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「楫取素彦」の「遺書」
【2014/03/18 22:16】 エッセイ
「小田村伊之助」の遺書」

「楫取家文書」(Ⅰ)に掲題の文書が収載されている。妻の「壽」宛て。289頁。
正式な題名は『楫取素彦手記』元治元年十一月である。(この時はまだ楫取ではない)

楫取素彦


先ず、この遺書の書かれた背景と、長州藩内の抗争等の特殊性から記します。
長州藩は、積年の藩財政の赤字を立て直すべく、「村田清風」を改革の責任者に命じる。 田中彰著『幕末の長州』(中公新書)には、次の様に記述されている。
「村田清風は、文政年間すでに藩の財政改革に与かったりしていたが、一揆の余燼なおさめやらぬ天保二年十月二十三日、江戸当役用談役に任ぜられ、表番頭格となった。ときに四十九歳。その五日後には、彼とともに天保改革の主要メンバーである長屋藤兵衛や木原源右衛門もあいついで登用されている。そして、天保三年早々に藩政改革の基本綱領がつくられる。実は、この基本綱領こそが、のちに実行される長州藩天保改革の原案なのである。」(24頁)
そして、藩は、清風が「八万貫目の大敵」と呼んだ経常歳入額の約二十二倍の大借金を抱えていた。天保八年、毛利敬親が襲封。翌年郡奉行香川作兵衛とともに、清風は地江戸仕組掛に任ぜられる。「地江戸仕組掛」とは、改革担当者のことである。この改革はうまくいかず、清風はいったん辞任を申し出る(天保十一年)も、却下される。


そうして、天保十一年五月十日、七月七日に藩政府は会議を開く。村田清風(当役用談役)、坪井九右衛門(当役御用筆)、木原源右衛門(両人役)、中谷市左衛門(当役手元役)、長屋藤兵衛(御用所役)、仁保弥右衛門(同役)、小川善左衛門(同役)福原与左衛門(同役)、などの主要なメンバーが改革への活発な意見開陳を行った。
そして非公開の原則を破って、藩財政が公開され、清風は天保十四年四月に「三十七カ年賦皆済仕法」を発令。これにより、一貫目につき毎年三十目の割で三十七カ年納入することで、藩に対する負債は元利とも皆済される。
実は、これは商人負債への踏み倒しに近い。三十七年間元金を据え置き、その間は年利のみを支払い、最後の年に元金を皆済するという。
清風は天保十五年退陣、替わって坪井九右衛門が担当。早速、三十七カ年皆済仕法は破棄されて、「公内借捌仕法」を導入。ここから、清風の流れを汲む周布政之助(正義派)と坪井の流れを汲む椋梨藤太(俗論派)とが抗争を繰り返すことになる。(防長回天史)。
高杉晋作の挙兵で俗論派を撃破して維新を迎えたという藩内抗争・政争の繰り返しが幕末の長州藩なのである。   
禁門の変や長州征伐での対幕府政策も、こうした抗争が背後にあった。
そして「楫取素彦」は、正義派に属すると目されていた。従って、幕府恭順派(俗論派)による粛正が正義派に向けられたことで、楫取は、野山獄に収監され死を覚悟したのである。因みに、楫取の実兄である松島剛藏や、松陰が教えを乞うた長沼流軍学者の山田亦介もともに野山獄で俗論派のために斬殺された。(野山十一烈士)
長い背景説明となったが、このことを踏まえて、楫取の遺書を読むことが必要である。
以下、楫取文書176の読み下しを記す。

松陰の妹・寿


『申し残し候言の葉』

1、 邪正混雑、善悪入り乱れての時節柄に候えば、我々の身の上は、御裁許振りからして、遠島獄舎、または減知没収となるか、如何樣に立ち行き候やも計り難し。
去り乍ら我々の事は御主意を承り、道理を枉げぬ樣、心掛け候事に候えば、天地神明へ對し愧ずべきとも存ぜず候故、即今の、罪の有無は喋々(ちょうちょう)しく申す分には仕らず。天道は循環にして端無きものに候えば、只今の時勢は左迄に永続致すきにもあらず、我々の冤枉も霽れ候の時節も之無きとも申し難く、かかる困厄を気の毒とは思われ間敷く候。昔年、松陰兄のそこ元達へ申し残され候歌に、かくあらんをば武士の常とも申されしは此の時の事と思い合わさるべし。
此往は我々の心を察し貮人(ふたり)の子供を養育いたし、忠義へ道を訓導して賤しく淺ましきを見習うことを仕らぬ樣心を用いられ候儀頼み入り候事。

1、 むかし、菅原道真は博士の家柄なれども、宇多天皇からの御寵愛を以て三公(左右内大臣)と申して、朝政の御相談相手に成らせられしは、藤原時平など、その上首尾を妬まれて、終に大宰府へ配流の御身と成らせられ候。さりとても、道真の御忠誠は萬々年までも光り輝き天満宮と御崇敬仕り、時平の仕打ちを惡まぬ者はこれ無く、我々が不肖を以て道真に比べ候儀はもったいなき事なり。
御上の御寵愛を受け、御直の御用筋までも承り遂げ奉る其の節義に候はば、道真へ宇多天皇の御信用あらせられしにも似よりし事なれば、外々よりの嫉妬、讒言を沢山に被り候事、本より其の栝(はず)とも申すべきなり。之に依り罪名は、情実に浮き候儀、恠(あや)しき儀とも存じ申さぬ身柄にて斯様穩に落着きを付け候へば家内は本より骨肉眷族に至る迄、上を怨み、法吏を残酷と思い怨み嘆かれまじく候。

1、 此迄は、御役の余沢にて篤太郎、粂次郎とも見の廻りより、腰物類、雪下駄等に到る迄人並みに劣らぬ樣、相仕立てよ。尚、筆墨紙、その外の不足は見せ申さず候へども、家門へ衰薄に向い候より以前へ身慣れを打ち捨て、不自由を忍び、富家の子弟を見習い申さぬよう、厳重に申し聞かせる事が肝要の事に候。身柄は幼年より父上に離れ三人の兄弟母上の養育を以て人となるを得たり。その節のことを思いだし候へば、所帯邊(家計)も甚だ貧乏にして物習いを致すべき風情も之無く、母上、賃引織は禄の余力にて筆墨の買い出しまでも成され候へ。何も我々不自由を忍び、物習いも心掛け候へば、今日に到りとりあえず人並みに劣らぬ樣、成立つことが出來候。以來は此方幼年の事を思い出され母上様の御辛抱を手本と致し、子供等に不自由をこらえさせ、養育あるべし。

1、 身柄(私は)十二歳にして小田村姓を嗣ぎ、爾来艱難流離の身となり廿一歳にして、江戸へ罷登り永詰中、母上様方亡き人と成られ、五ケ年を経て帰国に候へども、我家と定まりし内も之無く、御親族中の厄害と成り、気兼ね、気苦労に打ち過ぎ候處、其元(壽)共當家に嫁せられし時の風情、烹焼きの道具さへ不足にて込(困)り勝ちの事は承知あるべし。その後、互いの辛抱にて、しばらくして一軒を立て、建具、敷物、台所道具迄も、蟻の餌を拾う如くにして集めし事なれば、汗の油とも申すべき也。只今にては一身の存亡すら測り難く、家財の損失を懸念するにも及ばぬ事なれども、一軒を建て居り候へば、日用道具は無くて叶わぬ物故、家財の始末も心懸りあり度き事也。まして、眼前手廻りの調度は、互いに辛抱の種に候へば、ざっと心得申さずて取扱いあるべき事なり。

1、 具足箱に藏置候、古具足、陣羽織等、此れ亦家伝來の物と申す物にも之無く候へども、やはり此方の辛抱溜にて仕調置(ととのえお)き、尚蔵書類も沢山には之無く候へども、四書五経抔(など)其の外、當季(当面)の物に、事は缺け申さぬ様に調置くべく候。
就中、四書幷に詩経などは、以前骨折り候て読み候故、書入れも致し置き候間、格別他人へ見せ、益にも成るまじく候へども、子供へは能々(よくよく)身柄(私の)勤學の有様を、此れにて知らせ度く候。左候はば、子供達が物の合点の参り候迄は、その元にて念を入れ、書物類も紛失致さぬ樣に心遣いあるべきなり。

1、身柄(私は)、大逆不道の罪を犯し候、覺えも御座無く候わば、拝領の品迄御取り揚げ相成るべき儀とも存ぜず候。此れ迄戴き候御品は、皆々御上(殿様)の御垢膩(あか)に染まり候呉服にて、勿体なき物なれば、大切に持ち傳え在り度き事也。又、家に残し置き候御先祖方の筆物幷に名高き人の掛物類も麁末(そまつ)に取扱い有るまじく候。此れも身柄の、物数奇(物好き)にて集め候儀にも之無く、やはり子供中成長の後、手蹟を見るも其の人となりを思い出し候へば、成立の助かりともなるべし。

1、親類、眷族の交わりを始め、隣里、郷党の契り迄、心を用いられ度き事にて、尤も附き合いなど申し候へば、物入りも之有る樣、相考え候へども、格別物を入れ候て、附き合いを致し候にも及ばず。手前の人柄を能くいたし賤敷胡亂(せんしきこらん)の者の仲間に入り申さず、士の楯を崩さず、婦徳を失わぬよう心得有るべし。

元治元年子の霜月
もと太郎
お久どのへ
吉田松陰



<筆者註>
「お久」とは吉田松陰の妹、楫取素彦の妻のことで、二人は嘉永六年(1853)に結婚したのである。 正しい名前は「壽」(ひさ)という。
この妻宛ての遺書が書かれたのは、京都を追われた長州藩が、御所の守衛役を回復すべく嘆願を目論んで、薩摩藩と会津藩の連合軍と闘った(禁門の変:敗北)事に対しての処罰・粛清に小田村が巻き込まれたからである。その時の藩政府は「俗論派」で人事構成されていた。

藩政府の俗論派(幕府恭順の方針)が、これ(出兵・嘆願)を咎めたことから、正義派(久坂や高杉等の方針)を処罰したことに鑑みて、小田村伊之助も正義派の一員として見られて野山獄に収監された。そして粛清(処刑)を受ける覚悟をした時の妻(吉田松陰の妹)と家族(子息)に宛てて書いたものである。
因みに、小田村(後の楫取素彦)の兄は、野山獄で斬殺されている。さらに、松陰が長沼流軍学師範を学ぶにあたって、教えを乞うた「山田亦介」も同じく斬殺されている。

この一連の処罰を受けた人達を、長州藩では「野山十一烈士」と尊称を込めて名付けている。
概して、吉田松陰の流れを汲む人たちは、「正義派」に属していた。小田村は、松陰の妹婿であるから、正義派とみなされていた。
この呼称は『防長回天史』の「尊攘史観」による。

間一髪で釈放された小田村は、幕末の最終段階で、藩主の毛利敬親から信任され、薩長同盟や七卿との応接、長州征伐での幕府との交渉掛の命令を受けて活躍する。慶應年間に小田村から、楫取に改名したのは藩主が小田村の暗殺を恐れたから、命令したといわれる。


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久坂玄瑞から「文」宛ての手紙
【2014/03/04 14:08】 エッセイ
「久坂玄瑞」から「文(妻)」宛て書簡

2015年度の「NHK大河ドラマ」は『花燃ゆ』と題して、吉田松陰の妹が主人公となる。
推測される史料は、①「久坂玄瑞全集」(福本義亮編・マツノ書店刊)、②「久坂玄瑞」(武田勘治著・マツノ書店刊)、③「吉田松陰全集」、④「楫取家文書(一)(二)」(日本書籍協会叢書・東京大學出版会刊)によるものと思われる。




久坂玄瑞


今回は第一弾として、書簡の収載されている久坂玄瑞全集と楫取家文書の異同を確認してみた。全集では6番に(カ)と未確定な編集である。一方文書では13番が二つに分けてカウントされている。これ等については追って確認したい。以後、幾つかの文書解説を利用しながら、書簡の内容に立ち入ってみたい。また、「文」改め「美和」の概略の生涯も記していく。この20通の書簡が、基礎史料となるであろうことは間違いない。
楫取家文書に頁と史料番号が附してある。カッコ内の数字が史料番号。

No 書簡年月日      久坂全集 楫取文書 文書頁・(番号)
1 安政五年冬        ○ ○ 48(24)
2 萬延元年八月二十日  ○ ○ 93(49)
3 萬延元年九月二十四日 ○ ○ 94(50)
4 萬延元年十一月二十五日 ○ ○ 95(51)
5 文久元年二月二十六日 ○ ○ 96(52)
6 文久元年四月三日 ○(カ) ○ 119(67)
7 文久二年五月朔日 ○ ○ 126(72)
8 文久二年五月二十八日 ○ ○ 130(74)
9 文久二年六月二十五日 ○ ○ 134(76)
10 文久二年八月十三日 ○ ○ 141(81)
11 文久二年八月二十八日 ○ ○ 144(83)
12 文久二年閏八月十七日 ○ ○ 149(87)
13 文久二年十月九日 ○ ◎ 154(91)・157(92)
14 文久三年二月二十五日 ○ ○ 204(117)
15 文久三年四月二十五日 ○ ○ 214(122)
16 文久三年六月十三日 ○ ○ 220(128)
17 文久三年八月二十九日 ○ ○ 235(138)
18 元治元年正月十九日 ○ ○ 258(153)
19 元治元年三月二十五日 ○ ○ 263(157)
20 元治元年六月六日 ○ ○ 273(164)
楫取美和子 


上記の表は、「久坂玄瑞全集」と「楫取家文書」の確認ですが、上手く書き表せない。○印が二つ並んでいる場合は、両文書が一致することを意味している。6(全集では(カ)と日付が未確定)と13(全集では1で数え、文書では二通に分割)が両文書の異なりがあることを表示したかったのである。

猶、主人公の「文」さんについて、現時点で活用できる資料をもとにして、簡単な人物紹介の記事を書いておきます。
萩藩「無給通り」の藩士、杉百合之助(父)と、たき(母)の第四女として天保14年に生誕。兄弟姉妹は上から順に「長男・梅太郎」、「次男・寅次郎(松陰)」、「長女・千代」、「次女・壽」、「三女・艶(早世)」、「四女・文」、「三男・敏三郎」の三男四女であった。

また松陰の父・百合之助の兄弟姉妹は三男三女であったが、松陰の伝記では二人の弟しかほとんど書かれない。すぐ下の弟が吉田大助、その下が玉木文之進でこの二人の叔父は必ず書かれる。即ち、叔父の吉田家は「山鹿流軍学師範」の家柄で、家格も「大組士」で杉家よりも高い。玉木家も大組士(八組ともいう)で、百合之助の弟二人は、養嗣子として吉田家・玉木家を継いだのであった。寅次郎(後の松陰)は、次男であるから、他家へ養子に行かなければならなかった。偶々、叔父の吉田大助が子供が無かったことから、吉田家に幼くして養子となったわけである。そして、末弟の玉木文之進が、自宅を開放して「松下村塾」を開いたのが天保13年。翌年に百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」という、藩の役職についたのであった。それまでは、「半士半農」ともいえる生活であった。後年、松陰がすぐ下の妹・千代に宛てた書簡で「ご両親がご苦労されたのを知るのはそもじ迄じゃ。小田村(壽)や久坂(文)などは、此の実際を知るまい」と、書いているのは、藩の役職に就いていなかったことを云っているのである。

四女の「文」は、安政四年12月5日、松下村塾の門下生であった「久坂玄瑞」に嫁ぐ。これは、松陰が玄瑞の将来を期してのことだった。しかし、難局打開のため東奔西走の寧日を送った玄瑞は、「元治元年の禁門の変」で死去。以後、明治16年まで寡婦として毛利家の手伝いや、姉の壽が体調不良のため、群馬県令であった義兄の楫取素彦を助けていた。 明治14年、姉の壽が死去。親族の相談の結果、2年後に「楫取素彦」に嫁した。

楫取素彦


楫取は、二人の松陰の妹と結婚したのであった。明治20年、夫は男爵となり、美和(文の改名)は男爵夫人として人生の後半生を送る。大正元年、夫の素彦が死去。以後、楫取男爵家を守って、大正10年に79歳で死去する生涯であった。 なお、久坂玄瑞死去後から明治16年の再婚までの事歴は、詳細には解っていない。また、「文」から 「美和」へ、改名した時期についても確定していない。楫取家へ嫁ぐ以前であることは間違いない。そうして、「楫取家」は現在も家名は続き、東京に5代目の当主が在住している。これが「花燃ゆ」の主人公、「文」の大まかな生涯である。


妹・千代の「回想の松陰」②
【2014/03/03 14:25】 エッセイ
『家庭の人としての吉田松陰』②

大正二年一月     兒玉芳子

前回に引き続いて、妹の千代の松陰の回想を記します。

○ 生別死別を兼ぬ
それは、萩のずっと端れに松の木が一本御座います。昔は江戸へ行くといふことは、今の外國へ行くよりももっと大層なことに考へまして、家族は水杯をして別れたと申す位で御座いますから、誰れでも此の松の木の所まで参りますと、アアこれがモウ自分の國はづれである、これからは他國の土を踏むのだと思って、ホロリと致すさうで、それで此の松を昔から涙松と称へて居ります。兄も其所までまいりますと、
 かへらじと思ひ定めし旅なれば一しほぬるる涙松かな
と詠んだといふのでも分ります。
これはの後に門弟から聞きましたので御座います。また門弟達にはたとへ松陰の肉體は死んで仕舞ふとも魂魄はこの世に留って、お前達の身に添うて、必ず私の此の精神を貫くと、申し聞かせて居ったと申すことで御座います。

涙松


○ 兄は、安政六年の十月二十七日に、小塚原の露と消えたので御座いまして、年は丁度三十歳で御座いました。これも後に首を斬られたといふ便りを得まして、思ひ合したので御座いますが、十月の二十日に斬罪に處するというふ沙汰が御座いましたさうで、丁度二十六日の晩、卽ち着られる前夜のことで御座います。國では長兄が病氣を致して居りましたので、母が枕邊で看護を致して居りまして、眠るともなく、うつうつと致しましたところ、兄の松陰が、前年長崎から歸って参りましたときのやうな、それはそれは壯健な樣子で、さうして如何にも晴れやかな顔をして、母の前に坐ったそうで御座います。母は喜んで「オゝ」と申したはずみに眼が覺めますと、兄の姿はなく、全く夢であったことが分りました。
自分では不思議ではあるが、ただ夢と思ひますから、翌日の夕方になるまで黙って居ったさうで御座いますが、夕方に皆が寄り合ひましたから、思ひ出して話をすると、父も同じ時刻に床に入って居りましたが、松陰が泰然自若として、少しも取り亂した樣もなく、實に見事にスパリと首を刎ねられた所を夢に見たと申すので御座いました。父母は勿論のこと、皆不思議なこともあるものだと、話し合って居りましたが、その後いよいよ悲しい報せを聞いた時に、兄の日頃の孝心から、別れます時に、母が今一度無事な顔を見せてくれよと申し、必ずお見せ申しますと云ひました其の言葉を果す為に、母にはさうした達者な顔を見せ、父には卑怯の樣もせず斯くして立派に斬られました、と其の様子を見せて、兩親を安心させたものであらうと、打しめって語り合ひました。
 親おもふ心にまさる親ごころ今日のおとづれ何ときくらん
といふ辭世を詠みましたのも、この夜であらうと思はれます。
『杉家本・吉田松陰』


肉親の情としては、兄が幕府の調べのあった時に、尋常な答えだけでおきましたならば、よし罪になるに致しましても、まづ遠島位であらうとは皆様もお考へになって居られたさうで御座いますのに、ああいふ氣質の人ですから、何も彼も怯めず臆すせず、考へて居ることをきっぱり申し立てました為に、終に殺されて仕舞ひました。人間の壽命のことですから、何とも申されは致しませんが、私でさへ斯うして今日も壯健で居られるので御座いますから、兄も殺されたりなど致さなければ、或は今も生きて居たかもしれないなどと、折ふしは考へることも御座います。併しいふべきことを、きっぱり申し立てた處が、松陰の松陰たる處であらうと存じます。

この長姉の千代に回想を願ったのは、千代が八十代の年齢であるが、記憶がせんめいであると同時に、家族だけが知りうる記事となっていて、興味深い記事となっている。松陰の死と両親の同じ時の「夢に出てくる」くだりは、親子の情愛が偲ばれて胸が打たれる思いがする。

次回は、門下生だった「横山幾太」の松陰に関する随筆を二度に分けて書いてみたい。妹の千代の回想と同じく、全集の第十巻に収載されている。身近に接した門下生の直筆だけに、人間吉田松陰を知るには格好の記事である。




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