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名君『上杉鷹山の兄・秋月種茂』
【2018/03/27 10:56】 エッセイ
江戸期の改革の旗手たち『秋月種茂』


宮崎県高鍋高校と山形県米沢興譲館高校とは、相互訪問等による交流が今でも行われている。これは、両校の創設者が「秋月種茂」と「上杉鷹山」という兄弟の創設にかかわることから実施されている。両校ともに現在も県内有数の進学校として、学問・教育の成果をあげて相互に切磋琢磨しているのである。このことは多くの人の知られざる美談と言って良いと思う。
170609秋月種茂160229上杉鷹山




一般的には、弟である「上杉鷹山」の方が「名君」として人口に膾炙されている。江戸期の三百諸侯中でも名門を誇る家柄で、戦国大名として名を馳せた上杉謙信以来の名門であるが、鷹山が養子として上杉家を継いだ頃は藩の財政状態は瀕死の状態で見通しが立たず、前の藩主・重定は幕府に藩を返上しようと真剣に考えたと伝えられている。
そこに日向高鍋藩第六代藩主、秋月種美の二男として生まれた鷹山が養子として入り、家督を継いで長期にわたる藩政改革の成果をあげて、藩の滅亡を免れたたのみならず、質素倹約と藩営の殖産興業政策を推し進めて蘇らせたのである。幕府が鷹山の長年にわたる藩政努力に対して「善政」を賞したのが、隠居の二年後、鷹山三十七才の時であった。

一方、兄の秋月種茂は鷹山より八才年長になる高鍋藩第七代藩主として、江戸期の十代の藩主が続いた中で「全盛期」を現出した「名君」なのであるが、残念なことに「外様小藩」(二万七千石)ゆえに、その事績についてはあまり語られていない。わずかに地元高鍋町で知られている程度である。それは上杉鷹山が、生涯尊敬して止まなかったというエピソードが遺されていることを以てして、その人となりを想像することが出来る。
鷹山は次のように人に語って曰く、「阿兄の名、大に世に顕れざるは、其の地僻遠なるが故なり。若し阿兄と吾(鷹山)と地を易いへしめば、豈に今日の米沢ならんや」(日向国史・下)と。これは、鷹山が兄の藩主としての手腕を称える言葉として大変意味深長である。即ち、米沢上杉家を若し、兄の種茂が継いだら、米沢の藩地はもっと繁栄したに違いないと云うほどの意味でもある。管見の限り、秋月種茂の評価は極めて高いのである。
こうした兄弟が、今から二世紀半も前に創設した藩校にルーツを持つ両校が、伝統と誇りをもって現在も尚交流が続いていることを知って大変興味を抱いたわけである。日本史の大辞典として権威あるものと思われる、吉川弘文館の「国史大辞典」十七巻を繙いても秋月種茂の名前が出てこないのは、まさに鷹山の云うとおり「僻遠の地の小藩」であった故であると考えられる。従って文献としては、高鍋町の藩史に関連した書物や、現地の教育委員会が発行する小冊子程度で語り継がれている程度なのである。
種茂の藩政で特筆されるのは、民政に意を用いたことと、教育の普及への情熱である。高鍋藩の藩校は「明倫堂」といって、安永六年(1777)の創立になるものであるが、藩主が『明倫堂記』という建学の理念を書き上げていることである。米沢の興譲館が安永五年であるから、ほぼ同時期に創設されているということになる。教育は国家百年の計と言われるが、封建時代の身分制が固定的であった当時において、人材育成に取り組んだことは大変に意味するものが大きいといえる。種茂に建学の進言をした「千手八太郎」の文末に『人材教育の儀は、御家中風俗の盛衰、国家治乱のかかわる重大事』という文言があるが、藩主種茂は、それを受け入れて「明倫堂記」を書いたようである。
抄録してみると次のような内容である。『昔から政治は教育を先とする。教育が起これば人材が出る。有能の士が上に立てば、人民は喜んでその治に服するようになる。・・・・・・学問の方法は朱子学によるのであるが、学問というものは何処までも自分のためにするもので、人のためにすると思ってはならぬ。それからまた、手近なところから次第に高尚なところにすすむという順序を誤ってはならぬ。また、中途半端な意志の弱い事ではいけない。国を治めるのは君主であるけれど、これを輔ける人物がなくてはどうにもならない。従って人材を養成する学校が大切である。人材が多く出るようになると、風俗も改まり・・・・・・ここに理想の政治が実現する。これが政治の本は教育にあるというわけである。この学校に学ぶもの、この精神を体し勉めて怠るなかれ』と。
これは教育の要諦を言い表して見事といえるものと思う。この時、種茂は三十六才の働き盛りであり、この文章をみても名君の一端を垣間見ることが出来るし、たんなる学問好きの文ではない。「輔ける人物」がいて学問の効用が顕現するという言葉は注目に値するものであろう。高鍋藩の学問においては、それは千手八太郎と財津十郎兵衛のふたりであった。この二人の進言によって明倫館が創設されたのでわる。この精神が今日の高鍋高校や米沢興譲館高校が受け継いでいるのだろうと思う。

教育の一方、民政に意を用いた件では庶民(領民)の福祉改善が挙げられる。農民多子家庭救助の施策では次のお触れに注目したい。曰く「百姓三人目より御扶助として一日赤米二合づつ、畠地もの(麦)三合づつ、二品の内その時々の吟味にて下さる段、仰せ出ださる」と。子沢山の家では生活も経済的に大変である。江戸時代の百姓は、中期から二極分化し、富める百姓と潰れ百姓になるのであるが、富める百姓は少数で多くは生活維持が精一杯であった。このことは、八代将軍の徳川吉宗治世下で勘定奉行を務めた神尾春央(かんおはるひで)の『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と云った言葉と対比して考えるとき、一段と意味が鮮明になる。この種茂のお触れは今日の言葉で言えば、「児童手当」ともいうべき困窮百姓の救恤実践という事が出来る。また明和元年(1764)のお触れである「士卒の庶子を三代目より民籍に編入して百姓とし、庄屋に属せしむ」として浮世人の人権を恢復することを眼目として、領民に再生の機会をあたえる仁政と考えられる。また江戸期には双子の誕生を恥じる風潮があったのを、「自今以後・・・・・・双生児出生候はば、貴賤に限らず申し出次第、相応の捨扶持下され候旨仰出さる」といった、双子の救恤策ともいうべき先進的な思想を持っていたのである。このように百姓を賎民視せず、「領民あっての国家(藩)」として大切にする人権思想を読み取ることが出来るのである。実弟である上杉鷹山の「伝国の辞」の精神と相通ずるものがあって、興味をそそられます。
一体に、江戸期は出生してまもなく夭折というケースが多かったが、これも大坂から産婆を招いて夭折の防止策を講じており、初のお国入りの時も江戸から医師の山田玄随を随行させたのも同じ意味を持つものである。当時の医薬品として貴重だった朝鮮人参も栽培したものを藩庫に蓄えておき、病人や疫病の流行の時に備えてと医療の救恤策を施したという。また藩士の教育のみならず、庶民の教育にも意を用いて明倫堂にも篤学な庶民には入学を許可したのをはじめ、毎月十六日には庄屋や乙名(町世話人)宅に支配下の一家から必ず一両人月々代わり合わせに呼び出し、庄屋や乙名から種茂の著である「郷閭学規」等を読み聞かせたのであった。その他、法制の整備や、足軽の困窮救済策(江戸の物価高騰を領地の足軽が経済的に支援)を講じたことも善政の一環として、領民を大切にしたことの証左といえる。大雑把な名君の一端であるが、兄弟そろって大変な名君であった事に、大変驚くのである。また其の一方で幕府の課役である「勅使の馳走役」を何度も仰せつけられ、巷間伝えられる「赤穂浪士」の馳走役の失敗等のようなことがなかったという。これらの事から考えられるのは、まず領民を大切にする仁政、次いで法体系の整備による治者の恣意的な統治方法を排したこと、そうして殖産興業政策を積極的に奨励して国富増進に努めたことなど治国の要諦に叶った政策を実施した。そして学問の奨励による人材育成と、有能な人物ともに善政を常に念頭に置いて、「明倫堂」の精神を体現したことを総合的に勘案してみると「名君」に値する事が十分といえるのではないかと思う。こうしたことの結果として十代の歴代藩主中で、種茂の治世が高鍋藩の全盛期を現出したのも納得がゆくのである。

最後に、兄弟共に似たような心温まる逸話が伝えられているので、これを紹介したい。
上杉鷹山の伝記に必ず出てくる「老婆の手紙」というのがある。これは、藩主(鷹山)が側近と「領内巡検」をしていたところ、急に夕立が来そうな雲行きになって、必死で稲の取り入れをしていたところに出会って、取り入れを鷹山一行が手伝った」という話である。助けて貰った老婆はこの地方で新米から餅を作ってお礼を届ける風習があり、手伝った武士(鷹山一行)にお礼を届ける為に聞いた場所へ持参して、はじめて老婆は藩主が手伝ってくれたことを知る。これに対して鷹山は、金子をご褒美に与えた。受け取った老婆は自分の家族のみならず、嫁に出した娘にも足袋を買い与え、大事にするようにと書いた手紙なのです。これは藩の家老に次ぐ「中老職」にあって、鷹山の側近で藩政改革に貢献した莅戸善政(のぞきよしまさ)の著になる『𧄍楚篇』(ぎょうそへん)に出てくる実話であって、江戸期の藩主が百姓と直接に接することがなかったことと考え合わせるとき、鷹山の人となりを語る逸話である。

このような心温まる鷹山の逸話ですが、兄の種茂にもこれと似た逸話が伝えられている。
それは、同じく領内の巡検中、田で働いている百姓の姿を見て、その百姓が持参した弁当が近くの道ばたに置かれていた。それを種茂と側近はそっと無断で開けて食べたところ、その弁当には米も入ってなくて、不味くてやっと喉を通るほどだったという。そうして種茂は、その百姓に無断で弁当を食べたことをわびながら、自分の持参した弁当を差し出した。この百姓が感謝したことは当然で、藩主の弁当の味は別段のように美味しいのである。種茂は、君主として恥じらいに似た思いを抱き「民百姓のお陰で自らの生活がある」事を知って、百姓を大事にせぬ治世のあり方を反省したという。
この両方に共通するのは『孟子』「尽心章句・下」に出てくる有名な言葉、即ち【民を貴しと為し、社稷(国家・土地と五穀の神)これに次ぎ、君を軽しと為す】である。

有名な上杉鷹山の『伝国の辞』は、将にこれらの逸話を裏付けるものである。かつて米国の大統領選挙に勝利した時、ケネディが尊敬する日本人は誰かとの質問に対して、即座に『それはウエスギヨウザンです』といったのは、孟子の言葉の原点に政治の要諦が語られていて、鷹山が伝国の辞を遺したからに他ならず、ケネディは鷹山を勉強していたに違いない。つい最近、駐日米国大使として赴任した長女のC・ケネディが、上杉鷹山が藩主だった米沢の地を訪問したのも、ケネディ元大統領が上杉鷹山を尊敬していたことの証左でもあろう。私達がこれらのことから学ぶべきは、兄の秋月種茂も弟の上杉鷹山も、藩主として行っていることの原点にこうした『生産者の努力』あって国家が成り立ち、さらに藩主(皇帝)が存在するという貴重な教訓である。有名なケネディの大統領就任演説はこうしたことが念頭にあったに違いない。残念なことに江戸時代の『孟子』は、その「放伐論」(君主がその器でないなら、交代すべき)故に、「異学の禁」として朱子学を奨励したために孟子の教えは日の目を見なかった。名君にもいろいろな君主像があって、一概に名君の定義は出来ないが、秋月種茂、上杉鷹山兄弟に共通する領民を大切(福祉)にし、国を富ます殖産興業(経済)や、教育に対する情熱と人材育成政策を実施した姿を名君と呼称することに反対者は少ないと思われる。

この文稿を書くに当たっては、前高鍋町長のご子息を紹介してくれ、さらにその方が高鍋図書館から特別に「秋月種茂」に関する一連の書籍を借りだしてくれたことで、名君・種茂をより詳しく知ることが出来た。さらに高鍋町の教育課の職員も、私の申し出に対して快く協力してくれて種茂関連書籍リストを作成して送付してくれた。「国史大辞典」に名前すら収載のない、隠れた名君の勉強に惜しみない協力をいただいた事も付記しておきたい。偶々、取手市の市民大学講座で聴講してくれた大学の先輩が高鍋町出身で、講座の後に慰労の席で教えてくれたことで上杉鷹山大好き人間の好奇心から、一年がかりで勉強したことの一端であります。


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