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「天章堂講座」終了にあたって
【2014/02/14 13:40】 エッセイ
『天章堂講座』終了に当って

15回にわたって学んできました「天章堂講座」は、本日で終了となります。
昨年10月1日以来、5カ月に亙っての長い講座となりました。 演題として取り上げた「ヒーロー達」は実に30名に及びました。とりわけ、幕末維新の時代は、日本の歴史上最大の変革期でありましただけに、こうした時代に生きる人々の、時代とのかかわり方、あるいは時代と格闘した人々の生き方を、一緒に考えてみたいのが私の願いでありました。天保元年から明治半ばまでの激しく揺れ動いた時代に必死に生きた人々。人生の運不運は避けて通ることが出来ません。しかし、この半世紀余りにおける、先人たちの努力を真剣に学ぶことを通して、人間の理解に役立てれば私の願いはかなえられることになります。
弘道館正門


福澤諭吉のような、人生の最後に「誠に愉快な人生であった」と、満面に笑みを湛えて来し方を振り返れる(福翁自伝)人物は、稀有なことであります。
彼は中津藩の下級武士としての貧しい生活・そして身分制から来る辛さは堪え難いものであった。だから『封建の門閥制度は親の仇』とまで激しい言葉を言い放ったのです。その困難な境遇からの脱出を願って必死に勉強したオランダ語が、欧州の大勢からは落伍していた事実に気が付いた、横浜での体験は相当に辛いものがあったに違いありません。この体験を努力で克服した人生は「旗本」としての身分獲得、あるいは幕末で3度の西欧社会を見聞出来る機会に恵まれました。それも束の間にして、肝心の幕府は消滅してしまう運命に翻弄されました。
「慶應四年六月七日」に大坂・「適塾」以来の親友・山口良蔵に宛てた手紙が福澤諭吉全集に収載されております。そこには『徳沢様ご名跡も駿府に定まり候よし・・・・・・徳川家へ御奉公いたし、計らずも今日の形勢に相成り、最早武家奉公も沢山にござ候、この後は双刀を投棄に読書渡世の一小民と相成り候つもり、さようご承知下さるべく候。・・・・・・』と心中が吐露されております。自分の運命を開くべく努力した人生の、将に山あり谷ありの姿です。それでも、晩年には、「愉快なことばかり」と述懐しています。彼の人生は、徳川時代34年、明治時代34年と判で押したような区切りのよい人生でした。そして功成り名を遂げて、その死は民間人でありながら「国会決議で哀悼の意を表され」ました。 そうして、「慶應義塾」という、一大教育機関を後世の我々に遺してくれました。20世紀 の到来を満面の笑みを湛えながら祝福し、文明国家日本の姿を見届けました。
福澤諭吉の晩年24.4.2


私達は、「近代市民社会」と云われる國家に生誕し、そこに生きることで「先人たちの築いてくれた成果を享受」することが出来ます。 それ以前、つまり徳川治世下で生涯を送った方々は、私達のような「自由な生き方」が出来ませんでした。「自己実現」という、自分の生涯を納得出来るものにする努力への願望を抱くことは、社会の構造上から見ても、困難なことでありました。しかし、先人達の努力のお陰で、文明の恩恵に浴し、自由を謳歌する時代となりました。
最近、明治時代を称える風潮があるようですが、その良し悪しは別として、近代の日本人の精神は「吉田松陰」という、類まれな先覚者によって呼び起され、「福澤諭吉」によってその軌跡を辿ることが出来るように思います。そして彼らが願ったのは「日本人の繁栄と幸福」でありました。
主義主張の異なる立場は、多くの有能な人材を失いました。とりわけ、「安政の大獄」や「禁門の変」では、将来の日本を背負って欲しいと念願したくなる人物を失いました。 この様に、歴史には残酷な一面があります。こうした中に、私達は「歴史を学ぶ」ことから、さらに歩みを進めて「歴史に学ぶ」ことが出来ます。ひいては、吉田松陰の名言であります『学は人たる所以を学ぶ為り』(松下村塾記)や『志を立てて以て万事の源と為す』(士規七則)という教えに賛同できる機会が持てます。

松陰正装画像


時代と格闘した先人達の、人生航路を振り返り学ぶことは、今後に続く人生の後輩たちへの遺産なるよう語り継いでゆきたいと念願しています。
彼らの共通の遺産ともいうべき言葉は、『人材登用』と『言路洞開』です。泰平に慣れた社会は活力を失い、治者階級は既得権の保持を願い、被治者またはそれに準ずる人々は、民族の危機に「命がけで」立ち上がりました。明治維新が下からの(下級武士・草莽崛起)改革願望から成し遂げられたことは、当然であります。その意味でも「福澤諭吉と大隈重信」が、「アメリカ独立宣言」を徹底的に学んだことは、大変に意義あるものと云うことが出来ます。

歴史に学ぶ


本日の「伊藤博文と山県有朋」で、幕末から始まった明治維新の集大成となります。明治23年11月、第一回の帝国議会における山県有朋の「施政方針演説」の中に『主権線』と『利益線』という、特殊な言葉が使われております。19世紀後半から20世紀前半は、歴史学では『帝国主義』の時代と云われます。日本における近代国家の『形』が一応の完成を見た時、そこに帝国主義という怪物の予兆が包含されていたことも、世界の時代潮流と現代史を振り返る時、人類と国家の在るべき姿は今日でも完成への『道半ば』の思いが致します。

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「御雇外国人」について
【2014/02/10 10:43】 エッセイ
『御雇外国人』のこと

近代日本の国家形成は、概して「西洋先進国」の「制度、文物、精神、技術、教育、医学、軍事、政治、財政、金融」等々、多岐の分野にわたる取り入れが必要であった。 徳川治世下では、儒学による東洋の学問を基盤として強要(寛政異学の禁)され、後半から蘭学が徐々に拡大して来たが、それはまだほんの一握りの人達への普及であった。「蛮社の獄」に見られるように、洋学(蘭学)は異端視され、排除される状態であった。
ベルツの日記


「オランダ風説書」のような、限られた情報では「西洋事情」のうねりは知るべくもなかった。アヘン戦争情報や、ペリーの来航は、西洋文明の何たるかを垣間見せるとともに、鎖国体制への反省を大きく促すことになった。安政期以降の西洋情報は、「開国と攘夷」をめぐる確執はあったものの、開国による列強への対抗できる国策を建てる以外に選択の余地はなかった。そうしなければ、亡国の道を歩むか、植民地化されるしかなかった。 明治四年の「岩倉遣欧使節団」の実地検分はそれをさらに促進するところとなった。
クラーク博士


吉川弘文館の「国史大辞典」第二巻、九二四頁に「御雇外国人」の項があるのでそれを引用してみる。それによると御雇外国人という呼称は「文明開化期」の新鮮な流行語であったという。「御雇」の「御」は政府による「雇い入れ」を意味する。勿論、民間も政府に倣って積極的に取り入れることとなった。

『政府が雇用した「官雇外国人」は、明治七、八年が最も多数で約五百二十人に及び、その後は漸減し、十三年頃には半数となってその後も減少を続けた。
民間でも政府に倣って、学校や会社に「私雇外国人」を多く採用した。これは明治七年には百二十六名であったのが、二十五年には五百七十二名に達し、「官雇」とは対照的な傾向となった。
明治初半期における近代日本の建設には、特に官雇外国人が、政治・法制・軍事・外交・金融・財政・産業・交通・建築・土木・開拓・科学・教育・美術・音楽などの各分野にわたり活躍し、顕著な歴史的貢献をした。官雇外国人の実総人数は、明治年間を通じて、恐らく三千人前後に達するだろう。
職務別人数では、明治十年代の初めまでは技術者・学術教師・事務家の順になる。それが二十年代以降になると、技術者が低下し、学術教師・事務家・技術者の順になる。 御雇外国人の時代は、三年から十八年までの「殖産興業」の中枢機関として活動した工部省の時代と重なり、ほぼ明治初期から二十年頃迄と云える。
国籍別では、「官雇外国人」の大部分は、当時の対外関係で重要な地位を占めていた英・仏・米・獨の四か国からきた人々であった。最も多数雇用した官庁は文部省と工部省であり、明治政府が近代的学術と技術の移入にいかに熱心であったかがよく解かる。工部省の御雇外国人の実総数は、前期を通じて五百八十名、そのうち英国人技師が四百五十名と、その約八割を占めたことが特徴的である。 政府はお雇い外国人を極めて優遇し、往復旅券や住宅を与え、高額の月給を支給した。当時の最高給である大政大臣の月給八百円を上回って支給される者も数人いたほどである。
ベルツ博士



「先進国に追いつくまでは、すべての犠牲を払わねばならぬ、その為に殖産興業や文化が発達して「国益」が増進すれば、打算として損はない!というのが当時の考え方であった。 「御雇外国人」の歴史的役割は、日本近代化のための助言ないし脇役であった。政策決定の主導権は政府の指導者が堅く保持し、御雇外国人をよく使いこなしたところに、明治日本の成功の秘訣があった。これに、別表が明示されているが、割愛する。(梅渓昇:著)』

なお、手頃に購入できる書籍としては、「日経新書」と「講談社学術文庫」があり、ともに著者は「梅渓昇」氏である。刊行時期の間隔からすると、前者が文庫入りしたのかもしれない。教育思想を巡って、欧化一辺倒への反動として、明治十年代に儒教的立場からの反論が一つの潮流となったのは、教育史を知る者は御存知の通りである。そこで忘れてはならないのは、軍人勅諭や教育勅語との関連である。文教政策としての国民精神運動が、国体として結晶させるために、強制的な側面を持ったことも、近代日本史では重要な出来事だった。歴史の教訓として、軍人の政治への容喙とともに忘れてはなるまい。





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