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『水戸学と吉田松陰』
【2014/09/15 18:31】 エッセイ
『吉田松陰と水戸学』

ここでいう「水戸学」とは、通称「後期水戸学」と言われるもので、水戸光圀による『大日本史』編纂がはじまった当時のいわゆる「前期水戸学」ではない。後期水戸学は、藤田幽谷(藤田東湖の父)により、再度活発化した一連の学者群の共通した思想基盤をもつ。天保年間に隆盛であったことから、「天保学」とも「水府の学」とも呼ばれる。それは日本の成り立ちから始まり、「神国日本」を鼓吹している。徳川家でありながら「尊王敬幕」を骨子とする所に特徴がある。いわゆる幕末の尊王思想の魁をなしたことに、意義がある。
水戸学


吉田松陰が会澤正志斎の『新論』に接したのが嘉永三年の「鎮西遊学」で、平戸の葉山佐内から書籍を借りて読んだのが松陰と水戸学の最初の出会いである。しかし、まだ水戸の徳川家は新論を発禁としてあったから、アングラで流布していた状態で読む機会があったのである。しかし、精読でなく、本格的に読むのは後の事である。「抄録」をどれほどの思いを込めてしたかは定かでない。むしろ、この鎮西旅行では「陽明学」との出会いの方が松陰に影響を与えたと思われる。『伝習録』との出会いである。葉山佐内が陽明学者といってもよい人物であった。

この鎮西旅行の翌年、松陰は「江戸留学」を果す。相当の期待を込めての遊学であったが、江戸の学者の実際に失望してしまう。多忙な中、名士や高名な学者との出会いと、勉強熱心な松陰の姿が書簡に遺されている。その中で、友人から「御藩の人は日本の成り立ちに暗い」と指摘されたことがあって、赤面ものであったが忙しくて勉強出来なかった。
蒼龍軒に集まる各藩の若者との出会い、語らいが松陰にとって楽しみの一つになった。
松陰の生涯の友となった肥後の宮部鼎蔵とも、ここで再会を果たしている。薩摩の青年からの情報で「津軽海峡」をロシア船が頻繁に通行し、時に竜飛崎近辺に上陸して狼藉を働いているとの話を聞く。兵学者であった松陰と、宮部は北辺の海防視察をすべく東北遊学となり、松陰は藩邸に願いを出し許可を取った。しかし、過所という他国通行手形が藩主の帰国で発行されない。武士の一諾を優先したため、稽古切手のまま江戸藩邸を出奔してしまう。ここから松陰の人生が変わる。


この東北遊学はこうした事情により、いわゆる表街道が歩けず、追手を懸念し松戸では、街道から外れた寺に宿泊。筑波山、笠間経由で水戸城下に入る。齋藤弥九郎の紹介状で永井政助宅に宿泊し、およそ一か月間世話になる。ここでは藤田東湖に逢いたかったのであったが、禁固中であったため他国人と逢うことが出来なかったので、やむなく会澤正志斎を訪問。当時71歳の翁は、松陰を歓待してくれ日本の成り立ちを始め、後期水戸学の考えを滔々と説明してもらい、念願を果たすことになる。

討論中、碩学とはいえども松陰の意見に耳を傾け、録すべきものあれば録す姿に松陰は感じ入ってしまう。学問を切り売りして生計を立てている江戸の学者に不満だった松陰には、謙虚な会澤の姿に感動するのである。一か月間に六回も会澤を訪問するが、毎回熱心に応じてくれた。しかも、夜はお酒も出してくれるという歓待ぶりの松陰は感激して「水府の人の親切ぶり」をその日記に記している。
吉田松陰結跏趺坐小


光圀が晩年をすごした西山荘を訪問したり、常陸一ノ宮も鹿島神宮、銚子までも小旅行を試みるなど、松陰にとって水戸の滞在は意義深いものとなった。
半年にわたる大旅行を終えて、江戸にもどってみると待っていたのは、過所なしでの出奔の裁きであった。帰国命令が下り萩に戻される。そこで「待罪」の身となった。
しかし、松陰は水戸で学んだことを深める為、猛然と古代史に取り組む。この様子が「睡餘事録」という文稿にかかれているが、猛烈に勉強した。古事記、日本書紀から始まって、日本古代の「官選史」を片っ端から読み漁るのである。「身皇国に生れて皇国の皇国たる所以を知らずんば、何を以てか天地に立たん」との自覚で砂漠の一滴の様に、日本の成り立ちを吸収しようとの読書の日々であった。

松陰と言えば尊王である。思うにこれらの古代史に描かれる天皇の姿に、「華夷の瓣」に磨きがかかったものと思われる。幼時、父親の百合之助から聞かされた『文政十年の詔』や『神国令』と相俟って松陰の尊王思想は、胸中に膨らんだものであろうことは容易に察しが付く。安政五年の無断勅許の条約締結までは、尊王敬幕に近い考え方を持っていたが、反面、「神の国」としての誇りを打ち砕いたペリーの砲艦外交の在り方、そして唯々諾々となすがままに要求を受け入れる幕府の態度。さらに打続いた泰平の世に堕落した士風と、松陰にとっては受け入れがたい姿を見聞しなければならなかった。
松陰と水戸学との接触は、後の松下村塾に於ても教材として活用され、長州藩の尊王攘夷思想へと連なっていく。元来、『新論』そのものが、文政年間に英国人の常陸の国上陸を契機として、海防意識の下に執筆された経緯があり、安政年間に至って発禁が解けた事もあり、村塾の教材のみならず、幕末志士のバイブルてき存在として多くの人物に影響を与えた書物であった。『常陸帯』や『弘道館述記』等は松陰とその門下に読まれ、尊王思想の典拠ともなった。実は、こうして萩という狭い世界からの脱皮を促したのは、村田清風であった。その意味で、村田清風との接触機会は少なかったが、松陰を見込んで助言した村田清風は流石と言うべきであろう。その村田清風は、若かりし頃江戸で松平定信から藩政の要諦を伝授されていたことも見逃されてはならない。


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