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『尊王思想の源流』を訪ねて
【2016/11/07 23:01】 エッセイ
『宝暦・明和事件』を調べよう!

平成28年11月19日から、大東文化大学オープンカレッジで「明治維新への道」と題して5回の講座を行うことになった。幕末の「尊王攘夷」思想の淵源を辿ってみると、「ペリー来航」の100年前に、武家政治への極めて日本的な思想である、「尊王思想」の弾圧事件があった。これを一般的には「宝暦・明和事件」と名付けて、歴史書でも簡単に触れるにとどまることが多い。だが、実は、幕府の崩壊過程は四方八方からその兆しを見せていた。「覇道」による武家政治であっただけに、250年余り続いた中で、埋もれがちであった「事件」を見直す意味で、この吉川弘文館の「宝暦・明和事件」の解説は貴重な解説をしてくれる。その全文を転記してみます。

161107山県大弐1161107竹内式部1161107藤井右門の石碑1 京都(左から、山県大弐、竹内式部、藤井右門の関連写真です)



江戸時代中期の尊王論弾圧事件として一括して論じられることがあるが、両者は本来かかわりのないものである。
まず、宝暦事件であるが、これは、朱子学者にして神道家であった山崎闇斎を学祖とする崎門派の松岡仲良や玉木葦斎(正英)に儒学や神道を学んだ竹内式部が京都朝廷における少壮の公卿たちに影響を与えたことから、当時「神道長上」として全国の神社を支配し、神職の任免・補填を司っていた吉田家が、式部を通じて垂加流の神道が公家衆の間に浸透することを蔑視したこと、天皇の近習たちの間での相互の確執、さらに若い桃園天皇に垂加流の神書の講読をすることに関しての、正親町三条公積(きんつむ)・西洞院(にしのとういん)時名ら少壮公卿と関白近衛内前ら老臣たちとの意見の対立、などから起った事件である。事件は二回あった。第一回目は、宝暦六(1756)年京中洛外で式部が公卿衆に軍学武術を指南しているとの風聞があり、そのため式部が同年十二月京都町奉行所に呼び出されて取調を受けた事件であるが、これは事実無根ということで容易に解決した。第二回目は、それから約一年後、式部に入門する公卿が増加したことに加えて、近習衆が桃園天皇に対して垂加流による「日本書紀」神代巻の講釈を積極的に進講したため、関白ら朝廷の重臣たちが、幕府を憚ってこれを抑圧し、式部門人の公卿達の大量処分を幕府に無断で断行するとともに、その思想的元凶と見做されていた式部を京都所司代に告発し、そのため一年近い取り調べの結果、同年九月に式部が重追放となった事件である。

他方、明和事件はそれから八年後の明和三(1766)年八月、江戸で起こった。江戸で軍学教授をしていた元甲府与力山県大弐の門人に上州小幡藩の家老吉田玄番なる者があり、この玄番が同藩用人相原郡大夫の私怨により藩から処罰されると、それが大弐との交際の故であるとの噂が立ち、浪人桃井久馬・町医師宮沢準曹らは禍が我が身に及ぶことを怖れて、大弐を幕府に対する謀反の企てありとの理由で、その交友関係を記して、同年壱二月老中に直訴するとともに町奉行所に出訴した。そのため幕府は、大弐及び大弐方に寄宿していた浪人藤井右門を捕縛し、八カ月に及ぶ取り調べの結果、両者ともに謀反の事実はないが、その言動に幕府の忌避にふれることがあったことが不敬であるとの理由で、大弐は死罪、右門は獄門という極刑を受け、また竹内式部も、本来この事件とは何のかかわりもなかったが、前述の重追放中の身京都に立ち入ったのは不都合であるとの理由で八丈島へ遠島となった(式部は途中の三宅島で病没)。これを明和事件と云う。

この二つの事件は、それぞれ京都朝廷内部における老臣と少壮公卿との対立、江戸における浪人の舌禍事件と云う相互に全くかかわりのない事件であり、また彼らの抱懐していた思想それ自体が裁きの対象とされたわけではなかったが、現象の背後にある思想面について見ると共通する点も少なからず存在する。竹内式部は、宝暦八年京都奉行所における取調べにおいて、「経書之趣」であるとしつつも「天下無道則礼楽征伐従諸侯出、従諸侯出則十世少不衰」といい、あるいはまた当代を「危キ天下」と言い表して取調べ役人たちの耳目を動かし、門人の公卿たちに対しては「於日本天子程貴き御身柄無之候に、将軍を貴と申儀は人々も存知、天子を(の)貴を不存候、(中略)これは天子御代々不足御学問御不徳、臣下関白已下何も非器無才故之儀ニ候、天子より諸臣一等ニ学問を励み、五常之道備候得ハ、天下之万民皆服其徳而、天子ニ心を寄せ、自然と将軍も天下之政統を被返上候様ニ相成候儀ハ必定、実ニ如指掌、公家之天下ニ相成候」と教授していたという。

他方山県大弐も、政治の要諦は礼楽制度を建てることであり、礼楽制度は天子から出てこそ道であるとの立場から、鎌倉以降の武家政治を厳しく批判するとともに、「苟も害を天下になすものは、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ、故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なるものなり」「」
たとひその群下にあるも、善くこれを用ひてその害を除き、而してその志その利を興すにあれば、則ち放伐もまた且つ以て仁となす、他なし、民と志を同じうすればなりと放伐のじんなるゆえんを「民志」との一致に帰することによって放伐を肯定した。
この式部や大弐の思想は、それぞれ闇斎学派の神道論、徂徠学派の政治思想に淵源するものであり、両者の思想の性格も大きく異なるものではあったが、第一に、ともに「天に二日なく、地に二王なし」とし、礼楽征伐は天子よりでることが道に正統なる所以であるとする点で儒教の原理主義的立場に立脚していること、第二に、そのような儒教的正統性の立場から、一方では、天子の君徳の培養と朝臣の奮起を促し、他方では、武家政治の批判と放伐論が、それぞれ朝廷の衰微や幕藩体制の政治的現実への批判を媒介にして主張されていること、第三に、それらの主張が、下級の武士や神官・医師などの民間の知識人層からなされたこと、等々は注目すべき新しい動向であった。

江戸時代の初期の儒学者たちは、確立した、幕府を頂点とする政治的現実に即して儒学を読み直し、それに相応しい政治思想を形象化したが、式部や大弐らは、十八世紀後半、幕藩支配体制の動揺を眼前にしつつ、儒教の原理主義的立場から当時の政治的現実を厳しく批判する契機をつかみつつあったといえる。二つの事件そのものは、いずれも関係者が処罰されることで「政治的」には一応の決着を見ることになるが、このような「思想的」伏流が、寛政期になると、一方では尊号問題など朝廷と幕府の緊張関係を生み出し、他方では尊王思想を包懐した高山彦九郎らの全国行脚に継承されていくことになる。(出典:吉川弘文館『国史大辞典』、本郷隆盛著)

長い説明文だが、丁寧に読むと幕末の尊王攘夷の考え方が解ってきます。吉田松陰が安政三年に書いた『松下村塾記』で、「今、天下は如何なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の瓣を合わせて又之を失ふ」と力説した意味がよく解るのである。松陰は、極めて日本人的な、あまりにも日本的な発想をしていたかがこれで解るのである。松陰の思想は、儒学、孟子、水戸学、国学、等々の思想が混然一体となって形成されている。武家政権が日本にとって、本来的な統治体制出なかったことを洞察しているのである。ですから、軽々に「天皇制」を論ずるのでなく、神国思想から説き起こされた長い日本の固有思想にも続いたものとして理解されなければならない。この解説文にあるように「放伐論」が説かれているのは、松陰が孟子から受けた思想的影響の大きさに思いを致さなければならないと思われる。

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