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『明治維新を』考える
【2017/08/20 09:58】 エッセイ
「明治維新を再考する」①

歴史は常に勝者の側から「過去の記述」が行われる。そうして、築き上げたその新体制が続く限り「礼賛型の史観」が生き続ける。明治維新は、封建的な「徳川幕藩体制」を打倒して「近代国民国家」を築あげたのであったが、それは「世界的な視点」から捕えないと間違う危険性が孕んでいる。徳川幕府(幕閣)は、俗に300諸侯といわれるように最大の経済力と軍事力に裏付けられた「大名としての徳川氏」が、他の大名を屈服させ、臣従させた統治体制であった。そして領地を与えられた大名に、大幅な自治権を持たせ、それを身分制度による分業システムにとって分国統治させ、国家的・公共的事業等は「使役」として各大名に負担させた。宝暦年間の「木曽川治水工事」を薩摩藩に課したのがその典型である。「武家諸法度」や「禁中幷に公家諸法度」の法令は統制策の一環として理解すべき性質のものであった。さらに「参勤交代」や「勅使」を制度に組み込んで国内体制を維持し、対外政策は寛永年間に「キリスト教流入制限」を主目的としつつオランダや中国等に貿易港を長崎に限定した管理貿易システムを取った。それらの国内外政策を制度化し、安定化させるのに半世紀以上の日月を要した。将軍の代でいえば、四代将軍・徳川家綱の時代に一応完成を見たと云える。
170824前田藩格家家紋2170824薩摩藩

徳川時代を一代で現出させた「家康」は、この天下を安定的に維持していくために「反乱分子」の危険性を持つ豊臣系の大名たちを「取り潰し」、「徳川に刃向う事の危険性」を実例で以て示した。それは反面「力の誇示」でもあり、臣従強制策の面を併せ持った。それは一般には「武断政治」といわれる。それ故に、反乱を起こさせない体制は「二世紀半」もの長期にわたる「外見上の平和」が保たれていたのであった。本質的には「覇道主義」であって、「徳治主義による王道政治」とは異なる。したがって、「対外政策の破綻」から統治の牙城を崩され、権力の衰退を「天保の改革の失敗」等でもさらけ出した。「海防」が考え方や、実践論としても政権当初からのものと大差がなかった。各大名に地域をしていして守らせるとしても、全日本としての海防体制は遂に最後まで築きあげられなかった。
170824伊達藩家紋2170824毛利藩家紋


対外政策の破綻は、徳川幕藩体制が当初から持っていた宿命的なものであった。鎖国制度の実施当初はとれで大きな問題はなかったが、なにせ二世紀半と云う長い「徳川政治」が続いている間に、西欧社会は「市民革命」を経験し、人権思想と「合理主義的精神」を発展させた。そのうえに咲いた「第一次産業革命」によって、資本主義(ある意味では近代市民社会)国家を形成した。それは「資源の輸入と製品の販売先の探索」となってくる。英国でまず「綿織物工業」を「動力革命」で発展させたのがその始まりであった。世界の七つの海を制覇した「島国・米国」その国土面積は日本と大して変わらない。製品の輸出先として東アジアにその矛先が向けられたのも故なしとしない。

一方で、米国は18世紀後半の、英国本国からの独立に始まり、開拓者精神と相俟って欧州同様の産業化が進んだ。南に隣接するメキシコとの「米墨戦争」に勝利して、太平洋航路が開けた。それはテキサス併合に始まり、カリフォルニアやニューメキシコ州の併合となって国力は新興国家の大いなる勃興と繁栄の道を開いた。欧州が、隣国との戦争に国力の停滞(英仏を除き)の合間をぬって新興国としての米国が東アジアへの航路の確保から、海外進出を企てたのも多分に好都合に作用したと云える。ナポレオン戦争の余波は、オランダ併合となり「東インド会社」の前線基地としての没落に入れ替わって英国の台頭となる。アヘン戦争が天保の改革の直前に起ったことと、日本の幕末を現出したことは無関係ではない。こうした世界の勢力地図の変遷を徳川幕閣はどの程度まで詳細に知っていたか、18世紀後半から始まる、西欧諸国の日本近海への出没が「何を意味しているか」という、根本的な問いはなされず、稚拙な海防政策が徳川治世の当初に比して大きく進展していなかったことにも原因を求めることが出来る。つまり極端な「内政重視型」の統治体制はそのまま引き継がれたのである。したがって、「オランダ国王の開国勧告」も受け入れないでおわった。「ペリーの来航」で、近代海軍の戦闘能力を確認することで、鎖国制度は終了する。中央集権による、国家としての軍備を持たなかった所に徳川政治の対外政策の盲点ともいえるものが克服できなかった。従って、明治新政府が西欧先進諸国の「近代的軍隊」をいち早く取り入れたのも、徳川幕藩体制の海防の脆弱性を克服すべく、体制整備することが喫緊の課題であったのであった。


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