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『飯田正伯・尾寺新之丞』宛・死罪覚悟後
【2015/09/19 09:40】 エッセイ
『飯田正伯・尾寺新之丞』宛書簡                  十月二十日  松陰在江戸 飯田・尾寺在江戸

現在の十思公園は、江戸期の「小伝馬町」の牢屋があったところです。吉田松陰が最期を遂げたゆかりの地です。公園と小さな道路をはさんで、「処刑場」があったようです。この公園には「半鐘」があり、江戸期には刑の執行が行われると「ゴ~ン」と撞かれたようです。江戸庶民は、その鐘の音を聞いて、「ああ、今日も刑の執行がなされた」と知ったという。
この十思公園の片隅に「吉田松陰の留魂録の冒頭に書かれた和歌」の石碑が立っている。木立に囲まれているためか、直接の日照がないようで、ひっそりと眠っていないような感覚である。
150919十思公園石碑


ここの「伝馬牢」の「揚屋」の一室で、松陰は多くの書簡を書いた。
この「飯田正伯・尾寺新之丞」あての書簡は、安政六年十月二十日に書かれた。牢内で多くの志士たちとの交流があったことをうかがわせる内容である。事実、『留魂録』にはそれを裏付けるかの様な記述がされている。ここに「沼崎吉五郎」の名前が出てくる。金子三両の大金であり、如何に松陰が恩人として世話になったかを偲ばれる。実は、松陰は「門下生宛の遺書」として、『留魂録』を二通書いた。獄吏(石出帯刀:牢奉行、世襲)に没収された場合の事を想定して、同じ牢内の「名主」であった沼崎に、もう一通の『留魂録』を託したのである。彼は、遠島処分が決まっていて、三宅島に流されることになっていたので「刑期」が終了して、江戸に戻ったら「長州人」に手渡すよう願ったのである。現在、萩の「松陰神社」に蔵されているのが、この沼崎に托した方のものである。もう一通は、首尾よく長州人に渡ったが、門下生が書写したり、廻し読みを繰り返しているうちに、行方不明になってしまって、現在も不明である。
託された沼崎は、三宅島での15年余り、男の約束を果すべく、辛い三宅島での生活に堪えて、明治9年に時の神奈川県権令であった野村靖(和作)に手渡された。この間の経緯を書いた小説に『遥かなり三宅島』という本が、作家の永冨明郎さんによって刊行されている。これを読むと、非常につらい日々の生活だったと書かれている。松陰は死後の後始末まで、きちんと手当して、色々な人物に托していた。その意味で、この書簡は、短いながらも、価値があるものと言える。

150919十思公園


一、 長谷川速水は八月二十二日より同居致し候。此の人もし追放ども相成り候はば、 國元へも參るべき存念に御座候。   宗右衛門の倅なれば何卒鼓舞致し度く、僕も精々心を盡し候間、其の御心得に成し下さるべく候。宗右衛門は東奥揚屋のあり、老功の人なり。

一、 勝野保三郎・山口三輏の両人御申合せ、小生の後事御取計ひ下さるべく候。

一、 囚中にて恩になり候人沼崎吉五郎と申す人なり。此の人篤志の人なり、用に立つべき人に御座候。遠島なり。

一、 鷹司殿御家来小林民部同居致し候。水戸殿家来鮎澤伊太夫是れは同居は致さず、 両人遠島なり。姓名御記念下さるべく候。

一、 東口揚屋名主堀達之助、此の人にも世話に相成り候。

一、 首を葬ることは沼崎と堀江に頼み置き候。代料三両計りもかかり候よし、御償返下さるべく候。

一、 周布に頼み金十両計り御かり、首の償料の外沼崎に三両、堀に一両、堀江に一両計りも小生生前の恩恵を忘れざる志を表して御贈り下さるべく候。

一、 傅之助・杉蔵・和作三人、此の度小生口上書にも出でざる樣精々骨折り候。三奉  行も御慈悲之れあり、大原往來物  御しらべ之れなく候。右に付き右三人速やかに出牢に相成り候様御周旋下さるべく候。

   十月二十日認め置く                         松陰

飯田君
尾寺君

堀江より子遠へ遣はし候書簡間違い申さざる樣御願い仕り候。


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【飯田正伯】宛て書簡 をどう読むか
【2015/09/09 23:45】 エッセイ
【飯田正伯宛】書簡  (安政六年)十月六日 松陰在江戸獄 飯田在江戸

この書簡には、大事なことが書いてあるので、全集から転記して見ます。
「赤字で書いてある部分を、全集だからといって、そのまま受け容れてよいのかどうか?  たしかに、この文章では、大原三位や梁川星巖などとの往復書簡に評定所では触れていなかったと書いてある。この頃は、井伊直弼の判断が反幕府思想を抱いている者を一網打尽にすべく、老中連署の判断を、一等格上げした判決に書き改めていたはずである。橋本左内が死罪を執行されたのもこの日付と同日である。松陰を死罪にすることが決っていたので、奉行が言わなかった可能性がある。 はるばる萩まで召喚命令(下達は江戸藩邸上屋敷の人物へ命令した)した理由が、松陰自身が予期しなかった程度の嫌疑であった。井伊直弼の強権発動に、ただ従っていただけに、十月六日の時点で穏やかな奉行の態度で、松陰は楽観視して重くて遠島、もしくは他家預けという、甘い予測を打ち明けている。梁川星巌の居宅で『愚論』や『続愚論』の天覧に供したものが押収されて、召喚命令が下されたのではないか」と思うのである。証拠物件を押収したから、召喚命令が下されたのではないかと思う。仄聞レベルで、召喚命令を下すかどうか? 私は疑問を持っている。証拠をつかんでいたから、尊攘派の梅田雲濱や頼三樹三郎がらが証言しているぞ!という評定所の言い回しになったのではなかろうか。
安政の大獄


飯正老兄  六日                          松陰寅拝白
昨五日の書今六日相届き、金二両とも慥(たしか)に落掌仕り候。是れより先き、追々高杉より届呉れ候金六両、此の金を合わせて八両、悉く老兄の御心配成し下され候趣、一方ならざる御厚情謝述盡し難く存じ奉り候。
老兄にも嘸々御困り成され候はんと拝察したてまつり候。何とぞ早く國元より相届き候はば御償返仕り度き存念に御座候。

○西洋陣法追々御作興在らせられ候由、此の事大慶に存じ奉り候。何卒御精錬祈り奉り候。

○昨五日小生評定所御召出し、未だ口書きには相成らず候へども、弥々御慈悲の御吟味口に相決し候。其の件は大原卿・星巖翁へ書信を通じ候事も、往来相働き候面々の姓名一向出で申さず、只だ人を以てとのみにて相済み候。之れに依り傅之助・杉蔵兄弟等の連及の患なし。下総侯要駕の策も只だ一命を棄てて諌争と申す事にて相済み、連判の人名等一向御調べ之れなく候。此の類寛猛に付いて餘程関係之れある事に御座候間、御考味下さるべく候。

○昨日同舎より讃侯内長谷川速水、東口より勝野森之助呼出しなり。御預けの部は大竹義兵衛・筧章蔵・勝野豊作妻及び娘以上七人、皆未だ口書きには成り申さず候へども、大略相定まり候様子なり。

○鷹司家の小林(民部)は同舎にて甚だ相互に相楽しみ居り候。但し遠からず遠島、惜しむべし。水戸鮎澤伊大夫は東口なり。數々詩作等見申し候。是れも同断。○東口に居り候堀江克之助は如何にも篤厚の奇士なり。羽倉の三至録に窪善助とあるは實に此の人なり。此の事諸友へも御知らせ下さるべく候。

○色々申上げ度く之れあり候へども、先づ是れにて閣筆仕り候。小生落着如何は未だ知るべからず。死罪は免るべし、遠島にも非ざるべし。追放は至願なれども恐らくは亦然らざらん。然れば重ければ他家預け、軽ければ舊に仍るなり。いづれ當年中にどちとか片付き申すべく、若し歸邸出來候はば老兄何卒一計を設け病用に托し一面を許し給へ、色々談じ度き事之れあるなり。御熟思下さるべく候。以上。(別紙)
  券
一、 金八圓定
右追々拝借仕り、大いに獄中の艱苦相凌ぎ仕合せ申し候。後證の為め寸券を呈し置く事此の如し。
未十月六日                         二十一回猛士藤寅拝
飯田正伯老兄  足下
二十一回猛士の写真


飯田正伯は、吉田松陰全集の「関係人物略伝」には、以下のように記されています。
「長藩醫師なり。松陰の兵學門下となれるは安政五年三十四歳の八月にして、九月末江戸遊学の途に上りしを以て、特に深き師弟関係を結べるものとも思われず、唯だ安政六年七月、松陰江戸傅馬牢の獄に繋がれし頃、尾寺新之丞・高杉晋作と共に江戸にありしを以て周旋大いに勉め、刑死後尾寺等と遺骸の請受埋葬等に奔走盡力せり。翌萬延元年七月浦賀の富豪を襲ひ軍用金を調達せんとして捕へられ、文久二年獄中にて病没す、享年三十八。」


『幕府奉行を震撼させた自白』の場面の高杉への報告書
【2015/09/06 19:29】 エッセイ
「高杉晋作宛」書簡     安政六年七月九日頃  松陰在江戸獄 高杉在江戸

この書簡は『留魂録』や『諸友に語ぐる書』を理解するためには、『必読の書簡』であります。
第一回目の評定所での吟味(取調べ)の様子が、生々しく書かれています。
松陰の念願(幕政改革の提言を願った)が、必ずしも十分に(松陰の言葉では十のうち、四か五の程度)汲み取ってくれない無念さを読み取ることが出来ます。
書き留めしていないことが書かれています。これが、後の十月十六日の評定所の場面に繋がって行きます。ですから、松陰は「権詐」と表現しました。真意が本当に、しかも十分に伝わらなかった無念さが解かります。

すなわち、十月十六日以前に、井伊直弼の「遠島を死罪に変更」したことが推測されます。明和事件も、宝暦事件より処罰は厳しかったのと同様に、井伊直弼は、譜代の筆頭であるがために百年前と似たり寄ったりの判断でした。「開国の恩人」如き評価を下している書物には閉口してしまう。知らない人は、こうした「顕彰の行為」を、そのまま受け入れてしまう。危険なことである。
ある意味で「馬鹿正直」すぎた松陰は、戦略的(法廷戦術)には疑問が残ります。軍学師範ですから「オハコ」のはずなのに、どうして法廷戦術を誤ってしまったのか?残念です。半面、人生の道半ばで倒れたからこそ、支持者が多いと言えるのかもしれません。老醜の「たわごと」を残さなかった故に、無限の可能性を松陰ファンは夢みて松陰を礼賛していることもあり得る事と推測されます。
それはさておいて、まず、「信頼する愛弟子」への書簡を、虚心坦懐の気持ちで読んで頂きたいと願っています。

では、下記の「吉田松陰全集」(大衆版358頁)の全文を読んでみて下さい。

吉田松陰結跏趺坐小


評定所の様子大略申上げ候。問个(もんか)條二つ、一に曰く、「辰年冬、梅田源次郎長門へ下向の節、密かに面会何を談じ候や」。余曰く、「談ずる所なし、ただ禅を学べなど學問の事を談じたる迄なり」。奉行曰く、「然らば何故蟄居中故(ことさら)に面会せしや、不審なり」。余曰く、「御不審御尤もなり。吾れも源二心中知る能はず。但し源次二郎曰く、余が長門へ來るは、全く義卿丑年余が京寓を尋ね來たりしいり、追々長門人への因み出來たるになれば、其の本を思うて來問するなり、別に談ずべきことなしと。故に寅も亦辭せずして面會するなり」。二に曰く、「御所へ落文あり、其の手跡汝に似たりと源二其の外申し出づるものあり、覺え之れありや」。余曰く、「斷じて覺え之れなし。寅著はす所、狂夫の言・對策・時勢論・大義を議す等忌諱に觸るるもの少なからず。若し是れ等の作、他人携へ去って 御所内に投ぜば心底に任さざれども、吾れ敢へて落文をなさず」。奉行曰く、「汝上京はせぬか」。余曰く、「吾れ一室の外曾て隣家へだも往かず。是れ萩中萬耳萬目、掩ふべからざるなり、何ぞ乃ち上京せんや」。曰く、「憂國の餘、人をして落文せしむる等のことはなきか」。余曰く「寅の観る所大いに然らず。試みに時勢論を見給へ。寅明かに 明天子・賢将軍・忠侯伯なし得ざるを知る、故に自ら天下の事をなさんと欲す。豈に落文を以て、明天子に難きを責めんや。此の事寅必ず為さざるなり。抑々落文は何等の文ぞや」。奉行初め數行を讀み出す。余曰く「寅の為す所に非ず。若し寅が手書を得んと欲せば、藍色の縦横なる家板に楷書に書きたり。其の他は寅の手録に非ざるなり。落文とは何如なる紙ぞ。」奉行曰く、「竪の繼立紙なり。」寅曰く、「非なり非なり」。奉行端を改めて曰く、「赤根武人は知るか」。余曰く、「熟知す。彼れ少年の時曾て僕の家に來りて寓す」。奉行曰く、「武人皆汝が策を知るか」。予曰く、「恐らくは一二を知って八九を知らず。武人は源二の塾に在り、源二の捕へらるる、御不審なきに因りて歸國を免ぜらる。時に萩に來り半日談ず。直樣亡命上京す」。奉行曰く、「武人何故上京する」。余曰く、「其の師、縛に就き、弟子亡命して上京す、其の志問はずして知るべきなり」。奉行猶ほ余を援(ひ)きて梅田の黨に入れんと欲す。余慨然として曰く、「源二も亦奇士、寅相知ること淺きに非ず。然れども源二妄りに自ら尊大、人を視ること小兒の如し、寅の心甚だ平かならず、故に源二と事を同じうするを欲せず。寅は則と別に為すあるなり」と。因って詳かに丑寅以來の事を陳ぶ。奉行亦耳を傾けて曰く、「是れ鞠問の及ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤、汝の為めに細かに聽かん、縷述を厭はざるなり」と。余乃ち感謝再拜し、因って應接書を暗誦し逐一辯駁す。奉行また色を動かして曰く、「汝蟄居し國事を詳知するは怪しむべきなり」。余曰く、「寅の親戚、讀書憂國の者三數人あり、常に寅の志に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の國事を知る所なり。寅死罪二あり、皆當に自首すべし。但だ他人に連及するは心甚だ之れを惧る、敢て陳ぜざるなり」。
150906江戸期の法廷


奉行温慰して曰く、「是れ大罪なきなり。之れを陳ずるも妨げず」と。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと。因って玄瑞・清太二人の名を挙ぐ。奉行亦甚だしくは詰らざるなり。已にして奉行問ひて曰く。「所謂、死罪二とは何ぞや」。余曰く、「當今の勢、天子・將軍と列諸侯と萬々做(な)し得ず。寅明かに其の做すこと得ざるを知る、故に自ら做さんと欲す。故に再び書を大原三位に致し、吾が藩に西下せんことを請ふ。三位果して吾が藩に下らば、則ち三位と謀り吾が公を論諌せんと欲す。三位確報なし。吾れ其の為すあるに足らざるを疑ふ。會々(たまたま)間部侯上京して、朝廷を惑亂するを聞き、同志連判し上京して侯を詰らんと欲す。二事未だ果さず、藩命、寅を捕へて獄に下す」と。是(ここ)に於て座罷(や)み、後再び余を召す。奉行曰く、「汝間部を詰らんと欲す。間部かずんば將に之れを刃せんとしか」。余曰く、「事未だ圖るべからざりき」と。奉行曰く、「汝が心誠に國の為めにす。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、大膽も甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申し付くる」。
九日の吟味大略此の如し。只だ匆々(そうそう)中余が口陳僅かに十の四五にして、役人悉く書き留めもせず、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。委細に陳白せば、余が死後委細の口書き天下に流傅すべし。其の節御覧下さるべく候。
奉行三人皆其の人を知らず。一人は石谷因幡守ならん。○今日の議論三あり。奉行若し聽を垂れて天下の大計、當今の急務を辯知し、一二の措置をなさば吾れ死して光あり。」若し一二の措置をなす能はずとも、吾が心赤を諒し、一死を免せば吾れ生きて名あり。」若し又酷烈の措置に出て、妄りに親戚朋友に連及せば、吾れ言ふに忍びずとも亦昇平の惰氣を鼓舞するに足る、皆妙。
高杉晋作25.12.07


この時、松陰自身は自分の処分がどうなるのかの展望は、持っていなかったに違いない。それは、この日付の後の書物(書簡含む)で、遠島、他家預け、国元蟄居などと処分を見定めきれていない。
それが、十月十六日の呼び出しで「お白洲」(評定所)に出頭してみたら、俄然、奉行の態度が厳しいものとなり「口書きの署名」を求められて、大音声の論争となるのである。そして、松陰の主張を受け入れたかのように見せかけて、その実、文言の修正は松陰の思いと異なっていた。
松陰の言葉では「末文の改めざるを見ると、首をとるに違いない」と確信したのである。そうして、この日から十一日後に松陰は「権詐」の「奸計」によって斬首されてしまうのである。
しかし、「師の志」の継承を願った松陰の『留魂録』の真意を汲み取った門下生に引き継がれて、徳川封建体制(西欧からすれば時代遅れ)が消滅するのであった。だから、「明治維新」を、慶應三年(1867)10月14日の「大政奉還」や、12月9日の「王政復古の大号令」に限定した説明は、正しい説明とは言い難いのである。私の大学での授業では「1830年頃から明治23年の帝国議会開催」の半世紀を掛けて、封建体制の破壊と近代国民国家建設への過程をマクロ的に、世界史と照合させて理解(把握)することが正しいと説明するのである。明治初期の、庶民が認識した「ご一新」というだけでは、正しい明治維新の理解とはならないのであります。



長州藩『奇兵隊』誕生
【2015/09/04 09:36】 エッセイ
「奇兵隊」誕生事情

「奇兵隊」という名は、当時の藩の正規の軍(藩士のこと)に対して、命名されたことから「非正規軍」を意味していた。文久三年から、明治二年の「脱退騒動」までの短い期間であった。高杉が創設したのを、壊滅にさせたのは、同じ仲間の先輩にあたる木戸孝允であった。明治新政府は、財政難を抱えて居た事。そして、戊辰戦争に勝利して凱旋将軍さながらに、意気揚々と帰国して見たら「論功行賞」は期待外れだった。ここから、奇兵隊の不満が爆発する。明治十一年の竹橋騒乱も西南の役での実践兵への、論功行賞問題が伏在していたといわれる。ただ、こちらはエリートの近衛兵だったから、責任者の山県有朋は狼狽しながら、『軍人訓戒』を発表し、なおかつ頒布した。これが、後の「軍人勅諭」に連なっていくわけである。奇兵隊はこうした経緯で消滅した。勝者の中の敗者とでもいうべき結末だった。明治陸軍で活躍した山県は、山城屋事件で、失脚しそうになったが、西郷隆盛によって救われた。そうして、西南の役では、政府軍の司令官として西郷軍討伐の先頭に立った。なんと歴史は冷たく、悲劇を起す残酷な一面を持っているのだろう。矛盾をはらみながら、進捗していくのが歴史的営為なのかもしれない。奇兵隊の精神の原点は、吉田松陰の「西洋歩兵論」や、晩年の「草莽崛起論」から創出されただけに、松陰も、高杉も、不満足だったのに違いない。歴史の皮肉としか言いようがないと思うのである。


「萩ノ家中ハ下関ニテ ガチャガチャ致シ候者 逃支度在ル体ヲ見テ、町人百姓迄ガ武士ト申ス者ハ アノ様ニ弱リテ役ニ立タヌモノ歟(か)ト 皆々大ニ歯ガミ致シ候由」(匿名書)

これは、文久3年(1863)5月10日に、長州藩が下関でアメリカ商船、ベムブローク号の下関海峡通過に対して、幕府の約束した攘夷実行日の名分にて砲撃したことに対する米・英・仏・蘭の四ヶ国による反撃で、長州藩(軍)が壊滅状態にされた時の武士の戦いぶりの「腰抜けぶり」を暴露した書である。
四ヶ国艦隊との一戦で、太平の世に慣れきって、戦いに役立たずの武士の姿をさらけ出してしまったのを見た民衆が、揶揄しながらも冷静にみている大変興味ある文である。
元来武士の職分は戦闘集団であるはずなのだが、「元和偃武」以来の太平で武士が変質してしまったのである。治者階級として官僚化してしまった武士の末期的症状とでもいったらよいのか。

さて、本題に入る。この外艦との一戦の収拾にあたり、長州藩(藩政府)はそれまで脱藩の罪で「野山獄」に収監されていた高杉晋作を担ぎ出す。『先生(松陰)を慕いてようやく野山獄』と、収監の心境を歌に託していた晋作だったが、突然の宥免と大役が回ってきたのである。
高杉晋作25.12.07


ここから高杉の真骨頂が発揮され、時代の寵児となる運命が開けるから、人生は誠に不思議なものである。ではどうしたか?
高杉は「新策」を立てる。すぐさま萩から下関に飛んで、来島又兵衛と戦略の秘策を練って「奇兵隊」を組織する。もともと萩藩では藩士で構成する正兵があったが、これが前述のように役立たずであるから、別途の兵隊を組織した。これを正兵に対する呼称として「奇兵隊」と名づけた。高杉は藩主に上申書を提出する。それには次のような内容が書かれていた。

奇兵隊々法上申書 (文久三年六月七日・高杉東行 奇兵隊日記)
「赤間関一昨日五日之変に付、私儀御前召出され、防御方御委任仰せ付けられし段、御直に仰せ聞かされ其旨を得奉り候 馬関到着仕り候処、有志之者日増に相集り御模様にこれあり候間、不日に奇兵隊相調、屹と防御之手段仕るべくと存じ奉り候 夫に付廉々左の存付に仰せ付られ度、願ひ奉り候」
一、 奇兵隊之義は、有志之者相集り候に付、陪臣、雑卒、藩士を不撰、同様に相交り、専ら力量をは貴ひ、堅固之隊相調可申と存奉候(以下略) <高杉晋作全集上259頁> 
150904奇兵隊


 ここでは、一切の格式、門地を問わず、ただ実力、能力、戦意で登用せよということが最大のポイントである。つまり、従来の世禄の藩士では冒頭の文言のように、腰抜けで、戦意が乏しいから、有志の者を募って組織するのだというのである。その有志とは百姓でも町人でも下層階級の者でも構わぬ。身体壮健と勇気、戦意あればよいとの考え方である。こうして近代軍隊のハシリとしての「奇兵隊」が発足する。以後、諸隊が続々と組織される。曰く「膺懲隊」・「御楯隊」・「金剛隊」・「神威隊」などなどである。実は、これが後の幕府と長州征伐での戦い、そして戊辰戦争で大きな力となるのである。しかし、明治新政府誕生後、その終末は悲劇的だが、このことについては別の機会に詳述したい。

なお、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江杉蔵の四人を松陰は特に期待したことから、『松下村塾四天王』とその人材を称えた呼称がされているが、この「奇兵隊」組織の時に、活躍したのが「入江杉蔵」である。数ある松陰の弟子へのはなむけの送序文で、名文といわれる「杉蔵往け! 月白く風邪清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり・・・」と書き与えた人物である。
しかし、この四人とも、残念ながら大政奉還を見ることなく倒れてしまうのである。松下村塾の幾多の人材については追々、詳しく記事を書いてみたいと思う。





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