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松蔭大学[松蔭祭講演]
【2013/08/25 17:42】 エッセイ
『吉田松陰と明治維新』

平成25年10月27日、松蔭大学の「松蔭祭」において掲題の演目にて講演することになった。奇しくも吉田松陰の命日である。当日は、この説明をイントロにして話してみよう。間に合えば、世田谷の松陰神社のお祭りにも行ってみたいところである。

松陰と留魂録


<はじめに>
明治維新とは、日本が幕藩体制機構の国家形態を西欧列強に伍して「自立する国家」への、一連の国家改造過程であった。近代国民国家の誕生過程とも云える。

黒船①


1、 下田蹈海という危険な行為を、行った理由を考える。
①明治維新の起点を「嘉永六年のペリー浦賀来航」と考えると、吉田松陰は「西欧先進諸国」からの植民地化防止のために、具体的な行動をとった。まず、浦賀に2泊3日の時間をかけて、浦賀奉行所近くの高台から、「兵学者としての眼」で黒船を広角度から詳細に観察した。
②「毛利藩・吉田家」の家学である、日本古来の「山鹿流兵学」では、列強の国々に太刀打ちできない。
③米国や西欧の文明、依って来る「国力」の源泉を詳らかにして、対策を立てないと、植民地化即ち「清国」の二の舞となることは必定。
④よって、「メリケンを直接視察」しなければならない。
⑤師の佐久間象山の謂う「軍艦購入」をし、その引き取りには「選抜された人材(有志の士)」を派遣し、四海(環海)の情勢観察をさせながら、軍艦操舵を習得させることが正しい。
⑥「祖法としての鎖国」は徳川に都合の良い「私法」に過ぎない。「公法」に非ず、の認識。

吉田松陰とその門下24.3.25


2、 松下村塾の原点を考える。
① 下田蹈海」に失敗した松陰は、幕府の裁決(国元蟄居)と異なり、毛利の「藩獄」に収監される。藩政府は父の杉百合之助に「借牢願」を出させた。犯罪による収監と違い「有期刑」ではない。
②「野山獄」には十名の先輩収監者たちがいた。出獄の見込みがなく、彼らの心は荒んでいた。
③『福堂策』に言う。「人、賢愚ありと雖も各々一二の才能無きはなし、湊合して大成する時は必ず全備するところあらん」。
④ここから、「獄中勉強会」がはじまる。各人の十八番を互に披歴し合って、切磋琢磨させようとした。俳句、書道を学び合い、松陰は『孟子』の講義を行う。
⑤安政二年十二月、十四カ月の収監から「免獄」となり、自宅蟄居となる。
⑥親族は、松陰の無聊を慰めるため、『孟子』の講義の継続を求め、松陰之に承諾する。
⑦近隣にこの情報が伝わり、「志ある青少年」が入塾を希望して来る。
⑧安政三年九月「外叔・久保五郎左衛門」の求めに応じて『松下村塾記』起草。「学は人たる所以を学ぶなり」、や「今天下は如何なる時ぞ哉」を提言しつつ「志と実行」を重視した実学的な「人間教育」を行う。多くの俊英達が育つ。「久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一・吉田稔麿」を称して『松下村塾の四天王』。常に塾では「お勉強なされい」とやさしく呼びかけ、塾生を「諸友」と呼び対等関係で学び合う姿勢であった。

留魂録


3、「志」を継ぐことを願って書かれた『留魂録』の影響。
①安政五年、幕府は勅許亡き「条約調印」を締結。松陰は、之に怒り「討幕」を唱える。(大義を議す)。また時勢論や対策論等、梁川星巌を通じて朝廷に建言。天覧に供す。松陰感動。
②安政五年後半から、国家体制の変革をめざした諸提言や、行動計画も過激な内容で、門下生や藩政府の受け入れるところとならず、思い悩んだ末の結論が「今の幕府や諸侯、公卿を充てにしたのが間違いで、草莽崛起の人達の糾合しか方法はない」との結論。
③安政三年八月(18日・19日)の自宅幽囚時、勤皇僧「黙林」をの往復書簡で「若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり」と明言している。
④安政二年に従兄弟の加冠の儀を祝して書き与えた『士規七則』で、「志を立つるを以て万事の源と為す」とも明言している。
⑤言行一致の松陰の人生は、「至誠にして動かざる者未だ之れ有らず」を座右の銘とした、「誠」をもって生きるのが、吉田松陰の人生観や人間観(性善説や福堂策)であった。これは國家間おいても、砲艦外交のよいうな手段は松陰の強く嫌うところであった。
⑥幕府は朝廷への条約勅許奏請に失敗した、堀田正睦を降板させて井伊直弼を大老に就任させて、難局を打開しようとした。この時の大きな問題は条約勅許と将軍継嗣問題であった。条約締結交渉を担当した岩瀬忠震・井上清直に、ハリスに追い詰められた延引策の限界(脅しとおためごかし)を打ち明けられて、やむを得ない時はとの条件付きで承認の言質を与えてしまう。
⑦二つの難問解決を果した井伊は、その過程で反井伊(反幕府)の意見・立場にあった関係者を処罰する。大名や公卿と、その家臣たちをはじめ攘夷思想を持つ「志士たち」を逮捕する。また、条約担当だった幕臣をも左遷し、強権発動して恐怖政治を展開する。
⑧吉田松陰も、逮捕リストに上がっていた梁川星巌との関係を咎められ、江戸召喚となり、安政六年七月九日の評定所での吟味で、間部老中要撃策を自ら告白し、十月二十七日に斬刑となる。
⑨十月十六日の呼出し時に、死刑を察知した松陰は残る十日で親族、門下生あての「遺書」を書く。『留魂録』は、処刑前日に書き上げられ、門下生の奮起を促す。同時に、収監(伝馬牢)で知り合った人々にも、自分の志を告げ、合わせて村塾の門下生に後事を託した。
⑩この門下生達に宛てて書かれた精神が、受け継がれ「草莽の崛起」は「奇兵隊」等に結実し、紆余曲折を経ながら、倒幕を実現させた。そして王政復古と戊辰戦争に勝利することで明治新國家の誕生への原動力となり吉田松陰精神は「維新の先覚」として、起爆剤の役割を果たしたのである。そうして今もなお多くの、松陰の功績への研究が連綿と続くのである。

松陰の立志実践教育






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『幕末史』を見る眼
【2013/08/21 22:47】 エッセイ
『幕末史考』

幕末維新史は、日本の国家的な危機と相俟って多彩な人物が登場する。これをどのように考えるか?

徳川政権の長期的支配は、困難な人生を生き抜く旺盛な意欲を奪い去ってしまった時期でもあった。ここに『現代との共通性』を見出すことは、それほどの困難を伴わずに見出すことが出来る。事なかれ主義が蔓延する日本人の風土的思考がここにある。

自らの人生の安泰を願って「ご無理御尤も!」と「官の権威」に服従し続けた二世紀半。福沢諭吉の「反官」の抵抗も空しかったのである反面、吉田松陰や高杉晋作のような「独立の気力」旺盛な人物が登場する。危機が人を創ると言われる所以である。

一衣帯水の中国との関係さえ安泰であれば、さしたる統治努力も無く「内治専念型」に終始していれば、それは事足りたのであった。結果として「外交の何たるか?」を知らない。それは、ハリスとの「日米修好通商条約交渉」において、軽く手玉に取られてしまう。明治期のほぼ全期間を通じて、条約改正交渉に費やされた膨大なエネルギーと時間は、西欧諸国との対等な関係を勝ち取るための努力の過程でもあった。治外法権や関税自主権、最恵国待遇などを巧妙に盛り込んだ条約のカラクリを、当時の日本のトップ頭脳は無知のまま、恫喝によって締結されてしまった。まして、日本語ーオランダ語ー英語と複雑な条約締結過程は、結果において日米の条約内容が、自国にとって都合の良いように書かれていたことは知る由もない。

欧米諸国は、自国の存立のために常に隣国との緊張関係を強いられてきた。米国の原子爆弾やコンピューターを生み出した原点は、軍事的要請からであった。国家の存亡をかける経験が、日本の歴史には稀少である。島国と言ってしまえばそれまでなのであろうが、「民族自決」の厳しい場面に遭遇したのは、実にペリーの「砲艦外交」の所産であった。外国からの強制を初体験したのが遅きに失したのである。「交易の利点」を積極的に求める考え方は、「ナショナリズム」の湧出・高揚を「梃子」にする以外、自律的には生み出し得なかった。

吉田松陰


その意味で「吉田松陰」の「愛国心」からの発動による、命がけの行動は特筆に値するものと考えられる。「黒船」を兵学者の眼で詳細に観察し、その背後にある文明の力、軍事力、経済力、技術力、それ等を総合したところの政治力・国力を洞察した「眼力」は正しく、そこから導かれる「自国の危機感」は一つのセットとして考察されるべきである。自らの生命の危険を覚悟して挑んだ「下田蹈海」は失敗に帰したが、この衝撃は正しく日本とは?を考えさせる一大契機となった。

「水戸学」といわれる「日本主義」の思潮を共有する学問の系譜がある。吉田松陰はこの水戸学のもつ独特な日本の魅力に接したのは、下田蹈海の一年前のことである。吉田松陰全集に『睡餘事録』と稱する、日記風の待罪記録がある。そこには次のように記されている。『身皇國に生まれて皇國の皇國たる所以を知らずんば、何を以て天地に立たん、故に先づ、日本書紀三十巻を読み、之れに継ぐに続日本紀四十巻を持ってす。』と。これは、日本の成り立ちを知らずにいた松陰が、東北旅行の途次水戸に一か月滞在し、水戸学の碩儒、会澤正志斎から親しく指導をうけ、日本の素晴らしさを実感し、夢中になって日本古代史を読破している生々しい記述である。ここで、松陰は完全に「日本人に目覚めた」と言ってよい。
江戸期は「藩」が「クニ」として考えられていた。したがって松陰の「家学」である山鹿流兵学は、藩の防衛を以てその職責とするが、当時の武士として統治階級に属する人々は、その職責を果たす義務感に著しく欠けていたがの一般的な考え方・実態であった。儒教による教えの徳目に「忠誠」を至上のものとして学ばされた「武士階級」は、現実的には生産的なものを持たずに、自己管理の名目のもとで「勝手気まま」で「よし」とされていた。「藩主に仕える」限定的な役割を大過なくこなしていくことを以て至上の生き方としたのであった。しばしば語られる「高杉晋作の父親像はその典型」である。つまり、表面上勤勉であれば、「怠惰」を責められずに生きられた。そこに自己の生存をもって至上とする考え方が、日本人としての創造性を目指す努力を失わせることになる。この考え方は、「現代にそのまま継続」しているのである。

幕末史は、こうした「日本国」の在り方に対して結果的に反省を迫った。「狭い意味でのエゴイズム」あるいは、「自分さえ問題なければ」の考え方への警告を発することになる。
吉田松陰が、礼賛されるのは「明確な國家意識」とは断定できないものの、民族滅亡への防衛意識とその行動の軌跡であった。だが明確に、機構としての「国家」を語っていない。それは、「夷人としての國家的接触経験」のなかった松陰には無理なことであったが、彼の後に続く人たちは、開国の実態を知っている故に経験的に日本人を守ろうとの意識―それは「夷狄からの防衛」と表現される―の醸成へと連なっていく。「尊王攘夷思想」は元来、尊王と攘夷とはそれぞれに別個の考え方であったが、國家のプライドを粉砕する「砲艦外交」が招いたものであった。それ故に、吉田松陰の生涯が語られるとき、「維新の先覚」という呼称がされるのである。この意味は重い。

歴史に学ぶ


歴史というものは「客観情勢」と、これに対応しようと努力する「人物」の行動の軌跡が紡いでいくものであろう。吉田松陰がいなければ、間違いなく高杉晋作はあのような人物として存在しなかった。反対に高杉晋作なくして「あの吉田松陰」は存在しなかったのはありありえないことである。それ故に、吉田松陰を除いた維新史はあり得ないのである。幕末史はこのように見ていくと、限りない魅力が潜んでいるのである。同時に、危機が人物を作る側面もまた事実である。






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