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『吉田松陰の家系の人・杉道助』
【2013/03/29 22:57】 エッセイ
『杉道助さん』のこと

吉田松陰を陰で支え続けた、兄の「杉民治」さんの孫にあたる「杉道助さん」の『私の履歴書』が収載されている第一巻を購入して読んだ。


松陰と大変仲の良かった兄で、お手本のような兄弟愛に生きた「民治さん」の孫にあたるので、特別な感慨を持って読んだ。
生まれは明治17年であるから、早稲田大学が創立されて二年経過した頃に誕生したことになる。ところが杉道助さんは慶應義塾に入学したのである。
いくつかの会社に在籍(転職)したとの事であるが、やはり晩年の「大阪商工会議所」の会頭が印象強いし、またこの経歴なくしては「私の履歴書」に登場しなかったのではないだろうか。

杉梅太郎


読んでいると、人柄の「おおらかさ」が伝わってくる。時代もそれなりの日本資本主義勃興時代とはいえ、企業内の人間関係も今とははるかに違っていただろうことは、書かれている内容からも十分推測できる。
面白いのは杉家と吉田家の関係に触れている件(くだり)である。
松陰の母「たき」が吉田家に養子に行くことをあまり賛成しなかったようである。
そのわけは、吉田家の当主は歴代で早死にが多くて道助さんの弟が養子に行くことになった時には、内心では反対だったようである。
結果はやはり二十台で若死となってしまった。しかもブラジルで客死とのこと。

 
慶應大学25.3.29 

明治43年に結婚したそうだが、仲人が有名な武藤山治さんである。
私の父親が、道助さんが結婚した年に誕生しているから、私の祖父の年代に近いのだろうと勝手に想像をめぐらせている。
このご縁から杉道助さんは「仲人の武藤山治」の選挙参謀(本人の記述では幹事長)を務めたとのことである。
しかし、当時のこととて選挙違反で拘引されて、二か月未決囚?生活の体験をしたとのこと。
しかも拘留中の待遇?がよかったようで、予審判事が読書のすすめをしてくれ、資本論やマルクス、エンゲルスの著書を熱心に読んだとのことのことである。
本人は、学生時代を二度やったようなものだとの思いだったと述懐している。
この選挙は大正13年のことである。

吉田松陰25.11.09


地下の松陰は、この末裔の生き方をどんな思いで見ていただろうか。
松陰は尊王精神の権化に近い人物であったから、社会主義思想は真っ向から拒否したに違いない。
ある雑誌で杉道助さんの写真を見たことがある。
多分「大船観音」を背にして映っていたと思う。
だから鎌倉に在住していたのではないかと想像している。
 
もし、これが事実なら、私も昭和37年から39年まで同じ大船に在住していたから、不思議なご縁 があったことになる。

因みに吉田家の現在の当主は鎌倉から遠くないところに在住しているが、個人情報のことがあるので詳細は書けない。



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『JAL退職者懇談会』・吉田松陰
【2013/03/27 00:07】 エッセイ
『人間・吉田松陰に学ぶ』

2013年4月22日、東京都内のある「生涯学習センター」で掲題の勉強会が行われる。 これは「JAL・退職者懇談会」という団体から提案を頂いて実現することになった。
松陰正装画像


実は、この団体の世話役の方が、私の先輩(同じ学部)であって、ある会合で御一緒したのが契機で名刺交換をした際に「私のブログ」の話をしたら、それを視て私が後輩であることがわかったのであった。
それで、この勉強会の提案を頂いたという次第である。

さて、「人間・吉田松陰」を学ぶという大そうなタイトルを頂いたが、吉田松陰の人となりについて事前に整理をしておかないと焦点が定まらない恐れがある。 そこで、予習を兼ねてこの稿を書いてみることにした。

「吉田松陰」について、一般の方々はどのような印象や理解がなされているだろうか? いくつか列挙してみる。
① 伊豆の下田から「ペリーの軍艦に乗船して海外密航」を企てた人物。
② 長州藩の藩士で、「安政の大獄」で刑死した人物。
③ 「松下村塾」という「私塾」を主宰して、明治の指導者を沢山輩出させた人物。
④ 「高杉晋作」を育てた先生。
⑤ 「幕末の志士」として活躍した人物。
等々のことは知っているに違いない。
すこし突っ込んで勉強した人は「草莽崛起」を唱えて、明治維新の魁をなした人物であることを知っているだろう。 これは、大事なポイントである。
恐らく、「松下村塾」とのつながりで「人口に膾炙」しているのに違いないと思う。

志ありせば


今度は、自分で吉田松陰を一言で言い表す「ことば」を考えて見る。
① 志の猛烈に高い人。
② 至誠を座右の銘にして生きた人。
③ 孟子を勉強し『講孟余話』の著作を為した人。
④ 草莽崛起を最初に唱え、「松陰精神」の共感を喚起した人。
⑤ 松下村塾の主宰者で、大変な教育者であった人。
⑥ 「学は人たるゆえんを学ぶ為り」と言って「人間通」だった人。
⑦ 「志を立つるを以て万事の源と為す」と名言を吐いた人。
⑧ 安政の大獄に連座した人物の中で最も死なせたくなかった人。
⑨ 「野山獄」で14カ月に618冊も読破し、著述をたくさんした人。
⑩ 陽明学の信奉者であって、行動の人。
等などが思い浮かぶ。

「松陰語録」を沢山残したのも吉田松陰の個性を際立たせている部分もある。
中公新書に田中彰さんが著した『吉田松陰』―変転する人物像―を読んで疑問を抱いたのが、私にとっての吉田松陰との出会いであった。
この本を手掛かりとして、いわゆる『松陰本』を片端から読破した。
今では、吉田松陰の伝記ないしは、研究本まで明治この方200冊を超えると云われている。研究論文に至ってはもっと多くの松陰研究の開示があるだろうと思われる。

現在比較的手に入れやすく、一定の水準以上を条件に『松陰本』を列挙してみる。
① 『吉田松陰』、徳富蘇峰著。岩波文庫。
② 『吉田松陰』、玖村敏雄著。岩波書店。(古書店、または山口のマツノ書店本)
吉田松陰と松下村塾25.3.28


③ 『吉田松陰』、海原徹著。ミネルヴァ書房。
まず、なにをさておいてもこの本は「吉田松陰学」の【必修科目】に相当する書籍で、必読の書である。③と同じ著者が沢山の研究書物を出しているのは、ありがたいと同時に、その研究振りにただただ頭を垂れるのみである。通称、この一連の研究書を「四点セット」という。
① 『吉田松陰と松下村塾』
② 『松下村塾の人びと』
③ 『松下村塾の明治維新』
④ 『江戸の旅人吉田松陰』
この四冊に上記の③を加えて、さらに『エピソードでつづる吉田松陰』、『近世私塾の研究』も併せて読むと、これは完全に「吉田松陰通」と自称してよい。
海原徹先生(京都大学名誉教授)は「現代の吉田松陰研究者」で名実ともにナンバーワンである。
 
吉田松陰の夢、松下村塾の夢25.3.28

京都大学の大学院時代に、修士論文を書いたそうであるから、半世紀近い研究歴を誇る。 しかし、③のミネルヴァ書房版の『吉田松陰』の「あとがき」で、これほどまでに書いても何か書き足りない気持ちが残ると告白している。
同時に、何故これほどまでに吉田松陰と云う若者に引きつけられるのか?とも書いている。
そう、吉田松陰は「未完成の魅力」なるものが潜在しているに違いない。

そうして、松陰人気は衰えるどころか益々ブームが高揚して行くように印象されるのである。

全くの私見であるが、「本当に時代と格闘した人」そして「死をも恐れぬ信念に生きた人」、さらにこのような超人的なものを越えて「人間臭さ」を丸出しにしている印象がある。 「精一杯生きる」という言葉は、この人のためにあるのではないかと錯覚する程である。 海原先生に比べて、私などは10年位の勉強である。しかも、研究とは言えない程度の内容である。必死に取り組んではいるが、何せ理解に、読むのに「相当の困難」と「根気」が伴わない限り『吉田松陰全集』は自家薬篭中の者とはならない。
最新版松陰全集
定本吉田松陰全集

「森信三先生」が『普及版・吉田松陰全集』の刊行を知って「天王寺師範」学校の講義で、この全集を「騙されたと思って読みなさい」と奨めている。そして、これを読んだだけでも卒業の価値があるとまで言い切っている。もしダメなら私が買い取っても良いという極め付きのお勧めなのである。日本を代表する哲学者にして教育者がこういうのであるから、あとは推して知るべしである。
森信三先生


吉田松陰の研究書物を書いた有名人は、沢山おられて名前を挙げきれない。
奈良本辰也、古川薫、関根悦郎、寺尾五郎、は大体の研究書の参考にリストアップされている。
上記の徳富蘇峰、玖村敏雄、海原徹の各氏は別格官幣大社とでもいおうか?
有名、無名を挙げきれないのだ。私の自宅にあるのだけでも150冊超となる。
しかも時代を考慮した個人全集が数度刊行されている人物を私は知らない。

『定本版・普及版・大衆版』と大雑把にいって三度もの刊行がある。
そして増刷、復刻版等々、全集だけでも大変な出版である。
また大変に高価であって一般読書人では購入意欲が失せてしまう。
私は必要上、上記の全てを購入してある。私が主に使用するのは昭和47年刊行の大衆版である。


以上、書物を確認しないで、記憶で思い出すままに書いた。
誤記も混在しているかと思う。時間のある時確認して、要訂正は心掛ける。



江戸時代の平和を追億して
【2013/03/26 20:15】 エッセイ
『閑話休題』のままに

今年の10月1日から始まる「天章堂講座・幕末維新のヒーローたち」の準備に追われている。史料の蒐集検討が大変である。
2013年3月5日に「土浦市」にある「茨城県県南生涯学習センター」の事務局を訪問して来た。
常磐線土浦駅前にある施設であるが、商業と文化施設とが一体になっている。
「天章堂」の命名由来は、江戸期の土浦にあった「寺子屋」の名前に因んだそうである。 寺子屋は庶民の学び舎で、江戸時代は「読み・書き・算盤」を主として教えたのである。
茨城県の江戸時代と言えば、誰しも思い出すのが「水戸黄門」である。「黄門」という呼称は唐の中納言の別称であるので、水戸黄門に限らないが、何故か水戸黄門は「水戸光圀」より親しみの持てる名前となっている。
「勧善懲悪」をモチーフとしたTVドラマや、小説または読み物の強い影響であろう。そんなことから、江戸時代の長い平和の礎となった「江戸城の防衛」に思いを致しながら、思いつくままに書き綴ってみよう。
寺子屋25.3.26
                     (寺子屋)

江戸期の土浦藩は藩主の入れ替わりが多く、江戸からの後方に存在した「御三家・水戸藩」の前衛役も担っていたのであろうか。霞ヶ浦に隣接するこの都市は、首都への通勤圏として所要時間から判断すると北限に位置する。新幹線が開通するまでは、この状態が続くのであろう。近年の地震帯もしんぱいである。
江戸からの30里四方近辺は、匆匆たる大名の配置が行われている。

江戸城25.3.28
                      (江戸城)

徳川の「攻守」にわたるバランスのとれた統治体制には、驚くばかりである。因みに列挙してみよう。先ず北の守りの要である水戸。御存知「御三家」で天下の副将軍である。宇都宮は譜代名門奥平(徳川と縁戚)や戸田家である。何れも徳川にとって「任せて安心」の家柄・大名である。前橋は松平であり、館林は5代将軍・徳川綱吉が一時統治した「御両典」の名門で、甲府と並ぶ特異な名門である。西の押えは「小田原藩」で、初期の功臣・「大久保忠世」の系譜である。一時期交代があったが、大老に相当する立場であった大久保忠世は重臣中の重臣である。つまり、水戸街道、奥羽海道、中山道、東海道の要所に信頼する大名を配置した。西南雄藩は幕末になって徳川氏に牙をむくが、これらを二重三重に守るべく、京都、大阪に睨みをきかすとともに紀伊、そして筆頭の御三家尾張にそれぞれ徳川を配置した。江戸の守りと共に東海道を押えたのである。唯一の弱点は「海防」であるが、これは家康の時代にはそこまで読めなかった。
徳川家康25.3.28


だから、家康の読み切れなかったものは二つある。一つは海への守り、もう一つは経済成長による百姓の貯蓄と商業の発達。
これだけは徳川家康といえども時代の子である。しかも商業の発達には「参勤交代」と表裏一体の関係なのは皮肉な結果となった。また、「北前船」に代表される海運、特に「下関」を天領として押えなかったことが、上手の手から水がこぼれた結果となった。誌に臨んで西南方角をにらみながら「往生」したといわれる。不安が二世紀余り後に現実のものとなった。
ペリー


こうしたことから「ペリーの来航」によって海防の虚を突かれたのも皮肉である。西洋に勃興した「産業革命」と資本主義まで考えが及ばなかったのは仕方あるまい。
徳川幕閣の怠慢でもあり、鎖国体制の盲点で「国内向け」の政治と、前例を重んじる「保守主義」が、表面上の「平和」を保ったといえる。もっといえば「元和偃武」に胡坐をかいていたのである。徳川幕府の統治苦悩は、前半の七代将軍までが覇道の余韻を醸し出して安泰だったが、吉宗以降は米沢藩の儒者・藁科松伯が睨んだ通り『そろりそろりと天下のゆるゝ兆しにや御座候』(上杉鷹山公記)と、時代の危機へと向かっていたのであった。これが宝暦年間であるから徳川幕府開府から150年、マラソンに例えれば折り返し地点にあたる。
水戸藩に関心を抱き、天章堂講座の準備に取り組みながら考えたことを書いてみた。
江戸時代をどう評価するかは「史観」によるのであるが、功罪共に両面から見ることが必要である。


幕末の安政年間に「ハリス」が通商条約を締結交渉にあたり、治外法権を設けたのは「刑法」が西欧では考えられない「武士階級の勝手な法典」と目に映ったといわれる。人権思想の発達してない日本国の封建制度の時代は、正しく前近代的なものであった。「切り捨て御免」や「ハラキリ」は、人権を「血」を流して勝ち取った西欧では、野蛮に近い印象だったのであろう。中公新書の『江戸の刑罰』(石井良助著)を読んで見ると面白い。
松陰先生24.3.31


その点では『福堂策』を著述した吉田松陰は、ヒューマニズムの立場から「懲罰から悔悛へ」と教育刑の認識を持っていた。これは「罪を憎んで人を憎まず」に基いていることは間違いあるまい。この考え方は優れて近代的なものだが、松陰はどこでそれを知ったのか?膨大な読書量をこなした松陰ならではのことである。

さて、閑話休題に「つれづれに」書き綴ったが、調べたいこと、読んで見たい書物等々が限りなく湧出して来る。人間は健康で、元気が一番の証拠かもしれない。



「吉田松陰と現代」を考える
【2013/03/26 13:36】 エッセイ
吉田松陰と現代「連載①」

吉田松陰全集に「上書」として、①明倫館御再興に付き気附け書、 ②水陸戦略、 ③文武稽古萬世不朽の御仕立氣附書、の三つの上書が収載されている。

此の中で、とりわけ掲題と関係あると思われるものを記述してみる。

吉田松陰25.11.09


先ず①で文武稽古の儀は國の盛衰の關る事に候へば、何分ともに永久にして萬歳の後迄も保ち候様之れなくては相濟まざる事に存じ奉り候。總じて事の敗れは君子野に在り小人に在るより起り候へば、干要は選擧の道に之れあるまじくと存じ奉り候事。

【解説】江戸期の統治階級の武士は「士道」の認識の下に励まないと、「人の道」(ここでは武士)に背くことになり、怠慢は相済まざる事といっている。したがって、身分の世襲制の弊害を克服するには人材登用が行わなければならない。

太平久しく候へば、物事繁文に赴き先例舊格に泥(なず)み、却って實事に疎く相成り候て翻意を失ひ候事之れあるべく候へば、上覧・御參堂等諸事簡易を宗とし、時措の宜に随ふ事干要に存じ奉り候。但し簡易と申し候ても太古の無為抔と申す譯にては全く之れなく、只虚文を殺ぎて實事に歸するのみに御座候。

【解説】太平の打続く世は、保守的(進取の精神無し)となり、先例がないとして物事の大切な事か否かの吟味や判断が行われにくく、「きまり」が繁雑になって枝葉末節に流れている。簡潔こそを心掛けるべきである。ただ、物事の軽重や表面的なことを修飾するのではなく、実学的発想こと肝要である。役に立たない学問への辛辣な批判的意味が込められている。
明倫館25.3.26


これは毛利藩の藩校「明倫館」(江戸中期に開校)を移転拡張して國運(毛利藩)の隆盛を期し、現在地に再建した時に松陰が書いた「上書」である。
時に嘉永元年。松陰が兵学師範として独立した翌年の意欲作とみてよい。
「孔孟箚記上下」


松陰は幼時から「孟子」を勉強させられたが、その『講孟余話』のなかでも、「人と云うのは、順境にあっては怠け易く、反対に逆境にあっては必死に努力するものである」という意味のことをいっているが、武士は治者階級としての職分を尽くし、尚且つ己を修めることに厳しく生きなければならないと自分に言い聞かせていた。事実、かれの生涯はこうした考えに貫かれていたのである。
これは連載してみたいと思う。


「明治維新」への貢献努力度
【2013/03/05 22:56】 エッセイ
「明治維新への自負」を考える

日本の近代国家は明治維新に始まる。これは誰もが首肯することである。
では、誰がどのようにして、この「明治維新」という日本の歴史上において最大の変革を成し遂げたのであろうか。


このあたりからは「意見の相違」があるのではなかろうか。
「薩長土肥」ということばがある。これは、明治維新への「藩としての貢献度」の大きさを一つの「価値基準」にした序列を言ったものである。
薩長


薩摩(島津)、長州(毛利)、土佐(山内)、肥前(鍋島)を指して言っているのであるが、何時頃からこうした序列を言いだしたのであろうか? 
明治新政府の顕官を沢山輩出したことに根拠を見出したのであろうことは、それなりに推測できる。
しかし「明治維新」と一般に認識されているのは、「御一新」と言う言葉に象徴されているように「変革への貢献度」から割り出された、結果論的な意味合いを多分に有している。
では徳川幕府権力の崩壊期を視野に入れているかと言うと、必ずしもそうではなく、それは曖昧模糊としたものになっているように思える。つまり便宜上そのように言われているのである。

翻って「誰が明治維新の中心人物か」と問うてみると、指呼に指折る人物が数名出て来るのではなかろうか。それは吉田松陰であり、桂小五郎であったのは長州藩の人々はそのように答えるに違いない。
西郷隆盛25.01.11


一方、薩摩藩はというと西郷隆盛、大久保利通と列挙するだろう。では土佐藩は?となると坂本龍馬や中岡慎太郎、そして武市半平太の名前もあがる。それでは肥前藩はとなると疑問があり名前が挙げられない人が多いに違いない。大隈重信や江藤新平ということには少し無理を感じる。むしろ橋本左内や松平春嶽の方が、貢献度が高いのではという疑問が出るかもしれない。いやいや、水戸こそ尊王思想の総本山だから徳川斉昭とそのブレーンに求めるべきだとかの甲論乙駁となりそうである。

そう、歴史を視る眼というのは複眼的に視なければならないのである。ここにも「マクロとミクロ」の視点が必要なのである。
かつて「それは空気が決めた」という日本独特の用語が流布されたことがある。このように、十把握一絡げでは歴史の姿は見えてこない。歴史学者のE・Hカーは「歴史は過去との対話」という至言を残した。
唯物史観の優れた所は、こうした「歴史の大河」というものに一つの視点を付与したことかもしれない。一般的には「社会史」という観点と近いものと思われる。そこでは、歴史上の人物が埋没される。必然性が歴史展開の根底にあるとされるのである。確かに一面ではその通りである。然し、歴史は「人類もしくは人物」が織りなして連綿と繰り広げられ、続いてきた事実もある。従って「史観」というものは、定論で歴史をみてはいけないと諭しているかのようである。人間社会が織りなす多面的な、複雑な様相を簡単な要約で把握することは殆ど不可能である。

それはそれとして、長州藩の人達(山口県)の「明治維新への貢献」への自負心は、大変なものがあるように見受けられる。恐らく「薩長土肥」は間違いで「長薩土越」(越は越前)の方が受け入れられるように思われる。私もそれは否定しない。それを薩摩が第一に挙げられるのは単なる語呂合わせでないところに、歴史を視る不思議さがある。
徳川慶喜が自身の回顧談で「薩摩は憎いが長州は許せる」といったのも、意味深長である。
歴史が「大河」だとすると「明治維新における藩」の貢献は、大河の支流とも例えられるかもしれない。


吉田松陰25.11.09


吉田松陰を評してある高名な研究者は「明治維新中の志士としての第一等星」であるといった。人物史としてはこの言葉はとても解かりやすい。
「死をも恐れない人生観」は一般的には持てない。それを「死の直前」に朗々と謳いあげた「我、今国のために死す」との辞世の句は、並々ならぬ国家への奉仕精神の権化としての意味合いを持つと思えるのは私だけであろうか。



「桂小五郎」と「高杉晋作」
【2013/03/04 23:40】 エッセイ
「桂小五郎」と「高杉晋作」・「伊藤博文」

幕末史の長州藩を代表する「志士」として、この二人(伊藤は除く)は欠かせない代表的な人物である。桂は「吉田松陰」が、長州藩の「藩校」である「明倫館」で「山鹿流兵学」を教えていたときの門下生であるから、この二人の関係は「松下村塾」での門下生よりも長い。したがって、桂は「松下村塾生」ではなく、彼らの兄貴分としての存在であった。反面、松陰の相談相手に近い存在であったと考えられる。
松陰は松下村塾主宰にあたっては、門下生と教師との立場を時に垣根を高くしない工夫もしていた。だが、それは一般には殆ど知られていない。

桂小五郎は大政奉還から廃藩置県までは長州閥の代表的な立場であったが、此れを為し遂げてからの人となりは、まるで人物が豹変してしまったかのように事績が語られず、幕末の颯爽とした志士のイメージはない。
「岩倉遣欧使節団」に「副使」として随行して出発までの、明治維新史上に大きな足跡を残したことに対して異論をはさむ人は多くはあるまい。
木戸孝允26.02.01


事実、桂(維新後は木戸孝允)なくして明治新政府は機能しなかったと云っても過言ではない。では、何ゆえに明治四年以降、その存在感を示せなかったのか。
此れを、明確に語る史料・書籍は殆どない。だが、関連書籍を読みこなすうちにそれが浮き彫りになって来る。そのカギは「伊藤博文」なのである。
世渡り上手な伊藤は、自分の身分では幕末期に活躍する才能があっても、足軽という身分制度に抹殺されてしまい、幾多の努力も伊藤の功績にはならなかった。つまり、使い走り的な「便利屋」としてしか扱われなかった。随分辛い思いをしたであろうことは、容易に察せられる。しかし、幸運はどこで待ち受けているかわからない。伊藤自身も、その行く末に対して自信ある将来像としての「伊藤博文」に明治新政府での明確なリーダー像は持ち得なかったに違いない。

かつて吉田松陰が「利輔はなかなか周旋家になりそうな」と評価したのは有名な逸話である。事実、松陰の見通し通り「伊藤博文」は政治家として大成した。千円札の肖像にも登場するほどまでに功成り名を遂げた。「今太閤」ともてはやされる所以である。
さて、その契機はどこにあったかである。それを解く鍵は「岩倉遣欧使節団」としての随行にあった。ここで、同行した大久保利通と木戸孝允の人物鑑定を怠りなくやって、幕末以来の恩人である木戸孝允を彼は殆ど見捨てるのである。そうして「大久保利通」に近づくのである。

伊藤博文26.02.08


つまり、伊藤の人物鑑定が巧みに行われていたのであるが、このことについては大久保も木戸も伊藤の心中に気付いていない。それは帰国後の行動によって明るみに出る。解かり易く言うと伊藤博文は機を見るに敏で、木戸よりも大久保に賭けたのである。事実、大久保が内務卿になって、明治新政府の最高実力者として君臨した時に伊藤は、それとなく大久保に尽くしたのであった。ここは、なかなか見抜きにくく、そこが伊藤の「巧妙」なところで、明治11年、大久保亡き後も大隈重信に一歩譲った形で時を待った。この時を待つ姿勢こそ、政治家や権力者に必要な資質なり思考態度なのであった。巧妙に人生航路を彷徨したが故に「明治14年」を期に大隈追い落としを実現したのであった。具体論は、後の機会に俟ちたい。

さて、掲題の高杉晋作であるが、実は高杉も桂も地元萩に在っては甚だ評価が低い。江戸期にあっては、身分制度が厳格であったのと裏腹に「家名の誇り」を継承していくのが嫡子としての義務でもあった。長州藩にとっては「大組」という中級の家格であった高杉家は「指月城」からほど近い位置に、中級家臣団の住居があった。今に残る、萩市内の「菊屋横町に「高杉晋作」の住居が保存されている。通り一つ隔てて桂小五郎の住居も保存されている。高杉家は毛利元就以来の譜代であった。この譜代の名門意識は高杉晋作に生涯ついてまわる。奇兵隊の総督としての後任であった赤禰武人に対する、殆ど侮辱に近い表現がそれを物語っている。つまり、名門譜代と下級武士(赤禰の出自はそれ以下)とは超え難い身分制であった。そして、俗論派への迎合を模索していた赤禰に対して「売国奴」的な態度であるとして糾弾し、自刃に追い込んだのであった。
高杉晋作25.12.07

格式高い名門高杉家の御曹司として、一人息子の晋作は「我が儘放題」に育てられた。松下村塾にあっては、別格の人物であっただけに、そのプライドたるや他の塾生を圧し、ある種の傍若無人の振る舞いが門下生達から浮き上がってしまったのであった。安政六年、吉田松陰と桂小五郎は、高杉の行末を心配した。決め手は松陰の教育的配慮に満ちた言葉であった。
松陰正装画像


俗に「角を矯めて牛を殺す」という俚諺があるが、松陰は高杉の欠点を矯正するより、有り余るすぐれた長所としての能力に賭けるとして桂を説得したのは有名である。小さな短所に目をつむり、優れた長所をこそ発揮させるよう導いていくべきだとして、「十年後に國家の大事」を謀る時に、僕は高杉に相談して共に国事行為を起さん。といって桂を納得させたのであった。松陰の人間観を垣間見る素晴らしい逸話である。おそらく吉田松陰の魅力はこうした所に人としての真髄があるのではなかろうか。

果せるかな松陰なき後の「松陰精神」を、危険を顧みず受け継いで実行して見せたのは「高杉晋作」であった。松陰の慧眼は正しかったのである。高杉のそれは、松陰の志の何たるかを熟慮、知悉していたのであった。それ故に高杉は、維新直前に命を落とした未完成の魅力が、今日なお彼の人気を保持しているのかも知れない。





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