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吉田松陰精神(志の継承)
【2015/08/09 14:52】 エッセイ
『吉田松陰精神』を模索して


日本の歴史上で「近世・近代」の時期に於て、最も天晴な完全燃焼の人生を送った人物といえば「吉田松陰」と答える史家は多いに違いない。
その理由を求めていくと、「山鹿流軍学師範」に突き当たります。江戸期の長州藩にあって、「山鹿流軍学の師範」の任務は「クニ」を防衛することであった。

現代人の私達からすれば、奇異に思われるかも知れないが、江戸期に在っては「藩」は「独立自治」の権限を、中央政府たる徳川幕閣から大幅に附与されていたのである。
その反面「面従背腹」の微妙な幕府と藩との心理作戦を含んだ、外交儀礼に名を借りた接触のあり方が微妙な「権力均衡」の上に成り立っていたという時代背景があった。
徳川政権は「関ヶ原の戦」での勝者と敗者の大名に、権力に対する服従を強いるという特殊事情がその背景にあったのである。

吉田松陰 

「クニ」を守るということは、当時に在っては「日本国」よりも戦国時代の名残で「他の大名からの侵略」を防止する任務も受け持たされていた。さすがに幕府(徳川氏)を真正面から敵視して藩(クニ)の防衛と言うのは、少なくとも表面上では表れず、それを制度化していたとは言い得ないが、通称、長州藩の「暁の儀式」と呼ばれる、怨念と復讐の思いは「リメンバー関ヶ原」としてそれは保持され続けた。とりわけ、関ヶ原の戦後処理の中で「悲惨な待遇」(主として減俸)を受けた外様大名に中には、これに似た思いがあったに違いない。

各藩に「軍学師範」が存在したのも、こうした藩単位での軍事力は防衛を目指したものに他ならない。特に、長州藩の様に三方を海に面している藩にとっては「海防」は常に危険にさらされているわけである。幕末長州藩の礎を築いた功労者の「村田清風」は、日本の近海に夷船が頻繁に出没するようになっていたこともあって、海防に対する意識は喫緊の課題として重要視していた。吉田松陰が、ペリーの来航と「砲艦外交」に誰よりも鋭く反応したのは「国防」を任務とした、職業的発想がこうした事件に敏感であったと考えられる。加えて幕府の為政者が「城下の盟」を誓うが如くに、ほとんど無策にペリーの要求を受け入れたということが国防意識の高い人物にとっては、「唯々諾々として敵の言うままに受け入れた」と反応し、批判的に受け止められたに違いない。

少なくとも、打続く泰平に士風は低下し、治者階級としての武士は職務怠慢の象徴のように松陰には映ったに違いない。固定化した身分制度と社会、世襲制のあり方がそれを助長するものとして受け止められた。ここに社会の硬直化した構造を打破し、人材抜擢を強く主張させるものがあったと考えられる。自らはストイックなまでに「己を修める」ことを課して、修業や学問に打ち込んだのであった。

「福堂策」に見られる人間再生や教育刑のあり方、「志」の不明確な生き方に対する厳しい自己教育の必要性を松下村塾に学びを求めて来る青少年に「何のために学問するか」と問うたこと。さらに「学者になってはいけない、人は何よりも実践が大切である」と諭し、「共に学ぶ精神」で「師」としての態度をとらず、事上磨錬の生きる態度を塾生に要請したのである。

そして、自らも「藩を越えた日本国」の防衛実践を目指したのであった。塾生にも率先垂範の生き方や態度を目の前で実践しつつ「お勉強なされい」と、常に呼びかけていたのである。「学は人たる所以を学ぶ為り」と『松下村塾記』で、学問の目的を明確に示したのも、松陰の誠実な心の中を吐露したものである。そうして人生における実践も、学問もしの原点は「志」であるとした。『士規七則』で、人の禽獣と異なる所を明言し、「志」を持ち得るのは人間だけであると言ったのも、同様な人間観や学問観と考えられる。そうして、『孟子』の「性善説」をもとに、人は各自が志の志向するままに、懸命に向上心と共に生きることの大切さを説いたのである。
150625松陰と幕末明治の志士たちアマゾン写真


この考え方が社会に向かう時、松陰の修業時代の治者階級の人々の「ていたらく」な生き方は許しがたいものになる。社会も歴史も人間の生きるという営みの成果として、人間らしく、「道」を求めて生きなければならない。それを正しい方向に改造するためには「教育」の重要性が求められなければ、それは覚束ない。松陰にとって松下村塾とは「人間形成」を共に目指す「教育事業」の実践の場であった。

実学的発想に基づいた「主観の完全燃焼」が出来る人間を目指したのが松下村塾であった。そこには「志」と「実践意欲」を眼目とした「奇傑非常の人」の育成によって、よりよい社会の建設を願った松陰の姿があったのであった。したがって、門地、職業、身分、出自を不問にした、極めて今日的な人間に対する信頼と平等感があったのである。そうして、個性を重視した教育をし、特長を引出すことによって人間的な社会貢献を目指したのである。桂小五郎との「高杉晋作」の教育的な話し合いはそれを実証してくれる。「角を矯めて牛を殺してはならない」と言うのが松陰の教育観であった。

だから塾生の一人一人に、自己教育を要請し自らお手本を示したのである。『留魂録』や『諸友に語ぐる書』は、こうした認識の上に立って読まれなければならない。そうして、松陰精神は門下生達によって受け継がれて幕末政局の活躍の土台が築かれていったのである。松陰の「志」を門下生に継承することによって「吉田松陰の教育事業」は完成したのであった。刑死の前日まで、志の継承によって明日の新日本建設を願った吉田松陰。死に際までの教師であった。


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