がある。良い本なので紹介しておきたい。
「二松學舎小史編集委員会」が編者であり、この二松學舎大学の看板は「漢学」である。
この二松學舎には明治の文豪・夏目漱石も学んでいるのである。
また、日本最古の「藩校」といわれる「閑谷学校」を再興した功績も特筆されてよい。ついでに機関誌『陽明学』も刊行されていることも付記して置きたい。




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『昭和の大横綱・大鵬関』を偲んで
【2013/01/19 23:24】 エッセイ
昭和の大横綱・『大鵬』逝く

昭和の大横綱「大鵬」さんが、本日逝去された。 私よりも6歳年長であるが、私の人生を励ましてくれたことに、心から感謝したい。
大鵬の土俵入り③


大鵬は十両時代に連続13勝を挙げて、昭和35年1月場所に弱冠19歳で新入幕して初日から11連勝した。日本相撲協会は、当時としては異例の小結だった「柏戸」との取り組みをさせた。差し手争いの激しい攻防の揚句に大鵬が有利な組手に為ったかと思った瞬間、柏戸の咄嗟の左下手出し投げに、大鵬は伸びきった体を預けるようにしながら、一縷の望みを託して粘りながら、前のめりに崩れ落ちた。これは今日でいう「スローモーションビデオ」を見るが如くであったという。はるか後年、私はNHKの特集番組で何度か拝見した。
たしかにその通りの決まり手だった。
その場所は12勝3敗で「敢闘賞」を受賞した。翌3月場所は、前半に負けが混んで最終的には7勝8敗となったが、大鵬の土俵人生で、皆勤して初めての負け越しである。十両以前に一度負け越しを経験しているほか、あとにも先にも「負け越し」はたったの二度である。

そうして昭和46年の引退までの正味12年間、最低でも1度は賜杯を手にした。入幕した年から、引退した年まで毎年賜杯を抱いたのは、あとにも先にも大鵬ただ一人である。
称える形容詞が簡単に出てこない。
大鵬の土俵入り


( 鵬が将に翼を広げて羽ばたくような大鵬の美しい土俵入り)


昭和20年、敗戦と共に樺太から命からがら引き上げてきた「納谷幸喜」少年、日経新聞に連載された『私の履歴書』を読むと、間一髪の命拾いをしながら母子ともに「内地」に引き上げてきたとのこと。以後は、その日を生き抜く苦労の連続であったという。

差別感の強かった当時に逢って、ウクライナ人を父に持ち、母は日本人という、当時の言葉では「混血児」としての偏見に悩みつつ成長を遂げたようである。それが、結果的には人間としての「なにくそ人間」としての根性を育成したようである。

日経新聞の私の履歴書は、掲載対象にリストアップされるだけでも大変な名誉である。人知れず苦労を強いられてきた運命に耐えて相撲道に打ち込んだ。 それは、大鵬さんの人生を賭けた「反骨の魂」でもあったろう。
近年、私は北海道旅行を3度行った。弟子屈町の川湯や訓子府を観光バスが通る時、密かに大鵬さんを偲んだ。こんな山深い所で幼少年時代を過ごしたのだとの感慨ひとしおであった。営林署という山間に逢ってはわずかな職に就いて「定時制高校」に通ったのも「なるほど」と思わざるを得なかった。誠に辛い要素幼年期を過ごしたに違いないと回顧した。
柏の囲碁戦鵬

(仲良しだったライバル柏戸と囲碁を楽しむ大鵬と柏戸)
我が家には昭和35年1月の時点でテレビはなく、ラジオだった。柏戸との一戦は差し出争いしか聴こえなかった。歓声がアナウンサーの実況を聞き取れなくしてしまうのであった。
勝敗はハラハラドキドキして待ったが勝利者は柏戸であった。だから、ラジオではその情況推移がイメージ出来なかった。数年後NHKのビデオで初めて見た時、ああ・そうだったのか!とはじめてその時の情景がわかった。
カメラのフラッシュが沢山で、勝敗の決まった瞬間は大鵬の手が土俵についたのが判然としない記憶がある。

そして、また何年か後に南北海道へ旅した。こちらは大鵬の横綱最年少記録を破った北の湖の出身地である。有珠郡壮瞥町である。洞爺湖からほど近いところである。
二年続けて「大鵬」「北の湖」の故郷を訪れたのであった。千代の山が「道産子横綱」第一号となってから、昭和29年の吉葉山、北の富士、北の湖、千代の富士、北勝湖、大乃国、と連続して横綱が出ている。
映画にもなった「涙の敢闘賞・名寄岩」も忘れてはなるまい。
思うに、北海道は寒さが厳しい為に、日々の生活の厳しさに耐える力が「生活史」的に身に着くのではないかと思える。千代の山やそのスカウトになる千代の富士は「福島町」であって、北の富士の出身の旭川とは異なる。松前藩の支配地であった福島町と、明治の開拓団によって開かれた場所とはその趣を異にする。
大鵬の雄姿


ともあれ、大鵬さんの死去の情報は残念至極である。秋田の旅館の娘さんとの結婚にまつわる話は、芳子さんが健在であるから書かない。
私の履歴書で大鵬自身はいう。「私を天才というのはあたらない」と。
私に言わせれば「柏戸さんこそ天才だと」いうのである。
努力天才に勝るとは、こういうことで大鵬さんは、このことを声を大にして言いたかったのだろうと思う。
そして「功成り名を遂げて、おしまれつつ引退した」昭和46年。奇しくも私が大学を卒業して社会人1年生の時である。時あたかも次世代を担う「北の富士」と「玉の海」が台頭してきており、安心して後事を託せたのは幸運だったと云えよう。そして、相撲協会は栄誉ある「一大年寄」として「現役のしこ名」を認めたのであった。
時は廻って大鵬は「2009年」、国民として栄えある「文化功労者」となった。一スポーツ人と言うことなかれ、日本人の誇りなのである。因みに文化勲章は文化功労者から選ばれるのが原則である。同い年の王貞治さんの国民栄誉賞とともに価値あるものである。

ライバルと称された「柏戸」が、58歳で死去した時、「あたりをはばからず」に男泣きした。そして、柏戸との最後の対面の時「おい、何やってんだよ!」とつぶやいたとも伝えられた。
横綱柏戸25.1.19

「努力の人生」は人の何倍もの稽古を積んだと回顧している。
「柏戸さんに追いつけ追いこせ!」を、目標に人知れず稽古に励んだ.
同時期に柏戸、栃の海、佐田の山といったライバルがいたが、ほとんど独り占めに近い成績を残した。天晴としか言いようのない「努力・努力」の人生だったようだ。だから「忍」と言う文字を好んで揮毫した。つまり、「心」の上に「刃」と書いて忍である。忍耐と努力の人生。立派の一語に尽きる。
大鵬自伝セット写真

此のことは称えても余りあることである。大鵬さん、安らかにお休みください。と、頭を下げるのみである。

誠に努力奮闘の人生を歩まれた大鵬さんに、拍手喝采をもってこの記事を終えたい。合掌。


『人は狂頑と譏り郷党衆く容れず』の意味
【2013/01/14 13:06】 エッセイ
自賛肖像文に見る「松陰の胸の内」

安政六年五月、二度目の野山獄に在った吉田松陰に對し、幕府から「召喚命令」が届いた。 此れを伝えに行ったのは、松陰が尊崇してやまなかった「兄・梅太郎」である。 親族の胸中は、如何ばかりであったろうか?
それからの十日間近く、松陰は慌ただしい日々を過ごした。 生還を訝った「久坂玄瑞」の発議で、門下生の「松浦松洞」に肖像画を描かせた。同時に小田村伊之助の発議で「自賛」を書かせ、跋文(特定の人物宛の文言)もそれぞれに宛てて書いた。
今に残る有名な『吉田松陰』の肖像画である。 当時は、写真がまだ一部にしか普及せず、画によって我々はイメージするのみである。
この自賛文に『人は狂頑と譏り、郷党 衆(おお)く容れず』と書かれている。

吉田松陰自賛画像2012.4.13


これは、先覚者の運命と云えるかもしれない。萩の人々は吉田松陰の行動や考え方を受け入れてくれていない! というのが松陰の本当の胸の内であった。
これを裏付けるものとして『村塾零話』という、門下生の回顧談を編集したものが「吉田松陰全集」に収載されている。そこには「何でも職にありつくには松陰先生のところで学ぶことがよいと思っていた好評の内容と、反対に松陰の塾に通うことはけしからん、と反対された回顧談や、政事(政治)の事を学ぶのを除外する条件で、やっとの思いで松下村塾に通った」門下生もいたのであった。高杉晋作などは親の反対に逢い、夜にそっと抜け出して通ったというのは有名な話である。

松陰は「東北の海岸防禦視察」の大旅行を肥後の友人・宮部鼎蔵とともに挙行したが、この時「過所手形」という、藩主の允可(認印)のある身分証明書(他国を通る時に、関所等で提示)が発行されないまま(実は反対者がいた)、出奔したのであった。
過所手形25.1.14


これは「脱藩」と見做される生命の危険(打ち首もありうる)を伴った行為であったから、北辺視察の旅行から江戸に戻った時、処罰を検討するので、それまで帰国(萩の実家)して謹慎せよ、そして裁決を待てという条件付きの強制送還であった。
此れを知る人の中には「狂」の行為とみなした地元の人達もいたようである。松陰の修業時代の教師には「脱藩」を最後まで貫かなかったことを責めた、山田右衛門のような人物もいた。

そして二年後の嘉永七年三月、「下田蹈海」に企ての失敗から、幕府から裁決(国元蟄居)され、さらに萩藩の政府は幕府の裁決より重い「藩獄収監」を命じた。
松陰蹈海の図24.3.20


こうした経緯から、松陰のことを白眼視した地元の人たちが多くいた事であったことを松陰は承知していたのである。

何時の時代でも、先覚者の理解はされにくいものである。そういう意味では、松陰の師「佐久間象山」もそうであったし、同時代に生きた「横井小楠」もそうであった。この二人は、誤解された結果で以て「殺害行為」の被害に遭った。つまり暗殺である。それも同じ京都で。大村益次郎も近代軍制改革が誤解されて、襲撃され、この時の傷が原因で死去の運命にあった。ここが主義主張の難しいところである。そうかといって自己の信念を曲げて、妥協や迎合をしていたのでは『先覚者』とはなりきれない。

松陰の「人は狂頑と謗り」という意味は、普通の人達(市民)からは行動の意味するものの理解が得られなかったことをさしている。「郷党衆く容れず」の意味も、それを強調するものであろう。つまり危険思想の持ち主故、近づくことを嫌った郷里の人達の姿なのであった。現代の感覚では、「思想犯」や「政治犯」に近い意味で、突飛な解釈は不要と思われるが、何せ徳川封建時代のことである。覇道はこうした思想犯に対しては、厳罰で処して来るものなのである。「宝暦・明和」事件がそれを如実に物語っている。
山県大弐25.1.14


竹内式部や山県大弐の処罰は覇道の常道(体制否定)の処断であった。徳川の独裁政権維持のためには、こうした処置を採った。

だが、松陰はひるまない。「生死」を度外視して、己の信念(日本の国体護持と独立保持)を貫く強固な意志は、いざとなれば命をも恐れない。
こうしたところが「陽明学的」な側面を持っている。自己の信念の完全燃焼は、陽明学の特徴である。「人賢愚あれども一二の才能無きはなし」との『福堂策』に見る人間観も、孟子や王陽明を学んだことから来るものと解してよいだろう。

それは安政六年の高杉晋作への書簡に「丈夫死すべきところ」との返答にも当てはまる。
高杉晋作25.12.07


「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業のみこみあらばいつでも生くべし」のことばは、功名を立てんとするものと対極にある考え方で、陽明学的である。「名利を求めることを嫌悪した松陰の本音」でもあっただろう。

江戸への旅立ち仕度に忙しい松陰であったが、後世に遺したものはつてつもなく大きく、そしてまた「典型的な」日本人として「大和魂」(誠の心)を失ってはならないと、遺書ともいうべき『留魂録』で強調したのである。


『吉田松陰精神』を考える
【2013/01/05 23:32】 エッセイ
『留魂録』と「松陰精神」

2013年が明けた。
昨年末に自由民主党の「安倍内閣」が誕生した。
近年では珍しい内閣となった。
与党時代に「体調不良」の名目で投降に近い形での総辞職だったのであるが、3年余りの野党転落から復活だ。
自由民主党の人材はそれほど枯渇していたのか。

江戸末期に陽明学者が元気溌剌とした活躍を見せたのは、幕末・維新期に関心ある者ならすぐに何人かを思い浮かべるに違いない。
それは、寛政の改革を指揮した松平定信が行った「寛政異学の禁」との関連で理解することが望ましい。
伝習録・明治</span>書院


江戸期の学問は「朱子学」を官学とした。
幕末に「陽明学」が台頭したのは、朱子学の保守性・現状維持型の在り方に対して、「社会的な閉塞感打破」の使命を担っていたのである。
元来、陽明学は朱子学の停滞に対しての批判から生誕したという経緯がある。

中国の「南宋時代」に「朱熹」が、それまでの儒学を体系化したのが「朱子学」と呼称されるようになった。
それは中国思想史の中で大変に重要な出来事であり、「偉業」でもあった。
「百家争鳴」と言われるように、古代から延々と続く思想は各々の思想家が「自説」を主張したが、概して人間社会での生き方、考え方を教示した説が多いのが特徴である。
松陰正装画像


陽明学は、一面に於いて「行動に価値を見出そうとする」。
「内なる完全燃焼」や「知行合一」と言った言葉がそれを示している。
「思想」と「信念」を混同してはならないが、吉田松陰の人となりは「思想家」としての紹介がなされるケースが多く、実際には「強固な自己の信念」に基づいた行動が多いのに気付くはずである。
「行動家」としての側面は、多くの「吉田松陰伝記」が語るところであるが、「思想家」としての松陰観に疑問符を投げかけた歴史家も存在したのである。
これは「思想=行動」という方程式が人間の行動様式のすべてではないと謂う所に起因している。
反対に「行動=思想」とはならないことはもっと理解を容易にするかもしれない。
吉田松陰は「言行一致」の人であった。
沢山の「名語」を残した人物であり、そうしてまた意表をついた「行動」をとった人でもあった。

安政三年夏、松陰は「杉家」に幽囚の身であった。
安芸の「勤皇僧」として名を馳せた「宇都宮黙林」との往復書簡において、次のようにいっている。
『若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり・・・・・・』(松陰全集第七巻・443頁)と。

これを松陰の「言行一致」の側面からみると、『留魂録』は正しく松陰の言う「吾が志」の継承を願って、「松下村塾の門下生」に宛てた遺書として解釈できるのである。というよりも、安政三年に書かれた黙林宛の書簡の『実践』であったと考えることが出来る。
留魂録


松下村塾における二年半ほどの教育実践は、「門下生への感化」の期間であったとも云えるのである。
『留魂録』の末尾に記された和歌を、この意味で考えると松陰の考え方に矛盾はない。
「我の志を知るものは、我の死を哀しむことよりも我の志を継いで欲しい」との思いは、刑死の七日ほど前に書かれたとみられる『諸友宛』(「諸友に語ぐる書」(松陰全第八巻・420頁)ともいう)に記述されている通りである。


人間は「死をもっとも恐れるものである」ことは、理性や一般的な感情を超えて「本能的な」感情であると考えられる。
その「死」を目前にして、諄々と門下生に訴える姿をどうに考えればよいのか。
「志を曲げない姿」と捉えるのが自然である。
これこそ「言行一致」そのものであると考えられるのである。
吉田松陰精神なるものが、こうした遺著によって確認できるのは、後世に生きる我々にとって限りなき史料を提供してくれるのである。



松陰精神は、この『留魂録』を涙ながらに讀み、かつ「筆写」した後継者に難局打開に向けて奮起を促した所に価値があるのであって、国難を打破するために、門下生に対して、師自らが「死んでみせた」であった。これ以上の人間教育があろうか。
究極の人間教育と言わねばならない。
それは、第一義的には「門下生」に宛てたメッセージであると同時に、第二義的には「日本人」全体に、「国のために生きること」の何たるかを教示してもいるのである。

長谷川勤講演風景25.1.5


これこそ吉田松陰精神であって、太平洋戦争終結後70年近い平和の続いた日本人の魂に呼びかける意味があると受け止めるべきと考えられるのである。
それゆえに、「吉田松陰研究書」ともいうべき書籍の刊行が、絶え間なく続いている。

今日の日本の姿に警鐘を鳴らし、人間とは?国家とは?の再考を促しているように思うのである。


茨城県県南生涯学習センター【天章堂講座】③
【2013/01/03 15:20】 エッセイ
【天章堂講座】登場人物の概略③

弘道館24.10.5


前回に引き続き、書き連ねます。今回で最終回となります。、近代日本の「扉」を開いたペリーとハリスの米国人二人から書き起こします。

第3回、「ぺりーとハリス」(鎖国日本の扉を砲艦外交によって終焉させ「日米和親条約」を結ばせたペリーと「日米修交通商条約」を締結したハリスについて)。
旧暦嘉永6年6月3日、アメリカ合衆国「東インド艦隊」司令長官MCペリー准将は軍艦四隻を率いて浦賀(横須賀)にやってきた。
幕府の浦賀奉行「戸田氏栄」は外交問題は「長崎で行う」との旨を伝えたが、ぺりーはそれに応じるどころか、強制するなら一戦を交えると恫喝した。軍艦に備え付けられていた大砲によって江戸城は破壊され、当然米国が勝利するとの言辞で幕府を恐喝した。これを「砲艦外交」という。幕府は、やむなくこれに応対、「久里浜」に上陸させ米国大統領親書を受け取った。ペリーは僅か10日足らずで「来年、新書の返事を受け取りに再度来航する」と言い残して、浦賀を去った。翌年1月、約束通り再来日し、3月3日「日米和親条約」が締結され、長きに渡った日本の鎖国体制は終を告げた。この3月、吉田松陰姉弟が下田港に停泊中のペリーの軍艦に夜陰乗り込み、密航を企てる事件が起きた。いわゆる幕末動乱の幕開きである。

ペリー

一方ハリスは日米和親条約に基づいて、開港された下田に安政3年7月来航し、「玉泉寺」に日本最初の総領事として着任、前庭高く「星条旗」が掲げられた。日本の【ぶらかし】外交の交渉態度に、憤怒を感じつつ交渉のテーブルに着くのを待ったのであった。この間に「唐人お吉物語」の悲話も生まれている。
やがて、江戸入りが叶い、将軍家定にも謁見が叶っての安政五年遂に「日米修好通商条約」が締結された。これには待たされ続けた挙句の、米国との条約締結が、英国、仏国とのに先立つことの締結が有利である(最恵国待遇を指す)との論理と、ハリス自身の焦りとが混在した中でのギリギリの交渉であった。
この条約締結に当たって「勅許」問題が急浮上し、老中堀田正睦の上京と、「再検討指示」の実質不可の裁断であった。この責任を問われるかのように堀田は老中辞任、替わって井伊直弼が大老就任し矢継ぎ早に二つの大きな課題に決着をつけた。将軍継嗣問題と条約締結であったが、井伊の採った判断は紀州藩の徳川慶福(後に家茂)、条約は締結後に「宿継ぎ」で朝廷に報告するというものであった。ここから無断勅許問題、「戊午の密勅」、尊王攘夷、安政の大獄、公武合体策、「桜田門外の変」、等々が続発し、幕府政治は難局を迎える。
ハリス

第七回、「天璋院篤姫」と「皇女和宮」(二つの政略結婚と公武合体策による朝幕関係修復の狙い)。

後継者をめぐって「お由良騒動」(高崎くずれともいう)に揺れた薩摩藩の後継「藩主」は島津斉彬の就任で決着がついたが、藩主の世子時代から英明の誉れ高い斉彬は世評に違わぬ施策を「近代化路線」で矢継ぎ早に打ち出す。薩摩藩が「幕末の雄藩」として、中央政界に歩みだす第一歩でもあった。ペリー来航に対し、対応策の意見書を募った老中・阿部正弘は幕府の外交特権を放棄することになった。折から、将軍継嗣問題も浮上して、幕府は二重の難題解決に直面した。難局に当たるには将軍は能力を重んじるべきとの考えから斉彬は、一橋慶喜を後継者とすべきとして、一族の篤姫を宗家の養女とし、さらに「近衛家」の養女とした。これで将軍家定の「御台所」に送り込み、腹心の西郷隆盛に実現を託すべく京都や江戸に周旋を命じる。しかし大老井伊直弼の登場によって挫折してしまい、それを追うかのように安政の大獄を引き起こす。一橋派の大名たちをはじめ反幕府の関係者は「戊午の密勅」の関係者と共に朝廷や藩士たちを処罰する。
天璋院篤姫24.12.30

とりわけ、水戸の「徳川斉昭」との対立は一連の反幕活動に疑いを持ち、厳しい処罰となり、翌年の水戸の浪士たちの反感から「桜田門外の変」が発生。幕府権力の凋落を立て直すべく、朝廷との協力体制をとるべく「公武合体」政策が打ち出される。その「象徴」が孝明天皇の妹・「和宮」と将軍家茂の婚姻であった。完全な政略結婚の計画である。既に婚約していた和宮であったが、幕府は再三にわたって要請し、遂に孝明天皇の同意を取り付けることに成功する。これが尊王攘夷派をいたく激高させることになる。
それ故、これを推進した老中「安藤信正」は「坂下門の変」にて襲撃される事件が起きて、幕府の政治権力は一層衰退を印象付けることになる。
両者とも、幕末期に遭って「運命に翻弄され」るが、さらに「戊辰戦争」で官軍への救済措置の嘆願に尽力する。
こうした努力も奏功してか「江戸城無血開城」は実現し、陰での尽力は皮肉にも『嫁ぎ先からの嫁入り前』の藩や朝廷への嘆願書を書くことになった。そうして明治新政府が発足するとともに、歴史の表舞台から去るという「悲運に人生」を送ったのであった。
皇女和宮24.12.30

第十回、幕末・明治を彩る女性たち「芸者・幾松と津田梅子」ほか(幕末維新期は、一面対立による破壊と建設の面を持つ。そして、陰に陽に女性の支えや近代化にも貢献した)。

長州藩の「志士」の代表格であった桂小五郎(木戸孝允)は文久年間に芸者・幾松と知り合う。京都三本木「吉田屋」から舞妓に出た幾松は美しく利発で、芸事とりわけ笛と踊りに秀でていた。このため「幾松」の二代目として有名になり、美丈夫でもあった桂小五郎とのロマンスとなる。ここに至るまでは京都山科の富豪ひいきにしていたのを、桂の情熱が彼女の心を動かし、やがて実質上の夫婦となった。長州藩が京都において困難な時期に、幾松は献身的に桂に尽くす。幕末の志士たちは常に「死」と隣り合わせだった。桂が危険に遭遇しながらも維新まで生き延びられた陰に幾松の機転による献身があったのは、幕末恋物語の語り草である。明治になって政府の要職に就いた木戸孝允が、婚姻による正式な妻としたのは明治3年頃とされる。幾松から「木戸松子」となった夫人は、夫を支え続け、看病しつつその死を看取ってからほぼ10年、二人を赤い糸で結ばせた思い出の地「京都」にて生涯を終える。夫婦ともに40代の生涯であった。

幾松


一方、長州藩が朝敵の汚名を着せられた禁門の変のあった年、江戸・牛込で生誕した梅子は明治四年「岩倉遣欧使節団」と共に渡米する。五人の女子留学生の一人として七歳の最年少であった。十一年間の留学で得た英語力は、伊藤博文の推薦で華族女学校の英語教師として、さらには明治女学院、女子高等師範学校(現御茶ノ水女子大)の教授を兼任する。彼女の名を冠した「女子英学塾」は、現在の「津田塾大学」である。福沢諭吉が「英語」の勉強で世界の書籍を読み見聞を広げたように、津田塾も「英語」が看板になっており、ともに「塾」が校名の正式名称として今日まで受け継がれている。

津田梅子

以上、取り上げた人物を25年10月から26年2月にわたって「天章堂講座」で【幕末維新のヒ-ローたち】として15回の連続講座で取り上げます。
近代化への序曲からはじまり、日本が国際社会に登場した「明治維新」への変革過程で様々な人物が、時代との格闘をしたり、時代の要請にこたえる努力をした先達の足跡をたどりながらの連続講座である。
「歴史は人が作り、人が動かす。しかし、個人の願いどおりには進展しない」。
そこに、人間が『どう生きたか』を紐解く意義があると思う。

「歴史を学んで、歴史に学ぶ」一助となればと願っている。











茨城県県南生涯学習センター【天章堂講座】②
【2013/01/01 19:38】 エッセイ
【天章堂講座】登場人物の概略②

弘道館24.10.5


前回に引き続き、書き連ねます。今回は、徳川慶喜と勝海舟の因縁浅からぬ二人から書き起こします。

第9回 徳川慶喜と勝海舟(将軍後見人時代と15代将軍の苦悩、幕府終焉の立役者、勝海舟)。
文久二年、安政年間に将軍後継者として有力視された一橋慶喜は、薩摩や朝廷の建言を容れて「将軍後見職」につく。ほぼ時を同じくして越前藩主の松平慶永は「政治総裁職」に就任し、政局をリードすることになるが尊王攘夷の嵐は激しさを増し、朝廷の幕府への容喙はさらに混迷を深める。十五代将軍を継承した慶應年間は、徳川政権が維持困難の状態であった。二度にわたる長州征伐は諸藩の背反を招き、やがて統一政権構想の台頭によって「大政奉還」への道をたどる。薩長の討幕路線とこの土佐藩の建言は、謀略によって潰え、戊辰戦争へと展開し、やがて敗戦を重ねる中で朝敵の汚名を着せられた慶喜は謹慎となって、政治の表舞台から後退して行く。この幕府の辿った運命を、平和裏に被害を食い止めて努力するのが勝海舟であった。貧乏旗本として生まれ、蘭学を志したことから海舟の運命は大きく展開。
ペリーの来航を期に外交特権を放棄した、阿部老中の「対策意見」の求めに応じた勝海舟の建言は幕閣の承認する所となり、出世への道をひた走る。海軍の創設は勝の功績になるが、徳川政権の終焉に当たり「江戸城無血開城」を実現。新政府誕生以後は、旧幕臣への援助、さらには慶喜との恩讐を超えて、慶喜の末子を養子に迎える。最後の将軍の涙を誘った粋な計らいを見せた。
明治を30年以上生きた両者は、「公爵」そして「伯爵」となって徳川政権の幕引き役を演じたに相応しい人生の晩年を迎えることが出来た。

徳川慶喜24.12.14


第11回 西郷隆盛と大村益次郎(幕末維新の軍師二人、西郷の人望と大村の合理主義対比)。
名君の誉れ高い「島津斉彬」にその才能を見出された西郷隆盛は、斉彬への忠誠と相俟って「薩摩藩」を代表する志士として江戸や京都の重要な政治課題に取り組む。
天璋院篤姫を近衛家養女にし、さらに十三代将軍徳川家定の御台所として、大奥への使命をもたせる。一橋慶喜を将軍にとの斉彬の指示であった。このため安政の大獄では「僧月照」とともに幕府から睨まれ、いわゆる「御尋ね者」として逮捕リストにあがる。斉彬の急死に伴い、薩摩藩の実権は弟久光が握るが、先君への恩義を忘れられず久光と悉く対立、二度の遠島の処分を受けるが、人望厚い西郷待望論に押されて久光もついに折れる。元治元年、禁門の変で軍師として舞い戻った西郷は鮮やかな采配ぶりを披露。以後、戊辰の役までの「幕末のクライマックス」までの活躍はご存知の通り。明治新政府で筆頭の立場ながら、その才能はついに開花せず「廃藩置県」での貢献を最後に、征韓論に敗れて下野してしまう。西南の役での「士族の反乱」で自刃。
一方、長州の村田蔵六(大村益次郎)は、合理主義を身に附け、近代軍隊と最新武器を背景として招聘地の宇和島から舞い戻り、長州藩の救世主となる。第二次長州征伐に勝利し、上野戦争、戊辰の役での軍事官僚としての采配は、西郷隆盛を凌駕し新政府の最高軍事責任者となるが、反政府的な無理解の人達によって斃れる。あとを引き継ぐ山県有朋が明治陸軍の完成者となる。誠に惜しい人材だった。

西郷隆盛25.01.11


第12回 坂本龍馬と中岡慎太郎、(薩長同盟の立役者の土佐藩二人、だがその考え方は異なる)。
「薩長同盟」の実現に尽くした龍馬と中岡。龍馬は薩摩との縁が深く、西郷や小松帯刀等と協力しあうが、中岡は逆に長州とのつながりが深い。この二人がいたからこそ幕末土佐藩が雄藩として飛躍できたとも云える。惜しむらくは、二人がそろって暗殺されてしまったことである。この薩長同盟は、軍事同盟であるが締結時は長州藩の方が圧倒的に辛い立場におかれていた。しかも、文久三年八月の政変、翌年の蛤御門の変で、薩摩は長州をして不利な立場に追い込んで、敵対関係にあった。薩摩への「憤怒・怨恨」は「薩奸会賊」として長州から見れば、許せない思いが募っていた。幕末薩摩の政治的判断が、長州のような多くの人材を失わずに済んだのであった。

坂本龍馬②


第13回、 福澤諭吉と大隈重信、(ライバル早慶戦の創始者は仲睦まじく、共に長崎修業)

二人の活躍の出発点は、ともに「長崎」である。福澤は19歳の時、兄の奨めで「蘭学修行」に旅立ったのである。この時の福澤の胸中は『福翁自伝』に記されている通りである。大坂生まれであるが、幼時にして父親の死に逢い、郷里の中津にもどったが、中津藩の身分制にたいして怨念に近いものを抱いていた。だから『封建門閥は親の仇である』と強い言葉で言い放ったのは誰もが知るところである。以後、江戸に向うも、大坂にいた兄に無断で行くのを思案の末に、訪ねたのが運命を変える。ここで緒方洪庵の「適塾」で蘭学に磨きをかける。それからの福澤の活躍は御存知の通り、幕末に三度の洋行を果たし、明治日本への近代化に尽くした一連の啓蒙活動は在野に在って驚異的とも云えるものだった。一方、大隈は佐賀藩の裕福な家柄に育つ。長崎でフルベッキに学び、「アメリカ独立宣言」を徹底的に研究したことから運命が開ける。福澤も大隈も独立宣言から得たものは計り知れない。明治になって佐賀閥の代表格として、岩倉使節団の出発後の留守政府を牽引する。
福澤との出会いは瞬時に「百年の知己」となり、以後の盟友関係が生涯続くのであり、「慶應義塾大学・早稲田大学」の創立者として大きな遺産を残した。二度の総理大臣を務めて侯爵となり、その姿は早稲田大学の構内に銅像がそびえたつ。

大隈重信26.01.25


第14回、 大久保利通と木戸孝允(幕末の活躍ぶりと明治新政府での両者の異なる立場)。
幕末の難局を生き抜き、明治日本のリーダーとして明治新政府で活躍する両雄となる。薩摩と長州の代表格であるが、二人の功績は共に子孫が「侯爵」としてその功績をたたえる形になる。大久保が政治的判断に勝れているのに対して、明治以降の木戸は幕末の華やかな活躍に比べると精彩を欠いたような印象が持たれる。
岩倉遣欧使節団の副使として、ともに重責をになって洋行するが、二人の関係は微妙に醒めてしまう。仲たがいに近い関係となって帰国時は各々別になる。待ち受けていたのは留守政府の決定した「征韓論」であったが、ここでは両者とも反対して、内政優先策の立場となる。見聞した西欧先進国の実態が、富国強兵、殖産興業の重要性を認識させたのである。維新の三傑と言われた西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は明治10年、11年に相次いで生涯を閉じる。唯一畳の上で死ねたのは木戸であった。

木戸孝允26.02.01



第15回、 伊藤博文と山県有朋(政治の世界と軍人、内務官僚を牛耳った二人の生き方。)
長州の両雄として明治政界をリードした二人。ともに吉田松陰の「松下村塾」に短期間ながら学ぶが、対照的な反応振りを示す。伊藤が、松陰先生にはそれほどお世話になっていないといえば、反対に山県有朋は生涯の師として尊敬し続けた。
このため、山県は松陰顕彰碑などの揮毫依頼には喜んで応じた。松陰誕生の地に立つ「石碑」は山県の筆になる。一方、伊藤は実は山県のように言えない事情がある。
吉田松陰が「松下村塾」を主宰したのは、実は三代目である。初代が叔父の玉木文之進、二代目が久保五郎左衛門であるが、伊藤は久保の主宰する塾に入ったが、後に「松下村塾の四天王」の一人と言われた「吉田稔麿」に学業がかなわず、常に彼の後塵を拝していた。したがって、松陰主宰の塾でも同窓になり、しかも入塾は吉田稔麿の方が早期に入塾。ここでも学業で後塵を拝したので、このことを表立っていうと自分のプライドに傷がつくのを慮ったといわれる。
陰と陽のイメージがあるが、陽気な伊藤は明治天皇のお気に入りだったのに対し、謹直な山県は明治天皇、つづく大正天皇にも好まれていなかった。

伊藤博文26.02.08


以上が、私の担当する講座の人物概要でした。
しかし、昨年暮れ、ペアで講師をする予定になっていた「加賀谷稔先生」が29日早朝に急逝された。残念。合掌。
そこで、その分を私が担当することになりましたので、順番としては不揃いになりますが、③回目に「ペリーとハリス」、⑦回目に「天璋院篤姫と皇女和宮」、⑩回目に「幕末・維新を彩る女性たち」とのタイトルで「芸者・幾松と津田梅子ほか」を講座に入れます。

幕末維新は、ペリーの「砲艦外交」によって日米和親条約が結ばれ、その条約に基づいて「ハリス」が下田に来日。日本の領土に初めて【星条旗】が翻ります。そして、安政5年に「日米修好通商条約」が締結されます。

長い鎖国が打ち破られましたが、外国との通商条約の何たるかを知らない幕府の全権代表たちは、ハリスの「わな」にまんまとはまります。いわゆる「不平等条約」ですが、この「からくり」を知らない日本人は、明治のほぼ全期間を通じて『条約改正』交渉の為に励まざるを得ませんでした。

<次回につづく>







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