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「村田清風伝記編纂」依頼
【2014/05/05 16:39】 エッセイ
村田清風の伝記編纂』依頼

吉田松陰は、安政二年七月に「小田村伊之助宛」の書簡で村田清風の「伝記」編纂を依頼している。村田清風が死去したのが安政二年五月二十六日であるから、死去後間もない頃である。松陰自身は、参政村田翁を挽すという「漢詩」を書いている。明倫館の舎長兼講師見習いの儒者であった小田村に「有志」を募り、その総裁役を依頼しているのである。これは諸般の事情から実現できなかったが、吉田松陰の村田清風に対する敬仰の思いが強かったことを偲ばせてくれる。長文の書簡であるが、記して見る。
村田清風


小田村伊之助宛 七月十四日 松陰在野山獄・小田村在萩

新涼日々人によし、読書の候正に此の時に御座候。益々清勵想像し奉り候。小生頑然舊に仍る、御訪懷下さるべく候。扨て先日は御高作拝見、何卒小生へ下され候分御改録賜はり候様希ひ奉り候。村田翁を哭する詩、雄篇大作甚だ觀るべし。小生これに付き案じ付き候事之れあり。
翁は近代の人物、物故いたし候事實に大慟すべき事なり、但だ傳ふべきは其の行實なり。䔥海生へも傅を立て候様に申し遣はし候間、彼の生は紛冗且つ甚だ精勤も致さぬ趣に候間、能く其の事を成すや否やを知らず。夫れは成るにもせよ、漢文に撰び候へば自ら簡浄に作り立て候ゆゑ事實も漏脱多きは免れぬ勢いに付き、何卒學中有志の士も餘分に之れあるべく候へば、貴兄其の総裁をなし、翁の行實一篇を眞仮名位に出來候はば甚だ妙なるべし、僕眼中の人中谷正亮・小川甚兵衛など幸ひ各々其の父の傅説も之れあるべきに付き、此の両人などへ託し、其の聞く所の確實なるものを輯録せしめば亦良材料も出來申すべく、此の段勘合成さるべく候。
實に翁の行實は翁を傅ふるのみならず、國家更張の美擧も是れに因りて傅はり申すべく、且つ後来、政に當たるものの心得になる事も之れあるべく候間、何卒御心を盡され候様國の為め希ふ所に御座候。扨て幽囚奴輩が色々申し候事も實に以て恐れ多く候へども、國家のの事如何成り行き候や、虜氛漠々、志士高枕の時に非ず。第一志士心を協へ候はでは、迚も事は出來申す間敷く候。嫉妬猜疑の心根を絶滅する事大急切の事、上下貴賤茲に心付き候者幾許ぞや。萬後次に附し候。不乙。
十四日             寅二郎
楫取素彦

尚ほ以て先日阿兄へ託し候河野某の書、誠に御面倒の至りには御座候へども、飯田生などへ篤と御示談下さるべく候。河野の人となり僕深く洞悉す。褊狭小狡の所も多し、但だ其の才用ふべき所あり、且つ義に遷り易き一種の質あり、亦愛すべきのみ。僕敢へて之れを馭すと云はずと雖も、此の人を得て頗る益あり。因って思ふ、天下に才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな。
    文侯大兄  足下 


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「村田清風」への松陰の「挽詩」
【2014/05/05 12:15】 エッセイ
「村田清風」翁の死を哭す

幕末長州藩の大政治家「村田清風」は、藩士達の衆望をになって「天保改革」を行ったが、「三十七年皆済仕法」の実施をめぐって、賛否両論噴出し甲論乙駁となって、坪井九右衛門に主導的地位を譲る。この当時はまだ「藩内対立」とまでは至らなかったが、後に「正義派」と「俗論派」との抗争に発展する。しかし、清風は、指揮を執る立場を降りても、依然として大御所の立場から「睨み」を利かせていて、その存在感は健在だった。
村田清風


村田清風の系譜は「周布政之助」や「松下村塾」の人々で「正義派」、「坪井九右衛門」の系譜は「椋梨藤太」に連なっていく。「野山十一烈士」の人々が粛清されたのもこのためである。幕末の長州藩が維新への主導的立場を築いたのは、この村田清風のお陰である。その清風が、安政二年五月に死去した。
吉田松陰は『前参政村田翁を挽す』と題してその哀しみの胸中を漢詩に託した。

松陰全集第六巻にそれが収載されているので紹介しよう。(読み下し)
吉田松陰結跏趺坐小


前参政村田翁挽す
皇天何の心ぞ我が長防に幸せざる、
吾が君の眷する所、一朝にして忽ち喪亡す。
五朝の老臣薫績多く、
明時に遭遇して輝光あり。
曾て機密に參して衆怒を犯し、
子産、政を聽きて遂に成るあり。
再起、弊を革めて譽益々馳せ、
君實、汴に留まりて衆相慶す。
老を告げて歸隠す澤江の勝、
詩酒風流、日月長し。
吾が君老を養ふ意未だ艾きず、
強ひて衰病を起たして朝堂に升らしむ。
先づ知る、周邦新更に新なるを、
七十、朝に杖つきて殊榮を賜ふ。
今日、訃報を聞いて唯だ錯愕す、
滿窓の風雨、夢茫々たり。

天、一老を遺さず、國、矜式する所なし、人をして涙堕ちて已まざらしむ。
挽詩一篇録して清狂上人に示す。上人は翁を知れる者、其の赴を聞けば又復た如何ぞや。抑々翁の世を捨つる、人誰か悲しまざらん、而して眞に之れを怨むる者其れ幾何ならんや。
乙卯六月                             寅白す


「吉田松陰と村田清風」
【2014/05/04 19:18】 エッセイ
「吉田松陰」と「村田清風」

幕末の「長州藩」を西南雄藩に押し上げたこの二人は、年代的にも時代的にも遥かに村田清風が先輩で、吉田松陰全集にも大先輩の村田清風に敬意を払った書簡や、小田村伊之助に「清風の伝記を依頼」した書簡が収載されている。試みに、松陰の清風宛の書簡を記して見る。
村田清風


嘉永四年三月五日以前(カ)
先日は龍門に登り御教諭縷々之れを承り、本懐に存じ奉り候。扨て又尊語一葉御恵投仰せ付けられ欣領且つ服膺仕り候。芳翰中、「時や失ふべからず」の一語、頂門の一針と厚く忝く存じ奉り候。發程前塵事紛冗仕り拝謝迄、草略し奉り候。尚後音を期し奉り候。情事多緒、禿毫の能く盡す所に御座なく、御炳亮萬祈り奉り候。  矩方再拝。
尚々申上ぐるも疎かの御儀に存じ奉り候へども、道の為め御保重祈り奉り候。  以上
村田松齋先生帳下

この書簡の文意を現代語訳してみると、「先日は先生邸訪問時、こまごまと教えを賜り、本望で御座いました。砲術の教えの印章を頂き、謹んで拝受、座右の銘としたく存じます。御手紙に在りました『時や失うべからず』の言葉、頂門の一針と深謝いたします。江戸への出発前の諸事の御示唆に感謝申し上げます。略述の御手紙ですが、江戸に参りましたら御手紙を書きたく存じます。色々と書き尽くせませんが、ご賢察下さい。道(藩政治)のため、お体大切に願います」。

と言った程の文意である。嘉永四年の江戸修業への出発前に、村田清風邸を訪問し、兵学(砲術)を始めとした、世上の事や世界情勢等々万般にわたる助言を頂いたお礼の手紙である。この時、清風は天保改革の指揮を坪井久右衛門に譲っていたが、なお藩政への御意見番として重鎮のままであった。松陰の将来を嘱望していたことからの、後事を託すような示唆に富んだ教えを伝授したものと解される。
また全集第十巻の「関係人物略伝」にも次のように記されている。『清風は長藩近代の大政治家にして、改革の領袖として後進崇敬の的たり。松陰も青年時代に清風に見えたこともあり、深くその人物に敬服す。清風亦松陰に嘱望し鼓舞激励したり。安政二年五月二十六日歿す。享年七十三。』とある。
青年、吉田松陰が敬慕しつつ、期待に応えようとしている書簡である。因みに、松陰が下田蹈海に失敗した時も清風は理解ある態度であった。二人だけが心の中で会話できる、大先輩と若者の暖かい関係であった。
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