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『吉田松陰とペリー来航』②
【2015/04/19 23:41】 エッセイ
『吉田松陰とペリー来航』②

嘉永六年六月、吉田松陰は萩の母親(たき)から、実兄の竹院和尚への手土産を、伯父のいる「鎌倉・瑞泉寺」に届けるために訪問した。
伯父は、妹からの「手作り」のお土産を半年もかかって届けた松陰と妹(たき)に感謝しつつ、松陰を歓待した。
「故郷の味」がことのほか、美味しかったようで持参した松陰と、夜ごと語り明かした末に「江の島」を松陰(竹院和尚からは甥にあたる)伴って、懐かしい語り合いをした。

『吉田家本・吉田松陰座像』


そうして吉田松陰は、お役目を果して江戸にもどった。
ところがそれに相前後して「米国太平洋艦隊」の司令長官、M・Cペリーが浦賀に来航した。急を聞きつけて、師の佐久間象山の下へ駆けつけたところ、既に象山は門下生を引き連れて浦賀に向って出発していて留守であった。
松陰は大急ぎで桜田の「藩邸」に飛んで行き、「瀬能吉次郎宛」に手紙を書き残して浦賀に向った。
松陰の逸る気持ちそのままに書かれた手紙が『吉田松陰全集』第七巻に収載されている。そこには次のようは内容が記されていた。

『瀬能樣、 浦賀へ異船來たる由に付き、私只今より夜船にて参り申し候。陸海共に路留にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ飛ぶが如し。六月四日 御國へもし飛脚参り候はば、此の書直樣さしだし頼み奉り候。左候へば、僕壮健にて英気勃勃の様子も相分るべく候。事急ぎ別に手紙を認むること能はず。 吉田』 と書かれているのだ。
吉田松陰が、「クニ を護る事を任務とする 兵学者」であったことを想起願いたい。

当時の「クニ =藩(領国)」であったが、松陰の頭の中は「日本国=大和民族」であった。
西欧先進諸国からの「侵略の端緒」と受け取ったのである。
それは、松陰が鎮西遊学で必死に学んだ「アヘン戦争」の日本版と受け止めたからであった。
ここが、普通の国民と全く異なる所である。吉田松陰の「危機感」は、日本全体の「危機」という受け止め方なのである。
ですから、松陰を評して「日本を発見した人物」などと研究者から呼称されるのである。
150418ペリー


近代国家の概念が殆どなかった、当時の日本において「日本全国」への危機を鳴らした最初の日本人の一人であることは間違いない。師の佐久間象山も同様の受け止め方であったに違いない。
事実、象山は、天保年間に建白書を差し出した「海防八策」のなかで、西欧の軍事力に相当する国防体制の整備が急務であると「幕府に建白書」を提出していたのであった。
だが、その建白書を「決死の思いで」受け止める人物が「幕府閣僚」には誰一人としていなかった。「川路聖謨」のみ、検討に値するという受け止め方をしたにすぎなかった。
川路は、当時の幕閣においては最も先進性に富んだ見識、世界観を持っていた数少ない人物であった。

しかし結果的には、『幕府閣僚』の総意としては、積極的には取り上げられなかった。
このことがあったから、佐久間象山は『だから、私の建白書の通りに軍艦を購入して、国防の軍備を整備しなければいけない』と、口をすっぱくして申上げていたのにいまさら大慌てしたって間に合わない。
『だから、いわんこっちゃない』と、象山の意見書を実行しない幕府の態度に怒りを発していたのである。
そうしたところへ吉田松陰が駆け付けたのであった。
『おう! 吉田君か! よく来た!』と切歯扼腕の気持ちだった佐久間象山にとって、百万の味方が駆けつけてくれたような思いであったのに違いない。
佐久間は、幕府への不信感と怒りで耐えられない思いであったのです。

大きな黒塗りの「軍艦」を目の前にして、浦賀奉行所配下の「小舟」では到底太刀打ちできない。
ペリーは「米国國家の特使」としてきているので、しかるべき対等レベルの人物以外は応接しないと言っている。
そうして、その時の「与力」であった「中島三郎助」の機転で、敵艦に乗船することが出来た。
そこで判明したことは「米国大統領の親書」を携えて来ているという。浦賀奉行所の「長崎回航指示」は受け入れない、日本の国法がどうであれ私は米国代表できているのである。
よって、しかるべき地位の人物しか応対しない。
それで「破談になって戦争」になれば戦おう。戦いは100%我が方の勝利になる。
それでも戦うなら、戦闘も辞さないという高圧的な態度であった。
150420老中阿部正弘


このやりとりに数日を要した。浦賀奉行の戸田氏栄は、江戸の老中に判断を仰ぐべく「急使」を数度派遣してペリーの要求をどう裁くかで大忙しである。
気の早い役人は殺されることを予見して、死後がみっともないようにと身の回りの整理と、邸宅の庭の清掃めで始めている始末である。こうして、阿部正弘筆頭老中は、大統領親書をひとまず受け取る指示を出す。
久里浜に急ごしらえの「受け取り会場」を用意して「米国人の上陸」を受け入れて受け取るのである。

吉田松陰は、浦賀に三泊四日で高台から観察を続けていた。
そうして、黒船の軍事力を詳細に洞察していたのであった。砲艦外交の背後にある「軍事力」や「技術力」、「富んだ國家」に思いを馳せていた。山鹿流のような日本古来の戦闘方法では、全く太刀打ちできない。
日本の現状への悲観と、先進諸国の「実地検分」しか方法はない。
海外渡航禁止の「掟」が吉田松陰の頭の中で、越えられない「カベ」として大きく立ちはだかっていたのであった。
この項は、次回につづく。


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『吉田松陰とペリー来航』
【2015/04/18 13:08】 エッセイ
『吉田松陰とペリー来航』①

吉田松陰は嘉永三年に『鎮西遊学』、翌年『江戸遊学』と、長州藩の大政治家にして、大先輩である「村田清風」翁の持論であった『四峠の論』の実践を果し、見聞を広める。
この『四峠の論』というのは、次のような意味を持っている。即ち、『萩城下』は北を日本海に向い、阿武川が海にながれ込む直前に、橋本川と松本川に分流し、この二つの川に挟まれてできた三角州である。その西北に萩城が築かれている。お城の近くに高級家臣団が在住、遠くなるにしたがって下級家臣や商家が在住、という城下町である。この毛利氏藩領の長州(防長二州)は、三方を海に接している事から、海防の充実が喫緊の課題となっていて、村田清風は、常にこの課題を解決すべく、日夜工夫を凝らしていたのであった。それは、江戸に立地する幕府が、海上封鎖を極端に恐れていたのと同様、【海防】は、日本と言う、島国の地勢学的見地からの宿命的な課題であった。丁度英国が「海軍の充実」によってこの課題を克服したのに似ている。


吉田松陰は、お城からほど遠くないところにあった「川島町」に先祖代々が居住していたが、文化年間に城下町の大火があって、やむなく、転々と居宅を転居した末に、松本川を越えた萩の東郊の松本村の・団護岩に生誕した。いはま、「吉田松陰の生誕地」として、たてものはないが、公園風になって居宅の遺跡となっている。正面に日本海を望める風光明媚なところである。門下生だった山県有朋の揮毫になる大きな石碑が立っている。この萩から、藩の外へ修業に出掛けるのには「峠」を越えて行かなければならないが、この峠は四つの峠の何れかを越えて藩外へ出なければならない。ここから「四峠の論」がいわれたという。

松陰正装画像


ところが「吉田松陰研究書」でこれに触れたものがない。不思議に思って調べることにして、長門市に「村田清風記念館」があるので、そこへ直接電話で問い合わせた結果、書物としては書かれたものがないということが解かった。「口碑」(こうひ・口伝えの意)といって、萩では多くの人達に語り継がれ、大半の方が四峠論を知っているそうだ。こうして、鎮西遊学、江戸遊学を果し、懸命に修業に励むことになった。鎮西では平戸の葉山佐内に、江戸では佐久間象山について学ぶことになる。この二人から多くの修業機会を得て、見識が高まるのです。

松陰には【師】と呼ぶ人物が二人いる。一人は「山鹿素行」で、松陰の修業する家学の山鹿流の開祖である。そして松陰は素行を【先師】と呼んでいた。もう一人は「佐久間象山」で、世代的には松陰より二回りほど年上の先輩に當たり、松陰は【師】と呼んでいた。つまり、山鹿流軍学者としての創設者を先師、松陰の先輩で大学者として慕いながら、入門した佐久間象山が師なのである。佐久間は、信州松代藩の人で、時の藩主を眞田幸貫といい、その人は松平定信を父親に持つ、徳川家の名門の出身である。そうして外様藩であるが天保の頃は、水野忠邦の下で「老中」を務め、「海防掛」を担当していた。そのため家臣の佐久間象山の見識を活用すべく、「顧問」として海防研究させた。

その結果、纏められて上書したのが『海防八策』であった。此の建白書が老中に提出されたのが「天保十三年」である。当時は西欧先進国が通商や開港を求めて日本の近海に頻繁に出没していたころで、幕府も「文政の打ち払い令」をやむなく緩和策の「薪水給与令」に変更せざるを得なくされたのである。幕府は、12代将軍の徳川家慶が家斉に代わって、「水野忠邦」が天保の改革大号令を発して、財政再建を始めとする諸施策を打ち出したが、徳川の体制が既に重症患者の如く小手先の対応策では間に合わない程に、弛緩して頽廃的な世相の様相を来していた。株仲間の解散命令、上知令とも効果がないどころか「大名」の反対に在って発令をひっこめざるを得ない状況で幕府の威信は往時の力を失っていた。

そして、オランダ国王からの「開国勧告書」が出され、「米国の水師提督・ビッドル」が浦賀に来航して、幕府に開国通商を迫った。一方長州藩では、村田清風の号令で「天保の改革」が進行しつつあった。幕府の改革が失敗したのに比して、長州は下関の「越荷方」による藩営の商社が北前船の持ち込む、産物を保管し、販売する商業活動や倹約、武士の債務を藩が肩代わりして、長期返済方式を採り入れて徐々に経済政策が功を奏していた。吉田松陰の叔父である「玉木文之進」が自宅に「松下村塾」を開き、近隣の青少年の教育に当たっていた。教育は人材養成の長期的視野に立ったもので、次第に教育熱が高まりつつあった。
150418村田清風 

松陰が、鎮西遊学、江戸遊学を連続して果たし、猛勉強に取り組んでいた頃である。江戸では日本の行末を案じる心ある若者が諸国から集まっていた。「京橋桶町」の鳥山新三郎の経営する「蒼龍軒」は、こうした若者たちの梁山泊の観を呈していた。そこに松陰も参加し、諸国からの上京修業者達と厚い議論を交わしていた。そんな矢先に、松陰は薩摩出身の肝付七之丞から、東北遊学の経験談を聞く。津軽にロシア船が南下して、津軽海峡に我が物顔で頻繁に出没し、あげく上陸して狼藉を働き、地元住民と諍いをしばしば起しているという。早速、松陰は肥後で出会った山鹿流の先輩の「宮部鼎蔵」と共に海防視察に出掛ける事にする。江戸藩邸に相談すると、内諾は簡単に出た。そして、萩の兄に、旅費を送金するよう準備に入り、十二月十五日に高輪の「泉岳寺」集合の約束となった。

しかし、他国(他藩)領地を通過するには身分証明者である「過所手形」が必要で、これは藩主の允恭が必要であるが、此の発行がなされてないことに気付いた松陰は、すぐ藩邸に発行を掛けあうが、藩主がお国入りしているとのことで、出発を延期せよという。だが松陰は既に出発日を約束してしまった。そこへ江幡五郎という南部人が同行したいと頼みこんできた。江幡は盛岡の兄が政争に巻き込まれて、不慮の死をとげたことへの復讐をしたいという事情を打ち明けて、松陰達は応援すべく彼の申し出を受け入れた。そして藩邸が過所手形を発行しないなら、手形無しで実行する意思を固める。これは、当時に在っては「藩士として重罪」にあたる行為となって、場合によっては打ち首もありうる危険な行為であった。つまり、殿様(藩主)を裏切る「主従関係」を家臣から断ち切ってしまう大変なことなのだ。そうして、一日前に「稽古切手」という、藩邸の外出許可証のみで出奔してしまった。これでは関所は通れない。
歴史に学ぶ


 まず、水戸街道の裏道を、松野他三郎という変名を使って北上する。仲間たちより先に出発して水戸に着く。此処は徳川御三家の一つである水戸藩領である。此処に一か月滞在する。目的は藤田東湖に会うためだが、あいにく彼は謹慎中なので他国人と面会できない。やむなく、会澤正志斎と6回の面談機会をもてた。松陰より50歳近くの年長者で、「新論」の著者であり、水戸学の権威の一人であった。そこで、日本の成り立ち等の古代史を学ぶ。江戸で「御藩の人は日本の成り立ちに暗い」と他藩の者から指摘されて冷や汗をかいた経験を持つ松陰であった。それが、忙しくて勉強時間が取れずに困っていたのであったが、偶然に水戸学の大家に直接教えを受ける機会を得たのであった。しかも、勉強が住むと夕餉も出してくれ、お酒も出してくれる歓迎ぶりに松陰は感激の記録を残している。「水府の人、概ね親切なり」と。そして一か月後に出発し、奥州の玄関口である白河で同行の江幡と別れ、松陰と宮部は会津若松に向う。此処でも歓迎を受けて、藩外秘までも教えてもらう。当時は西の「明倫館」、東の「日新館」といわれた藩校の一つを見学させてくれ、軍事機密までも教えてくれた。後年、文久から慶應期にかけて長州と会津は天敵の関係になるが、この当時には蜜月時代ともいえる兩藩の親密な関係にあったのである。

 そして新潟(越後・蒲原)に雪をかき分けながら出る。佐渡金山を見学して、北上し「竜飛崎」から津軽海峡をはさんで遥かに蝦夷の大地が望めた。松陰の眼には、東北地方の各藩の民生視察もあったが、それは芳しいものではなかった。そして、青森八戸、仙台とまわって再び会津に寄り、鬼怒川、日光を経て足利へ出て「足利学校」を見学、館林近辺から利根川を下り春の江戸に戻る。此処で、「過所問題」が起り、藩の判断を待つべく萩にて待罪の身となる。この間約半年。水戸で学んだ「後期水戸学」の更なる勉学に勤しむ。これは『睡餘事録』という松陰自筆の記録が残されていて、日本書紀、続日本紀を立て続けに七十冊も読破したことが綴られ、有名なことばが書かれる。即ち『身皇国に生れて皇国の皇国たる所以を知らずんば、何を以て天地に立たん』である。日本人の誇りをこの間に、身に着けたのであった。そうして藩が脱藩の裁決を下す。厳しい処分であった。「吉田家取り潰し・家禄召し上げ・杉百合之助の育(はぐくみ)」とする、というものであった。浪人となってしまったのだが、ここで藩主の毛利敬親が粋な計らいをみせるのである。「向こう十年間の諸国遊歴」を許可してくれ、打ち首どころか、大変な恩情である。実は、松陰が桜田の長州藩邸を出奔したことを聴いた毛利敬親は、『国の宝を失った!』と嘆いたのであった。そこから、恩情の裁決が出たのである。幕末、家臣に自由に論議させ、その結論をもって藩主に相談すると、決まって『そうせい』といったことから、ついたあだ名は「そうせい侯」であった。一面、名君であった。


150418ペリー 


 そうして、再び江戸に向い京阪の学者達と時局を語り、半年後に江戸到着。そして、母からの贈り物を預かってきていた「きびこ」を、母、滝の実兄である竹院和尚(瑞泉寺住職)に届けたのである。和尚(松陰は上人と呼称)は喜び、夜ごと語り合い、江の島を案内してくれた。この竹院和尚は、松陰の脱藩事情を知りつつ、寛容な態度で松陰の人生や人となりを好感をもって暖かく見守っていたのであった。そうして、南禅寺の住職という地位は、曹洞宗の住職としては、最高の栄誉の地位なのである。

そして、松陰が江戸に戻った直後に「ペリー」が突如、浦賀に来航して開国を迫ったのであった。長崎への回航指示をする浦賀奉行の命令を無視して、場合によっては一戦も辞さないという高圧的な態度であった。已む無く、幕府はペリーの持参してきた「大統領親書」を、久里浜に急ごしらえの施設を造り、表向きは冷静に、礼節を尽くす形でうけとり、ぺりーを満足させたのであった。だが、これは時間稼ぎが幕府の本心で、具体的な対応策を持ちあわていなかった。こうして威かしを交えた外交を「砲艦外交」という。だから強引に「大統領親書」を手渡し、返事は来年に受け取り再度来航するからと、言い残して十日で退去してしまった。この日を境に日本は幕末の動乱を迎えることになります。

再度の来航までに、国策の樹立を急いだ幕府は、それまでの「独占していた外交特権を自ら放棄し」、それまで政治向きに初便の機会を与えられなかった「外様大名」や御家人、陪臣(各藩の家臣)に今後の対策意見を求め、外様大名に幕府政治への容喙の契機を作り出してしまい、ここから「西南雄藩」の台頭が顕著になってくるのである。そうして、意見徴収の結果、八百通ほどの「意見書・建白書」が提出され、数多くのなかで出色だったのが「勝海舟」の意見書で、ここから勝海舟の大躍進のきっかけをつかむのです。これを評価して、老中の下に届ける判断をしたのが、幕閣の進歩派・革新派と言われた高級旗本の「大久保忠寛」(後の一翁)であった。
此の続きは、次回にします。


『久坂玄瑞の吉田松陰への挑戦的手紙』
【2015/04/15 12:38】 エッセイ
「久坂玄瑞から吉田松陰への最初の手紙」

安政三年五月下旬
安政三年春、久坂は眼病(すがめ)の治療を兼ねて、九州遊学を果したのである。途中、肥後熊本に立ち寄り、松陰の生涯の友となった「宮部鼎蔵」に出会う。宮部は、松陰と同じ「山鹿流軍学師範」である。松陰は嘉永三年秋に「宮部鼎蔵」と出会い、意気投合し終生敬慕しあった「同じ志」を持っていた人物である。その宮部が、久坂玄瑞に向って、「態々肥後まで遊学には及ばない。お国には吉田松陰という傑物が居るではないか? 吉田松陰の下で学ぶべきである」。と推薦を貰うが、この時久坂は吉田松陰が、何者であるかを知らない。名前を少し聞いたことがある程度の認識であった。九州遊学を終えて萩に帰国するや、知人の土屋䔥海の勧めもあって『義卿吉田君案下に奉呈す』という持論を書き綴った激しい内容の手紙を書く。以下は、『久坂玄瑞全集』に収載されている「原文」です。

久坂玄瑞


『久坂誠玄瑞再拜 謹白二十一回猛士義卿吉田君座前、今茲春遊鎮西入肥後、而訪宮部生、談及吾兄事、生賞讃吾兄娓々不已、誠欽慕非一日、且聞其言欽慕益不可堪也、乃将修短簡以陳其鄙衷而誠不誠吾兄、々々固不識誠也、無半面之識而乃欲修短簡、自知不免其鶻突亦矣、然誠雖不識其面而識兄之慷慨気節天下之豪傑之士矣、則不可謂之不識、而吾兄獨不識誠焉爾、誠鈍駑閽昧無足言者、而居皇國之土食 皇國之粟則 皇國之民也、夫方今 皇國勢何如也、綱紀日弛、士風日頽、而洋夷日跳梁、屢乞互市、其意必在伺我釁伸其所欲也、而廟議以為不若暫許互市、而巌兵備於其隙、殊不知許互市則天下之人益
狎其無事、而益般楽怠傲也、兵備終不可巌矣、昔者弘安之役、元使屢至、我以其書辞不禮遂斬其使、元師十萬来寇、精兵以當之、彼一敗蕩然生帰者僅三人、元不復窺我邊、嗚呼我有男子國之稱不冝哉、儻使方今如弘安、彼謂互市、我對日、國法有禁、彼強之則冝斬其使、天下之人皆謂彼必來寇不可般楽也、不可怠傲也、綱紀必張士風必(以下缼)』

これを「書き下し」にして、文意が解かるように書き換えて見ます。『武田勘治著・久坂玄瑞より』
「義卿」は松陰の「字です。「君」は今日では同輩以下に用いるが、元来は「ご主人様」とでもいう意味の「尊称」であります。「案下」は手紙の脇付けに用いることば。「机下」。
『吉田家本・吉田松陰座像』


久坂誠玄瑞、再拜し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に白す。今茲春、鎮西に遊び、肥後に入りて宮部生を訪れ、談吾兄の事に及ぶ。生、吾兄を賞賛すること娓々(びび)として止まず。誠の欽慕せること一日に非ず、且つ其の言を聞きて、欽慕益々堪えるべからざるなり。乃ちまさに短簡を修し以て鄙中(ひちゅう)を陳べんとす。而して誠は吾兄を識らず、吾兄も固より誠を識らざるなり。半面の識なくして乃ち短簡を修せんと欲す、自らその鶻突(こつとつ)を免れざるを知る。然れども、誠その面を識らず。と雖も、しかし吾兄の慷慨気節にして天下の豪傑の士たることを識る。之を識らずとは謂うべからず。而して吾兄獨り誠を識られざることしかり。

 誠や鈍駑閽昧(どんとこんまい)、言うに足るものなし。而れども、皇國にの土に居り、皇國の粟を食む、即ち皇國の民なり。それ方今、皇國の勢如何や。綱紀日に弛み、士風日に頽(くず)れ、而して洋夷日に跳梁し、屢々互市(通商)を乞う、その意、必ず我が釁(きん・隙)を窺いてその欲するところを伸すに在るなり。而して廟議は、暫く互市を許すを以てし、その隙に兵備を厳にするに若かずとなす。殊に知らず、互市を許さば即ち天下の人益々その無事に狎れて益々般楽怠傲(はんらくたいごう)し、兵備ついに厳なるばからざることを。

昔、弘安の役に、元使屢々我れに至る。その書辭禮(じれい)ならざるを以て、遂にその使を斬れり。元の師十萬来寇するや、精兵を以て之に當り、彼れ一敗蕩然(とうぜん)として生帰するもの僅に三人。元また我が邊を窺わず。ああ我れに男子國の稱ある、うべならずや。もし方今をして弘安の如からしむれば、彼れ互市を謂はば我れ応えて日わん、國法の禁ずるありと。彼これを強いば即ち宜しくその使を斬るべあい。天下の人皆言わん、彼れ必ず来寇す、般楽すべからざるなり怠傲すべからざるなりと、綱紀必ず張り、士風必ず・・・・・・(以下缺損)
150415フビライ150415ハリス




【語訳】
娓々=話が長々と続いて飽きない。 鄙中=見下げる。とるにたらない。
鶻突=あいまいににしておく。 慷慨=社会の不義や不正を憤る。 気節=気骨。
鈍駑=おろか。頑な。 跳梁=はねまわる。 綱紀=規律。統べる。
釁=隙、仲違い。ちぬる。 般楽=大いに楽しむ。 蕩然=あとかたのないさま。
辭禮=禮を謂う。怠傲=なまけてあなどる。

【意訳】
私は久坂誠です。今春に肥後で宮部鼎蔵と話し、益々貴兄を慕う思いが募っている。私は貴兄と面識ないが書簡にて私の思いを書きます。宮部は貴兄のことを、世を憂う天下の豪傑とのことだが貴兄も私を知らない。私は鈍才ながら日本に生れ、育った日本人としての自覚と矜持を持っている。現状の日本は太平に慣れ、綱紀は弛緩している。そこに西欧が傲岸不遜な態度で、通商を求めてきたが、内心は侵略したいようだ。幕府は要求を受け入れ、一方で兵備を厳しく鍛錬しなくてはならぬというが、堕落した武士ではこれを迎え討つ程の奮発は出来ないだろう。鎌倉期に元の使者が何度か来た。礼節なき使者を切り捨てたという。弘安の役で元の大軍が、我が国を攻め込んできたが、我が国の大勝利で元の生還者は僅かだった。洋夷の使者(ハリス)の傲岸な通商要求も、殺害して日本男児の心意気を見せれば、安楽にふける堕落した武士たち(日本人)も、決死の覚悟で奮い立つに違いないと思うがどうだろうか、心もとない次第だ。


この勇ましい久坂玄瑞からの手紙に対して、吉田松陰はこっぴどく反論した返信を書いたが、実は、久坂に対して「吉田松陰に手紙を書くように!」とススメたのが、松陰の友人である「土屋䔥海」であった。彼は、萩藩の陪臣ながら、秀才の誉れを恣にした人物で「防長で文章第一」と言われていた。勤皇僧として名高い「月性」(特に『立志の詩』が有名)と同じ安芸の坂井虎山の塾で学んでおり、吉田松陰⇒月性⇒土屋䔥海⇒久坂玄瑞、という人脈関係であった。但し、此の時点では、松陰は久坂玄瑞は面識がなく、若い、元気な秀才との風聞は聞いていたようである。玄瑞の兄の「久坂玄機」とは、相知る中で交遊があったが、久坂玄機の秀才ぶりは萩藩中でも知る人ぞ知るという存在で、藩主の信頼もあった人物です。だが、惜しいかな、国防、海防の意見書や蘭書の翻訳に日夜心血を注いでいるさなかに、急死してしまう。玄瑞より二十歳年上であった。その有名な久坂玄機の弟・玄瑞も兄の死後「勤皇僧・月性」に学んでいたという関係である。だから、後年、松陰の妹の「杉文」と結婚したことを月性は大変に喜んだのである。実は。この久坂玄瑞からの第一信を受け取った松陰は、返信の文面とは裏腹に久坂の人物を高く評価していたのであった。その、松陰が土屋䔥海に宛てた打ち明け話の書簡を下記しておきます。即ち松陰は「久坂の人物だめし」をしていたのである。流石の吉田松陰ですね。

「土屋䔥海宛」書簡
安政三年六月三日松陰在萩松本、土屋在萩

䔥海學兄
坂生志氣凡ならず、何卒大成致せかしと存じ、力を極めて辯駁致し候間、是れにて一激して大擧來寇の勢いあらば、僕が本望之れに過ぎず候。若し面従腹誹の人ならば、僕が辯駁は人を知らずして言を失ふといふべし。此の意兄以て如何と為す、如何と為す。
三日
松陰生



「福堂策」上
【2015/04/05 14:54】 エッセイ
福堂策上 (野山雑著)全集第二巻  

元魏(げんぎ)の孝文、罪人を久しく獄に繋ぎ、その困苦に因りて善思(ぜんし)を生ぜ染む。」因って云はく、「智者は囹圄(れいご)を以て福堂とす」と。此の説遽(にわ)かに聞けば理あるが如し。諸生紙上の論、多く左袒(さたん)する所なり余獄に在ること久し。親しく囚徒の情態を観察するに、久しく獄に在りて惡述を工(たく)む者ありて善思を生ずる者を見ず。然らば滞囚(たいしゅう)は決して善治に非ず。故に曰く、「小人閑居して不善を為す」と、誠なるかな。
但し是れは獄中教へなき者を以て云ふのみ。若し教へある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや。曾て米(め)利(り)幹(けん)の獄制を見るに、往昔は一たび獄に入れば、多くはその悪益々甚だしかりしが、近時は善書ありて教導する故に、獄に入る時は更に転じて善人になると云ふ。是くの如くにして始めて福堂と謂ふべし。余是に於て一策を画す。世道(せどう)に志ある者、幸に熟思せよ。

150405野山獄小


一、 新に一大牢獄を営し、諸士罪ありて遠島せらるべき者、及び親類始末に逢いて遠島せらるべき者は、先づ悉(ことごと)く茲(ここ)に入る。内、志あり學ある者一人を長とす。親類始末のことは余別に論ありて筆録とす。此の策は只今の有様に就いて云ふのみ。
一、 三年を一限(いちげん)とす。凡そその囚徒、皆出牢を許す。但し罪悪改むることなき者は、更に三年を滞(とどこお)らす。遂に改心なき者にして後、庶人に降(くだ)し遠島に棄つ。尤も兇頑甚だしき者は、三年の限りに至るを待たず、是れを遠島に棄つ。是れ皆獄長の建白を主とし、更に検覈(けんかく)を加ふ。
一、 長以下、数人の官員を設けざることを得ず。是れ獄長の建白に任ずべし。総べて獄中の事は長に委任し。長私曲あり、或いは獄中治まらざる時は専ら長を責む。
一、 獄中にては、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とす。
一、 番人、獄中の人数多少に応じ、五六名を設けざるを得ず。而して其の怠惰放肆(ほうし)の風を厳禁し、方正謹飭(きんちょく)の者を用ふべし。番人は組の者を用ひ、番人の長は士を用ふべし。
一、 飲食の事は郡夫(ぐんぷ)に命じ、別に日々監(かん)司(し)後れ付の類を出し監(かん)せしむべし。獄中銭鈔(せんしょう)を貯へ、恣(ほしいまま)に物を買ふを厳禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定め、是れを司(つかさ)らしむ。即ち今野山獄の肝煎(きもいり)の如し。
一、 獄中断じて酒を用ふることを許さず。酒は損ありて益なし。此の不易の論あり、茲に贅(ぜい)せず。
一、 隔日或は両三日隔てて、御徒士(おかち)目付(めつけ)を回し、月に両三度は御目付の回りもあるべし。回りの時は獄中の陳ずる所を詳聴(しょうちょう)すべきは勿論なり。
一、 医者は毎月三四度回すべし。若し急病あれば願出(ねがいい)で次第、医をして来診せしむべし。付人(つきびと)の事、湯水の事、江戸獄中の制に倣(なら)ふを可なりとす。
一、 獄中画一の制を作り、板に書して楣(はり)に掲(かか)ぐべし。
右に論列(ろんれつ)する所に従って一牢獄を営せば、其の福堂たるも亦大なり。余幸にして格そとの仁恩に遇ひて、萬死(ばんし)の誅(ちゅう)を減ずることを得。其の身を岸獄(がんごく)に終ふる、固(もと)より自ら安んじ自ら分とする所なり。然れども國恩の大、未だ涓(けん)埃(あい)を報ずるを得ず。深く忸怩(じくじ)する所なり。
『吉田家本・吉田松陰座像』 


因りて願ふ、若し新獄の長となることを得ば、或は微力を伸(の)べて万一を庶畿(しょき)することを得ん。但し囚中、其の才学余に過ぐる者あらば、余も亦敢て妄(みだ)りに其の前に居らざるなり。余野山獄に来たりてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以て同囚と相(あい)切磋(せっさ)することを得、獄中駸々乎(しんしんこ)として化(か)に向ふの勢いあるを覚ゆ。
是れに因りて知る、福堂も亦難からざることを。且つ人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)して大成する時は必ず全備(ぜんび)する所あらん。是れ亦年来人を閲して実験するところなり。人物を遺棄(いき)せざるの要術(ようじゅつ)、是れより外復(ま)たあることなし。当今動(やや)もすれば人を遠島に処す。余精(くわ)しく在島の容子(ようす)を聞くに、降(くだ)して庶人となすよりも甚だし、全く百姓の奴隷となるなり。堂々たる士人をして此の極に至らしむること、豈に匆々(そうそう)にすべけんや。故に余は先づ獄に下し、必ず已(や)むことを得ざるに及んで、然る後遠島に処せんと欲す。是れ忠(ちゅう)厚(こう)の至りなり。但し放縦(ほうしょう)は人情の安(やす)んずる所にして、厳(げん)整(せい)は其の厭(いと)ふ所なれば、右の如く制を定むる時は必ず悦ばざる者衆(おお)し。然れども、是れに非ざれば福堂の福を成すに足らず。方今(いま)庶政(しょせい)維(こ)れ新たに、百弊革(あらた)めざるはなし。独り囚獄の政に於いて、未だ至らざるものあるを覚ゆ。故に余故(ことさら)に私(ひそか)に策すること此(かく)の如し。然れども是れ独り士人の獄法を論ずるのみ。庶人の獄に至りては更に定論あり。今未だ贅(ぜい)するに暇(いとま)あらず。

安政乙卯(いっぽう)六月朔(さく)丙(へい)夜(や)、是れを野山獄北第一房に於いて書す。二十一回猛虎
 松陰在野山獄(のやまごく)


【解説】
有名な「吉田松陰」の「福堂策を転記してみた。野山獄に収監されて、先ず気付いたのは出獄の当てのない人達の荒んだ心の姿であった。それでこれが書かれ、性善説に基いて「長所」を引き出す事であった。それには、一緒に勉強することで、俳諧、書道、孟子を互に学び合うことであった。しばらくすると、獄風は一変して「福堂」となった。松陰は『孟子』の講義を行ったが、半ばで免獄となり「杉家」に帰った。然し、「幽囚の身」であることに変わりはない。
時間を持て余す松陰を慰める意味で、『孟子』の講義を完了させる親族の暖かい心であった。ここが「杉家の好学家風」で、此のことが近隣の青少年の教えを乞う者が出てきた。これが後に「松陰主宰の松下村塾」となっていくのである。
「福堂策」は上・下二巻よりなり。「野山雜著」に収められている。「福堂策」の(上)が書かれたのは安政二年六月である。松陰が野山獄に収監されてから既に半歳が過ぎており、この間に野山獄の獄風は一変し、獄があたかも学習の場の感を呈するまでになっていた。「福堂策」は、こうした自らの体験、つまり獄は福堂に変え得ることが出来るのは、人間の性は本来善であり、たとえ罪を犯した者でも教育することによって善導できるからだと考える。従って、「福堂策」は、単に松陰の獄舎論、刑罰論と云うだけではなく、彼の人間観を具体的な事柄の中で示したものとして貴重である。本書は「福堂策」の(上)が書かれてから三ヶ月後の九月十一日に(下)が認められている。(下)で注目されることは、人間が人間らしく生きていくためには「自ら淬励(さいれい)する心」(つとめ励む)、つまり自発性あるいは生きがい感を失ってはならないという指摘である。松陰が収監された当初の同囚たちは「わが徒終にまさにここに死すべきのみ、復び天日を見るを得ざるなり」という状況で生きがいを見失っていた。それが、いまや生きがいを見出し、獄風は一変した。だから松陰のこの指摘は、実感に裏付けられた説得力をもっている。また、一事の罪をもってその人間の全人格を否定してはならないとする人間観も注目すべきだろう。

【語訳】
二十一回猛虎 = 松陰の別号。


「二十一回猛士の説」
【2015/04/03 18:36】 エッセイ
「二十一回猛士の説」

この「二十一回猛士の説」は幽囚録付録に収載(松陰全集第二巻:八七頁)されている。
松陰が好んで使用した号である。
これは、安政元年(一八五四)十一月前後(この時、松陰は野山獄に収監中)に書かれた。
短文なので、まず原文を記す。
二十一回猛士の写真


吾れ庚寅の年を以て杉家に生まれ、已に長じて吉田家を継ぐ。甲寅の年罪ありて獄に下る。夢に神人あり、与ふるに一刺を以てす。文に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む。因って思ふに、杉の字二十一の象あり、吉田の字もまた二十一回の象あり。吾が名は寅、寅は虎に属す。虎の徳は猛なり。吾れ卑微にして孱弱(せんじゃく)、虎の猛を以て師と為すに非ずんば、安んぞ士たることを得ん。吾れ生来事に臨みて猛を為せしこと、凡そ三たびなり。而るにあるいは罪を得、或いは謗りを取り、今は則ち獄に下りて復た為すこと能はず。而して猛の未だ遂げざるもの尚十八回あり、その責もまた重し。神人蓋し其の日に益々孱弱、日に益々卑微(ひび)、終に其の遂ぐるの能はざらんことを懼る。故に天意を以て之れを啓きしのみ。然らば則ち吾れの志を蓄へ気を併する、豈に已むことを得んや。


 特殊な文なので、脚注を少し施しておく
 庚寅:天保元年(一八三〇) 甲寅の年罪あり:安政元年(一八五四)の下田密航
 一刺:一枚の名刺
 杉の字二十一の象:杉は分解すると、木へんは十と八、つくりは三で合計二十一となる。
 吉田も分解すると、吉は十一と口、田は十と口、口を重ね合わせると回となる。

 寅:寅次郎(松陰の名) 卑微にして孱弱(せんじゃく):身分は低く体は弱い
 三たび:①東北脱藩旅行 ②藩士でないのに上書(藩主への意見具申:具申資格無し)③下田密航    以上の三つの掟(きまり、法)を犯したことをいう。



松陰も号であるが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使った。これは、その由来を書いたものである。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけである。
すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田密航)を犯したが、まだ十八回も残っている。今後、大八洲(日本)のために、身を挺して尽くす勇気ある行動=(松陰が自称)を起そうという決意の表明である。
憂国の志士と言われる一端が垣間見えるようで、大変面白い。

そうして、松陰は獄中からの「第一信」(安政元年十月二十四日頃)にて【二十一回兒】と差出人名を書いた。
これに対し、梅太郎が不思議に思い、【二十一回兒とは何ということかや?】と聞いてきたので、松陰は自分の生涯で二十一回の『猛』を発する行動をするという意味の説明をした。
杉梅太郎


これに対して、兄から次のような書簡が来た。
『二十一回猛士の説、喜ぶべし、愛すべし。
志を蓄へ氣を併する、尤も妙。
然れども今より十八回の猛あらばたまり申さず、多言するなかれ、多言するなかれ。
汝の此の言、幕裁緩なりとも、藩議獄に下す所以なり。多言するなかれ、必ず族せられん。
吾れ願はくは二十一回の猛を以て彼れが二十一代の史を歴観し、治乱興亡の然る所以を胸中に蓄へ、有用の大著述あらんことを。聞く、史馬子長、獄に在りて史記を輯すと。汝亦倣へよ。
と注意とし司馬遷が獄中で『史記』を書いた故事に倣って、「大著述」を心がけよとの提案をしてきたのであった。
しかし、松陰は、安政元年十二月十二日付の「兄・梅太郎宛て」の書簡で、『扨ても扨ても思ふまいと思ふても又思ひ、云ふまいと云ふても又云ふものは天下国家の事なり』。と胸中の意思を書き綴っている。


結局はこの三度の「猛」を発した行動で生涯を終えるのであるが、こうした心意気をこめた行動を、藩も幕府もこの国難(夷敵からの植民地化の可能性)に存亡をかけて立ち向かう気力もない。
したがって、松陰の晩年に「藩も幕府もいらぬ、ただこの六尺の微躯が入用」(安政六年、野村和作宛て書簡)という結論に達した時に、幕府から呼び出され、「安政の大獄」の最後の犠牲者として処刑されてしまう。

しかし、「松陰精神」は門下生等に継承されて、長州藩は幕末政局に縦横無尽の活躍となり、明治維新の大変革の立役者となる。
吉田松陰が「維新の先覚」と呼称される所以である。
松陰の門下生から逸材が沢山出たが、ここにも淵源を求めることができるというわけである。
松下村塾が、百姓屋敷の「物置小屋」を改造した、粗末で小規模な「私塾」でありながら後世に名を残すことになったのは、松陰のこうした「国を思う心」と実践を門下生に指導した結果である。







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