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【吉田松陰伝記】の略伝 ー玖村敏雄先生著ー
【2018/05/19 22:01】 エッセイ

『吉田松陰略伝』

吉田松陰研究家の泰斗「玖村敏雄」先生が、掲題の略伝(世界教育宝典・玉川大学出版部)を書いているので、転記して丁寧に読むことに資することとした。
昭和十一年に「岩波書店」から刊行された『吉田松陰全集』(通称定本版)の第一巻の巻頭に「吉田松陰伝」が収載され、後に岩波書店から単行本として刊行された。
これは「吉田松陰」の伝記として最も権威のあるものとして高く評価され、吉田松陰の研究に必須の書籍である。
しかし、これを読んで自家薬篭中のものとするのには大変な努力を要する。
そこで、略伝が欲しいと探していたところ、「手頃な分量」である事と相俟って、内容が解かり易い記述になっていること、記述の正当性の観点から最も伝記として一般の読者に親切なものと思われるので転記することにした。
著作権の侵害にならないよう、出版社及び著作者等を明記して出典を明らかにしておきます。
吉田松陰を知ることとは、単に幕末史の研究にとどまらず、【人間とはどのように生きるべきか】?、あるいは【学問とはどう求めて人間形成に役立つべきか】?、【人間は完全ではない、しかし賢愚はあるとしても、各人は一、二の才能を必ず有している。
己を知って、世のため人の為に役立つように、各人の長所を生かして、世に貢献できれば、それでよし】等々の人生訓、あるいは人生知に基づいて向上的に生きようとする事に価値がある!。
 卓見であると思う反面、【簡にして要】の見事な吉田松陰の人間に対する見識や世界観、教育観、人間観をこの玖村先生の略伝から読み取っていただけたら、この著しく長い文章を転記した価値があるに違いないと思う。
少々の困難をこらえて、是非とも読み取っていただきたいとの願いから、労苦を忍んで転記しました。
一人でも多くの人に読んでいただきたいと願っています。

170331正装の吉田松陰



(一) 山鹿流兵家
吉田松陰、名は矩方、字は子義または義卿、通称は虎之助、後に幾度か改められたが終に寅次郎。松陰または二十一回猛士はその号。文政十三(一八三〇)年八月、長門萩の郊外松本村今の萩市大字椿東字椎原に生れた。父は杉百合之助、母は瀧。杉家は元禄の頃から毛利氏に仕えた下級武士の身分で、松陰の産まれた頃の禄高は二十六石であった。松陰には兄梅太郎、妹千代ほか三人、それに唖の弟一人があった。松陰五歳(数え年以下同じ)のとき、父の弟吉田大助の仮養子となり、翌年その病死に遭い、この家を継いだ。吉田家も杉家とほぼ同じ頃から毛利氏に仕えたが、家職は山鹿流兵学師範で、松陰は養父の禄をそのまま受けて五十七石六斗を給せられた。この禄高は中士の格に属する。

松陰はそれからもひきつづき杉家に同居した。そうして終生娶らず一家を構えることもなくして終わった。松陰は篤実勤倹好学の家風の中に、従順で誠実な少年として、儒学的な基礎教養と兵学者としての専門教育の手ほどきを受けたが、頭脳の鋭い英才として前途を嘱望され、殊に藩主はこの少年に眼をつけてその大成を期待した。
 さて一八三〇年代からのおよそ二十年間、年号は天保―弘化―嘉永と変わったが、それは松陰の兵学修行の時代であった。ところであたかもこの期間はわが幕末史上最も重要な転換期にあたる。江戸幕府が抱懐した内部要因を幕藩体制自体が包蔵する矛盾と困難に見出そうとする学者達は、天保九(一八三八)年に始まる老中水野忠邦の政治改革に注目する。
これに対して欧米列強の勢力が次第にアジア地域にまで迫り、わが国もまたその外圧を受けるようになったとき、これに対処する政策をあやまったために、幕府はみずから墓穴を掘ったとみる学者達がいる。この人達は嘉永六(一八五三)年六月、米使ペリーの浦賀入港を重要な転期とする。いうまでもなく江戸幕府の崩壊と明治維新の成立は、錯雑した因子が複合しての結果起こったのであって、単に政治的、経済的な面からだけでなく、其の間に国体に関する反省を促した歴史研究や水戸学、国学などの影響も見逃してはならないように思われるが、ともかくこの頃のわが国は重要な転期にたっていたことは疑うべくもない。
松陰はそのような時代に、史家のいう西南の雄藩のひとつであった長州藩にあって、その青年時代までを生活したのである。

兵学者松陰の修業は藩学明倫館で藩士のために、山鹿素行を学祖とする山鹿流兵学の講義や図上戦術の指導ができるように、ということを一応の目標とした。山鹿流兵学は戦国時代の武将武田信玄の兵法に基く小幡景憲やその門人北条氏長の甲州流軍学の流派を汲むもので、素行の博学は支那の経書はもとより、孫子呉子その他支那における兵法古典の趣意までも採って伝来の兵法を深め、これを和漢の歴史に徴するという形に仕上げた学問である。松陰は家学の高弟についてこの扁額を熱心に研究し、更に他の流派をも兼修した。そして十九才で独立師範となり、嘉永四年四月二十二才の春には極秘三重伝という山鹿流最高の免許を受けた。これによって明倫館兵学師範としての地歩は確立されたと見てよい。しかし松陰はこれを以て満足しないで、嘉永三(一八五〇)年秋冬の間は九州に、次の年は江戸に遊学した。あるいは平戸や江戸にある山鹿流宗家を訪ねて教えを乞い、或は沿道ならびに江戸に著名な学者の門を叩いてその所説を聴いた。
ところで江戸において勉学中の松陰は重大な失策をした。かねてから熊本の同学宮部鼎蔵と東北地方への視察旅行を計画し藩の内諾をうけていたころ、友人江幡五郎(後の那珂通高)が南部藩の内訌により獄死したその兄春庵復仇を志して同行を求めた。義に感じ易い二人はこれに同意し、赤穂義士討ち入りの十二月十五日を出発の日と決めた。ところが松陰は藩からの過書(身分証明書)が届かないのに、男子の一諾を重しとし、断然藩邸を亡命して水戸に赴き、一カ月ばかり滞在の後東北遊の旅に上がった。四月の初め江戸二毛って自首し、結局萩に追い下しの命をうけて帰った。亡命中江戸において国史国典の重要さを感じたので、罪を待つ間主として国史の研究に没頭した。この年十二月、亡命の挙は「上を憚らず、却って他国人へ信義を立て候心底本末転倒の儀、その筋相立たず」(全集九巻。三二七頁)という理由で「御家人召放」の処分を受けて家禄を奪われた。こうして二十三才の松陰は浪人の身となった。ついでながら、江幡はこの時復仇を果さず、そのうち仇は病死したが、自分は安政六年南部藩士に取立てられた。
藩主は松陰の亡命をきいたとき「国の宝を失った」と側近に語ったと伝えられる。(普及版九、二四六頁)が、杉百合之助に内命して松陰の十カ年諸国遊学を願い出させた。機を見て再び取り立てるつもりであったらしい。少年時代から藩主が特に松陰に眼を着けていたことは伝え聞いていたが、今罪余の身に対しひそかにこの恩命があったことは、一族わけても松陰の感激に堪えぬところであった。みずからの罪を悔い、いかにしてもこの藩主の恩顧に報いなければならないという心情は、封建時代に特異なものと見られるかも知れないが、松陰はこの心情においてこれからの新しい人生を生き抜こうとするのである。嘉永六年の春正月、松陰は希望を前途にえがいて諸国遊学の旅に上る。
瀬戸内海を船で大坂までゆき、摂津、河内、和泉、大和、伊勢を歩いて十数名の学者を訪ね、五月下旬江戸に入る。六月三日にはあたかも松陰の到着を待っていたかの如く、米国の水師提督ペリーが軍艦四隻をひきいて浦賀に入港した。この報をうけた松陰は単身浦賀におもむき、つぶさに事情を視察した。信州松代藩の軍師で、先年松陰が江戸遊学中しばらく教えを受けた佐久間象山も現地にあって幕府の無策を憤慨していた。松陰はこの時ここで「ようやく変革の勢を兆す」日本を自分の肌で感じ取った。
先年江戸遊学のときは安積良斎・山鹿素水・古賀茶渓・佐久間象山等の名高い学者に出入りしてみて、「わが学を託すべき」学者はいるけれども、「師とすべき人ない」(普及版巻二、一二五頁)と感じた松陰である。しかし再びここに来てようやく変革の兆しを看て取った今、何の躊躇もなく佐久間象山に師事することにした。同年九月、家兄にあてた手紙の中で「佐久間象山は当今の豪傑、都下一人に御座候・・・慷慨気節、学問あり、識見あり」(普及版巻八、二一五頁)と書いている。象山もまた松陰の人物を見込んで、「天下の事をなす」に足るよう、全力をあげて、その成長を助けた。先年すでにオランダ語をこの人から教わっており、今度もそれは続けたけれども、次に述べるような事情もあって、この方面では大成しなかったようである。西洋砲術については本格的に学習した。しかし最も注目しなければならない点は、象山が世界的視野に立って展開する当今の急務、国策の諸論によって、従来むしろ保守的な傾向において物を考えた松陰が、その姿勢をはっきり進歩的に切り換えたことである。問題の焦点をしぼって、東洋諸国が欧米列強の侵略に屈し次々と植民地化してゆく現状の中にあって、日本の独立をどのようにして守るかだけでなく彼等と対等の地位に立ってわが国策を行うかに主軸を置いて、思想し行動するという姿勢が松陰において確立してゆくのである。安政元(一八五四)年の著「幽囚録」(普及版巻一、三二九頁)はこの姿勢における松陰の思想見解を簡潔にまとめたものと見てよいであろう。

「幽囚録」によれば、幕府はその頃急場の用にオランダから軍艦を購入する計画を立てたという。佐久間象山はこのことを聞いて幕府に意見書を出した。オランダの軍艦を江戸で受け取るよりも、優秀な青年十数名を撰んで彼の国に派遣し、その往復の間に航海術を習得させ、兼ねて海外の形勢を視察させるのが上策であるという。当面の責任者、勘定奉行川路聖謨はこの説に同意し、象山もその門下から候補者を推薦するよう求めた。象山はこのことを松陰には洩らして、その一人に松陰を押したことも知らせた。ところで、この計画は遂に実行に移されないで終った。そもそも幕府の命令によらないで、勝手に海外へ出ることは三代将軍家光以来禁じられていた。難破した者が外国船によって送還された場合、その者は終身禁固に処せられるという厳しさであった。さてこれより先、土佐の漁夫万次郎という者が台風に難破して米国船に助けられ、渡米十年の後、嘉永四年正月送還された。この万次郎は慣例のようには扱われないで、幕府の役人から海外の事情を聴取されたり、薩摩の島津氏に招かれたりといった待遇をうけた。当時わが国には英語を話せる者がいなかったから、嘉永六年十一月には幕府の下役人に登用されることになった。異例の措置である、時勢の変である。

象山はここで漂流して海外に出るという道が開けたとし、有為の青年をしてこの道を行かせようと考えるようになった。もとより大きな冒険である、しかし海外を知ることの必要は今や絶対的である。そこでこの冒険を再び入門して来た松陰に示唆した。罪の償いということを肝に銘じている松陰は喜び勇んでこの呼びかけに応えようと決意した。
嘉永六年九月、松陰は江戸を出発して長崎へと志した。その頃長崎にはロシアの特使プチャーチンが国境問題をもって来泊し幕府の解答を待っていた。松陰はその船を目あてに漂流策を行おうとするのである。十月二十七日長崎に着いたが、聞けばプチャーチンは二日前に出港したという。雄図空しく敗れた松陰は帰途郷里の萩に両親を見舞ったが、年の暮には江戸に着いている。ここで本筋を離れるけれども附け加えて置おかねばならぬことがある。それは往復の途上、京都に立ち寄り、皇居を拝し、梁川星巌・梅田雲濱・鵜飼吉右衛門等尊王派の志士達と面会し、時局や政治に何の関係もあられぬと思っていた天皇が時勢を深く憂えていられることを伝え聞いたのである。このことは松陰のこれからの思想展開に重要な関係があることをここではただ指摘するにとどめて置こう。
松陰は「明春は一戦に相定まり申し候」(普及版巻八、一八九頁)と信じていたのであるが、その安政元年正月、ペリーが昨年の解答を求めて浦賀に入港したとき、幕府には一戦に及ぶ士気も戦備もなくて、その三月下田、函館の二港を拓く和親条約を結んだ。米国と結んだ条約はつぎつぎと他の列強とも結ばないわけにはいかなくなった。軟弱外交だと非難する声は巷にあふれた。松陰も幕府の無作為失政を憤慨した一人であるが、漂流策の必要をいよいよ痛感してその機会をねらった。その頃熊本の友宮部鼎蔵とペリーを斬ろうと謀ったこともあるが、むしろ国家に害をもたらすであろうと思い直してやめたという秘話もある。
(普及版巻四、一六〇頁)
さて途中いろいろなこともあるけれども省略して、三月二十七日の深夜、松陰は同藩の青年金子重之助と共に伊豆の下田港に停泊中の米艦ポーハタン号に小舟で乗りつけペリーに面会を求めた。通訳のウィリアムスが代って面接した。松陰は辞を尽して海外出遊のことを願ったが許されない。近い将来に両国民は自由に往復できる日が来るのであるからその時を待てという。米国としては今の段階では日本の国法を定めたことは尊重しなくてはならないと考えたようである。事、志と違った松陰達は自首して下田の獄につながれ、四月十五日江戸獄に送られた。途中高輪泉岳寺の赤穂義士に捧げる和歌一首、「かくすればくなるものとしりながらやむにやまれぬ大和魂」と。九月十八日の判決によれば、幕府の量刑は意外に軽く、自藩内に蟄居を命じるにとどめた。佐久間象山も関係者として起訴されたが同じ判決を受けた。これはペリーから、有為な青年に過酷な処分をしないよう申し入れたこともあずかって力があったという。松陰達は十月二十四日萩に送還された。判決に従って父の家に帰るのであろうと思っていたのに、潘政府は父百合之助に野山獄を借牢するよう強制した。金子重之助は平民であったから岩倉獄に入れられた。思うに松陰は孫子のいわゆる「彼を知り己れを知らば百戦危うからず」の鉄則に従い、彼を知るために海外に出ようと企てて失敗した。自分では「敗軍すれば一概に下手のように云えども、その曲折を聞かば必ずよんどころあるべし・・・洞春公(毛利元就)・東照公(徳川家康)の名将にてさえ、大敗軍には一騎落ちしたこともあり」(普及版巻十、四六六頁)といっているけれども、兵学者としてはいささか計画が周密を欠き、戦陣の場合とちがって、その失敗の原因のほとんどすべてが松陰の側にあるのではないか。これはまた別な話であるが、同志社の創設者新島襄は安政六年日本脱出に成功した。先ず函館に行き、そこから上海に渡り、上海から米国の船便をえて無事に初志を遂げた。ともあれ、松陰はオランダ語の研究も洋式兵学の研究も半ばにして、獄中の人となり、再び藩士に取立てられる機会を自分でつぶし、兵学的立場からの実践ももはや不可能な状態に自分自身を追いこんでしまったのである。索漠たる終末である。

野山獄小


 (二) 獄中の読書と教育
 獄中の松陰に対する杉家一族の心遣りは、本書に兄梅太郎との往復書簡を集録しただけからもその一端を想像することができる、まことに至れり尽くせりである。松陰はその恩愛のなかに平常心を取りもどし、家兄の差入れる書物をむさぼるように読み始めた。時代の課題をむしろ行動的に解決したいと考えて来たこれまでの行き方をもっと広い立場から見直さなければならない。課題は今日の問題であるが、これまでの行動に中で違和感をもって受け取ったものを思想的に統合しなければならないところへ押しつめられて来た。先年東北遊歴の途次、水戸に滞在して会澤正志斎や豊田天功などの学者をたずね、水戸学の精神に触れ、国史国典の重要さを痛感していたことを忘れていない。いっぽうでは佐久間象山に傾倒して進歩的な時務論に転向し、その結果として海外脱出も企てた。しかもそのために長崎へ下った往復の途次京都に立ち寄り尊王派の志士達と交わって強い感銘を覚えた。松陰はこれらの異なった立場にある人達のいずれにも尊敬の情を感じたが、そのどれか一つの立場を固守するのであれば簡単である。しかしそうするにはそれぞれの立場にある人達から受けた印象と感銘が余りにも強かった。ここに課題の上に課題があることが問題とならざるをえない。それが読書という形で松陰の獄中生活を生気あふれるものとする。
家兄への手紙に「正月早々から多忙々々。(日本)外史も読まねばならず、詩も造りたし。信玄全集も借りたし、(靖献)遺言も覆読しかけた。入蜀記一読、甚だ面白し、今一読と思い候。中庸も始めの方二三枚読みかけあり。大学は一読。詩も吟詠したし。さてそれにどうも唐土の歴史が読みたい」(普及版巻八、四〇七頁)というのがある。この頃の獄中生活を想像し得るではないか。「野山獄読書記」(普及版巻十、三頁)によれば、在獄一年二ヶ月の間に読んだ書物は六百十八冊にのぼっている。その中には国史、支那史、西洋史に関するものが最も多く、経書、兵書、地理書、時務論、詩文類もかなりある。もとより松陰の希望するものが順序よく差入れられているわけではないが、目的を忘れて多岐に迷う段階ではない。
 獄中でいま一つ注目しなければならないのは、同囚と学習グループを結成したことである。「野山獄囚名録叙論」(普及版巻四、一二〇頁)にもあるように、同囚の士分のもの十一名、うち借牢四人、犯罪者二人、その他も親戚間の折合いがわるいからというのでいわば軟禁である。安政二年を以ていえば最年長者は七十五歳、在獄四十八年、最年少者は松陰、その次が三十五歳。在獄年数は十八年、十五年から七年ないし三年といったような状態で、ひとたびここに入れば再び世間に出ることは先ず望めない。獄中には陰惨な絶望的な空気がみなぎっていた。松陰はこういう事態を知るとたまらなくなり、何とかしなければならないと思うようになった。そこで獄中座談会を開いて共に語り、更に俳句の得意な吉村善作・河野数馬、書道漢詩のできる富永有隣に呼びかけて俳句会、書道会を作り、自分は「孟子」の講義を始めることにした。このようなグループができるまでには種々の問題もあったけれども、およそ半年かかってそれらのグループ学習団が成立した。家兄宛の手紙の一節に「吉村は発句を以てし、頑弟は文学を以てし、外に富永氏書法を以て人を誘い候。今はこの三種の内なにかを学び申さぬ人とては之れ無く、かつ孰れも出精の趣きなり」(普及版巻八、四四五頁)と報告されている。「孟子」の講義は四月十二日夜から始められ六月十日で一たん終わっている。そこで今度は同囚達が同じ「孟子」を分担して輪講しようという。松陰も勿論同席した。そして松陰は各章毎に感想を述べ章意を敷衍することにした。名著「講孟余話」はそれを整理して成ったものである。松陰は別に「論語」の、富永は「唐詩選」の、講義もした。司獄福川犀之助は強く松陰の人物に感銘し、弟高橋藤之進と共に松陰から教えを受けるようになり、ここに野山獄はあたかも一つの学校の形をとり、囚人達の人間性も回復され、獄風も改善されるに至った。これは世界教育史上でも稀有な出来事であると云わねばならない。なお松陰は出獄後、これらの同囚を獄から出すために人を通じて藩政府にはたらきかけ、十一人のうち七人が許されるという結果を見ることができた。

  (三) 幽室の読書と思索
安政二年十二月十五日、藩は病気保養を名として松陰を父の家に帰らせた。その十七日夜、幽室には父百合之助、兄梅太郎それに外叔久保五郎左衛門が集った。けだし松陰が獄中で書き始めた「講孟余話」が萬章上篇までしか済んでいなかったので、この三人が講義をきき、余話を完成させようというのである。松陰の感激は察するに余りがある。講義は萬章下篇から始まり、いろいろな事情で断続はあったが翌年六月十三日をもって完了した。この会には叔父玉木文之進が参加したこともあり、またその子彦介その他親戚の青年も加わるようになった。そうして父や兄はじめ右の青年たちは別に松陰と和漢の書を対読したり講読を受けたりもした。
 さて安政三年から二年半ばかりの間、松陰はその生涯のうちで最も平和な幸福な時代を過ごしたといってよかろう。読書と思索、著述と教育に専念する静かな充実した日々であった。しかしそれ故にこそ次に来た狂瀾怒濤の時代への準備された時期でもある。
 日記によれば、安政三年の読書量は五百五冊、同四年は十一月までしか記されていないが約四百冊である。そのうち最も多いのは「史記」・「漢書」以下「明朝紀事本末」に及ぶ厖大な支那史籍である。国史国典の研究は水戸遊歴以来着手し、いわゆる「六国史」はすでに卒えていた。この時期には「中朝事実」・「神皇正統記」・「外藩通書」・「日本政記」をはじめ通俗国史も読み、「古事記伝」には特に力を入れた。なお会澤正志斎・藤田東湖などの水戸学派及び山県大弐・雨森芳洲・平田篤胤などの代表作も読んだ。これらはそれぞれ日本的立場を強調する学者である。松陰はさらに中江藤樹・伊藤仁斎・熊沢蕃山・荻生徂徠などの著作も研究している。その他毛利藩史・詩文・時務論・民政産業から医学の書籍まで及んでいるが、読書の眼目はどこまでも経世的実学に資しようとするにあった。
 松陰は読書の際必ず要点を抄録した。今日保存されている抄録のすべてを印刷するとなれば、岩波版の吉田松陰全集十巻はさらに二巻を増すことになるであろう。もっとも右の全集の第八、第九巻はそれらの一部を収録している。「鴻鵠志」・「明倫抄」・「宋元明鑑紀奉使抄」・「外蕃通略」などがそれである。著作としては前述の「講孟余話」のひかに「叢棘随筆」・「武教全書講録」・「幽窓随筆」・「討賊始末」、安政三年から同五年までの「幽室文稿」がある。
 松陰の読書と思索について述べたいことは幾らもあるが、ここには前に触れて置いた思想的課題だけについて少しく論究しよう。上述したように松陰の読書は学派にこだわらず、儒学については漢籍はもとよりわが国の代表的な著作はじゅうぶんとは言えないまでも一応眼をとおしている。それに実学の立場から和漢の歴史を最も重んじ、自分で実践的な方向を見定めようとした。そうなると先ず本人の人生観の根本が確立していなければならない。それが文章の形をとったものとして「七生説」(普及版巻四、一二七頁)は貴重な文献である。
 宋代の儒学では太極とか理気とかの論に精緻を尽しているが、松陰はそれを知らないにもかかわらず、むしろ逆に自己の体験から出発してそれを理気の説でそれを裏付けようとする。体験というものは、まだ自由の身であった頃、三たび湊川に楠正成の墓を拝したがいつも感動はかわらない。また墓側にある明の遺臣朱瞬水の楠公を弔う碑文を読んで涙をこぼした。楠公と朱瞬水と松陰、この三人が血縁関係もなく、時代をへだてて、国籍をこえて、互いに共鳴感動するのはどうしたことであろうか。三人を共通につなぐのは、根源が一つであるからでなくてはならない。「すなわち知る、楠公、朱生及び余の不肖みなこの理を資りて以てこころとなせば、則ち気は属かずと雖も心は則ち通ずるなり。これ涙の禁ぜざる所以なり」。人間の心は宇宙の理を資ち、身体は宇宙の気を稟けて成る。身体は物であり物欲の宿るところ、その死はその構成分子の分解破裂である、「腐爛潰敗して復た収むべからず」である。心は宇宙の理をうけていて人間は人間として在らねばならぬ道を知り、また知って行おうとする。君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友とその対応関係の中に自分の在り方を見つける。「私は体なり、心は公なり。私を役いて公に殉う者を大人となし、公を役いて私に殉う者を小人となす」。楠公父子は血がつながる点で気もまたつづいているが、心の命ずるところに従って南朝の忠臣として行動した点で理もまたつづいている。楠公と血縁関係のない者も楠公の心を心とするものはひとしく理の世界に共存する。楠公がわれわれを感奮興起させるのは、楠公を忠節に駆りやる理をわれわれもうけているからである。七たび人間に生れて、と楠公はいったが、此の人の忠節に感ずる者の絶えぬ限り、楠公の精神は七たびどころではない、不滅である。人間とは結局この亡びゆく身体を以て理すなわち公なる精神を顕現する座とすることである。松陰はこれまで幾たびか失敗をしたけれども、志すところは「聖賢の心を存し、忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼす」にあった。この志は私利私欲の私でなく、「この心すでに楠公諸人とこの理を同じくす」るのであって、「必ずや後の人をしてまた余を観て興起せしめ」ようとするにある。これは大言壮語であってはならない、自分の生きている間にどれだけ公の道に自分を捧げることができたかによって決まることであるから、七生説は「ああ、これ我に在るなり」と結ばれているのである。
 公の道は世界に共通のそれと、一国一身に独特のそれとがある。「講孟余話」(普及、巻三、四四一頁)に「道の大本をいわば、人と生れては人たる所以を知り五倫を明らかにし、皇国に居ては皇国の体を知り、本藩に仕えては本藩の体を知り、以て根基を建て、さてその上にて人々各々その職掌を治むべし。儒官は経史を博覧精究し、天文家は天文、地理家は地理、医家は医術、画家は画法、また弓馬刀槍銃砲各々その技芸を以て専攻の家業とする者は更にその精妙を究め、その他士は士、農は農、工は工、商は商、みなその職掌を治むるなり。かくの如く大小網目井然画定する上は西洋究理学の如きもまたおのずから世に廃すべきにあらず」とある。五倫の道は、松陰に従えば、万国共通であり、わが国体、毛利藩の在り方は一国一藩の独特なものであり、各種職掌は皆一身の独特の拠って立つところである。
 次に松陰の国体観は初めは兵学者らしく、しかも当時欧米列強の武力政策とも対応して、幕府は天皇の下に征夷大将軍の任を負い、国力を充実して兵を強くし、外国に対して屈従的政策をとらないばかりか、進んで弱国を併合して皇化に浴させるようにするのが、久しく忘れられているけれども、わが国体であるとしている。次に松陰は「古事記伝」の著者本居宣長から強く影響をうけたようで、天照大神の神勅をはじめとするわが国の肇まりについての神話をそのまま信じる一種宗教的な立場において天皇の絶対を信じている。大日本は神国なりといって北畠親房と同じ根本の信念に立っている。支那で先王の道といってものがわが国においてのみ実存し「皇朝は万葉一統にして・・・人君は民を養いて以て祖業を続ぎたまい、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致なるは、唯わが国を然りとなす」(普及版巻第四、二〇頁)と要約し、ここでは明らかに水戸学の思想につながっている。以上は江戸時代に末期までに到達した日本の学問上の国体究明における結論というべきものを松陰が採って自己の見解に統一したのである。現実には幕府のもとで天皇は軽んぜられ、諸大名はまた幕府の命のままに動くだけである。ここにもと朝廷と深い関係にあって政治の枢機に参与したが、広元にいたり源頼朝を佐けて幕府を開かせた大江氏の子孫である毛利氏の在り方について松陰は考えるのである。毛利元就の時代から孫の輝元時代まで、毛利氏は中国地方の大部分を領有した雄藩であり、尊王の大義もおろそかではなかった。しかるに輝元は関ヶ原の戦いに豊臣方に加わって敗れ、領土も防長二国にせばめられて、徳川氏の外様大名となって二百余年を経過した。長州人の中には関ヶ原の敗戦を忘れ得ず、何時か機を見て徳川氏への屈従をはね返し、毛利氏がとって替ることを謀るべきだと力む者も少なくなかったらしい。松陰は「この論余が深く痛心するところなり。およそ七道の諸藩いずれか天子の命を奉じ、幕府の令に従う者にあらずや」(普及版巻三、四九頁)という。しかし現実には天子の命を奉じて事を運ぶという体制ではない。このような体制は鎌倉幕府創設以前にあったことで、江戸時代の今において討幕論者でない松陰としては幕府が天子の命を奉じて政治を行う変革を心にえがかなければならない。その際諸般の大名が幕府に対して強くその変革を要請することが、封建社会の秩序を守る限り、穏やかな道である。松陰は朝廷との関係の浅くない毛利氏こそ率先してこの任に当たるべきであるとし、毛利藩主をそのように考え直してもらうように政務の首脳部を動かさねばならないと考えたのである。「先ずわが大夫(家老)を諭し、六百年の罪と今日忠勤の償いとを知らせ、またわが主人(藩主)をしてこれを知らしめ、主人同列の人々をして悉くこの義を知らしめ、それより幕府をして前罪を悉く知らしめ、天子へ忠勤を遂げさするなり」(普及版巻八、五一八頁)。ここで注目しなければならない点は、このような変革論の着手の処に松陰自身が立っていることである。評論家の評論とは根本的に違う。そうしてその根底には「世の君に事うることを論ずる者謂えらく、功業立たざれば国家に益なしと。これ大いに誤りなり。道を明らかにして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云え、君に事えて遇わざる時は諫死するも可なり、幽囚するも可なり、餓死するも可なり。これ等の事に遇えば其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず永く後世の模範となり、必ず其の風を感観して興起するものあり」(普及版巻三、一九頁)という思想がある。封建制度の中の改革論者松陰はこのように自己をギリギリの一線にたててものを考えたのである。
 なおこの時期の松陰の思索で重要と思われるのは、時局を憂える心と天朝を憂える心との本末についてである。兵学者松陰は外国の圧力に先ず着眼し、国家の独立の脅かされることを憂えた。そして図らずも京都の尊王派の志士と交わるようになって天皇の深き憂えの趣きを聞いた。時局を縁として天皇の憂えを知ったのである。従って天皇は松陰においては無意識にではあっても時局打開のための機勢としての意義において見られた。時局が平穏であれば天皇の存在には思いも及ばぬですんだであろう。松陰はそのことに気づかないでいた。安政三年八月、安芸の僧黙林が萩に来て、松陰との数次の書簡往復の間に、矍然として始めて悟った。「従前天朝を憂えしはみな夷狄(外敵)に憤をなして見を起せり。本末すでに錯う、真に天朝を憂えしにあらざるなり」(普及版巻四、一八六頁)。国体が本で、時局は末だという思想の転回である。時局対策として、例えば攘夷論とか開国論とかを唱えても、それは尊王論に基かなければならない、尊王の一点で国民が統合されていれば、時局の対策は攘夷開港いずれでも、その時の宜しきを制すればよいのである。事実松陰自身も、学校に外国語科や航海科を設けるとか、西洋究理の学を入れるべきであるとか論じており、またわが国史研究によって江戸幕府の鎖国以前は海外の諸国と交わっていたことを挙げている。これらは佐久間象山から承けた進歩的な思想に根差しており、背景には勿論開国論がある。松陰は処刑の前日に書いた「留魂録」のはじめの方に、幕吏が予審調書の中に、松陰の主張した航海雄略のことを記載していないのを不満であるとしているが、航海は積極的に海外に乗り出すこと、雄略は海外文化の採用、国力の充実、そして次第に隣国から始めてアジア諸国や濠州をわが国威の下に置こうとする政策である。これは欧米列強の武力政策に反発する松陰の兵学者的対抗である。「鎖国の一条は時勢御察観成され御変革これなくては皇国御興復はとても出来申さず」(「愚論」普及版巻五、一五三頁)というのはこの立場においてである。とはいえ、当時わが国の国力は衰え士気は振わず、外圧に屈服していつ欧米の属国になるかも解からないような状態に在った。これを百八十度転換して航海雄略の国策に切替えることは難事のなかの難事である。松陰はここで「鎖国を開き候には墨夷丸に御拒絶なされず候ては、御国威立ち申さず」(同上)という。「愚論」が書かれた五月下旬にはまだ調印はしていなかったとはいえ、すでに議定されていたことであるから、これを破棄することの困難は承知の上での発言である。結局両国の開戦を予想し、これによって国民の士気を振い起し、団結を固くし、従来の消極的態度を積極的に転換しようとする。孫子の「これを死地に陥れて然る後生く」という冒険である。開国論に立ちながら攘夷論を主張するのであるいかにも暴論のようであるけれども、松陰没後四年の文久三年四月には、将軍家茂はその五月十日を以て攘夷開始の期限とする旨を天皇に奏し、各藩へも布告した。そうしてその日長州藩は馬関沖で米船を砲撃し、次いで米仏蘭英四ヵ国の連合艦隊との海峡戦に突入した。

150625松陰と幕末明治の志士たちアマゾン写真160621松下村塾塾舎



  (四) 松下村塾
 父兄や親戚の者を相手に読書し講義するという様式は松陰自身の読書と思索の一部を成したことはすでに述べた。安政三年もこのようにして経過してゆくが、私としては特に、八月山鹿素行の「武教小学」を講じ始めたことに重要な意義を認めたいのである。「丙辰日記」はこの八月二十二日から筆を起しているが、その初めに「午後、武教全書を開講す。外叔久保翁、家大兄、佐々木兄弟、高洲滝生、従弟毅甫これに会す」とある。「武教全書」とあるが日記の進行を見ると先ず「武教小学」を講じている。佐々木亀之助・弟梅三郎・高洲滝之丞・玉木彦介みな親戚の青年である。松陰はこの年も読書日記は継続しているが、この「丙辰日記」(普及版巻一一、八四頁)はいわば教育日記である。
 松陰はあたかもこの頃「松下村塾の記」を構想中であった。松下村塾は、天保十三年叔父玉木文之進がその私塾にかかげた号であるが、数年後公務のため閉鎖し、多分嘉永年代になって外叔久保五郎左衛門がその家塾にその号を用いて安政三年に及んだ。この久保翁が松陰にその塾の記を作るよう依頼したのである。「丙辰幽室文稿」に収めた「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)は九月四日に成っている。この文において松陰は教育の目的を論じ、青少年の在り方と使命にまで及んでいるが、その終りの方に「余は罪囚の余、言うに足るものなし。然れども幸に族人の末に在り、その子弟を糾輯して以て二先生の後を継ぐがごときことあらば、すなわち敢て勉めずんばあらざるなり」とある。外叔の塾の記を作ってこのようなことを書き加えるのはいかにも非礼のようであるが、実は久保翁の意志がそこの在ったからのことであると見られる。しかし謹慎中の身分をはばかり、松陰はこの次の年十一月自分の私塾にあてる八畳一室がたてられたときも「久保氏の新塾」という呼び方をしている。この建物ができるまでは杉家の客室が教授の場となっていた。ついでながら松陰の松下村塾は安政五年三月さらに十畳半を増築し、同年七月に至って漸く藩府から家学の教授を許可されている。安政三年十月、岩国の奥地山代から入門した増野徳民が、親戚でない者として初めてであり、次いで近隣の吉田栄太郎、松浦亀太郎が来た。徳民は医、栄太郎は足軽、亀太郎は商家の出で画家を志した。ここに初めて士分でない者を加えたことになる。そうして三人が松下村塾拡張のために活躍して次第に有為な青年をここに集めるきっかけを作った。中谷正亮・高杉晋作・久坂玄瑞・尾寺新之丞などが入門したのは安政四年になってからである。
 ここで塾の発展していった経緯については述べないが、安政五年十一月二十九日藩命によって塾を閉鎖するまでの間門人の列に加わった者は八十名前後であると推定される。そのうちで松陰の書いたものにしばしば出るのは次の二十数名である。
 高杉晋作(十九)、久坂玄瑞(十八)、入江杉蔵(二十一)、吉田栄太郎(十七)、佐世八十郎(二十四)、岡部富太郎(二十七)、福原又四郎(?)、松浦亀太郎(二十一)、増野徳民(十六)、有吉熊次郎(十五)、作間忠三郎(十五)、品川弥二郎(十五)、天野清三郎(十五)、国司仙吉(十二)、時山直八(二十)、杉山松介(二十)、山県小助(十八)、玉木彦介(十六)、中谷正亮(二十七)、尾寺新之丞(?)、伊藤利助(十七)、野村和作(十六)、冷泉雅二郎(十七)、僧提山(十九)、馬島甫仙(十四)、山田市之充(十四)
氏名の次に括弧して記した数字は安政四年における数えの年齢で、このうち数人は安政五年に入門したものである。なお桂小五郎、のちの木戸孝允を門人に加える著作家もあるが、嘉永二年の兵学門下であって松下村塾では教育を受けていない。
 当時は階級性がきびしく藩学明倫館は士分の者以外の入学は許さなかった。松陰の塾ではそうした差別はしない。上記二十七名のうち出身別にみると士分十六、足軽七、医二、僧と商各々一である。入江杉蔵、吉田栄太郎、野村和作、品川弥二郎、伊藤利助、山県小助等は足軽出身である。
 さて松下村塾の教育目的は「士規七則」(普及版巻四、一九頁)、「松下村塾の記」(普及版巻四、一七六頁)などで明らかなように、人倫国体を弁えて士道と士行の活躍を期待した。だから家格にかかわらないで人材の登用の要を力説した上書もある。テキストとしては漢籍もかなり多く用いたが、「異国の書を読めばとかく異国の事をのみ善しと思い、わが国をば却って賤しみて異国を羨む様に成行くこと学者の通患」(「武教全書講録」普及版巻四、二一〇頁)あることを戒め、大言壮語することを止めて着実に下手即ち実行の端緒を求める態度を要請しようとする。士道は義に、士行は質実で欺かないところに立つという。以上が根本的思想であって、その限りにおいて甚だ倫理的色彩が強い。併しながら松陰の特色はこのような根甚をふまえて人各々の職分と個性に応じて自分のはたらく分野を見出し、そこに必要な知識才能を身につけなくてはならないとしたところにある。根本思想においてすでに立身出世的な利己主義を排し、公に奉ずる精神を強調する松陰は、この時代の危機感において政治外交経済などの問題を大胆に取り上げ、国政改革への方向と方法を探求する知性と情熱を盛り立てようとした。このようにはっきりと自己の立場を明らかにして政治教育を行ったことは、教育史上松陰の著しい特色である。もっとも一人一人の才能個性や家庭の事情等により国事にはたらくこと以外にも人間として生きる道のあることを示し、励ましたことはいうまでもない。松陰は文武・心身の教育の調和に心を配り、とかく文と精神に偏し易い当時の私塾としてはめずらしく野外演習、水泳、撃剣を奨励し米搗き、耕作などもさせた。また塾生間の敬愛に基づく協同社会的関係の設定には最も注意し、その結果松下村塾の教育は驚くべき成果を挙げた。個性的指導と協同社会性の陶冶、この両面が塾教育成功の方法的原理と見てよいかも知れない。個性の指導についてはここに詳述し得ないが、本書中にはその指導例が豊富に収められているから、就いて考察されるように望みたい。なお共同討議法を活用したこともこの塾の特色として挙げられるであろう。
 松陰主著の原文を読むとき、そこには大成した学者が未熟な青年を静かに教えているといった趣よりも、未完成な、自分自身もなお日々自己反省と向上をしなくてはならない青年が、その未完成な学問と思想を以て若い生命にぶつかっているという生々しい印象を受ける。「妄りに人の師となるべからず、また妄りに人を師とすべからず。・・・師弟ともに諸共聖賢の門人というものなり、同門人の中にて妄りに師といい弟子というは第一聖賢へ対して憚りおおきことならずや」(普及版巻三、一三八頁)。松陰にとって門人達は同志でありわが友である。しかも「気体血肉皆吾れと連接する」(普及版巻九、二四四頁)友である。
 松下村塾は英才教育の場であったという誤解がある。黙林への書簡に「若し僕幽囚の身にて死なば吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をが後世に残し置くなり。子々孫々に至り候わばいつか時なきことはこれなく候」(普及版巻八、五一九頁)烈しい執念にも似た悲願は、これを教育によって実現するほかないし、それに称う者は正しい意味での英才でなければならない。そのような英才を松陰が強く求めたことは当然である。入江杉蔵に塾生の人物評を書き送った中に、高杉晋作・吉田栄太郎・久坂玄瑞の三人を挙げ、「人の駕御を受けざる高等の人物也・・・吾れにおいて良薬の利ある、まさにこの三人を推すべし」とある。(普及版巻六、一二四頁)この三人に入江を加えて松門の四天王とも呼ばれたという。しかしながら塾を開いたからにはそのような英才ばかりを待つのではない。「来る者は拒まず去る者は追わず」というのが松陰の態度であった。だから吉田栄太郎が連れて来た市之進・溝三郎・音三郎等は悪くすると村の不良青年になりかねない傾向さえ持っていた。義務教育制度でないあの時代のことであるから、全然その志のないものが入門することはなかったであろうが、いろいろな資料から察せられることは、普通の知能の青年がやはり多かったようである。大者は大成し、小者は小成する。教育は遺伝的素質の大小をどうすることもできるのではない。唯各々の持ち前を成らせることにだけに関与する。そうして松陰はそのことに成功し、能力相応の人材を育成した。それらの中から幕末の改革的運動の指導者も出たが下働きをした者もでた。前にあげた四天王はよく松陰の志を継いでこれが実現に奮闘したが悉く維新前に殉難した。幸に生き残った人達の中に前原一誠・山田顕義・野村靖・品川弥二郎・伊藤博文・山県有朋等の大臣を出したからといって、それは英才教育を目標としたというべきではない。松陰は一人一人を大切にして、人間らしい人間に育てあげることをねらいとしたのである。

(五) 狂瀾怒濤
安政五(一八五八)年四月、井伊直弼が幕府の大老に就任した。幕府では、懸案となっていた二つの重要問題の解決をこの大老に期待したのである。その一つは、前年十一月、米国の総領事ハリスに迫られて日米修好通商条約を議定したが、勅許を得ることができないままになっていた。その二つは、将軍の継嗣として水戸徳川斉昭の子の一橋慶喜と紀伊の徳川慶福(家茂)が候補に擬せられていたけれども、それぞれに有力な支持が対立して決定されないでいた。井伊大老はその六月この二つの困難な懸案を一挙に解決した。一は勅許を経ないで新条約に調印し、二は尾張・水戸など徳川親藩の反対を押し切って慶福を将軍の継嗣と決めた。大老には大老としての見解があってのことと思われるが、心ある人々にとってこの処置は予想外のことであったから、にわかに激しい反対論が沸き立ち、殊に勅許を経ないで条約調印という点で尊王派の志士達は激怒した。これに対して井伊大老は水戸や尾張の藩主等を罰し、京都には間部老中を遣わし、志士達を捕えて獄につなぐという弾圧手段に出た。これが導火線となって、封建体制下の複雑な各藩の事情を踏まえて、しかも当時英仏両国軍が、隣国支那を屈服させた余威を仮りてわが国にのしかかろうとする勢を示し始めた中に、尊王と佐幕、開国と攘夷と一見相容れない主張を楯に論戦が展開され、志士達の暗躍が活発になり、中には過激な行動にまで爆発する者もあり、世を挙げて一大混乱が始まった。明治維新への狂瀾怒濤の時代である。
 松下村塾は時代の課題と取り組む実学的立場に立っていたから、このような時代の激変に対処する一人一人の姿勢を問題とするのは当然である。あたかもよし、当時藩政府はむしろ進歩派と見られる人達で構成されていた。その首班は家老増田弾正で松陰の兵学門下、その下の実力者周布政之助や前田孫右衛門・井上与四郎も松陰の支持者である。従って塾で討議したことのうち、藩政につながる事項は意見書として提出すれば、藩は好意的に検討し、時にはそれを藩の方針として採用さえする。だから塾での討議はいわゆる書生の空論に終ることを許されない。塾生達はその共同討議の持つ意味をよく理解し、責任感と自尊心のうちに、それぞれ一人一人を形成していくのである。
 討議資料の問題がある。あの僻地の地では刻々に変動する時局の情報が手に入らぬのではないかと一応は想像される。ところが正確な情報入手と現状視察の必要についての松陰の建策は藩も採用して、多くの人材を江戸や京都に派遣していた。安政五年七月までに松下村塾からこれらの地に出かけていた者を挙げるなら、中谷正亮・久坂玄瑞・入江杉蔵・吉田栄太郎・松浦亀太郎、それに高杉晋作がおり、この月また形勢視察のため潘から京都に出張を命じられた六人のうち、杉山松介・岡仙吉・伊藤利助・伊藤伝之助は塾生である。その他松陰の友人も幾人か出かけている。これらの者から送ってくる情報や資料、それに藩政府の実力者に質して得た情報がある。それらを資料として共同討議は行われる。松陰はこれまでに述べたような基本的立場に立って討議の方向を示し、筋金を入れる。しかし決して無理に自分の流儀に引込もうとしたのではない。安政五年二月頃、塾生の討議が或る結論に達したところ、高杉が後にこれを聞いて反対論を唱えた。松陰はその言に従って塾の結論を採らぬことに決めた。高杉への書簡に「近日の議の如き、清太(久保)諸友その説なきにあらず。然れども鋭甚だ過ぎ、すなわちこれを疎脱に失す。足下の一言これを阻むことなかりせば、僕ほとんどまさに大事を誤らんとす。事過ぎてこれを思えば、大夢の一覚の如し」(普及版巻五、一一二頁)とある。
 ここで注意したいことは、右に述べたように、安政五年になると塾の俊英は次から次へと京都や江戸に出かけて、塾には年少者か凡庸者しか残っていないという事態である。殊に高杉・久保・入江・吉田等が一人もいないことになっていると松陰の論敵は先ずなくなってしまう。それに時局は変化する、憂うべき情報はしきりにはいって来る。共同討議といっても松陰の独擅場になり、年少未熟な塾生達は引きずられるばかりになる。松陰の焦燥感がつよくなるに随って考え方は激烈になり、計画は疎漏になる。門人達に反論する力はないけれども、内心では常に必ずしも納得しているとは限らぬこともある。ぐずぐずしていると松陰の怒りを買い、決意をにぶらすと命が惜しくなったかと責められる。十月十九日萩に帰った入江杉蔵が江戸の吉田栄太郎に送った手紙の末尾に「栄太早々帰れ、先生のもりに困る人ばかりなり」(全集巻六一一三頁)とあるのはこの間の消息を伝えるものであろう。
 八月二十二日、京都から密使が萩に来て、いわゆる戊午の密勅を藩政府に手渡した。幕府に万一不義のことがあった場合、京都の守護を要請したもので、水戸ほか十四の藩に下ったのである。当時井伊大老は天皇を彦根に遷す意図があるとの流言が長州にまで飛んでいた。藩としては極秘のうちに事を議し、翌月周布政之助を京都に上らせ、勤王派の公卿達を訪ねて藩主の意を伝えさせた。このことから藩は次第に松陰にも洩らされぬ秘密をもつようになり、また藩の方針とは異なった行き方の言論や行動を警戒するようになる。京都や江戸に在る藩の士卒、その中には松下村塾の門人もいたこと前述のごとくであるが、それらの者に対しては警告を与え妄動を戒めた。松陰に対しても周布はその家兄を通じて、勤皇の事は藩においてすでに計画は立っている、来春藩主参勤で江戸に出てからそれは着々と連ばれるのであろうから、この際書生の妄動は慎まねばならないと伝えた。この時点における藩の方針は、「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖宗へ孝道」という原則に立ち、公武一和の方向に周旋するに在った。それは松陰の思想から示唆されたもののようである。例えば松陰のこの頃書いたものに「大義を議す」という論文がある、その一節に「今日に務は大義を明らかにするに在り。大義すでに明らかなれば征夷と雖も二百年来恩義の在るところ、当に再四忠告し勉めて勅に遵わんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまわず。征夷翻然悔悟せば決して前罪を追咎したまわず。是れ吾れ(長州藩)・長幕府の間に立ちて之が調停をなし、天朝をして寛洪に、幕府をして恭順に、邦内を協和に、四夷をして懾伏せしむる所以の大旨なり」(普及版巻五、一九四頁)と。松陰は対立闘争でなく反省和解の途を強く願っているのである。公武一和という言葉は当時いろいろな立場の人によって使われたが、松陰は大義を明らかにするという立場においてこの言葉を用いた。藩の方針にはもっと現実的な打算があったかも知れない。
 松陰はこれより先、京都の公卿大原重徳を長州へ迎える策を立てたり、梅田雲浜門下の赤根武人が松陰を訪れたとき、再び亡命して京都に潜入し雲浜がつながれていた伏見の語句を破壊する策を授けたりしたが、共に実現はされなかった。今周布から、藩主江戸に下り勤皇のことに周旋すると聞かされて満足するどころか、不安を感じないでは居られない。藩主を危地に陥れることを恐れずに居られない。藩主の出馬より前に藩士が動き、素地をつくった上で藩主を迎えるべきと考える。そこで松陰は来年の参勤延期論を唱え、一方では再び大原重徳を迎えて長州で義挙を起そうと企てる。野村和作と田原荘四郎をその使として出発させたが、田原が裏切って、京都の長州藩邸に密告したため野村は追い落としの命をうけた。
 十月の終り頃、尾張・水戸・越前・薩摩の四藩が連合して井伊大老暗殺の計画を立て、長州へも協力を求めて来たという情報が入った。勤皇の魁を以て自ら任じる松陰はこれを聞いてじっとしてしては居られなくなった。塾生との討議はこの魁の問題を中心に重ねられた。そして十月下旬に至って一つの計画が成立した。京都に滞在して勤皇の志士を逮捕し、朝廷に圧力を加えて正義の公卿を斥け、条約の勅許を得ようとする老中間部詮勝を要撃しようというのである。前に引用した入江が「先生のもりに困る」といって手紙を書いたのはこの頃である。この計画には十七名の塾生が血盟した。その姓名は三人だけ解かっているが、その他は記録がない。しかし多分青年組のほとんど全員であったと想像される。ともかく十七名は十二月十五日入京の予定を以て準備にとりかかった。いうまでもなく謀は密でなければならない。ところが松陰は事成れば藩主が続いて出るきっかけを作り、事敗れるならば十七名が罪を負うても天下の正気を奮い起すに足ると自信し、近頃藩の方策に苦慮しているらしい周布政之助や前田孫右衛門等を励ますに足るとでも思ったのか、十一月六日にこの秘密計画を二人に内報し且つ許可と援助を求めた。前田は賛意を表したというが、周布は驚き憂え、また松陰の身の上も案じ、その兄や友人を通じ百方手を尽くして思いとどまらせようと努めた。しかし結局それが空しい努力に終ったので、十一月二十九日藩主に乞うて松陰の厳囚を命じ、ついで十二月五日借牢の形式で野山獄に入れるよう父百合之助に内命を発した。このことについて門人作間忠三郎・吉田栄太郎・入江杉蔵・佐世八十郎・岡部富太郎・福原又四郎・有吉熊次郎・品川弥二郎の八名は憤激し、周布政之助、井上与四郎の邸に押しかけ罪名を明らかにせよと迫ったが、代理者しか出会わず要領を得なかった。次の日この八人は暴徒としてそれぞれ自宅に謹慎を命じられた。松陰の父はその頃重病の床に臥していたので松陰は看護のために入獄の延期を請うて許され、その二十六日ほぼ安静を得たので入獄した。こうして松陰の主宰した松下村塾は閉鎖された。
     留題村塾壁   村塾の壁に留題す(普及版巻五、三七一頁)
  宝祚隆天壌   宝祚は天壌と隆え
  千秋同其貫   千秋その貫を同じくす
  何如今世運   如何ぞ今の世運
  大道属糜爛   大道は糜爛に属す
  今我岸獄投   今我れ岸獄に投じ
  諸友半及難   諸友半ば難に及ぶ
  此挙旋可観   この挙旋観るべし
  東林振季明   東林は季明に振い
  太学持衰漢   太学は衰漢を持す
  松下雖陋村   松下は陋村と雖も
  誓為神国幹   誓って神国の幹と為らん
東林は明末に、太学は漢末に起った義党の名である。万世一系の天皇をいただくわが国も、今や全くすたれた。その中に松下村塾徒が松陰の入獄前に示した正気はやや観るべきものがある、東林党や太学党がかつて示したような意気を観ることができる。松本邑は陋村であるが、誓って神国の幹となる人物がいることを信じて、自分は安んじて獄に入るという意味であろう。


  (六) 死の教育
獄中の松陰はやがて新年をむかえ、再び読書の時間を得たことを喜び、同囚と読書の会を始めもした。しかし先年在獄のときとはちがって、時局の切迫感が強く、悠々自適というわけにはいかなかった。間部老中は京都における活動に成功し、去年の大晦日、攘夷猶予の勅許を得た。その前日、水戸の関鉄之助・矢野長九郎が前藩主斉昭の密使なるものをもたらして、藩府の重役に面会を申し入れた。当時周布・前田等は京都に出張中であって、藩は代理人を以て水戸との連携を辞退した。二人が萩を去って数日後の正月十五日、播磨の大高又次郎と備中の平島武二郎が萩を訪れたが、藩では大高が梅田雲浜の門下であると聞き面会を拒んだ。この二つの事件について、松陰は小田村伊之助に善処するよう要望したが、いずれも徒労に終わった。その小田村は松陰の妹婿で当時松下村塾の世話をしていたが、松陰から前に述べた大原重徳西下策の実行を促されたのに対して、塾生達と討議した結果を松陰に報告して「これは炎火に投じ候迄にて塾中の志かの卿へ未だ通ぜず候内早く執捕を受け申すべくや」といい、井上与四郎・周布政之助、次いで北条瀬兵衛が上京したのは皆長州藩士の妄動を警戒するためであるから「多分事成り申すまじく候」(普及版巻九、一八七頁)と結んでいる。折も折、正月十四日頃、江戸の高杉・久坂・中谷・尾寺・飯田の五人連名血判の書簡を受け取った。これは去年十二月一日に認められたもので、松陰の間部老中要撃策を時機が早すぎるという理由で思いとどまるように諌める趣意のものであった。
 小田村の手紙にしても、江戸の五人からのそれにしても、松陰の勢込んだ心持とは全くちぐはぐである。どうしてこんなにも意気地なしになるのだろう。「江戸居の諸友・・・皆僕と所見違うなり。その分かれる所は僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積り」(普及版巻九、一九二頁)と松陰はいう。今はその時機でないというのは行動の結果が功業にならないで、逆に処罰を受けることになりそうだからである。失敗するに決っていることに命をかけるのは犬死であると考える。治まった世であれば忠義がそのまま功業になることもある。今は乱世であり、国家の危機である。忠義一途の心だけが危機を済う。功業を立てようとする心は利己心に外ならぬ。幕府や藩府が因循姑息であるのも自己保存の利己心を超えて国家の危機を救おうとする誠の心に至らぬかららである。それを非難攻撃する者は、天朝のためにとか国家のためにとか口では唱えていても、肚の底では功業を立てたいという利己心が動いているのではないか、と松陰は思うのである。この問題はそう簡単に割り切れるかかどうか、にわかに決めにくいことであると思われるが、この頃の松陰はこのような見方で人を見たのである。そうして友人や門人の誰れ彼れを怒り罵り、憤り悲しみ、結局は絶望の底に孤独な自分を見つめざるを得なくなる。
 「平生の師友最も敬信する者交々吾れを遺棄し、交々吾れを沮抑す。尊(王)攘(夷)なすべからざるにあらず、吾れの尊攘を非とするなり。尊攘自ら期してしかも尊攘を非とせらる。吾が事已んぬ」(普及版巻六、一〇八頁)といって、松陰は絶食に入ってしまった。正月二十四日である。家族親族も友人門下も皆心配して思いとどまるようにと手紙を書いた。幸にその二十六日に、松陰の罪名問題で謹慎を命じられていた入江杉蔵・吉田栄太郎・野村和作等が解除されたと聞いて、絶食はやめることにした。
 さて藩主はこの三月、東勤の途に上る予定である。松陰は昨年の冬「己未御参府の議」を書き、違勅の幕府へ参勤することは正義に負くばかりでなく、形勢不穏の今、藩主の身上の安全も測り難いから延期されるよう意見書を潘府へ出した。それに昨冬野村・田原が密使となって京都で大原重徳に面会したとき、来年三月、長州藩主を伏見に待ち伏せて京都に伴い義挙をはかるつもりである、と松陰に伝えよと云ったことが気にかかる。あたかもそれを裏書きするかのように、正月始め萩に来た大高・平島は、去るに臨み、同志三十名と共に伏見に長州藩主を待っているといった。そのときも大原重徳の名が出された。松陰にとっては江戸に着くまでの藩主の安否が先ずもって憂慮される。藩主の側近に正義の士がいないと見て、誰か私に伏見に赴き万一に備える必要を感じる、塾生のうち誰かを行かせたいと思って誘いをかける。その頃江戸から帰った久坂・松浦は松陰の意見に反対である、佐世八十郎も途中で志を変えた。ところが謹慎を解除されたばかりの入江杉蔵は松陰と同意見で、事に当ろうと申し出た。しかしその入江も老母や妹のことで思い悩み、結局弟の野村和作がこれに代ることとなり、二月二十四日にこの大任を負うて出発した。
 しかるに、この秘密は野村の母から佐世へ、佐世から岡部富太郎へ、岡部から小田村へ、そうして小田村は藩主の出発も近いので事態を憂えてこれを藩府に告げた。藩府では狼狽して田原荘四郎を追手として野村を追わせ、兄の入江杉蔵を獄につないだ。こうして入江の孝心はふみにじられ、松陰の謀も妨げられることになったが、事ここに至る経過に与ったのは悉く松下村塾の門人であり、また親友の小田村である。松陰の憤激と失望は察するに余りがある。「平生の所謂同志今はすなわち国賊なり」(普及版巻六、二二六頁)と怒り、小田村・桂小五郎・久保・岡部・佐世・松浦・福原等と絶交する。作間・増野・品川の三人は松陰の志に同じて、入江との連絡やその家族の慰問にあたった。吉田栄太郎は松陰が最も愛しまた期待した青年であるが松陰入獄後同志との関係を絶ち、松陰の幾度かの呼びかけに対しても沈黙を守って動かない。こうして教育者として最大の苦悩の日が続く。そのうち野村は三月二十二日萩に帰ったが、直ちに兄のつながれている岩倉獄に入れられた。その報告によれば、京都で大高・平島に会い、ともに大原重徳を訪うて事を議した。大原はまだ時機が熟しないからといって決行をしぶり、大高等もこれに同意した。こうして野村は窮地に立ち、遂に京都の藩邸に自首して萩に送りかえされたのである。大原や大高等は慷慨家ではあったが実践力の足りないところがあるのに、松陰は容易に人を信じる性格であったところにこの喰い違いが起ったとも見られる。しかし野村が長州藩にも義を知る人のあることを身を以て示した功績は認められなければならないと松陰は褒めている。
 これから松陰は獄中に在る入江と野村を死に誘って三人で義死を遂げ、長州藩の正気を振い立たせようと思い立つ。すなわち野村の取調が始まったらこの策の首謀は松陰であることを潘府に申し入れ、野村を代りに上京させた入江と共に処刑をうけようというのである。自分の死が友人や門人に与える積極的影響を固く信じて死を求める心がしきりりに起こる。ところが四月七日に至って一転機に達する。「要駕策(伏見で藩主の駕を待ちうける策)を題にして死を請うの説、思うて見るに、微功を書き立てて上進を求むると同様なり」(普及版巻九、三二四頁)と入江に書き送っているのがそれである。功業を求めるのは利己心であると門人達を責めた松陰は、命がけである点は異なるけれども、やはり自分の行動に誇る私心は離れてはいなかった。上進は求めて与えられるものであってはならないように、死も亦こちらから求めるべきものではない。この頃松陰の説得にも拘らず、入江杉蔵は母への孝養に専念したいと願って已まない。忠義一本の松陰にとっては孝心一本の入江が厚い壁となって立ちはだかる。「士規七則」では忠孝一致でわが国においてのみあるといったけれども、それは決して容易でないことを思い知らされる。陽明学派で仏教にも出入りしていた明の李卓吾の「李氏焚書」や「続蔵書」を貪るように読んだのはこの頃である。李卓吾の童心説は純一無垢の天真であり、松陰のいう「真心実意」(普及版巻六、一二二頁)であろう。しかも仏教の影響もあってか、常に執着を離れ己を超える工夫をし、再び俗世間に帰って人それぞれの立場において生かし、自然に感化が行われるようにと説くのである。松陰は李卓吾から多くの啓発をうけたといっている。入江に与えた手紙に「死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在りては獄で出来ることをする。獄を出てはでて出来る事をする。時はいわず勢はいわず、出来ることをして行当つれば、又獄なりと首の座になりと行く所に行く。吾が公に直に尊攘をなされよというは無理なり。尊攘の出来る様なことをこしらえて差上げるがよし」(普及版巻九、三五○頁)といってあるところに心境の変化が見られるようである。
 しかし更に一歩を進めて考える。「肉食者は鄙なり」という語がある。幕府も藩府もその重要な地位に在る者は肉食者であるが、彼等は今の制度が存続する限り肉食者であり得るのである。だから保守的になり、固陋すなわち鄙となる。松陰の意図する大改革の具体的な計画は必ずしも明確ではないが、幕府や藩府が固陋を死守しようとするのであれば、その点が先ず攻撃の目標とならないわけにはいかない。これまでは反省悔悟によって改革が可能であると考えて来たが、今や肉食者は遂に鄙なりと断定し、野村への手紙に、「義卿(松陰)、義を知る、時を待つ人に非ず。草莽の崛起、あに他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ、只六尺の微躯が入用。されど義卿豈義に負くの人ならんや。御安心々々々。」(普及版巻九、三六一頁)とある。天朝、幕府、吾が藩がいらぬというのはそこに仕えている肉食者をあてにしない、その人達の考え方などを自分の動く条件にしないことである。そうして野に在る自由人、草莽崛起の人だけが大改革はなし得る。けれどもそれを他に求めるのは他をあてにするのである。今までの経験からあてにした者があてにならぬことは痛いほど知らされた。六尺(支那風の表現で身長の低い意味)の微躯たる松陰一人が頼みになることは自分のことだから疑いない。そこに腰をすえて獄に在っては獄で出来ることをして自由の与えられる日をまたねばならぬ。自由を得た上で義のためにしなければならぬ事態に遭遇すれば時を待つようなことはしない、甘んじて死地に入る決心は出来ている。そういえば何を仕出かすかと心配するかも知れないが、私は義に基いて事を処するのであるから安心していてくれよというのである。
 こうなると最早松下村塾の門人達のことをとやかくといって見たのも過去のこととして忘れる、張り切ってはいてもさらりとした心境である。そこから不思議なことが起きて来る。野村の脱走を告げ口した佐世が前非を詫びる手紙をよこした、岡部も悔悟の情を伝えて来る。他の門人もそれぞれ自分自身の反省を始め、再び松陰の懐に還ろうとする心のきざしを感じるようになった。松陰はそれを「しきりに和議を言うて来る」(普及版巻九、三六二頁)と書いている。
以上わたくしは獄中にある入江兄弟と松陰の間に往復された手紙を中心に死生の問題に取り組んだ経過を略述した。松陰が悟っていて二人が教えを受けるという形ではない。松陰も迷い疑い、時には野村から逆襲を受けて気がつき、入江が同意しないので考え直しをするといったような、全く血みどろな協同思索である。この死生の問題には品川・作間・増野などはもとより一時松陰を離れた門人達も無関心ではあり得ず、それぞれ自己の問題として苦悩し思索し、五月頃になると松陰と入江兄弟の真剣さに打たれて、それぞれ悔悟の自己を発見するようになる。
 さて井伊大老の弾圧政策は志士の逮捕と、公家ならびに水戸藩の圧迫に重点を置いて続けられた。京都では梅田雲浜についで水戸藩士鵜飼吉左衛門・同幸吉・鷹司家の小林民部・三国大学・志士頼三樹三郎等をはじめ四十数名を逮捕し、前年十二月から今年二月にかけて前後三回を以て江戸に檻送、取調を始めた。江戸では元三条家の臣飯泉喜内・薩摩藩士日下部伊三次・越前藩士橋本左内その他を捕え、終に五月水戸藩の重臣安島帯刀・茅根伊予之助を喚問し、鮎沢伊太夫を獄につないだ。こうして最後に「長州藩吉田寅次郎と申す者力量もこれあり、悪謀の働き抜群」(井伊家公用深秘録)とにらんで、これを江戸に送るよう命じたのである。
 松陰の父にこの内命が伝えられたのは五月十四日である。その日江戸にいた尾寺・高杉・飯田連名の書簡も松陰の手に届いた。松陰が即座に思ったことは幕吏に体面の節、平素の持論を詳しく述べて幕府の政策を転換させるという希望であった。それが為には「余に一護身符あり。孟子云く、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなりと、それ是れのみ」(「東行前日記」普及版巻十、一八二頁)と覚悟した。この覚悟が成ると心中爽快なものを感じる。だから父への手紙に「この度の東行は国難に代るの存念に御座候えば、かねての狂悖には随分出かしたると存じ奉り候」(普及版巻九、三八九頁)と言うことができた。
門人知友は驚き悲しみ、獄に馳せつけて松陰を見舞った。松陰は家族、門人、知友にそれぞれ自分の志や感懐を詩、文あるいは短歌の形で書き遺した。ここにはそれらのすべてを省略するけれども、全集中に「東行前日記」というのがあるから参照せられたい。五月二十四日公式の支配書が手交された日の夜、野山獄司福川犀之助は独断を以て松陰をその家に帰らせ、一族門人達との訣別の機会を与えた。そうして次の日静かな雨の中を護送役、番人等三十余人に囲まれて萩を出発した。護送の形式は厳格に見えたが、松陰は駕籠の中では自由を許され、途上で成った漢詩や短歌は口で伝えて文字を解する者に書きとらせることも認められた。「縛吾集」「涙松集」(普及版巻七)がそれである。
 六月二十五日、江戸の長州藩邸に着き、七月九日初めて幕府の評定所に呼出しがあり、即日伝馬町の獄に入れられた。松陰への容疑は一、梅田雲浜と萩で面会したそうだが何の密議をしたか、二、御所内に落文があり、その筆蹟が松陰のものらしいと雲浜その外が申し立てている、覚えがあるか、という二件である。雲浜に面会したことはあるが、尊大ぶって人を子ども扱いにするので事を共にしようなどと考えなかったから密議などしなかった、落文などいう方法をとることは潔しとせぬ、また落文の用紙も文章も全く松陰のものでないと説明した。それで幕府の疑いは解けたけれども、松陰自身の覚悟もあったこととてそのまま沈黙してはおられぬ。嘉永六年ペリー来港以来の国策について穏やかに、しかも本質をついた批判をはじめ、遂に大原重徳西下策と間部老中要諌策を自白してしまった。これが結局揚屋(未決囚の牢)入りの理由となるわけである。獄中では同囚からも大切にされ、また取調をうけている志士達との文通によって天下の正気の鬱勃たるもののあることを知った。また松下村塾の門人達のことも志士達に通じることができた。飯田・尾寺・高杉等は獄外から松陰のために出来るだけのことはしてくれた。とくに高杉との文通はしばしばで、そのうち重要なもの(高杉宛書簡、普及版巻九、四一八・四六一頁)を見ると、門人達への最後の教育、画竜点睛に松陰が如何に真剣であったかを読み取ってもらいたい。取調はそれから二回、九月五日と十月五日に行われたが別にたいしたこともなく、或は島流し程度の処分で済むのではないかとさえ感じたのであった。しかし十月十六日の予審読み聞かせによれば、松陰の至誠を籠めての建言も真面には取り上げられず、間部要諌策を重視し「公儀を憚らず不敬の至り」などの語があり、重罪であることが暗示されてあった。そしてその二十日には死罪は免れないと悟るに至った。
 「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立ち到り、さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん。」
と書き出された両親、叔父、兄宛の永訣の書(普及版巻、四八○頁)は切々たる松陰の至情を伝え、紙面なお声あるを思わせる。門人達には「留魂録」(普及版巻七、三一九頁)を書いて詳しく取調のの状況や獄中同志の消息を述べ、京都に学校を興す論などまでして、後起の人達への嘱望を伝えている。自分の死生観を述べて今の心境は極めて静かであるとなし、「是れまた平生学問の得力然るなり」という。別に「諸友に語るの書」(普及版巻九、四八二頁)も書いた。その終りに方に「諸友けだし吾が志を知らん。為に我れを哀しむことなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りてこれを大にするに如かず」とある。
十月二十七日、評定所に呼び出されて死罪の判決を言い渡され、正午過ぎ伝馬町の獄で処刑をうけた。泰然自若たる死であった。絶命の詩にいう、
「吾今為国死  死不負君親  悠々天地事  観照在明伸」と。
これより先、高杉晋作は藩命によって国に帰る途上にあったが、江戸には尾寺・飯田・伊藤利輔がいた。友人の桂小五郎もいた。この四人はせめて松陰の遺骸を請い受け、ねんごろに葬りたいと願って奔走したが許されない。しかしあきらめ切れないので、「二十九日飯田正伯は自ら松陰門下である旨を告げて獄吏に面会して熱心に陳情し」、その日の午後、小塚原回向院で四斗樽に収められた遺骸を受け取ることが出来た。「飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて血を洗い、また柄杓を取りて首体を接せんとしたるに、吏これを制して曰く、重刑の屍は他日検視あらんも測られず。接首のこと発覚せば、余等罪軽からず、幸に推察を請うと。飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して体に纏い、伊藤は帯を解きてこれを結び、首をその上に置き甕に収め、橋本左内の墓左に葬り、上に巨石を覆いて去れり・・・この時四人の憤恨遺憾御推察下さるべく候」(普及版巻一一、四三七頁及び同四二八頁)と飯田・尾寺から高杉・久坂・久保清太郎あてに報告されている。その後間もなく墓石も建てられたが、文久三年正月には高杉等の門下生が世田谷区若林村の毛利氏所有地に改葬した。今日の松陰神社に隣る地である。
 萩では父百合之助は、遺著「留魂録」、「埋葬報告書」などを読んで「児(松陰)一死君国に報いたり、真にその平生に負かず。」といいて、深い悲しみのうちにも満足した。高杉は潘の重役周布政之助に一書を贈り「我が師松陰の首遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交を結び候程の事ゆえ、仇を報い候わでは安心仕らず候」(全集巻六、四二三頁)という。久坂は「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ樣肝要なり」と獄中の入江に語げる。高杉の前掲の手紙の終りのところで、「明日二十七日は吾が師初命日ゆえ松下村塾へ玄瑞と相会し、吾が師の文章なりとも読み候わんと約し候」と書いて継承の決意を述べている。やがて萬延元年になり、その三月三日には大老井伊直弼が桜田門外に刺されるという事件が起こる。それより前二月七日は松陰の百日祭の日にあたるので、吉田家の墓地に遺髪を埋めることになった。門人達は相謀って松陰の墓碑を建設することとし、当日は萩にいた門人二十名ばかりが墓前祭に列なった。墓碑は少しおくれて十五日に成った。自然石の表に「松陰二十一回孟士墓」と刻み、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿享年三十歳」とある。墓前の水盤、花筒、燈籠は石製であるが、その表に門人として久保・佐世・久坂・岡部・福原・松浦・増野・品川・伊藤(利)・入江・野村・中谷・高杉・有吉・天野・作間・時山の氏名が刻まれている。この時点でこれを敢てしたことは大胆不敵というほかない。ここに松陰門下の決意が公然と表明されていると見ることが出来る。
 わたくしはこれから以後の時勢の変遷とその間における長州藩の動き、わけても長州藩の青年の活躍について述べるべきであると思うが、もはやそれに与えられる紙数がなくなったので、ここで筆をとめることにしなくてはならない。併し最後に数言を費やしたいことがある。長州藩の正気を盛り上げて、幕府の長州征伐をはね返し、回天の偉業に重要な転機を作ったのは高杉晋作の指揮した奇兵隊である。その奇兵隊の幹部には松下村塾の出身者が多かった。そうして高杉は、十五代将軍徳川慶喜が政権奉還を奏上した慶応三(一八六七)年十月に先立つこと半年前に肺結核で斃れた。これより先吉田稔麿(栄太郎)は元治元(一八六四)年六月、京都池田屋の変に闘死し、翌七月蛤門の変には久坂玄瑞・寺島(作間)忠三郎・入江九一(杉蔵)が戦死している。明治維新は長州藩の力で成ったのではないことはいうまでもなく、他の潘でも多くの尊い生命が捧げられての偉業である。ただ長州藩では松陰が松下村塾の教育を通して成した貢献がひとしお鮮やかである。しかも松陰自身が自己の思想に殉じて処刑を受けたという事実がその完成したと見られるところに敬虔の思いを禁じ得ない。わたくしは何も政治教育、社会改革だけが教育の目標だといいたいのではない、悲壮な死を讃美するのでもない。自分自身を、また自分の教えた青年たちを死に赴かせなければならなかった時代を悲劇的であると思う。時代が変わり、課題がちがい、またその解決法も進歩して来れば、一人一人がその個性を発揚して公共のために貢献する仕方は変るであろう。しかし教育者が不滅の火を一人一人の魂に点ずることがどんなに尊いかという実証を松陰において見ることは今日においては不要であろうか。



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