長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

『楫取素彦人物伝』⑦
【2013/07/19 14:45】 エッセイ
楫取素彦
前橋市に在住の方に、「楫取素彦と吉田松陰」について9月に講演予定の案内状を送ったところ、教養講座で「古文書」を勉強中とのこと。しかも、そのなかに「家取素彦訣別の辞」があるというので、送付依頼をしたら送ってくれた。読んでみると、前橋の高浜公園の石碑文とよく似ている。
時間的には、「訣別の辞」の方が先であるから、これを参考にしながら撰文が書かれたものと察せられる。
読み下し文を読んでみると、「名県令」の職を去ることへの惜別の念が切々と伝わってくる。単なる業績を称えるものと異なることがわかる。いわゆる人徳が偲ばれるのである。藩主の毛利敬親が側近に仕えさせた意味がとてもよくわかるし、長州藩の藩命を帯びて、対幕府応接掛、同様に大宰府に寓居していた三条実美以下の「公卿」への応接も、藩主の信任ありてこそ楫取に下した藩命だったことに納得がいく。楫取の人柄は、明治新政府の表舞台に立つことなく、地方官として県政、ひいては国政に貢献したのであった。以下に、原文と読み下しを書いてみる。

群馬県図



楫取素彦県令訣別の辞

明治十七年八月十六日

地方治民ノ任、古ヨリ最モ難シト為ス
蓋シ其ノ職タル、上政府ノ意ヲ体シ、下自民ノ情ヲ達ス、
而シテ其一挙手一投足ハ親シク衆庶ノ瞻仰スル所、
実ニ之カ休戚ノ繋ル所ナリ、其任亦重カラスヤ、
楫取君閣下囊キニ明治七年出テ旧トノ熊谷県ニ令タリ、
尋テ該県ヲ廃セルルヤ移テ我か群馬県ヲ治セラル、
爾来歳ヲ閲スルコト茲ニ二十一、治化洽(アマネ)ク煕(オ)コル。
按スルニ上野ノ国タル、旧來小諸侯各所ニ分立シ、加フルニ幕府族士ノ給地アリ、
故ニ犬牙相接スルノ所ト雖モ大ニ人情風俗ヲ異ニシ、好悪各同シカラス、
之ヲ統一シテ治を施ス、極メテ易シトセラサルナリ、
閣下本県ニ令タルヤ善ク時勢ノ赴ク所ヲ視、人心ノ嚮フ所を察シ、
勧業ニ教育ニ水利ニ土功ニ措置其宜シキヲ得、燦然トシテ面目ヲ改メサルハナシ、
然リト雖トモ、興す所ハ興ササル可ラサルノ利ナリ、
除ク所ハ除カサルベカラサルノ弊ナリ、
決シテ無要不急ノ挙ナシ、是ニ於テ乎、各殊ノ民情大二平カニ野二怨嗟ノ声を聞カス。
閣下治民ノ任亦尽セリト謂フヘキ哉、今ヤ元老院議官ニ栄転セラレ、
将ニ明日ヲ以テ駕ヲ発セラレントス、某等誠ニ閣下ノ恩沢ニ浴スルヤ久シ、
情豈別離ニ忍フヘケンヤ、然レトモ是レ公事ナリ、
復奈何トモナス可カラス、謹テ斯ニ別ニ餞シ聊カ鄙言ヲ呈ス、嗚呼國家ノ閣下ニ待ツ所、
其責猶重シ、冀クハ為ニ自重セヨ、前橋市民有志某等頓首

明治十七年八月十六日

25.7.2『群馬県庁』


<読み下し文>
地方治民の任、古より最も難しと為す。
蓋し、其の職たる、上(かみ)政府の意を体し、下人民の情を達す。而して其の一挙手一投足は親しく衆庶の膽仰(せんぎょう)する所、実にこれが休戚(きゅうせき)の繋がる所なり。
その任亦重からずや。楫取君閣下囊(さ)きに命じ七年出て旧の熊谷県に令たり。
尋(つ)いで該県を廃せらるるや移て我群馬県を治せらる。爾来歳を閲(けみ)すること茲に十一、治化洽(あまね)く煕(おこ)る。
按ずるに上野の国たる、旧来小諸侯各所に分立し、加ふるに幕府族士の給地あり。故に犬牙(けんが)相接するの所と雖も、大に人情風俗を異にし、好悪各同じからず。
これを統一して治を施す。極めて易しとせざるなり。閣下本県に令たるや善く辞世の趣く所を視、人心の嚮ふ所を察し勧業に教育に水利に土功に措置その宜しきを得、燦然として面目を改めざるはなし。然りと雖も興す所は興さざるべからざるの利なり。除く所は除かざるべからざるの弊なり。
決して無要不急の挙なし。是に於てか、各殊の民情大に平かに野に怨嗟の声を聞かず。
閣下治民の任亦尽せりと謂うべきや。今や元老院議官に栄転せられ、将に明日を以て駕を発せられんとす。某等誠に閣下の恩沢に浴するや久し。情豈に別離に忍ぶべけんや。
然れども是れ公事(くじ)なり。復奈何(いかん)ともすべからず。謹んで斯に別に餞し、聊か鄙言を呈す、嗚呼國家の閣下に待つ所、その責猶重し、冀くは為に自重せよ。
前橋市民有志某等頓首

明治十七年八月十六日
群馬県行政文書 議会2340



スポンサーサイト
『楫取素彦人物伝』⑥
【2013/07/16 14:33】 エッセイ
小田村伊之助に與ふ(東行前日記)

至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり。
松陰正装画像


 吾れ學問二十年、齢亦自立なり。然れども未だ能く其の一語を解する能はず。
今茲に關左の行、願はくは身を以て之を験さん。
乃と死生の大事の如きは、姑くこれを置く。
己未五月。

 此の語他日験あらば、幸にこれを世に傳へ、湮滅を致すことなかれ。
若し或は索然として蹟なくんば、又幸にこれを焚き、醜を友朋に貽すことなかれ。渾て老兄の処分を仰ぐ。
五月十八日
                         辱愛友矩方再拝
彝堂村君士毅  足下
楫取素彦


吉田松陰は、安政六年五月、野山獄に在って「兄・梅太郎」より、幕府からの召喚命令を伝えられた。
多くの門下生、友人に宛てた文稿を書き与えているが、その中でも、妹婿小田村伊之助には、此の他にも書いている。感謝の思いや自分の胸中を打ち明けたりと、慌ただしい日々の中で、これらが書かれたのである。
就中、『至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり』の語は、『孟子』のことばであるが、松陰はこれを「座右の銘」として大事にしてきた。
ここでは、それにも拘わらず、この言葉を完全に信頼しきれない何かが松陰の胸の内に去来している。それゆえ、今回はこの言葉がどれほどの真実であるか、自身で検証する良い機会になるとしている。成功したら、此れを後々に傳え、反対に検証できなかったら焚書としてくれと言っている。
松陰亡き後の「松下村塾」の運営は、妹婿であり、信頼できる小田村伊之助に託したいのが松陰の胸の内であったと云われる。
事実、文久、元治、慶應と続く長州藩は危機の連続であった。こうした中に在って、小田村の果たした役割は大きく、藩主の意向をくんで、廣島や大宰府に出向き、幕府や七卿との応接という困難な仕事を果すことになったのであった。


『楫取素彦人物伝』⑤
【2013/07/10 13:55】 エッセイ
没後百年記念『男爵楫取素彦の生涯』

掲題の本がある。サブタイトルに「吉田松陰投獄後の松下村塾を託されていた」とある。編集は「楫取素彦没後百年顕彰会」、発行は「公益財団法人毛利報公会」となっている。この顕彰会は「萩市」・「防府市」、「群馬県」(前橋市)の三ケ所に没後百年を記念して結成された。この本は「防府天満宮」で、非売品となっていたが、現在は有償になった。

購入後に防府天満宮から、初穂奉納料のお礼のハガキが拙宅に届き、不思議に思って「奥付」をみると、非売品表示部分に定価のシールが貼付されていた。それはどうでもよい。

この13頁と364頁に「功徳碑の写真」と「功徳碑の文」(碑文のみが)「資料」として、全文が収載されている。
楫取県令頌徳碑高浜公園


なおこの「功徳碑」は、前橋の県庁裏の「高浜公園」にある。群馬県令の在任中の業績が誌されているので、全文を書写してみよう。
[READ MORE...]
『楫取素彦人物伝』④
【2013/07/09 15:24】 エッセイ
『地方官として頭角を現す:楫取素彦』

吉田松陰研究家の「泰斗」海原徹先生は、大著『松下村塾の明治維新』で楫取素彦を相当に詳しく解説している。(207頁)「海原先生」の松陰関連の著作は、その水準の高さはもとより歴代研究者の中でも最も多くの研究書を刊行している。因みに、我が家の書斎にも沢山ある。「①松下村塾と松下村塾」、「②松下村塾の人びと」、「③松下村塾の明治維新」、「④江戸の旅人吉田松陰」は、通称「四点セット」と呼ばれて、いずれもミネルヴァ書房から刊行されている。思うに、同出版社から出された『日本評伝選シリーズ』の第一回配本を合わせて精読すると、吉田松陰と松下村塾については、「精通者」と云えるだけの内容を備えている。この日本評伝選の『吉田松陰』は頗る好評で、一定の吉田松陰についての知識を持つ者なら、忽ち魅了される良書であると断言できる。入門書としては「質が高い:水準が高い」ので、心して精読することが要求される。繰り返して読むことをオススメしたい
吉田松陰「海原徹著」


[READ MORE...]
『楫取素彦人物伝』③
【2013/07/08 13:31】 エッセイ
「松陰全集・楫取素彦関連記事」

昨日、松陰全集に「楫取素彦」関連記事を書き出してみた。本日は、その一部を全集の「原文」を書写してみる。そして、私なりの意訳を試みてみます。
最初に『偶記』を書きます。楫取が、松陰の処罰に反対し、いろいろ手を尽くしていることが書かれています。
小田村伊之助


処罰の時には「毛利藩政府」にいつも、周布政之助が主導的役割をしていることの、巡りあわせから『偶記』と題名をつけたのかもしれない。楫取の実弟である「小倉健作」も、松下村塾の教師として招聘したく、楫取と相談したとある。松陰は、楫取の三兄弟を大変信頼していたのであった。
だから、二番目の妹の「壽」が小田村伊之助(楫取)へ嫁いだ知らせ(兄・梅太郎からの手紙)に対して、学問のある人物との結婚に賛意を表したのであった。

偶記 十二月十六日(戊午幽室文稿、全集4-480頁)

物には果して因縁あるか、抑々非ざるか、吾れ夙に之に惑ふ。昔吾れの亡命せしとき、周布公輔実にせいふに在り、籍を削り禄を奪はんことを議す。吾れの海に入りしとき、公輔復た政府に在り、議して之を野山獄に投ず。今吾れの再び獄に投ずるや、公輔復た政府の議を主どる。 公輔數々政府に出入りし、政府余を罪する毎に必ず公輔あり。
周布政之助


小田村士毅は則ち之に反す。」亡命・入梅の二變には其の弟健作と與に周旋救護甚だ力む。亡命の時の如き、健作じつに之が為に連座せり。今健作遠く遊びて還らず。余塾を松下に起こすや、方に士毅と謀り、健作を迎へて其の師と為さんと欲す、事未だ遂げずして余再獄の命下る。士毅ここに於て死力を出して余を救はんと欲し、重く罪を獲と雖も顧みず。政府固執して事諧はずと雖も、余は素則ち褚中の感なき能はず。而して頗る因縁の是非に惑ふあるなり。臘月十六日
松陰正装画像


右は去冬余将に獄に赴かんとし、秘かに記して篋に蔵せり。吾れ挫折困辱して悲憤兼ね至り、往々知舊に加ふるに悖慢の語を以てす、以て吾が士毅の如きと雖も、或は忌憚なし。知らざる者は遂に以て交を全うする能はずと為す。噫、吾れの知を恃みてここに至る。過も亦大なり。吾れ恐る。子孫雲仍深く父祖相與の際に通ぜず、従って嫌隙を生ぜんことを。今米甥幟を建つるに因りて、詩を贈り遂に録して阿妹に寄せ、密かに之れを識し以て他日子を誨ふるに資すると云ふ。端午の日、狂兄寅次手録す。

「大意訳」
安政五年秋、松陰が老中間部詮勝を殺害せんとして、藩政府に武器弾薬の貸与を願い出たことから驚いた周布政之助(公輔)は、「松陰の学術純ならず」として、再度の野山獄収監を命じた。

この命令に対して周布は松陰が東北亡命時や下田蹈海のときにも藩の要職にあった。松陰を罰する時はいつも周布が主導的役割を演じていると、松陰は仲間と思っていたが実は違うと憤慨している。

小田村伊之助(士毅)は、これに異論を唱えて直ちに反対してくれた。しかも実弟の小倉健作とともに、亡命、蹈海のときも松陰を擁護してくれている。私は松下村塾を起した時も、小田村と相談して小倉健作を教師として迎えようと思ったことがある。今度の再投獄も死力を尽くして私(松陰)を救おうと懸命に努力し、尽くしてくれたのある。

これは、去年秋(安政五年)の再獄時、密かに書いて文箱にしまっておいたものである。 私の思いを知らない者は、友人としての交わりが絶えてしまう。安政六年の端午の節句に、詩を贈って、密かに、甥(小田村:壽の子供)の成育に資して貰いたいものだ。


「楫取素彦人物伝」②
【2013/07/07 17:18】 エッセイ
「吉田松陰全集に見る楫取素彦・人物像」

「吉田松陰全集」の「小田村関連」(松陰在世中は楫取の改名前:改名は慶應三年)記事を調べて見ると、下記の如く沢山の関連記事がある。これは松陰が妹婿の小田村伊之助を如何に信頼していたかという事の証左になる。
書簡数も28通と云うのは、兄の梅太郎に次いで多いものである。
小田村伊之助

[READ MORE...]
「楫取素彦」人物伝①
【2013/07/06 01:03】 エッセイ
『楫取素彦顕彰会設立一周年記念事業』

平成24年は、初代群馬県令として幾多の業績を残し、群馬県の発展の礎を築いてくれた「楫取素彦」の没後100年の節目であった。
山口県萩市と防府市、そして群馬県(前橋市)と三ケ所に奇しくも顕彰彰会が設立された。
これは、在世中や任期中に顕著な実績をあげ、なおかつ後世の方々から顕彰に値する者であるとの、多くの方々の共通認識があってのことと思われる。こうしたことから「名県令」であったとされる「楫取素彦」に感謝を籠めた記事を何度かに亙って連載記事としたいと思う。

この楫取素彦の生家は松島家である。それが松島家の二男としての生誕という事情から、幾多の波瀾に満ちた人生航路を歩むことになる。
因みに、吉田松陰全集に記述されている「小田村伊之助」の項から引用して、概略の人生を紹介して第一回の紹介記事とすることにする。
少し長いが、全文を掲載してみる。昭和49年4月に「大和書房」から刊行された吉田松陰集、「第十巻」に「関係人物略傅」が編集されている。通称、「大衆版」の「關傅」と松陰研究者では略称されている人物略伝の解説である。菊版サイズで2ページにわたる。
小田村伊之助


『小田村伊之助』
名は哲、諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、通称を久米次郎又は内藏次郎といい、小田村の養嗣となるに及び伊之助と名を改め、後に文助・素太郎といい、慶應三年九月楫取素彦(かとりもとひこ)と改む。號は耕堂・彝堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等あり。文政十二年三月十五日萩魚棚沖町藩醫松島瑞蟠の次男として生まる。松島瑞益(剛蔵)の弟にして、小倉健作の兄なり。小田村家の養子となれるは天保十一年にして、その家は世々儒官なり。
弘化元年明倫館に入り、同四年十九歳にして司典助役兼助講たり。二十二歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積良齋・佐藤一齋に教を受く。松陰は嘉永四年江戸に遊学して小田村と相識るに至り、後同六年松陰の妹壽(ひさ)が小田村に嫁ぐや、両人の関係更に密接となり、爾後公私ともに骨肉も及ばざるものあるに至れり。松陰嘗て小田村に感謝して曰く「吾れ曾て三たび罪を獲、君皆其の間に周旋す、吾れ再び野山獄に繋がるるに及びて君力を致す最も多し・・・・・・」と。
概ねこの類なり。安政二年四月小田村は明倫館舎長書記兼講師見習となりて令名あり。翌三年二月相模出衛を命ぜられ、同四年四月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃より松陰の教育事業は漸く盛んになり、翌五年十一月松下塾閉鎖まで、小田村は直接關係なきも、松陰の信頼篤く、始めはその計画に参与し、又時々過訪して間接の援助を與へ塾生とも相識るに至る。而して松陰の激論を拘制しつつ相敬愛せるところは二人の交の特色なり。
吉田松陰25.11.09


松陰投獄後塾生指導の任に膺(あた)り、国事逼るやまた塾政を顧みること能はざりしも、明治以後杉民治と共に一門の中心となりて松陰の顕彰に尽力せしこと多大なり。萬延元年山口講習堂及び三田尻越氏塾に教え、文久元年以後専ら藩主に扈従して江戸・大坂・防長の間を東奔西走す。元治元年十二月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶應元年二月出獄。五月には藩命により当時大宰府滞在中の五卿を訪ひ、四境戦争の時は、廣島へ出張の幕軍総督への正使宍戸備後介(山県半蔵)に副使たり。慶應三年冬長藩兵上京の命を受くるや緒隊参謀として出征し、公卿諸藩の間に周旋し、遂に伏鳥羽見の戰に於て江戸幕府の死命を制するに至らしめたり。維新後一旦帰国して自藩に出仕、五年出でて足柄縣参事となり、累進して群馬縣令となり、その後元老院議官・高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等歴任し、又貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられしことあり。これより先明治二十年男爵を授けらる。大正元年八月十四日歿す。享年八十四。特旨を以て正二位勲一等に敍せらる。
松陰の妹 壽


妻壽(ひさ)よく家を守り、二児を教養して夫をして後顧の憂なからしめ、夫の入獄時または四境戦争時の如きは烈婦として令名を馳せたり。惜しいかな晩年健康勝れず、明治十四年遂に夫に先立ちて歿す、年四十三。後妹美和入りて嫁す。(以下全集関連記事等)。

「筆者註」
この楫取壽(松陰の妹)は、浄土真宗への信仰心が篤く、夫が「難地」の統治に赴任するにあたり、宗教の必要性(浄土真宗)を説き、その願いは現在の「前橋市大手町」に「清光寺」が今に残る。吉田松陰の「野山獄中から妹に宛てた書簡」が全集に収載されている。これを読むと、楫取の妻「壽」が、「杉家」の家風をよく継いでいることが解り、感動すら覚えるのである。筆者は、昨年九月、この清光寺を訪問して、壽の願いに想いを馳せたものである。地下の松陰も喜んでいるに違いないと胸が熱くなった。


『楫取素彦と吉田松陰』
【2013/07/02 13:13】 エッセイ
『吉田松陰と楫取素彦』

実は、この二人は義理の兄弟の関係である。それは、松陰の妹「壽」が楫取に嫁いだことによる。松陰には三人の妹がいた。千代、壽、文である。 明治14年「壽」は病死してしまうが、その下の「文」は久坂玄瑞に嫁いだ。しかし久坂は「禁門の変」で自刃してしまい、以後「文」は再婚しないでいた。県令という多忙な仕事についていた楫取の窮状を知った、母の「たき」は文に再婚話を持ち掛ける。しかし、答えはノーであったが、「たき」は、再三にわたり説得して、これを実現させた。此の時「美和」と改名して再婚する。つまり、楫取は、吉田松陰の妹二人を嫁にもらうことになったのである。「壽」が嫁いだ時は小田村、そして「美和」が嫁いだときは楫取と改名していた。
嘉永四年(1851)松陰は江戸に遊学した。だが学問よりも知識を売るといった江戸の学者の在り方に、松陰は期待外れとの思いを抱く。同時に、吉田家の家学としての山鹿流兵学への疑問も湧いてくる。必死に人生を賭けて学んだことが、西欧と比べて著しく時代遅れであることを思い知らされる。

吉田松陰とその門下25.5.6


日本古来の兵学は時代遅れであるとの思いが日に日に強まってくる。そんな思いを抱きながら、「梁山泊」の観を呈した「蒼龍軒」に集まる、あちこちの藩士である志の高い若者たちの集まりで、松陰はロシアの南下政策の一端として、津軽地方の紛争を耳にするのである。オロシャ人が、津軽半島に上陸して狼藉を働いているという。
「クニ」を守ることを第一義とする兵学家としては、聞き捨てならない情報であった。早速に鎮西遊学で終生の友となった、同じ山鹿流兵学者の「宮部鼎蔵」とともに、東北の海防視察で合意し、「藩」(毛利藩江戸上屋敷)に願い出る。それは、すぐに受け入れられた。

そして出発直前に「他国通行手形」である「過所手形」の発行されていないことに気付いて、藩政府(江戸上屋敷)に確認すると、藩主は郷里(長州)での災害のために、急遽帰国しており、認めの証明書である「印形」の手続きが出来ないという。宮部らとの出発日時を約束してしまった松陰は、約束を守るか、藩の正式な許可を採るかの二者択一の選択を迫られる。そして、藩主を見捨てる「出奔」を選択する。これは、稽古切手という、江戸の上屋敷から外出する許可証で外出からの規定日時を無視した「脱藩」という、許されない藩士としての行為であった。

およそ半年に及ぶ大旅行を終えて帰国して見ると、待っていたのは脱藩の罪であった。すぐに帰国(長州へ戻る)して、藩の決裁を待つ身となる。この間の事は、自著の『睡餘事録』に詳しく書かれているが、裁決は「吉田家取り潰し・家禄召し上げ」であった。長州藩では、こういった宙ぶらりんの身分状態を「育」(はぐくみ)といって、親の許で目的も役目もなく生活する、いわゆる「浪人」状態となってしまった。
しかし、兵学師範として藩主に絶大な信頼を得ていたことが、特別なはからいとなって「十年間諸国遊歴」という願いを出すことで、吉田家再興の含みを持った処遇となった。 嘉永六年一月に再度の江戸修業を目指して、途中畿内や大和、伊勢等の見識ある学者との意見交流を重ねながら、五月末に江戸に到着する。そして、十日が経過した頃に、日本を揺るがす大問題が起きる。

嘉永六年六月三日夕刻、米国の軍艦四隻を率いてペリーが浦賀に来航し、日本に開国を迫るのである。対応策に頭を悩ます松陰の手元に、長州から妹の「壽」が儒者の「小田村伊之助」に嫁ぐ吉報が届く。嘉永六年八月十五日の江戸から、長州の兄・梅太郎に宛てた書簡が吉田松陰全集に収載されている。『壽妹儀小田村氏へ嫁せられ候由、先々珍喜此の事御同慶仕り候。彼の三兄弟皆読書人、此の一事にても弟が喜ぶ所なり』(全集7-183)。と小田村との婚姻を喜んでいることを兄に伝えている。
楫取素彦24.4.24

この「小田村伊之助」こそ、後に「楫取素彦」と名乗る人物である。これは、藩主からの改名指示に基づいたもので、幕末も押し詰まった慶應年間、小田村の命を狙う藩内抗争から身を守るためのことであった。事実、元治元年(1864)秋に、禁門の変の是非をめぐる意見対立から、反対の立場にある藩士達から「野山獄」に投獄され、伊之助の兄は斬首され、伊之助も覚悟をした『遺書』を壽に遺しているのである。斬首の実行を間近に控えた時、「高杉晋作」の挙兵によって間一髪で一命をとりとめる際どい瞬間を潜り抜けたのであった。
以後、七卿落ちで大宰府にいた三条実美以下の尊攘派公卿を藩命で訪問し、そこで坂本龍馬と出会い、龍馬の持論であった「薩長同盟」構想を、長州藩に持ち帰り、藩論を一転させて、犬猿の仲であった薩摩藩との攻守同盟の仲立ち役を演ずるのである。

この地味な役回りは、おそらく楫取素彦の人間性が成就させたものと評価されてよい。戊辰戦争に勝利した長州は、大半の人物が中央政府に入って活躍するが、一人「楫取素彦」は、自らお役目完了とばかりに、現在の長門市に隠棲するが、新日本はそれを許す暇がない。いくばくもなくして、中央政府に呼び出されてしまう。
明治四年に断行された『廃藩置県』によって新たに設置された「足柄縣」の権令として出仕し、さらに「熊谷県」の県令を命ぜられる。明治九年群馬県(第二次)の発足とともに、「群馬県令」に就任。

明治十七年までの八年間、新生群馬県の為に尽くすことになる。県庁をそれまでの高崎から前橋に移転させる。これは中央政府を説得するという難問、さらに高崎の人民を納得させなければならない難事業であった.
そうしてまた「殖産興業」の見地から、生糸産業を根拠として産業育成策として実現させたのであった。
元来が「儒者」としての見識を持していた楫取素彦ならではの手腕としてよいだろう。
同時に教育への布石を行い、明治初期にあって西の岡山県、東の群馬県を教育の見本とさせて就学率の高水準を実現させた。明治政府の国策と一体化した県政を行ったという事である。
このほか、全国に先駆けて「廃娼運動」を起して実現させたのも特筆に値する実績の一つである。
生糸


また、見識をすめす逸話として「生糸の直輸」への援助がある。横浜の外人の商社を通さずに、米国へ直接群馬県の製品を輸出しようとする構想を抱いていた「水沼製糸所」の「星野長太郎」は、実弟で、当時英語を学んでいた「新井領一郎」をニューヨークへ派遣し、直接販売の交渉にあたらせるべく、楫取県令に相談。これを快諾した楫取は、当時の莫大な渡航費用、商談が成立するまでの現地滞在費等の資金援助をおこない、結果的に成功させる。渡米した新井領一郎は、若干20歳の若さであったが、現地での精力的な努力により、遂に成功させる。後にかれは、米国貿易のビジネスマンの魁として、後に続く日本人の為にも大いに貢献するのである。この新井領一郎は、くしくも私が生まれ育った群馬県勢多郡黒保根村の先達である。何という奇縁というべきか。新井領一郎は、一代で財をなし、63年間米国に在住。その間、日米を往復すること70回だそうである。功成り名を遂げて昭和14年、84歳で亡くなったが、この人生への努力に対し、ニューヨークの関係者は黙祷をささげて哀悼の意をささげたそうである。これも、楫取県令の力強い後援ありての快挙であった。以て瞑すべしかとの感慨が胸をよぎる。

25.7.2『群馬県庁』 



今、群馬県庁の裏に「楫取素彦の顕彰碑」が建っている。これらの功績としての顕彰碑である。
明治十七年、任期を全うして東京に戻る時、県民はこぞって去りゆく名県令を惜しんで、数千名もの人たちが列をなして、辞任を惜しんだという。


吉田松陰は、安政六年五月に幕府からの召喚命令を受けて「萩」を出発するにあたって、小田村に松下村塾の後事を託した。その時の言葉が有名な「至誠にして動かざる者未だかつて有らざるなり」という『孟子』のことばであった。吉田松陰精神を継ぐ人たちは、高杉晋作、久坂玄瑞、品川彌二郎、伊藤博文等々枚挙に遑ないほどであるが、地味ながら楫取素彦もその一人であることは誰も異論を唱えられないだろう。
群馬県令の後は、元老院議官、男爵、貴族院議員、そして防府での教育活動と多くの実績を挙げた。此の事から、出身地の萩、県令の任地での群馬県、晩年の教育活動での没地に平成二十四年、没後百年の節目の年に、「顕彰会」が結成されたのであった。

こうしたことを、踏まえつつ平成二十五年九月六日に「前橋市」で、群馬県の教育委員会と前橋市の教育委員会の後援のもとに、私は『楫取素彦と吉田松陰』と題して講演を行うことになったのである。





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR