長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

「上杉鷹山」の参謀「藁科松伯」の書
【2014/10/08 16:15】 エッセイ
「鷹山公世紀」巻之一
上杉鷹山


(明和五年)十二月十二日、侍医藁科滞貞祐書を小川源左衛門尚興に與う、尚興は當時の威仁にして學を好む貞祐及び竹股當綱等少年の時、皆之に師事す故を以て親善なり。尚興大臣宿将等の大倹を喜ばず、国政を非難し併せて公の御一身を批議するを憂い書を裁して貞祐に與え其の注意を促せしかば、貞祐復書して曰く、無用の事ながら御答え申上げ候、如仰難き物は治国の道、昔より同じためしに候。堯舜の聖代とても其の代其の時の人々萬か萬千か千まで足りし事には御座有る間敷く候。されど、後の世に比べて見れば黒白の違いに難有ることのみに候間、今の世迄も堯舜の御時は聖代と申す事に候。堯舜の聖智にても一人仕事には鹽梅の出来ぬ事ゆえ、百官諸職を設け甘き酢に鹽に取り合いて鹽梅の出来申す事に候。いかに小国なればとて國は國に相異御座無く候。それをいかに御聖智に入らせられ候とて、血気未定十九二十の御歳にていかで國中へ御仁徳の姥も嬶も嬉しかり候様に行き届き申す哉され共近代の有様は打續候ゆえ、誰が奢を勤むるとなしに秋津洲一統に奢り立ち候て、誰も彼も奢りの腹に生れ出、奢りの内に育ち候えば貧乏するは何故との合點無く、只目出度し難有しと囃立ち候程に、世界には愁というものが有るかとも難儀という事が有るかとも知らぬ衆達人情というものを露合點の行かぬ風流人の旦那ぶりて座しては褥に坐し行くには馬駕籠にゆすられて行き給うて暑いも寒いも放題なしか一國の人君と仰がれ給うゆえ主様の仕事は茶の湯俳諧碁雙六三味線浄瑠璃歌舞伎能謡い偶々書物好きという君も楽がなくて惡いの惜しいのと御意あるやら勤むるやらヒチリキや笙や音楽に囃し立て、此頃は楊弓も射厭き給うて禮記の投壺か傅わらぬか惜しいとて投壺の製作ありて酒飲共の拳の代わりに用いられ候内四座の猿楽共を師匠とて尊敬あるか足らずして瀬川露香や市川三升を先生同然の御取扱いに御親しみ成され候も珍しからぬ大名衆の有様に御座候所に生れ落ち給うて去年九月十七日迄は木綿という物は肌へも着て夢にも御覧遊ばされぬ荒き地合の木綿襦袢上から下まで今日か今日まで召しおわしまし候仁徳は當時目のあたり見れば格別にも存知ぬ様に御座候得共是を草紙の端にても書て置て百年も後から評判仕候て世上の道楽衆から見れは雪と墨の違ひにては御座候哉此仁徳の國中へ行渡り候様に育て壙け申は鹽梅上手の諸太夫諸職人の御手際次第にも可有御座候哉爾し當時の勢ひは最早太平打續四海静過ぎて上下共に奢りの病根ゆへ次第に病症顯はれ申候て誰も彼も氣むつかしく御座候間腹立氣持の人情に成候ゆへ少しも常に變り候事か御座候へは人の心動き立候てふうふう仕様に御座候況や少しも年貢取立百姓あたりの辛き事か常に變り候仕形かあれは年々に打續候てそこもこヽも一揆徒黨の沙汰にて日光か濟まは山縣大貮か出現大坂か騒けは佐渡ゆヽ伊勢路ももめれは越路もかしましく斯様に百姓の心騒かしく成行き候も畢竟は一度は治り一度は亂れ候天道の事に御座候へはそろりそろりと天下のゆるヽ兆しも可有御座候哉實に國を持給ふ主様方の御用心時に御座候されは一統斯様に御座候へは政事のはきはきと無御座善き様にてもとこかとこやら面白からぬ様御座候ても米澤計りにては無御座事にて畢竟一代の気運に懸り申す事かと存じ候。
なせば成る
岩波文庫の『代表的日本人』にあげられ、米国大統領だった「ケネディ」さんが尊敬する日本人として、『上杉鷹山』をあげたことは、多くの日本人の方々の知る所である。その有力な「藩政改革」のブレーンであった藁科松伯の有名な分を書きとって掲載しました。残念ながら若くして死去してしまったが、長生きして鷹山の名声が将軍家斉の知る所となり、特別な「褒詞」を賜った姿を見て欲しかった。竹俣当綱、莅戸善政とともに「藩政改革」に取り組み、崩壊寸前の上杉家を立て直した。小大名の次男から、名門の外様大名家に養子に入るにあたって、高鍋藩の老臣からの訓戒書を生涯身に着けていて守り通した。そうして、養父の先代が在世中に隠居した時に世子に与えた「伝国の辞」とともに、「なせばなる・・・・・・」の名言を残し、江戸期を通じて「名君中の名君」となった。戦国の上杉謙信以来の家柄を守り抜いた、正しく「代表的日本人」の一人となったのである。恩師を含めた出身大学の奨学金創設活動の仲間と、米沢へ行ったがその時色紙を購入したが、どこに蔵したか失念で目下行方不明。残念。
ケネディ大統領


この「鷹山公世紀」は明治39年の刊行ですから、相当に古くに発売になっている。当時は、日露戦争に勝利して、日本の近代化が成功したとの思いを、国民の誰もが抱いたに違いない。しかし、このあたりから、日本が少しづつ国の舵取りがおかしくなってくる。「帝国国防方針」が、山県有朋の指示で、田中義一大佐に起草させた頃である。陸軍省が、陸軍大臣を「天皇直属」の論理で、辞めさせるという横行が出始める。上杉鷹山の「伝国の辞」の精神を知らない、山県有朋系の軍人たち。昭和の初めに「」上杉鷹山は修身教科書に登場してくる。「国家を私すること」を強く戒めた、この訓戒は米国大統領だった「ケネディ」さんをして、尊敬する日本人とさせた。ケネディ大統領の、就任演説はこの鷹山の傅国の辞がヒントになっていることは間違いない。

江戸中期の藩政改革をなしとげ、「漆の実の実る国」に改造した、小藩からの養子の藩主。多くの日本人は、この鷹山を祖先に持てた事を誇りとしなければなるまいと思うのである。同じ、福島県安積高校出身の大学者にして歴史研究者の「朝河貫一博士」が『日本の禍機』という警告の書を書いて、日本の行動を世界認識不足としたことを知って居る人は少なくなってしまった。我々は、上杉鷹山と朝河貫一先生のことを、もう一度勉強する必要があると強く思う。「一度はみだれ候、天道の事に御座候えば、そろりそろりと、天下のゆるる兆しも有るべく御座候」と米沢藩の儒者「藁科松伯」の、慧眼ゆえの名言である。この時代に、徳川の行末を洞察して居た人物がいたことは、驚くべき事である。文字色

スポンサーサイト
廣瀬豊著『吉田松陰の研究』
【2014/10/01 12:49】 エッセイ
『吉田松陰の研究』

戦前の「吉田松陰研究者」に廣瀬豊さんがいる。この方は、福島県出身の「退役・海軍大佐」である。昭和11年の『定本版・吉田松陰全集』の編集委員を務めた方であるから、当時に於て著名な吉田松陰研究家であったことが解かる。
140928吉田松陰の研究廣瀬豊


定本版吉田松陰全集の編集委員は、当時の日本の第一級の吉田松陰研究者の方々であった。参考までに名前を記して見ると
「監輯」徳富猪一郎、渡邊世祐 「編集委員」安藤紀一、廣瀬豊、玖村敏雄の五名である。(定本版吉田松陰全集12頁記載)そうして、吉田松陰全集編纂發行の希望が「山口県教育會」の議に上ったのが「昭和六年九月五日」に開かれた幹事會の席上であった。(全集第十巻・編纂發行の経過大要三頁)

これが最初に発行されたが第二巻で、昭和九年十月八日である。完結が第十巻で昭和十一年四月二十一日である。発議から五年の歳月を要したことになる。壮大な編纂計画であったことが容易に察せられる。昭和九年十月三十日には宮内大臣の許可を得て全集を、「天皇陛下」、「皇后陛下」、「皇太后陛下」に献上を許されたと書かれているから、完結の暁には献上されたのである。一市井人の「個人全集」が皇室に献上されるということは、異例中の異例であろう。

こうして、安藤、廣瀬、玖村の三氏の精力的な編集活動が始まったわけである。全国各地に散在している「松陰関連資料の蔵者」を尋ね、閲覧、書写、聞き取り、等々の難事を重ねて成った「定本版吉田松陰全集」である。

此のことについては前記の「全集編纂経過大要」(山口県教育會主事・齋藤彦一氏記)と廣瀬豊氏の『吉田松陰の研究』(東京武蔵野書院)の第四編・【史料採訪】(624頁)に詳しい。そこには、毛利公爵家(東京府芝区高輪)から始まって、原宿の吉田茂子(吉田家直系)、荒川区日暮里の楫取三郎(楫取男爵家)、毛利藩家老だった益田兼施(荏原区中延)、一族、親戚、門下生関連、友人、知人等々を歴訪して「史料探索」を行ったことが、訪問した個人名を明記してある。この二つを読むことで、編集の難行苦行が大体解かるのである。

さて、この記事で最も書きたかったことを記す。それは『吉田松陰の研究』の621頁に「松陰の崇拝者」の項がある。そこには、次のように書かれている。
吉田松陰


『松陰の崇拝者は世に澤山あるであらう事は想像に難くない。先づ東京及び萩の松陰神社に参拝する人は一年に十萬とは下るまい。而してこの傾向は益々盛大になって行くやうである。然しここに掲ぐるものはそれとは又別の統計である。
一、 少壮教育家の崇拝人物調査 
昭和八年三月全國師範卒業生一萬四千名に紙票を配布し、一萬餘の回答によったものである。
主なる崇拝人物順位 
男子部 (1)吉田松陰。(2)西郷隆盛。(3)ペスタロッチ。(4)乃木将軍。(5)楠正成。(6)ナポレオン。(7)リンカーン。(8)二宮尊徳。(9)中江藤樹。(10)教師。(11)豊臣秀吉。(12)日蓮。(13)孔子。(14)荒木陸相。(15)濱口雄幸。(16)東郷元帥。(17 キリスト)・・・・・・以下略す。
女子部 (1)ペスタロッチ。(2)吉田松陰。(3)乃木大将。(4)西郷隆盛。(5)乃木夫人。(7)九條武子。(8)楠正成。(9)孔子。(10)校長。(11)キリスト。(12)親鸞。(13)税所敦子。(14)松岡洋右。(15)菅公。(16)釈迦。(17)ベートーベン。・・・・・・(23)二宮尊徳』
  
これで見ると、男子部に於いては松陰の人望はたいしたものである。女子部に於いては第二位にあるは「教育の神吉田松陰」をまだよく知らぬ人があるからかもしれん。それにしても斯くの如き教育者の幼き國民に與へる影響は蓋し大きなものがあるであらうと思ふ。
尚ほこの調べは支那事變勃發以前であるから、その後日本精神の高揚を叫ばるる現代に於いては 更にこの調査に就いて地方別にして見れば次の如くである。(1)中國314、(2)關東306、(3)九州299、(4)中部249、(5)北陸172、(7)四國157、(8)東北111、(9)北海道27、(10)臺灣18、  

この傾向は東京は國人の集まりであるから別として、地方的に考ふれば西南に多く、東北に少ないと云ひ得る。これは如何なることを示すか。よく考へて見ねばなるまい。





サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR