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坂崎紫瀾と汗血千里駒
【2016/09/28 18:22】 エッセイ
「坂崎紫瀾」と『汗血千里駒』

幕末の「坂本龍馬」を最初に小説として書いた坂崎紫瀾(本名斌:サカン)の『汗血千里駒』は、明治十六年(一八八三)の一月から高知の『土陽新聞』から掲載されて評判を呼んだものである。一般に「坂本龍馬」のイメージはこの「坂崎紫瀾」の「汗血千里駒」がモデルのようになっている。学術的な研究者による『坂本龍馬伝』はほとんど書かれてなく、その原因は「史料」が少ないことから、人物像の再現が難しいことによると思われる。現存する史料は、大半が「書簡」であり、参考文献として『坂本龍馬関係文書』や『坂本龍馬手帳摘要』くらいしかないのである。実際に龍馬が書いた『手紙』が何通あるか、まだ未発見のものがあるようである。だが、坂本龍馬の関連は多くの関係人物や関連文書に登場するので、それに依拠して龍馬像を創り上げて行くのが普通の手法である。『人脈図』を見ると、非常に幅が広く「外様の軽格としての譲り受け郷士」としては極めて異彩を放っている。幕府の要人(松平春嶽・大久保一翁・勝海舟)との接点があることが特徴的である。反面、出身潘である「土佐藩」では、「山内容堂」と直接面識がなかったようで、容堂は間接的に知っていたに過ぎない。むしろ「軽輩ゆえ相手にしない」という態度である。こうした「身分制」がまかり通っていた時代であるだけに、「土佐藩の旧態依然たる制度や考え方」に嫌気がさしたのである。だから、「脱藩」という当時の武士(下級)の厳しい掟も無視するかのように土佐藩を捨てたのであった。そうしたこともあってか、出身潘以外の人脈が多いのも坂本龍馬の特徴である。
160928汗血千里駒 本161004坂本龍馬 いきいき埼玉


復刻版の「解題」によると『千里を駈ける駿馬(参照「漢書、大宛国伝」)にも比すべき坂本龍馬の生涯を、実伝的小説として描きながら、そのなかに当時の明治・自由党の理想を挿入したもので、いわば実伝的政治小説といってよいものであるが、なかなかの傑作である。・・・・・・起承転結の巧みな作品構成である・・・・・・紫瀾はこの作品で、明治御一新を上士と下士・軽格との対立から把握し、明治御一新は、“天賦同等の感情に胸の炎(ほむら)を焦がしつつ其の門閥を憎み階級を軽んずる(第十八齣)”下士・軽格たちの、上士への抵抗、封建時代への反抗であったとみなし、軽格坂本龍馬を代表とする明治御一新へ向かっての大精神は、自由民権運動につながると考え、この自由党的思想性でもって、「汗血千里の駒」を支えようとした・・・・・・「汗血千里の駒」は実伝てき史実性と政治的主張性とを、その底辺に置いた、大衆的魅力のある小説となっているといえようが、とにかく当時大変な人気を呼んだ作品である。あたかも、昭和の御代に大人気を博した司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和三七年六月二一から昭和四一年五月一九日、産経新聞夕刊連載・一三三五回)の明治版といえるかもしれない。』と説明されている。
明治十六年一月二十四日から連載され、同年三月三十日まで続き、以後三ヶ月間、作者の紫瀾が不敬罪で入獄したため中絶したのだが、明治十六年六月末出獄するや、七月十日から再び掲載をはじめ、同年九月二十七日完結した。

160928坂崎紫瀾

さて、坂本龍馬を天下に知らしめた『汗血千里駒』の政治小説を書いて人気を博した「坂崎紫瀾」についての人物説明は、国史大辞典(吉川弘文館)によれば、次のように記述されている。
一八五三~一九一三、明治時代の文筆家。名は謙次のち斌。号は紫瀾、別号鳴々(うう)道人・咄々道人。嘉永六年(一八五三)十一月十八日江戸鍛冶橋の土佐藩邸に生まれる。父耕雲(医を業とす)・母きさの次男。安政三年(一八五六)巧緻に帰り城下の廿代町に居住。致道館に学び十六才で同館の素読席句読師補助となる。明治三年(一八七〇)広島に遊学、ついで彦根の学校教官となったが、六年上京してニコライ塾に学び、七年愛国公党に加わる。同八年司法省に入り松本裁判所に赴任したが辞職後「松本新聞」主筆となる。同十三年「高知新聞」編集長となり自由民権派の論客として活躍する。政談演説禁止で東洋一派民権講釈一座を組織し馬鹿林鈍翁と名乗り民権運動を展開し『土陽新聞』『自由燈』のほか諸新聞に論陣をはった。大正元年(一九一二)維新史料編纂事務局に入ったが同二年二月十七日、東京市牛込区新小川町の自宅で没す。六十一才。墓は青山墓地。著書に『汗血千里駒』『維新土佐勤王史』『鯨海酔侯』などがある。

因みに、「坂崎紫瀾」の「政談演説禁止」によって、『土陽新聞』で三か月間の連載中断となったのは、「解題」によると『不敬罪』で入獄したことになっているという。それは、馬鹿林一座の民権講釈で坂崎紫瀾が『天子ハ人民ヨリ税ヲ絞リテ独リ安座ス、税ヲ取リテ上座ニ位スルハ天子ト私トノ二人ナリ』と述べた事によったものである。明治天皇制国家に対する、露骨な批判となる文言が明治新政府の受け入れるところとならなかったというわけである。

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「幽囚録」の対外政策
【2016/09/02 19:13】 エッセイ
「松陰の国家観と対外政策」を考える

(1)、松陰の最初の修業地は、鎮西遊学で「海外情報」や「海防研究」に取り組んだのであった。長崎・平戸で、迫りくる西欧の東漸に如何に対処するか貪欲なまでに関連書物を読破して対策を見出そうとしたのであった。「アヘン戦争」や「ロシアの南下政策」に関する書物『阿芙蓉彙聞』、『近時海国必読書』『北寇杞憂』、『西洋諸夷略表』、『海防私策』など、国防に関するものを集中して読んだ。同時に兵学以外の『伝習録』や『新論』なども読み、思想的にも成長を遂げた第一回の修業は世界の大勢や列強の東洋侵略のあり方を学ぶ成果となった。「藩の防衛」から「日本の防衛」へと視野の拡大即ち「国家観」の拡大変容である。
(2)、十八世紀以来、西欧とりわけ英国で勃興、発展を遂げた産業革命の成果は資本主義国家への道を歩み、その結果が東洋侵略の原因となったことを知った。一方で西欧の各国は対外(国家間)戦争の結果、近隣国家を征服や併合し「国家の版図」を拡張することを知るに及んで「幕藩体制国家」を見直さなければと考える。即ち民族や国家の繁栄、軍事力の整備なくして、自国の独立はあり得ないとの認識に至る。そうした意味からも「洋学」に取り組み、老中・眞田幸貫(海防掛)の顧問として『海防八策』に纏め上げ、幕府に建白した佐久間象山の主張は「国家観」を藩から日本への視野を広げるのに意義ある事であった。この佐久間象山に入門して大いに嘱望された一人が吉田松陰なのであった。(松陰書簡:嘉永四年五月二十七日)
(3)、そうした情勢の所へ「ペリーの来航」による「砲艦外交」に屈した「日米和親条約」締結による開国があった。この「砲艦外交」は「国家の命運」を憂慮させ、同時に「外国のために支配されはしないかという恐怖心」が「ナショナリズム」を喚起させた。吉田松陰は、自著の論文である『幽囚録』(佐久間象山からの慫慂で著述)で下田蹈海の挙に出た理由を語っている。「宜しく俊才の士数十名を撰び、蘭船に付して海外に出し、其れらをして便宜事に従ひ艦を購はしむべし、則ち往返の間、海勢を識り、操舟に熟し、且つ萬国の情形を知るを得ん、其の益たるや大なりと。因って竊に建白する所あり。然れども官能く之れを断行することなし。予が航海の志實に此に決す」(全集第二巻、四四頁)と。これは、海防策の一手段ではあるが、実は兵学でいう「間諜」の役目をも果しうる可能性を持つ。兵学家松陰の理解は、その域に達していたと考えられるが、肝心の幕府が象山の上書の意味を理解することなく、祖法としての鎖国を維持するのみで、松陰はやむを得ず自ら「厳禁の法」を犯してまでも実行に挑んだのであった。

160902幽囚録


(4)、掲題の「吉田松陰」と「橋本左内」は接点がなく、相互の「国家観」を語り合うことは無く、残念がった。(留魂録、第十四章)従って、松陰は間接的に聴く左内の評価を聞いた程度であった。一方、橋本左内も当然松陰の人となりを知らず、下田蹈海のあった安政元年の四月九日付け書簡で江戸からの福井の藩士宛に「佐久間象山の門人某」とのみ記していた。二人共立場こそ異なるが、「幕末知識人」ということが出来る。この両者が申し合せたように、同様の国家観を持っていたようである。幕末、「安政年間」の対外政策を含む「国家観」として注目すべきである。
(5)、吉田松陰は、『幽囚録』で対外政策を次のように記している。『・・・・・・今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察(かむさつ)加(か)・隩(おこ)都(つ)加(く)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(ちょうきん)會同すること内諸侯と比(ひと)しからめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は臺(たい)湾(わん)・呂(る)宋(そん)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし・・・・・・』(吉田松陰全集第二巻、五十四頁)と。
   この文章は意訳(吉田松陰著作選、百五十九頁参照)をすると、次のようになる。
   【今急いで軍備を無為し、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩主に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩主と同じように幕府に参勤させるべきである。また挑戦を攻め、古代の日本のように従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第に進取の勢いを示すべきである】と。
(6)橋本左内も同時期に藩の重臣である「中根雪江」宛ての有名な書簡(安政四年十一月二十八日)で、『さて日本はとても独立相叶い難く候。独立に致し候には、山(さん)丹(たん)・満州の辺・朝鮮国を併せ、且つ亜墨利加州、或ひは印度地内に領を持たずしては、とても望みの如くならず候。これは当今は甚だ六ケ敷候。その訳は、印度は西洋に領され、山丹辺は魯国にて手を付掛け居り候。その上、今は力足らず、とても西洋諸国の兵に敵対して、比年連戦は覚束なく候間、かへって今の内に同盟国に相成り然るべく候』(啓発録、「講談社学術文庫」五十七頁)と書いている。安政四年十一月という年月は、タンゼント・ハリスが米国総領事として下田に赴任し、江戸へ出て将軍家定と謁見して、大統領親書を上呈したのが前月であり、十二月には「日米通商修好条約」締結に向けて談判に入る時である。

160726橋本左内顏写真

(7)、此処には、幕藩体制下にあって、すでに「国家=藩」を越えて、日本としての「国家観」が語られていることに注意すべきである。これらを考え合わせる時、政府たる「幕府」の重職にある者たちに、この様な国家観を持ち合わせていた人物がどれほどいたかである。佐久間象山の上書である『海防八策』(正式名、感応公に上りて当今の要務を陳ず)が提出されたのが天保十三(1842)年十一月であり、水野忠邦による幕府の「天保の改革」が着手したばかりであった。アヘン戦争勃発の情報が齎されたのが同十一年、「文政の打ち払い令」を改めて「天保の給水令」に政策変更したのが象山の上書提出と同年である。しかも、この上書を採用するどころか結果的に「握り潰して」しまったことは前述した。象山の研究成果が理解出来なかった。つまり、日本国という概念は幕府のトップでさえ十分に持ち得ていなかった。
(8)、この天保年間末期でさえ、この様な国家観であり、まして吉田松陰や橋本左内は藩士すなわち「陪臣」である。ペリーの用いた「砲艦外交」によって、「無理矢理に、なす術もなく」開国させられてしまったのであった。そうして、「和親条約第十一条」に基づいて、米国の総領事として下田に赴任したのが「安政三年七月」である。僅かこの三年間に、幕府の要職者でもない「一陪臣」が「国家的危機」に接して覚醒している。徳川の安泰に汲々として、何ら具体的な対外政策も打ち出せず、一方的に米国に強制された開国の現状を、その場しのぎ的に対応を重ねていたのが幕府の現状である。開国をめぐっての対応策に意見を求める程度でしかなかった。
(9)、西欧先進国の実状を、政府為政者が見聞して「国家政策」を定めたのが、「岩倉遣欧使節団」(明治四年~)であった。それは「富国強兵」や「殖産興業政策」へと収斂していく。ペリー来航以後、難局(植民地化)打開の努力が幕末の動乱であった。吉田松陰が、「幕藩体制」では乗り切れないと考えたのに対し、橋本左内は幕府制度の「再編成」の方法であった。幕末知識人の福澤諭吉さえも「大君のモラルキ」(幕府強化論)という、橋本左内に近い考えであった。
(10)、結語として、「兵学者」は必然的に国家防衛の考え方に収斂していく。『幽囚録』が書かれたのが安政二年(1855)で「野山獄」収監中であった。橋本左内も松陰も、「日本国」の防衛は単独では困難と判断し、隣国を併呑して「小国」としての国力(軍事力)増進が図られない限り「独立国」の達成は出来ないと考えていることである。民族の危機を打開するためには、鎖国主義を是とした徳川政権では覚束なく、しかも一国では無理と判断したのである。結果的には「明治維新」という、国家の再編成によって「中央集権」による「富国強兵」なくしては日本の独立は困難であった。だが、この松陰の対外政策を含む「国家防衛構想」は、昭和に入って、海外侵略の典拠とされて、利用されたことは不幸なことであった。





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