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『評定所における第一回取調・吉田松陰』
【2018/06/30 12:24】 エッセイ
【安政六年七月九日の評定所】

安政の大獄で最後の犠牲者となった吉田松陰。京都の勤王論者との関係から、長野義言らの探索網に松陰の名が浮上する。梅田雲浜や梁川星巌の捜査線上から、松陰が疑われる。江戸幕府からの召喚命令は、その年の四月に長州藩の江戸藩邸に届き、直目付だった【長井雅楽】が急遽、長州へこの穂をもたらす。この長井と松陰との関係は良好ではなく、松陰は『長井が幕府に松陰を売った』とも思える記述が松陰全集に見える。だから【檻輿での江戸行きの途次の毒殺】の可能性を否定しきれず、愛弟子であった入江過杉蔵に漏らしている。久坂玄瑞は、それを信じ込み、松陰刑死後に執拗に怨念を持ち続け、自刃に追い込んでしまう。松陰が正直な事を知る長井は、わざわざ松陰に幕府の取調に対して、長州藩が不利になる証言をしないよう、念をいれた工作をする。そして松陰の兄が幕府の召喚命令を野山獄に松陰を訪ねて伝える。その十日間で、今日に残る【吉田松陰自賛肖像画・六幅】が書かれる。江戸着が六月末。上屋敷の囚人収容所に松陰を監視体制をひいて収容。あわせて、評定所での証言対策を指示する。しして、第一回の取調が行われる。その内容を綴ったのが、江戸にいた愛弟子の高杉晋作に宛てて手紙に記されている。この日の証言が松陰の命取りになったので、重要な書簡内容である。それを紹介します。

181031安政の大獄吉田松陰評定所

「高杉晋作宛」書簡     安政六年七月九日頃  松陰在江戸獄 高杉在江戸

評定所の様子大略申上げ候。問个(もんか)條二つ、一に曰く、「辰年冬、梅田源次郎長門へ下向の節、密かに面会何を談じ候や」。余曰く、「談ずる所なし、ただ禅を学べなど學問の事を談じたる迄なり」。奉行曰く、「然らば何故蟄居中故(ことさら)に面会せしや、不審なり」。余曰く、「御不審御尤もなり。吾れも源二心中知る能はず。但し源二郎曰く、余が長門へ來るは、全く義卿丑年余が京寓を尋ね來たりしいり、追々長門人への因み出來たるになれば、其の本を思うて來問するなり、別に談ずべきことなしと。故に寅も亦辭せずして面會するなり」。二に曰く、「御所へ落文あり、其の手跡汝に似たりと源二其の外申し出づるものあり、覺え之れありや」。余曰く、「斷じて覺え之れなし。寅著はす所、狂夫の言・對策・時勢論・大義を議す等忌諱に觸るるもの少なからず。若し是れ等の作、他人携へ去って 御所内に投ぜば心底に任さざれども、吾れ敢へて落文をなさず」。奉行曰く、「汝上京はせぬか」。余曰く、「吾れ一室の外曾て隣家へだも往かず。是れ萩中萬耳萬目、掩ふべからざるなり、何ぞ乃ち上京せんや」。曰く、「憂國の餘、人をして落文せしむる等のことはなきか」。余曰く「寅の観る所大いに然らず。試みに時勢論を見給へ。寅明かに 明天子・賢将軍・忠侯伯なし得ざるを知る、故に自ら天下の事をなさんと欲す。豈に落文を以て、明天子に難きを責めんや。此の事寅必ず為さざるなり。抑々落文は何等の文ぞや」。奉行初め數行を讀み出す。余曰く「寅の為す所に非ず。若し寅が手書を得んと欲せば、藍色の縦横なる家板に楷書に書きたり。其の他は寅の手録に非ざるなり。落文とは何如なる紙ぞ。」奉行曰く、「竪の繼立紙なり。」寅曰く、「非なり非なり」。奉行端を改めて曰く、「赤根武人は知るか」。余曰く、「熟知す。彼れ少年の時曾て僕の家に來りて寓す」。奉行曰く、「武人皆汝が策を知るか」。予曰く、「恐らくは一二を知って八九を知らず。武人は源二の塾に在り、源二の捕へらるる、御不審なきに因りて歸國を免ぜらる。時に萩に來り半日談ず。直樣亡命上京す」。奉行曰く、「武人何故上京する」。余曰く、「其の師、縛に就き、弟子亡命して上京す、其の志問はずして知るべきなり」。奉行猶ほ余を援(ひ)きて梅田の黨に入れんと欲す。余慨然として曰く、「源二も亦奇士、寅相知ること淺きに非ず。然れども源二妄りに自ら尊大、人を視ること小兒の如し、寅の心甚だ平かならず、故に源二と事を同じうするを欲せず。寅は則と別に為すあるなり」と。因って詳かに丑寅以來の事を陳ぶ。奉行亦耳を傾けて曰く、「是れ鞠問の及ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤、汝の為めに細かに聽かん、縷述を厭はざるなり」と。余乃ち感謝再拜し、因って應接書を暗誦し逐一辯駁す。奉行また色を動かして曰く、「汝蟄居し國事を詳知するは怪しむべきなり」。余曰く、「寅の親戚、讀書憂國の者三數人あり、常に寅の志に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の國事を知る所なり。寅死罪二あり、皆當に自首すべし。但だ他人に連及するは心甚だ之れを惧る、敢て陳ぜざるなり」。奉行温慰して曰く、「是れ大罪なきなり。之れを陳ずるも妨げず」と。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと。因って玄瑞・清太二人の名を挙ぐ。奉行亦甚だしくは詰らざるなり。已にして奉行問ひて曰く。「所謂、死罪二とは何ぞや」。余曰く、「當今の勢、天子・將軍と列諸侯と萬々做(な)し得ず。寅明かに其の做すこと得ざるを知る、故に自ら做さんと欲す。故に再び書を大原三位に致し、吾が藩に西下せんことを請ふ。三位果して吾が藩に下らば、則ち三位と謀り吾が公を論諌せんと欲す。三位確報なし。吾れ其の為すあるに足らざるを疑ふ。會々(たまたま)間部侯上京して、朝廷を惑亂するを聞き、同志連判し上京して侯を詰らんと欲す。二事未だ果さず、藩命、寅を捕へて獄に下す」と。是(ここ)に於て座罷(や)み、後再び余を召す。奉行曰く、「汝間部を詰らんと欲す。間部かずんば將に之れを刃せんとしか」。余曰く、「事未だ圖るべからざりき」と。奉行曰く、「汝が心誠に國の為めにす。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、大膽も甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申し付くる」。
九日の吟味大略此の如し。只だ匆々(そうそう)中余が口陳僅かに十の四五にして、役人悉く書き留めもせず、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。委細に陳白せば、余が死後委細の口書き天下に流傅すべし。其の節御覧下さるべく候。
奉行三人皆其の人を知らず。一人は石谷因幡守ならん。○今日の議論三あり。奉行若し聽を垂れて天下の大計、當今の急務を辯知し、一二の措置をなさば吾れ死して光あり。」若し一二の措置をなす能はずとも、吾が心赤を諒し、一死を免せば吾れ生きて名あり。」若し又酷烈の措置に出て、妄りに親戚朋友に連及せば、吾れ言ふに忍びずとも亦昇平の惰氣を鼓舞するに足る、皆妙。


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【諸友に語ぐる書】
【2018/06/04 10:21】 エッセイ
松蔭大学の【文化研究センター】に寄稿した小論が出てきたので、ブログに転記してみる。この書は、江戸の『伝馬牢』に収監中、四日前に松陰が、死罪を覚悟して松下村塾の門下生宛に書いたが、途中でやめている。構想の練り直しとなったと考えられる。その書き直しが『留魂録』として、萩の松陰神社に保管されている。この『諸友に語ぐる書』と『留魂録』は、同じ目的で書かれたものと思われる。小伝馬町の江戸獄で『牢名主』だった沼崎吉五郎に託され、八丈島に遠島の刑期を終えた沼崎が、東京に戻り、時の神奈川県権令だった野村靖に手渡されたことから、今日に遺る貴重な史料である。

文化教育研究所年報
タイトル : 『諸友に語(つ)ぐる書』 センター名: 吉田松陰文化教育センター

1、 はじめに
安政6(1859)年10月16日、吉田松陰は幕府評定所に4度目の呼出しを受けた。
第1回目が7月9日、続いて9月5日、10月5日、そして10月16日であるが、当日は前3回と異なり、「口上書書判」命令と言ってこれまでの取り調べの内容を記したものを奉行より読み上げられて署名(花押)せよとのことであった。しかし、松陰のこれまでの取り調べに対する応答と記された内容が異なっているため、その確認をめぐって奉行との間で激しい応酬が行われ、松陰は強く訂正(弁駁)を求めた。しかし、老中間部詮勝への「要撃」をめぐって「切払い」か「刺し違え」の文言の修正にとどまっていたため、末文の所に「公儀に対し不敬の至り」という極刑を想定させる文言は修正されずにそのままであった。
評定所側の不条理な要求に納得せぬままこれを確認した松陰は「末文の改まらざるをみれば首を取るに相違なし」と判断したのであった。この日以来松陰は親族、関係者、門下生宛に書簡や遺書等を精力的に書き綴る事になる。掲題の書は、松陰の予てからの「志の継承」を願って書かれた強いメッセージと理解されるものである。

181031研究年報


2、「志の継承」を強く願った吉田松陰
  吉田松陰は、その短い生涯に於て最も大切にし、自らに求めるのみならず、門下生にも厳しく言い聞かせていた語に「志」持つこととその継承があった。松陰にとって「志」は人間だけが持ち得る人生知の意味があった。従って志を持たない人物は松下村塾に於て受け入れがたいのであった。長逝した門下生の回顧談に『何のために勉強するか』と入塾希望を尋ね、志の所在を問いただした逸話が残されているが、この「立志・実行」こそが松下村塾の精神であった。安政2年に従兄弟の加冠を祝して書いた『士規七則』にも「志を立てて以て万事の源と為す」と有名な人生訓が書かれている。これは松陰の人生観、人間観に於て基調をなすものといえるのみならず、連綿と力強く門下生に継承されるべきものとして位置づけられる。
安政3年8月に松陰の幽囚中に萩を訪れた安芸の勤皇僧・黙林に宛てた書簡にもそのこと示す文言が綴られている。即ち『若し僕幽囚中の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之れなく候。』と、自分の志の継承が成果に結実する時が必ず訪れるとの信念を吐露している。こうした松陰の信念ともいうべき志は、自らの死をも忌避しない。生涯を通じて常に言行一致の態度を貫いた松陰は、評定所の判決にも従容として従い、死の恐怖におびえる姿は皆無で、これは後に述べる松陰の死生観に起因しているものと考えられ『諸友に語ぐる書』はこのような彼の信念を貫く形で松下村塾の門下生宛に書かれたと解される。


3、『諸友に語ぐる書』の性質
  「吾れ甲寅の擧、自ら万死を分とす。」の書き出しで始まる700字程のこの書は、実は完結していなく途中で書き止めている。従って書かれた日時も記されていないが、その内容によって安政6年10月20日頃と推定される。恐らく松陰自身が、これよりも優先して書きのこすべきものがあったと考えたためと思われる。因みに、10月20日に書かれたものがこのほかに幾つかある。「死を覚悟して」なお、自らの人生を完成させようとの強い意志が感ぜられるのである。まずこの日『父叔兄宛て』と題する有名な家族、親族あての書簡が書かれる。文意からして、生への執着を断ち切った清らかな心境で書かれたであろうと思われるこの書簡は、「死罪」を確実視した報告の形で書かれる。さらに、親族への感謝と気遣いの文面に溢れていて、死後の処置(祀り)についての希望を述べており、人としての道を求め続けた松陰らしい心の籠った報告文となっている。有名な和歌『親思ふこころにまさる親ごころけふの音でれ何ときくらん』はこの書簡の中で書かれる。同日付で門下生宛に書かれたものが2通、更に3日後の伝馬牢の同志宛に2通が書かれて、生涯に書かれた6百通を越える書簡が終了となり、全ての周到な準備を整えて最後の『留魂録』の執筆に取り掛かかったものと思われる。従って、この『諸友に語ぐる書』は留魂録とともに、松下村塾の門下生への遺著としての性格を持つものであり、ここで松陰が強調して述べているのは『諸友蓋し吾が志を知らん、為めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり』と書かれている通りであって、師の死を悲しむことより私の志を継承発展させてほしいとの願いである。日本国の植民地化の危機感を他の誰よりも強く深刻に受け止めていた松陰は、自らの死が日本の植民地化防止の端緒となる事を願っていた。それは安政6年3月26日の小田村伊之助・岡部富太郎宛ての書簡に、次のような記述があることからもうかがえる。『僕は諸友の名代に一死を賜はりたく候。罪名は大逆の律へ的當なり。』(全集八巻)。また同年4月4日の野村和作宛書簡にもこれを裏付けるかのように『人は吾れを以て亂を好むと云ふけれど、草莽崛起の豪傑ありて神州の墨夷の支配を受けぬ樣にありたし。然れども他国人共崛起して吾が藩人虚空にして居るなり。吾が藩に忠臣あらば早くいづれにか崛起して外より吾が藩を救ふ手段あるべし。何卒亂痲となれかし。亂痲となる勢御見居(す)ゑ候か。治世から直に亡国にはならぬか、此の所僕大いに惑ふ所なり。』として、日本国及び萩藩の防衛を強く望んでいるのである。安政6年の松陰は、迫りくる外圧の危機に対して日本国の防衛を担うべき人物が現れない現状に対して幕府や朝廷、藩のいずれをも期待できず失望していた。
そこには自らの死を以て起爆剤となるしか活路を見出し得ない思いを持っていた。このような考えの下に『吾れの死を哀しむなかれ』との門下生へのメッセージを強く打ち出すことによって、奮起を促したのであったものと考えられる。

4、「死して不朽の人とならん」―松陰の死生観―
  松陰は一方で、自らの死をもって「不朽の人」となるべき願いも併せ持っていたと考えられる。即ち自らの死を有意義ならしめたい心中を吐露している。「松下村塾聯」にも書かれているように『万巻の書を読むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人と為らん』は松陰の門下生への呼びかけであったとともに、自らへも言い聞かせた言葉でもあったと考えられる。そしてまた、安政6年7月の高杉晋作宛の書簡でも自らの死生観を語っている。そこでは次のように書かれている。『死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。』そうしてこれに続けて『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。』と李卓吾の焚書や楠正成の「七生報国」の言葉を念頭に置きつつ教え諭している。こうした「意義ある死」こそ松陰が願ってやまなかったことで、日本国の存亡危機を説いて止まなかった松陰は自らの生死に重ね合せて門下の高杉に伝えたのであった。ここに松陰の志の継承に対する強い願望を見出すことができると同時に、松陰亡きあとの高杉晋作の行動の持つ意味を見ること事ができる。

長州藩内の政権運営をめぐって対立する反対派の「俗論党」一派から殺害の危険を感じた晋作は無駄死にを避けるべく逃避も辞さなかったし、文久年間に結成された「奇兵隊」も松陰の晩年に行きついた「草莽崛起」の考え方の延長線上において理解されなければならない。そこには「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」との師の教えを忠実に守ろうとした門下生の生き方が見られるのである。米英仏蘭連合艦隊の下関襲撃後の英国からの「彦島租借」の要請に対し強硬に反対を貫き通したのも師から学んだ「アヘン戦争」の教訓であったに違いない。こうして松陰の死生観や志は、多面的な形で門下生に受け継がれていったのである。松陰自身は常に言行一致の人であった。そうして『諸友に語ぐる書』は単なる死を目前にした遺著というべきものであるばかりでなく、多面性を持ったものと理解されるべきである。彼の願った僧・清狂や橋本左内、或は古代中国の高士等の人物と比肩されつつ処刑される事に松陰なりの満たされる死生観があったのである。それゆえに読むものをして訴える遺著であるというべきであり、日本の独立維持のために門下生達が奮起してくれることを願ってこれが書かれた。
5、『留魂録』の先駆をなす書
この凝縮した彼の死生観をより解り易く伝えるために、獄中で語り合い志を共にできる同士も含めて門下生に伝える必要があるとの考えに至った松陰は、この書を書き止めて再度書き直すことにしたものと考えられる。『留魂録』執筆までの時間を、熟考に費やしたのに違いない。尊王攘夷に基づく新国家建設―それは外圧に耐えての日本の独立した姿であった¬が、安政年間という時点ではまだ具体的に描ききれなかった。嘉永7年の日米和親条約、安政5年の日米修好通商条約の締結後間もない時点ではそれは困難であったと考えられる。松陰が最も心を砕いたのは存亡の危機に在る日本の現状に対し、為政者の不作為を諌めることであったと思われる。自らを「志士を以て任ずる」考えを持っていた松陰は、国家に準ずる覚悟は当然出来ていたものと考えられる。安政6年5月の「江戸召喚」にあたって書かれた『家大人に別れ奉る』の中でも「少少より尊攘 志は早くに決し」と自分を振り返っているのである。
そして『諸友に語ぐる書』の通り、十月二十七日の幕府評定所において「公儀を憚らぬ不敬の至り」の罪状にて死罪宣告を受けるのである。そうして松陰の辞世となった『吾今国の為に死す、死して君心に負かず。悠々たり天地の事、観照明神に在り』を朗朗と謳いあげつつ従容として斬刑を受け入れたのであった。『諸友に語ぐる』の通り、自らの死を以て門下生への教育を完成させるとともに「志の継承」を確かな手ごたえとして感じつつ生涯を閉じたということが出来るのである。こうした松陰の最期は『留魂録』の最末尾に詠われている三首の和歌にも見出すことが出来る。即ち『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払えよ。愚かなる吾れをも友とめづ人はががとも友とめでよ人々。七たびも生きへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや。』の三首である。己の死を目前にしてなお国家の行末や門下生への遺言を塾考し、人生の終末時まで志の継承を託そうとする生き方に心を動かされない人はいないであろう。誠に天晴な日本人の典型を吉田松陰の生涯に見出すことが出来るのである。





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