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2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

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2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。


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