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『高木兼寛博士』の功績
【2013/04/12 18:59】 エッセイ
『慈恵医大学祖・高木兼寛』博士

我が家に『東京慈恵会医科大学百年史』という分厚い本がある。学祖の「高木兼寛博士」と慈恵医大の勉強の為に購入したものである。姉と私が慈恵のお陰で命拾いした経験があり、母校の創立者・「大隈重信侯」が襲撃された直後、手厚い処置を施して助けてくれたのも高木兼寛先生だった。
二重三重の意味で恩人である。感謝してもしきれない。

高木兼寛


ペリーが来航する四年前の嘉永2年、日向国の穆佐村(薩摩藩領)に生誕。
鹿児島で恩師の石神良策の下で医学を学ぶ。
儒学(四書五経)や蘭学も学んで、戊辰の役の東北征討軍で会津に向うも、落城で帰藩。明治4年、西洋医学を志して「鹿児島藩立開成学校」に入学。同年英国人医師「ウイリス」より英語、ラテン語を学ぶ。
翌年に海軍に入り「海軍大軍医」となる。ここから、高木兼寛先生の大躍進がはじまる。


明治8年、海軍生徒として医学修業のため、英国留学を命ぜられてロンドンの「セント・トーマス病院医学校」に入学する。卒業までの数々の栄誉を受けて、明治13年11月帰国するが、首席であったという。
大変な努力と秀才ぶりを発揮した。12月には海軍中医監兼海軍病院長であるから、その躍進ぶりは大変なものである。翌14年、京橋にあった東京医学会社の一室に「成医会」という医学の研究会を松山棟庵らと開く。
そこで医師志望の人達に西洋医学を講ずる。此れを「成医会講習所」と云い、これが後に慈恵医大に結実する。
当時の医師試験の突破は大変な困難で、野口英世の伝記を読んだものなら、その難易度解かるだろう。
翌15年8月、有志共立病院を設立し、当時の海軍軍医総監「戸塚文海」を院長に就任依頼して、高木は副院長となった。
病気を診ずして病人を診よ


日本の近代医学史を知る者は、東京大学医学部とドイツ医学とが主流であったのを御存知と思うが、高木兼寛先生と森鴎外や石黒忠悳らの「脚気」の原因をめぐる論争(暗闘?)は、ドイツ医学・東大医学部と英国流医学のバトルとなる。
これは後の話で、有志共立東京病院は外務卿井上馨(後任の外務大臣が大隈重信)の働きかけで各国公使館の協力をとりつけ、民間の醵金「四千円」で創立・開業されたのであった。
実は「明治天皇」は、「脚気」であったことから、脚気に関心が高く、11月29日に明治天皇に直接面談の機会を得、「軍艦内脚気予防」に関して、高木説を上奏したのであった。

 
森鴎外

明治17年「海軍軍医本部長」となり、翌年には有志共立東京病院内に「看護婦教育所」を創設した。日本で最初の「看護婦養成学校」である。
またこの年、練習艦「筑波」の遠洋航海で、乗組員に「高木食」(麦飯・パン等)を獲らせて、軍艦の乗組員達の「脚気」罹患を防止した。これはいくら特筆してもしきれない偉大なる実験であった。事件という言葉があてはまる程の画期的な出来事であった。
そうして暮の12月28日に「海軍軍医総監」に任ぜられた。以下、まばゆい限りの経歴と、事業を列記する。
19年内務省御用掛、海軍軍医學校長、従四位に叙せられる。20年病院の組織を改め、東京慈恵医院を命名し、皇后陛下の意向で院長となる。21年日本で最初の「医学博士」の一人となる。
24年勲二等瑞宝章授賞。25年貴族院議員。36年専門学校令により私立東京慈恵医院医学専門学校の設立認可。
38年男爵、40年東京慈恵医院の事業拡張で「社団法人東京慈恵会」設立、医院を開設して院長となった。
慈恵医大


以下、年号なしでの栄誉を書くと、勲一等瑞宝章、東京市教育会長、宮内省より銀盃、酒肴料下賜、従二位旭日大綬章授与。大正9年4月13日死去。勅使より祭祀料、下賜品等を受く。皇族からの香奠花菓多数。
法号は「報国院殿慈心行照大居士」で、青山墓地に埋葬された。

生前に「脚気原因」が証明される報を得られず、森鴎外の細菌説の誤りが証明されるのを見届けることが出来なかったのが残念である。
実は森鴎外も、自らの説の誤りを知らずに死去している。
ビタミンの摂取で脚気の罹患防止が世界的に証明されたのは大正15年である。
すなわち高木兼寛博士の、説が正しかったのである。
このことから高木兼寛先生を「麦飯男爵」と別称されることがある。

白米だけではいけないのであって、私の幼少の頃「天皇陛下も3割の麦の入ったご飯」を食べていると、明治生まれの父親から聞かされていたことを懐かしく思い出す。
ビタミン摂取の食事療法を唱えた、高木兼寛博士の功績は永遠に光輝を放って、私達は、今その恩恵を被っている。感謝すべし、である。


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誇り高き人『高杉晋作』
【2013/04/01 23:39】 エッセイ
『高杉晋作』の誇り

幕末の風雲児・「高杉晋作」は松下村塾で「久坂玄瑞」と並び称された逸材であった。
元治元年(1864)12月15日の「功山寺挙兵」によって藩内の対立派(俗論派)の打倒をめざし、成功した逸話は、彼の生涯におけるハイライトの一つである。

高杉晋作25.12.07


この元治の内戦に勝利し、かねてからの持論であった「割拠論」を実現した。高杉は俗論派の幕府恭順の考えがどうしても受け入れられなかったのである。
この結果、萩藩は正論派(革新派)が藩内権力を握り「第二次長州征伐」に対して、敢然と立ち向かうことになる。この第二次長州征伐は、萩藩では「四境戦争」と呼称されるように、長州(周防・長門)の国境の四方面での幕府軍との戦いであった。

薩長同盟によってグラバーから薩摩藩経由で購入した「近代兵器」と「士気」の高さ、幷に正規兵のみならず「奇兵隊」を始めとする「諸隊」の活躍や、戦争指揮官としての大村益次郎等の活躍が大きかったのであった。つまり毛利藩として一所懸命そのものであったから、一枚岩となって「団結は力なり」を実現させたのであろう。烏合の衆としての征長軍とは雲泥の差があったであろうことは、誰もが首肯することと思う。将に「三本の矢」の元就の教訓そのものだったし、幕末になってそれが発揮されたのである。
大江広元


「丈夫(武士)死すべき処如何」と発した問いに「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし」との松陰の解答の通り、乾坤一擲の勝負を挑んだのであった。だから高杉は、その時が来るまでは、逃亡も辞さなかった。
結果は御存知の通り、長州藩の勝利となり幕府はいよいよ終末を迎え、斃れることになる。この勝利の報を聞きながら、結核のために息を引き取るのである。

この最期の姿は土佐藩の坂本龍馬と「好一対」であろう。ともに、自らの使命を果たし終え、「維新の夜明け」を確信したのだ。高杉は愛人に見守られながら病死する。完全燃焼だった。一方の坂本龍馬は大政奉還の実現を見届け、新政府の青写真を描きながら、京都「近江屋」で僚友の中岡慎太郎と話し合っている最中に、突然の刺客に襲われて暗殺されてしまった。共に慶應三年という、この年の12月9日の「王政復古の大号令」が発せられる直前であった。

さて掲題の件について語ろう。高杉家は萩藩中の「大組」という藩の高級官吏を輩出できる、中位の藩士の家柄である。事実、高杉晋作自身も藩官吏として重要なポストを務めた。
高杉家は「毛利元就」以来の譜代の家臣であった。
したがって高杉晋作は、元就の本拠地である安芸・広島以来、連綿と続く毛利家の名門藩士の誇り高き「毛利の臣」である。
毛利家


因みに「大組」というのは「一門」・「永代家老」・「寄組」に続く士席(士分格)である。松下村塾の主宰者であった吉田松陰は「無給通り」という下級藩士で、高杉と比べものにならない家格である。一定期間松下村塾に在籍した中では、高杉は筆頭のような家柄であった。桂小五郎も久坂玄瑞も及ばない家格の出身なのである。
そのこともあってか、時に「長幼の序」を無視し、村塾内で傍若無人の振る舞いが多く、頑質ゆえに師の松陰や、客分の立場であった桂が心配して、晋作の将来を憂慮したことが松陰全集に記述されている。
松下村塾の塾生仲間からは、こうしたことから晋作は不人気であった。
(吉田松陰全集:村塾零話)
松下村塾24.4.25


ここで高杉の誇りとした「毛利氏」について簡単な説明を加えておこう。毛利氏のルーツは平安時代の「大江氏」であって、代々「文章道」を家学としていた氏族である。
その祖先は『公卿補任』では「阿保親王」であるとされている。「江家」(ごうけ)と通称された。松陰がしばしが江家と言ったのはこういう意味があり、いわば学者の系譜の家柄で、「室町時代」に流れ者から勃興したと云われる徳川氏などとは断然異なるのである。
源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てるときに、幕府の初代「政所・別当」を務めた重臣が「大江広元」である。
毛利の開祖


頼朝が「三顧の礼」に近い思いで京都から招聘したのであろう。この功績(鎌倉幕府の大黒柱としての実績)から、現在の神奈川県厚木市の「毛利荘」を安堵されたのが毛利氏を名乗ったので毛利という。したがって、毛利は鎌倉時代の功労者でもあり、有力「御家人」なのであった。安堵されたのは、大江広元の四男・季光であった。その意味では「毛利季光」をもって毛利氏の祖という言い方も可能である。この子孫が新潟の柏崎と、広島の吉田に別れ、吉田の毛利氏が連綿として続いた末に元就が戦国大名として台頭してくる。織田・豊臣の全国統一の直前に覇権を中国地方に確立したのが毛利元就である。

このようなことから、徳川氏に臣下の礼を取り続けた怨念が二世紀半にわたって消えることがなかったであろうことは、人情として容易に察しがつく。
徳川氏は覇道で天下人となった。この過程には運・不運やめぐりあわせが作用した結果である。徳川政権下において出自の名門という見地からすれば、秋田の佐竹氏や、岩手の南部氏、薩摩の島津氏などは、日本的系譜の誇りという点で、徳川氏に遥かに優るのである。
歴史に学ぶ


人間や氏族、国家の栄枯盛衰は、「平家物語」の冒頭の有名な文言ではないが、歴史が示す通りで「諸行無常」である。人の世の有為転変は、論理で説明するものとは異なる。
しかし、「矜持」は表には見えないものの、人為的に、消褪を強いるとしても、それは不可能である。だから、高杉晋作の誇りなるものは、彼一代のものでは決してなく、名門大名である毛利氏の名門譜代の家臣と云う血統的なものが潜んでいると考えると、高杉晋作の一見乱暴にも思える人生航路に私達は理解出来るものがあると思う。誇りとはそのようなものと考えるのである。一代の誇りと代々の名門の誇りとが、高杉晋作には併存していたのではないかと思うのである。





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