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「天章堂講座」の開講
【2013/09/25 18:19】 エッセイ
『天章堂講座』開講に当って

平成25年10月1日、「幕末維新のヒーローたち」と題して「天章堂講座」が開講する。「松下村塾」の第三代主宰者であった「吉田松陰」は、近隣の若者たちから「入塾」を希望する理由を面談した時に、「何のために勉強するのか?」と必ず訊いたという。(吉田松陰全集第十巻(大和書房版):「渡邊蒿藏談話第一」)
それに対して、「どうも書物が讀めぬ故に、稽古してよく讀めるようにならんといふ。先生乃ち之れに訓へて曰く、學者になってはいかぬ、人は實行が第一である」と教え諭したという。また「學問するには立志と云ふ事が大切である」。(吉田松陰全集第十巻:「渡邊蒿藏談話第二」)とも云った。
そして、「教えることは出来ないが、一緒に講究することは出来る」。だから一緒に勉強しようと呼びかけたという。松下村塾では「お勉強なされい」と常に呼びかけていたといわれる。今回の『天章堂講座』もこうした思いで、一緒に勉強したいと思う。

弘道館正門


『幕末維新期史考』 
「半藤一利」さんの『幕末史』(新潮文庫)がベストセラーになったという。NHKの「大河ドラマ」でも「幕末物」は視聴率稼ぎの常連だそうである。この時期は、その国家的な危機と相俟って多彩な人物が登場する。「危機が人を創る」といわれるが、嘉永六年(1853)の「ペリー来航」から明治十年(1877)の「西南戦争」までの、凡そ四半世紀は危機の連続あった。この場合の危機とは①国家統治機構としての政府の存在とそれが機能しなくなること。②外国の侵略で國家的自立が不可能になる。この二つの意味を持っている。

徳川政権の長期的支配は、人間の生きる意欲(今日でいう生甲斐)を奪い去ってしまった時期でもあった。「士農工商」の身分制度の固定化した社会で、唯一「商業階級」に属した人々が意欲的に生きたのではないか。彼らには「努力の成功報酬」が期待できた。「幕末の危機は、見識ある者が言路洞開・人材の登用」を主張した時期でもあった。自らの人生の安泰を願って「官の権威」に服従し続けた二世紀半。
一衣帯水の中国との関係さえ安泰であれば、さしたる統治努力も不要で、「治世者」は「内治専念型」に終始していれば、それで事足りたのであった。

松陰先生24.3.31


「水戸学」といわれる「日本主義」の思潮を共有する学問の系譜がある。吉田松陰はこの水戸学のもつ独特な「日本の魅力」に接したのは、下田蹈海の一年前のことである。
儒教による教えの徳目の一つである「忠誠」を至上のものとして学ばされた「武士階級」は、現実は積極的に生産的な考えや行為をせず、「適当な怠惰」を責められずに生きられた。そこに自己の生存をもって至上とする考え方が、日本人としての創造性を目指す努力を失わせることになる。この考え方は、「現代にそのまま継続」しているのではないかと思う。
幕末史は、こうした「日本国」、「日本人」の在り方に対して結果的に反省を迫った。「狭い意味でのエゴイズム」あるいは、自分さえ問題なければの考え方への警告を発することになる。
吉田松陰が、礼賛されるのは「明確な國家意識」とは断定できないものの、民族滅亡への防衛意識とその行動の軌跡であった。だが明確に、機構としての「国家」を語っていない。松陰の後に続く人たちは、開国の実態を知っている故に経験的に日本人を守ろうとの意識―それは「夷狄」と表現される―の醸成へと連なっていく。それ故に「維新の先覚」という呼称がされるのである。

大日本史


歴史というものは「客観情勢」と、それの対応しようとする「人物」の行動の軌跡が紡いでいくものであろう。
有名な『大日本史』は水戸光圀が十八歳の時、『史記』の「伯夷傅」を読んで、感銘したのが編纂の契機になったようだ。それ故に光圀は、兄の高松藩主の長子を「後継」とした。その『大日本史』の敍は、水戸藩第三代藩主「綱条」(つなえだ)の撰文であるが、実は「彰考館」総裁の「大井松隣」の代作である。そこに「史は事を記する所以なり」とある。因みに、「大日本史」の特色は①神功皇后を皇后として認定。②「弘文天皇」を歴代天皇に認定。③「南朝正統論」の認定。等々であった。

吉田松陰がいなければ、間違いなく高杉晋作はあのような人物として存在しなかった。反対に高杉晋作なくして「あの吉田松陰」は存在しなかったのはありありえないことである。それ故に、吉田松陰を除いた維新史はあり得ないのである。幕末維新史はこのように見ていくと、限りない魅力が潜んであるのである。


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「吉田松陰」と「水戸藩(徳川斉昭)」のこと(後半)
【2013/09/19 18:06】 エッセイ
「水戸藩(徳川斉昭)」のこと(後半)

前回、斉昭の致仕、謹慎(弘化元年:1844)までを書いた。(この突然の出来事を水戸藩では「甲辰の国難」と呼称)。この謹慎と隠居によって、斉昭の長子である慶篤が第10代の藩主(襲封時13歳:連枝後見条件附き)となった。こうして、徳川斉昭は「前藩主」として以後「ご隠居」と呼ばれるようになる。
「ご隠居ついで」にいうと水戸家第2代藩主の「徳川光圀」は、もうひとつ「黄門様」とよばれ、むしろこちらの方が人口に膾炙している。ただし、黄門は「中納言」の唐風の呼称であるので中納言であればだれでも黄門様と呼んで差支えない。ただ、「ご隠居」という意味合いからすると現役の藩主には一般的には違和感があるだろう。謹慎命令の出た同年11月謹慎が赦免され実質の謹慎命令は半年間であった。当然、御三家の「水戸藩主」の地位は回復しなかったのである。したがって「ご隠居」ということになる。

尊攘(弘道館)


不思議なことに、「謹慎」を命じた幕府の筆頭老中である「阿部正弘」とは翌年7月から書簡を交わしているのである。これをどのように考えればよいのであろうか。そうして弘化3年12月、藩主時代の側近中の側近であった「藤田東湖」も謹慎を解かれる。此の間、藩士たちが斉昭の雪冤運動や復権運動を行うが、失敗して逆に処罰を受けてしまう。嘉永元年(1848)、この中心にいた高橋多一郎(後、桜田門の変に参加)は蟄居、減禄という重い処分を受ける。これらから判断すると藩主としての斉昭は幕府にとって好ましくないことから、藩主の実権を奪うために強制引退を迫ったことがわかる。吉田松陰が東北遊学で水戸を訪問した時、本心は「藤田東湖」に会いたかったのであるが、当時は謹慎のみは解除になったが、「遠慮」の扱いであったため、他藩人とは遭わず、結局松陰は東湖とは面談が叶わなかった。それに代わって会澤正志斎の懇篤な待遇に恵まれたのであった。嘉永2年3月、斉昭は「藩政」への関与が許されている。藩主ではないが、「前藩主」として復権を果たしたということになる。このように丸5年にわたり、斉昭とその支持ブループの改革派は冷遇を余儀なくされた。斉昭復権と共に、「改革派」も再度活動を活発化させることになる。併し、最後に書くように、「水戸藩の内訌」は後々まで問題を残したまま明治を迎えることになる。嘉永6年(1853)「ペリー来航」で幕府の「海防参与」となるまで雌伏の時を過ごすが、この間の主だった動きは7男の慶喜が一橋家を継ぎ、5男の昭徳が鳥取藩池田家を継いでいること。そして藩内の「種痘」を実施し、また藩士に党派の争いをやめるよう説諭を行った等がある。そしていよいよ運命の「ペリー来航」となる。

ペリーの顔2012.02.08


ペリーは「ビッドル」の来航(弘化3年:1846)に学んで、開国の戦略を含めて、如何にしたら日本の鎖国を打破できるか研究を重ねて、満を持して来日したのであった。軍艦の「空砲」は打ったものの、大統領からは「武力」の行使は絶対に不可と命令されていたのである。だから、実弾は打たなかったものの、際どい外交手段であった。そして彼が用いた砲艦外交(脅し)に屈して、徳川幕府は久里浜で「大統領親書」を受け取らされる。いま、横須賀にその記念碑が建っている。撰文は「伊藤博文」である。さて、ペリーは翌年親書の返答を求めて再来日すると告げて、10日間で退去してしまうが、この「事件」以後幕府の衰退が始まり、斉昭も「故国の為に」尽くさざるを得なくなって、水戸藩製造の大砲を幕府に献上する。まず、幕府のとった対応策は「上書具申」を許すというこれまで政治や外交特権を放棄したことである。余談だが、これに応募した中での出色は「勝海舟」の「上書」であり、彼の大出世のきっかけとなる。これを評価したのは「大久保一翁」という進歩的な旗本であった。そして「大船建造禁止」を解除しこれまでの基本政策を改める。「攘夷主義者」の総本山的存在であった徳川斉昭も、「海防愚存」と題して上書した。翌年1月ペリーは再来日し、3月に「日米和親条約」の締結となって、2世紀余りの「鎖国」が終焉する。この時、下田と箱館の2港が開港の約束となった。吉田松陰が、下田から「密航を企てたのも」この条約締結直後のことであった。これも運命で、条約締結した以上「締結国」の法を尊重しなければならなかったことから、ペリーは松陰の米国視察を許可しなかった。このことは松陰全集の『回顧録』とその附録で『三月二十七日夜の記』に詳述されている。松陰はこれ以後、安政6年に処刑されるまで自由の身を奪われ続けることとなった。従って松陰は自首して「平滑の獄」、そして「江戸の伝馬牢2回」、萩の「野山獄2回」と合計5度の入獄をしたのであった。

ハリス


 安政3年和親条約に基づき、「ハリス」が軍艦で下田に上陸して、「柿崎村の玉泉寺」を「総領事館」とし、日本の国土に、最初に「星条旗」がひるがえすことになった。一方水戸藩では、斉昭は海防参与、側近の東湖は海防掛になり、改革派が復権を果たす。「門閥保守派」はこれを喜ばず、奥女中を通じて藩主の慶篤に改革派の排除を訴えたらしい。これを機に門閥派の代表格結城寅寿は幽閉される。かねてから斉昭の改革に非協力的だったことから、当然斉昭の覚えはよくなかった。「安政の大地震」によって、斉昭を支え続けた藤田東湖や戸田忠敞らの重鎮が江戸藩邸で圧死してしまう。喧嘩両成敗で翌年、結城も殺害される。幕政参与となった斉昭の激しい攘夷論は幕閣で受け入れられず、さすがの斉昭も嫌気がさしたか辞任してしまう。水戸では「弘道館本館」の落成もこの年であった。前年に那珂湊の反射炉が完成しているので、海防の大義は実践されたことになる。
一方、条約交渉はハリスとの間でまとまり、調印を待つのみとなった。しかし、反対者が多く、この混乱を乗り切るために「考案」されたのが「天皇の認可」すなわち勅許をえるという珍案であった。しかし、孝明天皇は勅許を出さず、差し戻しという体裁のよい不可のおうとうであった。勅許を得られなかった堀田正睦は責任問題となり罷免される。上京にあたって「黄金の山」のごとき、賄賂で簡単に買収できるとタカをくくっていた幕府はここで大きな目論見はずれに出会う。孝明天皇は「骨の隨からの攘夷主義者」であった。これを事前に調査しなかった幕府の大失態である。さらに悪いことに、実はこの条約は不平等条約であったが、「外交交渉経験」のなかった幕府は、「領事裁判権」や「治外法権」を知らなかったのであった。内治政治に明け暮れていた「ツケ」がこんなところに出てきたのであった。それは、明治時代のおよそ半世紀をかけて改正に苦労することとなった。

井伊直弼


堀田正睦にかわってあとを引き継いだのが、大老としての「井伊直弼」であった。元来大老は常置の職ではないが、非常の場合であるとして「溜間詰」の輿望を担って彦根藩主の井伊直弼が登場する。直弼は、意慾的に当時の二つの難問を矢継ぎ早に処理してしまう。①条約調印②14代将軍を紀州の家茂と決定である。この難題処理は、大老の独断専決であったため、反井伊派の諸侯や公卿(陪臣の志士も含む)を始め、轟轟たる非難が湧出する。まず、有力大名達が「不時登城」して大老を難詰するのであるが、直弼はこれを巧みにかわし、反対に処罰してしまう。将軍継嗣問題は「大奥」の支持を得ていた井伊が一橋派を押えて「血統」優先で紀州(南紀派)の勝利となる。問題の大奥は反斉昭だった、この大奥こそ将軍継嗣問題を複雑化し、政治的に混乱させたのであった。そこには、13代家定の生母である「本寿院」がおり、この人物が家定に反一橋・反斉昭の立場をとらせたのである。斉昭は自分の7男が候補だったため、実現すれば「将軍の父」として権力を行使できるだろうと忖度されて、常に「野心家」という疑惑の目で見られた。水戸学の系譜は当然「天皇」=朝廷関係からからの支持が予想されたし、さらに島津斉彬らの「幕末四賢侯」たちの強い推戴もあった。非常時の将軍は「将軍職に相応しい人物」が相応しいという考え方であったが、大老の独断で挫折し、反幕府の立場の代表人物として斉昭は処罰(水戸永蟄居)されてしまう。
徳川斉昭24.10.5


「内実」は井伊直弼と徳川斉昭は、元来は不仲であったことに加えて「政敵関係」にあったから、結果的に大老職の専断が下ったのであった。
これは、「日米修好通商条約」の無断勅許への反対も絡んで、水戸の朝廷工作の結果「戊午の密勅」が幕府より水戸藩に先に降下され、尚且つ、水戸優先の添え書きも「天皇の意志」として書かれていたことから、幕府の「大政委任」を侵されたとして大老の激怒となって「安政の大獄」を引き起こす。この権力者の怒りは反幕府思想の保持者を「一網打尽」に処罰・処断するという、日本政治史上の忌まわしい事件となった。

「この大獄」は、当然の如く、特に水戸藩への処罰が峻烈をきわめ、大きな禍根となって、翌年「桜田門の変」を引き起こす。この襲撃は、一人の薩摩人を除いて全員が「水戸の浪士」たちであったことからも、水戸藩の「怨念」による復讐劇とみてよいだろう。幕府権力の再興を目論んだ井伊直弼は、前代未聞の「白昼暗殺」の犠牲者となって、自らの意図したものと正反対の結果を招き、幕府権力の衰退を日本中に印象付ける、皮肉な現象を招くことになった。国元永蟄居中の徳川斉昭は井伊の死後5か月経って、水戸城中にて、「心臓病」で死去する。万延元年8月のことであった。

安政年間は幕末としては、前半期に属するが、5年(1858)の無断勅許と将軍継嗣問題、その是非を巡っての甲論乙駁の混乱を「権力」によって解決しようとした「恐怖政治」は一つのピークをなし、幕末政治の曲がり角となった。そして翌年(1859)、諸侯、公卿、志士を大量に処罰した。とりわけ「有能な志士」と評価の高い吉田松陰と橋本左内を斬刑に処してしまったことは、藤田東湖の事故死とともに惜しまれる。

吉田松陰とその門下25.5.6


吉田松陰の場合「松下村塾」で多くの俊才を育成し、なおかつ高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、何時でも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と教え、「師」自らが手本となって死んで見せたことは、彼の名を不朽にしたのである。

前半期の政治の「両巨頭」で、政敵関係にあった徳川斉昭と井伊直弼は、同年に生涯を非運のうちに閉じるが、彦根藩も幕府から処罰を受けて、石高減となる。水戸藩の場合は、「藩内抗争」に明け暮れ、幕末のオピニオンリーダーでありながら、人材の払底を招いたことで、明治新政府を構成する主要な藩の一つとならなかった。併し、「明治天皇制国家」の創出原理となった思想は、違った政治の場で生きることとなった。「薩長土肥」に水戸藩が加われず、明治藩閥政治が西南雄藩に独占されてしまったことを含めて、惜しみても余りあると考えているがどうであろうか。


「吉田松陰」と「水戸藩(徳川斉昭)」のこと
【2013/09/17 21:55】 エッセイ
水戸藩主「徳川斉昭」と藩内事情(前半)

嘉永3年(1850)、萩藩山鹿流の「兵学師範」として独立した吉田松陰は、藩外に遊学を求めた。最初に松陰が求めた地は平戸、長崎であった。8月末から年末までの4か月に及ぶ「遊学」であった。平戸藩に山鹿素行の後裔がおり、そこで修業すること。そして一番の狙いは、同藩仕置家老の「葉山佐内」の下での「軍学修業」(吉田松陰全集第10巻:平戸遊学関係文書)であった。この修業は松陰の生涯にとって誠に実りあるものとなった。葉山佐内は「陽明学者」であり、また水戸藩儒者の「会澤正志斎」の著述になる『新論』を読む機会に恵まれた。

江戸期における「長崎」は、唯一海外に開かれた地であり、そこで得る「海外情報」は、毛利藩の防衛を任務とする「兵学者」にとって有益な情報が得られることが期待された。
藩の出先機関(聞役:主として情報収集)を長崎においたのも、藩としての重要な戦略上の意味を持っていた。松陰の生涯に大きな影響を与えたと云われる「陽明学」と「水戸学」は松陰研究にとっては必須の課題である。この翌年、江戸に遊学した松陰は、脱藩して東北遊学に旅立つ。そしておよそ1か月間水戸に滞在して、会澤正志斎から「水戸学」・「日本の成り立ち」を学んだのであった。

吉田松陰



このことは松陰全集第九巻『東北遊日記』に詳しく書かれている。脱藩旅行後に帰国命令を受け、萩での「待罪期間」を送った『睡餘事録』(全集第九巻)に「水戸学」を学んだ衝撃的な反省と回想的な記事が書かれている。そこで、今回は水戸藩について書こうと思う。

幕末の藩主には個性的人物が多いが、その中でも水戸藩主だった徳川斉昭は異色の殿様である。「弘道館」の創設や「偕楽園」を作って、文武奨励策を進めたことで有名ではあるが、斉昭は果して「名君」であったか否か。この判断は意外に難しい。実は彼は生涯(60年)で三度の処罰を蒙っている。これだけでも異色と云えるが、最後は「永蟄居」のまま生涯を閉じるというものであった。まるで、最後の政敵であった時の「大老・井伊直弼」と同年に死去しているから、猶更ドラマチックなイメージが付いて回るのかも知れない。

「徳川御三家」の一つである水戸藩第7代藩主冶紀の第3子として、寛政12年(1800)江戸小石川藩邸にて生誕。俗に300諸侯といわれる江戸期にあって、唯一「参勤交代」を義務付けられなかった水戸藩である。これを「定府」という。つまり、参勤交代の本質は「制度としての人質」と「大名を富裕化」させない為のであった。正妻は常に江戸藩邸に住まわせることを義務付け、各年に「お国入り」する領地には側室がいた。側室は無論複数であるから、領国と江戸藩邸ともにおかれた。一夫一婦制が当たり前の生活をしている現代人からは奇異に思われるが、当時に在っては当たり前のことであった。

端的な例を挙げて見よう。薩摩藩をみるとこのことが解かり易い。島津斉彬は正室を母に持ったから、江戸藩邸で生まれた。襲封に當たり「お由羅騒動」という困難を経験した斉彬は、世継ぎを側室の子である弟久光の子息・忠義に指名した。自身の世子誕生のいきさつを知る斉彬の賢明の策であった。久光は斉彬の異母弟になるが、彼は領国の薩摩で生まれている。正室を母に持たない証左で、彼の母は側室の「お由羅」である。不仲で有名な西郷隆盛が、江戸の生まれでない久光を田舎者とさげすんだのは有名な話である。

さて、斉昭に戻る。第8代藩主の斉脩には世子がなかったので、弟の斉昭と御三卿の清水家・恒之允(実は11代将軍の家斉の子)とが9代目の候補にあがった。ここから斉昭の擁立ドラマが展開される。後に名を成す藤田東湖をはじめとする「改革派」の推す斉昭と、「門閥保守派」の推す恒之允とが、互いに激しい運動を展開するが、結局斉脩の遺言にて斉昭が第9代の藩主になる。後に、15代将軍になる徳川慶喜は斉昭の7男である。

波乱含みで藩主の座に就いたのが文政12年(1829)であり、弘化元年(1844)までの15年間、異色の藩主として、水戸藩の「天保の改革」を実施する。結果からすると、「独断専行」の「やりすぎ」によって幕府から、致仕謹慎を受けてしまう。処罰である。11代将軍の家斉が死去して、水野忠邦が「天保の改革」を始めるのが天保12年。全国レベルの行き詰まった幕藩体制の再建をめざしていたのが天保の改革で、此の他、長州藩、薩摩藩、佐賀藩らの西南雄藩らも同様であった。

徳川斉昭24.10.5


水戸藩は「定府」であるから、領国への「お国入り」(就藩)は、幕府に「願い書」を出して将軍から許可を得なければならない。(先代は12年在任で一度もなし)それは、一刻も早く実現したかったが「天保4年」に第1回が実現した。そこで『告志篇』を提示して家臣に率直な意見上書を求めたのであった。これは改革の意欲に燃える斉昭が、意に反して遅々として進捗しないことから、改革促進を求めたのであった。そうして、斉昭は幾つかの改革の大ナタを振るう。それは①「定府」職員の廃止。②「追鳥狩」という名の軍事演習(江戸と水戸・千束原、堀原、仙波原)③助川の海防城(築城禁止のはず)構築・反射炉・大砲鋳造と梵鐘供出命令⑤検地(要幕府許可)と臣下への朱印状手渡し(将軍の役割)⑥水戸東照宮を唯一神道(神仏分離)に改めたことなどであった。軍事演習、領内築城(海防の大義)、朱印状公布、東照宮の神道化などは制度の破壊につながり、斉昭の改革は時に反幕府行動と受け取られかねないことで、幕府が快く思わず、藩内の門閥保守派につけ入る隙を与えてしまった。

まして、「改革の先輩」として、幕府に建議することは越権行為となる。同時に水野忠邦との関係も微妙になった。反面、江戸城で将軍家慶から改革の成功を称えられる「御意」を伝達されたのであったが、天保12年に幕府から「在国延長命令」という、定府にそぐわぬ命令が出た。此の時点で、譴責の予感を持たなかったのだろうか。果せるかな弘化元年春、老中連署による召喚命令が出たのであった。江戸に到着した斉昭を待っていたのは「隠居、蟄居謹慎」という厳しい処罰であった。知らぬは「斉昭ばかり」で、実は御三家に特有の「付家老」である中山が召喚命令の出る前に、老中の阿部正弘から数箇条に及ぶ詰問を受けていた。付家老の「弁明書」提出まえに召喚命令が出たのであった。「領国での延長」についての斉昭は不吉な予感を持たなかったのであろうか。

「領国での改革」へ「のめり込みすぎた」ことを、多くの有能なブレーン達は諌言しなかったのであろうか。斉昭のブレーンとは「藤田東湖」を筆頭に、「後期水戸学」を構成した「改革派」の人達であった。彼らは諌言どころか、「共犯」と見做されて処罰を受けてしまうのであった。「後期水戸学」とは、藤田東湖の父・幽谷に始まる学風の系譜である。

弘道館正門


それは、寛政年間に書かれた幽谷の『正名論』をはじめとして、会澤正志斎、豊田天功、らの儒者にして政治の実務をも担当する俊才たちであった。『新論』(会澤)と『弘道館記述義』(東湖)は後期水戸学の代表的な著作であり、これらが幕末の尊王攘夷運動に影響を及ぼしていくことになる。

水戸藩成立は江戸初期であるが、実は徳川家康の没後の「神号」を巡って、家康のブレーンであった二人に争いがあった。僧天海は神仏習合の立場で「権現」を主張、一方の金地院崇伝は神道の立場から「明神」を主張したのであった。「権現」とは仏が神の姿となって現れることで、この論争は天海の主張が勝って、家康は「東照大権現」となった。各地に存在する「東照宮」は「権現様」なのである。当然水戸にも東照宮はあるが、これを唯一神道となし、領内の神仏分離策を図ったのは御三家の立場として理解できる。また水戸学は尊王の立場であるからして、天皇=神とのことは明治になって大義名分を得てくるので、それなりに理解は出来る。しかし、水戸藩領内の寺院に大砲鋳造で梵鐘を供出せよとの命令や、怪しげな寺院をつぶしたことが、藩内抗争との絡みから、幕府への内通となって、「やむなく」斉昭処罰となったものと思われる。この内通は、寺院―寺社奉行―老中へと斉昭憎し!の情報となり、門閥保守派(付家老の中山や結城朝道等)が主導したのでなかろうか。

幕末の水戸藩は「藩内抗争」が、一つは「藤田幽谷と立原翠軒」という学者間の対立。もう一つは「門閥保守派と改革派」の抗争があったが、斉昭の改革に非協力的であったのが、門閥保守派であった。これは、上士グループと下士グループと言いかえてもよく、藤田幽谷が立身出世を遂げたことから、藤田東湖、会澤正志斎も出自は下士であった。この抗争は根深く、斉昭が『告志篇』で促した「上書」を、天保3年、「豊田天功」が『中興新書』でこれに応えて「水戸の問題発生」は全て両派の対立に根差しており、水戸家の危機を指摘したのであった。門閥出身者が執政・参政の主要な地位に就くのが当たり前になって居るのを、人材抜擢にするよう提案しているのも、藩内抗争の激しさを物語っている。
内政に問題を孕みながら、隠居となった斉昭だが、雪冤運動も激しかったのであった。
後半は、ペリー来航を期に「海防参与」となり、幕政参加するも政敵・井伊大老との確執、大奥の不人気を軸に書いて見たい。


『楫取家』文書
【2013/09/01 10:41】 エッセイ
『楫取家文書』のこと

日本史籍協會叢書の55番と56番が「楫取家文書」である。この奥付を見ると「昭和6年」発行となっている。それを昭和45年に覆刻した。編者が「日本史籍協會」で、発行者が財団法人東京大學出版會となっている。そのため旧漢字が相当に使用されていて、漢文も相当に収載されているので、殆ど古文書を読むような感覚になる。この2巻の内容は楫取素彦が「小田村伊之助」と称した時期に該当する。小田村から「楫取素彦」に藩命で改名したのが慶應3年という、幕末の最終段階だから、実質的には「小田村四郎」文書といってさしつかえない。

この56番の巻末に、解題が収載されている。著者は藤井貞文とある。このパート2に、経歴が記載されているので、幕末期の楫取を勉強するには格好の解説なので全文を転記して見る。

小田村伊之助


楫取素彦は山口藩医松島瑞蟠の次子として文政十二年三月十五日萩城下の魚棚沖町に生まれた。奇しくも後に幕府との広島応接に死生を共にした宍戸璣(後に山縣太華の養子・半藏)と同日の生れである。兄の剛蔵は丙辰丸の艦長として万延元年八月木戸孝允と共に水戸藩士と成破盟約を結んだ事で知られた志士、弟の小倉健作(後に松田謙三)も亦志士として活躍した。

名は哲、諱は希哲、字は士毅、通称を久米次郎、或は内蔵次郎と言った。天保十一年六月十五日同藩の儒官小田村吉平の養嗣と為り、通称伊之助と改め、後に文助、更に素太郎と改めたが、慶應三年九月二十四日楫取素彦と改名した。耕堂・彝堂・晩稼・棋山・不如帰彝堂等の号を用いた。

弘化元年九月明倫館に入学し、同四年十月司典助役兼助講に挙げられ、儒家として立ち、嘉永二年二月には明倫館が再興落成講師見習役となった。翌三年三月大番役として江戸藩邸に袛役(しえき)し、安積良斎・佐藤一斎に入門した。翌四年四月同藩士吉田松陰が江戸に遊学するに及び、始めてこれと相識り、同六年には松陰の妹寿が彼に嫁するや、愈々両者の親密は度を加えた。安政二年四月江戸より帰って再び明倫館に入り、舎長書記兼講師見習となり、翌三年二月相模国の防衛に赴き、翌四年帰藩して明倫館都講役兼助講となった。同六年十二月手廻組に加えられ、側儒役となり、翌万延元年二月山口講習堂文学用掛を命ぜられた。

明倫館


以上の期間は未だ時勢も十分に動かず、彼が志士として活動するには間があり、専ら儒家として藩務に奉仕したのである。彼の志士としての面目は文久年間に入ってからであり、もはや単なる儒者で居る事が出来なかった。即ち文久元年九月、彼は藩主毛利敬親の参府に随って江戸に出でたが、当時、同藩は航海遠略説を携げて公武の間に周旋しようと企てた。然るに彼の義弟久坂玄瑞等の尊攘志士は、これを迂遠の策と為して大いに非議し、翌二年正月には坂下門外の変、同四月には寺田屋事変が起った。遂に同藩はその主唱者たる長井雅樂を退けて破約攘夷の藩議を決してこれを奏請した。

同七月彼は敬親に従って入京し、活躍するところがあった。同年十月彼は内用を帯びて京都から岩国・長府の二藩に使いし、十二月京都に帰って復命し、翌三年敬親に扈従して京都から帰藩した。四月更に藩命を以て岩国に赴き、尋いで上京して尊攘運動の渦中に投じた。八月大和行幸を仰出されて藩主を召されたので、直に早打ちを以てこの朝命を藩地に齎した。翌九月側儒役より奏者格に転じ、内用掛となったのは、益々その才器が重用される事となったのである。

翌元治元年になって政局は一段と活発となる。就中、山口藩並に尊攘志士の京都回復の気勢は熾烈となった。正月藩命を以て長崎に赴き、三月に抵って一旦帰藩したが、その間に京都に於ては禁門の変が起った。九月十七日藩命に依て小田村素太郎と改名し、十一月二日禁門の変に坐して親類預けとなり、十二月十九日野山獄に入った。

野山獄


翌慶應元年二月野山獄を出で、五月藩命を帯びて大宰府の五卿に使したが、同地に於て高知藩士坂本竜馬等と邂逅して、薩長聯合の端緒を作った。尋いで小姓役筆頭通仕成と為り、徳山・岡山・広島の諸藩に使したのである。翌二年となりて山口藩・幕府の関係は一つの山場に到達した。

彼は宍戸璣と共に専らその折衝に腐心したが、遂に幕府の為に拘禁せられ、その間に両軍の激戦が開始せられた。十一月塩間鉄造と変名して大宰府に役し、翌十二月他藩応接掛を命ぜられて直目付役となり、豊前の占領地の鎮撫に当った。翌三年二月小倉に赴き、六月世子元徳の書物掛を命ぜられ、九月遊撃隊副総督となって高森に出張し、尋いで家老毛利内匠の大坂行に随行を命ぜられ、奥番頭に転じ、楫取素彦と改名せしめられた。十一月諸隊参謀として討幕軍を率いて上京した。

かくて明治元年の元旦を京都に於て迎えた。鳥羽伏見の戦いには皇居の守衛に任じ、正月十日徴士参与となり、同二十日制度事務局判事を命ぜられたが、二月二十日にこれを罷めて翌三月二十四日帰国した。

一体明治の人には一つの気概があった。彼の義兄吉田松陰は、事が成ればその功を王室に帰し、事が敗れればその罪を一身に着ると言った。彼も亦この気概を持ち、即ち王政復古の光を見れば既に我が事成れりとした訳であり、敢て明治の政権の座に就く事を好まなかった。維新後は出仕して山口藩権大参事・熊谷県令・群馬県令等の地方官に甘んじ、而も屢々致仕して山野に隠れる事を望んだ。器用の士は許されず、明治十七年七月三十日元老院議官に任じ、同二十年五月二十四日男爵を授けられた。同二十三年七月十六日衆望を以て貴族院議員に当選し、三十年十月一日貞宮御養育主任を仰付けられ、翌三十一年五月十二日宮中顧問官となり、大正元年八月十四日八十四歳を以て薨じた。翌日、特旨を以て正二位・勲一等に敍せられ、防府桑山に埋葬した。静なる晩年であった。

『楫取家文書』全二冊は、前述の如く楫取素彦が幕末維新に際して活躍した当時の書翰や諸記録を輯録した。周知の如く山口藩は尊攘運動の実行者として早く公卿・諸侯の推重を得たが、文久三年八月攘夷政変の為に挫折し、翌元治元年七月の京都回復運動に失敗して朝敵の汚名を負い、幕府軍の追討を受ける事になり、非常なる苦境に陥った。併し一藩の士気は少しも衰えず、益々軒昂であって専ら藩地に在って再挙の方寸を立て、又、公卿・諸侯の中にも同情を寄せる者が多く、密に使者を往復させた。即ち山口藩は声望と才識とを以て聞える楫取素彦を起用して屢々その折衝に当らしめたのである。





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