長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

「吉田松陰の兄への嘘」
【2013/11/24 23:12】 エッセイ
吉田松陰の「たった一度の嘘」

吉田松陰は、生涯「言行一致」を貫き通した人である。
この松陰が、こともあろうに、最も「偽りを戒めていたはず」の兄・梅太郎に「已むに已まれぬ」思いながら「偽りの約束」をするのであるが、「本心」をどうしても言えなかった。 「一心同体」のような、「以心伝心」の兄は、松陰の言動から察知して「誓紙」を書かせる。
今日風に言えば、「天地神明に誓って、偽りなし」の誓いの署名記述書類と言えようか。
杉梅太郎


それは、下記のような事情があった。嘉永7年1月に再航したペリーの艦隊を利用して(お願いというべきか)、徳川政権下で「禁制」であった、海外への渡航に挑もうとする行動であった。 その時の松陰の言動に疑問を抱いた、兄梅太郎は、確認をするために松陰の署名を求めた。
二才年上の兄「梅太郎」との兄弟愛は、読む者をして感動させられる書簡が沢山あるのであるが、この時だけは、弟の松陰も固く心の扉を閉ざしていたのであろう。しかし、ありがたいことに、150年以上経過した今日、「吉田松陰全集」が刊行されているために、この関係が詳しく解かるのである。結果は、ご承知の通り松陰師弟の逮捕、拘束となるのである。以後、吉田松陰は自由を奪われる身で生涯を終えることになった。
実は、此のことで「吉田松陰」の存在が、萩藩の松陰から、いわば全国区としての松陰の存在になるのは、松陰自身気付いていたかどうか。それは、明治二十六年の徳富蘇峰の『吉田松陰』がそれを実現することになる。松陰が書き遺した『回顧録』では、暗に、それを期待する記述がある。神がかり的な「松陰像」とことなる、人間的な側面を垣間見ることが出来る文である。

一般に、「時の法」つまり「禁制」を自分の意志で犯すことは、命がけであった。当然、「必死」、つまり、私を賭しての行動であった。失敗すれば「極刑・死刑」が当然予測された、覚悟の上でのことであった。だが、松陰は徳川の「法」や「政治」の在り方は「私」的な法と、政治であると見抜いていた。徳川に都合の良いようにすべてが、運営されているのだという見解である。弟子の金子重之助との決死の行動は、今日では、殆どの「松陰ファン」なら、ほとんど常識化しているほどに、このことは知られているのである。松陰は、幕府の取り調べ方への証言に、そのまま真っ正直に答えている。こうした、人間性が、吉田松陰の人気を今日でも衰えるどころか、逆に「益々拡大している」のである。幕府の奉行からの取り調べに対して、隠すことなく答え、奉行をして感心させてしまう。松陰の国を想う心が、取り調べ人の心を動かし、国元蟄居という寛大な裁決を見たのであった。
正装の吉田松陰2012.3.30

松陰の人気を裏付ける要因の証左の一つに、関連本の発刊がある。近代日本人で、これほどに繰り返し、繰り返し、視点を変えながらも一人の人物像研究がなされたのは、稀有のことである。福澤諭吉とともに双璧をなすものであろう。但し、福澤は「慶應義塾」という、一大教育機構たる学園を創設したから、信奉者が続出するのは吉田松陰と事情は異なる。松陰は、「山口県教育会」が福澤のそれに該当するかもしれない。

論文、伝記からはじまり、部分的な「松陰像」を語る本や出版物が、後を絶たない。この現象を、どうとらえるべきか。「代表的日本人」は内村鑑三の名著として、「岩波文庫」に収載されて、恐らく今後の百年間は、その著述意義は存続するものと考えられる。
ふくざわと異なるのは、「任意の研究」と、学祖としての研究事蹟の相異があるだろう。
慶應義塾に学んだ者は、「福澤先生」は慶應義塾の百五十年間で唯一、「先生」と尊称されるので、特異な存在である。吉田松陰の場合は、山口県にある「松風会」がそれに近いが、慶應義塾と云う、共通の基盤に立っての研究と異なり、全日本とも云うべき「研究の自由」対象となっている。

さて、吉田松陰の「たった一度の嘘」は、単に杉家・吉田家の範囲にとどまらない。嘉永7年当時の、特殊情勢の下で、多分葛藤の末に、内心では詫びながら言ったことであろうことは、容易に察しが付く。自分や家族・親族に万一迷惑をかけることになるかもしれないという、ギリギリの心境であったに違いない。
「十年一昔」と云われる。松陰が決行した「下田密航」は、不幸にして失敗に帰したが、十年後には、新島襄が当時の蝦夷(箱館)から成功している。明治六年までの十年間を米国ですごし、此の間、幾つかの教育機関で学び、「学士」の条件である大学を卒業しているのである。成功と失敗は紙一重である。失敗した松陰は、政治犯として不遇の晩年ながら、「松下村塾」での教育成果は、教え子の門下生が多くの成功物語の人生航路を歩む。新島も、徳川治世下の時代をまたいで明治六年、ある種の凱旋帰国を果たし、信念を拡張して多くの賛同者を得て、「同志社大学」をはじめとする、一大学園の開祖となる。

日本人は「歴史好き」といわれる。それは「皇国史観」の影響もあったに違いないが、「尊王」という、極めて特殊な「皇帝」を創出した「明治天皇制」国家の産物とも云える。 吉田松陰が「獄中で書いた」『士規七則』という、従兄弟の元服(今日の成人式に相当)に書かれている。「万葉一統」という統治責任者が、連綿と続いているのは、吾が日本特有の優れた国体であるとして称えた。これが、戦前の「松陰ブーム」として、時の権力に利用された。松陰は黄泉の国から、大変に曲解で「はなはだ迷惑だ」と言っているに違いない。

『華夷の瓣』は、そんな次元で記したのではないと、叱責しているに違いないと想像される。何故か? 日本人は、自分の死を恐れるあまり、自己責任を回避する傾向がある。東洋思想の特徴の一つに「天」という特殊な概念がある。西欧でいう「神」に近いかもしれないが、「天」から与えられた「皇帝」が即ち「天皇」なのだ。したがって、「徳」を備えた人格として、日本人は崇める。反面、神聖にして犯すべからず、と謳い上げて「天皇の命令という形で」国家の大事の判断を仰ぐ形式を踏んだ。この天皇を連綿として、千年以上続けさせている国、それが大日本というわけである。

「極東軍事裁判」が、西欧の合理主義的発想から「戦争責任者」を割り出すのに、苦労をして複数の国家指導者を極刑に処した。多分、共同責任で断を下したに違いない。 広田弘毅は、こうしたことの連座であって「ただ一人の文官」であった。しかし、従容として死刑台に臨んだ姿は『落日燃ゆ』を読んだ経験者は、このくだりを感動とともに読んだに違いない。そう。吉田松陰も、最期は同様であった。このことは、江戸期の「首切り淺右衛門」が明治になって回想している。「多くの首を切ったが、安政六年の長州人ほど天晴な最期を遂げた」人物はいなかったと。自分や親族の命より國家(大和民族)の命が大切であったと。こうした信念故に、云いたくなかったはずの兄に、「虚言」で急場をしのいだのであった。


スポンサーサイト
「吉田松陰随想」
【2013/11/15 21:37】 エッセイ
「閑話休題」吉田松陰随想

このブログ記事を書き始めて、凡そ3年半が経過した。書いた記事は現在「265」に上った。吉田松陰の勉強の一助を期して、殆どが「松陰関連記事」となったが、「幕末物」も随分と書いたような気がする。
目標は「500」記事を書きたいと願っている。吉田松陰の関連記事は、ネット(正味)で500に到達したいと思っている。それは、吉田松陰が幕末の「先覚者」からではない。
正装の吉田松陰2012.3.30


松陰は、「人間通」の観点からすると、振幅が大きい人物である。余人を以て変えがたいほどのものがあって、感心させられもするが、一方では「人間音痴」かな、と思えるような一面を持っている。「間部詮勝老中」の暗殺計画は、「草莽崛起」の実践としての流れからは理解出来るものの、政府要人の暗殺を期しての「秘策」を「公明正大」と取り違えているのではないかと思わせる。何故、暗殺のために公開性に富む書簡を、毛利藩の要人に書いたか。武士の切り捨て御免が許されていた時代とはいえ、世間通とは言えず、ましてや人間通とは更に言えまい。

正直も度を越せば「馬鹿正直」ということばがあるように、誠実や公明正大も「一般的な常識」からすれば「適度」という許容範囲の中でのことである。
これに似たような表現に「お人よし」と云う言葉がある。
武士階級に育ち、大藩の軍学師範という、ある種の特権階級に近い身分や親族の影響もあってか、松陰先生は極端なのであって『中庸』を「これでもか」というくらいに学んだはずなのに、どうしたことだろうと首をかしげたくなることが間々ある。

「論語読みの論語知らず」を連想させる。均衡感覚に優れていない部分が確かにこの人物にはあるようだ。だが、どうして吉田松陰支持者が連綿と絶えずに続くのは何故か?との疑問も抱かざるを得ない。性善説もここまで行くのであろうかと、時に感心させられたり、「度」をこすと、このようになるのかと思うことがしばしばである。死刑を覚悟した「父叔兄宛」の書簡(安政6年10月20日)も、「平生の學問浅薄」として、学問が足りなかったと述懐しているように読み取れる。誰を怨むでもなく、己の学問不足を記述しているくだりは、美しくさえもある。ただ「評定所」の取り調べの過程で、「幕府の権詐」と「誘導訊問」の術中に陥ったとの記述は、読む者をして共感させられるものがある。

自分の生命と大和民族の生命との大切さを「天秤」にかけると、松陰の考えは「慈愛のレベル」が高すぎて、常人の理解を遥かに凌駕してしまう。国を愛する心は、こうしたレベルまでたどり着くのであろうか。あの、「アダム・スミス」さえ、「利己心の有効活用」によって経済活動の活性化の梃子になると言った。「利己心」は普遍性のある、人間誰しもが容認する本性ではないのか。確かに安政6年の4月頃は、門下生への書簡で、自らの死によって「志」を継ぐ者に奮起を促しているし、「留魂録」でも同様のことを「遺志」と読める部分がでてくるのである。これは「死への希求」とういう病的状態と間一髪なのかもしれない。自賛に書いている「人は狂頑と譏り」の意味は、死をも恐れぬ信念の強さを謂っているのか。ここでは「諸葛孔明」や「賈彪」・「貫高」・「魯仲連」を師と仰ぎつつ、生き方に憧憬を抱いているようだ。これらの人物は「高士」と呼ばれるほどの人達である。
人間、何が怖いかって問えば、誰もが「死」と答えるに違いない。古来「死んだ気になってやれば何でも出来る!」と云われてきた。

吉田松陰の「誠」は、考えようによっては信仰にさえ近いと思える。かつて三島由紀夫が割腹自殺を遂げた時に「人は思想で死ねるものか?」と評論を書いたものを読んだ記憶がある。あの時、陽明学がしきりに喧伝されたような記憶があって、三島が死の直前「革命哲学としての陽明学」なる、書物を著述したことから、それが殊更取り上げられたと思われる。「主観の完全燃焼」とは「信仰」と隣り合わせなのかも知れない。吉田松陰も「陽明学」への理解は、普通以上と言ってよいだろう。門弟の入江杉蔵宛の書簡でも、陽明学徒としての部分は否定しているが、自分の考えと「万々逢う」との意味深長な表現がある。

吉田松陰を勉強して10年余り、まだまだ謎だらけである。半世紀に及ぶ研究を続けている海原先生が、松陰本を沢山書きながら、なお書き足らないものがあるように思えてならないと述懐しているが、それ故に取り組む人が後を絶たないのではあるまいかと思う。



「松下村塾」の母体となった「獄中勉強会」
【2013/11/15 17:16】 エッセイ
福堂策 上 (野山雑著)全集第二巻  安政二年六月一日(一八五五) 二十六歳

まず「松陰全集」の原文を転記する。

元魏の孝文、罪人を久しく獄に繋ぎ、その困苦に因りて善思を生ぜ染む。
因って云はく、「智者は囹圄を以て福堂とす」と。此の説遽かに聞けば理あるが如し。
諸生紙上の論、多く左袒する所なり余獄に在ること久し。
親しく囚徒の情態を観察するに、久しく獄に在りて惡述を工む者ありて善思を生ずる者を見ず。
然らば滞囚は決して善治に非ず。
故に曰く、「小人閑居して不善を為す」と、誠なるかな。

但し是れは獄中教へなき者を以て云ふのみ。若し教へある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや。曾て米利幹の獄制を見るに、往昔は一たび獄に入れば、多くはその悪益々甚だしかりしが、近時は善書ありて教導する故に、獄に入る時は更に転じて善人になると云ふ。
是くの如くにして始めて福堂と謂ふべし。余是に於て一策を画す。世道に志ある者、幸に熟思せよ。
正装の吉田松陰2012.3.30

一、 新に一大牢獄を営し、諸士罪ありて遠島せらるべき者、及び親類始末に逢いて遠島せらるべき者は、先づ悉く茲に入る。内、志あり學ある者一人を長とす。親類始末のことは余別に論ありて筆録とす。此の策は只今の有様に就いて云ふのみ。
一、 三年を一限とす。凡そその囚徒、皆出牢を許す。但し罪悪改むることなき者は、更に三年を滞らす。遂に改心なき者にして後、庶人に降し遠島に棄つ。尤も兇頑甚だしき者は、三年の限りに至るを待たず、是れを遠島に棄つ。是れ皆獄長の建白を主とし、更に検覈を加ふ。
一、 長以下、数人の官員を設けざることを得ず。是れ獄長の建白に任ずべし。総べて獄中の事は長に委任し。長私曲あり、或いは獄中治まらざる時は専ら長を責む。
一、 獄中にては、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とす。
一、 番人、獄中の人数多少に応じ、五六名を設けざるを得ず。而して其の怠惰放肆の風を厳禁し、方正謹飭の者を用ふべし。番人は組の者を用ひ、番人の長は士を用ふべし。
一、 飲食の事は郡夫に命じ、別に日々監司後れ付の類を出し監せしむべし。獄中銭鈔を貯へ、恣に物を買ふを厳禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定め、是れを司らしむ。即ち今野山獄の肝煎の如し。
一、 獄中断じて酒を用ふることを許さず。酒は損ありて益なし。此の不易の論あり、茲に贅せず。
一、 隔日或は両三日隔てて、御徒士目付を回し、月に両三度は御目付の回りもあるべし。回りの時は獄中の陳ずる所を詳聴すべきは勿論なり。
一、 医者は毎月三四度回すべし。若し急病あれば願出で次第、医をして来診せしむべし。付人の事、湯水の事、江戸獄中の制に倣ふを可なりとす。
一、 獄中画一の制を作り、板に書して楣に掲ぐべし。
歴史に学ぶ

右に論列する所に従って一牢獄を営せば、其の福堂たるも亦大なり。
余幸にして格そとの仁恩に遇ひて、萬死の誅を減ずることを得。
其の身を岸獄に終ふる、固より自ら安んじ自ら分とする所なり。
然れども國恩の大、未だ涓埃を報ずるを得ず。深く忸怩する所なり。
因りて願ふ、若し新獄の長となることを得ば、或は微力を伸部て万一を庶畿することを得ん。但し囚中、其の才学余に過ぐる者あらば、余も亦敢て妄りに其の前に居らざるなり。
余野山獄に来たりてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以て同囚と相切磋することを得、獄中駸々乎として化に向ふの勢いあるを覚ゆ。是れに因りて知る、福堂も亦難からざることを。

且つ人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。是れ亦年来人を閲して実験するところなり。
人物を遺棄せざるの要術、是れより外復たあることなし。当今動もすれば人を遠島に処す。余精しく在島の容子を聞くに、降して庶人となすよりも甚だし、全く百姓の奴隷となるなり。堂々たる士人をして此の極に至らしむること、豈に匆々にすべけんや。故に余は先づ獄に下し、必ず已むことを得ざるに及んで、然る後遠島に処せんと欲す。是れ忠厚の至りなり。但し放縦は人情の安んずる所にして、厳整は其の厭ふ所なれば、右の如く制を定むる時は必ず悦ばざる者衆し。然れども、是れに非ざれば福堂の福を成すに足らず。
方今庶政維れ新たに、百弊革めざるななし。独り囚獄の政に於いて、未だ至らざるものあるを覚ゆ。故に余故に私に策すること此の如し。然れども是れ独り士人の獄法を論ずるのみ。庶人の獄に至りては更に定論あり。今未だ贅するに暇あらず。

安政乙卯六月朔丙夜、是れを野山獄北第一房に於いて書す。二十一回猛虎 松陰在野山獄
松下村塾24.4.25


この「福堂策・上」は、安政二年六月一日夜に書かれた。松陰が収監されて、凡そ半年経過し、この間に有名な「獄中勉強会」を提唱した松陰は、この経験に基づいて、「獄中」といえども「福堂」に変え得ると確信した。

松陰の人間観は、『孟子』を勉強した為に「性善説」に立っており、罪人といえども、教育によって再生の方向に善導できると考えていたようだ。とりわけ、「人賢愚ありと雖も一、二の才能無きは無し」は、努力して自らの才能を開花させることで「生きがい」を見出し得るとの考え方は、大変に素晴らしい。
難解な文言が並ぶのが松陰の文章の特徴であるが、「振り仮名」をつけずに原文を転記して見た。この考え方と、「獄中勉強会」の経験が後に「松下村塾」へと連なっていくのである。

人には、必ず何等かの才能がある。それを引き出して「松下村塾」で実証してみせたのが、吉田松陰の教育である。優れた「人物眼」によって松陰は門下生の個性を見抜き、そこに焦点を当てて「指摘」したのであった。尊敬する師から、称えられた才能は「高杉晋作」のように大きく開花した門下生が続出し、ひいては明治の国家指導者を多く輩出した「秘訣」がある。吉田松陰を学ぶことの意義は、時代を超えて、誰もが学ぶことで、自己教育が可能であることを教えてくれる。教育者はすべからく吉田松陰を学ぶべきだと思うのである。


『高杉暢夫を送る序』
【2013/11/02 18:06】 エッセイ
阿部博人さんが『はじめに志ありき』と題した、吉田松陰の本を書いている。この本で、掲題の送序文を口語訳している。読むだけでは、頭の中を通過してしまうので、ワードで打ってみた。こうすると、よく意味が解るのである。これは、松陰が教育的手法に用いた一つで、修行に旅立つ弟子たちに師としてのメッセージである。
尊敬する師から、こうした「贈る言葉」を受けて発奮するわけである。松陰は、何人かの弟子の修行出発にこれを書いたが、高杉晋作(暢夫)この宛の「送序」は教育的見地からも大変評価が高い。高杉の他には「入江杉蔵」への送序文が詩的で、心のこもった文で読む者をして感動を誘う。教育者吉田松陰の人材育成の卓越性の秘訣を垣間見る思いがする。そして名文家としての松陰の横顔が見えるようである。

高杉晋作25.12.07吉田松陰とその門下25.5.6



「高杉暢夫を送る序」(現代語訳)

私は嘗て同志中の年少多才な人物を次々と選び、久坂玄瑞を第一流とした。既に高杉暢夫を得た。暢夫は有識の士である。しかし、その学問はさほど進んでいなく、また頗る意に任せて勝手に振舞う癖があった。そこで私は玄瑞を例に挙げ、暢夫を抑制しようとした。暢夫は甚だ不服とした。しかし、幾らも経たずして、暢夫の学業は俄に進歩し、議論は益々卓越し、同志は皆心服するようになった。

私は事を議する毎に多く暢夫の意見を聞いて決断するようになった程に、その言は侮れないものとなった。ここに於て玄瑞もまたこのことを推し図って、「暢夫の見識には及ばない」といい、暢夫は又更に玄瑞の才を推して、当世無比といった。二人は喜んで気が合ったようだ。私はある時傍らより此れを褒めて、「玄瑞の才は気に基づき、暢夫の識は気に発する。二人が手を携えれば私は何も心配ない」といった。

玄瑞は先に東遊しており、暢夫も今また将に東に向おうとしている。六か月相前後しているだけである。併し天下の形勢は変動すること夥しい。幕府は勅旨に反して外国と和を結んだ。天皇は怒って幕府に対して水戸・尾張・越前の三家と井伊大老を召し賜った。幕府が従うか否かは未だ解からない。天下はこの成り行きを疑い懼れ、左右観望していると言った情勢である。

しかし吾が長州藩は幕府の命を受けて、兵庫に備えることとなった。兵庫は摂津に属し、いわゆる畿内である。畿内の地は、天朝は切に夷狄に貸すことを禁じている。しかし幕府は五港の開港をアメリカに許した。兵庫はその一つである。吾が毛利藩主、吾が藩の要職は征夷の謀を認めず、将に意見書を幕府に提出し、諌争しようとした。ここに於て吾が世子は江戸に居り、その去留が危険視されている。併し武門の大義としては苟も去るべきではない。去って大義に達しなければ、人の譏りを招くということを知らないことだ。暢夫はこの間に議論を行い、多くは私と意見が合った。しかもその精識なるに至っては私の及ぶ所ではない。暢夫が事を議するに当って元は重々しく大事を取っていたものだ。

近頃はその振い発つ様は激しく強く、専ら気を以て行動する者の如くであり、その識が進んだことが解かるのである。玄瑞は先に京都に在って、王事に死ぬ覚悟である。更に東に下るに及んで、大艦に乗り黒竜江に赴こうと謀っている。その事に当っては、難易をものともしない。身を奮って行動しようとするのは何時もこうなのである。しかし私は一人その行動が多岐にわたって失敗してしまうのではないかと憂いている。

暢夫・玄瑞はもとより相互に心を得た者同士である。暢夫の識を以て、玄瑞の才を行えば、気は皆その元より有する所なので、何をか為して成功しないものは無い。
暢夫よ暢夫、天下には才有る者は数多い。併しながら唯一の信頼する同志である玄瑞を失ってはならない。桂小五郎・赤川淡水は私の重んずる人物である。吉田栄太郎と松浦松洞は私の愛する人物である。新しく知り得た入江杉蔵は心を共に出来る者である。この五人の者は皆志士であり、暢夫はこのことを十分に知っている。今幸に江戸にいる。暢夫往け。急いで玄瑞を招いてこのことを伝え、また五人の者に語るのだ。(安政五年)七月十八日





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR