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「野山十一烈士」のこと
【2014/04/11 22:01】 エッセイ
「野山十一烈士」のこと

ペリー来航以来、それまで勤皇藩を以て自認していた長州藩は、文久三年の八月政変(狡猾な薩摩と朝廷が仕組んだクーデター)で、尊王攘夷派公卿の七人と共に京都からの追放と云う予期せぬ朝譴を蒙ってしまう。「七卿落ち」といわれるのがこれである。長州藩としては納得できない。

翌年、兵を率いて雪冤運動を起そうと、藩論は将に「甲論乙駁」で議論が沸騰点に達していた。結局、進発派の強硬な意見が通って、京都へ嘆願に向う。これを、結果的に「火付け役」の役割を果たしたのは、三条の旅館・池田屋で志士達が会合していたところを、新撰組に急襲されて多くの有能な人物が命を落とした池田屋の変と云われる事件である。

この時、松陰の親友「宮部鼎蔵」以下、門下の吉田利麿、杉山松介等が落命。これで、歯止めがかからなくなり、翌月の七月に禁門の変が勃発。悪いことに、長州藩が御所に向って銃発となり、勤皇藩の否定となってしまい、「朝敵」に拍車がかかってしまう。市街地の大部分が焼き尽くされるという、応仁の乱以来の京都の災難となる。これから「第一次長州征伐」が「反長州の幕府や雄藩」の軍事行動が起され、長州藩は降参と引き換えに「三家老の首」を其の証として差し出すことになる。この提案の責任者は西郷隆盛である。西郷は二度目の島流しから復帰したばかりであった。この三家老の切腹を主題にしたのが、古川薫さんの『野山獄相聞抄』という本に短編で書かれている。
野山獄小


一方、長州藩内では、「正義派」と「俗論派」とが主導権(政権)争いをしており、このときに政権を握っていたのは、俗論派であった。俗論派というのは、「天保の改革」の手法を巡って対立関係を生じた「村田清風」と「坪井九右衛門」の人脈に連なる系譜の、いわば派閥ともいうべきもので、対立抗争を繰り返していた。この頃は「周布政之助」と「椋梨藤太」がその関係にあった。俗論派は一連の藩の行動をとった主だった人物の処罰を断行する。

この時の犠牲になった人物の十一人を「野山十一烈士」という。彼らは、村田清風や吉田松陰の人脈に連なるが、野山獄でこれが行われたのでこのように呼称される。因みに人物を列記して見ると、山田亦介、宍戸左馬介、前田孫右衛門、竹内正兵衛、毛利登人、松島剛藏、中村九郎、佐久間左平、大和弥八郎、渡辺藏太、楢崎弥八郎である。松島剛藏の弟である「小田村四郎」(後の楫取素彦)が、「遺書」を書いたのが元治元年の十一月であった。このことは先に書いたとおりの遺書の内容である。楫取素彦は、処刑を覚悟したがその頃、「高杉晋作」の政権奪回のための「功山寺の挙兵」が起きたことから命拾いをする運命に恵まれ、以後、藩主毛利敬親の信頼を得て側近となり、藩命を帯びて東奔西走となるのであるが、元来が手堅い地味な儒者であったことからその名前は多くの人には知られていない。
吉田松陰結跏趺坐小


私が群馬県の生まれであることから、明治九年に明治政府から派遣されて「初代・群馬県令」となり、多くの群馬県人から慕われ「留任運動」が起きたことは最近になって知ったのであった。ここから少し勉強したが、吉田松陰の妹二人を夫人としたことや、群馬の殖産興業政策推進の側面として私の出身地(黒保根村)の先達が、渡米するに当たり援助したこと、その時に「吉田松陰の形見」としての短刀を夫人が寄贈したことを、知って大変に驚いた次第である。この人を「新井領一郎」という。ニューヨークに渡って、生糸の直輸出を成功させ、同地での著名人の一人となった。さらに子息が松方正義の子息と婚姻したことから遠戚となり、昭和14年の死去までの生涯は、功成り名を遂げた経済人となったのである。

話が脇道に逸れたので、本題に戻そう。野山十一烈士の内、「山田亦介」は、村田清風の甥にあたり、また松陰の師でもあった。松陰に海外情勢の姿を勉強させるように促した、長沼流の師範であった。歴史の悲惨な一面です。残念ながら私の保持する「近世防長人名辞典」には載っていない。「松島剛藏」については、幕末史に詳しい人は御存知であろう。大げさに言えば「長州海軍の祖」ともいうべき人だ。楫取素彦の実兄で、幕末の長州を語る時に欠かせない一人だ。この人物も上掲書に記載がない。「前田孫右衛門」は吉田松陰の良き理解者であった。勿論、それだけでなく藩の「直目付」や用談役、當職手元役、郡奉行などの要職を歴任した人物であった。これも何故か上掲書に記載がない。宍戸左馬介は、詳細がある。名は眞徴、元治元年四月に大坂藩邸の留守居であったが、引率兵を鎮撫しようとも果たせず、竹内正兵衛ともに参戦したが、牧和泉と訣別(考えの相異か)国元に帰り謹慎するも斬刑になる。

長州藩の幕末は、内外ともに苦難の連続であったことがこの一件からも解る。木戸孝允は、志士として活躍するが肝心の時には不在。池田屋の変、禁門の変と続く長州藩の災難の時には何故か不参加。だから、その後の長州で、人材払底の時に出石から帰国する。本来は、帰国の大義がなければ長州に戻れない「背反者」の烙印が押される可能性があった。反面、禁門の変から四境戦争までの、京都情報収集努力と、苦労談は「幾松」との美談を交えた恋物語として語り継がれると同時に「逃げの小五郎」という、有難くないニックネームを冠せられる。時勢を読み取る「勘」と「嗅覚」に優れていたのであろうか。いくつかの桂の伝記や小説でも、著者の本心は木戸に対して愛情麗しくない読後感が殘る印象がだ。生き延びて、「維新の三傑」とまで称えられ、明治新政府の顕官にまで上り詰めた事に対する、屈折した印象があるのであろうか。
毛利家


余分なことまで書いてしまったが、幕末の長州藩は複雑な事情を抱えながら、宿願(吉田松陰の)を果した。そして、運よく生き延びた人々が「薩摩藩」に負けまいとの努力と執念で明治新政府において活躍したのかもしれない。そうかといって、木戸がいなければ「薩摩独裁の政府」となり得た可能性は大である。後世の我々は、「薩長土肥」と簡単に言いがちであるが、内情は何時の時代でもそうだが、権力闘争を勝ち抜いた末に、歴史の表舞台の花形となったのかもしれない。楫取素彦も、将に「命がけの修羅場」を潜り抜けて明治に活躍して男爵の栄誉を勝ち取ったのかも知れない。
この辺が理解出来ると、「歴史の運命」や、残酷さ、人々の運不運等々が織り成す歴史の面白さが見えてくる。しかし、大切なのは、歴史を学ぶだけでなく、歴史に学んで「人間を知る」ことだと思う。


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「久坂玄瑞」から「文」への書簡
【2014/04/06 14:06】 エッセイ
「久坂玄瑞」から「文」への手紙①

安政5年冬(楫取家文書)
一筆まゐらせ候寒さつよく候へどもいよいよおん障なふおん暮めでたくぞんじまゐらせ候まいまい文まゐる此よりは何かいそがしく打絶申候みなみな様御無事遊ばしめて度御事に御座候とふそふそ月に一度は六ケ敷候得ば三月に一度は保福寺墓参はおんまゐらせ候申すも疎御用心専に候皆々様えおんつたへ頼まゐらせ候何も後便申候かしく
尚々きもの此うち飯田の使まゐる慥に受取申候                玄瑞
お文どの

久坂玄瑞


註、玄瑞が逝ける肉身に對する切情見るべきなり ○保福寺=久坂家菩提寺 ○飯田=正伯(か) ○お文=久坂の妻、松陰先生の妹 
○以下妻宛書簡は全部楫取家文書による

これを現代語に書き換えると以下のようになる。

一筆参らせ候。寒さ強く候えども、お体無事にて何より目出度き事です。毎々手紙を書いて差し出したいのだが、此の頃は、何かと忙しくて書けません。皆々様、御無事で暮らすように。父祖(先祖)へのお墓詣りは毎月でなくとも、三ヶ月に一度は、久坂家菩提寺の保福寺への墓参を忘れなきよう頼みます。皆さま(杉一族と、村塾生へも?)宜しくお伝えください。またお便りします。かしく。
なお、着物は最近、飯田正伯(玄瑞より遅れて、安政五年九月江戸へ)さんが持参してくれて確かに受け取りました。
「涙袖帖」写真


(晋遊舎・松陰と妹より)

(久坂玄瑞全集556頁にも収載) 大略、このような文意であり、お互いの思いが通っている樣が読み取れる。
久坂玄瑞は、この少し前であるが、短期間のうち(嘉永6年と翌年の安政元年)に、連続して母・富子、兄・玄機、父・良廸を亡くすという悲運に遭遇している。そのために殊更先祖への供養を心掛けていたと思われ、久坂家の菩提寺へのお墓詣りを新妻にお願いしている。
久坂は、文と結婚して三ヶ月後に、大坂、京都を経て江戸へ旅立っている。この手紙は、結婚して一年経過した頃に書かれたことも、念頭に置くとこの手紙の意味と、書かれた背景がより深く理解できるであろう。。この時、「松下村塾の双璧」と称えられた、高杉・久坂ともに江戸藩邸におり、「安政の大獄」の進行を身近に感じながらの日々であったはずである。この後、「師」の松陰に対し、「草莽崛起」の時期尚早を連名で血判した書簡を松陰に送るのだが、松陰は承知せずに、有名な「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と観望論を非難する。江戸で書かれた高杉達の書簡と、松陰のそれへの非難には一か月の時間的経過がある。だから、松陰は、江戸で起きていることの刻々とした日々の情勢判断がないため、門下生との齟齬を来してしまい、門弟との絶好を叫び、更に絶食するという暴挙で「求死」を試みるのである。松陰全集で「唯一」母・たきの手紙が収載される、劇的な場面である。母、松陰ともに必死の緊迫した日々であったろうと思うと、涙を誘うのである。

実は、ここに悲劇の要因があるのだが、松陰はそれとも知らずに、「草莽崛起」の実践を企て、「間部詮勝」要撃計画を同志とともに実行すべく、萩藩政府に「武器弾薬」の借用を願い出て、逆に「叱責」を蒙り、この後に、2度目の「野山獄収監」となった。しかしこの「藩政府」の判断に対し、理由説明を求めた門下生は、これもまた、処罰を蒙ってしまった。これで実質上、「吉田松陰主宰の松下村塾」は閉鎖となったのである。この時期は、井伊大老の強権発動による「安政の大獄」が進行中で、朝廷をはじめ、三百諸侯を震撼させた、恐怖政治の真っただ中であったことが、「萩藩政府」をしてこのような判断をさせたことも、併せて銘記しておく必要がある。「松下村塾」の「政治結社化」への急傾斜と、現実の齟齬が松陰の人生をさらに悲劇的にしてしまう結果となるのである。





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