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『花燃ゆ』のドラマ概略
【2014/11/23 14:54】 エッセイ
『花燃ゆ』

2015年度、NHKの看板番組の一つである、日曜夜8時からの長寿番組の大河ドラマは、吉田松陰の妹「文」を主人公とするドラマに決定し、全国の吉田松陰ファンはもとより、山口県民はこぞって、長年の悲願が実現することになった。この記事を書いている現在も、録画収録は順調に進捗しているとのことである。2014年8月、講演で茨城を訪問した時には、既に「常陸太田」でその撮影の一部が行われたとの情報を地元の方から聞いた。
花燃ゆ


吉田松陰は「明治維新の先覚者」として、短い生涯ながら主人公として大河ドラマに取り上げられる請願が長く続いていたが、彼のストイックな生き方、謹直そのものの人生が「ドラマ化」に適さないという理由で実現されなかったいきさつがある。反面33年の生涯だった土佐の坂本龍馬は過去に二度取り上げられている。吉田松陰に比べ坂本龍馬の方が、大衆受けする個性的な波乱の生涯を送ったことも起因するようである。楽しませてくれるという側面では、龍馬の方が断然面白くみられるというキャラクターの違いなのであろう。

さて、本題に戻ろう。主人公の誕生時の名前は「杉文」(すぎふみ)である。杉家に生誕したから姓は当然「杉」である。実は吉田松陰は杉家に生誕したが、5歳の時に叔父の吉田大助の養子になっているので姓が異なったが、正真正銘の血を分けた兄妹である。父は杉百合之助といい、母は「たき」という。男性3人、女性4人(一人は夭折)の7人兄弟の6番目に生誕している。
「文」と言う名は、叔父(百合之助の弟)の玉木文之進の「文」から一字を継承して命名されたといわれる。この玉木叔父は、吉田松陰の修業時代の、いわば「鬼軍曹」的な厳しい教師として知られる人物である。現代風にいえば「スパルタ教師」に相当する。後年、松陰が回想的に語った「玉木叔父ほど、怖い人はいなかった」と述懐していることからその一端が窺われる。異常ともいえる、あまりにも厳しい体罰は日常茶飯事で、見かねた母親が「寅(松陰のこと)は逃げればよいのに!」と、思わず漏らしたエピソードが残されている。恐らく松陰の人間形成に影響を与えたという点では、両親に比して劣らない教育を施したと云っても過言ではないだろう。反面、大変な人情家で後年「名代官」として名高い一面もあった人物で、「松下村塾」を開いたことでも知られる。


安政元年3月、吉田松陰が「下田密航」に失敗して、「地元蟄居」という幕府の裁決を受けて生誕地である萩に送還されたが、萩藩は徳川への配慮から、蟄居どころか「野山獄」という藩獄に収監してしまった。生家の杉家では、借牢願いを無理やり書かされた結果でのことであった。ここに在獄すること14か月、安政2年の末に免獄となって生家での幽囚となったのであった。在獄中に異常なほどの読書、著述と思索を重ね、更に収監中の仲間達に勉強会を呼びかけて実現したのが、獄中教育といわれる囚人仲間の「人としての再生」の機縁を願った松陰の破天荒な試みであった。この事が、免獄後の杉家での勉強会へと連なって行き、更に「松下村塾」として吉田松陰を歴史上の人物に押し上げることになる。生家での勉強会が行われているとの情報は、近隣に伝わって「松陰先生」に教えを乞う青少年が次々と現れてくることになる。

安政3年秋、吉田松陰は親戚の久保五郎左衛門(当時の松下村塾の主宰者)の求めに応じて『松下村塾記』を書く。それは、一種の建学宣言でもあった。ここで有名な「学は人たる所以を学ぶ為り」と学問の目的を宣言し、学問することによって「奇傑非常の人物の育成」を挙げている。姉二人は、それぞれ既に嫁いでおり末の妹である「文」だけが未婚で、家事の手伝いをしていたことから、塾生の世話役的な立場で蔭から、兄の主宰する松下村塾の教育活動を援助する。松下村塾の双璧として名高い久坂玄瑞が、九州遊学で肥後の宮部鼎蔵から松陰の下で学ぶことを進められた。萩に帰ってすぐに、久坂は松陰に充てて手紙を書く。ペリー来航以来の時局に危機感を持っていた久坂は、米国の高圧的な態度に憤慨しており、日米和親条約に基づいて貿易の条約締結を目指して下田に来日したハリスを殺害すべきであるとの持論を書き綴った。これは、鎌倉時代の北条時宗が元の使者を殺害した故事に倣うというものであった。然し、手紙を受け取った松陰は断然、久坂の主張を否定する。久坂がこの松陰宛の手紙を持参した時、受け取ったのが後に文との結婚の機縁の一つとなる。

松陰は久坂の主張を否定しながらも、この人物がただ者でないと見抜くと同時に、将来の大成を願っていた。久坂との三度の往復交信で、久坂は白旗を上げるのであるが翌年松下村塾に入塾する。松陰の期待に違わぬ才を発揮して、村塾を盛り上げる立役者へとなる。遅れて入塾する高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称される、一方で松陰は妹の文を久坂へ嫁することを望むようになる。松陰の胸中を察知した友人の中谷正亮が中に入って久坂を説得する。此の時、久坂が渋って、決断がつかぬ原因を吐露したことから、美丈夫の久坂が必ずしも美人と思っていなかった文との結婚を願う松陰の立場を思いやって、助け船を出す。「君は顔で結婚するのか」と久坂を詰り、窮した久坂は承諾する。此の時、安政4年12月5日である。以後、久坂は杉家に同居することになり、夫婦で村塾の切り盛りを行う事となる。両親や縁者のいない久坂の境遇改善も、松陰の願いであっただろう。

結婚の翌年、幕府の大老井伊直弼は就任早々、懸案であった将軍継嗣問題と日米修好通商条約を裁く。条約は以前に堀田正睦が孝明天皇の勅許を求めて上京し、拒否された経緯があっただけに、調印して事後報告の形式を踏んだことから、大きな政治問題に発展し反対派から批判を浴びる。然し怯まずに強権発動をした井伊直弼は、反対派の弾圧に乗り出して「安政の大獄」を引き起こす。政敵であった前水戸藩主の徳川斉昭の策謀で、京都の朝廷が反対運動に奔走した結果であると思った井伊直弼は、老中の間部詮勝や、京都所司代、長野義言らを指揮して探索網を張る。「戊午の密勅」と言われる、孝明天皇の不満を勅諚として水戸に幕府より先に届けさせたことから、尊王攘夷を主張する一連の公家とその家臣、志士達の探索の結果、梁川星巌を通じて吉田松陰が探索網に浮上することになり、幾つかの上書を著述して反対の論陣を張っていた松陰に幕府は召喚命令を出す。松陰は、自宅での幽囚をかこちながら、三代目の松下村塾主宰者として、多くの若者を育成指導していた。しかし、梅田雲濱や梁川星巌の京都の尊皇攘夷派と接点があったことから、探索網の走査線上に上がってしまったのである。久坂と文が結婚して半年後、井伊直弼の独断で行われた二つの政治課題の解決策が政治問題として大きな反対派との敵対関係となった。萩で幽囚の身ながら、尊王攘夷を主張していた松陰は井伊の判断と行動に激怒して、腹心の間部を殺害すべく計画を打ち明けて藩政府に武器弾薬の調達を願い出た。驚いた政府は松陰を二度目の藩獄に収監してしまい、反対運動の封印を謀る。安政の大獄が進行中の安政6年4月幕府は松陰を召喚、7月以降数度の取り調べの結果、自白した松陰の老中暗殺計画が決定的判断となり、安政6年10月27日に、政治犯として処刑される。

松陰亡き後の松下村塾グループを率いたのが久坂玄瑞であり、松陰の信頼が厚かった小田村伊之助である。共に松陰の妹婿である。松陰の江戸召喚の時、有名な自賛肖像画を書かせて今日私達が見ることが出来るのも、この二人のお陰である。しかし、小田村は次第に藩主の信頼を得て側近としての道を歩むことになる。文久3年8月のクーデターで京都を追われた長州藩と尊攘派は、翌年挽回を期して、京都に兵を率いての嘆願行動が引き起こした禁門の変は二人に過酷な運命を強いる。久坂は京都鷹司邸で自刃、結婚して7年であった。一方の小田村は、政権を握った藩内の反対派から投獄され、妻の壽(ひさ、文の姉)宛に遺書を書いた。処刑寸前で高杉晋作の挙兵により藩内の抗争に勝利した革新派として一命を取り留めた小田村は、以後藩主の側近として、他藩との外交役を仰せつかる。慶應年間の活躍は「薩長連合」の端緒を開き、倒幕派の結集を計り再度の長州征伐(長州では四境戦争)の勝利へと導き、華やかな活躍の高杉と歩調を合わせ、地味な裏方役を演ずる。藩主から、危険な仕事をこなすことから「楫取素彦」と改名させられる。

大政奉還がなり、戊辰戦争に勝利すると隠遁生活となるが明治新政府からの召喚で、足柄県を振り出しに地方官としての道を歩み、明治9年初代の群馬県令として、妻の壽と共に任務に附き、多くの治績を挙げる。一方、禁門の変で夫の久坂を失った文は、毛利家の家事を手伝いながら時を過ごしていた。この間に「美和子」と改名している。然し、姉の壽は病気がちであり県令夫人としての役目が次第に果たせなくなり、明治14年、42才の若さで他界してしまう。

多忙な県令の姿を見かねた母の滝は、美和子に楫取との再婚話を持ち掛けるが容易に受け入れない。2年経過の明治16年、久坂玄瑞との夫婦時代に交わした手紙を持参することを条件に母の願いを受け入れる。現在、約20通の久坂からの手紙が「涙袖帖」として残されている。これは、再婚してから美和子が保持し続ける事は、夫人の道として疑問を抱き、焼却を決心して準備しているところを夫の素彦が見ていたことから、素彦の提唱によって焼却を免れたものである。楫取家、久坂家にとって家宝として残そうという、素彦の思いやりがこうした形で現在に遺されているのである。

そうして、明治17年素彦は群馬県令の任期を全うして東京へ戻り、元老院議官に就任。更に男爵を賜り、貴族院議員として明治期を生き抜くことになる。男爵夫人として、貴族院議員夫人として美和子も晩節を全うする。波乱に富んだ人生航路の末、素彦は大正元年、美和子は大正10年と、ともに当時としては長寿を保ちながら明治期の功労者としてその名を残すことになった。元来、美和子はNHKの大河ドラマの主人公として取り上げるには、地味すぎる人生であったが、吉田松陰の妹であったことから、このような脚光を浴びる機会を得た。

現在脚本が書ききれてなく、ドラマの展開の詳細が語れないのが残念であるが、松下村塾に関係した人物群として描かれるのではなかろうか。因みに、松陰の兄梅太郎は民治と改名して明治末まで、妹の千代(児玉芳子)は大正末まで生き延びる。松下村塾と塾生、吉田松陰の一族が、波乱の運命を歩みつつも近代日本に貢献した姿として描き出されると思われる。


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「私の吉田松陰」講演のイメージ
【2014/11/12 18:16】 エッセイ
昨日、「さいたま新都心・合同庁舎」での連合大学の講座で、「吉田松陰」を講演してきた。持ち時間は90分であった。
質疑応答時間を15分設けるため、実質75分間であったが、語りきれずに5分超過してしまい、最終的には80分間の講座となった。
多くの友人知人が応援に駆け付けてくれた。有難いことである。
今日は、終日休養専念に終始したが、お礼の連絡に追われる。
そのなかで、「私の吉田松陰像」がよかったとの感想を頂いたのでそれを転記する。

これは、私が松陰を語る時の基調を為すものである。短文だが、私の訴えたい松陰像の要約といった内容である。
講演の依頼があった時に、まず、こうした「吉田松陰像」を語りたいと、受諾返信の第一報に使っているものである。
松陰正装画像


「吉田松陰」―明治維新の先覚者―

明治維新は日本の歴史上最大の出来事であった。今から百五十年程前である。
盤石の統治体制を誇った徳川時代も、「江戸開府」以来、二世紀余を経過して幕藩体制は徐々に「ほころび」を来していた。
商品経済(貨幣経済)の浸透は幕府や藩に慢性的な財政危機を増大させ、体制維持は年々窮状の度合いを強めて行った。
加えて、十八世紀半ばから西欧に勃興した資本主義は、「原料と消費」を求めて、次第にアジアへと進出して来た。
日本が内政問題に苦悶していた天保年間、「アヘン戦争」情報が伝えられ「海防」が喫緊の政治課題となった。


吉田松陰は天保元年八月、長州藩の下級武士である杉家の次男に生まれた。
五歳の時、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は「山鹿流兵学」を家学としていたため、松陰は山鹿流の軍学者の道を歩むことになる。
類まれな才能と厳しい修業に励んだ松陰は順調に成長し、十九歳で「独立師範」となった。
更なる飛躍を期し、自らの軍学修業と海防への使命感を秘めて鎮西・江戸・東北へと遊学する。

松陰二十四歳の嘉永六年、江戸での再遊学中、米国のペリー艦隊が軍艦四隻を率いて浦賀に来航し日本に開国を迫った。
現地にて艦隊をつぶさに調査した結果、米国の圧倒的な軍事力の「彼我の差」は如何ともしがたく、翌年の再來航を機に国禁を犯して米国視察を企ててペリーの軍艦に乗り込むが拒否される。

以後、松陰は幽囚の身となり、その死まで自由を奪われ続けることになる。
一方、自宅(生家)で始めた「松下村塾」での教育は、やがて幕末維新期に多くの逸材を生み出す。
「立志と実践」をテーマに掲げた松陰の「人間教育」は、多くの若者たちを覚醒させ、彼らをして幕藩体制を突き崩す勢力に育て上げて幕末維新期の政局をリードさせる。

吉田松陰の主宰した塾は、西欧先進諸国の植民地化からの独立を守る新日本への変革者達を「死を以て」育成するという教育事業に結実し、その業績と名声は今もなお燦然と輝き続けている。





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