長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

幕末の「越前藩」のこと
【2013/02/24 18:52】 エッセイ
 
幕末「越前藩」松平家

越前・福井藩は徳川家康の次男「結城秀康」を藩祖とする江戸期の名門親藩である。二代将軍徳川秀忠の兄であるから、養子に行かなければ「御三家」の可能性もあったのであろうが、江戸城での将軍伺候の「控えの間」は最上格の「大廊下詰」であった。
この「大廊下」には上下があって、「上之間」が御三家、「下之間」が加賀前田家と越前松平家であった。これとは微妙に異なるが「溜の間詰」があり、これも格式を誇る。とりわけ「常溜詰」といって彦根井伊、讃岐松平、会津松平の三家のみであった。いずれも将軍の諮問を受ける名門中の名門の家柄、格式なのであった。
松平春嶽25.2.24


これで分るように、井伊直弼が桜田門で殺害されたあと「松平春嶽」を大老に押す動きがあったが、「格式」が大老以上の家柄であることからして「政事総裁職」という大老以上の「格」という新設の職責に就任したのである。この頃「一橋慶喜」も「将軍後見職」という新設のポストに就任している。
いずれも揺らいだ幕府権力や権威を取り戻そうとしたわけであるが、大変矛盾していることに、此れを要請したのが無位無官の外様大名「薩摩藩・国父」の「島津久光」であった。長州藩の「航海遠略策」に遅れまいとして、藩兵を率いての上洛であったのである。時に文久二年のことである。

島津久光のこの京都・江戸への上洛は大変に物議を醸すことになる。
まず京都で突出しようとした自分の藩の志士たちを池田屋で上位討ちにし、京都からは公卿を引率(護衛)して幕政に容喙するという破天荒なものであった。
さらに、帰路に有名な「生麦事件」を起こしてさっさと帰国したのであった。
井伊直弼24.3.25


幕府も「なめられた」ものである。井伊の殺害以来急坂を転げ落ちるように、権威や権力の低下を大急ぎでやったようなものである。また「幕末四賢侯」と呼称された諸侯がいた。
松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂をいうのであるが、これに一橋慶喜を加えて「参予会議」なるものが元治元年に朝廷から召集された。しかし足並みがそろわず、意見の不一致から雲散霧消してしまい失敗に終わる。

さて本題の越前藩の話題に戻ろう。名君(明君)の誉れが高かった松平春嶽は、御三卿の筆頭「田安家」の出身である。家格といい、出自といい、江戸期に在っては名門中の名門大名である。その華麗な閨閥を誇る親藩の筆頭・越前松平家に養子として入り、藩主の座に就く。有能なブレーンに恵まれ、春嶽は名門大名に相応しい活躍をする。中根雪江、鈴木主税、村田氏寿、橋本左内、三岡八郎(後の由利公正)らを率いて安政の改革を断行する。
横井小楠25.11.02


また、熊本藩から「横井小楠」を顧問格として招請し、人材登用と育成、財政改革、藩論をいち早く開国に纏め上げるなど藩政には、顕著な実績を残しながら、幕閣にも「物申す」など活躍をするが、徳川政権末期ということもあって尊王敬幕の立場を貫くのは困難を極めたようである。

親藩筆頭であるから「討幕」には極めて慎重で、内心の葛藤と苦悩は計り知れないものがあった。この話は、先日福井を訪ねた時に伺った話で、地元ならではの貴重な「とっておき」の話であり、説明を聴きながら春嶽公の胸の内を覗いたような錯覚に陥ってしまった。何とも有難い貴重なお話を伺えたものである。
この話をして下さったのは「山下一郎さん」という、「福井歴史ボランティアグループ」で「語り部」をされている方である。さすがに詳細にわたって知悉しておられ、誠意ある説明には思わず聞き入ってしまうのであった。紹介して下さった間宮一二さんに感謝である。

十年近く前に、「萩市」を勉強のために訪問した時にも「元教育長」を務めた方が、詳しく説明をしてくれたが、今回も同様にまたとない恵まれた訪問となった。

福井市立郷土博物館から始まって、新田塚、藤島神社、足羽山の旧跡や継体天皇の像、左内公園、横井小楠や坂本龍馬に因んだ場所、そして福井城や福井神社等々至れり尽くせりのご案内をしてもらった。
それも終日の説明であった。

吉田松陰25.11.09


福井訪問は別件で隣接の鯖江市を訪れたのであったが、鯖江では安政期の老中を務めた「間部詮勝」の菩提寺も見ることが出来た。
吉田松陰が幕府評定所での取り調べを受けた際、いわずもがなの自白が間部老中の暗殺計画であった。
草莽崛起の実践としての机上プランではあったが、結果として、井伊大老に「死罪」を決断させたのである。

歴史と言うものを、人物を通してみていくのは歴史学の立場からは正統派の研究方法ではないが、歴史は人が作るのである。
経済現象の底流に「経済人」が存在するのと同様であろう。


スポンサーサイト
「安政の大獄」の処罰者達
【2013/02/07 14:06】 エッセイ
安政の大獄処罰者一覧

安政の大獄は、一般的には反幕府政策への行動者の処罰となっているが、それだけではない。すでに朝廷対幕府の対立が原因しているのである。将軍継嗣問題での「一橋派」と「南紀派」の対立と、日米修好通商条約の調印を巡って、前任の老中堀田正睦が勅許奏請したが、差し戻し的な文言での勅諚で実質不可であった。それを井伊直弼が調印後に「宿継報告」という形で朝廷に報告した。

これに怒った朝廷は水戸藩に安政六年八月八日勅諚を下した。同文のものが二日遅れで幕府にも届いたが、水戸への勅諚には雄藩にも知らせよという、異例の文言が加えられていた。これを「戊午の密勅」という。

大政委任されているはずの幕府以外の藩(水戸藩)に勅諚が下るという異例の事態が発生した。これに怒ったのが大老の井伊直弼である。実は、家定は大奥の賛同や、南紀派支持の意見だった。幕府よりも上位に朝廷(天皇)が存在するという、水戸学が絡んだ弾圧であった。条約では「不時登城」をはじめとした反対派大名ーその筆頭が徳川斉昭だったーを根こそぎ処罰、合わせて朝廷の反幕府の考えを持つものもすべて処罰した。大名、公家、公家の家士、勤王論者(志士)、の広範に及んだ処罰の対象は「恐怖政治」となって、峻烈を極めた。とりわけ、水戸に対する弾圧は怨念を込めて処罰した。だから、「桜田門外の変」は、水戸の浪士たちの復讐の側面を持つのである。



安政の大獄


[評定所判決]
切腹  水戸藩家老安島帯刀 48歳
死罪  水戸藩奥祐筆頭取茅根伊予之介 36歳
    水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門 62歳
    元土浦藩士・三条家家来飯泉喜内 55歳
    越前藩士橋本左内 26歳
    儒者頼三樹三郎 35歳
    長州藩士吉田松陰 30歳
松陰正装画像


獄門  水戸藩京都留守居助役鵜飼幸吉(吉左衛門の倅 32歳)
遠島  水戸藩勘定奉行鮎沢伊大夫(安政6年11月、流罪から佐伯藩に終身禁固へ)
    鷹司家緒大夫小林民部(安政6年11月人吉藩終身禁固、翌日獄中病没) 52歳
    大覚寺門跡家士六物空萬(療病院別当)安政6年11月獄中病没) 59歳
    薩摩藩士日下部伊三次の男裕之進(万延元年閏3月3日、獄中病没) 25歳
    旗本阿部四郎五郎家来勝野豊作の男森之助
    水戸藩奥佑筆頭取茅根伊予之介の男熊太郎(3歳に付、15歳まで親類預け)
    奥州安達郡金原田村農八郎
重追放 宇和島藩若年寄吉見長左衛門
中追放 儒者池内大学
    青蓮院宮家士伊丹蔵人
    三条家諸大夫丹羽豊前守
    同     森寺若狭守
    鷹司家家士三国大学
    一条家諸大夫入江雅樂頭
    信州松本の大名主近藤茂左衛門
    儒者藤森廣庵
    常集茨城郡錫高野村文道手跡指南黒沢とき(農新助の妻)
    水戸藩勘定奉行鮎沢伊大夫の男力乃介・大蔵(安政6年12月力乃介4歳・大蔵2歳の為、15歳まで親類預け)
    伊勢一志郡高野村神明社祠官谷対馬
               社人武田近江
所払  画院寄人宇喜多一恵(安政6年11月病没) 65歳
    その男    松庵
    処士蒲市正(元二条家下家士)
洛中洛外・江戸払 一条家緒大夫若松永福
江戸構・紀州領所払 紀州家用達世古格太郎(伊勢松坂の人
永押込 三条家緒大夫森寺因幡守
    御蔵小舎人山科出雲守
    久我家緒大夫春日潜庵(讃岐守)
    元高松藩士長谷川宗右衛門
    その男     速水(万延元年8月、高松獄舎にて病没 26歳)
    土浦藩士大久保要(安政6年12月、土浦獄舎にて病没) 62歳
    薩摩藩士大山綱良
    丹波亀山藩士奥平小太郎(万延元年閏3月、亀山獄舎にて病没) 27歳
押込  百日  近衛家老女村岡(津崎矩子)(安政6年9月押込を免ず)(30日)
    五十日 有栖川宮家家士飯田左馬
    五十日 青蓮院宮家士山田勘解由
    五十日 鷹司家緒大夫高橋権の兵部大輔
    五十日三条家家士富田織部
    五十日下田奉行手付出役大沼又三郎
    三十日旗本曽我権右衛門抱砲術医師飯泉春堂(喜内の養子)
    水戸藩小十人目付組頭大竹儀兵衛
    五十日京都町奉行岡部土佐守家来筧承三
    各五十日旗本阿部四郎五郎家来勝野豊作妻ちか・男保三郎・女ゆう
    三十日鉄砲方井上左大夫組与力藤田忠藏
    百日  掃除頭藤村権右衛門組岩本常助
手鎖  三十日神田小網町一丁目名主伊十郎
    三十日神田久右衛門町町人弥七召使源助
    三十日信州松本の近藤茂左衛門抱え宰領飛脚源右衛門
急度叱 信州山本貞一郎(近藤茂左衛門の弟)の妾とよ・女うめ・同さい
無構  鷹司家家士兼田伊織
    神田三河町町人仁三郎寄子清七
    武州葛飾郡八右衛門新田利益院層行阿
    水戸藩士太宰清右衛門妻せい
    奥州磐前郡住吉村長善院僧知順
    常州茨城郡大野村郷士格横須賀甚右衛門(変名奥田隼人)
    常州行方郡矢畑村農峰十

上記は評定所の判決を受けた主な人物である。その身分別の罪科内訳は以下の通りである。
宮・堂上家廷臣:20人(遠島2、中追放5、所払3、洛中洛外構・江戸払1、永押込3、押込5、無構1)
幕臣:9人(遠島1、押込8)
諸藩士:20人(切腹1、死罪5、獄門1、遠島3、重追放1、中追放2、永押込5、押込1、無構1)
儒者:3人(死罪1、中追放2)
神職:2人(中追放2)
僧侶:2人(無構2)
農商:13人(遠島1、中追放2、江戸構・紀州領所払1、手鎖3、急度叱3、無構3)

井伊直弼24.3.25
上記の他、捕われて監禁中、病没または自殺して処罰を免れたものが六人いる。有名な人 物を挙げると、月照、梅田雲濱、梁川星巌、などである。


[宮・堂上家処罰者]
安政6年2月17日(幕府の内奏による)
慎    青蓮院門跡尊融法親王
同10日  内大臣一条忠香
同10日  権大納言二条斉敬
同5日  議奏・権大納言久我建通
同5日  武家伝奏・前大納言広橋光成
同30日  前武家伝奏・前大納言万里小路正房
同10日  前議奏加勢・権中納言正親町三条実愛

安政6年2月27日(幕府の内奏による)
自分慎  正三位大原重徳

安政6年4月22日、四公の落飾の奏請を聴許し、慎を命ず。(幕府の内奏による)
前関白 鷹司政通 4月27日落飾、法名拙山
前左大臣近衛忠熈 5月3日落飾、法名翠山
前内大臣三条実萬 5月日落飾、法名澹空 4月危篤により慎を解き、6日薨去、58歳

安政6年12月7日(幕府の内奏による)
退隠・永蟄居 青蓮院門跡尊融法親王 同月11日相国桂芳軒に移居、獅子王院と称す。


[大名処罰者]
安政6年8月27日
国許永蟄居 前水戸藩主徳川斉昭(前権大納言)
差 控   水戸藩主徳川慶篤(権中納言)
隠居・慎  一橋家主徳川慶喜(刑部卿)
安政6年8月28日
慎    前老中太田資始(備後守、前掛川藩主)

安政6年9月6日(幕府の内奏による)
隠居   前老中堀田正睦(備中守、佐倉藩主)

安政6年9月10日(幕府の内奏による)
隠居   前老中松平忠固(伊賀守、上田藩主)

安政6年10月11日
慎    前土佐藩主山内容堂(土佐守)同年2月26日、幕府の内命により隠居する。

これは、最初に表示した『安政の大獄』(吉田常吉著・吉川弘文館)からの転用です。 現在刊行されている研究書のなかでは最も秀逸な内容です。

【註】
以上は、公的な処罰であるが、元来「安政の大獄」は、将軍継嗣問題での一橋派人物、さらに日米修好通商条約の無断勅許の責任追及を行うことに拘った人物、即ち「反幕府政策に加担した人物」への処罰であった。
従って、此処の処罰リストには入っていないが、当時の幕臣で有能と評価の高かった人物を、表向きの処罰こそしなかったが、左遷または冷遇という処置で罰したのであった。
岩瀬忠震、大久保一翁、川路聖謨、永井尚志等、解明派と云われた人物が重要な役職から外されたのであった。

井伊直弼は、幕府権力を保持する為に強行したのであったが、時代逆行の暴挙となってしまい、翌年の万延元年三月、水戸藩の浪士達から襲撃され、いわゆる「桜田門の変」で白昼に幕府の大老が落命するという異常事態を招き、以後幕府の威信は低下し続ける。
大政奉還の十年近く前の出来事であった。





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR