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『松下村塾』 国史大辞典
【2015/11/30 22:30】 エッセイ
【松下村塾】 国史大辞典(吉川弘文館)


「松下村塾」という名称は日本人ならば、大半の人が知っているに違いない。しかし、正しく知っている人もまた少ないように思われる。安政三年九月四日、松陰は久保五郎左衛門の求めに応じて『松下村塾記』を書いている。そこで簡にして要なる松陰の学問観、『学は人たる所以を学ぶ為り』と述べられている。松下村塾の命名の由来に、『塾係くるに村名をもってす』と松本村の塾と云っている。と恐らく、「松下村塾=吉田松陰」と理解されている向きが多いと思われるので、「国史大辞典」での説明を記しておくことも必要と思われるので転記しておこう。
松下村塾24.4.25


幕末・維新期の私塾。天保十三年(1842)創設。長門国萩城下の東郊松本村(山口県萩市椿東)にあったことから、この名が付けられた。史跡。もとは吉田松陰の叔父の玉木文之進の家塾。ここからは、吉田松陰・杉梅太郎(民治)・山県半蔵(宍戸璣)が出た。文之進が役職に就いてのち、松陰の外叔久保五郎左衛門の家塾がこの名を襲用した。安政元年(1854)三月の密航未遂事件で獄中にあった松陰は、許されて生家の杉家にもどり、同三年に事実上の村塾の主宰者となった。同四年十一月杉家の宅内にあった廃屋を改修して塾舎とし、翌年七月藩許を得た。村塾は、元来、庶民・下級氏族の教育機関だったが、松陰の思想を慕って入門する者が相つぎ、次第に政治集団の性格をつよめた。
吉田松陰と松下村塾25.3.28


門下から、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田栄太郎・入江杉蔵・楢崎弥八郎・寺島忠三郎・中谷正亮・大楽源太郎・野村和作(靖)・佐世八十郎(前原一誠)・伊藤俊輔(博文)・山県小助(有朋)・山田市之丞(顕義)・品川彌二郎等々が輩出し、長州藩尊攘・討幕運動の指導者、そしてのちに長州藩閥の中枢をなす人々が輩出した。安政五年違勅条約調印問題が政治争点となり、これを契機として松陰と塾生の政治行動は急に活発となった。その行動は激化の一途をたどる。藩政府は松陰を獄に投じ、村塾を強力な監視下に置いた。こうしたなかで、松陰が塾の指導者と期待した富永有隣も去り、村塾は一時廃絶の状態となった。のち、村塾は再興され、明治元年(1868)二月藩庁は塾舎補修の費用を与えた。同二年官を辞した玉木文之進が再び主宰者となって塾の指導にあたったが、九年十一月門弟が萩の乱に参加した責めを負うて自刃。明治十三年頃、杉民冶により再興、村塾は同二十五年頃まで存続していたらしい。明治三十三年八月塾舎の改修が成り、同四十年十月村塾内に松陰神社が創建されて県社となった。
参考文献『吉田松陰全集』、廣瀬豊『吉田松陰の研究』、玖村敏雄『吉田松陰』 (井上勲)
151202松下村塾 古川薫著


吉川弘文館の『国史大辞典』(全15巻)ではこのように説明されている。ここでは、どのような教育・学問が講じられたかは書かれていないが、一般的にはこの説明で充分であろうと思われる。学問や授業、教育方針や理念等々に就いては別途記して見たい。しかし、この松下村塾は、自分たちの住む松本村から『奇傑非常の人』を輩出し、一邑を奮発震動してみせるとも予言もしているのである。結果において、松陰の教育力を証明して見せるような数多の俊英を輩出したのである。

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『吉田松陰東送の京都方面探索報告』
【2015/11/25 14:31】 エッセイ
『松陰東送に付き京都方面の情勢探索報告』
(安政六年五月二十七日)



一、 福原與三兵衛より五月二十七日の書状を以て、井上・内藤・周布へ

吉田寅次郎呼登せ一件に付き、出處の事爰元に於て探索に及び、申し越し候様先便仰せ下され候に付き、追々承り繕ひ候趣、御意を得候通りご承知下さるべく、尚ほ又其の後岡式より加納繁三郎へ蜜々探索致し見候處、梁川より出で候書類を間下へ差出し候へども、差し抜き致し候由。尤も梅田召取られ候後差出し候書類は内豊より直樣間下へ差出され候に付き、如何の事に候や様子相伺はず、去りながら此の書類は疑ひ候は現書自筆にては之れある間敷く、寫しどもにては之れなくやと申し候由。加繁申すには、吉寅建白の趣甚だ感心の儀にて、星巌・梅田抔の申し分も皆是より出でたる糟粕にて、當時天下の豪傑尤も慕はしく、追付赦免の部にも至り候はば一度は面會致し度きよし申し居り候由に御座候。尚ほ又彼の者此の度伏水通行致し候節、無頼の徒萬一差障り候ては相濟まざる儀に付き、内密探偵に及び成る丈は防ぎ留め候手段致し候様仰せ下され、是れ又追々探索致し見候處、平島行太郎事先日上京致し、大高屋忠兵衛方滞留致し居り候候由承り候に付き、一趣向(ひとしゅかう)相構へ福井忠次郎事差し遣はし探索致させ、與三兵衛も相對、蜜々彼の心底相探り候心得に御座候處、三四日已前爰元出立、纔(わず)かの滞留にて直樣下坂致し候由。大高又二郎事は當三十日比自國備前林田へ引き取り、旁々只今に於ては彼の者共餘程衰弱の氣立にて、慷慨抔相唱へ候様子に之れなき樣に相聞き候。其の餘別人において強ひて古頃當りの輩も之れなく、先づは格別掛年致し候儀も之れある間敷くやに考へられ候。尚ほ又油斷なく心掛け罷り在り候間、又々様子も御座候はば御意を得べく、旁おなじに右樣御承知置き下さるべく候。其の為斯くの如くに御座候由。
御面書の通り委細承知致し、弾正殿へ申達。恐惶謹言。七月九日付
安政の大獄


ここに出てくる福原與三郎は長州藩の京都留守居である。藩の重職である。彼が国元の潘政府の重職にあった、井上、内藤、周布に松陰の江戸召喚の理由や根拠を調べての報告書で全集の『関係公文書類』に収載されている。幕府は京都に「所司代」を於て、朝廷を監視していた。この所司代は「大阪城代」より位が上になり、この後の出世は江戸城西の丸老中となる。

以下、この記事に出てくる人物の簡単な説明。
「岡式」:宮廷画家であるが、王事(宮廷政治)にも尽くす。京都所司代にも出入りしていた。元治元年志士に斬殺さる。
「加納繁三郎」:京都奉行所組与力。
「梁川」:梁川星巌。詩人で尊王攘夷主義者。松陰は嘉永六年秋、長崎行きの途次逢って、孝明天皇の攘夷の祈りの日々の姿を      聞き、非常に感激して、有名な「奉連闕詩」(山河襟帯)の詩を残した。
「間下」:間部詮勝のこと。井伊直弼の下での老中。下総守を名乗った。安政の大獄で京都探索の総指揮を執った。
「梅田」:梅田雲濱。尊攘主義者。安政の大獄の逮捕者の魁となった。若狭のひと。
「内豊」:伏見奉行内藤豊後守正縄。
「吉寅」:松陰、吉田寅次郎。
「平島行太郎」:伏見要駕策に関係した平島武次郎か?
「福井忠次郎」:京都の毛利藩邸吏。
「福原與三兵衛」:長州藩、京都留守居役。
「弾正」:長州藩家老、益田弾正。松陰の兵学門下で松陰の理解者。松陰の意見書はこの人のお陰で藩主に届いた。



上の記事は吉田松陰全集第九巻(定本版)、十一巻(普及版)に収載されている。大衆版・松陰全集には収載されていない。『松陰と幕末・明治の志士たち』の第八回「老中暗殺計画と草莽崛起への道」で、九十五頁に私は次のように書いた。

『梁川宅に松陰の書が複数残されていたことが、松陰が幕府により要注意人物として認識されるきっかけとなった』。執筆時は大衆版の全集しか読んでいなかったので、やや不安を残しながらこの様に書いた。筑摩書房刊行の『日本の思想・十九』は吉田松陰集であるが、ここには『對策一道』、『愚論』、『続愚論』が収載されている。いずれも安政五年の四月から五月にかけて書かれた「論稿」であり、この論稿は藩主の毛利敬親に上書された。本来は藩士の席を抹消されて、「杉百合之助の育」という身分であるから、藩主への上書は禁ぜられているものである。しかし、松陰の才能ををこよなく愛した藩主・毛利敬親の特別な計らいでこれが許されていた。松陰なりの【飛耳長目】で、江戸の状勢を知る松陰であったから、幕府と「ハリス」との条約交渉が大詰めを迎えていた頃である。即ち、此の年(安政五年)二月、老中堀田正睦は条約勅許奏請のため上京したが、時の孝明天皇はこれをやんわりと拒否した。

勅許に失敗した堀田はやむなく江戸に戻るが間もなくその責任を問われるかたちで罷免される。かわって、幕閣の首脳は大老に就任した「井伊直弼」は無断調印をなかなか認めなかったが、井上清直、岩瀬忠震の全権から「ハリス」の強要が限界に達している旨告げて、「やむなし」と言質を与えてしまう。結果的にはハリスの恫喝外交の勝利した形で【日米修好通商条約】は、六月十九日に江戸湾で無勅許調印となった。そして、「宿継ぎ」で調印の結果報告にて京都朝廷に知らされる。孝明天皇が激怒して【譲位】を漏らしたのが此の時であった。

松陰の三つの論策は、堀田の勅許奏請失敗の時期と重なる。これを京都の尊王攘夷家の梁川星巌に急送された。これを読んで感激した梁川星巌は、朝廷に提出して孝明天皇の上覧に供することになった。(吉田松陰集一三六頁参照)一介の草莽の志士を自認していた松陰は、大変に喜んだのであった。然し「好事魔多し」で、結果的にこれが幕府の探索網の知る所となった。梁川星巌は幕府から「悪逆の四天王」の頭目と目されており、「戊午の密勅」に端を発した「安政の大獄」の始まりとともに逮捕対象が有力視されていた。しかし、逮捕直前にコレラに罹って急死してしまった。そのため「梁川星巌の死(詩)に上手」と言われた。この梁川星巌宅に松陰の論策があり、これが押収されて「老中・間部詮勝」に手渡された。




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