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エッセイ (382)
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『廻浦紀略』
【2013/10/25 12:54】
エッセイ
廻浦紀略
吉田松陰全集・第九巻収載
一、嘉永二年己酉初七月四日(七月四日)船倉に至る、此の日南風悪くして、船発すべからず、船倉内を 徘徊し て之れを看るに、萩海上警固の兵は之れに営して東濱(ひがしはま)の惣奉行(そうぶぎょう)の命を待つべし。
一、初五 悪風尚お未だ已まず、故に船を発せず、當島(とうどう)代官三須市郎兵衛(みすいちろべえ)訪い来る。終日無事、唯だ書を看、睡を催し一日を終ふ。
一、初六 未明に舟に上る。船二隻、一は船号を和布刈通(かりがよい)と云ひ関船(せきぶね)なり、櫓二十丁立、内の広さ十一畳、幅一間半、長さ六間、船頭二人水手八人。
語訳
徘徊=歩き廻って
惣奉行=総奉行に同じ
和布刈=現在の北九州市門司区、下関の壇ノ浦の対岸で関門海峡のあるところ。
関船=昔の兵船。早船の一種で艪の数の多いものは八十挺もある。下関で造ったからいう。
解説
廻浦紀略とは松陰の海防視察日記である。萩藩の山鹿流兵学の独立師範となり、藩から「海防御手当内容掛」を命ぜられたのが嘉永二年(1849、松陰20歳)三月であった。この年六月下旬より、翌月二十三日まで前後二回に分って、長門の北海岸石見の国境から西海岸一帯を馬関(下関)に至るまで、海岸防備の実状視察を命じられている。道家龍左衛門、飯田猪之助、それから兵学師範家の多田、大西と同道である。此の出張は家を離れて遠く出た最初の長旅であって、その時の日記を「廻浦紀略」という。
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「幕末の名君」たち
【2013/10/05 18:57】
エッセイ
「天章堂講座」第2回
来週(2013.10.8)は、第二回目で「島津斉彬と幕末名君たち」がテーマである。
「幕末四賢侯」という言葉がある。薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、そして土佐藩主の山内容堂。島津以外は皆養子である。
江戸時代を考える時、士分の身は「お家継嗣」問題が大きな意味を持つ。原則は「嫡子相続」、「長子相続」であるが、すんなりと現実は行かない。側室の生まれで藩主ともなった人物もいる。かてて加えて、次男・三男は養子に行きそこなると「部屋住み」という冷遇をかこつ運命が待っている。
この継嗣問題は、格が上位である程に諸問題発生の危険性を孕んでいる。
実例を出してみよう。最も有名なのは「将軍継嗣問題」である。本来的には、この問題は「徳川家内部」の、私的な問題と位置づけられるべきであるが、内輪の問題さえ、自己解決出来ない程に徳川幕藩体制は、統治機構が機能しなくなってきていたのである。13代将軍の徳川家定が世子を持たなかったことから、次の14代の「将軍の座」を巡って、一橋慶喜を推戴する「一橋派」と、徳川慶福を推戴する「南紀派」の確執は最も大きな問題となって、有力諸大名間の後押しが絡んで政治問題化したのは誰もが知って居る。
「ペリー来航」以来、日本の政治の「あるべき姿」、行末が見通せなくなった時、「難局打開の使命を果たし得る能力を備えた将軍像」が求められた。この論理は「正論」である。しかし、その正論がスムースに運ばない所に、歴史の展開が時に予期せぬ方向に発展してしまう。時の筆頭老中であった「堀田正睦」が、京都の朝廷勢力を甘く見たことから、意外な展開となる。江戸時代、「禁中幷公家諸法度」で統制下にあった朝廷だが、ハリスとの日米修好通商条約調印と将軍継嗣を巡って、国論が統一せず、時の天皇であった「孝明天皇」に条約調印の可否と後継将軍問題の判断を奏請した。簡単に買収して事が済むと思ったのが、大きな間違いで、とんでもない政治問題化してしまう。「孝明天皇の夷人嫌い」を幕府首脳は知らなかったのである。勅諚は「差し戻し」という「態の良い」拒否であった。
結果的に「寝ている子を起してしまった」という失態を演じてしまった。ここから朝廷の幕府政治への容喙が活発化し、堀田は此れで失脚してしまい、変わって「井伊直弼」が急遽大老に就任。この時の難問であった「条約調印」と「将軍継嗣問題」を一気に決着をつけるが、此れを巡って政局が混乱。徳川斉昭、一橋慶喜をはじめ有力大名が、江戸城に「不時登城」して、大老を難詰する。しかし、後日「将軍」の命令という形で「処罰」されてしまう。謹慎、隠居、等の行政罰である。
無断調印の波紋は、日本中の政治問題となり、幕府対朝廷(天皇)、公卿、諸侯、志士達をして反対論者が続出してしまう。これに、一橋慶喜を次期将軍に推した人々をも併せて処罰となり、安政の大獄を引き起こす。とりわけ天皇が不満の意を表した勅語(安政5年の干支にちなみ、戊午の密勅という)が、幕府より先に「水戸藩」に届く。此れを出させるために工作した人物もふくめ、幕閣の執拗な探索と逮捕による「恐怖政治」が展開されることになる。特に、水戸藩への処罰は峻厳をきわめた。家老の切腹以下、勅諚を運んだ鵜飼親子を斬刑、以下根こそぎの処罰で、水戸藩の井伊直弼に対する「怨念」は、ついに「桜田門の変」となり、現役の最高責任者が、白昼襲撃をうけ横死する前代未聞の不祥事を引き起こし、幕府権力の衰退を天下に晒す結果を招く。以後、大政奉還まで国内は、混乱する。「安政の大獄」の結末は、予期せぬ事件から「幕府の衰退」を内外に強く印象付けることになった。
この頃、諸侯のなかで有力大名であった「四賢侯」と呼称された大名の政治参加がはじまる。本来、「親藩」である、越前の松平慶永、「外様大名」である薩摩の島津、土佐の山内、宇和島の伊達は幕府政治に関与できないのが通例とされて200年余り続いてきた。
実はここに「キーマン」の役割を果たすことになった、老中首座の「阿部正弘」がいる。幕府政治の要である老中の阿部は、人物本位で難局にあたったことから、譜代、親藩、外様を越えて日本の行末を相談したのであった。幕府の外交特権を放棄したのも彼であった。
此の時期に、藩主の座を巡って「お家騒動」まがいの経過を経て、誕生した「藩主」たちがいる。「お由良騒動」で凄惨な粛正を経験した島津斉彬である。島津重豪以来の赤字財政を克服した「調所笑左衛門」とその一派が推す「島津久光」には藩主の島津斉興が背後にいた。側室のお由羅の生んだ久光に継がせたかったのであるが、一方の斉彬は幼時から神童に近い評価を受け、曽祖父の島津重豪の寵愛を受けて育ったという事情がある。島津重豪は豪傑とも云える強い個性の持ち主で、一方で「蘭癖大名」の魁でもあった。当然斉彬が後継(幼時に世子届出済)であることに何の異議もなかった。
問題は現在の藩主である島津斉興である。彼がなかなか「隠居」しないのである。結果的には斉彬が43歳まで家督を譲らず、難産の末に半強制的に引退させた。勿論、斉彬と親しかった老中の阿部正弘、伊達宗城等との合議作戦の上でのことだった。
江戸時代全期を通じて、代表的な「名君」と称された島津斉彬も、世子の認可以来40年間近くもその地位にあったのであった。この名君は待望の末に誕生したが、反面辛い隠忍を強いられた。対立候補の久光を推す一派の「呪詛」により、子息が悉く夭折してしまうのである。勿論、現代の合理的な考え方からすれば、「呪詛の効能」を信じる人はいないが、当時はまことしやかに信じられていた。斉彬本人も、当初は問題視していなかったが、生まれる子息の夭折が続いたため、この問題に大変過敏になっていった。
また土佐藩の場合は現藩主の連続の死去で、藩主の座が射止められたという島津斉彬とは反対である。彼は、世子から藩主になったのではなく、直系の血統ではない。分家である、南屋敷山内豊著の長子として高知城下に生誕して、本家の藩主が世子も立てないうちに死去したため、分家から入るという幸運児ともいうべき事情で、急遽藩主になったのであった。これも、幕府の本来からすれば改易は免れないところであったが、老中阿部正弘の機転で「間一髪」山内家がつながる際どい襲封であった。嘉永元年、容堂22歳の時であった。ペリー来航にも素早く「意見書」を提出、当面は攘夷で早期に軍備を整えるという事であった。大方の大名はとうじこうした意見が一般的であったが、この起草者は後に抜擢する吉田東洋であり、藩政改革も行い、旧弊の打破、人材登用(門閥打破)、海防の整備(郡奉行を設置して軍務にあたらせる)、など吉田東洋にあたらせたのである。
土佐藩は藩祖山内一豊が、遠州掛川かたの大抜擢をうけているので、外様とはいえ準譜代のような存在であった。一方で尊王の伝統もあり、その意味では複雑で難しい立場であった。だが、一橋慶喜を後継将軍に推戴する立場から、安政六年隠居を自ら願い出て、家督を豊範に譲った。
この隠居の時点から容堂と号した。基本的には「公武合体」政策の推進に終始して、「土佐勤皇党」の活動を快く思わず、指導者であった武市瑞山を、自身の腹心であった吉田東洋暗殺の下手人のとして断罪したのであった。大政奉還の建策は、徳川の恩顧を忘れてはいけない山内家との考えを捨てきれなかったことから出た部分もあり、倒幕の考えには与しなかった。慶喜の政治生命を残すことに最後まで拘って主張したのも容堂であった。
また宇和島の伊達宗城も「養子」の大名である。3000石の高級旗本「山口直勝」の次男であった。伊達家は本来純血主義で、伊達家以外からは藩主を出していなかったが、宗城の祖父直清は宇和島伊達家第五代の伊達村候(むらとき)の子であり、山口家に婿養子として入った経緯がある。七代の宗紀(むねただ)は宗城の父直勝と従兄弟になり、子沢山の将軍家斉の子息からの話が聞こえてくると、莫大な費用もかかるし、伊達家の血縁が途切れることもあって、山口家から養子を迎えたのであった。宗紀は名君であったらしく、江戸期の各藩が財政赤字で苦しむ中で、数少ない健全財政を保っていたようである。
従って宗城は比較的恵まれた形で世子となり、領民達からも歓迎され、学問もよき師について、儒学を始め、当時の世界情勢についても学んだうえで藩主となることになったわけである。加えて、先代の宗紀が水戸の徳川斉昭と懇意であったこと、斉昭の娘との結婚予定であったが病死により実現しなかったものの、宗城にとってはプラスに作用した。当時の有力大名との交わりは、宗城に活躍の場を与えることになり、旗本の次男という「厄介者」が恵まれた大名として生涯を送れたのである。彼の誠実にして、「世話好き」の人柄が各大名家の問題解決のために世話役を演じさせ、十万石の外様大名としては破格の働きをする。土佐藩の容堂が改易にならずに済んだのも、薩摩藩の斉彬の襲封にも一役買っているが、これらは彼の人柄からくる調整役に勝れていたものとみられる。
さて、松平慶永であるが、彼は「御三卿」の田安家に生れている。御三家に次ぐ親藩として、将軍家慶の命で越前松平家を継ぐ。第十六代藩主となる。名門大名としての越前家の藩主は、運よく有能な側近に恵まれる。中根雪江、鈴木主税、村田氏寿、橋本左内の人材と熊本から招聘した横井小楠などの登用もあり、幕末期の財政再建に成功する。慶永のもつ誠実、謹直な人柄もあって伊達宗城同様に、見識ある大名との交わりで次第に力量を蓄える。ペリー来航の頃は徳川斉昭に私淑しており、幕府の指導力強化と積極的攘夷論の立場を主張したが、安政年間に開国策に転じ、将軍継嗣問題では一橋派の中心人物として慶喜を推戴したのであった。条約勅許問題では、井伊大老と政見を異にした立場から、斉昭らと同様に隠居謹慎の処罰を受ける。併し井伊大老の横死により、大老に押されるが家格が譜代を越えることや親藩第一の前藩主ということで、新設された幕府の最高職である「政治総裁職」に就任する。
以上の「四賢侯」の内、一人斉彬のみ「安政の大獄」前に死去しており、彼の生涯に汚点を残さずにすんだが、内実は井伊の専権を振う在り方に批判的であったろうと思われる。腹心の西郷が僧月照と共に薩摩に帰国したのは、安政の大獄から難を逃れるためであったこと、一橋を次期将軍への考えからして微妙な時に死去した。藩内抗争もあり、「コレラ」での病死にもかかわらず「毒殺説」(海音寺潮五郎)を唱えられるくらいであった。また、斉彬を除くと「明治新政府」発足にあたって、重責の一端を担ったのも「四賢侯」と云われる所以であろう。ただし、この場合は斉彬の遺志を継いだ「島津久光」が入る。討幕の功績を第一とされ破格の「左大臣」となったのも異色であり、藩主でない人物ながら薩摩藩の実権をにぎり、幕末維新期の活躍者として、この時期のヒーローの一人である。
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