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「吉田松陰と橋本左内」①
【2015/02/25 11:50】 エッセイ
「吉田松陰」と「橋本左内」①

今日は、「安政の大獄」関連で犠牲となった逸材二人について、思い出すままに書いて見たい。一般にこの二人を死なせてしまったがために、井伊直弼の評判は頗る悪いことになってしまった。逸材だっただけに、国民的感情も井伊にはアゲインストの評判・印象となった。権力の恐ろしさと、忌々しさをこれほど濫用した人物は日本では少ない。
この二人が何故に「刑死」しなければならなかったか? 幕府政治に刃向った行動でなく、井伊や徳川幕府にとって危険性があったというだけのことである。共に二十代で生涯を断ってしまったのは残念で、残念でならない。
『吉田家本・吉田松陰座像』


そもそも、井伊直弼が「大老」に就任したのは特殊事情が背景としてあったのである。嘉永六年に米国太平洋艦隊司令長官のペリーが、軍艦四隻を率いて「鎖国日本」に「開国」を迫り、「砲艦外交」という「軍事力を背景にした脅し」で徳川幕府を屈服させたことから、日本は「危機」を迎える。その危機とは、「侵略または植民地化」への恐れである。
アヘン戦争情報が「オランダ風説書」によって、長崎奉行に届いたのが天保九年の開戦一年前で、一触即発の状態にあった内容である。翌年にそれは現実のものとなり、二年後には清国の敗北にて南京条約で終息を迎えた。そうして150年間の長きにわたって、香港の割譲を強いられた。日本にとって、世界で最強の大国と思われていた清国が、こともあろうに「大敗北」を喫してしまった。

当時の日本は「水野忠邦」が天保の改革で悪戦苦闘していた。この情報を得るや、幕府は「無二念打ち払い令」を早速に変更して「薪水給与令」にする。一時的な対応策として、寄港を認めるという緩和策であった。18世紀末の松平定信の治世から異国船が日本の近海に出没しはじめ、国交を開きたいとの要求が始まる。以後、文化・文政年間にはこれにまつわる「事件」が発生する。年々その開国要求は頻度を増し、鎖国体制の維持は困難の度合いを強めていった。

天保・弘化・嘉永と外国船の到来は増加し続けて弘化年間には「ビッドル提督」が軍艦二隻を率いて浦賀にやってきた。これは、ペリーのような強引な要求でなかったことから、退去した。しかし、ペリーの来航は、遠からず現実性をもつものと幕閣に受け止められた。オランダ国王の「開国勧告書」が正式に幕府に出されたのもこの頃である。
ペリー来航の後、12代将軍家慶は病死する。後継の13代家定は病弱で、後継者を選ぶ必要があった。そこに、日米和親条約が締結され、二年後「日米修好通商条約」交渉役として「ハリス」が下田に来日した。二年後この条約は井伊の強行策で締結される。この「条約締結問題」と「将軍継嗣問題」の解決をめぐって惹起されたのが「安政の大獄」である。

「ペリー」来航以来、外交経験のない日本は対応策に追われる。先ず、「大統領親書」受取りから始まり、再航前に対策を「公募」して幕府は「外交特権」を自ら放棄して良策の意見書を求める。此の中で出色の出来栄えが「勝海舟」の建白書で、彼はこれを機に歴史の表舞台に躍り出る。意見書を募ったことが、閣外に置かれていた外様大名の政治介入の端緒となり、将軍継嗣問題をめぐって「松平慶永」、「島津斉彬」、「徳川斉昭」らが幕政に発言機会を持ち、「一橋慶喜」擁立を目指す。慶永は御三卿の一つである田安家の出身。島津斉彬は近衛家との縁戚関係が深い、徳川斉昭は子息(六男)の父親で御三家の水戸徳川家である。
150225橋本左内


いずれも譜代大名で、肩を並べられる家柄は少ない。同等もしくはそれ以上の誇り高き「名門大名」である。そこに「条約締結」の「勅許問題」が発生する。砲艦外交に端を発した開国と、それを実質的に発展させる通商条約は、攘夷思想を呼び起こし、これに「水戸学の尊王論」が結合して尊王攘夷思想として開国をした幕府に反対運動を勃発させることとなる。反対派封じ込め策として時の老中「堀田正睦」は安政五年二月、条約勅許を求めて上京。簡単に降下すると見込んでいた幕府の目論見は、大きく狂うことになる。孝明天皇は「大の外人嫌い」なのであって、事前に情報を持たなかったことから失態を演じる。堀田はこの責任を問われるかのように老中を罷免される。そこで急遽登板したのは「譜代筆頭」の井伊直弼であった。徳川幕府にとって最後の切り札ともいうべき「エース登板」である。


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「吉田松陰」の思想とは
【2015/02/03 22:26】 エッセイ
『吉田松陰の思想』

明治維新を牽引した「吉田松陰の思想」は? と改めて問い合わされて即答出来る人は少ないように思う。 何故か?
 それは「日本人が西欧の列強から侵略されないための模索」という、時々刻々に日本を取り巻く環境が変化する情勢にどう対応するべきかを追い求めていたが故に、
視点が時間と共に変容せざるを得なかったということから定めにくいという性格を持つゆえだろう。

吉田松陰25.11.09


吉田松陰と言う人物を研究するにあたって、大切なことは人格や思想の形成に影響を及ぼした個々の経験を追う必要がある。
敬神家の父を持つ家庭に生まれ育ち、五歳で山鹿流兵学師範というとてつもないスケールの大きな学問に取り組まなければならなかった事情も考えなければならないし、
国防というおよそ幼年者には実感できない職務の研究は大きな負担となったであろうことは容易に想像できる。

「国家学」という学問があるとすれば、ほぼそれに該当するであろう。では翻って「国家とは何か」と問うてみても、現実の追認でしかない。
近代国家とは、今日においても厳密には定義できないと思われるが、国家の活動を科学的に探索して、大凡のところしか定義できない。
国家は国境にこだわるものという現象は、現代世界に於て国境紛争が常に未解決で、自国の主張と相手国の主張が一致しない。

中国を例にとって考えて見ると、東西南北にわたって画定している国境線がどこまであるか。
自国の中でも、新疆ウィグル地区をとっても独立の願いを、国家権力という名称の軍事力で抑圧している。
人間の欲望が「無限」であるように、国家的願望は達成されることが少ない。
米国はどうか?アラスカを金銭で購入した。
カリフォルニアとニューメキシコやテキサスを併呑したのは、戦争ゆえである。米国の国旗が当初の十三州の線でデザインされて、以降併呑する毎に星の数が増加する。
勿論、その反対もありうるが、要は力ずくの結果なのだ。


歴史に学ぶ 

吉田松陰が近隣国から「侵略者」の烙印を押されていることは大半の人が知っているだろう。
「神功皇后」の朝鮮征伐を称え、国威発揚を願ったことが侵略者だとされているようだ。
まして、大東亜戦争の最中に「松陰ブーム」が喧伝され、もてはやされた時代を振り返ってみても、帝国主義の急先鋒と解釈される事が多い。

西欧先進諸国からの植民地化を阻止する日本人の使命感に必死に生きた人物が、いつの間にか侵略者というレッテルを貼られている。
国家の興亡は古来、絶え間なく繰り返されてきた。人為的なものである限り、治乱興亡は避けられない。
こうした観点から、「吉田松陰」を考えて見ると稀有な人間像が浮かび上がってくる。
辞世の句を部分的に取り上げて、「吾今国のために死す」ということから見え隠れする人間の命と国家の命を同一線上で捉える事が、果して正しいのかどうか。難しい問題である。

思想で事実をやりくりすることがいかに危険なことか。
もし、そうした人生観で生きるとすれば人間の生命を全うすることは極めて困難だ。
ただ、師である松陰が門下生に「死んで見せた」ことの意義は大きい。
松陰教育の完成ともいえる。
「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」ということを、門下の高杉晋作に教えた二ヶ月後に、死んで見せた衝撃は、信頼していた師の死に際から多くのメッセージが発せられた。
それなくして、門下生の衝撃的な死の数々は語れまい。

日本のために、誰からも強制されずに「命を捧げた」松陰の生涯と、見えにくい彼の思想の一致点をどこに見出せるのだろうか。
そして、「神」として祀られ、東京と萩に「松陰神社」が二つもある事実。
皇国史観で見る限り「神業」の人生だったのか?そうではない。
生身の人間だったはずである。
要するに松陰の思想は「日本固有の文化」の礼賛に尽きるのかもしれない。





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