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『吉田松陰』理解の為に①
【2016/04/30 22:03】 エッセイ
『吉田松陰に見る人間観・学問観』

2006年4月から「松蔭大学」にて【吉田松陰論】という履修科目を担当して、2016年3月の卒業生までの10年間、3千名近くの学生に【吉田松陰】を語りつづけている。吉田松陰を語る事は大変に難しい。松陰の人となりの全貌を語り尽くすことは、将に「難事中の難事」である。それは、日本では明治26年に「徳富蘇峰」が、吉田松陰の「伝記」を書いているが、それでも「緒言」で断わりの文が書かれている。曰く、「題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ならん」。と態々、断り書きを記述して刊行目的を最初に提示していることでも理解されるように、吉田松陰の全体像を書ききる事の困難さを吐露しなければならなかった。
吉田松陰と松下村塾25.3.28


1973年に中央公論社が『日本の名著』シリーズを刊行した。そのなかに『吉田松陰』が入っている。この書物の最初の解説部分に、山口県出身の幕末維新期の研究者である「田中彰」氏が『吉田松陰像の変遷』―明治・大正・昭和前期松陰像覚書―と題する書が書かれていて、吉田松陰という人物が、時代により「変転する人物像」として、ある種の吉田松陰研究史の紹介がなされている。この書物は、吉田松陰研究を志す者にとって貴重な研究ヒントを提供してくれている。この解説部分は後に「中公新書」で2001年に『吉田松陰』―変転する人物像―という副題が付いた新書として出版されている。

吉田松陰の人物像を最も客観的な原資料を網羅し、読み込んで研究した書物としては昭和11年に岩波書店から刊行された『吉田松陰全集』の編集委員を務めた「玖村敏雄」氏の『吉田松陰』が、最も水準の高い研究書として刊行された。この研究書は『吉田松陰全集』(通称定本版:その後二度の全集が刊行されている)の第一巻の最初に『吉田松陰伝』として、実に216頁にわたって詳述されたものを、加筆訂正を加えて単行本としたものである。

吉田松陰に直接照射して『伝記』に纏め上げた本格的な伝記である『吉田松陰』(玖村敏雄著)は、松陰の遺著をくまなく読み込んだ上に書かれたものであっただけに、その学術的研究の価値は高い。それは松陰死後の今日(2016年)までに様々な人々によって書かれたどの本より精緻な史料批判と解釈の下に書かれただけに、今後もこれを越える伝記は恐らく書かれないだろうと断言できる程のものである。

玖村敏雄先生


精魂込めて研究し、書き込んだことが読む者をして納得させるには相当の時間を要すると思われる。極めて完璧を期した『吉田松陰全集』の編集意図・努力は大変な労力を要したに違いないが、それを基礎として研究し尽くしたかと思われるこの書の価値は今後も光り輝き続けるに違いない。以下、このタイトルで、書き続けようと思う。その集大成が成った時、価値があるものとなるだろう。抑々、この記事を書く動機は、私の勤務する松蔭大学の『吉田松陰論』を履修する学生に理解を容易にするためである。
さらに言えば、この題名で毎年「期末試験」に同じ記述試験として出題し続けているからである。現在は、高校で「日本史」は選択科目となっているために、吉田松陰を理解してもらうためには、我慢強く、粘り強く一貫して語り続ける必要がある。
まして、松陰の名を冠した大学だけに、建学精神と位置付けられるからその必要性は高いと思うのである。


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吉田松陰の「人間観」をたずねて
【2016/04/22 17:42】 エッセイ
『福堂策』から読み取れるもの

『牢獄』転じて『福堂』、名付けて『福堂策』。
吉田松陰は「野山獄」収監中に先輩囚人たちに呼びかけて、「勉強会」を開いた。
在獄中の先輩たちは、個性が豊かすぎて家族から敬遠され、「借牢願い」を提出し、収監代を払ってまで野山獄に入れてしまった。それは、改善が見られないことから出獄の見込みが立たないという、無期限に近い投獄である。
こういう「夢も希望もない」状態に置かれると、人間の心は「荒んで」しまって、やるせない時間の経過に任せて、殆ど無意味な人生を送るしかなくなる。

150420吉田松陰


吉田松陰は何処で「刑罰はその行為にあって人間にはない」ということを知ったのであろうか。
「教育刑」を知って、その方法の意義を認めている。「罪を憎んで人を憎まない」という、西欧の考え方を知っていたのです。
現代人から見れば、当然視されることであるが、「江戸期」にあっては、西欧との情報交換は「オランダ風説書」という、凡そオランダに因って加工された情報しか入ってこない年月が長く続いた。
「徳川の禁令・政令」は「徳川家にとって都合のよいものでそれは、公法性がなく私法である」と見抜いた松陰は流石である。
「人間再生」を図る考えを基本に、「獄中勉強会」の呼びかけが行われた。

その結果「俳諧」の造詣ある者が二人、書道の達人がいる事を知って「先生役」を依頼する形となる。
呼びかけた松陰は『孟子』の講義を約束し、勉強会の行われる日を取り決めて皆で学び合おうとしたのである。
回を重ねるごとに、その効果は松陰の予測通りに展開することになる。とりわけ「句会」即ち「俳句」を詠み合う楽しさは何時しか、各人の心を和ませ、仲間意識を持たせた効果は大きなものがあったに違いない。

一方で、松陰先生の『孟子』講義は、人間再生に効果がある事は十分予測されたことである。『性善説』に始まる孟子の考え方に、囚人たちはかつての親族から敬遠されたことを思い出して反省の思いを抱いたのに違いない。
そうして、ペリー来航以来の「国際化時代」の様相を呈して来る時代相にあって、「夷狄」の跋扈する日本が継続していくことを願ったのであろうが、これ等を説明するのに『孟子』を語る事は誠に正鵠を得た形になるわけだ。泰平の打続く世の中は、治者階級の武士の綱紀を弛緩させ非生産者階級の『要らざる』存在に近かった。
そこに『王道政治』を持論とした孟子を語る事は、世を嘆く人たちにとって納得出来るものであったのだ。司獄官の福川犀之助とその弟までも、松陰の講義に参加して『弟子』の態度をとらせるに至った。
後に面目後の杉家の幽囚生活に於て、中途で終わっていたものが完了し『孔孟箚記』として結実して、その刊行をみるが、それは「人の倫」を語る事で、それとなく人間の再生を促す効果を持っていた。それが証拠に、松陰出獄後に於て彼らの免獄運動が効を奏して半数以上が出獄出来た。親族への「帰参」が叶ったことになる。

160422孔孟箚記


松陰全集には出獄後の彼らがどのようなその後を送ったかは富永有隣を除いては書かれていないので解からないが、人間再生の姿で人生を待とう出来たのではないかと想像される。こうした行動をとった松陰は将に「教育刑」を知っていたからであり、更には『知ゆえの行』として王陽明の「知行合一説」の実践となったのである。
当然、松陰は『学んで良きものは取り入れるべし』の学問的態度であったから、単に王陽明に限らず孟子も、そして多くの中国の義士(高士)達の伝記を読んで、自らの人生に取り入れようと願っていた事は、後に書かれた「自賛肖像画」に書かれる人物への傾倒となっていたことで知れるのである。
『松下村塾記』に書かれている名言中の名言、「学は人たる所以を学ぶ為り」に収斂していくというのを確認することが出来る。

このように見ていくと、松陰の人生に秘められた人間観が随所に見る事が出来るし、そのどれもが孟子の政治観や人間観とも通じていることが解かるのである。それ故、松蔭大学の「吉田松陰論」は、すぐれて「人間学」という性格を持つものなる。福堂策や獄中勉強会の開催に見られる「人間への信頼」は一貫している。そこに、限りなく吉田松陰という人物の魅力があるのである。
森信三先生の『修身録』を読むまでもなく、「吉田松陰全集」には人生知・教訓が一杯詰まっているから騙されたと思って購入して読んで御覧なさいとのことばは、ここまで書いてくるとその言っている意味が非常に良く理解出来るのである。
奈良本辰也さんではないが「ヒョーマニスト吉田松陰」像が此処で理解できることになる。その観点からすると、「福堂策」の意味や、獄中勉強会が目指したものも見えてくるのである。
そうしてさらに高次元では、「知行合一」の人生における価値が一層、深く身近なものとして理解されるのである。





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