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佐久間象山の『海防八策』建白書
【2015/05/05 16:24】 エッセイ
「佐久間象山」の「海防八策」

幕末の「思想家」として、まず指呼に折るのは、肥後の「横井小楠」、そして松代の「佐久間象山」の二人であろう。
この二人には、存分に「水を得た魚」として、最大限に日本のために活躍して欲しかった。本当の真価が問われる「これから」という時に、志半ばで「暗殺」という非常手段に倒れてしまった。
いつの世も、先覚者は辛い運命を背負わされる。

その一方の雄である」佐久間象山は、『海防八策』という、当時(天保年間)としては極めて先進性に富んだ意見書を「老中」で「海防掛」だった真田幸貫(象山の藩主)に建白した。
松代藩主でもあり老中でもあった「眞田幸貫」は、寛政の改革で知られる松平定信の子息でもある。
従って、眞田幸貫は徳川の連枝とういう名門の出身である。もっといえば、徳川吉宗に連なる系譜となります。
この象山のような人材(逸材)を発掘するということは、言葉では簡単だが、「今に必要なもの」は何か?。ということを知っていなければ出来ないことである。
一つの大英断である。眞田幸貫が名君と言われる理由がこれでもわかる。幸か不幸か、真田幸貫は江戸時代に在って、「家柄がものを言っていた」時代の人である。
いつの世も、「常識に従っていれば安全」という人生観からは、変革の思想は生まれてこない。
そのためには、「命を懸けたリスクを覚悟しなければならない。でも、それを承知で敢て敢行した人物である。
150505眞田幸貫150505馬上の佐久間象山


元来、眞田家は「外様大名」であるあから、御三卿の田安家の血を引く幸貫は特別な理由があって眞田家を継いだものであろう。水戸の藩主だった「徳川斉昭」の推薦による養子であった。
海防掛担当の老中であったことから、人一倍海防に意を注いでいた斉昭に、海防意見の見識を買われたのであろうか。興味ある所である。
徳川斉昭は天保元年に第九代の徳川水戸藩主となったから、海防意見で一致をみたものがあったのかもしれない。
名君の誉れがあった眞田幸貫が、自藩の下級武士ではあったが佐久間象山を抜擢して、顧問にしたのも英断であった。
象山の見識は、肥後の横井小楠と共に大いに活躍して欲しかったが、共に横死してしまう。しかも同じ京都で。

幕末の不思議なことに、この一才しか年齢の違わない二人がどういうわけか逢っていない。江戸での会う機会はあったと思われるが、ついにその機会に恵まれなかった。幕末の思想家を代表する二人だけに、不思議であると共に惜しまれてならない。大いに議論を戦わせて欲しかった二人である。因みに、吉田松陰はこの両者と逢っている。小楠は越前に招かれて、藩政に大きく寄与した。松平春嶽が政事総裁職就任を小楠に相談してから、就任したのであった。優れた才能を存分に生かしきれなかったことは、惜しんでもあまりある。
その前提となった時勢を概観しておかないと、この『海防八策』の持つ意味が奈辺に在りや?となってしまうだろう。
時代は、常に動いているのである。
歴史を「動態的」に捉える事は、一つの「歴史観」でもあると思われる。

① 天保十年、六月二四日付、「阿蘭陀風説書」にて「アヘン戦争」関連情報伝達。清国政府が、広東の英人に対してアヘン密売を禁止する為に欣差大臣を派遣し、貯蔵アヘンを全て没収することを厳命、北京に於てもアヘンを吸飲したものは厳罰に処す等記されていた。
② 天保十一年、六月のオランダ船、清国が英国に対して『無理非道之事共有有之候所』から英国は「仇を報いんが為」清に軍隊を派遣、英国の対清宣戦布告を伝える。(岩下哲典著:江戸情報論)
(13年終結、香港の割譲、上海、厦門、福州、寧波の開港=南京条約)
③ 「文政の打ち払い令」から「天保の薪水令」への対外緩和策へ切り替え。
④ 浦賀奉行と下田奉行各々独立へ。羽田奉行、浮砲台設置。
⑤ 徳川斉昭の推挙で、天保十二年、眞田幸貫(松平定信の四子)は老中に就任。
    翌年「海防掛へ。」同年、「佐久間象山」幸貫の顧問となる。
⑥ かつて幸貫は象山を「修理は随分疵の多い男であるが、しかし天下の英雄だ」と評した。
   象山、感激して「あの賢明な殿様から天下の英雄との折り紙は、身命も惜しまぬ忠臣たらん」と決意。儒教を東洋の  道徳、科学を西洋の芸術と評した。

150505佐久間象山




天保十三年十一月「感応公に上りて当今の要務を陳ず」(海防意見書)『海防八策』
一、 諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、 阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、 西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき樣仕度候事。
四、 海運御取締の義、御人選を以て仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、 洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駈引習わせ申度候事。
六、 辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、 御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、 貢士の法を起し申度候事。


佐久間象山の有名な「海防八策」で、これが建白されたのが『天保十三年』であることを考え合わせて見ると、如何に先進性に富んだものであったかが解かる。
吉田松陰への大きな影響を見る事が出来る。
幕府で、評価したのは「川路聖謨」のみであった。
ペリー来航に先立つこと十一年である。江戸時代における「幕府閣僚」の人物たちは、「体制を維持することを以て任務とする」のが本意ではなかったか。「体制内の改革思想」は、普通の考え方では出てこない。保守的思考からは、革新的発想は生まれない。それゆえ「吉田松陰」は、「郷党多く容れず」と自賛に書いた。おそらく、彼の本心であったに違いない。異端視するなかでの信念を貫くことは、辛かったに違いない。先覚者とはこれに堪えて、さらに前進する世の中を創造してゆかなければならない。松陰にとっては、辛いという意識よりも必死にこうした世の中の現出を願い続けている内に、己の天命と受け止めたのに違いない。
それは、『留魂録』の精神でもあるように思われる。

吉田松陰

だから、象山は「突然現れた」ぺりー艦隊に対して、幕府の「慌てぶり」を見て、「だから言わんこっちゃない、今頃慌てふためいても遅い」と怒っていたのである。
門下生だった吉田松陰も、その『幽囚録』の中で、下田蹈海を決意させたものが、西欧先進国の技術、軍事力、政治力、経済力を総合した「国力」を実地検分しない限り、日本の行末はないと結論して、勇気ある決断となった。
従って、松陰の下田蹈海を壮挙とし象山は「激励の辞」を贈ったのであったと思われる。
結果を「歴史的事実」として、知っている私達はこうした出来事や、考え方を、それほど抵抗なく受け入れてしまうかもしれない。
果して、そうした学び方で良いのであろうか。先覚者の命懸けの生き方や信念に思いを致さなければならないように思えます。
安政六年七月中旬に書かれた「門下生への教え」は、師弟もろとも「学ぶ」姿勢を失なわないことが大切なのだと、私達に問いかけてくるように思うのは、「ひいきの引き倒し」なのであろうか?
 教育とは、「上から目線ではなく、同一レベルの目線で、共に悩み、考え、そうして行動を導き出す事」が教育の本来のあり方であろうと思われる。
教員経験者が一般社会で「使い物にならない」とは、むかしから言い習わせたことばである。
聖職者観が己の尊厳を過大評価して、人間が貴賤貧富を問わず、潜在能力の発見、引出し、伸長に思いを致さなければ、吉田松陰の「松下村塾」はあり得なかったのではなかろうか。
今回、世界遺産に登録される気運が高まったことの意味を、よくよく考えてみる必要があると思われる。



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