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『松陰と幕末・明治の志士たち』の出版
【2015/06/24 16:47】 エッセイ
【松陰と幕末・明治の志士たち】

平成26年10月末に、NHK出版から掲題の本の執筆依頼が舞い込んだ。
突然だったので、とっさに返答が出来なかったが結局引き受けることになった。然し、来年(今年)の大河ドラマと共通しているので、解説的な意味もあるからと、考え直して、少しくらいは役に立つかもしれない。
特に吉田松陰は、難しいし、易しく書くことは意味があると思い。困難を承知で書くことになった。文字数にして12万字の長い文章を書くことになった。人生初体験です。
400字詰の原稿用紙で、300枚である。早稲田でも、慶應でも書く機会の無かった、長い長い文です。丁度今年は、松蔭大学で『吉田松陰論』を担当して10年目の区切りの年でもある。
思い切って、書き始めたのが11月末、関連書物の整理をして、常に机のわきに数十冊の研究書や、要因全集を常備して書いた。
それでも、書籍が不足で、途中で数冊の本を追加購入しなければならなかった。そうして、読みこみながら書着続けた。

150625松陰と幕末明治の志士たちアマゾン写真



本と言うのは、読むのと書くのでは大違いである。書いてみて初めて分かったことであるが、読むことの方が数倍も楽である。
先ず「構想」を立て、「章立て」をどうするかから始まって、といろいろ考えながらである。食事を取りながら走っているようなものである。あれもこれもと、沢山のことが頭に浮かんで来ますが、物には順序があります。
タイトルも当初の表現と異なり、同時に章立ても、それに応じて変化した。これは、読者を想定して、依頼されたので、私も賛同したので変更になりました。
すでに、書き始まっているので、途中からの掲題変更はどうなるものかと心配していた。全部で13回放送分のうち、6回目からは掲題のタイトルに基いた内容となった次第である。
毎回分が書きあがるたびに、送付したが、途中、何度も書き直しを指示されたり、論理展開の整合性が不十分と言うことで、追加書き込みを要請されて困ったことが何度もあった。そのたびに、葛藤が起きる。自分の我儘な感情が、リタイヤの願いを喚起して来る。でも、そうは簡単に変更などは出来ない。そうすれば、編集者に迷惑がかかること請け合いであると、言い聞かせて我慢を続けながらであった。

結局は書き直し分を含めると15万字ほど書いたことになると思われる。
吉田松陰の伝記は、明治24年以来、現在まで、およそ300冊近くのものが刊行されているはずである。
参考文献も、必要な部分だけを確認するにとどめたが、それでも文章化するにあたっては、やはり読んだ記憶のあるものついては数度の確認作業を強いることになった。
私は「徳富蘇峰」、「玖村敏雄」、「海原徹」先生の書かれた『松陰伝』または「評伝」が、現在までに書かれた中では最も優れたものと思っている。今後もこれを越える内容の本を書くことは困難だろうと思っている。
昭和11年に刊行された『定本版・吉田松陰全集』、14年に書き下しにして少し簡略化した『普及版・吉田松陰全集』(何れも岩波書店刊)。
昭和48年の「学制発布100周年」に刊行された『大衆版・吉田松陰全集』(大和書房刊)を用意して、三者の『吉田松陰伝』の研究書と付け合せながら書き進めた。
そのために、結果として、全集にも相当数目を通すことになったのは、とても勉強になった。

何より有難かったのは『公益財団法人・松風会』の『脚注解説・吉田松陰撰集』の脚注と説明であった。
この5カ月に、これ等の本を何度繙いたであろうか。マーカーを使い、惜しげもなく本を汚したのであった。
そうして、よく解かったのは『定本版』が最も完成度の高い内容であることであった。
しかし、原文に近く、大半が漢文で書かれているために、私の能力では太刀打ちできないのである。
そのたびに、大衆版を紐解くと、今度は収載されてないことが幾たびかあい、それに出逢う度に落胆しながら書き進めたのであった。

大隈講堂前に



これまでの10年間で、全集は何度も何度も繙いていたので、必要な文献のペイジが速やかに開けられた。
3月の半ばで、大略が書きあがって提出済みとなったが、問題は【校正】での確認と、調べごとであった。
出典確認を、厳しく追及され、あわてて再度研究書を紐解く始末であった。
該当なしの場合は、新に購入しなければならなかった。
大正時代に刊行された本ゆえ、本のタイトルが解からない。
そんなことも苦労しながら、一歩、一歩クリアしていった。
書くことも苦しかったが、校正の段階は、妥協の余地がなく、有無を言わせずに回答をもとめられた。
これが、何とも辛かった。何度、途中で投げ出そうかと思ったことか。

過度のストレスから「蕁麻疹」に悩まされ、ひどい時には「病院通い」であった。
服薬では効果が遅く、点滴を打ってもらったことが二度あった。
思い返すと、初体験である事、最初から書き上げなければならない時期が設定されていたことが、何よりもつらかった。
いつも、何者かに追われているような日々であった。平成27年6月25日が「発売日」である。明日である。

そして、「ラジオの収録」も全部で6回の内、既に2回を終えた。
本を出すということが、これほど大変な事とは、想像を遥かに超えたものであった。
よく、あとがきに、「編集者」に励まされて、どうにか書き上げる事が出来たという、体験談風の苦労話の事が書かれているのを読んだことがあります。まさに、その通りであった。書くことは、自分の頭の中を整理するという意味があります。これは体験的に解かったことであります。しかし、苦労はしたが、何とか目的を達成することが出来たことを喜んでいます。誠に感慨深いものがあります。


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『現在の日本の実際の姿』
【2015/06/06 21:46】 エッセイ
「国際化時代における日本のあり方」

この掲題は、「現在進行形」の問題で、大変に「なまぐさい」標題であるから、興味を喚起する方々も多いと思われる。単なる興味本位で考えるのでなく、しっかりと現実を踏まえて考えなければならない。

実は、吉田松陰は桂小五郎(木戸孝允)に対して「竹島(鬱陵島?ドクト?)」のことを調査して、日本の「国威」を示す一つの手段にしようとしたことがある。
国境線が明確でなかった19世紀当時のあり方であるが、とりわけアジアにおいては、欧州のように、つねに政治力学の反映として国境線を定める概念が乏しかったという歴史的経緯を考えなければならないだろう。
四方を「海」で囲まれ、「海」に浮かぶ「島」の帰属は、海洋利権という、当該国民の生活利益が絡んでくる日本のみならず、21世紀の国際社会においては、「のっぴきならない」主張がなされているのである。
『杉家本・吉田松陰』


この「竹島」は、現在の韓国でいう「ドクト(日本名:竹島)」で「鬱陵島(ウルルン島)」としばしが混同されるようである。しかし「鬱陵島(ウルルン島)」は朝鮮半島に近くにあり、これを日本領土と主張することは関係各国の支持を取り付けることは困難だろう。だから吉田松陰の言う「竹島」は「鬱陵島」ではなくて「日韓双方」が自国領と主張し得る「竹島・ドクト」という微妙な位置に存在するものである。たかが「岩石だらけの島」ということなかれ。領有権の背後には、利権が大きく立ちはだかっているのである。
実は、幕末に吉田松陰が云い出した、この問題は「長州藩」の問題として、幕府は関知しなかったようである。
だが、こういう問題を早くに主張した松陰は、さすがに抜け目がなかったと言える。国威発揚のためにも必要であったのであろう。

吉田松陰に『幽囚録』という作品(論文)がある。そこでは、次に様に書かれている。
「日昇らざれば則ち昃(かたむ)き、月盈(み)たざれば則ち欠け、国隆(さか)んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善く国を保つものは徒(ただ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり砲略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムサッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球を諭し、朝覲会同すること内諸侯と比(ひと)しからめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸く進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて返圉(変馭・国境)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争集の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(うごか)すことなlく、而も国の替(おとろ)へざるもの、それ幾(いくば)くなるか」。
国威発揚のための論文である。
150607東アジア


ただ、ここの部分を拡大解釈して、昭和十年代の海外進出」の大義名分の論拠として吉田松陰の「大陸進出論」として、かつがれ、松陰ブームとなったことも事実である。
翻って、今日の日本は、隣国から「実効支配」を受けっぱなしである。何故か? 日露戦争前後の国際社会で信用の無かった「孤立した日本」でも、当時は「世界の一等国」(第一次世界大戦)で、正面切って「異議」を申し立てる国がなかったともいえる。
人種差別は現代では消滅したかのような様相を呈していしているが、どうしてどうして、深層の水面下ではくすぶり続けている。
「原爆投下」は人種差別であった。また「北方領土未返還」は、伝統的な、「ロシアの南下政策」の一環であると同時に、国後、択捉の排他的経済水域が絡んでいる。このオホーツク海南部の「漁業権」の持つ経済的利益は、軽く見てはいけない。あまつさえ、大戦終了時に「北北海道」を分割して、ロシア領土としたいとした「領土的野心」は、さすがにルーズベルトに反対されて実現しなかったから助かったものの、大変な事態となりかねなかったのである。

何百年かの後には、根本的に解決できるかと愚考して見るに、残念ながら否定的な考え方しか思い浮かばない。
現在の日本が「隣国」から、「ナメラレ」ているのは、軍事的脅威の懸念がないからである。どんなに奇策を用いようと、どんなに憲法解釈を閣議決定して変更しようとしても、「戦争の放棄」と「軍備を保持しない」とした憲法の条文は、国際紛争(特に日本国民の財産生命を守るため)に自衛隊を動員させるということは無理がある机上論である。憲法の精神を枉げてしまうたぐいの何物でもない。誰が読んでも「日本国憲法」は、戦争放棄と「国家としての戦力保持」を持てない。
堂々と「改憲」手続きを、憲法の定める所に従って改正しなければ、だめである。

政治家は、これに対して真正面から挑まない。国民の賛成が憲法の規定する改革の条件を満たす所まで賛意が得られない。
政権を維持する方が先で、堂々と勝ち負けを度外視して賛否を問おうとしない。だから、隣国から経済以外は「尊崇の念」を抱かれないどころか、小ばかにされている。いくら国内的に明治維新を称えたとしても、僅かに八十年で國家は自滅し、吉田松陰の言う「独立不羈三千年の大日本」が幻になってしまった。「国破れて山河あり」だが、人間の営為としての国家は「昭和二十年からサンフランシスコ講和条約」まで、独立国家ではなくなってしまった日本の現実を、深く考えて反省しなければならないと思う。

最近の朝日新聞や文藝春秋ライブラリーに、吉田松陰の評伝記事が書かれた。昭和11年に刊行された『吉田松陰・玖村敏雄著』が「教育者・吉田松陰」像に否定的であり、尚且つ「危険人物視」している。自分の生涯を懸けて、「日本の植民地化」を防止しようとした吉田松陰に対して大変残念な記述である。松陰の「尊王攘夷」は、砲艦外交による外交手段から派生したものということには触れられていない。尚且つ、砲艦外交の延長線上にある「幕府政治」の西欧諸国の通商申入れを危険として、無断勅許にて調印し、さらにそれへの批判や反対に対する弾圧姿勢にたいして、やむなくテロ的行動を採用せざるを得なかったことにも言及されていない。所詮、評論とはそんなものなのだろうか。部分にこだわり、全体を見ない、観てきたような評論家という言葉は、現代でも生きている。吉田松陰の尊王論には『神国由来』、『文政十年の詔』、『後期水戸学』、そして父・杉百合之助の生き方や皇室観に言及して、尚且つ「攘夷」をやむなく提唱した経緯などには全く触れられていない。残念なことである。





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