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『桂小五郎と幾松』
【2013/12/25 18:32】 エッセイ
『幾松』(木戸松子)のこと

(1)、『醒めた炎―木戸孝允―』(村松剛著)について
醒めた炎第一巻醒めた炎単行本


1979.5~1987.2。日本経済新聞「日曜版」連載、足掛け9年。通算406回の大作。
①、1987年夏、上下二巻で中央公論社より刊行(単行本) ②、1990.10~1991.10まで、「中公文庫」四巻。解説:佐伯彰一。
この文庫の第四巻は、345頁~428頁までの83頁に、出典資料一覧。そして446頁~486頁までの40頁にわたる人名索引と、その出典カ所の詳細な明示がなされている。私は、これほど懇切丁寧な文庫本を見たことがない。解説(佐伯彰一)も丁寧である。昭和62年度の「菊池寛章」を受賞した大作である。
幾松(木戸松子)の出典箇所(該当ページ)は、次の様になる。 第1巻:1。 第2巻:43 。第3巻:5。 第4巻:12 と、実に、頻繁に登場する。
第2巻に多くの記述があるのは、「蛤御門の変」(元治元年七月:1864)が起きた後で、桂は乞食に身をやつして京都、そして出石に潜伏する。この間、幾松は下関に匿われる。第四巻は、桂が「維新の元勲」として、新政府で活躍しつつも微妙な夫婦の生活。そして外遊(岩倉使節)と多忙で、松子は手紙を出していること等である。これを根拠として、幾松像をイメージするのがよいと思われる。それは、この書物が、創作の入った小説ではなく、本格的な伝記として書かれているからである。
木戸孝允26.02.01

(2)、『幾松という女』(南条範夫著)1993:新潮文庫。解説:安西篤子。
幾松という女


この解説部分が面白いので、安西篤子さんの解説文稿の一部を抜粋して下記します。
幕末維新時に活躍した志士たちは、華やかな女性達とのロマンスにも事欠かなかった。
とりわけ有名なのが、坂本龍馬とおりょう、そして桂小五郎と幾松の恋であろう。
 京都・三本木・吉田屋の芸妓幾松は、たぐい稀な美貌の上に、芸達者で気風が良く、自他ともに許す売れっ妓だった。その幾松が、長州の桂小五郎と恋仲になり、危機に陥った小五郎を幾度か助けた。新撰組に狙われて、三条大橋の下に身をひそめた小五郎のために、幾松が握り飯を作ってきて与えたとか、吉田屋の二階で逢引中、新撰組に踏み込まれたが、幾松は咄嗟に小五郎を秘密の抜け道から裏の河原へ逃がし、一人、平然と唄いつつ舞い続けたので、近藤勇らも疑いを残しながら引き揚げた、といったエピソードはよく知られている。
幾松

 浮気者の多い志士の中で、桂小五郎後の木戸孝允は幾松一人を愛し続け、やがて正妻とした。幾松は名も松子と改めて、よく夫に仕え、木戸が亡くなると剃髪出家して翠香院と号し、夫の冥福を祈って世を終えた。・・・・・・京に住む者はもともと禁裏様びいきで、尊攘派の志士達も色里の女たちに人気があった。「高杉晋作と井筒屋の芸妓・ふりか」、「久坂玄瑞と桔梗屋のお辰」、「山縣有朋と祇園の舞子・小蘭」とかがしきりに浮名を流した。・・・・・・出会って間もなく(文久二年頃)小五郎は幾松とむすばれた。・・・・・・この頃が二人の愛の最も純粋に燃え上がった時期であろう。小五郎は幾松を正妻に迎える決心をし、幾松もそれを知って有頂天になる。幾松が度々小五郎を危機から救ったのも此の時分のことである。・・・・・・芸妓時代の幾松の写真によれば、ふっくらした感じの中にもいかにも悧巧そうなつぶらな瞳が光っていて、鼻筋の通った黒髪の豊な、匂うような美女である。
「禁門の変」後、洛中に潜んでいた小五郎は、但馬の出石に逃れる。幾松も幕府の探索方に狙われているというので、長州藩士に伴われて下関に逃げた。その後、幾松は出石に小五郎を訪ね、二人きりの日々を楽しむ。更に二人で長州に戻り、山口に新居を構えた。この時から幾松は、小五郎の正妻として知人にも引き合わせられた。松子の喜びはどんなだったであろう。・・・・・・芸妓時代の幾松の写真によれば、ふっくらした感じの中にもいかにも悧巧そうなつぶらな瞳が光っていて、鼻筋の通った黒髪の豊な、匂うような美女である。・・・・・・(ここから先は著者:南条範夫の創作か? 醒めた炎には書かれていない)・・・・・・明治四年十一月、木戸孝允は遣外使節団の副使としてアメリカに渡った。」木戸の留守中に松子は歌舞伎役者と浮気をしてしまう。良人への裏切りだが、作者は決して松子を一方的に指弾していない。芸妓幾松は運命の力で木戸夫人松子になった。しかし一人の女性が、境遇が変わったからと言って、全く別人になる事は出来ない。松子は、幕末の京都のあの熱い空気の中で愛し合った桂小五郎が忘れられない。ところが、小五郎は木戸孝允となるや、政務に忙殺されて疲労困憊し、志士だった頃の颯爽たる面影を失ってしまった。・・・・・・と女性ならではの解説をしている。

幾松物語


そして、醒めた炎の最後には松子(幾松)の木戸に対する一途な愛情として、宮内庁書陵部蔵「木戸家文書」に収載されている松子の手紙(この時、木戸は遣外使節で外遊中)が紹介されている。曰く
「サソサソシラヌタコクヘ、ヨケイノ御シンツフ遊バシ候事トイロイロアン(案)しクラシ候ユエ、トフゾトフゾアナタ様御事ナルタケ御コゝロ御ヤスメ遊ソハシ候ヨフニクレクレモ御ネカイアけ參ラセ候。御カイ(帰)リ遊ソハシ候ヘバトノヨフニモ御セワイタシ候ユヘ、トフソトフソオンミクレクレモ御イトヒ遊ソバシ御タノミアケ參ラセ候。マタマタアナタ様イロイロ御クロフ遊ソバシ候事オンサッシモフシアケ候ユヘ、トフソトフソハヤハヤハヤ御カイリ御ホト(程)、クレクレモオンタノミアケ參ラセ候。」夫を思う女の情感が、たどたどしい筆で書かれた文面いっぱいにあふれています。 このように著者は締めくくっている。
昭和六十二年七月三十一日
村松 剛



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「久坂から文への最後の書簡」
【2013/12/23 00:13】 エッセイ
「久坂玄瑞」から「文」宛て書簡

平成四年二月一日刊行の『久坂玄瑞全集』(福本義亮編・マツノ書店)には良人である久坂玄瑞から妻の「文」(松陰の妹)宛ての書簡が「19通」収載されている。
第1通が安政5年冬で、この時は松陰生存中である。第2通は「萬延元年8月20日」(松陰刑死後)である。そうして最後は元治元年6月6日で、有名な「池田屋の変」が勃発したのが6月5日であるから、その翌日に書いた書簡となるわけである。再来年の「大河ドラマ」に因んで、この最後の書簡を書いて見る。
長井を切腹に追い込んだ久坂24.8.20


前年の8月18日は長州藩・尊王攘夷派にとって、京都御所の守衛を解かれ、そして京都からの追放命令の出た屈辱の日である。これは、いわゆる長州藩や尊王攘夷派が京都から一掃された日として幕末史に必ず記述される事件である。これを「文久三年八月十八日の政変」という。その事件から10か月後に書かれた書簡である。 そうしてこの書簡から、およそ70日後に「禁門の変」となって、会津・薩摩の連合軍との戦いへと展開して7月19日に久坂は自刃となる。
その意味で「遺稿」に近いといえるものである。

全集の全文を下記する。
あつさのせつに相成候得共まづまづおんかわりなくくらされ候よしいかにも安心いたし粂二郎昨日まゐり久しぶりにあいたい大によろこび昨夜も一しよにね候粂二郎大小も大坂にあつらひおき候得共此度はまにあひ不申候いづれのぼり候上は相調早々さしおくり可申候梅兄も一昨日山口御出かれこれおんはなしをもいたし候事に此度は何分ちよとなりともかへり度候得共用事しげくこまりをりまゐらせ候なにとかいたし見可申候何もあらあらかしく
六日
佐々木おばさま杉みなさま小田村兒玉玉木えもよろしく頼まゐらせ候粂次郎は一兩日とゞめおき候いかにもおとなしくあそびをり候御あんもじなさるべく候
よしすけ
留守へ

 楫取美和子 
以上が、全集に収載されているものである。 これを読み易く、現代文に書き換えて見ると、以下の様になる。

「暑さの節に相成りましたが、先ずお変わりなく暮らされ候由、いかにも安心致しました。粂二郎(養子で文の姉の子を)が昨日参り、久し振りに相対(逢え)し、大いに喜んでいます。昨夜も一緒に寝ました。粂二郎の大小(刀)も注文しておきましたが、此の度は間に合わないが、何時か上京の時は完成(出来上がり)次第、その注文してある両刀を差送ります。梅太郎兄さんも一昨日山口へおいでになり、諸々の話をしましたが、此の度は一寸なりとも萩へ帰り度く思っていますが用事が忙しく困っています。 けれど、何とかしたく思います。とりあえず急ぎ一報まで、六月六日。久坂義助、
萩の家で留守を守ってくれている文さんへ」

という程の内容であるが、久坂の思いやりが偲ばれる。
明治16年に楫取素彦との再婚に当たって、最初の夫であった久坂玄瑞の手紙を持参しての嫁入りであった意味が垣間見えるようである。


京都の朝廷に対して、前年の8月18日の雪冤を期すべく、藩論が湧きたっていた時の合間を縫って藩政府のある山口から、萩の家にいる妻・文宛に送った手紙である。 この後、久坂は「兵を率いて朝廷に嘆願すべし」と沸騰する藩論を押え切れず、やむなく同調して雪冤のために上京する。これが、文中の「用事が忙しい」という表現になるわけである。 一方、高杉晋作は藩論を押えきれないと判断して、脱藩してしまう。ここが、久坂と高杉の人間性の違いで、吉田松陰から「武士の死すべき所」を教えられていた「差」となるわけである。結局この禁門の変で久坂玄瑞は春秋に富んだ波乱の生涯を鷹司邸で閉じることになった。
蛤御門


高杉は、この時はまだ、対幕府との「乾坤一擲」の勝負の時期に非ずとの情勢判断で、率兵での上京には反対意見であった。そして大先輩で急進的であった「来島又兵衛」等の行動を阻止するために説得せよとの藩命を受けるが、激論の末に説得し切れず、ひとまずは自説の上京反対を脱藩という独特の行動をとって回避し、生き延びるものの藩から謹慎命令を受けてしまう。そうして、最後の勝負に立ち上がるのが、この半年後の元治元年十二月、「功山寺挙兵」となる。
この藩内抗争に勝利して藩論をひっくり返し、「割拠論」に纏め上げて第二次長州征伐での勝利へと導く。 二人の情勢判断と行動の分岐点であった



『続二十一回猛士の説』
【2013/12/16 17:39】 エッセイ
『続二十一回猛士の説』
(丙辰幽室文稿)安政三年(1856)四月十八日 二十七歳
吉田松陰25.11.09


松陰が好んで用いた「ペンネーム」に【二十一回猛士】というのがある。これは、自分の生涯で二十一回の猛々しい行動(國家の為に)を行うと誓ったことを意味するのであるが、松陰の人生は、「志半ば」で刑死してしまう。時に二十九歳と二か月の実人生であった。その結果、十八回の猛の行動は果たせずじまいであった。三回の猛の実践は①過所手形の発行を待たずに東北方面の海防視察に出掛けた「脱藩行為」。②脱藩で家禄召し上げの浪人(長州藩では育(はぐくみ)という)の身分で、藩主への上書を提出したこと。③下田からペリーの軍艦に乗船して密出国を企てたこと。である。
この「二十一回猛士の説」というのは、安政元年に書いている。これは、その続編である。これを書くことで、自分を奮い立たせる意味を込めている。文中「三余読書」、「七生滅賊」も、松陰の実学的発想で実践を秘めて書かれている。どちらも松陰の文稿である。
この国事行為の実践は学問との連動することが松陰の持論であった。
先ず、原文の書下しを記す。後に口語訳を書く。


二十一回猛士の写真


余前に二十一回猛士の説を著し、又三余・七生の説を選す。幽囚の室、半間に膝を容れ、右に「三余読書」の四字を題し、左に「七生滅賊」の四字を題す。
日夜優悠として其の間に坐臥す。族人交々謂ひて曰く、「今試みに三を以て七に乗ずれば、亦二十一を得ずや」と。余躍然(やくぜん)として曰く「善し、吾が心を獲たり」と。
因って其の説を続(つ)いで曰く、「三余読書は七生滅賊の本なり、七生滅賊は三余読書の効なり。其の本なくして其の効ある者は、未だ之れあらざるなり。其の本ありて其の効なき者は、未だ之れあらざるなり。これを天地に立て、これを鬼神に質すとも、吾れの自ら信ずること、かくの如きのみ。嗟乎(ああ)、隨・陸武なく、絳(よう)・灌(かん)文なし、漢高の得て以て四方を守らんと欲する所、亦斯の種の人に非ざるを得んや」と。

写真劉邦



口語訳
私は以前に、「二十一回猛士」の説を書き、また「三余説」と「七生説」をを書いた。私の幽囚の部屋は三畳半なのでその半分に膝が入る程だ。その部屋の右側に「三余読書」の四字題目を書き、左側に「七生滅賊」と書いて貼ってある。
毎日、日がな、心穏やかにゆったりとして坐している。家族の者がお互いに云う事に「三」に「七」を乗ずると「二十一」となる。と云い合っている。
私は躍り上がって、「よく云った、私の心に叶っている」と感嘆した。そしてこの二十一について考えることには、基本となる者がないのに、その効験が現れるためしは、今までなかったことである。このことを天地・鬼神に問いただしたところで、私の信ずる所はこのようにあるのみだ。思うに隨何(ずいか)、陸賈(りくか)のような高士も居なく、絳侯周勃や灌嬰のような学問をしている人もいなく、劉邦のような人物が四方八方から国家を守ろうとしたように、この様な人々でなくてどうして国を守ることが出来ようか。

隨・陸武 =隨何・陸賈の二人。共に劉邦(漢の高祖)に仕え、使者として他国へ行き功を立てた武人。 
絳・灌文 = 絳侯周勃・灌嬰の二人。劉邦に仕え功を立てた学者。



吉田松陰の『七生説』
【2013/12/16 11:35】 エッセイ
『七生説』    
(丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)二十七歳

今日は、吉田松陰の有名な『七生説』を書いてみる。楠正成(南朝の忠臣)の精神が、明からの亡命者である「朱舜水」に、そしてまた自らの内にも伝わり生きているということを実感した松陰は、ここから「精神の不滅」を確信してこの『七生説』を書き、それを「理気の説」で説明している。ここから、楠公等の優れた人々と「理」を一にしていると信じている自分の精神を、七生の後の人達にもこれを受け継ぎ「興起」して欲しいと願っている。それゆえ、「死」に臨んで従容とした態度だったと言われる。
先ず、原文を記す。後段に現代語訳(阿部博人さん訳)を書いて、この少し難しい文稿を考えてみることにする。

松陰正装画像


天の茫々(ぼうぼう)たる、一理ありて存し、父子祖孫の綿々たる、一気ありて属(つづ)く。人の生まるるや、斯の理を資(と)りて以て心と為し、斯の気を(う)けて以て体と為す。体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉ふ者を大人と為し、公を役して私に殉ふ者を小人と為す。故に小人は体滅し気竭くるときは、則ち腐爛潰敗(ふらんかいはい)して復た収むべからず。
君子は心、理と通ず、体滅し気竭(つ)くるとも、而も理は独り古今に亙り天穣を窮め、未だ嘗て暫くも歇(や)まざるなり。
余聞く、贈正三位楠公の死するや、其の弟正季を顧みて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊を滅さん』と。公欣然として曰く、『先づ吾が心を獲たり』」とて耦刺(ぐうし)して死せり」と。
楠正成の図


噫、是れ深く理気の際に見ることあるか。是の時に当り、正行.正朝の諸子は則ち理気並び(つづ)く者なり。新田.菊池の諸族は気離れて理通ずる者なり。是れに由りて之れを言はば、楠公兄弟は徒に七生のみならず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者なければ、則ち楠公の後、復た楠公を生ずるもの、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。
余嘗て東に遊び三たび湊川を経、楠公の墓を拝し、涕涙禁ぜず。

朱舜水


其の碑陰に、明の徴士、朱生の文を勒するを観るに及んで、則ち亦涙を下す。噫、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩あるに非ず、師友交遊の親あるに非ず。自ら其の涙の由る所を知らざるなり。朱生に至りては則ち海外の人、反って楠公を悲しむ。而して吾れ亦生を悲しむ、最も謂れなし。退いて理気の説を得たり。乃ち知る、楠公.朱生及び余不肖、余不肖を資(と)りて以て心と為す。則ち気属かずと雖も、而も心は則ち通ず。是れ涙の禁ぜざる所以なりと。余不肖、聖賢の心を存し忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼすを以て、妄(みだ)りに己が任と為し不忠不孝の人となる、復た面目の世人に見(まみ)ゆるなし。然れども斯の心巳に楠公諸人と、斯の理を同じうす。安ぞ気、体に随って腐爛潰敗するを得んや。必ずや後の人をして亦余を観て興起せしめ、七生に至りて、而る後可と為さんのみ。噫、是れ我れに在り。七生説を作る。

※七生説 = この世に七たび生まれ変わって国恩に報いると云う説。



七生説(現代語訳)

天が遠く広々と在るのは、一つの理によって在り、父子祖孫が綿々と続いているのは、一つの気によって続いているのである。人が生まれるや、この理を受けて心と為し、この気を受けて体と為す。体は私であり、心は公である。私を使役して公に殉ずる者を大人と為し、公を利用して私に殉ずる者を小人と為す。故に小人は体が滅し、気が竭きる時は、腐り敗れ滅び、再び元に戻ることはない。君子はその心が理に通じ、体が滅し気竭くるとも、理はひとり古今に亙り天地間に充塞し、未だかつて片時もその働きが休んだことがない。
私は伝え聞く。楠正成公が死ぬ時、弟の正末李を顧みて云うに「死んで何を為すのか」と。
正季は「願わくは七度人間に生まれ変わって、国賊を滅ぼしたい」と答えた。正成公は大いに喜んで、「私の心を得たものである」と云って、兄弟刺し違えて死んだのである。
ああ、このことは深く理気説に見ることが出来る。この頃の、正行・正朝の諸子は、正成公とその理気が続いていたのである。新田・菊池の諸族は、気は離れていても理は通じている者である。このことによれば、楠公兄弟は唯、七度生まれたというのみならず、始めから未だかつて死んでいないのである。これよりその後、忠孝節義の人で、楠公を見て興起しない者がいないのだから、楠公の死後、また楠公が生まれ続くのは、固より教えることが出来ない。どうして七度のみであろうか。
私はかつて東方に遊歴し三度湊川を経て、楠公の墓に参拝し、涙を流す事を禁じ得なかった。その碑の背面に、明の徴士である朱舜水が記した銘文を見るに及んで、また涙を流した。ああ、私は楠公に対して、骨肉父子の恩があるわけではなく、師友交遊の親しみがあるわけでもでもない。自分ではその涙が流れる理由が解からない。
朱舜水肖像


朱舜水は外国の人であるのに、かえって楠公を悲しんでいる。そして私もまた朱舜水を悲しむのは、最もいわれがない。後に理気の説を得ることが出来た。そこで知ったのは、楠公も朱舜水も私も、皆この理を受けて心と為していたということである。則ち気は続いていなくとも、心は通じているのである。このことが涙を禁じ得ない理由である。
私は聖賢の心を抱いて忠孝の志を立て、国威を示し海外からの賊を滅ぼすことを、自身の任務としてきたが、度々躓き、不忠不孝の人となってしまった。再び世間の人に合わせる面目はない。併しながらこの心は既に楠公諸人と、この理を同じくしている。どうして気と体に従って、腐り敗れ滅んでしまうのであろうか。必ずや後の人をして、私をみて興起せしめて七度生まれ変わって、その後に滅ぶことをよしとするのみである。ああ、この任は私に在る。七生説を作る。


德川慶喜の「大政奉還」
【2013/12/11 15:54】 エッセイ
徳川慶喜『大政奉還』上奏文
慶應三年十月、倒幕(討幕)路線と政権返上(公議政体)路線が鎬を削っているさなか、虚を突くように慶喜は先手を打った。しかし、同時期に出された「倒幕の密勅」によって、慶喜の意図は挫折してしまう。吉田松陰が、安政五年七月に『大義を議す』で「義を正し道を明らかにし、功利を謀らず。これ聖賢の教えたる所以なり。勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり。」として「征夷は天下の賊なり」と討幕を唱えてから、九年が経過しての徳川の末路であった。 その政権返上の文章は下記の通り。(出典:国史大辞典)
大政奉還の図


「臣慶喜謹テ皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ竉眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其奉職スト雖も、政刑当ヲ失フコト不少、今日形勢ニ至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下ノ公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、臣慶喜國家ニ処尽、是ニ不過ト奉存候、乍去猶見込ノ儀モ有之候者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候、以上 詢 十月十四日 慶喜」


『口語訳』

天皇陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて朝廷の権力が衰退して相家(藤原氏)が政権を執り、保元・平治の乱で政権が武家(武門)に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子々孫々がそれを受け継いでところであります。
そして私(慶喜)が其の職を奉じて参りましたが、その政治は当を得ないことが少くなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致す所、慚愧に堪えない次第であります。
ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければ最早国の根本が成り立ちませんので、此の際従来の旧習を改めて、朝廷に政権をお返し奉り、広く天下の公議を尽くしたうえでご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来るものと存じ上げます。 私が国家に貢献出来ることは、これに尽きるところではございませんが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達致しております。以上、本件について謹んで奏上し、お詢り申し上げます。十月十四日 慶喜

徳川慶喜




この「大政奉還」は、土佐藩の坂本龍馬から執政後藤象二郎を通じて、前藩主「山内容堂」から建白され、これを受けた慶喜が苦慮の末、決心して「高家右京太夫・大沢基寿」を参内させてこの「上奏文」を提出したと云われている。

この一か月後、十一月十五日の夜、坂本龍馬(自らの誕生日)は同志の中岡慎太郎と会談中に、刺客に襲われて落命する。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、この慶喜の決断を『よくも断じ賜えるかな!よくも断じ賜えるかな!』と繰り返した、坂本龍馬の感激の場面の描写があったことを、四十年以上経過した今でも覚えている。 


徳川将軍は15名いるが、一人慶喜だけはお墓が「谷中墓地」である。水戸徳川家からの将軍誕生も異色なら、墓地も「神式」と異例ずくめである。芝増上寺か上野寛永寺が普通なのに、考えようによっては仲間外れにされているようにも見える。そして、勝海舟は慶喜の末の子息「精」(くわし)を勝の養子として迎える。慶喜はこの報を聴いて「勝は恨んでいなかったか!」として絶句し、感激の涙を流したようである。
勝海舟は、表舞台でも、裏の舞台でも「德川将軍」に対して『けじめ』をつけた。

「花燃ゆ」の主人公
【2013/12/04 22:36】 エッセイ
【2015度のNHK大河ドラマ】

吉田松陰の妹「文」を主人公とする『花燃ゆ』のタイトルで、再来年の番組が決定、発表された。
『花燃ゆ楫取美和子』


ことしの「山本八重」同様に、主人公としては「知名度」が高くないのが気がかりである。
「松下村塾の双璧」とされた久坂玄瑞は、吉田松陰が期待してやまなかった人物で、師の松陰がわざわざ妹との結婚を希望して妹婿の関係になった人物である。高杉晋作とともに、松陰が将来を託したが、期待通りに縦横に活躍したが、高杉ほどの知名度はない。松陰亡きあとの実質上のリーダーであった。マツノ書店刊行の『久坂玄瑞全集』(福本義亮著)には、久坂の「文」宛ての書簡が収載されている。久坂が「文」との結婚を躊躇った理由が面白い。自らの「男前」に合う「美人」を希望していて、松陰の希望に返事をしなかったという。それを、松陰の友人で村塾の先輩格であった「中谷正亮」が理由を問い糺し、久坂の胸の内を聞いて詰問に及んだ。そして「君は貌の良否で嫁撰びするのか」と説諭た末に、久坂が受け入れて同意したという逸話がある。この背景に、久坂が15歳の時に親兄弟を失って、天涯孤独の境涯であったこと、豊かな才能を開花させてやりたいと願った松陰の思いがあるようだ。松陰の機体に答えた逸材だが、知名度に劣るのが残念である。
久坂玄瑞(小)24.3.25楫取美和子


後年、西郷隆盛が久坂先生と呼んで大変高い評価をしている。また、文久二年、土佐勤王等の盟主「武市瑞山」の名代として、萩を訪問した坂本龍馬を「覚醒させた人物」でもある。このことがなかったら、後年の坂本龍馬は存在しなかったに違いない。久坂は、長州尊攘派のリーダーであった。
地元の山口県では知らぬ人はない程の人物である。マスコミへの露出度が少ないが、直木賞作家の「古川薫」さんが『花冠の志士』の題名で小説を書いている。遺された写真で久坂玄瑞と称されているものを見ると、眉目秀麗で引きしまった凛々しい青年の顔である。同僚の吉田稔麿(松下村塾の四天王と称えられた)が画いた、塾生の「寸評画」によると、「高杉晋作」はあばれ牛、「久坂玄瑞」は廟堂に映える堂々たる人物との印象の絵が画かれている。

画いた本人の吉田稔麿も、師の松陰が愛してやまなかった人物である。
明治になって、伊藤博文が松陰にはそれほど薫陶を受けていないと、回想している。一方の山県有朋は博文よりも、松陰との接点が少なかったのも拘らず、大なる薫陶を受け、「自分が今日あるのは吉田松陰」先生のお陰であると、対照的な反応の逸話がある。実は、伊藤博文は松陰の主宰する松下村塾(第三代)以前の久保五郎左衛門の主宰(第二代)の時、吉田稔麿と机を並べて学んだが、つねに後塵を拝していたという。伊藤博文も優秀であったが、吉田稔麿にだけはどうしても勝てなかったことから、正直に言えなかったのではないかと推測する人がいる。負けん気が高じて明治の顕官となったので、プライドが許さないと云うわけか。

さて、久坂は吉田松陰亡き後、松下村塾の牽引車として、松陰の期待に答えて活躍するが、惜しいかな、禁門の変で戦死(自刃)してしまう。久坂は「文」との間に、子供がなかったので、遺された文は寡婦となったまま明治を迎える。文の姉である「壽」(ひさ)が、嫁いだのが小田村伊之助という儒者だった。
吉田松陰の母


夫は名県令として8年間、群馬で多くの治績をあげて任務を終える。そして東京に戻り「元老院議官」そして「貴族院議員」となる。更には男爵となって名実ともに功労者として、楫取家の名跡を残しつつ大正元年に生涯を閉じる。男爵婦人となると「天のへの挨拶」という、重要な儀式(要務)があり、相応しい着物に苦労したと、笑えない苦労話がある。「文」改め「美和」は、実子こそ残さなかったものの、姉の子息を育て上げ功労貴族としての楫取家を守り抜いて、大正の後期に生涯を閉じることになる。予期せぬ男爵夫人の生涯をNHKがどう描くか?


松下村塾は吉田松陰の生家である「杉家」の物置小屋を改良したもので、十八畳半の狭い「学び舎」であった。萩の松陰神社境内に残る、塾舎を見ると殆どの人がその「粗末さ」に驚くようである。この狭い塾舎で学んだ92名の内から、明治になって5人もの大臣(そのうち総理2人)をはじめ、経済人、裁判官、教育者等々多くの人材を輩出する。この塾で裏支えをした人物こそ「文」なのであった。若いながら「気遣い」のよくできた娘であったことから、村塾生にも可愛がられたようである。最後に男爵夫人として、新日本建設に功績を残した楫取家を守り、報われた生涯と云える。
楫取素彦24.4.24


小田村は、松陰の信頼が厚く、久坂と共に松陰亡き後の松下村塾を託されたほどの人物であった。長州征伐や薩長同盟に、裏方として活躍するが、新政府誕生後は隠棲する。しかし、新政府は毛利敬親の死後に行われた「廃藩置県」後に、小田村(慶應年間に楫取素彦と藩主の要請で改名)は、足柄県(今の小田原から伊豆近辺)に出仕させる。
さらに熊谷県、群馬県(第二次)の県令として重要な地方官として実績をあげるが、明治14年に妻の病死に遭遇する。実は、壽は健康問題から、晩年は静養で東京に住むことになり、この間に現役県令として多忙だった楫取を支えたのが、妹の「文」であった。母の「滝」のすすめにより、後妻として結婚することになる。この時に「文」から「美和」へ改名している。こうした姉妹婚の例は、現在では稀だが、当時は必ずしもそうではなかったようである。

寡黙な父からの「諫め状」
【2013/12/02 23:17】 エッセイ
『父・杉百合之助から松陰へ』の書簡

普段は、松陰の兄梅太郎に全幅の信頼を置いて、自ら筆を執ることのなかった父親。それが、門下生との考え方の齟齬を来して、松陰が「絶食」に入った報に接したため、緊急に書簡をしたためた。短文なので、そのまま記して見ます。

安政6年1月25日付けの書簡で、前日から松陰は絶食に入った。直接命に係わる大事だけに黙視できなかったのだろう。
吉田松陰「海原徹著」


同日付けで「母からの書簡」も書かれている。絶食を思いとどまるよう、祈る両親の思いが綴られていて、読む者をして感涙を誘う文面である。此の時、父百合之助は、病を得ていて、杉家は種々の困難な状況下にあったのである。また、母からの書簡は次回に記します。

なお、絶食の理由は、草莽崛起の実践として「間部詮勝暗殺計画」や「伏見要駕策」とうの一連の決起行動の提唱にたいして、門下生が今はその時期ではないとの考え方を連名で江戸から送付してきた書簡に対して松陰は、受け入れなかったことに端を発する。
『江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り』の有名な書簡「某宛・安政6年正月11日」の書き付けの13日後に絶食にはいったのである。
杉百合之助



愚父事も病気全く平癒、一昨日国府相へ快気届に罷り出で、御手元唐船方其の外御用所内へ回礼相済ませ、昨日は内居休息して、今日は早朝より回礼に罷り出で薄暮比罷り帰り候処、御同囚安富氏より報じ候趣、夕飯後に塾へ申し参り候由にて、小田村・佐世・岡部諸人殊の外愁嘆、種々心配仕り候処へ拙者帰り来り、梅太郎を其の元へ遣はし食事等御勧めいたし、現場見届け候て孰れも安心仕り度く、早速梅太郎呼びに僕を登らせ候へども、行先相分り申さず、只様猶予に相成り候に付き、徳民差越され候間、何卒父母・叔父等の異見御用ひ、母より送り候品御食し祈り申し候。此の度の思ひ立ち甚だ宜しからず、短慮の至り、委細は文之進其の外より存じ寄り申越し候に付き、号泣して之れに御従ひ、猶ほ己れを捨てて同志の人に御従ひ祈る所に候。可祝。
二十五日
百合之助
寅次郎様






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