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【吉田松陰と知行合一】
【2017/12/29 15:03】 エッセイ
吉田松陰の教育と「知行合一」の教え

吉田松陰の松下村塾における教育では、学問の目的を明確にして、ともに学ぶ姿勢を説明しながら「学者になってはいかぬ、人は実行が大切である」として、学んだことの成果が人生の実際に生かされなければ意味がないという実学を教えました。従って、学問の為の学問は否定する考え方でありました。江戸に修業に行った時に、「江戸の学者は知識を切り売りしている」という事に、大きな不満を持ったことがありました。そして世の中の動静に対して全く無関心である学者の姿に、失望を覚えたのでした。「知行合一」の教えに賛同した翌年の事ですから、なおさらに残念な思いを抱いたことと思われます。
170331正装の吉田松陰150821松下村塾松陰の立志実践教育知行合一


さて「知行合一」を掲げる陽明学を提唱したのは、中国の「明」の時代の思想家であり、高級官吏でもあった「王陽明」という人です。これは「伝習録」として門下生との問答録の記録として日本でも出版されています。江戸時代は「朱子学」が官学として幕府の勧めるところでありましたので、陽明学は一部の知識層にしか普及しませんでした。松陰が陽明学に出会ったのは嘉永三年(一八五〇)、平戸藩の家老であった葉山佐内という人物の下で修業旅行をした時でした。この時松陰は二四歳でしたが、筆まめな松陰はこの半年間の修業期間のことを記録した『西遊日記』に克明に書き残しています。
平戸に到着したその晩に早速葉山佐内から伝習録を借り、熱心に読んだことが記されています。少し話が脱線しますが、この陽明学というのは、幕末になって多くの志士といわれる人に影響を与えました。有名なところでは吉田松陰の他に、大塩平八郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作、山田方谷、河井継之助などが熱心な信奉者として知られています。昭和に入ってからは作家の三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」をいう本を書きました。三島由紀夫もまた陽明学の信奉者の一人といえるでしょう。昭和45年11月25日の市谷での割腹自殺は、まさしく陽明学の影響と考えられます。陽明学は学んだことを信じて「行動の実践」に結びつけるというところに特長があります。すこし難しい表現ですが「主観の完全燃焼」と言い換えることが出来ます。
自分の信念をゆるがせにしない生き方に繋がるわけです。ですから時にその行動は死をも恐れないという一面があります。幕末の動乱期はこのような「命懸け」の行動の連続でもありました。松陰が国禁を犯してまで密航を企てた背景には陽明学的な考え方があったといえるでしょう。このような経緯があって松陰は塾生に「知行合一」という考えを日々の学習の中で自然な形で教えて行ったのです。松陰の人材育成のありかたは決して難しく考える必要はなく、普段の何気ない日常の生活の中で、いつも「言行一致」の行動をとることでありましたから、無言の説得力となって塾生の先生に対する信頼を拡大して行きました。そうした中で塾生の人間的成長を願ったのでありました。

塾生の成長度合いや能力を見極めながら判断して教材を適宜に選んで読ませ、一人一人に課題を授けて、自分で考えて解決するという能力開発を願っていたのです。そうして読書が終了すると、感想や自分の立場から批評させて、一緒になって議論し合うというものでした。このように松陰の教育は、教えるという姿勢よりも一緒になって学び合い、その議論の中から塾生に学び取らせるという自主性を重んじるものでした。私達は「陽明学」というと、いかにも難しい学問のような印象を持つかもしれませんが、必ずしもそうではなく、「知識と行動」の一体的な調和を説いているものであることを理解出来ればそれで良いと思います。

学んで得た成果とその行動が、自分をより人間的な成長を促す建設的なものであれば、それは他者への貢献となって信頼されることになります。因みに筆者の勤務する大学は「知行合一」を校是・建学の精神に掲げていまして「吉田松陰論」という珍しい履修科目が設置されております。看護学部もありましてこの学部では「必修科目」の扱いで吉田松陰論の単位を取得しませんと卒業できないようになっています。松陰は「学問の大禁忌は作輟(さくてつ)なり」といって、学問をやったりやらなかったりする態度を厳しく戒めました。それだけに学生の皆さんは、必死でこの科目を勉強します。吉田松陰の勉強をすることは「汲めども尽きない」井戸のように、沢山の教えが「こんこんと」湧き出てくるのです。


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2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

171203大東文化会館1171203大東文化会館2



2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。





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