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2015年度天章堂講座終了
【2016/02/28 22:21】 エッセイ
天章堂講座『江戸期の改革の旗手たち』終了に当って

2015年9月から本日(2月16日)まで、5か月間、8回にわたって江戸時代の創成期から「幕藩体制」の維持が困難に直面するまでのおよそ二世紀にわたる期間を、出来事(統治政策)と人物との関連から捉えてみました。
『元和偃武』という、徳川氏による「平和な時代」が外面的には続きましたが、その内面に立ち入って詳しく見てみると、時の課題に応じて統治に苦心したことが解かります。
今日、刊行されている「吉川弘文館・人物叢書」や「ミネルヴァ書房・日本評伝選」の日本史上の主要な人物シリーズでは、「刊行のことば」として同様な趣旨の言葉が書かれていて、そこには「歴史を動かすのは人間である」と共通した認識・言葉が見られます。
160229徳川家康160229池田光政160229徳川吉宗



もっと踏み込んでいえば「歴史を学ぶことは、人間を知ることである」ということを示唆しているように思います。
時代の変遷に伴い、その時代に生きた人物がどのように格闘した姿を知ることは、そのまま「人間の生き方」を学ぶことになります。
ここに、「歴史を学ぶ」から「歴史に学ぶ」という私達の願いがあると思います。
歴史を生きた知識や知恵として学ぶことは、単なる教養という次元にとどまらないものがあると私は考えています。歴史の歩みの一つの側面として「人間の生命や尊厳」から考えてみますと、現代は「基本的人権」が当然のように私達は認識しています。
しかし、江戸期では「年貢や御用金」を苛酷なまでに時の為政者は「民に」求めています。

「民を以て貴(とうと)しと為し、社稷(しゃしょく)(土地の神と穀物の神)これに次ぎ、君を軽(かろ)しと為す。」との言葉は『孟子』の言葉(尽心章句・下)と伝えられていますが、国富増進のためには、国民(衆民)を大切にし、その努力が報いられる國家こそ、必要なのであって、最初に君主や為政者が貴いのではないと言っています。
残念ながら「江戸時代」にあって『孟子』は尊重されませんでした。
思うに「放伐論」が統治者(徳川幕閣)にとって不都合(危険)な論理と捉えられたものと思います。
(寛政異学の禁=朱子学を学ぶ事を正当化)

現代の視点からみると「胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出る」(神尾(かんお)春(はる)央(ひで))という言葉は、完全な死語になっています。まさに『孟子』の言葉の反対ですが、この神尾という人物は苛斂誅求の年貢政策で吉宗政権下では有力者の一人でした。これが「米経済」の限界点で、以後年貢に対する考え方は変容して行きました。
一揆や打ち毀しは、理不尽な搾取への已むに已まれぬ意思表示でした。これが吉宗の頃に発生したのも偶然ではありません。

徳川幕藩体制は堅固な揺るぎない体制でしたが、その体制維持には「寛永の鎖国」も与かって力あったものと思います。
ペリー来航の時「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」との狂歌は綱紀の弛緩した治者階級の怠慢への諧謔を含んだものと言えます。

160229田沼意次160229松平定信160229上杉鷹山



中期以降の改革を見ると、現代における人間関係を彷彿させます。いつの世も保守と革新のせめぎ合い(時に対立した矛盾の関係)を内包しながら時代は変化して行きます。
時代が下るにしたがって改革の成果は得にくくなりました。これは幕藩体制が時代と合わなくなってきたことを物語ります。
内政面さえ問題なければよしと云う国家観では変化する情勢に対応できなくなってきたのが、寛政時代でありました。
時代は動いているのです。

朝廷と対外関係の新たな火種を抱えたのが松平定信政権の時代でした。
迫りくる外圧への対処が劣勢な軍事力では困難という認識はアヘン戦争情報による清の敗北で決定的になりました。
それが「薪水給与令」へと変更を余儀なくされました。
徳川斉昭が「戊戌封事」を将軍家慶に上書したのは、こうした時代を適格に洞察した結果でした。
それは「内憂外患」という言葉に示されています。

151225調所広郷160229村田清風160229水野忠邦




そうして天保の改革の失敗(上知令撤回や藩の三方領地替え)は、幕府の威信を低下させ、追い打ちをかけるようにペリーの砲艦外交で開国を迫られると、なす術もなく軍門に下り朝廷の権威の上昇と入れ替わるように幕府の威信は衰退して行きました。
日本はこれから、「日本史から世界史へ」の舞台に引き出されたことになります。
日本の独立も覚束ない情勢下にあって、英仏は陰に陽に日本への嘴をはさんできました。
それは植民地化への危惧を伴っていました。
徳川の統治の基本は覇道であり、「私政治」でもありました。いみじくも「覇道は覇道に因って亡びる」との歴史の教訓が正しいことが証明されることになりました。しかし、この体制維持に努力した人達も、必要な限り歴史の舞台で精一杯役目を演じてくれました。

今回の「改革の旗手たち」は、「神君としての徳川家康」の創成した幕府と藩の体制を守る努力と、反面では藩の殖産興業政策に見られるように「自立化」が徐々に台頭して来ます。
そうして天保の改革は、成果をあげた西南雄藩と挙げ得なかった幕府が好対照となりました。
成功しなかったとはいえ、水野忠邦は壮大な改革を胸にした有能な人物でした。
これが忠邦でなくとも成功は困難だったと言えると思います。

今回取り上げた八人の人物から多くの教訓を得ることが出来たら、この天章堂講座は一つの使命を果たしたと言えると思います。私も懸命に取り組みました。本業を忘れたかのように勉強しました。多くの教訓を得た思いが致します。
今日の国際情勢は、我が国にとって安穏としていられない時代です。
いつの世も、解決への努力や変化への対応努力は続きます。人類の進歩は無限であります。
五百年後に、現代日本がどのように振り返られるのでしょうか。
次世代に引き継ぐべきものは平和への努力でありますが、その実現の何と難しい事か!こうした時、歴史を学んだ意義が問われるのかもしれません。

150420吉田松陰


吉田松陰の遺した「志を立てて以て万事の源と為す」や「学は人たる所以を学ぶ為り」の言葉は、時代を越えて私達に人間のあり方を教えてくれているように思われるのであります。


この天章堂講座は、江戸期を通観するだけでなく、徳川政権の「覇道政治」システムがどのように構築され、発展し、そして維持の為に、時の為政者(将軍または老中)が悪戦苦闘したかを辿ってみたかったのである。同時に「幕藩体制」であるから「藩政の努力」もまた、明らかにしてみたいとの考え方から八回に亙って試みたものである。
その内容の概略と「講座テーマ」を下記してみる。

第一回 池田光政と徳川創世期の発展 (徳川初期の藩の発展を検証、新田開発や学問の奨励による藩政の確立を検証)を。
第二回 徳川吉宗と享保の改革     (元禄までの発展期から、幕府財政の悪化と、その対策に苦心した米将軍・吉宗)
第三回 上杉鷹山と米沢藩改革     (宝暦から寛政までの米沢藩の、財政再建に尽くした上杉鷹山の努力)
第四回 田沼意次と重商主義政策    (現物経済・米、の限界と貨幣経済への過渡期における田沼時代の検証)
第五回 松平定信と寛政の改革     (田沼意次との確執は、その政策をことごとく否定し、創業の精神を再興願った定信)
第六回 調所広郷の財政再建      (調所広郷を家老に抜擢し、莫大な財政赤字を克服した、天保期の西南雄藩)
第七回 村田清風と長州藩改革     (薩摩藩と同様、八万貫の大敵と潘士の救済、三十七カ年皆済仕法を指揮した清風)
第八回 水野忠邦と天保の改革     (寛政以降の外圧、飢饉と財政再建等多方面にわたった課題に挑んだ水野忠邦)

徳川政権の創業期は、まず政権の安定的確立を目指した。これが約半世紀を要した。反乱の可能性の目を摘んで大名取潰しも辞さなかった。幕閣政治は「徳川政権の功臣」達による幕府の政治システムが、徐々に整備されていく。武断政治を経て文治政治への転換が進み、功名な大名統制策が講じられる。寛永の鎖国や参勤交代、一国一城制、将軍から宰相による統治が進む。老中もこの頃から制度化して行った。

徳川政権の安定化は、四代家綱の頃から「幕閣政治」に象徴されるように徳川の盤石な体制が浸透していくが、政権の安定化や平和な時代の到来は、奢侈や華美の浸透が見られる。元禄時代がその絶頂期でもあるが、反面幕府財政はこの頃から破綻し始める。したがって、十八世紀から幕末までは、財政難と貨幣経済の浸透によって「米経済の矛盾ないし限界」といった現象がみられる。吉宗の綱紀粛正の努力は、米相場との戦いでもあった。江戸の都市政策も政治過程に上がってくるが、一大消費地としての江戸は繁栄の陰で、経済政策の重要性が高まって来る。以後、幕府や藩は財政政策が常に喫緊の課題となって、悪戦苦闘が始まる。加えて対外問題が政治過程に登場し、朝廷の発言権も徐々に増大してくる。江戸後期は「内憂外患」の言葉に代表されるごとく、混迷の度合いを強めてくる。打ち毀しや飢饉が襲い、武士階級の困窮や綱紀の弛緩が顕在化し、幕府政治や藩の政治も保守と改革との確執が次第に政策実行を困難にしてゆくのが江戸時代の姿であった。そうして、改革の成否は幕末の動乱で場l九府の権威が低下し、反面では「潘の独立化」が進んで行く中で開国への外圧が幕藩体制では克服できなくなってくる。

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【佐倉稲門会講演会】
【2016/02/12 19:34】 エッセイ
佐倉稲門会

2016年2月26日、「佐倉稲門会」から「吉田松陰」を語れとの依頼がありました。NHKラジオ放送を聴かれた方のご提案からこの話が具体化したとのことでした。
流石に天下のNHKだけあって、その反響は大きいものがあるのだと感じた次第。精一杯やって、「聴いてよかった」と満足していただけるよう準備をしっかりやって臨みたい。
90分が短く感じられるようになったら成功と言える。今年も講演会や講座など、いくつか依頼を頂いている。ありがたいことです。
これはその【レジュメ】です。
これの裏付史料(資料)として、
①『福堂策』=人、賢愚ありと雖も、一二の才能無きは無し。
②『士規七則』=志を立つるは万事の源為り。
③ 『松下村塾記』=奇傑非常の人の育成と、學は人たる所以を学ぶ為り。
④『高杉暢夫を送る叙』=江戸修行に旅立つ高杉に書き与えて「唯一の玄瑞失うべからず、率直に語り合え!」。
の四資料を駆使して語る予定。『留魂録』については、市販の書物(古川薫著・講談社学術文庫).
松下村塾についても同じ(古川・講談社)で、説明してご自分で読んでいただけるよう、ポイントの説明にとどめる予定です。


吉田松陰と松下村塾

『杉家本・吉田松陰』松下村塾24.4.25



(1)、松下村塾の母体としての「獄中教育」・「福堂策」
   ①、下田蹈海の失敗と藩獄(野山獄)収監中の松陰。長州ファイブ。
   ②、「福堂策」に転化した「獄中勉強会」と松陰の人間観。
   ③、松陰精神の原点としての「山鹿流軍学者」と「松下村塾」の眼目。

(2)、入門者たちと「松下村塾主宰者」としての吉田松陰
   ①、免獄後の「杉家幽囚」と『孟子』講義、「講孟余話」について。
   ②、集まりくる近隣の青少年たちと「教育の名手」としての吉田松陰。
   ③、松下村塾で何を教えたのか。「個性尊重」と「師弟同行」。
   ④、「志を立てて以て万事の源と為す」。「学は人たる所以を学ぶ為り」。

(3)、「志」の継承者たち
   ①、松下村塾の四天王(久坂、高杉、稔麿、杉蔵)と「奇傑非常の人」育成。
   ②、『留魂録』と「松陰の死生観」の教育的意味を考える。
   ③、松陰死後の塾生たちの奮起と長州藩。
   ④、「草莽崛起」の発展形態としての「奇兵隊」の意義。

(4)、「明治政府の指導者」たち
   ①、明治新政府に松下村塾出身者を登用した「木戸孝允」の功績。
   ②、「大久保利通」路線の継承者としての「伊藤博文」初代総理大臣。
   ③、「前原一誠」から「山県有朋」(明治陸軍の建設者)へ。
   ④、品川彌二郎、野村靖、山田顕義他の国家指導者たちの活躍。

当日(2月26日)は快晴の中、佐倉到着。副会長の駅に出迎えを受ける。稲門会と三田会の合同という事から、三田会への配慮も依頼される。松陰を「維新の先覚者」とすれば、福澤諭吉は「明治文明の魂」を啓蒙した立場という事で、明治維新の立役者としての功績の共通性がある。そうして、あの時代に逢って「女子教育」にも教育を受けさせるべきとの考えを共に抱き、実践(書籍刊行や親族への講話等)したところも共通性がある。さらに、封建身分制度が障害になっていて、人材活用を教育によって打破して行こうとする人生観や、当時に逢って海外情勢をいち早くつかんで西欧列強に伍して行く国家建設への展望を持っていた、いわば世界観にも二人の共通性を見出すことが出来るのでとっさの判断だが、取り入れる。今から八十年前の二月二十六日は、大雪があり、昭和維新を唱えた一部軍人たちの反乱という昭和史に残る大きな事件のあった日である。

講話内容は、主として松下村塾の教育による人材育成を語って来たが、幕藩体制の行きづまりと海外情勢への対応の変化、そしてアヘン戦争情報の衝撃からペリーの来航による砲艦外交によって開国させられた背景と、先進諸国の東漸の実態を語る。「国防」を以て毛利藩に仕えていた松陰が何故、鋭く反応したか?そして侵略への危惧から密航を企てるも失敗。野山獄に収監されたなかで、囚人たちとの獄中勉強会が、免獄後の松下村塾の母体となった背景を語り、難局への対応は教育によって人材を育成する松陰の「松下村塾教育」をメインテーマへと語り継ぐ。そうして無断勅許を巡って噴出した批判を武断的に抑え込もうとした安政の大獄を引き起こし、其れに連座しながら獄中で書いた遺著としての留魂録を残した意義と門下生への奮起が近代日本誕生への契機となり、数多の門下生が牽引する明治近代国家が誕生した経緯を詳しく語った。

流石に稲門会、三田会だけあって熱心に聴講頂いた。多くの方がノートを取ながらであった。その分、こちらも次第に力が入り、熱演状態になった。質問も徳富蘇峰の吉田松陰についてあったが、これは丁寧に経緯とその後における影響等の関連を交えて説明した。終了後の懇親会で歓談しながら、講演で語りきれなかった部分等、活発な意見交換となった。良い一日であった。




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